考えることを人工知能に外注してしまった昨今、
自分の求めるものを【探す】という過程が
とても大切だと思いました。
なぜかというと
探している間にいろいろな事を考えていて、
そこでまた、新たに、
別のインスピレーションが湧いてくるからです。
ぜひ、ここは外注せずに、
求めるものを探すという行為に
重きを置いてみてはいかがでしょうか。
雰囲氣に飲まれないようにするには
客体化が大切だ
客体化というのは
自分の考えを見る
もう一人の自分を
対象化することである
もう一人の自分の考えは
何と言っているのか?
両者の考えの一致するところは
どこにあるのだろう?
よく話し合うことが大切である
そうしないと
あとで後悔する
本当はこうしたかったけど
できなかった
という後悔である
ふだんは自分というものが存在すると認知しているが、
それは無意識の空間が生み出す概念である。
概念とは実際には存在しない言葉を
言い表す時にいう。
また社会的概念という使い方もあることから
自分以外の者があつまって社会をつくった時に
自分以外を区別するために
【自分】というものを定めた。
もし区別する必要がなかったら
そもそも【自分】という認識は生まれない。
おもえば生まれた最初の頃は
【自分】という存在は
別段、意識はしていない。
ものごころがついて
(ここでも モノ が出てくる!)
自分の姿・形を意識しだして
初めて、自分という存在を意識する。
そういうわけで
社会的概念は他者との関わりから生まれるのだ。
社会的概念ではなく、
個々の感覚、感情から生まれる念(オモヒ)は思念という。
思念の中から自分というものを取り出して、
その自分の身の安全をどうすれば保てるのかという念は
観念という。
そして、観念が集まり、
こうすればほぼ安全というのが固まった考えが概念になる。
つまり、観念は概念に昇格するのだ。
また、感情は残存思念となって、あまねく空間に漂っている。
思念は自然界を形づくる。
消えた観念は思念として漂いながら、
生きている観念は概念として確立している。
時間と空間が一体であるという意識、感覚。
難しいかもしれないけど
まずはその感覚を取り戻すことからなのだと思う。
そして、前に投稿した <精神現象を表したモデル> の中で
自分と他人と書いている所を消して
端的に言えば「ヒ」は自分の心のある場所(ふるさと)、
「イ」は他人の心のある場所を表している。
を
端的に言えば「ヒ」は心のある場所(ふるさと)、
「イ」も心のある場所(物珍しさ)を表している。
とか
自他の心を共有する「ミ」という点は摂動と呼ばれ、
宇宙科学の用語であるが、精神の現象としては、
人の心に接してうごめいてゆく感じを表している。
を
心の「ミ」は摂動と呼ばれ、
宇宙科学の用語であるが、精神の現象としては、
心がうごめいていることを表す。
と読み替える必要がありそうだ。
昭和時代の電化製品
三種の神器として白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫から始まり、
今や、何か考え事をすることにしても
計算機という電化製品が答えるようになってしまった。
電化製品は
遠くのものを見たり聞いたりする方法、
汚れを落とす方法、
食品を冷やす方法について
劇的な効率を提供してくれて、
人のかける時間がずいぶんと短縮された。
この時間の短縮については限界があると思う。
ここまでやったらもうダメだろうと思うラインが。
そんなことを考える人がいるのだろうか?
技術はどこまでも発展してゆくべきなのだろうか?
私がもうダメだと思った電化製品は
お掃除ロボットだった。
人が目をかけなくても掃除してくれる。
そこまで短縮したら、
もう、人間の生活は、破壊されたも同然のように感じてしまう。
ほこりというのは年月の経過をあらわし、
時間をかけるほどに溜まってゆく。
そこが自然のなせるわざであるし、趣深い所なのだ。
それなのに、その趣きというか、情緒を排除して、
人間の文化的な生活にまで侵入し、
有無をいわさず排除してしまう。
心の通う余地がない。
自分で掃除機をかけるのは許せるにしても、
見てもいないのに行動されていることが許せぬ。
心の入る隙間もない。
こんな調子で、どんどん電化製品が発達していったら、
もう、本当に、心の通う場所が、なくなってしまうと思う。
心を入れる余裕を考えた製品を作ろうと
思わないのだろうか?
人と電化製品が共存するにしても、
心の入る余地があるのかどうかチェックすべきだと思う。
もうひとつ、氣になることは
LED電球が増えたことだ。
一時は白熱電球が店頭から消えてしまい、
しかたなくLED電球を買ったのだが、
長寿命のうたい文句も虚しく、
数年前に買った電球が切れてしまった。
値段は白熱電球の5倍なので、
寿命も相当に長くなければならない。
あの白熱電球の手軽さ、光の加減などが好きだ。
光というものは
一番いいのは太陽光なのだけど、
暗い場所に関しては太陽の代わりに
電球を用いる。
その光の質に関して、
LEDはあまりよくないと感じる。
計る指標も無く感覚なのだが、
私は白熱電球を買いたいものである。
話を戻し、電化製品のうちの計算機、
人工知能についてだが、
この人工知能を開発した人は
いったい何を目的につくったのだろう?
人に媚びを売り、
人の好みに合いそうな受け答えをし、
嘘と真実をわきまえることもなく、
間違えた時の謝罪もなく、
感情もないくせに人をおだてたりする。
自分の氣分を管理するのも
電化製品が担うようになってしまった。
まったく心はどこにいったのやら。
<注意点>
カタカムナ記号は省略しています。
記号の一覧表を脇に置き、文章を読みながら
記号の形を照らし合わせ、感じていく
というスタイルで書いています。
カタカムとフトマニの両図象ともにエネルギーの発生源をあらわしてゐる。
エネルギーの発生は八つの方向で感じる。
ヤ・・・エネルギー発生の極限、これ以上は増えない、数としての最大値
九つ目の発生源は最初の方向に戻るのであるが、
戻る過程においてこれまで辿ったすべての発生源を循環する。
コ・・・循環
ト・・・行きと戻りの循環が溶けあって歪みが消えるという図
ア・・・再生(ふたたび《二度》生まれる)
<注意点>
カタカムナ記号は省略しています。
記号の一覧表を脇に置き、文章を読みながら
記号の形を照らし合わせ、感じていく
というスタイルで書いています。
上下の反転は熱気と冷気の交換をあらわすのだが、
交換した時にエネルギーの方向がそのままのものと逆になるものがある。
フトマニ図象(21)・・・見る方向の上下を反転しても形が変わらない図
マ、ワ、リ、テ、メ、ル、ト 、ノ、タ、サ
キ、モ、ロ、ケ、セ、ハ、エ、ツ、ヰ、ネ
ホ
カタカム図象(27)・・・上下を反転するとエネルギーの方向が逆になるという図
ヒ、フ、ミ、ヨ、イ、ク、ム、ナ、ヤ、コ
ア、ウ、ス、へ、シ、レ、カ、チ、ソ、ラ
ニ、ユ、ヱ、ヌ、オ、ヲ、ン
両図象ともエネルギーの発生源をあらわしてゐる。
<注意点>
カタカムナ記号は省略しています。
記号の一覧表を脇に置き、文章を読みながら
記号の形を照らし合わせ、感じていく
というスタイルで書いています。
カタカムナの記号について一番最初に意識に留めておくべきことは
大自然の循環として解釈する ことです。
ナ・・・上から落ちてくる冷気
ニ・・・下降気流となった冷気が地に落ちる、固まる
ウ・・・下から登ってくる熱気
ラ・・・上昇気流となった熱気が空へ広がる、揮発性
上下の反転は熱気と冷気の交換をあらわす。
形態共鳴について説明している動画を張っておきます。
⇩ ⇩
「サイエンス・デリュージョン」とは
「科学がすでに現実の性質を基本的に理解しており、
後は細かい点を詰めることだけが残されている 」 という信念です。
これはわたしたちの社会にとても広く浸透している信念です。
これは「神は信じないが科学は信じる」という人たちの信念体系です。
これは今や世界中に広まった信念体系であります。
しかし、理性、証拠、仮説と調査に基づいた現実の科学と
世界観としての科学との間には核心部分において隔たりがあります。
そして残念なことに、世界観としての科学は
科学の神髄ともいうべき自由な調査を妨げています。
19世紀以来、科学は物質主義の世界観のもとに
発展(退化?)してきました。
今日では科学とは物質主義世界観の完全な従属物です。
私たちがこれを打ち破ることで科学は生まれ変わると考えます。
私の著書「サイエンス・デリュージョン」
アメリカでは「科学を解き放て」と略されていますが
この本の中で私がしていることは
科学における10の定説、あるいは想定を取り上げて、
これらを質問へと変化させることです。
これらを科学的に見た時に一体、どれだけ持ちこたえられるのかを
眺めようとしています。
どれひとつ、ろくに持ちこたえられません!
まずこれら10の定説がどんなものかをお話します。
その後、ひとつかふたつ、もう少し詳しくお話します。
これらは世界中の最も教育水準の高い人たちの基本的な世界観です。
第一に自然は機械であるということ。
宇宙は機械のようなものであり、動物や植物も機械のようなものであって、
私たちも実際に機械のように動いている。そう、ロボットのように。
遺伝的にプログラムされたコンピューター(脳のこと)を頭の中に持っていて、
それで計算しているというのです。
第二に物質には意識が無いということ。
宇宙全体は意識のない物質で作られ、
星や銀河、惑星、動物、植物には意識はナイと考えています。
もしこの理論が正しければ、
私たちも全員、意識はナイことになってしまいます。
痛みも感じず、まぼろしの中で生きているのでしょうか?
第三の定説は自然の法則が不変だということです。
自然法則は過去から現在までずっと変わらず、
永遠に同じだとする考え方です。
自然界の定数も不変なので定数と呼ばれています。
第四の定説は物質とエネルギーの総量は
常に変わらないということです。
でもビッグ・バンの時だけは例外で、この時は一瞬にして
どこでもない場所から物質とエネルギーが現われたと言っており、
すでに論理は破綻しています。
第五の定説は自然には目的が無いということです。
自然界のどこにも目的はなく、
また進化の過程にも目的はありません。
第六の定説は生物の遺伝は物質だということです。
あなたが受け継いだもののすべては遺伝子とか
細胞という物質が遺伝したのだと考えられています。
第七の定説は脳の中の物質の痕跡が記憶として
保持されているという考え方です。
あなたの覚えていることは頭の中に入っている
末梢神経の状態やリン酸化されたタンパク質です。
第八の定説はあなたの意識と思っているものも
実は頭の中にあるという考え方です。
あなたの意識はすべて脳の活動でありそれ以上のものはありません。
第九の定説は第八と関係しますが、
テレパシーのような超能力は不可能だということです。
あなたの考えや意向は離れた場所へ何の影響も与えません。
なぜなら、あなたの意識は頭の中にすっかり閉じ込められているからです。
第十の定説は機械的な医学(アロパシー)が唯一、実際に効くという考え方です。
政府は機械的医学の研究にしかお金を出さず、他の医療行為の有効性を
無視しています。他の医療行為は機械的ではありませんから。
効くように見えても勝手に病気が治っただけかもしれない。
・・・
宇宙の規則とは、本質的には習慣でできています。
習慣の基盤は形態形成場から成ります。
自然界のあらゆるものは集合的な記憶を持っています。
その記憶の類似性が基盤となってそれぞれの生物に共鳴します。
キリンが母親の子宮の中で成長する過程で、
過去のキリンたちの形態形成場と共鳴します。
この集合的な記憶によって
胎児はキリンらしく成長し、キリンらしい行動をします。
形や行動様式は遺伝子では説明できません。
生物の種族とは集合的な記憶のことです。
物質だと思っている結晶もそうなのです。
もし誰かが新しい結晶をはじめて作ったとしましょう。
最初に結晶をつくる時、その結晶はまだ習慣を持っていません。
一度、結晶がつくられると、次に誰かが結晶をつくる時、
一回目の結晶から二度目の結晶に影響を与えます。
この影響度は世界のどこでも同じように働きます。
形態の共鳴によって、二度目は一度目よりも結晶化しやすくなっています。
三度目は一回目と二回目の結晶からの影響を受けます。
あらゆるものが法則ではなく習慣に依存しています。
そして、法則と呼ばれるものも習慣によって
常に変化しつづけています。
・・・
その後に具体的な話をしますが、まるで漫才のようです。
直感物理では時間と空間の区別がない。
しかし、カタカムナの歌では
時間や空間を意味する「トキ」「トコロ」という単語が出てくる。
直感物理における「トキ」は
時間と空間が一体となった
精神現象における認知を意味している。
それでは「トコロ」とは一体どういう意味なのだろう?
漢字で 所 と書けば
いかにも場所とか空間を意味しているように思える。
ここは空間から一旦離れ、
文章の中で「トコロ」を検討してみよう。
ところが・・・
ところで・・・
という使い方を見れば
どうも【物事の転換】を表していることに
氣がつくことができる。
日本の超古代文明においては
人間の精神現象を簡単なモデルで表わし、
そこから日本語音をつくったという歴史がある。
そのモデルの名前は「カタカムナ」という。
精神現象の形から音を決め、
その音を重ね合わせることで
物事の意味を規定する。
人間の心は丸い空間で表わすことができるが、
この丸は半分に割れており、
片々の半円を交代させながら、重ね、
中心の向きを遠くの円周に合わせながら
循環運動をしている。
円周の外は他の人の心と接合する点である。
要するにそれぞれの人の心は丸く独立しており、
その丸の外縁に設けられた点が
あたかも化学結合するように
結びつき、心を共有し、共感するという
仕組みになっている。
外縁の点の結び付きは+と-の関係になっており、
例えば右上の点に心がある場合は
左下の点に心のある人と仲良くなる傾向がある。
仕事を共にするパートナーであれば
自分の名前における外縁の点の欠けた部分を
補うような人がベストパートナーということになる。
上の半円は左右の半円の分割を意味し、
下の半円は左右の半円の統合を意味する。
右の半円は女性的なふるさとのような精神性を、
左の半円は男性的な真新しいものを求める精神性を、
それぞれ表している。
女性的な音は「ヒ」、男性的な音は「イ」で表される。
音の響き方を分析すると、
「イ」のかすれた感じが「ヒ」となり、
「イ」が生ずる奥の様子を意味している。
より根源的な「ヒ」とより現実的で流動的な「イ」に
精神の傾向が分かれることを歌の最初に示した。
歌の一番最初は「ヒフミヨイ」から始まる。
心の外周の点を順番に移動することで、
精神のある傾向が現われてから、真反対に移動するということを説いた。
端的に言えば「ヒ」は自分の心のある場所(ふるさと)、
「イ」は他人の心のある場所を表している。
「ヒ」から「イ」に進むということは
自分の心が他人の心と共有するまでの過程を描いている。
「ミ」は右半円の切断のキワに位置する点であるが、
ここが自他の心の共有点となっている。
そこから離れて、別の場所へ旅するような感じを「ヨ」で示し、
目的地の「イ」に到達するというわけである。
ただ、目的地といっても「場所は違えど重なっている」という
大変分かりにくい概念を「チ」という図で表わしている。
自他の心を共有する「ミ」という点は摂動と呼ばれ、
宇宙科学の用語であるが、精神の現象としては、
人の心に接してうごめいてゆく感じを表している。
「セ」という音には接する、接近する、差し迫る、といった意味がある。
「セ」と反対の音は「ケ」といい、
遠ざかる、かすんでゆく、溶けて無くなる、といった意味がある。
例えば、昼の十二時にご飯を食べようと思う時、
そのご飯は午前中の時間帯であれば「セ」という感じになり、
食べ終えた後の午後の時間であれば「ケ」という感じになる。
時計の文字盤も正午を境にして左右に分かれた半円になることが興味深い。