かつて日本に「ザ・スターリン」というパンク・バンドがあったらしい。

 

Wikipediaによると、ボーカルの遠藤ミチロウを中心に1979年に結成された。

1980年9月5日にインディーズレーベルからリリースしたシングルは「電動こけし/肉」。

ちょっと危ない。
バンド名の由来はソ連の最高指導者、ヨシフ・スターリンからとっており、ボーカルの遠藤曰く「世界で最も嫌われている男の名前をつけたらすぐに覚えてもらえる」、「外国(東ヨーロッパ)に行くつもりだった」という理由とか。

 

1980年代でも世界で嫌われる名前としてスターリンは知られていたということだ。


1.ウエーバーのトロツキー批判

さて、前回に触れたマックス・ウェーバーが1918年6月にウィーンで行った講演のなかでトロツキーが出てくるところがある。

 

 

 ボリシェヴィキ政権は企業家を経営の最上層部に置き-ひとりかれらだけが専門知識をもっているからです-、かれらに莫大な補助金を支払っています。
 さらにこの政権は、旧体制以来の将校にふたたび将校給を支給するにいたりました。といいますのは、この政権は軍隊を必要とし、また、訓練を積んだ将校なしにはどうにもならない
ことを理解したからです。これらの将校が、他日部下をふたたび手中に収める場合に、かれらがこの知識分子による指導を引きつづき甘受するかどうかは、わたくしには疑問に思われます。もちろん現在では、かれらはそうせざるをえません。しかも、ついにボリシェヴィキ政権は、パン配給券の撤回によって、官僚制の一部に自分たちのために慟くよう強制したのであります。しかしながら、結局のところ、こんなやり方では国家機構や経済を管理できないのでありまして、今までのところでは、実験は非常に有望であるとはいえません。

 ただ驚嘆に値するのは、とにかくこの組織がこんなに長く機能しているという点です。それが可能なのは、ほかでもありません。この組織が、将軍ではないにしても、下士官の軍事的独裁だからであります。また、戦争に疲れた復員軍人が、土地に餓え、農業共産制に慣れた農民と提携し-あるいは、兵士が武力で村落を強奪し、そこで軍税を徴収し、かれらに干渉する者はだれであろうと射殺したからであります。それは、これまでになされた「プロレタリアートの独裁」の唯一の偉大な実験なのです。
 そして、ブレスト=リトフスクの講和が、われわれはこれらの人びとと真の和平を達成するのだという希望において、ドイツがわからきわめて誡実に行なわれたことは、率直に請け合うことができます。それは、いろいろな理由から行なわれました。ブルジョア社会の基礎のうえに利害関係者として立脚する人びとは、まあまあこの人びとに実験をやらせてみましょう、おそらく失敗するでしょう、そうなればいいみせしめですという意見だったので、それに賛成したのであります。われわれほかの者は、もしもこの実験が成功し、はたしてこの土壌のうえに文化が可能であることが判明するとしたならば、そうなれば-改宗してもよいという意見だったからこそ、賛成したのであります。

 それを妨げた人物は。トロツキー氏その人でした。かれは、この実験を自国内で行なうだけで満足しようとせず、また、もしもそれに成功すれば、それは世界中で社会主義に対する無類の宣伝を意味するのだという点に希望をおくことをもって満足しようとせず、いかにもロシア的な学者的虚栄心から。もっと多くを望み、演説戦やたとえば「平和」や「自治」といったことばを誤用することによって、ドイツに内乱を引き起こそうと希望したのであります。
 ところが、その際かれは、事情に通じていなかったために、ドイツ軍がすくなくとも三分の二まで農村から補充され、残りの六分の一は小市民から補充されており、労働者とかその他このような革命を企てようとする者に一撃を加えることが、かれらの真の楽しみであるかもしれないということを知らなかったのであります。
 信念にこりかたまった者と和を結ぶことはできません。講和は骨抜きにされるだけです。それが、最後通牒および無理なブレスト=リトフスクの講和のもつ意味でありました。すべての社会主義者はそれをぞ耻かねばなりません。そしてわたくしは、どんな立場の人であれ、それを-すくなくとも内面的に-洞察しないような人を知らないのであります。―

 

赤字はパトラとソクラによる

 

マックス・ウェーバー『社会主義』p.80~82

 

 

(マックス・ウェーバー)

 

ウェーバーはドイツとロシアの講和を賛成していた。

しかし、革命ロシアはそれを望まなかった。

ロシアで起きた革命を、ドイツにも内乱から革命へと画策した。それがトロツキーだったと言うのだ。

 

ここで、ブレスト=リトフスク講和条約とはどういうものだったのかおさらいをしておこう。

 

時は第一次世界大戦。

戦争の長期化で食糧不足に苦しむドイツと、1917年11月の十月革命でようやく革命政権を樹立したばかりのソヴィエト=ロシアは、それぞれに戦争継続が困難な事情があった。

両国は1917年11月に停戦交渉に入った。12月15日にはバルト海から黒海にいたる線で停戦協定が成立し、戦闘は中断された。そのうえで、翌月、ブレスト=リトフスクで、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・ブルガリア・オスマン帝国の同盟側四国代表と、ソヴィエト=ロシアとの本格的な講和条約交渉が始まった。

 

ソヴィエト=ロシア代表は最初はヨッフェが務めていたが、後に外務人民委員(外務大臣に相当)のトロツキーに交代したのだった。

ソヴィエトは無償金・無併合を講和の前提としたが、ドイツ側は有利な戦況を生かして賠償金獲得・占領地の併合をねらい、対立、交渉は難航した。

そのとき、ドイツ軍が占領している、ポーランド、フィンランド、ウクライナ、バルト地域などの民族自決に対する措置も両国で争点となった。ドイツは講和の条件としてこれらの広大な地域のロシアからの分離を要求していた。


ソヴィエト側には大戦でツァーリによって動員されたロシア軍が戦意を喪失し、自発的に戦線を離脱し始めていた。

ソヴィエト政権を支える革命軍=赤軍は新国家の建設が始まったばかりで決定的に戦力的な不利を抱えていた。ソヴィエト政権の内部では戦力の決定的不足を認識したレーニンは、ドイツ側の過剰な条件に対しても受け入れざるを得ず、即時講和しかないと考えていた。

しかし、ブハーリンらは帝国主義と妥協はすべきでなく革命戦争を続行せよと主張した。また当時はソヴィエト政権に加わっていた社会革命党(エスエル)左派も戦争の継続を主張した。しかし、各地の兵士・農民の声は、一刻も早く戦争を終わらせて家に帰りたいというのが本音であることをレーニンは感じ取っていた。
 

交渉当事者のトロツキーは、ブレスト=リトフスクに向かう途中の前線で、ソヴィエト側の塹壕に兵士がいないという現実を見て、戦争継続は不可能と思っていた。しかし、トロツキーはドイツ国内でのリープクネヒトなど社会民主党左派の革命運動に期待し、ドイツで内乱が起きればドイツ軍はすぐには行動できないはずだとみて、「戦争を中止し軍隊を復員させるが、講和には調印しない」という判断をした。

その意味は休戦状態を長びかせ、講和には応じず、時間稼ぎをしてドイツの出方を待つ、ということだった。

 

そうするうちに、アメリカ大統領ウィルソンは、十四カ条の原則を発表した。

ソヴィエト政権が対ドイツ単独講和で離脱すると、東部戦線がなくなることでドイツの戦力が全面的に西部戦線に向けられる。このウイルソンの発表はそれを危惧し、協商側の戦争目的を明らかにする意図があった。協商国側はソヴィエト=ロシアの単独講和をなんとか阻止しようとしのただった。

 

しかし、レーニンはトロツキーの時間稼ぎ説を退け、即時単独講和によって平和を実現することしか、生まれたばかりのソヴィエト政権を救う道はない、という方針に立った。

まもなく、ドイツ軍は動かないだろうというトロツキーの見通しが誤りだったことが明らかになった。

トロツキーは自分の判断の間違いを認め、レーニンに対して外務人民委員の辞任を申し出た。

そして、ブレスト=リトフスク講和条約は締結された。

 

 トロツキーが講和を欲しなかったことは確実なところであり、衆目の認めるところであります。わたくしの知っている社会主義者で、それに異論を唱える者はこんにちひとりもいません。しかし、同じことは、各国の急進的指導者についてもあてはまります。選択を迫られれば、かれらもまた、なによりもまず講和を欲するのではない、もしも戦争が革命、すなわち内乱に役立つのであれば、戦争を欲するでありましよう。
 たとえこの革命が、かれら自身の見解にしたがえば-くり返して申しますが-社会主義社会を招来せずに、せいぜいのところ-それが唯一の希望であります-将来いつかは到来する社会主義社会に、こんにちの社会よりもいくらか近い-どれほど近いかは予断を許しませんが-ところに立つような、ブルジョア社会の社会主義的観点からみて「より高い発展形態」をもたらすといたしましても、革命のために戦争を選ぶのであります。もちろん、この希望こそは、これまであげた理由でずいぶん疑わしいのです。-

 

マックス・ウェーバー『社会主義』p.87~88

 

ウェーバーはドイツ側の立場に立って、トロツキーへの評価は厳しい。

しかし、それはトロツキーにとっても永続革命の難しさを知る機会となったのだろう。

 

 官僚は過去と断絶したばかりでなく、過去の重要な教訓を理解する力も失った。中でも重要なのは、ソヴェト権力は世界のとりわけヨーロで(のプロレタリアートの直接の支援なしには、また植民地諸民族の革命運動なしには十二ヵ月ももちこたえられなかっただろうという教訓である。オーストリア=ドイツの軍部がソヴェト=ロシアにたいする攻撃を最後までやりぬかなかったのは、すでに背後に革命の熱い息吹を感じていたからにほかならない。九ヵ月ほどあとにはドイツとオーストリア=ハンガリーの反乱によってブレスト=リトフスクの講和条約に終止符が打たれた。一九一九年四月、第三共和国の政府は黒海でおこったフランス水兵の反乱のためにソ連南部での軍事作戦の展開を放棄せざるをえなかった。一九一九年九月、イギリス政府は自国の労働者の直接の圧力をうけてソ連北部から派遣軍隊を引きあげた。一九二〇年、赤軍かワルシャワ郊外から撤退したあと、協商国がソヴィエ卜権力を粉砕するために。ポーランド救援に向かうのを妨げたのは強烈な革命的抗議の波にほかならなかった。一九二三年にモスクワに脅迫的な最後通牒をつきっけたカーソン卿は決定的な瞬間にイギリスの労働者組織の抵抗によって手をしばられた。こうした輝かしいエピソードは例外的なものではない。それらはソヴェト権力が存在した最初のもっとも困難な時期にみごとな精彩をあたえている。革命はロシア以外ではどこでも勝利しなかったといえ、しかし革命への期待は決して空しいものではなかったのである。
 ソヴェト政府は当時早くもブルジョア政府と一連の条約を結んだ。一九一八年三月のブレスト=リトフスク講和、一九二〇年二月のエストニアとの条約、一九二〇年一〇月のポ-ランドとのリガ講和、一九二二年四月のドイツとのラで(口条約、その他のあまり重要でない外交協定。しかしソヴェト政府全体としても、政府の個々の閣僚個人としても、交渉相手のブルジョア国家を「平和の友」として見るなど思いもよらなかったはずである。ましてドイツやポーランドやエストニアの共産党にたいして、そうした条約を結んだブルジョア政府を投票で支持するようにもとめるなどはなおさらである。しかしこの問題こそ大衆の革命的蜂起にとって決定的な意義をもつのである。極限まで疲弊しきったストライキ労働者が資本家側のいかなる苛酷な条件ものまざるをえないように、ソ連もブレスト=リトフスク講和に調印せざるをえなかった。

しかし、ドイツ社会民主党が「棄権」という偽善的な形態でこの講和を支持したことにたいして、ボリシェヴィキは強姦と強姦犯を支持するものと糾弾した。四年後、双方の形式上の「対等」という原則にのっとって民主主義ドイツとラッパロ協定が結ばれたが、しかしもしドイツの共産党がこの問題について自国の外交に信任を表明したとしたら、ただちにコミンテルンから除名されたことであったろう。ソ連の国際政策の基本方針は、ソヴェト国家と帝国主義者との貿易上、外交上あるいは軍事上のあれこれの取引それ自体は不可避であるとしても、いかなるばあいにもこの取引が当該資本主義国のプロレタリアートのたたかいを制限したり、弱めたりしてはならないとするものであった。なぜなら、労働者国家そのものの救いは究極的には世界革命の発展によってのみ保障されるからである。チチェーリソがジェノア会議の準備中に、アメリカの「世論」の意を迎えようとしてソヴェト憲法に「民主主義的」な変更を加えるよう提案したとき、レーニンは一九二二年一月二三日付の公式書簡でチチェーリンをただちにサナトリウムに送るように強く勧告した。当時もしだれか、たとえば無意味で欺瞞的なケロッグ条約に加わるとか、コミンテルンの政策をおだやかなものにするとかによって「民主主義的」な帝国主義の歓心を買うことをあえて提案する者がいたとすれば、レーニンは疑いなく、革新的な提案者を精神病院に入れるように提案したであろうし、それにたいしてよもや政治局の中で反対は出なかったであろう。

 

トロツキー『裏切られた革命』p.238~240

 

 

 

トロツキーは、ドイツ社会民主党が「棄権」という偽善的な形態でこの講和を支持したことにたいして、ボリシェヴィキは強姦と強姦犯を支持するものと糾弾した。

革命ロシアにとっては、相手国との講和を真に望んでいるのではなく、その国で内乱から革命が起きることを期待している方が強かったのである。

 

 

2.トロツキーとスターリンの路線対立

 

スターリンの一国社会主義路線とトロツキーの永続革命路線は、レーニンの死後、路線対立となって現れる。

 

 一九二四年一二月に彼(スターリン)が書いた論文では、彼は、自分がレーニン(つまり自分)の路線とみなすものと、トロツキーの路線とみなすものを次のように対置していた。
 「レーニンによれば、革命は、何よりもまず、ロシアそのものの労働者・農民の間から力を汲みとる。ところかトロツキーにあっては、ただ『プロレタリアートの世界革命の舞台において』しか、必要な力を汲みとることかできない。(中略)だが、もし国際的革命が遅れてやって来るというようなことになったら、どうなるか。我々の革命には何らかの光明かあるか。トロツキーは何の光明も与えていない。(中略)この見取り図によれば、我々の革命に残されているのは、自分自身の矛盾のうちで何もせずに暮らしていて、世界革命を待ちながら立ち腐れになるという、ただ一つの見通しだけである」。これに対してレーニンか示した法則は、次のことから出発している。二国における社会主義の勝利は-たとえその国が資本主義的にあまり発展していない国であり、他の諸国には資本主義が維持されていて、しかも、これらの国が資本主義的にもっとよく発展している国である場合でさえも-まったく可能であり、また予想される」。
 結局、スターリンとブハーリンは、ヨーロッパに社会主義革命が起こらなくても、ロシアで労働者か権力を保持し続ける限り(より正確には、労働者を代表すると称する共産党か権力を保持し続ける限り)、ロシアは社会主義社会を完全に実現できると主張した。彼らによれば、干渉戦争が二度と起こらないようにするには、確かにヨーロッパのいくつかの国で革命か起こる必要があった。したがって、一国社会主義論を唱えても、それでヨーロッパの革命支援を止めることを意味しなかった。このような留保をつけても、彼らの議論には、ソ連国内の社会変革を優先する姿勢が明瞭に表れていた。これに対してトロツキーは、ロシア革命の国際面、つまりその反帝国主義的性格を強調した。しかし彼がどのように論じようと、ヨーロッパに社会主義革命が起こる兆候はなかった。また急速な工業化を実現するための資本も簡単に得られそうもなかった。
 スターリンの一国社会主義論は、確かに権力闘争の一環として出てきたものであったか、けっしてそれだけではなかった。先に見たように、スターリンはヨーロッパの革命にロシアの革命の命運を結びつける議論に早い時期から納得していなかったのである。この理論は、そうした長年にわたる彼の疑問に発するものであり、その意味で彼の基本的認識を反映したものであった。こうした独自の世界観を一国社会主義論として体系づけることによって、スターリンはレーニン後の指導者の第一番手として名乗り出たのである。

 

『スターリン』p.155~156

 

 

 

この頃、ブハーリンはスターリン側に付くようになっていた。

しかし、その後、農業政策について、ブハーリンはスターリンと対立するようになる。

 

ブハーリンの説いてきたゆっくりとした工業化政策は、一九二七年末までにその拠りどころとしてきた平和的環境という大前提を失いつっあったのである。
 この状態で、スターリンはなし崩し的にそれまでの経済政策を変更していった。その第一歩が、一九二八年一月から始まった穀物調達の強行である。まず六日に、スターリンは地方党組織に対して穀物調達を強化するよう指示を出し、その後、各地に幹部党員を全権代表として派遣した。一四日にこうした全権代表に向けて発せられた電報は、「我々の穀物調達の失敗の三分の二は、指導部の手落ちに責任を帰せねばならないことが証明されている」とし、「今や、穀物買い付け人とクラークに打撃を与え、投機者、クラーク、その他、市場と価格政策を混乱させる者を逮捕しなければならない。そうした政策をとることによってのみ、中農は(中略)投機者とクラークがソ連国家の敵であり、彼らの運命と自分のそれを結びつげることが危険であること(中略)を理解するのだ」と説明していた。
 同時にスターリンは、病気のオルジョニキッゼに代わってシベリアに赴き、同地で自ら穀物調達を指揮した。春の雪解けによるひどいぬかるみを考えると、その前に何とか調達目標を確保しなければならないと考えたのである。このとき彼の脳裏に、一九一八年夏にツァリ-ツィンに派遣されたときの記憶か蘇っていたものと思われる。あのときと同じように、彼は何としてでも穀物を確保する以外にないと心に決めていたはずである。
 二〇日に開かれた共産党シベリア地方委員会ビューローの秘密会議での演説は、そうした彼の決意を示していた。ここでスターリンは、ロシアは今や最も小農の多い国になっており、中農はドイツに比べてずっと弱く、現実に農村を支配しているのは「クラーク」だと決めつけた。こうした一連の発言を通じて、「クラーク」から暴力的に穀物を取り立てる「非常措置」の発動を正当化したのである。「クラーク」という用語は、すでに述べたごとく、レーエンの時代からその経済的社会的地位を示す基準としては不明瞭な概念であった。 当然ながら、ブハ-リンはスターリンの動きに強く反発した。指導部内にも彼を支持する者がいた。このために、調達政策はその後もジグザグを続けた。しかし同年末までに、「非常措置」を行ってでも穀物調達を優先する以外にないとするスターリンの新路線か党内多数派に受け入れられていった。ここに、新しい農民政策が始まったのである。

 

『スターリン』p.160~162

 

ブハーリンはスローな工業化を主張していたし、農業の集団化も徐々に行うのがよいと思っていた。

しかし、スターリンは急激な工業化や農業の集団化を推進した。

 

(二段目右から2人目がブハーリン、4人目がスターリン)

 

 「(資本主義国では、工業化のための資本を『他国の略奪』とか、外国からの『借金奴隷的な借款』とかによって調達してきた。しかしソ連には、こうした方法はありえない)。そうとすれば、いったい何か残っているだろうか。残っているのはただ一つ、国内の蓄積によって工業を発展させ、国を工業化することである。(中略)
 ところで、この蓄積の主要な源泉はどこにあるか。これらの源泉は(中略)二つある。すなわち第一には、価値を創り出して工業を前進させている労働者階級であり、第二に農民である。わか国の農民の状態は、現在のところ次のようになっている。すなわち彼らは、国家に対して普通の税金たる直接税および間接税を納めているだけでなく、さらに第一には、工業製品に対して比較的高い価格で余分に支払っており、第二には、農業生産物に対して多かれ少なかれ価格を十分に受けとっていない。(中略)
 これは『貢租』とでも言うもの、超課税とでも言うものであって、我々か一時これを徴収することを余儀なくされているのは、工業の発展テンポを維持し、さらに発展させて、国全体のために工業を確保し、農民の福祉をいっそう向上させ、(中略)『はさみ状の価格差』〔工業製品と農産物の間の価格差―引用者〕をすっかりなくすためである。この事情は、何と言っても不愉快である。だか、(中略)わが国がさしあたっては農民に対するこの追加的な税金なしにはやっていけないということに目を閉じるならば、我々はボリシェヴィキではないであろう」
 ここにある「貢租」とは、他でもなく帝政期の農奴か義務として負わされたものである。したがって、ここでスターリンは、ネベフの時期もある程度は農民を犠牲にして工業化を進めてきたのであるが、今後もこの「農奴」依存的政策を(より強化して)堅持せざるをえない、と述べているのである。ここに含意されているのは、農民を犠牲にすることを覚悟した、急進的工業化政策とでも呼ぶべきもので、明らかに、かつてトロツキーが示唆した政策に類似していた。さらに言えば、スターリンか唱えているのは、農民を「農奴」として扱うことをあからさまに認める政策であり、トロツキーの提案よりも、姿勢として革命政権に相応しくなかった。しかし、今やトロツキーは共産党から除名され、遠いカザフスタンのアルマーアタヘ追放されており、もはやこのような変身を追及できる状況になかった。

 

『スターリン』p.166~167

 

3.スターリニズムとトロツキズム

 

スターリンは路線をめぐって、ソ連随一の理論家であったブハーリンとも対立したが、トロツキー追放後はスターリンに対抗できるのはブハーリンくらいであったのだ。

そのブハーリンをもスターリンは排除する。

 

追放後もトロツキーは、共産党とコミンテルンをあるべき姿に戻すために独自の組織を作ることは避けてきていた。

しかし、1937年には亡命地で発行していた『反対派ブレティン』でこう書いている。

 

 マルクス主義者は、国家の廃絶という究極目標に関してはアナーキストに完全に同意する。マルクス主義が「国家的」であるのは、国家の廃絶が単に国家を無視することによっては達成できないかぎりにおいてでしかない。スターリニズムの経験は、マルクス主義の教義を反駁するどころか、それを逆方向から裏づけるものである。革命的教義はプロレタリアートに対し、正しく状況判断しそれを積極的に利用するよう教えるが、しかし、もちろんのこと、自己のうちに勝利の自動的保証を何ら備えてはいない。しかし、その代わり、勝利はこの教義によってのみ可能になるのである。さらに言えば、この勝利というものを一回かぎりの行為として考えてはならない。問題を大きな一時代の展望の中で取り上げなければならない。最初の労働者国家―貧困な経済的土台にもとづき帝国主義の鉄柵の中にある労働者国家―は。スターリニズムの憲兵隊のごとき存在に堕した。しかし、真のボリシェヴィズムは、この憲兵隊に対して生死をかけた闘争を開始した。現在、スターリニズムは自己を維持するために、「トロツキズム」と呼ばれているボリシェヴィズムに対する直接の内戦を、ソ連のみならずスペインにおいても遂行することを余儀なくされている。かつてのボリシェヴィキ党は死んだが、ボリシェヴィズムはいたるところでその頭をもたげている。

 

『ロシア革命とは何か』p.289~290

 

 

 

スターリニズムはボリシェビズムから必然的に生み出されたものではない。

 

レーニンに拠れば、闘争の帰趨を決する「膨大な大衆」は、国内における欠乏と、世界革命をあまりにも長く待ちすぎたせいで、惓み疲れていた。大衆は意気消沈していた。官僚が支配権を獲得した。官僚はプロレタリア前衛を押さえつけ、マルクス主義を踏みにじり、ボリシェヴイキ党を乗っ取った。スターリニズムが勝利した。左翼反対派のうちに体現されたボリシェヴィズムは、ソヴィエト官僚とコミンテルン官僚から決裂した。以上が発展の現実の歩みである。

 

『ロシア革命とは何か』p.285

 

つまり、トロツキーがブレスト=リトフスク講和でも期待していたドイツでの革命は起きなかったし、ヨーロッパのどこにも革命は起きなかった。

それにソ連の大衆は意気消沈していた。革命後、またたくまに官僚とスターリンが権力を握った。

ロシア革命を勝利に導いたレーニンとトロツキーのボリシェビズムは、ソヴィエトとコミンテルン官僚によって決裂した。

 

スターリニズムとトロツキズムはその産物といえる。