(フリーダ・カルロ博物館)

 

3.ノルウェー 1935年6月~

 

1935年の6月にトロツキーはノルウェーに渡るが、そこでさんざんな目にあう。

 

 

 八月二十八日、トロツキーはノルウェーのナチ党がクニューセン家に押し入った事件の証人として、エルヴィンーヴォルフと一緒にオスロへ出向いた。ところが、ファシストたちにたいする追及は、トロツキーへの訊問にかたちを変えた。トロツキーは証人から被告へと立場が一変したのである。その日の午後、私がクニューセン家の居間で新聞記者との電話を終えて、受話器をかけた途端、ノルウェーの警官が二人、いきなり部屋に入って来て、私を戸外へ連れ出した。家の前にはトロツキーをオスロから連れて来た車が停っていて、何人かの警官がいた。トロツキーがその車から下りて来た。私たちはことばを交すこともできなかった。ヴォルフを乗せて来たもう一台の車に私は押しこめられた。一人の警官が急ぎ足で家の中に取って返して、若干の私物の入っている私の旅行鞄を持って来ると、私たちの車はオスロへむかって動き出した。
この間、警官からは一言の説明もなかった。エルヴィンと私はオスロの中央警察署へ連れて行かれ、ノルウェーから自発的に立ち去るという供述書に署名することを要求された。警察側はドイツ語で話し、「自発的」にはfreiwilligというドイツ語が使われていた。これを拒めばドイツへ、つまりヒトラーのドイツへ追放するという。私たちは署名を拒否した。ヴォルフはいくらかの金を身につけていた。私は全くの文なしだった。監房で、彼は私に紙幣を一枚渡してくれ、それを私は靴下の中に忍ばせた。このあと自分たちは一体どうなるのか、トロツキーの身に何が起ったのか、私たちには皆目分らなかった。一夜明けると、何の説明もなしに、両側を二人の警官に挟まれて、私たちは汽車に乗せられた。その二人の警官はスウェーデンとの国境で私たちを二人のスウェーデンの警官に引き渡し、更にその二人はデンマークまで同行して、私たちをデンマークの警官に引き渡した。今度は二人どころか、デンマークの六人の警官に監視されながら、コペンハーゲンに着いたのは八月三十日だった。依然として自分たちの行先は分らず、外の世界がどうなっているのかも分らない。コペンハーゲン駅では警察の高官が非常に丁寧な口調で、それではホテルへ御案内しましょうと言った。両側を警官に挟まれて車に乗りこみ、車は全速力で並木道を疾走して一つの建物に入った。「ホテル」というのは監獄だった。それも重罪人のための監獄だったのである。その夜、私たちはべつべつの監房に入れられた。監房は壁に作り付けの寝板と毛布が一枚あるだけで、あとは何の設備もなかった。夜間は一切の衣類と所持品を取り上げられ、ハンカチ一枚すら残されなかった。次の日、依然何の説明もなしに監獄から引き出され、波止場まで連れて行かれて、私たちはアルガルヴェ号という小さなぼろ船に乗せられた。船は即刻、錨を揚げた。船内には警官の姿はなく、船長は誠意のある人物だった。この小さな貨物船はモロッコヘコプラ油を積みに行くのだが、途中アンヴェルスに寄港するので、そこで下船するのがよかろうという。暫くして、船が沖へ出てから、トロツキーとナターリヤがノルウェー政府によって間もなく拘禁されるというニュースを、私たちはラジオで聞いた。

 

『亡命者トロツキー』p.155~156

 

 

 九月二日、トロツキーとナターリヤは、ノルウェー政府によって、オスロの南西三十六キロのストルサン村に近いスンビュという部落に拘禁された。二人が寝起きしたのは小さな家の二階で、一階には二十人ほどの警官が入っていた。トロツキーは訪問客と逢うこともできず、例外的にノルウェーの弁護士は何度か面会できたが、パリの弁護士ジェラールーロザンタールは一度しか訪問を許されなかった。文通は厳しい監視を受けた。トロツキーが書いた手紙は非常に遅れて宛先に届くか、もしくは宛先に届かずに返送された。トロツキー宛の手紙は短いメッセージが稀に届けられるだけだった。

 

『亡命者トロツキー』p.156

 

この頃、ジノヴィエフとカーメネフはモスクワ裁判にかけられていた。

ジノヴィエフ・カーメネフ裁判は捏造であったが、エジュールとトロツキーの息子のリョーヴァがその反論書を作成した。

この時モスクワ裁判に対する調査委員会がパリで結成された。

その委員会にアンドレ・ブルトンも出席していた。

 

(アンドレ・ブルトン)

 

そのブルトンは、メキシコでトロツキーと会うことになる。

 

トロツキーはノルウェーでは散々な目にあったが、大著『裏切られた革命』はここで脱稿している。

 

『裏切られた革命』はこう結ばれている。

 

 今日、十月革命の運命はかつてなくヨーロッパと全世界の運命と結ばれている。今ソヴェト連邦の問題はイベリア半島、フランス、ベルギーで決せられっつある。今日、マドリード近郊で内戦がつづいているが、本書が世に出る頃までには事態はたぶん、ずっと明瞭になっているであろう。ソヴェト官僚が「人民戦線」なる背信的な政策によってスペインやフランスでの反動の勝利を保障する-コミンテルンはその方向でやれることはなんでもやっている-ことに成功するとしたら、ソヴェト連邦は破滅の淵に立だされることになるであろうし、官僚にたいする労働者の蜂起よりもむしろブルジョア反革命のほうが日程にのぼることであろう。しかし改良主義的指導者と「共産主義的」指導者との合同サボタージュにもかかわらず、西ヨーロッパのプロレタリアートが権力への道を切り開くならば、ソ連の歴史にも新たな一章が開かれるであろう。ヨーロッパの革命の最初の勝利は電流のようにソ連の大衆をつらぬき、かれらの体をまっすぐにさせ、独立の精神をふるいただせ、一九〇五年と一九一七年の伝統をめざめさせ、ボナパルティズム官僚の陣地を掘りくずすであろう。そしてそれは十月革命が第三インターナショナルにたいしてもった意義に劣らない意義を第四インターナショナルにたいしてもつことであろう。初の労働者国家はこの道でのみ社会主義の未来をもつものとして救われるであろう。

 

『裏切られた革命』p.360~361

 

 

 

「ヨーロッパの革命の最初の勝利は電流のようにソ連の大衆をつらぬき、かれらの体をまっすぐにさせ、独立の精神をふるいただせ、一九〇五年と一九一七年の伝統をめざめさせ、ボナパルティズム官僚の陣地を掘りくずすであろう。そしてそれは十月革命が第三インターナショナルにたいしてもった意義に劣らない意義を第四インターナショナルにたいしてもつことであろう。初の労働者国家はこの道でのみ社会主義の未来をもつものとして救われるであろう」

 

トロツキーは裏切られた革命に対して、新たな革命を呼び掛けていたのだ。

ペトログラードで冬宮を包囲したかつての熱さで。

 

 

4.コヨアカン 1937年1月~

 

ノルウェーでは散々だったが、メキシコに来たトロツキーは元気を取り戻す。

 

 

トロツキーがメキシコシティのコヨアカン地区で住んでいた場所は、最初に住んだ通称「青い家」はフリーダ・カーロ博物館、引っ越したところはトロツキー博物館として残っている。

 

 

最初に住んだ「青い家」は、芸術家のフリーダ・カーロの家だった。

 

フリーダ・カーロ6歳の時にポリオに罹り、以来カーロの右脚は左脚より細く短いままになった。彼女のトレードマークでもある民族衣装のロングスカートは、メキシコ人としての誇りを表す単なるファッションステートメントではなく、変形した脚を隠すためのものでもあった。

1925年には、カーロと当時のボーイフレンドが乗っていたバスが路面電車と衝突した。

この事故で、カーロは背骨や鎖骨、骨盤、右脚を骨折し、内臓にも重傷を負った。彼女は、それ以降もずっとコルセットをつけなければならなくなった。さらにはこの事故による外傷が原因で、その人生において何度も流産や治療的な中絶をくり返すことになった。

波乱に富んだカーロの人生だ。

大事故によるケガから回復して数年後、カーロは芸術家として名を成していディエゴ・リベラと結婚した。リベラはカーロより20歳以上年上だった。二人は一度離婚するが、すぐにまた再婚する。

それぞれ浮気をし、時には同じ相手と度々関係を持った。

 

カーロは独特の画風で有名になっていく。

 

 

青い家に住むようになったトロツキーとカーロの間にやがて恋が芽生え、短いアバンチュールの時期があった。

 

その頃、アンドレブルトンがメキシコに講演旅行に来ることになった。

それまでトロツキーはブルトンの作品を読んだことがなく、慌てて、『シュルレアリスト宣言』『ナジャ』などの作品を取り寄せて読んだ。

最初の出会いから会話は刺激的だった。

 

トロツキーは続けて言った。
「あなたはフロイトを援用なさるけれども、それはちょっと逆ではないだろうか。フロイトは意識のなかに潜在意識を浮びあがらせる。あなたは無意識によって意識の息の根を止めたいのではありませんか」。
ブルトンは「いや、そんなことはありません」と答え、それから不可避的な質問を発した。「フロイトはマルクスと両立するものでしょうか」。
トロツキーは答えた。「さあ、それは……そのあたりの問題はマルクスも考究しなかった。フロイトにとって社会とは一つの絶対だけれども、『幻想の未来』では少しばかり様子が違って、社会とは抽象化された強制の一形式ということになっています。その社会を徹底的に分析する必要がある」。
 ナターリヤがお茶をいれ、会話の緊張が少し緩んだ。話題は芸術と政治の関係ということに転じた。トロツキーは、スターリン主義的な組織に対抗するために、革命的な芸術家や作家の国際的組織の創設を提唱した。これは明らかに、ブルトンのメキシコ訪問を知ったときからトロツキーが考えていた計画だった。宣言文の話になり、ブルトンはその草稿を書くことを引き受けると明言した。

 

『亡命者トロツキー』p.212

 

ここでも、トロツキーはフロイトに触れている。

潜在意識とシュールレアリズムへの関心が高いのだろう。

 

(中央はレフ・トロツキー、右から二人目がアンドレ・ブルトン)

 

そうして、トロツキーとブルトンの合作による革命芸術のための宣言が出来上がった。

 

現代の世界では、知的創造を可能にする条件の破壊がますます広がっていることを認識しなければなりません。そこからは必然的に、芸術作品だけでなく、特別 に「芸術的」な人格の劣化がますます明らかになる。ヒトラーの政権は、自由へのわずかな共感を表現した芸術家を、たとえ表面的であっても、ドイツから排除 してしまったため、ペンや筆を取ることに同意している人々を、最悪の美学的慣習に従って、命令によって政権を賛美することを任務とする、政権の家政婦の地 位に貶めている。報道によれば、テルミドール反応が今まさにクライマックスに達しているソビエト連邦でも同じだという。

言うまでもなく、私たちは、「ファシズムでも共産主義でもない!」という現在の流行のキャッチフレーズには同調しません。この言葉は、「民主主義」の過去 のぼろぼろの残骸にしがみつく、保守的でおびえた哲学者の気質に合っています。既製のモデルのバリエーションを演じることに満足するのではなく、むしろ人 間の、そしてその時代の人間の内的なニーズを表現することに固執する真の芸術、真の芸術は、革命的ではなく、社会の完全で過激な再構築を目指すことができ ない。これは、知的創造物をそれを縛っている鎖から解放し、全人類が、過去に孤立した天才だけが達成した高みに自分自身を引き上げることを可能にするため だけに、しなければならないことです。我々は、社会革命のみが新しい文化のための道を一掃することができると認識している。しかし、もし我々が、現在ソ連 を支配している官僚機構とのあらゆる連帯を拒否するならば、それはまさに我々の目には、官僚機構が共産主義ではなく、その最も危険な敵を象徴していると映 るからである。

・・・・

このアピールの目的は、すべての革命的な作家や芸術家が、自分の芸術によって革命に貢献し、その芸術自体の自由を革命の簒奪者から守るために、再結集する ための共通の基盤を見つけることです。私たちは、最も多様な種類の美学的、哲学的、政治的傾向が、ここに共通の基盤を見出すことができると信じている。マ ルクス主義者は、無政府主義者と一緒にここで行進することができます。ただし、両方の党が、ジョセフ・スターリンとその子分であるガルシア・オリバーに代 表される反動的な警察のパトロール精神を妥協せずに拒否する場合に限ります。

我々は、今日、何千何万という孤立した思想家や芸術家が世界中に散らばっており、彼らの声がよく訓練された嘘つきたちの大合唱によってかき消されているこ とをよく知っている。何百もの小さな地方誌が、新しい道を求めて若い力を集めようとしていますが、補助金は出ません。芸術におけるあらゆる進歩的な傾向 は、ファシズムによって「退化した」ものとして破壊される。あらゆる自由な創造は、スターリン主義者によって「ファシスト」と呼ばれる。独立した革命的な 芸術は、今、反動的な迫害に対抗する闘いのために、その力を結集しなければならない。それは、存在する権利を声高に宣言しなければならない。このような力 の結集が、私たちが今、必要だと考えている「独立革命芸術国際連盟」の目的である。

 

それは、ソ連で進む芸術の抑圧とは正反対の芸術家の創造的な革命的な活動を讃える宣言だった。

 

そんな日々も長くは続かなかった。

1940年8月20日、トロツキーはスターリンが送った刺客に暗殺された。

秘書の恋人になりすましたカナダ人ラモン・メルカデルによってピッケルで後頭部を打ち砕かれた。

 

 

(トロツキーが殺害された場所)

 

殺害現場であるトロツキーの自宅は、1990年にトロツキーの死後50年を機に博物館として公開された。

敷地の中央にあるトロツキーが妻と過ごした建物は、当時のまま保存されており、トロツキーの日記は殺害された日のページが開かれた状態で置かれている。

庭園には旧ソ連の国旗にも描かれたハンマーと鎌のマークが彫られたトロツキーの墓石がある。他の建物にはトロツキーの写真が展示されている。

 

 

トロツキーは1917年に10月革命をレーニンとともに成就した。

自身はレーニンを敬愛し、その後継者を自認していた。

スターリンによる一国社会主義建設と官僚主義的な国家を裏切られた革命と名付けた。

亡命週に第四インターナショナルを結成し、さらなる世界革命を目指していた。

 

トロツキーの亡命はトルコのプリンキポから始まり、フランス、ノルウェーを経て、メキシコのコヨアカンに行き着いた。

祖国を追放されたトロツキーは亡命者となり彷徨った。

トロツキーが目指したプロレタリア革命は、ソ連では1991年に瓦解した。

トロツキーがぺトログラードで包囲した宮殿の熱気は歴史の中にだけに残っている。

マルクスの描いた粗いビジョンをトロツキーの手によって初めて実現した国家に見えただろう。

 

それは、まぼろしだったのか。

ただ、トロツキーが残した魂は今もどこかを彷徨っているように思える。

 

< 完 >

 

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