(カール・ラデック)

 

『永続革命論』では、トロツキーによるカール・ラデックへの反論がよく出てくる。

 

Wikipediaによると、カール・ラデックは、14歳の頃から労働運動に関わりはじめ、1904年にポーランド・リトアニア王国社会民主党(SDKPiL)に入っている。

1905年のロシア第一革命の時に逮捕され、1908年に亡命する。その後、ライプツィヒ・ブレーメンで社会民主党が出すドイツ語新聞の編集に従事し、ドイツ社会民主党では極左派として活動している。

1917年の2月革命から10月革命の間に、ラデックはボリシェヴィキに入党し、ほとんどはストックホルムに滞在した。

ボリシェヴィキの外務人民委員部に参加し、中欧関係を担当し、『イズベスチア』紙に“ヴィクトール”のペンネームで宣伝論文を連載していた。

1914年の第一次世界大戦勃発後は、一貫して戦争反対の立場をとり、オーストリアの軍隊に徴兵されるが脱走し、スイスで『スイス・プレス』紙に"パラベルム"(Parabellum)のペンネームで痛烈な反戦論文を掲載している。この頃、スイスでウラジーミル・レーニンなどのボリシェヴィキたちと知り合うようになったとされている。

ロシア革命以前には国際主義者として、レーニンの民族自決論に反対し、社会主義者はそういう民族の分裂をなくすために戦っていると論じた。さらにブレスト・リトフスク講和に際しては、ドイツとの単独講和に反対し、帝国主義ドイツへの革命戦争を主張している。

一貫した政治的主張は見られないが、この頃では誰もがそうだったのかもしれない。

つまり、誰かを陥れるために誰かと同じ主張をしていたとか。

1924年頃、ラデックはスターリンに近い主張でトロツキーを批判していた。

 

1.1905年の革命と総括

 

今回のブログのタイトルの「1905年のジャンプの判定」は、ジャンプと言ってもオリンピックのスキージャンプや棒高跳びのことではない。

1905年に失敗したロシアでの革命の過程に関わることである。

 

トロツキーの永続革命論は、民主主義革命を経ずしてプロレタリア革命を成し遂げようとする理論なのであるという誤解を受けたりする。

つまり、革命過程が二段階ではなく、民主主義革命をジャンプして、プロレタリア革命を行い、その政府を樹立しようとしたという説だ。

 

しかし、『永続革命論』を読む限り、事実は違うようだ。

 

1905年の革命失敗後、トロツキーは27歳の若さで「総括と展望」という論文を書いている。

 

1906年に世に出たトロツキーの「総括と展望」の序文に書いている内容が『永続革命論』に触れられている。。

 

 とりわけ、一九二二年に、私が『一九〇五年』への「序文」の中で永続革命について述べたことを取り消すいかなる理由も私は見出さない。この著作は、レーニン存命中に無数に刷られ何度も版を重ね、党全体がそれを読み研究したものだが、一九二四年の秋になってはじめてカーメネフを「困惑」させ、一九二八年の秋にはラデックをも「困惑」させるようになったのである。この「序文」には次のように述べられている。



 まさに一九〇五年の一月九日とI〇月ストライキに挟まれた時期に、ロシアにおける革命的発展の性格に関する筆者の見解が形成された。これは後に「永続革命」論という名称で呼ばれるようになる。この謎めいた名称は次のような思想を表現していた。ロシアの革命は直接的にはブルジョア的目標に当面しているが。
 けっしてそこにとどまることはできない。革命は、プロレタリアートを権力に就けずしては、その当面するブルジョア的課題さえも解決することはできないだろう。(……)

  一二年の中断を経たとはいえ、この予測は完全に裏づけられた。[第一次]口シア革命はブルジョア民主主義体制を実現することはできなかった。それは権力を労働者階級に引き渡さなければならなかった。だがこの階級は、一九〇五年時点では権力を獲得するにはまだあまりにも弱すぎた。そのせいで、労働者階級は、ブルジョア民主共和制のもとでではなく、六月三日君主制の圧制のもとで、自己を強化し成熟させなければならなかったのである。(L・トロッキー『一九〇五年』序文、四~五頁)

 

 

 

 

トロツキーは、革命過程をジャンプさせようとしたわけでもなんでもない。

民主主義革命を経て、社会主義革命に至る過程を経験することを試みていたのだ。

 

しかし、ジャンプしたようにラデックが言いふらしたのは、ひとえにレーニンとトロツキーの違いを示そうとするスターリン側に立った作戦だったのだ。

 

1924年以降、スターリンによる政敵の排除は、おもにトロツキーなどの過去の論文からのあら探し、演説でレーニンと違うことを言ったことなどを取り上げて徹底的に攻め立てる方法によるものだ。

 

 

 

2.トロツキーによるメンシュビキの評価訂正

 

(レーニンとスターリン)

 

一方、トロツキーは1905年の革命で民主主義革命を主張したメンシェビキへの評価が甘かったと批判されている。

 

しかし、これは事実で、トロツキーは自身でのちにメンシェビキへの評価を変えている。

それも「総括と展望」への同じ「序文」のなかでのことだ。

 

 一五年にわたって永続革命の見解を堅持してきたにもかかわらず、筆者は、社会民主党内の相争う二つの分派に関しては誤った評価に陥っていた。筆者は、ボリシェヴイキとメンシェヴイキの両者とも、ブルジョア革命の展望から出発しているのであるから、両分派間の対立は分裂を正当化しうるほど深刻なものではないと想定していた。同時に筆者は、事態のいっそうの発展が、一方では、ロシアのブルジョア民主主義派の無力さと取るに足りなさをはっきりと暴露するであろうし、他方では、プロレタリアートを民主主義的綱領の限界内にとどめておくことが客観的に不可能であることを明らかにするだろうと期待していた。それゆえ筆者は、このことが分派的な対立の基盤を掘りくずしてしまうだろうと考えたのである。
 亡命期間中この二つの分派の外に立っていた筆者は、ボリェヴィキとメンシェヴイキとの対立の線に沿って、実際に、一方の側に断固とした革命家たちが結集し、他方の側にますます日和見主義と順応主義にむしばまれていく分子が集まっていったという決定的な事実を十分に評価しなかった。一九一七年の革命が勃発した時、ボリシェヴィキ党は中央集権化された強力な組織となっており、先進的な労働者と革命的インテリゲンツィアのすべての最良分子を自己のうちに吸収していた。ボリシェヴィキは-若干の党内闘争の後-国際情勢の全体とロシアにおける階級関係に完全に合致して、労働者階級の社会主義的独裁をめざす戦術を大胆に採用した。それに対してメンシェヴイキ分派はこの時までに、前述したように、ちょうどブルジョア民主主義派の任を実行するまでになっていたのである。

 

 

 

つまり、トロツキーは、一九〇五年時点では、メンシェビキについて、ボリシェヴイキとの対立は分裂を正当化しうるほど深刻なものではないと想定していたのだ。

トロツキーの亡命期間中、ボリェヴィキの側に断固とした革命家たちが結集し、メンシェビキの側に日和見主義と順応主義にむしばまれていく分子が集まっていったという決定的な事実を十分に評価しなかったのだ。

トロツキーはそのことを率直に認めている。

 

しかし、このことをラデックに、トロツキーはレーニンと違っていたと責められたのである。

 

 

3.レーニンと一致したトロツキーのカウツキー評価

 

(カウツキー)

 

トロツキーのメンシェビキ批判はカウツキー批判にも及んでいる。

 

 ロシア革命に対するメンシェヴィキの態度について語る場合、カウツキーのメンシェヴィキ的堕落について論じないわけにはいかない。カウツキーは今や、マルトフ=ダンートツェレテリの「理論」のうちに、自らの理論的・政治的衰退の表現を見出している。一九一七年一〇月の後、われわれはカウツキーから次のように聞かされた。たしかに労働者階級による政治権力の獲得は、社会民主党の歴史的課題である。しかし、ロシア共産党は、カウツキ-が指定するドアを通らず、彼の指定する時ではない時期に、権力に至った。それゆえ、ソヴィエト共和国を、ケレンスキー、ツェレテリ、チェルノフの手に引き渡さなければならない、と。第一次ロシア革命の時期を自覚的に通過し、一九〇五年~○六年のカウツキーの諸論文を読んだ同志たちにとっては、カウツキーの衒学的で反動的な批判はなおさら思いがけないものであったにちがいない。当時カウツキーは-たしかにローザールクセンブルクの有益な影響もあってのことだが-、ロシア革命は、ブルジョア民主主義共和国にとどまることはできないのであって、ロシア国内における階級闘争の到達水準および資本主義の全国際的状況ゆえに、労働者階級の独裁に突き進んでいかざるをえないことを十分に理解していたし、承認していた。当時カウツキーは、社会民主党が多数を占める労働者政府について卒直に書いてさえいた。当時の彼にとっては、政治的民主主義の過渡的で表面的な組み合わせに依存して階級闘争の現実の進路を設定するなどということは、思いもよらないことだった。

 

そして、トロツキーのカウツキー批判は容赦ない。

 

 すでに見たように、マルクスが言おうとしているのは、労働者階級は国家機構をすっかり破壊し、粉砕し、吹き飛ばすこと(エングルスの表現ではsprengung)が必要だ、ということである。ところがベルンシュタインに言わせると、マルクスはこうした表現を用いて労働者に対し、権力の掌握に際して過度の革命的熱狂に走らないよう警告を発しているのだということになってしまう。
 マルクス主義思想がこれ以上乱暴かつ醜悪に歪曲される事態は、想像もつかない。カウツキーはベルンシュタイン主義を事細かに反駁する際にどのような態度を取ったであろうか。カウツキーは、日和見主義がこの点でマルクス主義に加えた歪曲の深刻さを徹底的に分析するのを避けた。カウツキーは、エングルスがマルクスの『フランスの内乱』に寄せた序文の一節(前出)を引用して、次のように述べた。すなわち、「マルクスによれば、労働者階級は既成の国家機構をただ単に掌握することはできないが、一般的に国家機構を掌握することは可能である」と。ただもうその一点張りなのである。
ベルンシュタインが、マルクスの思想と真つ向から対立するものをマルクスの思想だと主張していること、またマルクスが一八五二年以来、国家機構の「破壊」をプロレタリア革命の課題として提起しているということについて、カウツキーは一言も言及しないのである。

 

 

そして、これはどこかで聞いたことがある内容だ。

 

レーニンのあれだ。

 

 すでに見たように、マルクスが言おうとしているのは、労働者階級は国家機構をすっかり破壊し、粉砕し、吹き飛ばすこと(エングルスの表現ではsprengung)が必要だ、ということである。ところがベルンシュタインに言わせると、マルクスはこうした表現を用いて労働者に対し、権力の掌握に際して過度の革命的熱狂に走らないよう警告を発しているのだということになってしまう。
 マルクス主義思想がこれ以上乱暴かつ醜悪に歪曲される事態は、想像もつかない。
 カウツキーはベルンシュタイン主義を事細かに反駁する際にどのような態度を取ったであろうか。
 カウツキーは、日和見主義がこの点でマルクス主義に加えた歪曲の深刻さを徹底的に分析するのを避けた。カウツキーは、エングルスがマルクスの『フランスの内乱』に寄せた序文の一節(前出)を引用して、次のように述べた。すなわち、「マルクスによれば、労働者階級は既成の国家機構をただ単に掌握することはできないが、一般的に国家機構を掌握することは可能である」と。ただもうその一点張りなのである。
ベルンシュタインが、マルクスの思想と真つ向から対立するものをマルクスの思想だと主張していること、またマルクスが一八五二年以来、国家機構の「破壊」をプロレタリア革命の課題として提起しているということについて、カウツキーは一言も言及しないのである。

 

 

 

レーニンの『国家と革命』にはカウツキー批判が散りばめられているが、トロツキーの『永続革命論』の序文とそっくりなのだ。

 

トロツキーの見解はレーニンと一致している。

 

民主主義革命によってできた議会は、しょせんブルジョア議会であり、労働者階級は国家機構をすっかり破壊し、粉砕し、吹き飛ばすこと(エングルスの表現ではsprengung)が必要だ。それはマルクスが言おうとしていたことだ。

カウツキーは議会での革命を夢想したが、ロシア革命ではボリシェビキがそれを粉砕した。

しかし、それはレーニンとトロツキーの一致した方針でもあったのだ。

 

民主主義革命の過程を通って、プロレタリア革命に至る。

それはロシア革命では連続的に急激に移行した。

カウツキーは民主主義革命の段階に留まるべきだと述べたが、レーニンもトロツキーも時期を逸することなくプロレタリア革命を遂行するべきだと主張した。

ブルジョア議会は粉砕すべきだと。

 

でも、今から思えばレーニンとトロツキー、それに対するカウツキー、いったいどちらが正しかったのだろうか?

 

後進国から革命に至ったロシアは結局、民主主義を経験することがなかった。

自由の価値を十分に知らないまま、社会主義国となった。

表現の自由、思想・信条の自由は戦時共産主義のなかで極端に制限された。

しかし、自由を求める声よりもプロレタリア独裁の権力のほうが勝利した。

 

トロツキーを自由の象徴のようにとらえる人々もいる。

しかし、トロツキーもプロレタリア独裁には賛成していた。

それは、レーニンとなんの違いもないのだ。