カタカムナの共鳴

カタカムナの共鳴

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「イキモノ」 と 「モチモノ」 の間

カタカムナウタヒ における 暮らしの歌を ひとつ 紹介しましょう。

 

 アマツ カミ カム ナ  マニマニウタ サトシ

 ヤクサスベ ヒトココロワク ミト

 

 

☆ 訳

 

 アマ と アマのカミである「カム」 が

 仲良く 間を保ち 歌となる ことを 覚る。
 色々なことをして ひとつの心が湧く 身と共に 暮らしてゆこう。

 

 

 

☆ 動画

 

 

 

 

教壇に立って物事を教えるのはおかしい。


どこがおかしいかというと
一方通行だからだ。
上から下に流れる水のように。

だから教壇という段差をつける。

ユーチューブでも教壇システムが
疑問なく採用されている。

誰もおかしいと思はない。

教壇に立つ人をおだてたり
反発したりするさまを。

大事なのは教壇に立つ人ではなく
立っている人が話している内容だというのに。

全然、関係のないところで
違う話がもちあがる。

ということが起きにくい原因は
栄養不足にある。


栄養を満たせれば
双方向に流れるはずなのだ。

栄養を測る方法も
はるか昔に習ったけど
今は氣にもしなくなった。



どうやって栄養を測るかって?



そんなのは簡単だ。
見た目で知りたければ
リトマス試験紙に漬ければいい。

そうでなければ
體に聞けばいいのである。

そして
ちゃんと結球するなら
そこは
栄養が満たされたことになろう。

キヨ
あぁ~ カムナの意味が分からないわ。

サヨ
そろそろ時間かしら?

キヨ
もう少しで分かるような氣がするのよ。

サヨ
カタカムナは 原始 日本語 なのよ。
彼らの氣持ちはその記号に込められているわ。

キヨ
原始 日本語 というとお堅い響きね。
百科事典に出てきそう。

サヨ
本を書くのでしたら、何冊書いても足りないのよ。
言葉にした時点で、もう他の意味に変わってゐる。

キヨ
音を聴いて直感する記号ですものね。
精神現象について書いたというけど
カタカムナの記号を見ただけでも
何か効果があるのかしら。

サヨ
原始 日本語 の人たちの氣質に近くなるわ。

キヨ
まるでロボットみたいに感じるのよ。
操作盤を ピッ ポッ パッ と押して
巨大ロボットを動かすような感じに思えてしまうわ。

サヨ
動かす人が大事なのよ。
変な人が操縦すると大変なことになるわ。

キヨ
カタカムナで心のありようを変えられるのかしら?

サヨ
自分には基本的に効かないわ。
他のものに何かの影響を与えるの。

キヨ
誰かを癒すとか?

サヨ
そうね。自分ではない他の誰かのために書かれた図なのよ。

キヨ
気遣い合う世界なのね。

サヨ
何か悩みを話すのもいいわ。
特に日本語を使っているのなら、伝わるものがあるはづよ。

キヨ
氣が伝わりますよね。

サヨ
氣には多くの使い方がありますわ。
少し例をあげてみると
氣おくれ、氣落ち、氣が合う、氣がある、氣が失せる
氣が多い、氣が大きくなってゐる、氣がおける、
氣が収まらない、氣が重い、氣が思い遣られる、
気がかり、氣が軽い、氣が変わる
氣が利かない、氣が利く、気が氣でない、氣が腐る
氣が狂う、氣が進まない、氣が進む、
氣が済まない、氣が済む
氣が逸れる、氣が沈む、氣が削がれる、
氣が立ってゐる、氣が小さくなってゐる
氣が散る、氣が付く、氣が付かない
氣が詰まる、氣が強い、氣が動転する、氣が遠くなる、氣が咎める
と、ほんとにたくさん!!

キヨ
氣の使い手ということですわね。

サヨ
氣の持ちよう 気疲れ キチガイ なんてのも。
カタカムナ は 氣 で表現した図とも言えるわ。

キヨ
自分には使えないというのはショックなのです。

サヨ
時代を見越していたのかもしれないわね。
自分さえよければいい、という考え方が
全世界を覆ってしまうことを予想していたのかも。

キヨ
確かに全世界を襲いましたね・・・
何も悪いことしてないのに みんなマスクしちゃって
まるで銀行強盗とか忍者のようになっていました。

サヨ
誰かのために何かをする という氣質が少しでも現れてくれれば
あれっ なんでマスクなんてしているのだろう
となるはずなのよ。

キヨ
世界では日本だけみたいだわ。
他の国では謝ったりしていたけど
日本では代表者がすっかり
大陸諸島の人に乗っ取られてしまい
まっさきに謝るはずなのが
いまだに誰も謝っていないのよ。

サヨ
悪いところが出てしまったわね。
悪い人が出てきても道を譲ってしまうのよ。

キヨ
それだけ親切なのかしら?
氣が弱い・・・氣の使い手なのに、どうして・・・

サヨ
無理やりに何かをすることはないの。
自然に変わるのを待っているのよ。

キヨ
何もしなくてもいいということ?

サヨ
すごく困った人が出てくればいいのだけど
出ても表面にあらわれにくいことが問題だわ。

キヨ
氣の毒なものね。
せめて氣付けるようにしていきたいわ。

サヨ
困った人に集まって
「ねぇ、どうしたの?」と聞くだけでもいいのよ。

キヨ
自分はそうならないようにしよう
で終わらせてしまっていますものね。

サヨ
ひとりひとりが氣をつけてください、なの。

キヨ
みんなで氣をつけよう、だったらいいのにね。

サヨ
その「みんな」が無くなってしまったのよ。
何が「みんな」なのかが分からなくなってしまったの。

キヨ
あたしも分からないわ。
どこからどこまでが「みんな」なの?

サヨ
「みんな」に国境はないのよ。
とにかく「みんな」なの。

キヨ
「みんな」よくなればいいわね。

サヨ
もう良くなっているのよ。
良くなりすぎて何が悪いのか分からない
という感じだわ。

キヨ
・・・(考えている)

サヨ
良いか悪いかの基準というものがあるの。
その基準がすごく緩くなっているのよ。

キヨ
・・・(考えている)

サヨ
それで、その基準というものが
原始 日本語 の ヤタノカガミ の記号で
出来ているの。

 

 



 

         この図がヤタノカガミ



キヨ
ヤタノカガミが基準・・・

サヨ
そうなの。
ヤタノカガミなの。
原始 日本語 ではヤタノカガミで意味を決めて
音を振り当てているのよ。
全部で48音あるんだけどね。

キヨ
あの ヒフミヨイ の歌のことね。

サヨ
その歌で意味を決めたのよ。

キヨ
ヤタノカガミの意味を決める歌だったのね。

サヨ
そうなの。
でも、その歌の中には暗号が組まれていて
その暗号を解かない限り
ヤタノカガミの意味が分からないようになっているのよ。

キヨ
サヨさんは分かったの?

サヨ
何となくね。

キヨ
聞いてもいいかしら?

サヨ
そうね・・・
解けないことで守られる部分があるのだけど
どうしようかしら。

キヨ
あぁ、待って!
やっぱり自分で考えてみたい。
暗号を解くのは面白そうだもの。

サヨ
そうね。そうしてちょうだい。

キヨ
今日は面白い話が聞けたわ。
サヨさん、どうもありがとう。

サヨ
えぇ、また話しましょう!
あたしもカタカムナのことを話せる人が
できて嬉しいわ。

キヨ
サヨさん、カムナについて教えてちょうだい。
あたしの思いは固まったわ。


サヨ
整理できたようね。
固まることを「ナ」というのよ。


なっ・・・


何をいっているの? という顔をしているわね。


ふざけているの?
ちゃんと教えてちょうだい。


ふざけていないわよ。
「ナ」が塊なんだから。


本当に?


本当よ。
キヨさんの思いが固まるのを待っていたのよ。


わたしは「ナ」なのかしら。


そうよ。
「ナ」になったのよ。
だから ナル と言うでしょ。


ナル 塊 なる 固まり なる・・・ほど。


塊になることを「ナ」というのよ。


塊になる前はどうなのかしら?


もちろん「ム」よ。


むぅ~ どういうことですか?


前回も言ったけど
社会を形づくることを「ム」というのよ。


そうなんですか?


そして、社会が固まり、
外から圧力を加えられても
簡単には変わらない
型の決心がついた時「ナ」になるの。


名をあげると言いますね。


名前が付くことよ。
他の人から見ても分かる状態ね。


「ム」では名前が無いのですね。


そうね、固まって、初めて名前がつく
という感じかしら。


「ナ」の図はいかにも重くて堅そう。




     これは「ナ」の図



一番下に沈んでいるものね。
「ム」は徐々にこねて重くしている感じよ。




     これは「ム」の図



まだ下に沈みきっていないのね。


これから下に沈むのよ。
「ム」から「ナ」になるの。


カムナの「カ」は
「ム」とは反対にあるんだけど
これにも意味があるのかしら?
「カ」はどういう意味なの?




     これは「カ」の図



右にあります、という意味よ。


??
確かに右に小さな丸があるけれど。
右にあったからって何なのよ。


右を感じなさい、ということよ。


右を感じる・・・


右はどんな感じがする?
右を向いた時、右手を動かす時、
それと同じことよ。


そんなこと言ったって分からないわ。


カタカムナの記号は精神現象なのよ。
がんばってちょうだい。


えっ・・・ちょっと待って。
思いが社会をつくる・・・
それが精神現象ということ?


そうなの。
たくさんの凝り固まった思いが
「ナ」を持ってゴロゴロしてるわよ。


「ナ」はひとつじゃないんだ・・・


ゴロゴロじゃ重たすぎるわね。
コロコロにしましょう。


そういえば コロナ という
不思議な病気が流行ったわ。
原因不明の感染症で
みんなおびえてマスクをしているの。
ただ おびえているのは
その感染症じゃないのよ。
マスクなんて あちこち 捨てられている。
マスクをしていない不届き者と見られることに
おびえているみたいだわ。


う~ん、知らない間にカタカムナを
実践しているみたいね。


どういうことかしら?


不届き者と見られることを氣にすることでしょ?
それがカタカムナの感じなのよ。


感じといっても・・・


見つからないようにしている。


誰に?


他の人によ。
だから 誰も見ていない所ではマスクしなくて
誰か見る人がいたらマスクをするの。


それと カタカムナと どう関係するのよ。


見たら「アッ!」と言うでしょ?


言うわね。


その「アッ!」が嫌で嫌でたまらないのよ。


「アッ!」と思われないために
マスクをしている
それがカタカムナの感じなわけね。


そうなの。
言わば「アッ!」は異常事態よ。
アってはならないことなの。


異常な人と見られたくないのね。


そういうことよ。
感染症があるかないかに関わらず
「アッ!」と思う社会をつくってしまったの。
その社会を元に 〇 の外に出ないように
みんな マスク してしまうのよ。


〇 の中にいるには
マスクをしなきゃいけないわね。
マスクを外したら × だと思われちゃう。


それほど 思い を大事にしているの。


そっかぁ~
だから みんな 律儀にマスクを・・・
なんか 考えさせられるね。


カタカムナの響きを受け継いだ
日本語を使っているんだもの。
もう しょうがないわね。
キヨさんは 〇 の外に出て平気だったの?


なんかね、あまりにも長すぎて
もう考えるのも面倒になって
もうしなくていいか と思っちゃった。
しなくても注意する人もいないもの。


そうね。
もう どっちでもいい という感じね。


これを機に カタカムナ を知る人が増えるといいなぁ。


そう思ってくれて嬉しいわ。
キヨさんがどうしてカタカムナのことを
知りたがるのか よく分からないけど
わたしで分かることは教えてあげるね。


ありがとう。
よろしくお願いします(ペコ)
そういえば「カムナ」の話をしていたわね。
結局、聞きそびれてしまったわ。


それはまた今度にしましょう。
まずは消化してちょうだい。


もう終わりなの?


徐々に入れていかないとダメなのよ。
思いが社会をつくる
まだ出来ていないの。


時間が必要なのね。


そういうことよ。
 

キヨさん
サヨさん、カタカムナというものがあるらしいわよ。


サヨさん
あら、カタカムナですか。わたしは知っていますよ。


教えてくださらないかしら。
あたし、もっと自分のことを良く知りたいんです。


いいわよ。
まず、カタカムナとは私たちとは別世界の
ことだと思われているんだけど
そこを直さないといけないわね。


どういうことですの?


私たちは物質社会が全盛の時を生きています。
何でも物で解決し、物に主体があり、物全盛の時代です。
物質と物質が結び付いて、社会が出来ていると思っているの。
でも、そうではないのです。


わたしもカタカムナさえ身につければ
もっと自分のことが分かると思っているんです。
カタカムナも「もの」なのかしら?


そうね、カタカムナに頼りさえすればどうにかなる、
と思っているんでしたら「もの」でしょうね。
カタカムナの本当の意味をお知りになれば
「もの」の呪縛から離れて、本当の「モノ」とは
何かに氣付かれると思いますわ。


カタカムナの意味を教えて下さらないかしら?


いいわよ。
カタカムナという名が付いたのは
「型」を決めることですの。


「型」ですか。


そう。何かを成し遂げるには必ず「型」が必要なのよ。


鋳物の型とか、型紙とか、設計図のようなものね。


現代文明に置き換えるとそうなるわね。
もっと細かくなると「遺伝子」という言い方もされるわ。


あの子どもを産む情報が詰まったやつね。


遺伝子が情報を持っていて、それが子どもに受け継がれて、
子どももそうなる、と教えてくれるけど、
果たしてそうなのかしら?


どういうことですの?


情報というのは結果でしかないのよ。
うんちみたいなものね。


うわっ、汚い! やめてよ、そんなこと言うの。


でも真実よ。遺伝子はうんちなのよ。
色々あって、その結果が出てきたものなの。
カタカムナでは ウヅメクソ と言うのよ。


そうなんだ。。。遺伝子がうんちね。
クソはうんちだと分かるけど、ウヅメはどういう意味なの?


浮き上がる結び目のことよ。


???


物と物が結び付いて社会をつくるのではなく、
物はあくまでうんちなの。
社会から分離されているのね。


それと浮かび上がる結び目と、どう関係するのよ?


ウヅメが社会をつくるのよ。


???


浮かぶって何が浮かぶと思います?


う~ん、、、
あら、サヨさん、もう答えを言っていますわね。
思いでしょ? 思い浮かぶ。


正解。


でも、思っただけでしょ?


それが社会をつくるのよ。


思ったことが?


そうなの。


思うことにそんなに力があるとは思えないんだけど。


そうね。たしかに物としては誰にも見えないし
自分が思ったことは自分だけという氣がするわね。


討論番組を見ていたとき
「それはあなたの主観ですよね?」
と言う男がいたの!
腹が立ったわ。


まぁ、そうね。
その男が言ったのは、その思いはあなただけしか理解できなくて、
他の人は誰も知らない、そう思うのはあなたひとりだ、
ひとりぼっちだ、こっちにはたくさんの仲間がいる
ということを暗に言いたかったのね。
つまり、ここでも社会を誤解しているのよ。


思いが分離されて寂しいわよ。
悲しくなるわ。
よくそんなことが言えたものね!


力のない感じがするわね。
タチが悪いわ。
ここで注目することは
力の出元は社会をつくることにあるのよ。


社会があって力が出るということ?


そうね。その社会が物に頼っている限りは
力が出ないのだけど、分かるかしら?


う~ん、なんとなく分かるような分からないような。


社会はどこにあると思う?


物・・・ではないわね。やっぱり思いなのかしら。
思いが社会をつくる?
なんとなくピンと来ないのだけど。


思いは、誰が思ったのか分からないのだけど
何となく伝わるものがあるのよ。
そうして、その思いは、ある形を少しの時間留め、
流れて、消えてゆくの。


譲れない思いというのもあると思うんだけど
みんな消えてゆくものなのかしら。


そうね、時間と共に消えるわ。
思いが強ければ、それだけ残る時間も増えるということ。
思いを支える人、後に続く人が出てくれば、
その思いはずっと続くことになるわ。


あぁ、なんか分かってきたわ。
その、続く、ということが社会なのね。


そうよ。
思いが社会をつくるの。
だから、誰に言わずとも、思っているだけだとしても、
それは、社会の中で、ある役割を果たしているのよ。


そうなのかぁ。
思いだけではダメだと思っていたわ。
行動しないと意味がないと思っていた。
思うだけでもいいのね。


そうね。弱い思い、自分にとってたいせつでない思いは
すぐに消えるのよ。
そうして、大事な思いだけが残る、という感じね。


濾されて、思い固まる、という感じがしてくるわね。


雨降って地 固まるのよ。
「固まる」も面白いのよ。
カタ マル で型が〇なの。


へぇ~(そうなのね)


社会は〇で出来ているの。


そういうこと?!


循環型の社会なのよ。
思いは〇として感じられる。


〇の中には何が入っているんだろうね。
外も氣になるわ。


〇の中は社会よ。
〇の外は、社会とはならず、浮遊した感じかしら。


なるほどね。
思いを〇に閉じ込めると。
そうなると社会になる。


うん、社会の構成員を雇う時は
その〇にふさわしいかどうか、審査しなきゃ。


分かったわ。
カタカムナ カタマル マル 〇 〇 
なんだか、頭がいっぱい。
今度は カムナ について教えてね。


いいわよ。
カタカムナは思い 感じることが
とてもたいせつなの。
ゆっくりと感じるといいわ。
 

 どうか自分たちがすごい力を持っているんだということを恐がらずに受け入れてください。当の本人が力の所在に気付かず、力を持たない権力者たちがそれを自分の都合のいいように利用されるのは、望まないことだと思います。わたしたちにはを見て羽ばたく性質がありますが、それを利用する人たちは夢ではなく現実のものとします。それがおかしいのです。現実にするのはいいとしても、現実にしすぎてしまうと、自分たちの生命も危うくなってしまいます。
 人工知能(AI)が発達しすぎて、自分で考える知能を別のものに預けてしまうという体たらくです。知能を外に出し過ぎです。左脳を外に出し過ぎです。體の感覚と直結する右脳、及び全身の臓器、細胞たちがバランスを取り、左脳の暴走を止めなければいけないのです。
 どうか暴走を止めるのを手伝ってくれませんか? 自分たちの出来ること、それぞれ、していきましょう。左脳とは差をとること、比べること、数えること、計算することです。計算に氣持ちは宿っていません。氣持ちに基づき、その氣持ちを実現するために算段を立てるのはよいのです。氣持ちを無視し、計算の可能性をただただ広げ、嫌な氣持ちを出せぬまま、左脳の言いなり(奴隷)になることだけは防がないといけないです。
 気付いている人が気付いているなりに発言するだけでもよいのです。日本語にはそれだけの力があります。自分の想うことを恐がらずに言ってください。氣にかけてください。精神現象と形の識別能力は氣持ちで測るものです。どうか、どうか、支配者の言いなりになるようなことだけはしないでください。たとえ、一時でも言いなりになったとしても、しっかりと自分の氣を持ってください。
 計算の部品とならないでください。何を計算するのかはあなたがキメテください。その計算を用いて行くべき方位を照らしてください。夢を見てください。夢に集まる仲間を集めてください。あなたは計算機ではなく人間であることを思い出してください。

命のはたらきを仕分ける図(カタカムナ)

 

命の本質は潜在要素の連帯にある。

命の働く方向はヤタノカガミの図象で仕分けられた。

 

 

 

    ヤタノカガミの図象

 

 

仕分けたうちのひとつをココロ(小さな粒子)と呼んだ。

そのため 命の働く方向には8つの向きがある。

 

その8つの異なる働きが連帯し 命が運ばれてゆくと感じた。


「精神」とか「神経」という語がある通り

心は神から授かった神秘的なものと思う人が多いだろう。

心は謎であり どこからもこの謎を解く手がかりは齎されていない。

 

 

 

カタカムナでは 心をどのように捉えていたのだろうか?

 

 


現代で「まごころ」と言ったら

特別に深い愛情を込める意味なのだが

 

カタカムナでは「マ」の心のことであり

心とは すべて

 アマから始まり

 アマから仕分けられた

 小さなコロコロと転がるもの

ということで「マゴコロ」と名前が付けられた。

 

仮にカタカムナの使い手がいて

その人の思念を歌として表現するなら

 アマカガミ ヤホアメヨロヅ アマイノチ 
 マトマリ イノチ ココロワケ アワセ カサナル マノココロ

と述べるようである。

楢崎皐月さんが読み取った古代人の思念である。

 

この歌は次のように解釈される。
 

アマ を 鑑(お手本)とする万物の形はアマの命があり

それらがまとまり 命を長引かせる方に心が分けられる。

別けられたとしても それぞれの心に

アマ が合わせ重なっている。
 

ひとりひとりの心に

アマの心が

刻々と重ね合はされて

絶えまない精神現象を起こす

 

という物理が述べられている。



和語の使い方としては

 その物の名前を述べる と共に

 その物の成り立ち とか

 成りが立つまでの元となる発生源を指し示す意味

まで含まれてゐる。

 

 

 

なぜ そこまでの意味を含めることができるのか?

 

 

それは 名前を述べる音(オン)そのものに

アマの働きを 八つの方向に仕分ける思念が

込められているからである。
 

他に「コロ」には「トコロ」があり

話題を転換する ところで・・・という使い方に

「トコロ」の思念が色濃く現れている。
 

発生源から成り立ち

現在に至るまで含まれる

和語の音を使いこなすには

命が伸びる方向を

察知する勘が欠かせない。

 

和語を使うことができるということは

すなわち 生きながらえる方向を

無意識ながら察知することができている

ということになる。

 

 

 

生命の栄える勘を鍛えようと思うなら和語の習得を!

 

 

 

和語を自由に使うことができれば あなたも日本人です。

 

 

 

和語の習得には 音の高さ に氣を配る必要があります。

 

 

 

和語に慣れない異国の人は

 

 音の高さを間違える

 

ことがあるため すぐに分かります。

カタカナ がすごいのは
 栄養状態 について 記述しているからです。

カタカナ は カタカ「ム」ナ から
来ているものと伝わっています。



栄養状態の観点から言えば
先日の「カ」 は

栄養状態が欠けている のであり、

「チ」は

栄養に満たされた状態 と言えます。



栄養をどのようにして得るかというと

 「動く」

ということによって補給がなされています。



特に「動く」ということが激しい生き物は

「動物」 と言われています。



しかしながら カタカ「ム」ナ は

どちらかというと「植物」で

栄養の補給について 良く知っている生き物の書いた
ことばなのではないかと思われるのです。



植物 は 動物 ではないので 文字を書きません。
テレパシー で 植物の言っていることを
聴いてみる という試みはなされています。

なにしろ わたしが ワンネス という言葉を学んだのは
植物と対話する本から 得られた知識でした。

たしかに 植物にしてみれば
地面の下に 根を張り

栄養のやりとりをしているわけですから

もう それは ひとつの土で ワンネス なわけです。



土から離れて 狩りに出た生き物
 それが 「動物」 でした。

それでも たまには 土のたいせつさ を感じたくなるものです。

土に触れると 電氣的には アースされる ので
體の中の電氣的な雑音を クリア にできます。



わたしは 電氣的な雑音を
キネシオロジーの技術で クリア にしています。

その雑音の発生源をトリに行くような感覚です。

そして とれない雑音は 他の人にも手伝ってもらい
とってもらう というような感覚です。



しかし 雑音が なくなったからといって
暮らし向きが 変わるのかどうか よく分からないところです。

いちおう コロナ は落ち着いたようですが、、、


 (本当は すべて嘘でした ということと
  ワクチン は 有毒注射 であって
  免疫を鍛えるため という文言は
  詭弁であったことを 明らかにし あやまるべきなのだが。。。)




さて 復習です。

 栄養状態の不足を感じ → 動く

でしたね。



「カ」では 遠くて 栄養状態の不足 で

遠ざかるものに対して 手を伸ばして あぁ(落胆)
という構図が成り立ちますが

その栄養をですね
近くまで持ってきて トリに行く!

というような図象 響きがあるのですよ。



それが「イ」です。

 





  カタカムナ図象の「イ」



「イ」は 生き物の「イ」 でありますが
「植物」という分類についても
「生き物」という範疇に入っており
栄養をトル ことを

見た目上は 動かずして しています。


「イ」は母音のうちのひとつですし
ここは ぜひ 「イ」を響かせて
栄養をトリに行く感覚を
思い出してみるのも
いいのではないか と思います。

かわいい子には旅をさせろ とは誰が言ったのやら。

カタカムナ図象は 〇 と 十 から出来ていますが

今回は 十 を構成する 〇 の図を書く

「カ」と「チ」の思念について

検討していきたいと思います。



まずは それぞれの図を見てみましょう。



   カタカムナ図象の「カ」





   カタカムナ図象の「チ」




大きな 十 に対して 小さな 〇 が配置されています。

違いは 〇 の位置です。

右にあるのか 上にあるか で

 十 の違いを 識別してください と言っています。



 十 を構成する 横の線 は 地平線 です。

縦の線 は 人が立って 〇 を見ている形です。

このことは 相似象誌3号 にも記載がありました。


  地 の上で暮らす 人 人 人


家を建てたり 作物を育てたりしますが

ここでは 人 が 地の上に立ち 

見ている という 単純な構図を採用しています。



 十 というのは 人 がひとりで立っています。

それに対して ふたりの人が立つ図もあります。





   カタカムナ図象の「サ」



地平線はあるけれど 誰もいない図もあります。





   カタカムナ図象の「タ」



「タ」の思念は 分離 独立 と伝わっています。

何から分離し 何から独立したのでしょう?



相似象誌 では すべてのものは アマ から生まれ

アマ に還る と言います。



ですので 「タ」という図は アマ から分離して

独立する という思念であります。



「アマ」ではないもの 「アマ」と向き合うものを

「カム」と表現しています。



ですので 「タ」の図は アマ から独立しているわけですから

「カム」という状態におかれています。



また 「アマ」ではないものの別の表現として

「アマナ」と言うこともあります。


さらに 別の表現として 「アメ」と言うこともあります。



こうした アマ から独立した 単語 たちは

確かに アマ から独立しているんでしょうけど

それぞれ 特徴があり 名前がつけられている

と推察できます。



とにかく 「タ」 は アマ から分かれて生まれた

「カム」 であり 「アマナ」 であり 「アメ」 なのです。


それに 「タ」 をふたつ重ねて書けば 「多」 になり

数の多いという意味になります。


確かに アマ から分かれると 単語 の数が多くなるようです。



ところで 十 の縦線をあらわす 人 は

アマから独立した存在なのでしょうか?



ここがよく分からない所です。



しかし 音の響きから察するに ひと つにまとまり

人 と呼んでいることも考えられます。



アマ から分かれた

カム アマナ アメ を内包した ひと つにまとまった状態です。



すべての始まりは 「アマ」 から端を発します。

そして アマ から独立した状態を 総称して

「モノ」と呼んでいます。



「モノ」 と響いた時の 思念 には情緒があります。

 もののあはれ  わびしさ  さびしさ  が

そこはかとなく 漂います。


心が通い合っているような 氣 がします。





そうそう 心 というのも 古代語 でありました。

 十 のうちの 縦と横の線が交わる 中心 を

ココロ と呼んでいるようです。



さらに その ココロ の中身が分かる という図があります。

 十 を開いた図で あらはすのですが




   カタカムナ図象の「ヰ」



という 現在は あまり使われなくなった 仮名 です。

平仮名では「ゐ」と書きます。



さらに片仮名の「ロ」は ココロ の「ロ」でもあります。

十字が開いた 中心部分も 「ロ」で出来ています。



であるなら このカタカムナ図象も「ロ」なのでは? 

と思うところですが 「ロ」には 「ロ」のカタカムナ図象が

割り当てられています。




   カタカムナ図象の「ロ」




ここでは「カ」と「チ」の小円の違いを識別する

という題名で 書き綴っておりますので

これ以上は 深入りしないことにします。



まずは 横線 と 縦線 の違いを 感じ分けなければ。



「カ」は カタカムナ図象は無しにして

響きだけを感じて 思念 があるとすると

どんな思念でしょう?



これについては よく考えました。



「カ」というのは はるか遠いもの を指しています。



すごく憧れている人がいたとして

 かのように振る舞う

という言い方をしませんか?



その 雲の上の 憧れとなるほどの 遠さ が

「カ」にはあります。



それに対し 「チ」 は ものすごく近いこと を指します。

近くまで寄って 眺める という意味です。



顕微鏡のような思念なのです。



どんどん近づいて 見てみるような



そうすると そのものは どんどん 小さな部分に

分かれていきます。



「ちょっと」 という 控えめなことばの言い回しも

小さなことを 扱うような 気持ちが込められています。



ちなみに わたしは 「ちょっと」と言うことが 口癖です。

無意識に使ってしまいます。



それは さて いいとして

「カ」の思念は どこまでも遠い という思念

「チ」の思念は どこまでも近い という思念

であることが分かりました。



それでは その感じを元に カタカムナ図象を 見てみましょう。



「カ」は 横線(地平線)の端に 〇 がついています。

「チ」は 縦線(人)の頭の上に 〇 がついています。



地平線を眺めるのは 遠くて 大きなものを見ることになりますので

カタカムナ図象 と 「カ」の思念は 合っていそうです。


人の頭で考えることは ささいなこと なので

「チ」の思念も 合っていそうです。


大きなことを 頭で考えると どうなってしまうのでしょうね?


これは 謎として とっておくことにしましょう。


それでは また。

ふと疑問に思ったんだけど
「親切」と書いて
なぜ 親を切る と書くのだろう?

ボー としているときに
オヤギリ と読んで
あれ?! と思い
あぁ 親切か と思ったのだが

親を切って 親切になるって
一体・・・

と思ってしまった。

そこで調べてみると
過去には
ラジオ放送で鈴木杏里さんが言うには

親 → 親しみ
切 → 願い

というようなことであった。

「切に願う」という言い方がある。

切には どうしても とか
心の底から という意味がある。

セツナイ と言えば
寂しくて胸が苦しいことであるが
そういう氣持ちを抱くのは
「どうしても」が効かない
不条理さを大いに感じているのだろう。

同じように 大切 は
大きなものを切る と書く。

大きなものを切ってしまったら
大切という意味にならないじゃないんじゃないか?

と思ったが
どうも「切」の発音の仕方に
違いがありそうである。

キル のか セツ なのかで
感じるものが全然 違うのである。

切 の音読みは セツ
これは大陸からの言葉
それを訓じると キル になる。

訓じるときは 漢字の形をよく見て
意味を決める
という過程が入ってくる。

その形とは 七つの刀 である。

七支刀なるものがあるが
それはどういうものだろう?

日本書紀では ななつさやのたち という
記述があるそうだ。

元々 和の国にあったものを
大陸へ送ったという。
大陸側でも この刀を模して
和の国に送り返したようだ。

伝説では 百の兵を避ける という
呪力があるらしい。

紀元後の300~400年あたりの時代の
宗教は 道教 のようだ。

とにかく キル では
全然 意味が違うのだろう。

七つの刀 という意味で
親切 と書くべきではないのかも知れない。

仮に 片仮名で
親セツ と書いた方がしっくりするかというと
どうも そうもならなそう。

親 の側の シン という発音にしても
音読みであり 訓じた時に オヤ の意味が出る。

こちらも 音から意味をとった方がよさそうなので
シンセツ と書いた方が よりしっくりとくる。

しかし こうした 大陸から入ってきた言葉を
そのままの音で使う場合は スル とつけて
意味を通じ合わせている。

親切 だけでは 行い とはならず
必ず 親切にスル と後付けしなければ
いけないところが不便である。

大陸から入ってきた音をそのまま使うという
利便性を保つことには大いに役立つが
あくまでも 借り物の言葉 という氣がしてならない。

ことばそのものを響かせて シンセツ を
行いに結びつけるには
どのような発音をすればいいのか?

シンセツ では 見ているだけ。
概念が分かっていても 動かずにじっとしている。

本物の響きになれば 動きに結び付くはずだけど どうだろう?