(ブハーリン)

 

(1)ロシア革命の頃の政情

 

E.H.カーが書いた『ロシア革命』(岩波現代文庫)という本がある。

 

 

 

 

サブタイトルに「レーニンからスターリンへ 1917-1929」とあるように、スターリンが一国社会主義政策を国内に定着させ、ブハーリンとスターリンがコミンテルンで影響力を持ち、トロツキー、ジノビエフ、カーメネフなどの政敵を追放した年くらいまでをまとめている。

ブハーリンはまだスターリンとともにソ連の建設に進んでいる頃だ。

 

この本を読んで、果たしてロシア革命は何を目指していて、それぞれの政敵はどうして合同したり、攻撃し合ったりしたのかを疑問に思わざるを得なかった。

政治の世界では、理念の問題と誰とくっつくべきかという問題がある。

 

政治では、何が正しいかというより、誰が言うことが正しいのかということに引っ張られがちだ。

だから、常にマスコミは政治家の信用を失わせるために、スキャンダルを取材しては発表するタイミングをはかっていたり、国民は不倫や法律違反、ハラスメントなどが起きれば、政策よりもその話題にとらわれてしまうということになる。

 

ロシア革命の経緯を辿りながら、トロツキーの『永続革命論』やレーニンの『国家と革命』などを読んでいると、誰かが誰かを執拗に批判したり、些末な問題を大袈裟に言ったりしているのに気付く。

 

 1917年3月頃のロシアの政治勢力は、立憲民主党(泉健太が代表のとは違います)、エスエル、メンシェヴィキ、ボリシェヴィキがあり、ツァーリ(皇帝)がいた。その頃、臨時政府と二月革命でできたソヴィエト政権があり、二つの政府があり、二重権力と呼ばれていた。

 

 

政情は、第一次世界大戦の最中、「戦争を内乱へ」のスローガンが響き、二月革命はドサクサに起きた革命とも言える。

オルテガなどは「革命は節度ある一派によって始められるが、すぐに極端分子の手に移り、間もなく復古へと後退し始める」と言っている。

民衆の熱狂の中での選択は、民衆にとって必ずしも正しい選択とは言えないともいえる。

 

そんなロシア革命史にとって、英雄と言えるのは、レーニンとトロツキーである。

 


 四月はじめにおけるレーニンの劇的なペトログラード到着は、この不安定な妥協を粉砕した。レーニンは-当初、ボリシェヴィキの中でさえも、ほとんど孤立無援だったが-、ロシアにおける現下の動乱はブルジョワ革命であってそれ以上の何ものでもないとする想定を攻撃した。二月革命以後の状況の展開は、それがブルジョワ革命の範囲内にとどまってはいられないだろうというレーニンの見地を確証した。専制の倒壊のあとに続いたものは、権力の分岐(「二重権力」)というよりも、むしろ権力の完全な拡散であった。労働者の気分も農民の気分も-つまり住民の大半ということであるが-恐るべき夢魔からの巨大な解放感といったものであり、自分たちのことは自分たち自身の流儀で勝手にやりたいという根深い願望と、それがともかくも実行可能であり、かつ本質的なことなのだという確信とを伴っていた。それは、広汎な熱狂の波によって、また疎遠で専制的な権力の軛からの人類の解放というユートピア的ヴィジョンによって鼓舞された大衆運動であった。

・・・
 こういうわけであったから、レーニンが彼の有名な「四月テーゼ」において、革命の性格の再定義に着手したとき、彼の診断は、鋭い洞察であるだけでなく、予見的なものでもあった。彼は事態を説明して、革命は、権力をブルジョワジーに与えた第一段階から、労働者・貧農に権力をひきわたす第二段階へと移行しつつあるとした。臨時政府とソヴェトとは、同盟者ではなく、別個の階級を代表する敵対者なのである。

・・・

全ロシアーソヴェト大会-常設執行委員会をもった中央ソヴェト組織を創設しようという初の試みが六月に開かれたとき、八〇〇名以上の代議員のうち、エスエルは二八五名を数え、メンシェヴィキは二四八名で、ボリシェヴィキに属するものは僅か一〇五名にすぎなかった。レーニンが挑戦に応えて、ソヴェトには政府権力を握る用意のある党がある、それはボリシェヴィキだといってのけて、非常な嘲笑をかったのはこのときのことであった。臨時政府の威信と権威が衰微するにつれて、工場と軍におけるボリシェヴィキの影響力が急速に強まった。そして七月に臨時政府は、彼らに対して、軍内部での破壊宣伝とドイツ側のスパイ行為のかとで弾圧策をとることを決定した。何人かの指導者が逮捕された。レーニンはフィンランドに逃れ、その地で、今やペトログラードでは地下活動に入った党中央委員会と定期的に連絡をとったのである。

・・・

トロツキーは、夏にペトログラードに戻ってからボリシェヴィキに加わっていたが、彼は、作戦計画を練るに当たって指導的な役割を果たした。一〇月二五日(露暦による。二、三ヵ月のちに導入された太陽暦では一一月七日に当たる)、工場労働者を主力とした赤衛隊が市の中枢部を占拠し、冬宮へと進軍した。それは無血の蜂起であった。臨時政府は、無抵抗のうちに崩壊した。数名の大臣が逮捕され、首相のケレンスキーは国外に亡命した。

 

 

 

 

十月革命後、すぐ経済が行き詰まる。

十月革命に反対する勢力が兵を上げ、外国の軍隊もそれを支持した。

戦時共産主義体制になり、物資がすべて配給制になる。

このとき、穀物を農民から取り上げることに反対したクロンシュタットの乱が起きる。クロンシュタットの水兵たちはボリシェヴィキの熱心な支持者だったが、農民出身者が多かったのだ。

その後、新経済政策(ネップ)で資本主義が部分的に復活する。

生産性を上げないといけないので、とくに農民に土地が与えられ、農業生産に手を入れたのだ。市場と貨幣経済も復活した。

この政策にレーニン、トロツキー、ブハーリンの細かな見解の違いはあるが、社会主義建設のために方向はほぼ一致していたといえる。

産業発達の遅れている農業国・ロシアでどうやって社会主義を進めるかで、そう選択肢の幅はなかったとも思われる。

 

しかし、スターリンによってソ連史のなかでトロツキーの功績はほとんど消され、フルシチョフ報告の後も完全には修正されなかった。

 

 

2.レーニンのカウツキー批判

 

レーニン死後、スターリンを中心とした政敵潰しが始まる。

 

もともとレーニン自身の政敵への批判も強烈だった。

 

『帝国主義論』『国家と革命』でのカウツキー批判は度を越しているように思えるところもある。

当時、カウツキーは、先進国のドイツのマルクス主義に大きな影響を持っていた。

マルクスの死後、『資本論』の編纂をエンゲルスとともに行った一人がカウツキーだった。

カウツキーはマルクス、エンゲルスの後継者にも思われた。

 

レーニンはそのカウツキーに対して、帝国主義について批判した。

 

カウツキーの定義は不正確で、かつ非マルクス主義的である。それだけではない。
それは、マルクス主義の理論および実践といささかも相容れるところのない思想体系を支えているのである。このことについては後述する。カウツキーは、「資本主義の最新段階は帝国主義と称するべきか、それとも金融資本の段階と称するべきか」などと、用語論争を提起した。だがそれは、まったく取るに足らぬことである。好きなように呼べばよかろう。どちらでも同じことなのだから。事の本質は次の点にある。すなわち、カウツキーの手にかかると、帝国主義の政策は帝国主義の経済から切り離されてしまう。また、領土併合は金融資本の「好む」政策と解釈される。それはまた、同じように金融資本に支えられて出現するかもしれない(とカウツキーの主張する)別のブルジョア的政策と同列に論じられてしまうのである。こうなると、経済における独占は、政治における暴力的、強制的、侵略的な行動様式をともなうとは限らないということになる。また、領上面での世界分割は、帝国主義以外の政策と両立することになる(ところが世界分割は、ほかならぬ金融資本の時代に完了している。そうであればこそ、資本主義列強間の競争は、現在のような一種独特の様相を呈するのである)。最新段階の資本主義のはらむ根の深い矛盾がえぐり出されるどころか、逆に曖昧にされてしまい、マルクス主義に代わってブルジョア改良主義が出てくる。

 

 

 

ただ、カウツキーの帝国主義の特徴付けは独特だった。

 

 帝国主義は、一九一四年以前の社会主義者が直面した最も複雑な問題の一つだった。西ヨーロッパが戦争の脅威のもとで相次ぐ危機を経験するにつれて、帝国主義は一段と重要な問題となった。一九世紀末のボーア戦争や米西戦争から、一九〇四―一九〇五年の日露戦争を経て、一九〇五-一九〇六年と一九一一年のモロッコ危機にいたるまで、ヨーロッパの社会主義者など多くの人々は、帝国主義的対立から大きな戦争が不可避的に生じてくるという予感をますます深めつっあった。帝国主義の本質に関する国際社会主義の見解が一致していなかったのは、今日の歴史家と同じだった。しかし、一九〇二年にジョソ・A・ホブスンの独創的な著作『帝国主義』が出版されてからは、社会主義者は、帝国主義と資本主義とをしだいに同一視するようになった。この傾向がマルクス主義者にとって頂点に達しだのは、一九一七年のレーニン著『帝国主義。資本主義の最高段階』においてだったが、しかし、戦前のドイツの社会主義者たちにとっては、中心的著作はルードルフ・ヒルファディングの『金融資本論』(一九一〇年)だった。帝国主義の本質と機能とに関するカウッキーの見方は、こうした研究動向、特にヒルフアディングの研究から強い影響を受けた。しかしながら、カウッキーは、帝国主義と資本主義との同一視を受け入れなかった。彼は、帝国主義の経済的側面よりも、その政治的側面を強調する傾向のほうが強かった。

・・・

今や彼は、成熟した資本主義が必然的に帝国主義を内包し、帝国主義が必然的に軍国主義を内包するという命題を、ほぼ無条件で受け入れた。だが、同時に、戦争の脅威が増すにつれて、戦争に対する彼の反感と憎悪も増大していった。一九〇四年には彼は、戦争を近代社会の不幸な必然的産物とみなすことができた。しかし一九一〇年末から一九一一年初めに彼は、差し迫る戦争の重大な脅威に直面して、特に労働者のために戦争の災禍を回避する方法を模索するようになった。かつては彼は、資本主義を廃棄せずに軍備を制限しようとするブルジョア的平和主義者の試みを嘲笑していた。だが今や次のように主張するにいたった。「軍拡競争は経済的原因に基づいているが、経済的必然性に基づいているのではない。軍拡の停止は、けっして経済的に不可能ではない。」

 

 

レーニンは資本主義の末路として植民地を求めて戦争を起こすのが、帝国主義の段階だと考えた。

しかし、カウツキーは、資本主義の経済的側面より、政治的側面が強いと捉えた。

レーニンは産業資本より金融資本の集中が帝国主義を生むと捉え、資本主義の最高段階では戦争は不可避と考えた。

しかし、カウツキーは帝国主義国同士が壊滅を回避して、戦争を防げることもあると思ったのだ。

 

現在の世界を考えると、戦争は経済より政治的、軍事的な側面が強いことがわかる。

そういう意味ではカウツキーの見方も理解できる。

しかし、当時の世界の状況を見れば、経済大国による植民地分割支配が当然のように起こり、世界戦争を防ぐには、内乱から革命へというロシアの道は間違っていたとも言えない。

戦争か暴力革命、どちらも血が流れることだが、少なくとも帝政ロシアを倒せば、戦争が終わる。

レーニンとしては、どの国もできれば自国の戦争に反対して革命を目指すべきと考えていたのだ。

 

次は、カウツキーのドイツ社会民主党が、第一次大戦参加を支持したこと。

 

ドイツ社会民主党が戦争および革命に関する基本方針を覆したことは、ボリシェヴィキ、特にその指導者であるレーニンに大きな衝撃を与えた。同党の背信行為を知ったとき、レーニンはそれをドイツ参謀本部の偽情報だとしてまったく信じようとしなかったほどだという(トロツキー『わが生涯』岩波文庫上巻、四五八頁)。レーニンがドイツ社会民主党の理論面での指導者であるカウツキーを裏切り者として激しく攻撃するようになったのは、このときからである。

 

 

 

カウツキーは戦争を終結させるのは国民に厭戦気分が出たときであり、そもときにドイツの社会民主党が支持される政策を出すべきだと考えていた。

 

カウツキーは、プロレタリアートの党が戦争を阻止できるとは考えていなかったからである。彼は長いあいだ、戦争を政治の延長と考えてきた。もし社会主義者が、戦争をもたらすような政治に影響を及ぼすことができないとすれば、そしてもし党が平和時に理性を結集することができないとすれば、ひとたび起こった戦争を阻止することは非常に困難になる、とカウッキーは論じた。一九〇五年に彼は、大衆ストライキによって戦争を阻止することは不可能であるとして、この方法を拒否した。戦争勃発後に社会主義者が望みうる最高のことは、せいぜい組織労働者の一部エリートがそうしたストライキの呼びかけに応じることくらいであろう。「それゆえ軍事的ストライキの考えは、意図としては立派で、きわめて高貴で英雄的ではあるが、ひっきょう英雄的な愚行である」と彼は結論した。彼はまた、大ヨーロッパ戦争が革命をひき起こすであろうと確信しつつ、開戦時における社会主義者の政治的戦術を詳論した。すなわち、戦争は最初は大衆の支持を得るであろうが、最終的には、革命に必要な大衆の不満をひき起こすであろう。もし戦争が勃発したら、社会主義者は戦争反対という不人気な立場をとらなければならない。このことは戦争の第
一段階では、党にとって政治的損失となるかもしれない。しかし戦争が長引くにつれて、人々はしだいに社会主義者の側に移ってくる。結局戦争が資本主義社会を崩壊させるとき、社会主義者は大衆的支持を獲得して革命を指導できるようになるであろう。開戦時の不人気な原則的立場は、最終的には成功をもたらすであろう。このようにカウッキーは、国際主義運動の多くの左翼主義者たちと同様に、不可避的な革命を、開戦時にではなく終戦時と結びつけた。

 

 

 

それはロシア革命を進めているレーニンにとって裏切り行為であった。

そして、その矛先はトロツキーの永続革命論にも向いた。

 

レーニンの激烈なカウツキー批判は、ロシアーマルクス主義者の西ヨーロッパ革命待望論の裏返しである。当時ロシアのマルクス主義者は、ロシア一国で革命を成就するのは難しいとの見方でほぼ一致していた。それらの見方の中で最も極端だったのが、トロツキーの永久革命論である。トロツキーは、ロシア革命の成功にとって西ヨーロッパの革命は不可欠な条件であると見ていた。つまり、西ヨーロッパにおいて革命が成就しない限り、ロシアの革命は失敗必至、というわけである。レーニンはトロツキーの永久革命論とは一線を画しており、西ヨーロッパの革命を絶対視することはなかった。しかし、西ヨーロッパにおける革命を待望していたことは確かである。だからこそレーニンの目には、ドイツ社会民主党の「裏切り」は許しがたいものと映ったのである。レーニンは、『帝国主義論』を始めとする一連の著作において、カウツキー個人およびカウツキー主義に対する敵意と憎悪をあからさまに表明した。

 

 

 

3.大審問官・スターリンの政敵追放

 

 

(左からスターリン、ルイコフ、カーメネフ、ジノビエフ)

 

 

1922年、レーニンが持病の脳卒中で倒れた。

その後、回復したがまた倒れる。

当時、党の事務を統括する書記長の地位にあったのはスターリンだった。

一方、革命と赤軍の英雄であり、また急進的な共産主義を望むトロツキーは邪魔な存在だった。

そこで、レーニンの直参であり後継者とも目されていた政治局のジノヴィエフ、スターリンと親友であったカーメネフと組み、トロツキーの追い落としにかかったのだ。

 

一九二〇年代における党内闘争において、トロツキーは、永続革命論をめぐる無数の誹謗中傷に対して、国外追放されるまでは、ほとんどまったくと言っていいほど公然とは反論しようとしなかった。一九二四年の文献論争の際には「われわれの意見の相違」というかなり長文の反論文を執筆し、その中ではすでに、本書『永続革命論』で展開されている思想がより簡潔な形で展開されている(全文の翻訳は、『トロツキー研究』第四一号、二〇〇三年)。それにもかかわらず、結局それは公表されることはなかった。トロツキー自身の沈黙をいいことに、スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハ-リン、クーシネン、モロトフ、等々は、永続革命論に対するまったく無知蒙昧な批判を繰り返した。とくに悪質であったのはブハ-リンである。「スターリンの偽造学派より」でトロツキーが例証しているように、一九一七~一八年には永続革命論を公然と主張していたからである。

 

 

 

トロツキーが追放された後、ジノビィエフ、カーメネフも除名される。

あれほどトロツキーを批判していたのにトロツキー派とみなされたのだ。

スターリンにとって、除名、追放、粛清するのに理由なんてなんでもよかったのだ。

チェーカーからゲーペーウーとなった秘密警察によって、証拠が捏造され、まやかしの法廷で裁かれる。

 

亀山郁夫の『大審問官・スターリン』(岩波現代文庫)という本がある。
 

 


この本では、スターリンによる粛清について、史実とフィクションを交えて書かれている。

粛正された政敵もいれば、文学者も音楽家もいる。

表現の自由を奪われた文学者や芸術家は苦しみながら抵抗と従属の間で揺れる。

 

トロツキー追放後、スターリンに協力していたブハーリンの哀れな最期も描かれている。

 

 ブハ-リンが自白の調書にサインしてまもなく逮捕されたラーリナは、スターリンが約束を守り、夫の命は救われたと信じながら、幼子とともに収容所に向かった。ブハ-リンはその事実を知らず、すでにモスクワにはいない妻に宛て、自白の理由についてけっして誤解しないでほしいとの願いをこう書きつづった。
 「最大の、そして最重要な利益がそれを要求しているからだ、と信じてほしい、と。……お願いだ、私の愛する友よ。今は自分の気持ちを述べたてるときではない。だから私か深く、限りなくきみを愛していることを、行間から読みとってくれ」

 三月十二日夕刻から審議がはじまり、翌朝四時に再開された裁判では、ブハ-リンを含む十八人の被告に死刑の判決が下された。ブハ-リンは獄中からスターリンに手紙を書いた。

 「抗議するつもりはまったくない。私の罪は万死に値する」

 ブハ-リンがこのとき突き当たっていたのは、自分自身の行為と生の意味である。あるいは別の言葉で原罪と呼び変えてもよい。だれに対する罪か。それこそは社会主義という神であり、スターリンという神の代理人に対する罪である。あるいはすべての人間のもつ罪に対して自分には死刑こそが正当であると彼は認めたのである。それは命乞いだったのだろうか。そうかもしれない。しかし、彼はすでに死を受け入れようとしてい
た。「奇跡」を信じてはいなかった。