トロツキーは1929年にロシアを追放されてから、亡命中にいくつかの著作を書いている。

そのなかで今もなおその思索が現代を抉っているのが『裏切られた革命』だろう。

 

 

 

1.プロレタリア革命と国家の消滅

 

マルクスは階級が消滅すると国家も消滅すると書いているが、革命から国家消滅までの過程については書いていない。

そんなことマルクスにも詳しくはわからなかったのだろう。

 

最初にプロレタリア国家を作ったレーニンが国家の死滅させる方法について述べていることにトロツキーは触れている。

 

 レーニンはマルクスとエングルスにしたがって、プロレタリア革命の第一の標識は搾取者を収奪することによって、社会の上にそびえ立つ官僚機構、なかんずく警察と常備軍の必要性をなくすことにあると考えていた。レーニンは一九一七年、権力獲得の一、二ヵ月まえにこう書いている-「プロレタリアートには国家が必要である-あらゆる日和見主義者がそうくりかえす。しかし、かれら日和見主義者は、プロレタリアートに必要なのは死滅しつつある国家、すなわちただちに死滅しはじめ、かつ死滅せざるをえないように構築された国家だけであるとつけ加えるのを忘れている」(『国家と革命』)。この批判は当時はロシアのメニシェヴィキやイギリスのフェビアン主義者などのタイプの社会主義的改良主義者にむけられたものであった。今日それは、「死滅」しようという意図をいささかももたない官僚国家を崇拝するソ連の偶像崇拝者たちにたいしていちだんと強い打撃を加える。

 官僚というものにたいする社会的需要は、「軽減」、「調停」、「調整」(つねに特権者や有産者の利益になるような、かつまた官僚そのものにとって得になるような)を必要とするような鋭い対立が実在するすべての状況において発生する。したがって、民主主義的な革命であろうと、あらゆるブルジョア革命を通じて官僚機構の強化と改良がすすめられる。レーニンはこう記している-「官吏と常備軍-それはブルジョア社会の体にやどる寄生虫、この社会をひきさく内的諸矛盾によって生みだされた寄生虫、しかしまさに生命の気孔をふさいでいる寄生虫である」。

 

『裏切られた革命』p.72~73

 

 

 

マルクスは階級ができたことによって国家ができたと考えた。

とくに資本主義という社会は生産手段の私的所有によって階級ができている。

だから、プロレタリア階級による革命でブルジョア階級をなくせば国家もなくなると考えた。

 

しかし、誰も行ったことのなかったプロレタリア革命によって実際に出来た国家は、死滅しつつあるどころかよけいに強化され、「官僚国家」として崇拝の対象となりつつあったのだ。

 

 一九一七年以降、すなわち権力の獲得が実践的な問題として党のまえに提起された時点から、レーニンはたえず「寄生虫」の一掃という考えにとらわれていた。かれは『国家と革命』のあらゆる章でこうくりかえし、説く-プロレタリアートは搾取階級を打倒したあとで古い官僚機構を粉砕するであろう、そしてみずからの機構は労働者と事務職員をもってつくりあげるであろう。そのさいかれらが官僚に転化するのを防ぐために、「マルクスとエングルスによって詳細に吟味されたつぎのような諸方策をとるであろう- (1)選挙制のみならず任意の時期の更迭制、(2)労働者の賃金を超えない賃金、(3)全員が統制と監督の機能をにない、全員が一時〝官僚〟になり、それゆえなんぴとも官僚になりえないという事態への即座の移行」。レーニンが何十年にもわたる任務を問題にしているなどと考えてはならない。否、これは、「プロレタリア革命の成就にさいしてそこから開始することができ、また開始しなければならない」ところの第一歩なのである。


 プロレタリア独裁の国家についてのこれと同じ大胆な見解が権力獲得の一年半後に、軍隊の部門も含めてボリシェヴィキ党の綱領に最終的にもりこまれた。強力な国家-ただしマンダリンぬきの。武力-ただしサムライぬきの! 文・武の官僚をつくりだすのは国防という課題ではない、国防の組織にももちこまれる社会の階級的構成である。軍隊は社会的諸関係の引き写しにすぎない。外部からの危険とたたかうためには労働者国家においても、もちろん専門化された軍事技術組織が前提となる。しかしそれはいかなるばあいにも特権的な将校階級ではない。綱領は常備軍を武装した人民でもっておきかえることをもとめている。
 このように、プロレタリア独裁の体制はそのそもそもの誕生から、古い意味での「国家」、すなわち国民の大多数を服従状態にしておくための特殊な機構であることをやめる。物質的な権力は武器もろとも、そのまま直接ソヴェトのような勤労者組織の手に移る。官僚機構としての国家はプロレタリア独裁の初日から死滅しはじめる。これが綱領の精神であり、この綱領はいまなお廃棄されていない。ふしぎなことに、その響きは霊廟の中のあの世の声のようだ。


 実際に、今日のソヴェト国家の本質をいかに解釈しようとも、つぎの一事のみは争う余地がない。それは、ソヴェト国家はその存在の二〇年の終わりまでに死滅しなかったばかりか、「死滅」しはじめもしなかったということである。もっとまずいことに、それは史上かつてなかったような強制の機構へと肥大化した。官僚は大衆に席をゆずって消滅するどころか、大衆の上に君臨する無統制の権力へと転化した。軍隊は武装した人民によっておきかえられるどころか、元帥を頂点とする特権的な将校階級をその中から生みだした。一方、「武装した独裁のにない手」たる人民は今日のソ連で刀剣類の武器を携行することさえ禁じられている。マルクス=エングルス=レーニンによる労働者国家の構想と、今日スターリンが率いているような現存の国家とのあいだに存在するちがいよりも大きなちがいを思いうかべることは、いかに想像をたくましくしても困難であろう。ソヴェト連邦の今日の指導者だちとそのイデオロギー的代表者たちはレーニンの著作を重版し(なるほど、検閲による削除や歪曲をともなったものではあるが)続けているが、綱領と現実とのあいだにあるかくも許しがたい不一致の原因については問題を提起しようとさえしない。

 

『裏切られた革命』p.73~74

 

マルクスやエンゲルスは現状の資本主義システムが孕む問題を分析し、粗い設計図を描いたに過ぎない。

それを本当にやろうとしたのは、レーニンであり、トロツキーだった。

 

その結果、国家は死滅しなかったばかりか、死滅の兆しすらなかった。

いや、逆に、史上かつてなかったような抑圧の機構へと肥大化した。

官僚は大衆に席をゆずって消滅するどころか、大衆の上に君臨する無統制の権力へと転化した。

軍隊は武装した人民によっておきかえられるどころか、元帥を頂点とする特権的な将校階級をその中から生みだした。

 

ブルジョア社会の寄生虫、官吏と常備軍とレーニンが呼んだものが、新たな形に生まれ変わったのだ。

 

 

2.社会主義国家のノメンクラツゥーラと官僚化

 

革命後の国家組織をどうするか?
ブルジョア階級を追い出した後、誰が生産を管理するのか?
生産手段を労働者階級が奪ったとしても、労働する人々と管理する人々の分離が解消できるわけではない。

このことを10月革命後の1918年に予言していた人がいる。
マックス・ウェーバーだ。

(マックス・ウェーバー)

マックス・ウェーバーが1918年6月にウィーンでオーストリア将校団に行った講演がある。
その講演のなかでウェーバーはこう言っている。

 

 封建時代の官僚、したがって行政権や裁判権を授与されていた従臣は、騎士とまったく同様の状態であったのであります。かれは、行政や裁判の費用を自分でもち、その代償として手数料を取得したのでした。こうして、かれは行政運営手段を所有していたのです。君主が、それを自己の家政のなかに取り込み、有給官僚を任用し、こうして、経営手段からの官僚の「分離」が行なわれることによって、近代国家が成立するのであります。

 このように、どこでも事情は同じなのです。つまり、工場・国家行政、軍隊および大学の研究所の内部では、官僚制的に編成された人的機構を介して、この人的機構を統御する者の手中に、経営手段が集中されております。それは一部は純技術的に、機械・大砲などの近代的経営手段の特質に制約されていますが、一部はたんてきにいって、この種の人間協力のもつ比較的大きな能率、つまり、軍隊・官庁・工場および経営の「規律」の発達に制約されているのであります。
 いずれにしましても、このような経営手段からの労働者の分離をもって、経済、そればかりか私経済だけに固有な現象であるとするならば、それは由々しい誤謬であります。あの機構の首長のすげかえがなされたとしましても、私的工場主のかわりに、国家の大統領や大臣がそれを管理する場合でありましても、根本の事態にはまったく変わりがないのであります。いずれの場合にも、経営手段からの「分離」は存続いたします。鉱山、熔鉱炉、鉄道。工場および機械が存在する限り、中世において手工業の経営手段が個々のギルド親方とか、地域的な仕事仲間とかギルドの財産であったのと同じ意味あいで、それらはある個々の労働者または多数の個々の労働者の財産ではけっしてないでありましょう。現代技術の性質上、それは不可能なことであります。

マックス・ウェーバー『社会主義』p.40~41

 

 

 

ロシア革命後、マルクス、いやレーニンも予想しえなかったことが起きた。

 

 第一の予期せぬ出来事は、共産党組織の拡大に伴って組織が階層化したことである。共産党(ボリシェヴィキ党)は一九一七年三月の革命の時点では、党員数が四万五〇〇〇人以下の小さな組織であった。しかし、権力掌握後は急激に増大し、党員数は一九一九年三月に三一万三七六六人に、そして一九二一年三月に七三万二五二一人まで膨張した。
 このように党員数が増えれば、当然ながら組織の運営のために、党組織間の関係を明確にし、管理のための仕組みを整備しなげればならなかった。こうして一九一九年に、政策を審議・決定するための政治局と、組織管理のための組織局、そしてこの二つの最高機関の活動を支える書記局が設置された。スターリンが書記長に任命された一九二二年四月の時点で言えば、スターリンはすでに政治局員であって同時に組織局員であったので、これで党組織の頂点にある機関のすべてに席を占めるようになった(ちなみにこのときトロツキーは政治局員であったが、組織局員ではなかった。カーメネフもジノヴィエフも同様である。政治局員は、彼らの他にレーユンを含め三人いた)。
 ジノヴィエフたちもこうした事態を放置できないと理解し、一九二三年初めにはスターリンの影響力を弱める方法を模索し始めた。しかし、ここからは組織局にジノヴィエフとトロツキーとブハ-リンを加えて拡充を図り、対抗させるという程度の対応策しか出てこなかった。またトロツキーも一〇月に中央委員会に手紙を書いて、スターリンの行動が行き過ぎていると訴えた。だが、彼の手紙も、何も抜本的措置を生み出さなかった。トロツキー自身、まだ党組織の問題をさして深く考えていなかったのである。
 共産党の階層化は、一九二二年五月にレーニンか最初の発作で倒れたことによっても促進された。状況に対応するため、非公式ながら、ジノヴィエフ、カーメネフとスターリンの三人組が当面の問題を処理するようになった。トロツキーは三人組の協議の後に開かれる政治局会議において、彼らが出した結論について意見を求められるようになった。このような仕組みができたのは、ジノヴィエフの差し金だったと言われる。明らかに、四人の中でとりわけ自己主張が強く、才気に富むトロツキーが、他の古参の三人によって警戒され、仲間外れの状態に追い込まれたのである。

しかし、実際に起きたのは、革命後の共産党員の増加、ソビエトと共産党の一体化だった。

 

『スターリン』p.138~139

 


 

1917年の革命後、共産党は急激に大きくなった。

1919年には約7倍、1921年には約16倍にもなっていたのだ。

階層化して、専門化する必要がある。

つまり、官僚組織をつくらなければならなかったのだ。

 


第二の変化か国家機関にも起こった。第二の変化とは、他でもなく国家機関か変質して、共産党組織に依存する形で再編されたことである。この時期にソヴィエトーロシアの国民か政治権力としてイメージしていたのは、革命の過程で市や村に成立した労働者・農民代表ソヴィエト(評議会)であり、その頂点に立つ全国代表ソヴィエト(最高ソヴィエト)であった。こうしたソヴィエトは、地域レベルでも全国レベルでも、立法権力と行政権力を併せ持つものとしてイメージされていた(ソヴィエト大会が開催されていないときは、大会で選出される中央執行委員会が権限を代行することになっており、一九一七年一一月からは、さらに人民委員会議か設置され、全国代表ソヴィエトの行政権を行使し、後で開かれるソヴィエト大会でそれまでの期間の活動の監査と承認を受けることになっていた)。
 なお紛らわしいので、ここで二言、説明を加えておけば、共産党の指導的機関は「中央委員会」で、国家機関である最高ソヴィエトで選出される機関は「中央執行委員会」である。両者は名前が似ているが、まったく別の機関である。さらに言えば、共産党の最高機関は中央委員会の上部に位置する政治局であり、国家の事実上の最高機関か人民委員会議である。スターリンはこの時期、共産党内では政治局員兼書記長であり、国家機関の中では一九二三年七月まで民族人民委員として人民委員会議の一員であった。彼はその後もいくつかの国家の要職に就いたが、第二次大戦前までは書記長としての活動か中心であった。
 革命後しばらくは、市や県、さらに全国レベルのソヴィエト(評議会)は権力機関として機能しており、ここで共産党は彼らに対抗する勢力(メンシェヴィキ党、エスエル党、アナーキスト諸党など)と政治的論争を繰り広げていた。しかし、内戦という状況か続く中で、次第にこれらの反対勢力は選挙を通じてソヴィエトに代表を送れなくなった。明らかに、彼らの政治活動を危険なものと認識する共産党か、有形無形の圧力をかけたことから、これらの政党は活動か不自由になったのである。この結果、ソヴィエトは、県レベルから全国レベルへと上層に行けば行くほど、共産党一党に支配されるようになり、自立した国家機関としての意味を失っていった。

 

『スターリン』p.140~141

 

マックス・ウェーバーが予測したのは、プロレタリア国家の官僚化と労働者層と管理層の分離であった。

しかし、さらに予想しえなかったことは、革命を主導したボリシェビキの影響力の拡大が起き、さらに国家機能と政党の機能の融合が起きたのだ。

 

共産党の指導的機関は「中央委員会」であり、国家機関である最高ソヴィエトで選出される機関は「中央執行委員会」だった。

まったく別の機関である。

そして、共産党の最高機関は中央委員会の上部に位置する政治局であり、国家の事実上の最高機関か人民委員会議である。

スターリンはこの時期、共産党内では政治局員兼書記長だった。

国家機関の中では一九二三年七月まで民族人民委員として人民委員会議の一員であった。彼はその後もいくつかの国家の要職に就いたが、第二次大戦前までは書記長としての活動か中心であった。

しかし、党の指導者に権力が集中し、それは国家機関の人事権にまでおよぶようになったのだ。

 

 回想録から見て、スターリンは一九二二年半ばには、たとえば党員のノルウェー駐在全権代表(大使のこと)への任命で決定的な役割を果たした。このレベルの職務は、おそらく彼の采配の下にあったのである。しかし、それ以上に影響力のある職務については、政治局と組織局が直接に人事を行った。こうした状況から、共産党内で生み出されたのか「ノーメンクラトゥーラ制」として知られる人事システムである。ノーメンクラトゥーラとは、政治局や組織局が直接に人事を行う職務をあらかじめリストアこフしておき、必要時にそれに基づいて人事手続きをする一覧表を意味する。
 現在ではいくつもの説があるか、この分野のロシアにおけるパイオニア的研究者であるギムペルソソによれば、「ノーメンクラトゥーラ」という用語か公的文書で最初に現れたのは一九二三年一一月一二日のことであった。このとき採択された共産党中央委員会組織局の決定は、二つのノーメンクラトゥーラ(つまり重要職務をリストアとフした表)を付記していた。そのうちの「第一ノーメソクラトゥーラ」は、共産党中央委員会のみか任命する三五〇〇の職務を網羅していた。また「第ニノーメンクラトゥーラ」は、各省庁か、中央委員会の承認の下に、また登録配員部の合意を得て任命する一五〇〇の職務を網羅していた(ここで言う中央委員会とは実際には、政治局、組織局、書記局を意味した)。こうして、いったん制度か確立すると、「ノーメンクラトゥーラ」に記される職務は一部変更された。また、「第三ノーメンクラトゥーラ」の作成といった形でも拡充されていった。
 このような制度を通じて、国家機関の主要職務は次第に党指導者たちに忠誠心を示す者によって占められるようになった。党組織は全面的に国家機関を支配するために、このノーメンクラトゥーラの中に、本来であれば選挙で選ばれるはずのソ連邦最高ソヴィエトの議員の職務も含めていた。つまりソヴィエトーロシアでは、非常に早い時期から共産党か国家機関を支配する仕組みを内部に創り出したのである。事態がこうした方向に進んでいるときに、スターリンはその共産党組織の要の位置にいたのである。

 

『スターリン』p.143~144

 

国家機関の中枢の人事は共産党の組織局が決めていたのだ。

当然、国家機関の主要職務は次第に党指導者たちに忠誠心を示す者によって占められるようになった。

本来なら選挙で選ばれるはずのソ連邦最高ソヴィエトの議員の職務もこれに含めまれていた。

 

しかし、トロツキーはこのシステムの成り立ちをスターリンのせいにだけするのは間違いだと言っている。

官僚こそ、スターリンを探し当て、このシステムを作り出したのだと。

 

大衆にとって無名の存在であったスターリンが完璧な戦略をいだいて舞台裏から突如として出てきたなどと考えたら素朴であろう。否、スターリンが自分の道を探しあてるまえに官僚がスターリン自身を探しあてたのである。スターリンは古参ボリシェヴィキとしての威信、強靭な性格、狭い視野、みすからの権勢の唯一の源泉としての党機関との密接な結びつきなど、すべての必要な保証を官僚にあたえた。スターリンを見舞った成功ははじめのうちはかれ自身にとっても意外なものであった。それは、旧来の原理や大衆による統制から解放されたいと念じていた、そしてみすからの内部問題についての有望な仲裁裁判官を必要としていた新しい支配層の一致した反応であった。大衆と革命の出来事の前では二流の人物でしかなかったスターリンが、テルミドール官僚の争う余地なき指導者として、その層の第一人者として登場した。

 

『裏切られた革命』p.124~125

 

 

3.党内民主主義の変質とコミンテルンの民主主集中制の確立

 

またトロツキーはこうも言っている。

 

 ボリシェヴィキ党の内部体制は民主主義的中央集権制の諸方法を特徴としていた。この二つの概念の結合にはいささかの矛盾も含まれていない。党は、党の境界がっねにはっきりと保たれているように、またそれだけでなく、この境界内にある者のすべてが党の政策の方向を決定する権利を現実に行使するようにしっかり気をくばった。批判の自由と思想闘争の自由が党内民主主義の本来の内容を成していた。ボリシェヴィズムはフラクションを容認しないなどという今日の教義は衰退の時代の神話にほかならない。実際にはボリシェヴィスムの歴史はフラクションの闘争の歴史である。加えて、世界の転覆という目的をかかげ、その旗のもとに果敢な否定者、反乱者、戦士を結集しようとする真に革命的な組織がいかにして、思想的衝突なしに、グループ化や一時的なフラクション形成なしに生き、かつ発展しうるであろうか? ボリシェヴィキ指導部に先見の明があったためしばしばうまく衝突を緩和させ、フラクション闘争の期間を短縮させることができた。しかしそれ以上ではない。中央委員会はこのわきかえるような民主主義の基盤に立脚していたのであり、決定したり命令したりする勇気をそこからくみとっていたのである。すべての危機的な段階で指導部が明白に正しい判断をもちえたことで、中央集権制の貴重な精神的資本であるこの高い権威が指導部にもたらされたのである。
 このように、ボリシェヴィキ党の体制は今日のコミンテルン支部の体制とは完全に正反対のものであった。権力の掌握のまえはとりわけそうであった。コミンテルン支部では命令によってさまざまな転換をおこなう「指導者」たちが上から任命され、無統制の党機関は下部には横柄で。クレムリンには卑屈である。しかし権力獲得の当初、党に早くも行政の赤さびがついたときでも、だれかが一〇-一五年後の党の姿をスクリーンに映しだしてみせたとしたら、ボリシェヴィキならだれでも-スターリンも例外でなく-その人間を悪質な誹謗者と呼んだことであろう!

 

『裏切られた革命』p.127~128


レーニンは1924年1月に亡くなる。

レーニンは党組織の原則を民主集中制としたが、1921年頃までは分派(フラクション)を許容していた。

それを禁止したのは、戦時共産制のもと、経済的疲弊はその前年までに極に達しており、農民は穀物の強制割当て徴発に不満を高めていくつかの地方で暴動を起こしたのがきっかだ。

労働者もペトログラードなどでストライキを打ち、クロンシュタットの水兵と市民は、非共産党諸党派の活動の自由などを要求する決議を1万5000人の大集会で採択し、「ボリシェビキなきソビエト」のスローガンを掲げて決起した。

これをきっかけにして、ネップ(新経済政策)という資本主義的な政策を採用することになった。

レーニンもそういう状況のなかで一時的措置として分派(フラクション)を禁止した。

しかし、その後、分派の容認が復活することはなかった。

それはスターリンと官僚が結び付いた結果だろう。

 

もしもレーニンがもう少し長く生きていたらという人がいる。

しかし、それは同じだっただろうとトロツキーは言っている。
 

歴史のニつの章の交代にさいしては、もちろん個人というものの契機が影響力をもたずにいなかった。こうしてレーニンの病と死は疑いなく結末を早めた。レーニンがもっと長生きしたなら、官僚権力の圧迫は少なくとも初期のうちはもっとゆっくり進んだことであっただろう。
しかし、一九二六年にすでに左翼反対派の仲間たちのあいだでクループスカヤはこう語っていた。「イリイチが生きていたとしたら、きっともう獄中にいたことでしょう」。その頃はレーニンその人の危惧や不安な予見が彼女の記僚の中で生きており、彼女も歴史の逆風や逆流に対抗するレーニン個人の全能というものについて少しも幻想をもとうとしなかったのである。
官僚は左翼反対派を打ち破っただけでない。官僚はボリシェヴィキ党を打ち破った。官僚は、国家機関が「社会の従僕から社会を支配する主人」に転化することを重大な危険と見ていたレーニンの政綱を打ち破った。官僚はこれらの敵のすべてー反対派や党やレーニンーを思想や論拠によってではなく、みずからの社会的バーベルによって打ち破った。官僚の鉛の尻のほうが革命の頭より重かったのである。これがソヴェト・テルミドールという謎にたいする答である。

 

『裏切られた革命』p.126

 

ボリシェビキは革命を成し遂げ、国家機関の中枢を占めるようになった。

党と国家機関の融合は進んだ。

しかし、その党に民主主義があった時代はまだよかったのだ。

フラクションがあり、果敢な否定者、反乱者、戦士を結集しようとする真に革命的な組織であるうちはまだ民主主義があったのだろう。

 

 

 党内民主主義の要求はっねにあらゆる反対派グループの、望みのないスローガンであると同時に不屈なスローガンであった。前掲の左翼反対派の政綱は一九二七年に、「……批判のかどでの労働者にたいするいかなる直接的もしくは隠然たる圧迫をも重大な国事犯として罰するという条項」を刑法に特別にもりこむように要求していた。それにかわって刑法には当の反対派をとりしまる条項が設けられた。
 年長の世代の記憶には党内民主主義の思い出しか残っていなかった。党の民主主義とともにソヴェト機関、労働組合、協同組合、文化団体、スポーツ団体の民主主義も過去のものとなった。あらゆるものの上に党書記の位階体制が無制限に君臨する。体制はドイツからそのことばがやってくる何年かまえに「全体主義」の性格をおびるにいたった。一九二八年にラコフスキーはこう記した-「思考する共産主義者を機械に変え、意志や性格や人間的尊厳を圧殺するようなもろもろの士気沮喪の方法を用いて、上層部は、罷免されることのない不可侵の寡頭体制へと首尾よく転化し、その体制は階級と党にとってかわった」。この憤怒の一節が記されて以降、体制の堕落はさらにかぎりなく進んだ。ゲーペーウーは党内の生活の決定的要因となった。一九三六年三月、モロトフがフランスの一ジャーナリストにたいして、支配党はもはやフラクション闘争というものを知らないと自慢できたとすれば、それはひとえに、今や意見の不一致が政治警察の自動的介入という方式で解決されているおかげなのである。かつてのボリシェヴィキ党は死んだ、そしていかなる勢力もこれをよみがえらせることはできないであろう。

 

『裏切られた革命』p.132~133

 

1927年にはトロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフが除名される。

1928年にはトロツキーが、アルマ・マタに追放され、1929年にはソ連から追放される。

1934年にキーロフが暗殺される。

1936年にはモスクワ裁判が始まり、ジノヴィエフ、カーメネフが死刑になる。

1937年の第二次モスクワ裁判ではラデックなど12名が、1938年には第三次モスクワ裁判でブハーリンが被告になる。

 

大粛清の犠牲者はスターリンの潜在的敵とはみなし難い人々も多数含んでいた。この結果、一九三六年から一九三八年までの間に政治的理由で逮捕された者は一三四万人余に達し、そのうちの六八万人余りか処刑された(エジェフは一九三八年一一月に内務人民委員を解任された)。

 

『スターリン』p.203

 

 

共産党の組織原則が民主主義的中央集権制(民主集中制)だと思っている人々がいる。

それはコミンテルンの組織原則でもあった。

その民主集中制で分派が禁止されたのは、1921年にクロンシュタットの乱が起きるような特殊な状況下であったことを知っている人は少ない。

そして、国家機能と融合したソ連では、党内の分派の禁止がこの国の民主主義の窒息死になったことが理解されていない。

 

 

「選びたいと思う人」に投票する自由をソ連国民にあたえるという約束は、政治的定式というよりはむしろ芸術的形象である。ソ連国民にあたえられるのは中央や地方の指導者が党の旗のもとで指名する候補者の中からだけ自分の「代表」を選ぶという権利である。ボリシェヴィキ党はたしかに初期のソヴェト時代にも独占的な地位を占めていた。しかしこの二つの現象を同一視することは外見を本質としてとらえることを意味しよう。反対政党の禁止は、内戦、封鎖、干渉、飢餓という諸条件によって強いられた一時的な措置であった。当時プロレタリアートの前衛の真の組織であった支配党の内部活動は溌溂としていた。もろもろのグループやフラクションのあいだのたたかいがある程度政党間のたたかいを代行していたからである。社会主義が「最終的かつ決定的に」勝利した現在、フラクション結成は銃殺によってでなければ強制収容所によって罰せられる。別政党の禁止は一時的な悪から原理へと高められた。ちょうど新憲法の公布時までに、コムソモールでさえ政治問題にたずさわる権利をとりあげられた。その一方で、市民が男女とも一八歳から選挙権を行使することになるとともに、一九三六年まで存在していたコムソモール員の年齢制限(二三歳)が今やすっかり撤廃された。政治は今や最終的に無統制の官僚が独占するところとなった。

 

『裏切られた革命』p.332~333

 

日本共産党の松竹伸幸氏が『シン・日本共産党宣言』の出版で除名処分となった。

国会議員でもなく、党幹部でもない党員の除名処分がここまで大きな話題になったのは共産党にとっても初めてなのではないだろうか?

『志位和夫委員長への手紙』を出版した鈴木元氏も除名処分となり、二人の除名処分に異論を唱えた南あわじ市市会議員の蛭子智彦氏は除籍処分となった。

これらの除名処分に異を唱える党員たち、ハラスメントの告発をする党員たちが覆面で記者会見もしている。

 

これはどういう現象だろうか?

 

ソ連・東欧の社会主義が崩壊してもう30年以上も経つ。

共産党の存在自体が時代錯誤だろう。

その政党で異論の公開が問題になっていて、それをまだ除名処分にしようという政党の組織体質が明らかになっている。

 

イタリアのように党名も変えて、政党としては消滅して、所属していたそれぞれの党員が新たな政治運動に参加するケースもある。

そのほうが時代に合っているようにも思う。

 

しかし、いくつかの国で共産党が存続するのは、マルクス『資本論』『共産党宣言』のインパクトが今も続いているからなのだろう。

マルクスが1848年に『共産主義者宣言』(共産党宣言)を発表したときと同じように今も資本主義社会である。

このシステムの矛盾をひっくり返したいという感情はいつも人々のなかにあるのだろう。

だから共産党のビジョンに幻想をもつのも無理はない。