(中央左:レーニン、中央右レフ・トロツキー)

 

1.『永続革命論』が書かれた頃

 

トロツキーの『永続革命論』を読むと、誰かに対する反論で埋められている。

この本で主敵にしているラデックだけではない。

ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、スターリン、ルイコフ、モロトフ、ポクロフスキー...

いったい何人敵がいるのか?

 

トロツキーが、永続革命論を書いた1928年の頃、トロツキーはどういう状態に置かれていたのかを振り返ってみる。

 

以下の記述は、現代書館の『フォー・ビギナーズ・シリーズ 7 トロツキー(翻訳版)』に拠っている。

 

 

 

1922年にレーニンが病に倒れてから、党指導部は、ジノヴィエフ、カーメネフとスターリンに移った。

この「三人組」が重要なポストをおさえたのである。カーメネフは、トロツキ-の妹を妻にしていた。だが彼は、ジノヴィエフとスターリンの側につき、トロツキに対抗した。

 

1924年1月にレーニンが亡くなったとき、トロツキーは、伝染病の治療のため、カフカス地方のスークームにむかっていた。

トロツキーは、スターリンから「君の健康のため政治局は君がスークームにこのまま行くべきだと思う」という電報を受け取った。

トロツキーは、レーニンの葬儀に参列しなかった。

 

レーニンは妻のクルプスカヤに口述で遺書を残していた。

クルプスカヤはこの遺書の公開を求めたが、中央委員会で配布されたのみとなった。

 

その遺書にはこのようなことが書かれていた。

 

「トロツキーは中央委員会の中でもっとも有能な人物だが、あまりに自信を誇示しすぎる」

 

「スターリンはあまりに粗暴である。スターリンを書記長の地位から取除<べきだ」

 

「ブハーリンは党内で一番貴重な理論家だが、いささかスコラ的すぎる」

 

「ジノヴィエフとカーメネフの十月のエピソードは、もちろん偶然ではない」

 

ブハーリンは、レーニンの『帝国主義論』にも影響を与えた理論派であったのは事実だろう。

ジノヴィエフとカーメネフの十月のエピソードというのは、このブログでも触れたが「今こそ蜂起のとき」というレーニン、トロツキーと、「今ではない」と対立したことだろう。

 

1923年以来、無制限に暴力的な反トロツキーの煽動キャンペーンが始まる。

1904年から1915年にいたるレーニンとトロツキーの古い対立が、スターリンの指令によってむしかえされ、“トロツキズム”という異端神話作りに利用された。トロツキーは、犯罪的な反レーニン主義者だと非難された。

1924年 トロツキーは、批判者に答えて、r十月の教訓』を書いた。だが批判者たちはさらに中傷を強め、彼は国防人民委員の地位を追われた。

 

1925年 中央委員会はトロツキーを軍事革命評議会から解任し、彼が一切の新しい論争に関わることを禁止した。だが、スターリニストの側は、反トロツキー・キャンペーンを国中に拡大した。

 

こうして、名誉の勲章の上に汚名の勲章をかぶせられ、非難の叫び声が耳に鳴りつづけ、さるぐつわをはめられて自分を弁護することさえ禁じられたまま、彼(トロツキー)は、7年の長きにわたって、決定的な時期を彼が率いてきた国防人民委員部と軍を去っていった。


『アイザック・ドイッチャー『武器なき予言者』)

 

1926年 第14回党大会で、かつての三人組ジノヴィエフとカーメネフはスターリンと分裂し、スターリンはブハーリンや右派と共に新しいブロックを作った。トロツキーは沈黙を続けた。


スターリンは、彼の「一国社会主義」論を宣言した。

ブハーリンは富農(クラーク)に語りかけた。「自らを富ましめよ!」と。

しかし、ブハーリンは数年後、農業の集団化を急速に進めることになる。

 

ジノヴィエフとカ-メネフは、スターリンが巧みにー切の国内・国際問題の失敗を彼らの責任としていることに気づくが、すでに遅かった。先を越されたジノヴィエフは、大会代議員にレーニンの遺書を思い出すよう訴え、一方、クルプスカヤたちは自由な論争を求めた。

 

1926年 15回党大会のあと、トロツキーの支持者とジノヴィエフ主義者をののしるキャンペーンが再開された。スターリンは各党細胞に指令を発した。「反対派の指導者がユダヤ人どもだというのも、偶然ではない。これはロシア社会主義と外国人との闘いなのだ。」

 

1926年4月 トロツキーは個人的にジノヴィエフ、カーメネフと会った。二人は、スターリンと共謀して、罪状のでっちあげ等々をやったと告白した。

「われわれは何が何だかわからなくなった。スターリンは、陰険で、強情で、乱暴だ」 

ジノヴィエフとカーメネフは、自分たちがすでに孤立してから、当惑気味の回れ右をして、左翼反対派に移ってきた。迎えいれたトロツキーは、さほど楽観的でもなかった。

 

1926年7月から18ヵ月の間、トロツキーはスターリニズムとの闘いに自らを投じた。最盛時には、統一した左翼反対派は、党内で8千人のボリシェヴィキをメンバーにもっていたこの闘争の結末は、ロシア革命の命運を左右した。それでも、これは大衆が直接に関わらない闘争だった。
左翼反対派の秘密会議は、労働者の家で、モスクワ郊外の厳寒の中で行なわれた。

まるで昔のように………だが、昔そのままではなかった。

 

このとき、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフの左翼反対派が共通していたのは以下のことだった。

これらが、スターリン=ブハーリンとの対立点だった。

 

左翼反対派綱領の基本点

経済戦線について

都市労働者の生活改善、賃金値上げ、残業 の廃止、住宅改善、失業手当の増額、女性 に対し同一労働同一賃金、労働組合幹部の選挙。すべてのレベルで工場委員会と労働組合は経営側から独立すること。

 

農民戦線について

農村での階級闘争において、党はクラーク (富農)の搾取に反対し、農業労働者、貧農および中農の先頭に立たなければならない。

 

党の戦線について

党内では、労働者党員より幹部の数の方が多い。1927年1月の数字では、幹部が46万2千人、労働者が44万5千人だ。党二政権の堕落が、新しい官僚階層を生んでいる。
党内民主主義を復活せよ。党の教育が、非民主主義に貫ぬかれている状態をやめよ。
党の教育が反対派狩りに終始している状態をやめよ。反対派に対する弾圧と脅迫をやめよ。

 

国際戦線について

中国や他の国での破局は、コミンテルンの誤った政治方針の結果だ。中国や他の国恥同志には。適切な援助と助言を与えなければならない。

 

左翼反対派の指導者たちは、党の機関に自分たちの政治的意見を投げつけた。だが、彼らには、組織的切りふだがなかった。スターリンは、彼らを一網打尽にしてしまった!

1927年10月、スターリンは、政治局会議で反対派を追いつめた。

「反対派は、社会民主主義的偏向である! 自分たちの誤りを認め、自説を撤回せよ!」

 

数力月のち、トロツキーは、共産党の指導機関である中央委員会で最後の演説を行なった。中央委員は皆、沈黙で彼の演説に答えた。
いまや彼の政敵たちですら、一人の巨人の没落に立ち会っていることを知っていた。

ジノヴィエフは、発言すら封じられた。彼は、悪態をあびせられ、やじり倒され、侮辱のかぎりを受けた。

 

トロツキーを含む左翼反対派の指導者たちは、中央委員会を追われた。他の者は、共産党から除名され、あるいは反対派の文書を配布したカドで逮捕された。 

 

1927年11月7日、反対派は、十月革命10周年の機会を利用して、大衆に直接訴えようとした。スターリンの屈強なギャングたちが、デモをけちらした。人々は黙ってこれを見守っていた。彼らの沈黙が、決定的だったのだ。

 

ジノヴィエフとカーメネフは、1927年12月、スターリンに屈服し、一般党員として再入党する申請書を提出した。

除名されると発言の場もすべてを失ってしまうのが、共産主義運動に関わる者たちの悲哀なのだろう。

 

1929年、トロツキーは公式の追放命令を手渡された。


 刑法第58条10項による反革命活動の容疑………決定:市民トロツキーをソ連邦領土・から追放する


「内容において犯罪的であり、形式において違法なこのゲ・ぺ・ウの決定は、1929年1月20日、私に伝えられた。」(トロツキー)

 

これ以降、トロツキーはソ連の地を踏むことはなかった。

 

レーニンの死後、権力闘争のなかで、トロツキーは孤立無援の状態で政敵に対して反論しなければならなかった。

 

亡くなってから、レーニンがよけいに神格化され、トロツキーはボリシェビキに加わる前のレーニンとの意見の相違を攻撃された。

それは排除のための運命づけられた批判だった。

 

(レーニン廟のレーニンの遺体)

 

しかし、ボリシェビキから共産党となった組織で、スターリンは政治局だけでなく、組織局も掌握していた。

党内では多勢に無勢の状態だった。

レーニンが生きているとき、レーニン自身が1921年に分派活動を禁止していた。

トロツキーは最後に十月革命10周年の機会を利用して、大衆に直接訴えようとしたが。それもスターリンの準備によって潰された。

 

もともと論争のリングがスターリンの方に傾いていたのだ。

 

 

2.一国社会主義と永続革命

 

スターリンは、自身の一国社会主義について一九二四年十一月に彼が書いた論文でこう語っている。

 

「レーニンによれば、革命は、何よりもまず、ロシアそのものの労働者・農民の間から力を汲みとる。ところかトロツキーにあっては、ただ『プロレタリアートの世界革命の舞台において』しか、必要な力を汲みとることかできない。(中略)だが、もし国際的革命か遅れてやって来るというようなことになったら、どうなるか。我々の革命には何らかの光明かあるか。トロツキ-は何の光明も与えていない。(中略)この見取り図によれば、我々の革命に残されているのは、自分自身の矛盾のうちで何もせずに暮らしていて、世界革命を待ちながら立ち腐れになるという、ただ一つの見通しだけである」。これに対してレーニンか示した法則は、次のことから出発している。「一国における社会主義の勝利は-たとえその国が資本主義的にあまり発展していない国であり、他の諸国には資本主義が維持されていて、しかも、これらの国が資本主義的にもっとよく発展している国である場合でさえも-まったく可能であり、また予想される」

 

 

スターリンはレーニンが「頭脳」と評価したブハ-リンと組んだ。

二人に共通した考えは、ヨーロッパに社会主義革命が起こらなくても、ロシアで労働者を代表すると称する共産党か権力を保持し続ける限り、ロシアは社会主義社会を完全に実現できるということだった。

 

干渉戦争が二度と起こらないようにするには、確かにヨーロッパのいくっかの国で革命が起こる必要があった。

ブハーリンもスターリンも一国社会主義論を唱える一方で、ヨーロッパの革命支援をしようとも思い、コミンテルンを続けた。

 

スターリン=ブハーリンとトロツキーの違いは、ソ連国内の社会変革を優先するのか、ロシア革命の国際面、つまりその反帝国主義的性格を強調し、世界革命を重視するのかの違いだったといえる。

しかし、ヨーロッパに社会主義革命が起こる兆候はなかった。またロシアで急速な工業化を実現するための資本も簡単に得られそうもなかった。

 

しかし、こう指摘する人もいる。

 

スターリンの一国社会主義論は、確かに権力闘争の一環として出てきたものであったが、けっしてそれだけではなかった。

スターリンはヨーロッパの革命にロシアの革命の命運を結びつける議論に早い時期から納得していなかったのである。この理論は、そうした長年にわたる彼の疑問に発するものであり、その意味で彼の基本的認識を反映したものであった。こうした独自の世界観を一国社会主義論として体系づけることによって、スターリンはレーニン後の指導者の第一番手として名乗り出たのである。

 

 

果たして、レーニン思想の継承者はトロツキーだったのか、それともスターリンだったのか?

そもそもレーニンが目指したものはマルクスの「共産主義者宣言(共産党宣言)」の内容ではなかったのか?

 

プロレタリア革命は、ヨーロッパの先進国で経済発展の結果、資本家階級が生産手段を独占することになり、それが資本の独占、巨大な搾取を可能にし、圧倒的に多数になったプロレタリア階級の利益との矛盾により革命が起きるとマルクスは考えた。

もともと階級が搾取構造を生んでいる。

資本主義生産は世界市場で行われている。

階級がなくなれば、国家も消える。

マルクスはそう考えた。

 

 諸国民の国家的な分離と対立は、ブルジョア階級の発展とともに、商業の自由、世界市場、そして工業生産とそれに対応した生活条件の一様化とともに、すでに次第に消滅しつっある。
 プロレタリア階級の支配は、その消滅をよりいっそう早めるであろう。少なくとも、文明諸国が一致した行動をとることか、プロレタリア階級の解放の第一条件の一つである。
 一個人か他の個人を搾取することがなくなれば、それに応じて、一国民による他国民の搾取もなくなってゆく。
 一国民内部の階級対立がなくなれば、諸国民相互の敵対関係もまたなくなってゆく。

 

(中略)

 

 発展するにつれ、階級の差異が消滅して、すべての生産が結合された個人の手に集中してゆけば、公的権力は政治的性格を失う。本来の意味での政治権力とは、他の階級を抑圧するために一階級によって組織された暴力である。だが、プロレタリア階級が、ブルジョア階級との闘争において、必然的に階級として結合し、革命によって支配階級となり、そして支配階級として暴力的に古い生産関係を廃止するとき、プロレタリア階級は、この生産関係とともに、階級対立の、階級そのものの存在条件を、だから、階級としての自分自身の支配を廃止する。
 階級および階級対立をともなった古いブルジョア社会に代わって、一人一人の自由な発展が、すべての人の自由な発展のための条件となるような連合体か現れる。

 

 

マルクスのビジョンとしてスターリンが作ったプロレタリア国家は果たして、マルクスの設計図とどう違っていたのだろうか?

 

それはマルクスの設計図を施工するときに誤ったのか?

それとも設計図自体に問題があったのだろうか?