(レフ・トロツキー)

 

2024年にトロツキーの『永続革命論』を読む意味があるのか?

そもそもトロツキーの思想はどのようなものだったのかを理解している人が日本にはどれくらいいるのか?

 

まず、そこから考える。

 

1.トロツキーへの誤解

 

トロツキーの思想と人物ほど誤解されているものは珍しいと思う。

トロツキーそのものより、トロツキズム、トロツキストとして日本では理解されているのではないだろうか。

 

Wikipediaから拾ってみる。

 

日本共産党は、新左翼発生以前には共産党結成初期に共産党から分離した労農派をトロツキストと呼んでいた。1950年代後半に六全協に対する反発やハンガリー動乱の影響で新左翼が生まれると、彼らをトロツキストと罵倒した。60年安保闘争時の、決してトロツキーの思想の影響下にあったわけではなかった共産主義者同盟および全学連を「極左冒険主義のトロツキスト集団」と口をきわめて非難した。あるいは、「トロツキズムを乗り越えた新しい体系=反スタ、反純トロ」を標榜する革マル派、中核派、果てはそもそもレーニン主義を否定している社青同解放派まで、一括りに「トロツキスト」と規定していた。

しかしスターリン批判以降、日本社会でも凶悪な独裁者というのがスターリンの評価として一般的になっていく中で日本共産党もスターリンについて「科学的社会主義を歪曲した」「大国主義」と批判的になっていき、1982年(昭和57年)には不破哲三が著作『スターリンと大国主義』を著してスターリン批判を行い、その中において「ロシア革命におけるトロツキーの役割」を一定認める見解を発表した。そのため以降日本共産党は新左翼党派を「トロツキスト」と呼称することを公式には取りやめ、いまは「ニセ『左翼』暴力集団」[要出典](口語で略するときは「ニセサヨク」)に取って代わられている。

 

ただ、その国の共産党に反対する勢力を「トロツキスト」と呼んでいたのは日本に限ったわけではない。

 

長年、各国共産党は、自党の指導に従わない共産主義者を、トロツキーの思想の影響下にあるなしとは関係なく「トロツキスト」と呼んで非難していた。「トロツキスト」とは、共産党にとって最悪の裏切り者の代名詞であり、スターリンが1936年に開始した大粛清時の定義「ソ連邦の破壊を目論むトロツキーを頭目とする反革命分子で帝国主義の手先の群れ」「ファシストの第五列」をそのまま踏襲し、「左翼を装った挑発者」「スパイ反革命集団」を意味していた。すなわち、共産党とは別の立場にある共産主義思想・およびそれを信奉する者全般を指したレッテルとして「トロツキズム」「トロツキスト」と総称していた。

 

 

2.トロツキーの思想への誤解

 

(中央左:レーニン、その右隣り:トロツキー)

 

トロツキー『永続革命論』は1930年に出版された。

トロツキーがモスクワから追放されて2年後だった。

その序論はこの書き出しから始まる。

 

本書が主題とする問題は、三つのロシア革命の歴史と密接に結びついているが、それにとどまるものではない。この問題はこの数年間、ソ連共産党の内部闘争において巨大な役割を演じ、その後共産主義インターナショナルに持ち込まれ、中国革命の発展において決定的な役割を果たし、東方諸国の革命闘争と結びついた諸問題において多くの最重要の諸決定を規定するものとなった。この問題とはすなわち、レーニン主義のエピゴーネン(ジノヴィエフ、スターリン、ブハーリン等)の説くところによれば「トロツキズム」の原罪たるいわゆる「永続革命」の理論である。


 永続革命の問題は、長い中断の後に、しかも一見したところ、まったく唐突に、一九二四年になって再び持ち上がった。その政治的根拠はなかった。なぜなら、それは、とっくに過去のものとなっていた意見の相違をめぐる問題だったからである。しかし、心理的根拠は大いにあった。私に対して闘争を開始したいわゆる「古参ボリシェヴィキ」グループは、この自らの呼称「古参ボリシェヅイキ」を何よりも私に対抗する形で利用した。


 しかし、このグループの行く手に立ちはだかっていたのは、一九一七年という大きな障害物であった。革命に先立つ思想的闘争と準備の歴史が、党全体にとってだけでなく個々人にとってもいかに重要であろうと、それまでの全準備がその最高かつ最終的な試験にかけられたのがまさに十月革命においてだったからである。そして、エピゴーネンのうち誰一人としてこの試験に合格した者はいなかった。彼らはみな例外なく一九一七年の二月革命の際には民主主義左翼という俗悪な立場をとった。彼らのうち誰一人として権力獲得のためのプロレタリアートの闘争というスローガンを掲げた者はいなかった。彼らはみな社会主義革命に向けた路線を馬鹿げたもの、あるいはもっと悪いことに「トロツキズム」とみなした。レーニンが国外から帰ってくるまで、そして彼の有名な四月四日のテーゼが発表されるまで、彼らはこのような精神で党を指導したのである。すでにレーニンと直接闘争していたカーメネフは、その後公然とボリシェヴィズムの民主主義的翼を形成しようとした。そのすぐ後に彼に合流したのは、レーニンといっしょに帰国したジノヴィエフであった。その社会愛国主義的立場のせいですっかり信用を落としていたスターリンは、わきにそっと退いた。彼は、三月の決定的な数週間における自らの憐れな論文や演説を党に忘れさせ、徐々にレーニンの立場へと移動した。


 以上のことから次のような疑問が生じてくる。すなわち、これら指導的な「古参ボリシェヴイキ」のうち誰一人として、最も重要で責任重大な歴史的瞬間に、党の理論的・実践的経験を自主的に応用することができなかったとすれば、彼らはいったいレーニン主義から何を学んだのか、と。そこで、何としてでもこの問題から注意を逸らして、別の問題にすり替えることが必要であった。この目的から、永続革命論に集中砲火を浴びせることが決定されたのである。私に敵対した人々は、闘争の人為的な軸をつくり出すことによって、知らず知らずのうちに自分自身がその軸の周りを回転し、逆にそれに合わせて、自分たちのために新しい世界観をつくり上げる羽目になったのだが、彼ら自身はもちろんそんなことは予想だにしていなかった。

 

※エピゴーネン (Epigonen) 学問、思想、芸術などで、先輩のまねをするばかりで独創性のない人。

 

 

 

レーニンが死去したのが1924年。

ジノビエフ、カーメネフはスターリンによって1927年に除名され、有力なイデオローグとしてはブハーリンはまだ残っていた頃だ。

 

『永続革命論』はスターリンが1924年に「一国社会主義論」を唱え、ブハーリンも第三インターナショナル(コミンテルン)でその綱領路線を主張する過程で、それらに異をとなるトロツキーが自らの考えをまとめたものだ。

 

パトラとソクラ的に「永続革命論」の論点をまとめると、

 

①1905年~1917年に生まれたレーニンとの革命路線の違い

 

②1924年にスターリン・ブハーリンとの間に生まれた世界での革命路線の違い

 

③革命党の官僚主義化というスターリニズムへの批判

 

に要約されるように思う。

 

 

3.ヘルメット・火炎瓶=トロツキーという誤解

 

 

Wikipediaによると、日本共産党は、1960年安保闘争時の、決してトロツキーの思想の影響下にあったわけではなかった共産主義者同盟および全学連を「極左冒険主義のトロツキスト集団」と非難していたようだ。

「トロツキズムを乗り越えた新しい体系=反スタ、反純トロ」を標榜していた革マル派、中核派、果てはそもそもレーニン主義を否定している社青同解放派まで、一括りに「トロツキスト」と規定していたらしい。

 

「永続革命論」というせわしないイメージの単語も問題なのかもしれないが、トロツキーと聞くと、ヘルメットをかぶった過激派がせっせと火炎瓶をこしらえては投げているイメージでとらえる人々も多いのではないだろうか。

 

しかし、トロツキーは、頭が良すぎて、そのためにスターリンという政治家に放逐され、暗殺されただけのひとなのだ。

 

社会主義国・ソ連の誕生と、政権の権力構築をめぐる除名、追放、暗殺の時代。

 

松竹伸幸氏は除名されても暗殺されることなんてないと思う。

 

しかし、共産党とその党中央への権力の集中と権威の維持の問題は時代が違えど同じかもしれない。

民主集中制はレーニンもスターリンも、トロツキーでさえ否定していない。

 

2024年に、トロツキーの『永続革命論』を中心に、トロツキーの主張を振り返ってみたい。