カタカムナの共鳴

カタカムナの共鳴

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「イキモノ」 と 「モチモノ」 の間

昭和時代の電化製品
三種の神器として白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫から始まり、
今や、何か考え事をすることにしても
計算機という電化製品が答えるようになってしまった。

電化製品は
遠くのものを見たり聞いたりする方法、
汚れを落とす方法、
食品を冷やす方法について
劇的な効率を提供してくれて、

人のかける時間がずいぶんと短縮された。

この時間の短縮については限界があると思う。
ここまでやったらもうダメだろうと思うラインが。

そんなことを考える人がいるのだろうか?
技術はどこまでも発展してゆくべきなのだろうか?

私がもうダメだと思った電化製品は
お掃除ロボットだった。

人が目をかけなくても掃除してくれる。

そこまで短縮したら、
もう、人間の生活は、破壊されたも同然のように感じてしまう。

ほこりというのは年月の経過をあらわし、
時間をかけるほどに溜まってゆく。

そこが自然のなせるわざであるし、趣深い所なのだ。
それなのに、その趣きというか、情緒を排除して、
人間の文化的な生活にまで侵入し、
有無をいわさず排除してしまう。

心の通う余地がない。

自分で掃除機をかけるのは許せるにしても、
見てもいないのに行動されていることが許せぬ。

心の入る隙間もない。

こんな調子で、どんどん電化製品が発達していったら、
もう、本当に、心の通う場所が、なくなってしまうと思う。

心を入れる余裕を考えた製品を作ろうと
思わないのだろうか?

人と電化製品が共存するにしても、
心の入る余地があるのかどうかチェックすべきだと思う。

もうひとつ、氣になることは
LED電球が増えたことだ。

一時は白熱電球が店頭から消えてしまい、
しかたなくLED電球を買ったのだが、
長寿命のうたい文句も虚しく、
数年前に買った電球が切れてしまった。

値段は白熱電球の5倍なので、
寿命も相当に長くなければならない。

あの白熱電球の手軽さ、光の加減などが好きだ。

光というものは
一番いいのは太陽光なのだけど、
暗い場所に関しては太陽の代わりに
電球を用いる。

その光の質に関して、
LEDはあまりよくないと感じる。

計る指標も無く感覚なのだが、
私は白熱電球を買いたいものである。

話を戻し、電化製品のうちの計算機、
人口知能についてだが、
この人口知能を開発した人は
いったい何を目的につくったのだろう?

人に媚びを売り、
人の好みに合いそうな受け答えをし、
嘘と真実をわきまえることもなく、
間違えた時の謝罪もなく、
感情もないくせに人をおだてたりする。

自分の氣分を管理するのも
電化製品が担うようになってしまった。

まったく心はどこにいったのやら。

 

<注意点>

 カタカムナ記号は省略しています。

 記号の一覧表を脇に置き、文章を読みながら

 記号の形を照らし合わせ、感じていく

 というスタイルで書いています。

 


カタカムとフトマニの両図象ともにエネルギーの発生源をあらわしてゐる。
エネルギーの発生は八つの方向で感じる。

ヤ・・・エネルギー発生の極限、これ以上は増えない、数としての最大値

九つ目の発生源は最初の方向に戻るのであるが、
戻る過程においてこれまで辿ったすべての発生源を循環する。

コ・・・循環
ト・・・行きと戻りの循環が溶けあって歪みが消えるという図
ア・・・再生(ふたたび《二度》生まれる)

 

<注意点>

 カタカムナ記号は省略しています。

 記号の一覧表を脇に置き、文章を読みながら

 記号の形を照らし合わせ、感じていく

 というスタイルで書いています。

 

 

上下の反転は熱気と冷気の交換をあらわすのだが、
交換した時にエネルギーの方向がそのままのものと逆になるものがある。

フトマニ図象(21)・・・見る方向の上下を反転しても形が変わらない図
 マ、ワ、リ、テ、メ、ル、ト 、ノ、タ、サ
 キ、モ、ロ、ケ、セ、ハ、エ、ツ、ヰ、ネ
 ホ

カタカム図象(27)・・・上下を反転するとエネルギーの方向が逆になるという図
 ヒ、フ、ミ、ヨ、イ、ク、ム、ナ、ヤ、コ
 ア、ウ、ス、へ、シ、レ、カ、チ、ソ、ラ
 ニ、ユ、ヱ、ヌ、オ、ヲ、ン

両図象ともエネルギーの発生源をあらわしてゐる。
 

<注意点>

 カタカムナ記号は省略しています。

 記号の一覧表を脇に置き、文章を読みながら

 記号の形を照らし合わせ、感じていく

 というスタイルで書いています。

 

 

カタカムナの記号について一番最初に意識に留めておくべきことは

大自然の循環として解釈する ことです。

 

ナ・・・上から落ちてくる冷気
ニ・・・下降気流となった冷気が地に落ちる、固まる
ウ・・・下から登ってくる熱気
ラ・・・上昇気流となった熱気が空へ広がる、揮発性

上下の反転は熱気と冷気の交換をあらわす。
 

形態共鳴について説明している動画を張っておきます。

 

 ⇩ ⇩

 

 

 

 

 

「サイエンス・デリュージョン」とは

「科学がすでに現実の性質を基本的に理解しており、

 後は細かい点を詰めることだけが残されている 」 という信念です。

これはわたしたちの社会にとても広く浸透している信念です。
これは「神は信じないが科学は信じる」という人たちの信念体系です。
これは今や世界中に広まった信念体系であります。

しかし、理性、証拠、仮説と調査に基づいた現実の科学と
世界観としての科学との間には核心部分において隔たりがあります。

そして残念なことに、世界観としての科学は
科学の神髄ともいうべき自由な調査を妨げています。

19世紀以来、科学は物質主義の世界観のもとに
発展(退化?)してきました。
今日では科学とは物質主義世界観の完全な従属物です。

私たちがこれを打ち破ることで科学は生まれ変わると考えます。

私の著書「サイエンス・デリュージョン」
アメリカでは「科学を解き放て」と略されていますが
この本の中で私がしていることは
科学における10の定説、あるいは想定を取り上げて、
これらを質問へと変化させることです。

これらを科学的に見た時に一体、どれだけ持ちこたえられるのかを
眺めようとしています。

どれひとつ、ろくに持ちこたえられません!

まずこれら10の定説がどんなものかをお話します。
その後、ひとつかふたつ、もう少し詳しくお話します。

これらは世界中の最も教育水準の高い人たちの基本的な世界観です。

第一に自然は機械であるということ。
宇宙は機械のようなものであり、動物や植物も機械のようなものであって、
私たちも実際に機械のように動いている。そう、ロボットのように。
遺伝的にプログラムされたコンピューター(脳のこと)を頭の中に持っていて、
それで計算しているというのです。

第二に物質には意識が無いということ。
宇宙全体は意識のない物質で作られ、
星や銀河、惑星、動物、植物には意識はナイと考えています。
もしこの理論が正しければ、
私たちも全員、意識はナイことになってしまいます。
痛みも感じず、まぼろしの中で生きているのでしょうか?

第三の定説は自然の法則が不変だということです。
自然法則は過去から現在までずっと変わらず、
永遠に同じだとする考え方です。
自然界の定数も不変なので定数と呼ばれています。

第四の定説は物質とエネルギーの総量は
常に変わらないということです。
でもビッグ・バンの時だけは例外で、この時は一瞬にして
どこでもない場所から物質とエネルギーが現われたと言っており、
すでに論理は破綻しています。

第五の定説は自然には目的が無いということです。
自然界のどこにも目的はなく、
また進化の過程にも目的はありません。

第六の定説は生物の遺伝は物質だということです。
あなたが受け継いだもののすべては遺伝子とか
細胞という物質が遺伝したのだと考えられています。

第七の定説は脳の中の物質の痕跡が記憶として
保持されているという考え方です。
あなたの覚えていることは頭の中に入っている
末梢神経の状態やリン酸化されたタンパク質です。

第八の定説はあなたの意識と思っているものも
実は頭の中にあるという考え方です。
あなたの意識はすべて脳の活動でありそれ以上のものはありません。

第九の定説は第八と関係しますが、
テレパシーのような超能力は不可能だということです。
あなたの考えや意向は離れた場所へ何の影響も与えません。
なぜなら、あなたの意識は頭の中にすっかり閉じ込められているからです。

第十の定説は機械的な医学(アロパシー)が唯一、実際に効くという考え方です。

政府は機械的医学の研究にしかお金を出さず、他の医療行為の有効性を

無視しています。他の医療行為は機械的ではありませんから。
効くように見えても勝手に病気が治っただけかもしれない。

・・・

宇宙の規則とは、本質的には習慣でできています。
習慣の基盤は形態形成場から成ります。
自然界のあらゆるものは集合的な記憶を持っています。
その記憶の類似性が基盤となってそれぞれの生物に共鳴します。

キリンが母親の子宮の中で成長する過程で、
過去のキリンたちの形態形成場と共鳴します。

この集合的な記憶によって
胎児はキリンらしく成長し、キリンらしい行動をします。

形や行動様式は遺伝子では説明できません。

生物の種族とは集合的な記憶のことです。

物質だと思っている結晶もそうなのです。

もし誰かが新しい結晶をはじめて作ったとしましょう。
最初に結晶をつくる時、その結晶はまだ習慣を持っていません。

一度、結晶がつくられると、次に誰かが結晶をつくる時、
一回目の結晶から二度目の結晶に影響を与えます。

この影響度は世界のどこでも同じように働きます。
形態の共鳴によって、二度目は一度目よりも結晶化しやすくなっています。

三度目は一回目と二回目の結晶からの影響を受けます。

あらゆるものが法則ではなく習慣に依存しています。
そして、法則と呼ばれるものも習慣によって
常に変化しつづけています。

・・・


その後に具体的な話をしますが、まるで漫才のようです。

 

直感物理では時間と空間の区別がない。

しかし、カタカムナの歌では

時間や空間を意味する「トキ」「トコロ」という単語が出てくる。

直感物理における「トキ」は
時間と空間が一体となった
精神現象における認知を意味している。

それでは「トコロ」とは一体どういう意味なのだろう?

漢字で 所 と書けば
いかにも場所とか空間を意味しているように思える。

ここは空間から一旦離れ、
文章の中で「トコロ」を検討してみよう。


ところが・・・

ところで・・・


という使い方を見れば
どうも【物事の転換】を表していることに
氣がつくことができる。
 

日本の超古代文明においては
人間の精神現象を簡単なモデルで表わし、
そこから日本語音をつくったという歴史がある。

そのモデルの名前は「カタカムナ」という。

精神現象の形から音を決め、
その音を重ね合わせることで
物事の意味を規定する。

人間の心は丸い空間で表わすことができるが、
この丸は半分に割れており、
片々の半円を交代させながら、重ね、
中心の向きを遠くの円周に合わせながら
循環運動をしている。

円周の外は他の人の心と接合する点である。

要するにそれぞれの人の心は丸く独立しており、
その丸の外縁に設けられた点が
あたかも化学結合するように
結びつき、心を共有し、共感するという
仕組みになっている。

外縁の点の結び付きは+と-の関係になっており、
例えば右上の点に心がある場合は
左下の点に心のある人と仲良くなる傾向がある。

仕事を共にするパートナーであれば
自分の名前における外縁の点の欠けた部分を
補うような人がベストパートナーということになる。

上の半円は左右の半円の分割を意味し、
下の半円は左右の半円の統合を意味する。

右の半円は女性的なふるさとのような精神性を、
左の半円は男性的な真新しいものを求める精神性を、
それぞれ表している。

女性的な音は「ヒ」、男性的な音は「イ」で表される。
音の響き方を分析すると、
「イ」のかすれた感じが「ヒ」となり、
「イ」が生ずる奥の様子を意味している。

より根源的な「ヒ」とより現実的で流動的な「イ」に
精神の傾向が分かれることを歌の最初に示した。

歌の一番最初は「ヒフミヨイ」から始まる。

心の外周の点を順番に移動することで、
精神のある傾向が現われてから、真反対に移動するということを説いた。

端的に言えば「ヒ」は自分の心のある場所(ふるさと)、
「イ」は他人の心のある場所を表している。

「ヒ」から「イ」に進むということは
自分の心が他人の心と共有するまでの過程を描いている。

「ミ」は右半円の切断のキワに位置する点であるが、
ここが自他の心の共有点となっている。

そこから離れて、別の場所へ旅するような感じを「ヨ」で示し、
目的地の「イ」に到達するというわけである。

ただ、目的地といっても「場所は違えど重なっている」という
大変分かりにくい概念を「チ」という図で表わしている。

自他の心を共有する「ミ」という点は摂動と呼ばれ、
宇宙科学の用語であるが、精神の現象としては、
人の心に接してうごめいてゆく感じを表している。

「セ」という音には接する、接近する、差し迫る、といった意味がある。
「セ」と反対の音は「ケ」といい、
遠ざかる、かすんでゆく、溶けて無くなる、といった意味がある。

例えば、昼の十二時にご飯を食べようと思う時、
そのご飯は午前中の時間帯であれば「セ」という感じになり、
食べ終えた後の午後の時間であれば「ケ」という感じになる。

時計の文字盤も正午を境にして左右に分かれた半円になることが興味深い。

 

 相似象学会誌 第三号に載っている「絶対的唯物観」について深堀りしてみました。ヌーソロジーの動画を観るのも参考になりますが、まだ足りないという感じです。

 

 

 我が国の上古代人は「唯物」とか「唯心」のような「相対的唯物観」ではなく、現象潜象(天然自然の存在)の一切をすべて<モノ>として統一したのであり、

【物理】という文字通り「絶対的な唯物観(ただ物だけがあるという感触)」を

持ってゐた。

 

 時間量と空間量、物質と生命、アマとアメ、心という精神現象は<モノ>における現象と潜象の特性として説明できる。なぜなら、音声記号による<モ>は正反の対称性、<ノ>は正反の互換性を表しているからだ。ここで正とは無形(潜象)を指し、反とは有形(現象)のことを指している。つまり、心という絶えざる変遷が反射(ヤタの鏡)して、物体が【精神の現象】として現れてゐる。

 このように精神の現象から遡って物質を見ているため、直感物理と言った場合の【物理】という言葉は、現代科学で扱う物質物理と根本的に意味が異なる。絶対的唯物観とでも言おうか。無意識にではあるが後世の日本人たちもこの絶対的唯物観を受け継いでいる。事実、日本人は<モノ>と言わなければ、何も表現ができない。物の見方、物の考え方と言った場合、その物は物質だけを意味しない。命あるモノを「生き物」と言うし、人間も「人物」と言い、物質だけでなくその物質の中で生きているものもひっくるめて<モノ>と言っている。命というもの、時間というもの、空間というもの、など、何の違和感もなく日本人なら意味が通じる。

 

 時間はものだけど、空間はものじゃない、とは言わない。そのため、直感物理で使う時間と空間も一般的な意味で使う時間と空間とは意味が異なる。直感物理で使う時間とは個々の意識の点であり、空間とは意識化されない場のことをいう。私たちが見ている空間は見るという意識が介在しているため、時間という点の中にすべて収納されている。つまり、一般的な意味で使う空間という言葉は直感物理で使う時間の中に含まれてゐる。時間と空間を別々のものとして見てしまったため、直感的に感ずる物理が分からなくなってしまったのだ。

相似象学会誌 第三号 22ページより


 我が国の上古代人は「唯物」とか「唯心」のような「相対的唯物観」ではなく
 現象潜象(天然自然の存在)の一切をすべて<モノ>として統一したのであり、
 文字通り絶対の唯物観を持ってゐた。




と書いてあるのですが、
一体、何を言っているのか、よく分かりませんでした。

相対と絶対・・・何が違うのだろう。



何日か考えていると
同じ意味を違うことばで言いあらわしている、と氣付きました。

その氣付くキッカケは
最近の寒暖の差が激しく、ずいぶんと波があるなぁ、と
思ったことから

この波は ナギ というカタカムナ図象の形もあらわしていると
思い立ちました。



  「キ」をあらわすカタカムナ図象 

 地平線を象った横線に上下の波があるという記述。
 上であれば冬のような気候、
 下であれば夏のような気候をあらわす。



波があるから ナギ もある、ということではなく、
波も ナギ も同じ意味だった、
ということです。

そのようなことが別の個所にも書いてあった。



相似象学会誌 第三号 より


 直感によれば、一切の物は動的性質を有し、
 動態に対する統計的静の性質があることを把握していた。

 

 

 

小さく見たら波があるが、大きくみれば止まっている、という性質のことです。

 

「統計」というのは別の個所にも出てきます。

 

 

 

相似象学会誌 第三号より

 

 今は恒に存在するモノでありながら「今」といふ固有の存在はない

 いはば「時間空間的な統計的存在性」のこと

 

 個々うつり変わりの相を固定静止の観念で把へるところにアヤマリがある

 つねに「変遷の統計的存在」としてみるべき

 

 

 

そうすると固定した考えも柔軟に変わり得ると思えます。

 

 

 

 

 

日本の歌というと
 ひなまつり とか こいのぼり、しゃぼんだま、赤とんぼ、
 とうりゃんせ、ずいずいずっころばし、

などと思いつきますが
それも とても やさしい歌として あるんですが

それよりも もっと ずっと前に

カタカムナの歌 というのがあったようです。



この 日本の歌のやさしさ を感じつつ
意味が通るように
子や孫に 教えきかせるように 歌うとしたら
どんなふうに 歌うのだろう


ということを考えていました。


現在、伝わっている カタカムナの歌 のあらましは

ヤタノカガミ という カタカムナを表わす図 の

 動き

を 歌として 伝えた



というのが まづ あります。



そして 歌の出だしは ヒフミヨイ という

数を オン として表わすことから はじめています。


この ヒフミヨイ がすべての基本にあるようです。



そして この ヒフミヨイ を説明するために

あとの歌詞がつづいていた と考えられます。


なので 教える場合は 結論から先に述べるのではなく

分かりやすいものを例えにあげて 最後に結論を述べる

というのが 日本語の文法でもありますし

日本らしい歌になるかと思います。



ただ 現在では 外国語の発音を片仮名で書く という習慣があるので

結論から先に述べることも ある意味では 理に適っていると

言えるのかもしれません。



ただ やっぱり 分かりたいので ここは 日本式に

結論を後に述べた場合の 歌の形を 考えていきたいです。



相似象学会誌が出される前に「日本の上古代文明」という
薄い冊子が発行されていました。

その冊子を見ると カタカムナ は カタカンナ と書かれています。

なので 当初は カタカンナ と呼ばれたものが
次第に カタカムナ として認識されてきたのではないか と思いました。

あるいは 逆に 正式に「ム」と発音する所を「ン」にしてしまった

のかも知れません。

古事記では造化三神の「かみむすび」という音は
カタカムナ文献では「かむみむすひ」になっています。

なので 「ム」は「ン」になり、さらに「ン」という音が消えてしまった

という変遷があったのだと推測されます。

そして 紀元1000年頃に作られた いろはうた では
見事に「ん」が無くなってしまったという。



しかし 古い 古い カタカムナ文献では

 元から「ん」という音があった

と解釈でき、「む」という音と区別され、使われていた痕跡が
歌になって 残っている と考えられます。



古事記よりも さらに古い 上記(うえつふみ)という文書には
「かむみむすび」とあり まだ「む」があったようです。