(レフ・トロツキー)

 

1.永続革命の核心

 

トロツキーの『永続革命論』には、基本的命題として14のテーゼが書かれている。

 

そのテーゼの書き出しはこうだ。

 

永続革命とは何か? (基本的命題)

本書を締めくくるにあたって、繰り返しを恐れることなく改めて本書の結論の要点を定式化することに読者諸君は異議を唱えないことと思う。

1.永続革命論は今や、すべてのマルクス主義者にとって最も注意深い態度を要するテーマとなっている。なぜなら、これまでの階級闘争と思想闘争の歩みを通じて、この問題が全面的かつ完全に、ロシアーマルクス主義者内部の古い意見の相違に関する回顧の領域から飛び出して、国際革命全般の性格、内的結びつき、方法に関する問題に転化したからである。

 

 

この『永続革命論』が出版されたのは、1930年。

トロツキーはすでにソ連から1929年に追放されていた。

だが、ここで描いているのはそれより前の頃の話。

コミンテルンをブハーリンとスターリンで形成した主流派が握り、一国社会主義政策を進め、他国の共産主義運動をそれに従属させようとしていた頃のことだ。

 

そして、テーゼは、こう続く。

 

2.遅れてブルジョア的発展を開始した諸国、とくに植民地および半植民地諸国に関して、永続革命論は次のことを意味する。それらの国における民主主義的・民族解放的諸課題を全面的かつ実際に解決することは、被抑圧人民、何よりも農民大衆の指導者としてのプロレタリアートの独裁を通じてのみ考えられるということである。

3.農業問題だけでなく民族問題もまた、後進諸国の住民の圧倒的多数をなす農民に、民主主義革命において例外的に重要な地位を割りあてる。プロレタリアートと農民との同盟なしには、民主主義革命の課題を解決することができないだけでなく、真面目に提起することさえできない。しかしながら、この二つの階級の同盟は、民族自由主義ブルジョアジーの影響力に対する非妥協的な闘争を通じてしか実現されえない。

4.個々の国における革命の最初のエピソード的段階がどのようなものであったとしても、プロレタリアートと農民の革命的同盟を実現することは、ただ共産主義政党に組織されたプロレタリア前衛の政治的指導下でのみ考えうる。このことはまた、民主主義革命の勝利が、農民との同盟にもとづいて真っ先に民主主義革命の諸課題を解決するプロレタリア独裁を通じてのみ考えうる、ということを意味する。

 

どれも重要なテーゼだろう。

 

その後は、プロレタリアートと農民の民主主義独裁の在り方についてと、コミンテルンは東方に間違った政策を押し付けようとしていることが書かれている。

 

そして、テーゼは核心部分に続く。

 

8.民主主義革命の指導者として権力に上りつめたプロレタリアートの独裁は、不可避的に、しかもきわめて急速に、ブルジョア的所有権の深刻な侵害と結びついた諸課題に直面する。民主主義革命は直接に社会主義革命に成長転化し、それによって永続革命となる。

9.プロレタリアートによる権力の獲得は、革命を完成させるのではなく、ただそれを開始するだけである。社会主義建設は、国内的および国際的規模の階級闘争にもとづいてはじめて考えうる。この闘争は、世界的舞台での資本主義的諸関係の決定的な優位性という条件のもとでは、不可避的に、国内的には内乱の勃発を、対外的には革命戦争の勃発をもたらす。まさにここに社会主義革命そのものの永続的性格がある。
この点では、その国がほんの昨日民主主義革命を成し遂げたばかりの後進国であるか、民主主義と議会主義の長い時代を経た古い資本主義国であるかにはかかわらずそうである。

10.一国の枠内での社会主義革命の完成は考えられない。ブルジョア社会が危機に陥った基本的理由の一つは、それによって創出された生産力が国民国家の枠ともはや両立しえなくなっているという点にある。このことから、一方では帝国主義戦争が、他方ではブルジョア的ヨーロッパ合衆国のユートピアが生まれる。社会主義革命は、国民的舞台で開始され、国際的舞台へと発展し、世界的舞台で完成する。こうして、社会主義革命は、言葉の新しくより広い意味において永続的なものとなる。それは、われわれの惑星全体での新社会の最終的勝利にいたるまで完成することはない。

11.以上のような世界革命の発展図式は、社会主義にとって「成熟している」国と「成熟していない」国という、現在のコミンテルン綱領が与えている衒学的で生気のない分類をきっぱり退ける。資本主義は、世界市場と世界的分業と世界的生産力をつくり出したかぎりにおいて、全体としての世界経済を社会主義的刷新に向けて準備することになったのである。

 各国は、この過程をさまざまなテンポで遂行していくだろう。後進国は、一定の条件のもとでは、先進国よりも早くプロレタリアートの独裁に到達することができるが、後者より遅く社会主義に到達するだろう。

 後進的な植民地ないし半植民地諸国において、プロレタリアートが、自己の周囲に農民を結集して権力を獲得するにいたる力量をまだ身につけていない場合には、まさにそのせいで、民主主義革命を最後まで遂行することができない。それとは反対に、プロレタリアートが民主主義革命の結果として権力に就いた国においては、独裁と社会主義のその後の運命は、究極的には、国内の生産力にのみ依存するのではなく、むしろ国際社会主義革命の発展に依存する。

 12.十月革命に対する反動という酵母から発生した一国社会主義論は、徹底的かつ首尾一貫して永続革命論に対立している唯一の理論である。
 われわれの批判の打撃を受けて、一国社会主義論の適用範囲を、ロシアの特殊性(その広大さと豊かな天然資源)ゆえにロシア一国に限定しようとするエピゴーネンの努力は、事態を改善するどころかいっそう悪化させるものである。国際的立場の放棄 世界的分業、外国技術へのソヴィエトエ業の依存、アジアの原材料へのヨーロッパ先進諸国の生産力の依存、等々、等々は、世界のどの国にあっても、独立した社会主義社会の建設を成し遂げるのを不可能にする。

 13.スターリン=ブハ-リン理論は、ロシア革命の全経験に反して民主主義革命と社会主義革命とを機械的に対立させるだけでなく、一国革命を国際革命から切り離す。
 この理論は、後進諸国の革命に対し、民主主義独裁という実現不可能な体制を樹立する任務を課し、この民主主義独裁をプロレタリアート独裁に対置する。そうすることで、この理論は政治に幻想と虚構を持ち込み、東方におけるプロレタリアートの権力闘争を麻痺させ、植民地革命の勝利を妨害する。
 プロレタリアートによる権力の獲得はすでに、エピゴーネンの理論の見地からは、革命の完成(スターリンの定式によれば「一〇分の九」までの完成)を意味し、一国的改良の時代の開始を意味する。したがって、クラーク[富農]による社会主義の受容という理論や世界ブルジョアジーの「中立化」という理論は、一国社会主義論と不可分である。それらは、ともに発生しともに没落する。
 一国社会主義論のせいで共産主義インターナショナルは、軍事干渉に対する闘争には、つねに不可避的に民族的メシアニズムに、すなわち、他の国々がとうていなしえないような役割を実行しうる特別の優位性と資質とが自国にのみ存在するという認識に行き着く。

 役立つ補助的道具という水準にまで成り下がった。コミンテルンの現在の政策、その体制、その指導的メンバーの内部選別は、共産主義インターナショナルが、独立した課題の解決を予定しない単なる補助部隊の地位へと成り下がったことに完全に照応している。

14.ブハーリンによって起草されたコミンテルン綱領は、徹頭徹尾、折衷主義的である。それは、一国社会主義論をマルクス主義的国際主義と和解させようとする絶望的な試みを行なっている。しかし、マルクス主義的国際主義は、国際革命の永続的性格と不可分なのである。コミンテルンの正しい政策と健全な体制をめざす共産主義的左翼反対派の闘争は、マルクス主義的綱領のための闘争と不可分に結びついている。
 そして、綱領の問題は、それはそれで、相互に対立しあう二つの理論、すなわち永続革命論と一国社会主義論の問題と不可分である。永続革命の問題は、歴史によって完全に過去のものとされたレーニンとトロツキーとのエピソード的な意見の相違の枠をとっくに越えてしまっている。現在進行しつつあるのは、一方におけるマルクスおよびレーニンの基本思想と、他方における中間主義者の折衷主義とのあいだの闘争である。

 

基調としてトロツキーが言っているのは、プロレタリアートによる権力の獲得は、一国で革命を完成させるのではなく、ただそれを開始するだけであり、社会主義建設は、国内的および国際的規模の階級闘争にもとづいてはじめて成立する。逆にそうしないと社会主義革命は成功しない。

各国での社会主義革命運動や内乱なしにはソ連も持ちこたえられない。

プロレタリア社会というのは労働者階級が支配する社会なのだ。

隣にブルジョア階級が支配する国がいては、プロレタリア社会にはならない。

だから、ソ連では社会主義国を建設しながら、他国の革命が成功しなければならないのだ。

 

しかし、ブハーリンが起草したコミンテルン綱領は、マルクスとレーニンが目指した世界革命ではなく、一国社会主義国の建設と国際的な革命とを折衷させているだけであるということだと、トロツキーは言っているのだ。

 

このことが何に影響するのか?

今の時代からだと少し想像力が要る。

 

例えば、ソ連が他国と和平条約を結ぶことでどうなるのか?

レーニンはそれでヨーロッパの各国で革命が起きることを願っていた。

しかし、実際には1920年代にヨーロッパに革命は起きなかった。

実際には1923年夏から秋にかけてドイツで起きた革命状況を最後にその兆しも消えた。

 

そのときに、トロツキーとその他の幹部の考えに違いが生じた。

トロツキーはレーニンの考えを引き継いだ。

コミンテルンの方針を間違いだと述べた。

しかし、スターリンやブハーリンは、ソ連を守ること、それに他国の共産党が賛成することを強いるほうを選んだ。

 

実際に、ブハーリンらは、民主主義的独裁の名で中国の蒋介石の政権に共産党が従うように指導もした。それによって結局革命はとん挫するのだが。

これはコミンテルンの国際的指導力が低下しているのに、ソ連を守るためにより他国への干渉を強めようとするからであるというのが、トロツキーの見立てだった。

 

 

2.革命のプロセスと主力について

 

トロツキーの永続革命論が、独特だと思われているのはレーニンとの革命路線での主力の問題で違いがあった点と、スターリン=ブハーリンとの世界の政治経済をとらえる視点で違いがあった点だろう。

 

ただ、これを『永続革命論』の文章上からその違いを指摘することは、何かスコラ的な論争のようにしか思わないかもしれない。

しかし、これをその後の歴史の具体的な場面に置きなおすとリアルな世界を感じることになる。

 

まず、レーニンとの違いだ。

それには永続革命理論に寄与したもう一人の人物がいる。

 

アレクサンドル・パルヴスだ。

パルヴスは1900年、レーニンと出会い、社会民主労働党(SDLP)で活動するようになる。

1905年の「血の日曜日」の後、大規模なストライキを目にしたパルヴスとトロツキーは、自分たちで永続革命の考えを練った。

それは革命の主導をブルジョアジーも小ブルジョアジーもできないという結論からだった。それにはレーニンの考えも加わっている。

 

 ブルジョアジーも小ブルジョアジーも革命を主導できないとすれば、誰が革命を主導するのか? 

それは労働者と農民である。この問題については、レーニン、トロツキー、パルヴスの三者に本質的な相違は存在しなかった(パルヴスは、革命の最初の段階では農民の問題をほぼ完全に無視していたが、革命の最盛期になって農民の問題についても論及するようになる)。
 三者のあいだで意見が分かれたのは、この主導勢力が革命に勝利した際に生じる臨時政府の性格をめぐってであった。この問題をめぐっては、ボリシェヴィキ(レーニン)と、パルヴスおよびトロツキーとのあいだに分岐点が存在する。ボリシェヴィキすなわちレーニンは、今はまだ存在しないがやがては必ず登場するであろうと思われた革命的農民政党をプロレタリア政党と並んで、臨時政府の独立した主導的な構成要素に加えた。このような政権を表現するものとして「プロレタリアートと農民の民主主義独裁」というスローガンを提唱したのである。
 それに対して、パルヴスとトロツキーは、革命の指導勢力としてはプロレタリアートとその党しか政治の舞台には存在しないし、存在しようがないとみなした。ロシア住民の圧倒的多数を占める農民層は、後背地における反乱によってプロレタリアートの革命闘争を容易にし、旧支配権力の足元を揺るがすことはできるが、その経済的分散性と停滞性、その政治的後進性ゆえに、政治的に主導的な勢力として政権を獲得したり、プロレタリアートの党と権力を分有することなどありえないと考えた。
 したがって、革命が勝利した暁には、それはプロレタリアートの革命党が、すなわちロシア社会民主党が臨時政府の指導勢力として政権に就くだろう。パルヴスはそれを「労働者民主主義の政府」と表現したが、トロツキーはより踏み込んで「農民に依拠したプロレタリアートの独裁」と表現した。

・・・

 パルヴスは、自らの展望する「労働者民主主義の政府」の課題を、通常のブルジョア民主主義的課題と、八時間労働制などの労働者民牢王義の課題に限定した。彼は、ロシアの遅れた政治的・経済的状況からして、労働者政府が社会主義的課題に着手することは不可能だとみなし、それゆえ社会主義革命と密接に結びついた概念である「プロレタリアートの独裁」という表現を意識的に回避したのである。パルヴスの想定した国家は、第二次世界大戦後にヨーロッパ諸国に出現する社会民主主義政権に近いものだった。
 それに対して、トロツキーは次のように問題を提起する。巨大な運動の高揚の中で政治権力を獲得した革命党と先進労働者が、経済分野ではあいかわらず資本の奴隷でありっづけることができるだろうか? あるいは逆に、資本家が自分たちの賃金奴隷である労働者の革命政権をいつまでも許しておくだろうか? 政治権力を獲得した先進労働者がブルジョアジーの経済権力を安泰に保つと想定することも、政治権力を一時的に失ったが経済権力をまだ保持しているブルジョアジーが自分の頭上に革命的労働者政府をそのまま許しておくだろうと想定することも、どちらもブルジョアジーとプロレタリアートとの根本的な階級対立を軽視するものであろう(この問題は、たとえば、資本主義国家のもとで工場の労働者管理を長期的に維持できるかどうかという問題と対をなす。この場合は、ブルジョアジーの政治権力とプロレタリアートの部分的経済権力との長期的両立が問題になっている)。
 したがって、プロレタリア政治権力とブルジョア経済権力とのこの「二重権力」は早晩解消されなければならない。すなわち、労働者政府が、自己をブルジョア民主主義的課題に限定することなく、それを越えて、純社会主義的課題にまで突き進み、ブルジョアジーの経済権力を掘りくずすか、あるいは、ブルジョアジーによる反革命によって政治権力をも失うかである。トロツキーはもちろん、ブルジョアジーによる反革命を手をこまねいて見守るのではなく、革命の狭いブルジョア民主主義的枠を突破するべきだと主張した。こうして、民主主義革命として出発したロシア革命は永続革命となるのである。

 

(翻訳者・森田成也氏による解説)

 

 

 

コミンテルンはこのトロツキーの永続革命論の立場に立たずに世界の共産主義運動を指導していた。

ロシアは後進国であったが、社会主義革命を最初に成功させたため、コミンテルンのなかでソ連とその指導者たちは圧倒的な影響力を持っていた。

とくに、コミンテルン綱領を起草したブハーリンとソ連の最高幹部であるスターリンの力は大きかった。

 

1920年代に中国では、コミンテルンが共産主義者の国民党への入党を指示し、蒋介石の国民党を中国革命の指導党として称揚していた。

1926年3月20日、蒋介石が広東クーデターで指導権を握り、同年7月に北伐を開始した。

コミンテルンはこのクーデターを隠蔽し、蒋介石を擁護した。同年5月の国民党中央委員会総会で蒋介石は共産党員の絶対服従と名簿提出を命令し、コミンテルンはそれに従った。1927年4月12日、蒋介石は上海で国民党内の共産主義者の弾圧に乗り出し、多くの共産主義者を殺戮した。

 

トロツキーが言うように、「農民に依拠したプロレタリアートの独裁」を実現していれば、中国共産党に指導的御地位を与えていれば、この時期に中国革命は成功していたかもしれない。

ただ、この時期、世界では、第二次世界大戦前のファシズムや日本の軍国主義が台頭していたのも事実だが。

 

トロツキー、バルヴス、レーニンの違いはそんなに大きいわけではない。

三人ともあくまでプロレタリアートが革命の主体を連続的に担う重要性を説き、ブルジョアジーや農民が主導して成功するとは思っていなかっただけなのだ。

けれど、ブハーリン=スターリンの考えた一国社会主義政策とは大きく違った。

 

 

3.革命の後発性と複合的発展について

 

次の問題は、トロツキーが革命の「後発性」、「複合的発展」と呼んだものだ。

これはスターリンやブハーリンが、一国社会主義政策を進めるときに革命の「後進性」、「不均等発展」と呼んだものとの違いを際立たせている。

よく似た言葉だ。

何がそんなに違うのかと思うだろう。

 

これも、スコラ的な論争に聞こえるかもしれない。

 

 過去の歴史家たちは、ロシアに封建的諸関係が存在していたことを否定していたが、その後の研究によって無条件にその存在が証明されたとみなすことができる。それどころか、ロシアにおける封建制の基本的要素は西方におけるのと同じであった。しかし、長年にわたる科学的論争によって封建時代の存在が確認されたという事実を一つとっただけでもすでに、ロシアにおける封建制の未成熟さ、その無定形さ、その文化的遺産の貧困さを物語ってあまりある。
 後進国は先進国の物質的・思想的成果を同化吸収する。しかし、このことは、後進国が先進国に奴隷的に追随するとか、先進国の過去の諸段階のいっさいを再現するということを意味するものではない。歴史の循環の反復説 - ヴィーコとその後の後継者たち - は、古い前資本主義的文化の 一 部分的には資本主義的発展の初期段階の - 発展軌道に対する観察にもとづいていた。過程全体が地方的でエピソード的である場合には、たしかに、さまざまな文化的諸段階が別々の発生源である程度繰り返されるということが起きた。しかしながら、資本主義はこのような条件の克服を意味する。それは、人類の発展の普遍性と永続性を準備し、ある意味でそれを実現した。まさにこのことによって、個々の国民の発展形態が繰り返される可能性はなくなったのである。後進国は先進国に追いつこうとつとめざるをえないので、順番を守らない。
 歴史的後発性の特権 - このような特権も存在する - のおかげで、後進国は一連の中間的段階を飛び越すことによって、想定されていた時期より早く出来合いのものを摂取することが可能になる。より正確に言えば、そうすることを余儀なくされる。野蛮人は弓からただちにライフル銃へと移行し、この二つの武器のあいだに存在した道をたどりはしない。アメリカにやってきたヨーロッパの植民者たちは歴史を最初から始めはしなかった。ドイツやアメリカ合衆国が経済的にイギリスを追い越すのを可能にした事情こそまさに、これらの国の資本主義的発展の後発性に他ならない。反対に、イギリス石炭産業の保守的な無政府性は、マクドナルドとその友人たちの頭の中と同様、イギリスが資本主義の覇権国としての役割をあまりに長期にわたって果たしてきたという過去の報いなのである。歴史的に後発的な諸国民の発展は、必然的に、歴史的過程のさまざまな発展段階の独特の結合をもたらす。発展の軌道は全体として、非計画的で複雑で複合的な性格を帯びる。

 

 

「歴史的後発性の特権」とトロツキーは呼んでいる。そのおかげで、段階を飛び超えることができるという点だ。

 

トロツキーは弓とライフル銃の例で語っている。

現代風のもっとわかりやすい例で説明しよう。

今、アフリカ諸国では携帯電話の普及が先進国より進んでいるところがある。

それは有線電話のインフラがない段階で、無線基地局を作るからだ。有線電話のインフラがあればそれを使うことが優先課題になる。地下の電線、日本なら電柱の電線を利用することになる。光回線になるまで、電話回線、ADSLとかの時期もあった。

しかし、アフリカ諸国は後発性の特権で、それを飛び越えて、いきなり電波で携帯電話やスマートフォンが使える環境ができる。

 

ロシアの後進性も例外ではない。

工業化があんなに早く進み、経済発展ができたの何かを壊して集団農場や大工場を作るのではなく、一から作ることができたからだろう。

 

ただ、ブルジョア議会などを経験せずに、労働者階級によるソビエト議会をつくったために、思想信条の自由や表現の自由を軽視したという決定的な弱点はあったと思う。

 

 

つぎに「複合的発展」の問題だ。

 

 歴史の法則性は、衒学的な図式主義といかなる共通性も有していない。不均等性は、歴史過程の最も一般的な法則であって、それは、後発国の運命のうちに最も先鋭で複雑な形で現われる。外的な必要性の鞭のもと、後進国は飛躍を行なうことを余儀なくされる。不均等性という普遍的法則からもう一つの法則が生じる。他により適切な名称がないので、それを複合発展の法則と呼ぶことにしよう。さまざまな発展段階の接近融合、個々の段階の結合、時代遅れとなった古い形態と最も現代的な形態とのアマルガムである。この法則なくしては-むろん、その物質的内容の全体を取り上げた上でのことだが-、ロシアの歴史を理解することはできないし、総じて、二番目、三番目、十番目の文化水準にある諸国の歴史も理解することはできないだろう。
 より豊かなヨーロッパからの圧力のもと、ロシアの国家は、ヨーロッパにおけるよりもはるかに大きな割合で国民から富を吸い上げた。

 

 

ロシアの後発性は、後進国からの飛躍的な発展を可能にした。

ロシアの帝政の収奪は他の国のそれを上回ったが、有産階級の基盤も弱めた。帝政は有産階級の支持を必要としたが、それは有産階級と官僚制との矛盾を深めることになった。

また、ロシアは農奴労働を雇用労働に置き換えるのも比較的容易だった。

しかし、依然としてロシアは農業国であり、人口の多数を農民が占めていた。

 

 一九一七年の革命は依然として、官僚主義的君主制の転覆をその直接の課題としていた。しかし、古いブルジョア革命と違って、今や決定的な勢力として舞台に登場したのは、集中された工業にもとづいて形成され、新しい組織と新しい闘争方法で武装した新しい階級であった。複合発展の法則はここではわれわれの前にその最も極端な姿をとって現われる。朽ち果てた中世的遺物の転覆から始まった革命は、わずか数ヵ月のうちに、共産党を指導者とするプロレタリアー卜を権力に就けたのである。
 したがって、ロシア革命は、その出発点の課題からすれば民主主義革命であった。しかし、ロシア革命は政治的民主主義の問題を新しい形で提起した。労働者が全土をソヴィエトで覆い、そこに兵士や部分的には農民をも引き入れていたときに、ブルジョアジーは依然として、憲法制定議会を召集するべきか否かをめぐって駆け引きに明け暮れていた。本書において諸事件を叙述していく中で、この問題はきわめて具体的な形でわれわれの前に立ち現われてくることだろう。ここでは、革命の思想と形態の歴史的移り変わりの中にソヅイェトを位置づけるにとどめよう。

 

 

 

ロシアは、「歴史的後発性の特権」を生かして先進諸国の技術や資金や市場を利用して、一足飛びで発展を遂げようとした。

後発国のそのような試みによって新しいものを摂取しただけでなく、ロシアを取り囲む先進国の経済的・政治的・思想的影響を絶えず受けることになっていた。

 

後発国としてのロシアは、外部から移入ないし影響された先進的諸要素と、自国における古い時代遅れの諸要素との独特の結合、アマルガムが生じ、これが、後発国としての発展に固有の独自性をもたらした。

これをトロツキーは「複合発展の法則」と呼んだのだった。

 

結果的に、この後発性と複合発展の法則を考慮しなかったために、永続革命、世界革命には至らなかった。

 

それはトロツキーの予言通り、ヨーロッパの革命なしにソ連が持ちこたえられなかったというべきなのだろうか?

 

一国社会主義をソ連が歩んでいるちょうどその頃、ドイツやイタリアではファシズムという国家資本主義を擬制する体制が生まれた。

ソ連は連合国に加わって、ファシズムと対戦し、その結果、衛星国としての社会主義国が生まれることになった。

それでも、それはブルジョア階級こそ廃止したが、自由・平等のプロレタリア社会とは似ても似つかない、自由を抑圧するイデオロギー官僚国家だった。

それは70余年の後に自壊した。

 

トロツキーはいったい何を誰と論争していたのか?