慶安転生記・参
〜運び手の記憶〜



まえがき
物語には、語られぬ者がいる。
表舞台に立つ者の陰で、幾つもの時代を渡り歩いた者。
柳沢六右衛門とは、何者だったのか。
これは、その問いに答える最後の物語である。





プロローグ 古文書の中の名
 凪は、江戸から戻って以来、ある違和感を抱えていた。
 柳沢六右衛門という名前が、頭から離れなかったのだ。
 ある休日、凪は国会図書館のデジタルアーカイブで、江戸初期から中期にかけての古文書を検索していた。何気なく「柳沢六右衛門」と入力したとき、彼は息を呑んだ。
 同姓同名の人物が、複数の時代の記録に現れていたのだ。
 寛永十四年(一六三七年)、島原の乱に関する記録の片隅に。
 明暦三年(一六五七年)、江戸の大火の後始末に関する記録に。
 そして、慶安四年、由井正雪の乱の周辺に。
 いずれも「柳沢六右衛門」という牢人風の男が、事件の陰で人々を繋ぎ、時に諍いを鎮める役割を果たしていたという、断片的な記述だった。
 同一人物のはずがない。それぞれの記録の間には、二十年以上の隔たりがある。
 だが凪の中で、確信に近い予感が生まれていた。
 その夜、凪はまた古書店を訪れた。
 光は、すでに棚の隅で凪を待っていた。



一章 島原にて
 目を覚ますと、凪は荒れ果てた城の廃墟にいた。
 空気が張り詰めていた。遠くに硝煙のにおいがする。
 これは、戦場だ、と凪は直感した。
 「またお前か」
 声に振り向くと、そこに柳沢がいた。だが、以前より若い顔をしていた。三十代ほどに見えた。
「柳沢さん……ここは」
「島原だ。寛永十四年。乱の終盤よ」
 凪は絶句した。島原の乱。凪の知る歴史の中でも、最も凄惨な事件の一つだった。
「なぜ、俺をここへ」
「知ってもらうためだ。儂が何者であるか。そして、お前が今、何をしようとしているのか」
 柳沢は、廃墟の中を歩き始めた。凪はついていくしかなかった。
「儂は、元は尾張の百姓の子だった。天正の頃に生まれ、戦乱の中で家族を失った。そして、ある夜、玉響に導かれた」
「玉響……」
「時を渡る、迷える魂の光だ。お前を運んだのも、それだ」
 柳沢は足を止め、空を見上げた。
「儂は最初、己の生まれた村を救おうとした。飢饉から。しかし、うまくいかなかった。歴史は容易には動かぬ。もがくうちに、儂は幾つもの時代を渡り歩くようになっていた」
「渡り歩く……それは、望んでのことですか」
「分からぬ。もはや、元の時代に帰る術も忘れた。気づけば、儂は時代の狭間を漂う者になっていた」
 柳沢は、凪の方を向いた。
「そして儂は、悟ったのだ。己一人の力で歴史を大きく変えることはできぬ。だが、その時代、その時代で、正しい方へ僅かに背を押す者になることはできる」
「それが……運び手」
「そうだ。儂は、お前のような者たちを見つけ、手を貸す。玉響が導いた者たちを」



二章 運び手の代償
 島原の光景は、凪の目に焼きついた。
 柳沢は、乱の終結にわずかに関わっていたという。無益な殺戮を、少しでも減らすために。だが、大きな流れを変えることはできなかった。
「儂にできることは、僅かだった」と柳沢は言った。「歴史というのは、川の流れに似ている。一人の力で押し戻せるのは、せいぜい小石一つ分だ。だが、その小石が、下流で大きな渦を生むこともある」
「正雪殿の一件も、そうだったんですか」
「そうだ。お前という小石が、慶安の流れに投げ込まれた。儂はそれを見届け、時に手を貸す役目だった」
 凪は、根本的な疑問を口にした。
「柳沢さんは……何のために、これを続けているんですか。何百年も」
 柳沢は、長い沈黙の後に答えた。
「最初は、己の村を救えなかった悔いのためだった。だが、いつしかそれは、償いではなく、性分になった。儂は、もう戻る場所を持たぬ。ならば、渡り歩くしかあるまい」
「戻る場所が、ない……」
「玉響に運ばれ続けた者は、いずれ元の時代の記憶も、己の名すら朧げになっていく。儂もまた、いつまで柳沢六右衛門という名を名乗れるか、分からぬ」
 凪は、胸が締め付けられる思いがした。
「それでは……あなたは、永遠にこのままなんですか」
「分からぬ。だが、一つだけ、儂にも願いがある」
「何ですか」
「己を渡らせてくれた玉響に、一度でいい、恩を返したい。渡り続けるのではなく、己の意志で最後の場所を選びたいのだ」



三章 明暦の大火
 柳沢が次に凪を連れて行ったのは、明暦三年の江戸だった。
 街は、炎に包まれていた。
 大火の直後の混乱の中、人々が逃げ惑い、瓦礫の間を彷徨っていた。
「これが、儂が最後に関わった大きな出来事だ」と柳沢は言った。「江戸の再建に、多くの牢人たちが力を貸した。お前と正雪殿が動かした、あの牢人救済の流れが、ここでも活きていた」
 凪は、目を見張った。
「俺たちがやったことが……ここにも繋がっているんですか」
「そうだ。歴史は、一つの糸で織られておるわけではない。多くの糸が絡み合っている。お前の蒔いた種は、こんな場所でも芽吹いていたのだ」
 瓦礫の中、牢人たちが手際よく炊き出しを行い、負傷者を運んでいる様子が見えた。彼らの中には、忠弥に剣を学んだ若者の姿もあった。
 凪は、言葉を失った。
「柳沢さん、あなたは……ずっとこうして、見守ってきたんですね。誰にも知られず」
「知られる必要はない。儂の役目は、表舞台に立つことではない」
 柳沢は、燃える街を見つめながら、静かに言った。
「だが、そろそろ潮時だと思っている」



四章 最後の選択
 二人は、再び慶安四年の駿府へ戻った。凪が本来いた時間軸へ。
 柳沢は、以前よりも幾分老いた顔をしていた。まるで、これまで見てきた時代の重みが、一気に彼の身体に刻まれたかのようだった。
「柳沢さん、体は……」
「もう長くはあるまい。渡り続けた代償だ。時が、儂に追いついてきた」
「そんな……」
「案ずるな。儂は、これでいいと思っておる。ただ、最後に一つ、お前に頼みがある」
「何でしょう」
「儂の名を、記録に残してほしい。柳沢六右衛門という、確かに生きた者がいたのだと。誰かに、覚えていてほしいのだ」
 凪の胸に、熱いものがこみ上げた。
「約束します。必ず、記します」
 柳沢は、微笑んだ。
「それと、もう一つ。お前の役目についてだ」
「俺の……役目?」
「玉響は、お前を選んだ。儂の後を継ぐ者として選んだのかもしれぬ。お前にその気があるなら、儂の代わりに、時を渡る運び手になることもできよう」
 凪は、言葉に詰まった。
 時を渡り続ける人生。家族も、友人も、元の時代の全てを手放して。
 柳沢は、凪の表情を見て、静かに首を振った。
「案ずるな。それは、お前が選ぶことだ。儂は、お前に強いるつもりはない」
「柳沢さんは……それを、望んでいたんですか。運び手であり続けることを」
「望んでいたかどうかは、もう分からぬ。だが、悔いてはおらぬ。多くの時代で、多くの者を見てきた。それは、儂にとって、悪くない生涯だった」



五章 玉響の還る場所
 その夜、凪と柳沢は、駿府の丘に登った。前作で凪が一人で登った、あの富士山の見える丘だった。
 月が、静かに輝いていた。
「儂は、ここで待つ」と柳沢は言った。「玉響が、儂を迎えに来る場所だ」
「柳沢さん……本当に、いいんですか」
「いい。儂は、十分に渡った。そろそろ、休みたい」
 柳沢は、月を見上げた。
「お前は、帰れ。お前の時代へ。お前には、お前の生きる場所がある」
「でも、俺は……」
「お前は、運び手にならずとも、言葉で人を動かせる。それが、お前の才だ。儂のような生き方をせずとも、お前は世界を変えていける」
 凪の目に、涙が滲んだ。
「柳沢さんのことを、忘れません」
「それで十分だ」
 風が吹いた。丘の上に、青白い光が満ちていった。
 柳沢の輪郭が、次第に淡くなっていく。
「最後に、一つだけ」と柳沢は言った。「玉響は、悔いを抱いた魂を運ぶ。だが、悔いは、悪いものばかりではない。誰かを想う心の証でもある」
「柳沢さん……」
「儂は、村を救えなかった悔いから始まったが、その果てに、多くの者と出会えた。お前とも、な」
 光が、柳沢の身体を包んでいった。
「ありがとう、榊原凪。お前のおかげで、儂は最後に、己の意志で選ぶことができた」
 柳沢の姿が、月の光に溶けるように消えていった。
 あとには、静かな夜と、凪だけが残された。



六章 継がれる灯
 凪が丘の上に一人残されたとき、足元に何かが光っているのに気づいた。
 小さな、古びた文箱だった。
 開けると、中には一枚の紙が入っていた。柳沢の筆跡で、こう記されていた。
 「儂の生きた証を、頼んだ。そして、これは餞別だ。お前が望むなら、いつでもこの光を通じて、時代を渡れる。だが、望まぬなら、それでいい。お前の人生は、お前のものだ」
 凪は、紙を胸に抱いた。
 しばらくその場に座り込み、月を見つめた。
 やがて、彼は静かに立ち上がった。
 「帰ります」と、誰にともなく呟いた。「でも、いつか、また来るかもしれません。あなたのように、誰かを助けるために」
 風が答えるように吹き、丘の草を揺らした。
 凪は目を閉じた。世界が、静かに揺れた。



エピローグ 名もなき灯り
 東京に戻った凪は、それから数ヶ月をかけて、一つの原稿を書き上げた。
 タイトルは「玉響異聞」。柳沢六右衛門という、歴史の陰に生きた一人の男の物語だった。
 もちろん、それを事実として発表することはできない。フィクションとして、慶安転生記の続編という形で世に出した。
 だが凪は、心のどこかで信じていた。
 いつか、誰かがこの物語を読み、柳沢六右衛門という名を、覚えてくれるだろうと。
 ある日、凪は再びあの古書店を訪れた。
 棚の隅には、もう光はなかった。
 店主に尋ねると、「そんな本は見たことがない」と、怪訝な顔をされた。
 凪は、微笑んで店を出た。
 役目は、終わったのかもしれない。あるいは、まだ何かが残っているのかもしれない。
 それでも、凪は歩き続けた。
 言葉を武器に、この時代の「牢人」たち――行き場のない声を持つ人々のために。
 夜空を見上げると、月が静かに輝いていた。
 同じ月が、四百年前も、その前も、これからも、変わらずそこにある。
 玉響は、また誰かを選ぶだろう。
 その時、その者が迷わず手を伸ばせるように。
 凪は、静かに祈った。


――完――




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【作者注】
本作は「慶安転生記」三部作の完結編です。柳沢六右衛門の正体、及び島原の乱・明暦の大火との関わりは、すべて本作オリジナルの創作であり、史実に基づくものではありません。実在の史料には、これらの事件を貫く同一人物としての「柳沢六右衛門」は登場しません。本作は、歴史の陰で名もなく生きた人々への想像力を巡らせる、著者による思考実験としてのフィクションです。



慶安転生記・弐
〜玉響の代償〜


まえがき
歴史を変えることは、救いなのか。
前作で榊原凪は、由井正雪の乱を武力から言葉の道へと導いた。
だが、変えられた歴史には、必ず歪みが生まれる。
帳尻を合わせようとする力が、どこかで働くのだとしたら――。
これは、代償を知る物語である。





プロローグ 再び訪れた光
 半年が過ぎていた。
 榊原凪は、あの日から変わらない日常を送っていた。会社に行き、原稿を書き、神田連雀亭に通う。だが、江戸での日々は夢ではなかったという確信だけが、彼の中に静かに根を張っていた。
 ある夜、凪は執筆に行き詰まり、あの古書店を再び訪れた。もう一度、あの本を見つけられるかもしれないという淡い期待があった。
 棚の隅に、青白い光があった。
 同じ光だった。
 凪は迷わず、光の方へ歩いた。
 「待っていたぞ、榊原殿」
 声がした。振り向くと、そこに立っていたのは柳沢六右衛門だった。江戸で世話になった、あの老人の姿そのままに。
「柳沢さん……? なぜここに」
「儂も、正確には分からぬ。だが伝えねばならぬことがある。正雪殿の蒔いた種が、歪み始めておる」
「歪み……?」
「詳しくは、あちらで話そう」
 柳沢が本に触れた。凪も、導かれるように手を伸ばした。
 光が弾け、世界が揺れた。



一章 変わり果てた駿府
 目を覚ますと、凪は見知らぬ座敷にいた。
 柳沢が傍らに座っていた。生きた人間というより、幻影のような輪郭を持っていた。
「ここは……」
「慶安五年、いや今は承応元年(一六五二年)だ。お前が去ってから、一年が経った」
 凪は身を起こした。
「正雪殿は……」
「生きておられる。遠島にて、静かに暮らしておられるそうだ。忠弥殿も、大名家にて律儀に勤めておられる」
「では、何が歪んだと」
 柳沢の表情が曇った。
「歴史が変わったことで、別の綻びが生まれた。松平信綱様の牢人救済策に、強く反発する一派がある。彼らは、寛容な政こそが幕府の権威を損なうと信じておる」
「反発……どの程度の」
「不穏な動きがある。信綱様の政策を覆すため、証拠を捏造し、正雪殿と忠弥殿を『いまだ謀反の意志あり』として、再び罪に問おうとしておるのだ」
 凪は息を呑んだ。
「そんな……彼らは、もう武力を捨てたのに」
「事実など、力の前では容易く塗り替えられる。それが、この世の理だ」
 柳沢は続けた。
「首謀者は、勘定奉行配下の一人、井上帯刀。牢人政策によって己の利権を失うことを恐れておる。この一年、密かに証拠を仕立て、信綱様を失脚させようと動いておる」
 凪は拳を握った。
「俺に、何ができる」
「お前が変えた歴史を、守るのだ。今度は、忠弥殿の腕も借りねばなるまい」



二章 仕官先の忠弥
 忠弥は、遠江のとある小藩に仕官していた。
 凪が訪ねると、忠弥は稽古場で若い藩士たちに剣を教えている最中だった。以前よりも、幾分穏やかな顔つきになっていた。
「……お前か。生きていたか」と忠弥は笑った。
「またご厄介になります」
「相変わらず、突然現れるやつだな」
 凪は事情を話した。井上帯刀の陰謀、正雪と忠弥自身の身に及ぶ危険。
 忠弥の顔から、笑みが消えた。
「俺が知らぬところで、また命を狙われているというわけか」
「はい。しかも今度は、武力ではなく、証拠と言葉で仕留めようとしています」
「厄介だな。剣なら受けて立てるが、紙切れの罠は勝手が違う」
「だからこそ、俺が必要なんです」と凪は言った。「証拠の矛盾を突き、真実を示す。それは、俺の得意分野だ」
 忠弥は少し考えてから、頷いた。
「よし。藩には暇を願い出る。お前と組むのも、二度目だ」
 二人は、江戸へ向かうことにした。
 道中、忠弥が尋ねた。
「なあ、お前は本当に未来から来たのか。今でも半信半疑だが」
「本当です」
「未来では、俺たちはどう語られている」
 凪は少し笑った。
「講談で聞きました。『一説には、忠弥殿は武を捨て、道を貫いた』と」
「一説には、か」忠弥は苦笑した。「悪くない話だ」



三章 井上帯刀の罠
 江戸に着いた凪と忠弥は、まず柳沢の伝手を頼った。
 柳沢はすでに老齢だったが、なお神田の裏社会に通じていた。彼を通じて、井上帯刀の動きを探ることができた。
「井上は、偽の書状を用意しておる」と柳沢は言った。「正雪殿の筆跡を真似た密書だ。『いまだ同志を募り、再挙を企てる』という内容らしい」
「筆跡を真似た……誰が書いたんだ」と忠弥が唸った。
「江戸に流れる、腕の立つ贋作師がいるという噂だ。井上はその者を金で雇ったのだろう」
 凪は考えた。
「その贋作師を見つければ、逆に証拠になる。本人に真実を証言させれば」
「言うは易いが」と柳沢は首を振った。「贋作師の正体は、井上以外誰も知らぬ」
 凪は、しばらく黙考した。
「……ならば、罠を張りましょう」
「罠?」
「井上帯刀に、俺たちが正雪殿の本物の書状を持っていると匂わせるんです。そして、比較させる場を作る。贋作師が本物を見れば、必ず反応する。そこを突く」
 忠弥がにやりと笑った。
「策士だな、お前は」
「江戸の会社員は、こういう駆け引きに慣れてるんですよ」
 計画は五日後に実行されることになった。



四章 対決、神田の夜
 場は再び、神田の小料理屋だった。
 片岡右近――信綱の家老であり、前回の嘆願書を取り次いだ人物――が、今回も間に入ってくれた。彼は牢人政策の存続を望んでおり、井上の陰謀には強い懸念を抱いていた。
 会合の場に、井上帯刀が現れた。恰幅の良い、しかし目つきの鋭い男だった。
「由井正雪の本物の書状があるというのは、真か」と井上は切り出した。
「ございます」と凪は静かに答えた。「正雪殿ご本人から、直接いただいたものです」
 凪は懐から一通の書状を取り出した。実際には、正雪本人の署名を得るため、柳沢が遠島まで密かに使いを送って用意させたものだった。
 井上の目が、わずかに泳いだ。
「見せてもらおう」
 凪が書状を差し出すと、井上の背後に控えていた男が、思わず身を乗り出した。三十代ほどの、痩せた男だった。
 その反応を、凪は見逃さなかった。
「その方は?」と凪は尋ねた。
「わ、儂の右筆だ」と井上は慌てて言った。
「右筆にしては、随分と熱心にご覧になる」
 男の顔が、青ざめた。
 忠弥が、静かに立ち上がった。大男の気配だけで、座敷の空気が変わった。
「贋作の筆跡と、本物を見比べれば、誰の目にも分かることだ」と忠弥は低く言った。「お主、正直に話した方が身のためだぞ」
 男は震え出した。
「わ、儂は……井上様に命じられて……正雪殿の書状を真似ただけで……」
「黙れ!」と井上が叫んだが、もう遅かった。
 片岡が、静かに言った。
「井上殿。これは看過できませぬな」
 井上の顔から、血の気が引いていった。



五章 真実の行方
 井上帯刀の陰謀は、幕閣の内部で密かに処理された。
 大事にはならなかった。表沙汰にすれば、幕府の威信そのものが揺らぐ。片岡と信綱は、内々に井上を蟄居処分とし、贋作の書状は焼却された。
 正雪と忠弥の身は、守られた。
 だが凪は、素直に喜べなかった。
「柳沢さん」と凪は、事後、柳沢に尋ねた。「これで終わりでしょうか。また誰かが、同じことを企てるのでは」
 柳沢は、長い沈黙の後に言った。
「終わりはせぬ。歴史とは、そういうものだ。変えれば変えるほど、歪みは生まれ続ける。お前が来る限り、それは続くだろう」
「なら、俺は何度でもここへ来るしかない」
「いや」と柳沢は首を振った。「それは違う。お前が全てを背負う必要はない。この時代にも、正雪殿のような者、忠弥殿のような者、片岡殿のような者がおる。お前は種を蒔いただけだ。あとは、この時代の者たちが、育てていく」
 凪は、その言葉を噛みしめた。
「柳沢さんは……この時代の人ではないのですか」
 柳沢は、初めて薄く笑った。
「儂もまた、玉響に運ばれた者の一人よ。もう随分と長くこの時代におるがな」
「それは、どういう……」
「いずれ、分かる時が来よう。今は、帰れ。お前の役目は、済んだ」



六章 最後の対面
 凪は、遠島へ渡ることを許された。片岡の計らいだった。
 小さな船で海を渡り、正雪の暮らす島へ着いたのは、旅立ちから七日目だった。
 正雪は、粗末な庵で静かに暮らしていた。書物を読み、島の子どもたちに読み書きを教えているという。
「また来たか」と正雪は、凪を見て微笑んだ。
「危ないところでした」と凪は言った。「井上帯刀という男が、あなたを再び陥れようとしていました」
「聞いている。片岡殿から文が届いた」
 正雪は、海を見つめた。
「不思議なものだな。俺は罪人として生きているが、この島の暮らしは、思いのほか穏やかだ。子どもたちに文字を教えることが、これほど嬉しいとは思わなかった」
「それが、正雪殿の新しい道なのかもしれません」
「かもしれん」
 正雪は、凪を振り返った。
「お前は、また戻るのだろう。お前の時代へ」
「たぶん」
「ならば、聞いておきたい。お前の時代にも、井上帯刀のような者はいるか」
 凪は少し考えた。
「います。形は違いますが、変化を恐れ、自分の利益のために真実を歪める者は、いつの時代にもいます」
「では、お前はどう戦う」
「言葉で。正雪殿から学んだやり方で」
 正雪は、静かに頷いた。
「それでいい。剣でも、政でもなく、言葉。それが、お前の道なのだろう」



エピローグ 玉響、また運ぶ
 凪が東京に戻ったのは、島を発った日と同じ日付の夜だった。
 柳沢の姿は、もうどこにもなかった。あの人物が本当は何者だったのか、凪には分からないままだった。時を渡る運び手なのか、それとも玉響そのものの化身なのか。
 凪は、パソコンに向かい、続きを書き始めた。
 井上帯刀のような存在が、今の時代にもいること。真実が力によって歪められそうになったとき、それに抗う言葉があること。歴史を変えることの代償と、それでもなお変え続けようとする者たちの意志。
 窓の外で、月が静かに光っていた。
 あの島で見た海の月と、同じ月だった。
 凪は、ふと思った。
 もしまた、あの光が現れたら。
 そのときはまた、迷わず手を伸ばそう。
 玉響が運ぶ先に、何が待っていようとも。


――了――



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【作者注】
本作は前作「慶安転生記〜由井正雪と時をこえた男〜」の続編としてのフィクションです。井上帯刀、片岡右近は本作オリジナルの架空人物であり、実在の史料には基づきません。由井正雪・丸橋忠弥・松平信綱などの実在人物のその後の展開も、著者による創作です。史実では、正雪は慶安四年に駿府で自刃し、忠弥は江戸で磔刑に処されています。本作は「変えられた歴史には、なお続きがある」という思考実験として書かれました。



慶安転生記・壱
〜由井正雪と時をこえた男〜


まえがき

「もし、あの時に戻れるなら」
そんなありふれた願いが、もしも物理的な質量を持って動き出したとしたら、世界はどう変わってしまうのでしょうか。
因果の鎖を断ち切り、観測されない歴史を修正する。
それが救済なのか、あるいは冒涜なのか。その答えは、まだ誰も知りません。
私たちは、時間の海に投げ出された漂流者です。
これから始まる物語が、あなたの心にある「止まった時計」を動かす小さなきっかけになることを願って。



序章

昨晩
夢に
着物姿の学者風な男が現れて
幕府転覆に力を貸してくれないか
と言う

えっ?
貴方は? と問うと

私の名は
由井正雪 と微笑んだ

正雪?
もしや
ここは江戸か
そして
家綱の時代か と問うと

そうだ
これ以上の機会はない
お前さんの力を借りたい

何が狙いだ?
そして
何をしろと?

まあ
待ってろ!
今に分かる

400年も遡ってしまったらしい
そうだ
慶安太平記だ!
そこへと
巻き込まれてしまった

しかし
正雪さんよ
あんた
これは失策となる
やめときなはれ!

馬鹿を言うな!
今 やらねばならん

僕は
未来から来たらしい
あんたらの
結末を知っている

ならば良い
気が変わったら来い
駿府で待つ!

ダメだ
無駄死にとなる
ダメだ
ダメだ
ダメだ…

そこで
目が覚めた

昨今
講談や落語の聴き過ぎか
それとも
玉響たちが
運んで来たのか…

もしや
今の時代もまた
それかと
ふと思ってもみるが
正雪ほど
命を張る者は現れないのだろう

武士道とは
立派なもんだったらしい





慶安転生記
〜由井正雪と時をこえた男〜

 夢の中で由井正雪に出会い、歴史の悲劇を止めようとした男の話。

 慶安太平記の幕が、今、新たに開く。


プロローグ 夢の中の招待状

 夜明け前の闇の中で、男は夢を見ていた。
 東京の片隅にある古いアパートの一室。積み上げられた講談本、落語のCDが並ぶ棚、壁に貼られた江戸時代の地図。歴史に取り憑かれた四十二歳の男――榊原 凪(さかきばら なぎ)の日常の残骸が、夢の入り口を飾っていた。
 だが夢の中の景色は、そこではなかった。
 見渡す限りの松林。空気が違う。煙のにおい、土のにおい、人の汗と動物の混じり合った匂い。凪はそれを感じながら、自分が夢を見ていると気づいていた。夢の中でも意識がある、と彼はいつも思う。それが彼の少し奇妙な特質だった。
 松林の向こうに、人影があった。
 黒羽二重の着物をきちんと身に纏い、書物を小脇に抱えた男。顔は整っていた。眼光が鋭く、しかしその唇には微かな微笑みが浮かんでいた。学者風、とでも言えばいいか。あるいは、武士とも儒者ともつかぬ風格を持った人物。
 男が口を開いた。
「幕府転覆に、力を貸してくれないか」
 凪は思わず立ち止まった。夢の中であっても、その言葉の重みは本物に感じられた。
「えっ……貴方は、誰ですか」
 男は静かに微笑んだ。
「私の名は、由井正雪」
 凪の胸が、跳ねた。
 由井正雪。慶安の変。寛永二十一年――いや、慶安四年(一六五一年)、三代将軍・徳川家光の死の直後に計画された倒幕クーデター。主謀者の名を、凪は知っていた。講談で、落語で、歴史の本で、何度も聞いた名前だった。
「もしや……ここは江戸ですか。そして今は、家綱の時代ですか」
 正雪は目を細めた。
「そうだ。これ以上の機会はない。徳川の世の理不尽を正す、千載一遇の好機だ。お前さんの力を、借りたい」
「何が狙いだ? そして、俺に何をしろと?」
「まあ、待ってろ。今に分かる」
 正雪は踵を返して松林の奥へと歩き始めた。
 凪は追いかけながら、頭の中に数字が浮かんでいた。
 慶安四年。西暦一六五一年。今が二〇二五年なら、四百年近く遡ったことになる。
 だがそれよりも、凪が気になったのは別のことだった。
 由井正雪の乱は、失敗する。
 主謀者は自決し、仲間は処刑される。歴史はそう記録している。
 凪は夢の中で叫んでいた。
「正雪さんよ、あんた、これは失策となる。やめときなはれ!」
 正雪は振り返らずに答えた。
「馬鹿を言うな。今やらねばならん」
「俺は、未来から来たらしい。あんたらの結末を、知っている」
 ようやく正雪が立ち止まった。彼はゆっくりと凪を振り向いた。その目に、驚きとも好奇とも取れる光が宿った。
「ならば良い。気が変わったら来い。駿府で待つ」
「ダメだ。無駄死にとなる。ダメだ、ダメだ、ダメだ……」
 松林が揺れた。世界が歪んだ。凪は暗闇の中に落ちていった。
 そして、目が覚めた。
 天井を見つめながら、凪は長い間、動けなかった。
 夢だ、と思った。だが、夢にしては鮮明すぎた。松の匂いが、まだ鼻の奥に残っている気がした。
 窓の外で、東京の夜明けが始まっていた。


一章 玉響(たまゆら)の運び手

 榊原凪がタイムトラベラーになったのは、自分でも気づかぬうちのことだった。
 彼はもともと、ITエンジニアである。中規模のシステム開発会社に勤め、仕事は並、給料は並、生活も並。ただひとつ、江戸時代の歴史への偏愛だけが他人より飛び抜けていた。
 講談は月に一度の神田連雀亭通い。落語は寄席のマクラ一つで演目を当てられる。慶安太平記なら台詞を諳んじられる。そんな男だった。
 夢の翌朝、凪は普段通りにコーヒーを淹れ、普段通りに出勤し、普段通りに仕事をこなした。だが帰り道、彼は何かに引っ張られるような感覚を覚えた。
 行きつけの古書店の前を通ったとき、それは起きた。
 店の薄暗い奥から、光が見えた。まるで月光のような、青白い光。普段ならそんなものがあるはずがない。凪は吸い込まれるように店内へ入り、光の方向へ歩いた。
 棚の隅に、一冊の本があった。
 古い、非常に古い本だった。表紙は擦り切れ、文字は掠れていた。しかしそれが何であるか、凪には分かった。
 慶安太平記。
 手に取った瞬間、世界が揺れた。
 揺れ、歪み、暗転した。


 気づいたとき、凪は土の上に倒れていた。
 周囲の匂いが違う。空気が違う。遠くから、馬のいななきが聞こえる。
 ゆっくりと体を起こし、周囲を見渡した。
 江戸だ、と凪は思った。否、江戸に違いない。
 目の前に広がるのは、整然と区切られた町並み。木造の家々が立ち並び、着物姿の人々が往来している。上空には、現代的な構造物は何もない。空は広く、澄んでいた。
 凪は自分の服装を見下ろした。現代のジャケットとスラックス。完全に場違いだった。
 「おい、お主は何者だ」
 背後から声がかかった。振り向くと、二人の侍が立っていた。腰に刀を差し、厳しい目で凪を見ている。
 凪は咄嗟に頭を下げた。
 「申し訳ありません。私は……旅の者で」
 「その装束は何だ。見慣れぬ。どこの国の者だ」
 凪は必死に頭を働かせた。ここで捕まれば、おそらく牢に入れられる。異装の不審者として処刑されるかもしれない。
 「蝦夷の……奥地から参りました。文明から遠い地でして」
 侍たちは顔を見合わせた。そのわずかな隙に、凪は路地へと走り込んだ。
 追いかけてくる足音。凪は必死に走った。曲がり角を抜け、商家の軒先をかわし、路地の奥へ。
 そして、行き止まりになった壁の前で、彼は蹲った。
 背後の足音が消えていく。運が良かった。
 凪は息を整えながら、状況を整理しようとした。
 タイムトラベル。実際に起きてしまった。夢ではない。本の力か、それとも別の何かか。
 そして今がいつかを知る必要があった。
 慶安四年なのか、あるいは別の時代なのか。
 凪は慎重に路地を出た。


二章 駿府への旅

 凪は三日かけて、江戸の暮らし方を学んだ。
 幸いにして、彼の服装の問題は意外な形で解決した。路地で行き倒れになっていた武家奉公人の男が着ていた着物を、男が死んだあとに借りることができた――いや、正確には男の主人が気の毒に思って凪に与えたのだ。食事も、ある寺で施しを受けた。
 凪は頭を使った。現代の常識は捨てる。江戸の論理で動く。
 江戸の人々は、不審者に見えない者には案外優しかった。礼儀正しく頭を下げ、言葉を選び、決して多くを語らなければ、溶け込むことができた。
 そして三日目の夜、凪はある決断をした。
 駿府へ行く。
 夢の中で、正雪は言っていた。「駿府で待つ」と。
 由井正雪は、史実では駿府に拠点を置いていた。兵法を教える道場を構え、弟子を集めていた。慶安の変の計画は、その駿府から始まったのだ。
 凪は講談の記憶を総動員して、当時の状況を思い起こした。
 慶安四年(一六五一年)四月二十日。三代将軍・徳川家光が死去する。将軍の死は、幕府の弱体化の瞬間でもあった。正雪はそこに乗じて決起しようとした。
 その動機は何だったか。凪は知っていた。
 牢人(浪人)問題だ。
 徳川の世が安定するにつれ、武家の数は減り、仕官の口も減った。行き場を失った牢人が全国に溢れ、社会不安の種となっていた。正雪自身、師の弟子として兵法を教える立場にあったが、その思想の根底には、この牢人たちへの共感があった。
 歴史の通り、この乱は失敗する。
 だが凪がここにいる。それは偶然か、必然か。
 凪は東海道を歩いた。現代の新幹線なら数十分の距離を、彼は十日以上かけて歩いた。足がただれ、日に焼け、しかし不思議と気力は衰えなかった。沿道の景色が、圧倒的なほどに美しかったのだ。
 富士山が、見える。
 現代でも見えるが、この時代の富士山は違った。大気が澄み切り、人工物が何もない地平に、山がそのままの姿で立っていた。凪は思わず立ち止まり、長い間その姿を見つめた。
 これを守りたい、と思った。
 いや、正確には違う。これを生きた人々の時代の流れを、少しでもより良い方向へ変えられるなら、と思った。
 駿府に着いたのは、旅立ちから十二日目だった。



三章 正雪との問答

 由井正雪の道場は、駿府城下の静かな一角にあった。
 凪がそこを訪ねると、弟子たちが怪訝な顔で彼を見た。しかし凪は落ち着いて言った。
「由井先生に、お目にかかりたい。先生はご存知のはずです。夢の中でお会いした者だ、とお伝えください」
 弟子たちは顔を見合わせたが、やがて一人が奥へ消えた。
 少しして、正雪が現れた。
 夢の中で見た顔と同じだった。整った顔立ち、鋭い目、しかし口元には穏やかな微笑み。彼は凪を見て、静かに頷いた。
「来たか」
「来ました」と凪は答えた。「やめなさい、と言うために」
 正雪は苦笑した。
「まあ、上がれ」
 道場の奥座敷で、二人は向かい合った。弟子たちは遠ざけられた。茶が運ばれた。
「お前さんは、未来から来たと言った」と正雪は静かに言った。「では聞こう。我らの挙兵は、どうなる」
 凪は一息ついてから答えた。
「失敗します。正雪殿は駿府で追い詰められ、自刃される。丸橋忠弥殿は江戸で捕縛され、磔刑に処される。仲間の多くが処刑される」
 正雪の表情は変わらなかった。しかし目の奥に、何かが揺れた。
「それを知って、お前は我らを止めに来た」
「止めるだけではなく」と凪は続けた。「別の道を考えたいんです」
「別の道?」
「正雪殿の真の目的は何ですか。幕府を倒すことが目的ですか。それとも、牢人たちの苦境を救うことが目的ですか」
 その問いに、正雪はしばし黙った。
 沈黙は長かった。遠くで弟子たちが稽古をする音が聞こえた。木刀が打ち合う乾いた音。
「……後者だ」と正雪はやがて言った。「牢人たちが報われる世を作りたい。それだけだ」
「ならば」と凪は言った。「武力ではなく、言葉で戦う方法があります」
 正雪が顔を上げた。
「聞かせろ」
 凪は話し始めた。未来の知識を、使える形で言葉に変えながら。
 社会改革とはいかに行われるか。変革は血ではなく、制度の改変によって成される場合がある。幕府は頑固な組織だが、内側から変えることのできる人物がいれば。たとえば、老中・松平信綱のような人物に、牢人問題の深刻さを認識させることができれば。
「幕府を倒すのではなく、幕府を動かす」
 正雪は長い間、凪を見つめていた。
「お前は、奇妙な男だな」
「私も、こんな立場になるとは思っていませんでした」
 正雪は初めて、声を出して笑った。


四章 動き始めた歯車

 凪は駿府に留まることになった。
 正雪は彼を弟子の一人として扱い、道場での生活を許した。凪は剣術の稽古こそできなかったが、読み書きと計算は得意だったため、正雪の事務仕事を手伝う形で居場所を得た。
 しかし問題があった。
 歴史の流れは、凪が介入しても動こうとしないのだ。
 丸橋忠弥は江戸で、依然として決起の準備を進めていた。正雪の制止の書状を送っても、忠弥からの返信は「今さら止められない」というものだった。仲間たちはすでに動き出していた。
「正雪殿」と凪は言った。「江戸へ行かなければならない」
「お前が行ってどうする」
「忠弥殿を直接説得します。そして、幕府の重臣に密書を届ける。牢人問題を、武力ではなく政策で解決するよう求める嘆願書です」
 正雪は眉を寄せた。
「幕府に近づくのは、危険だ」
「分かっています。しかし、動かなければ歴史は変わらない」
 凪は、自分でもなぜこれほど必死になっているのか、よく分からなかった。元の時代に帰れるかどうかも分からない。この時代での自分の立場も不安定だ。
 しかしここに来てしまったのは、偶然ではない気がした。
 何かが自分をここへ送り込んだ。玉響――魂の微かな揺らぎのような何か――が、自分を運んできた。
 そうであるならば、やり遂げなければならない。
「分かった」と正雪は言った。「行け。しかし一つ、約束してくれ」
「何でしょう」
「必ず生きて戻れ。お前の話には、まだ続きがある」
 凪は頷いた。
 翌朝、彼は江戸へ向けて出発した。
 今度は、商人の荷物運びの一員に混じって、東海道を北上した。道中、凪は頭の中で計画を練り続けた。
 松平信綱に嘆願書を届けるためには、彼の屋敷の近くにいる人間のコネクションが必要だ。
 丸橋忠弥を説得するためには、彼の信頼できる人物を通じなければならない。
 凪はこれを、まるでプロジェクト管理のように整理した。タスク、リソース、リスク。ITエンジニアとしての頭の使い方が、ここでも役に立った。
 江戸が近づくにつれ、空気が変わっていくのを感じた。
 大きな都市の匂い。人の多さ。活気と、その裏にある緊張感。
 慶安四年の江戸は、将軍家光の死後、微妙な均衡の上に立っていた。凪はその空気を、肌で感じた。


五章 江戸の夜

 江戸に着いた凪が最初に接触したのは、丸橋忠弥ではなかった。
 偶然の出会いが、別の道を開いた。
 凪が神田の裏路地で雨宿りをしていたとき、隣に蹲った老人があった。着物は粗末だが、目が鋭い。浪人者だと凪は思った。
「お侍様、どちらへ」と凪は声をかけた。
「侍ではない。ただの老いぼれだ」と老人は言った。「お前こそ、見慣れぬ顔だな。どこから来た」
「駿府から」
「ほう。それならば、由井先生のところか」
 凪は驚いた。
「ご存知で?」
「知っている。昔、世話になった。しかし、あの御仁の計画は無謀だと思っている。なぜ止めない」
 凪は正直に言った。
「止めようとしています。しかし一人では難しい。力を貸してもらえませんか」
 老人は長い間、凪を見つめた。
 名は、柳沢六右衛門と言った。かつて大名家に仕えたが、改易で牢人になった。今は神田の長屋で細々と暮らしていた。老人は牢人問題の当事者であり、正雪の計画に共感しながらも、その無謀さを知っていた。
「儂に何をしろと言う」
「松平信綱様の屋敷に近い人物を、ご存知でありませんか。嘆願書を、直接届けたい」
 柳沢は首を傾けた。
「……一人、思い当たる者がいる。だが、約束はできぬ。動いてみよう」
 その夜から、物事が動き始めた。
 柳沢の伝手を通じて、松平信綱の家老の一人と接触できることになった。秘密の会合。場所は神田の小料理屋の座敷。
 凪は嘆願書を書いた。
 現代的な論理構成で、しかし江戸時代の言葉で。牢人問題の規模、社会への影響、放置すれば何が起きるか、そして政策的解決の可能性。凪は夜を徹して書き、柳沢が添削した。
「お主の文は、妙だな」と柳沢は言った。「まるで別の世の者が書いたようだ」
「実は」と凪は言いかけて、止めた。「旅をして、色々な考えを学びました」
 柳沢はそれ以上は聞かなかった。
 会合は、五日後に設定された。
 その間に、凪はもう一つの仕事をしなければならなかった。丸橋忠弥への接触だ。


六章 忠弥との対決

 丸橋忠弥は、凪の想像より遥かに大きな男だった。
 六尺(約百八十センチ)を超える体躯。豪快な笑い声。そして、剣に生きる者の研ぎ澄まされた気配。
 柳沢の伝手で面会の機会を得たとき、忠弥は警戒しながらも凪を迎え入れた。
「由井先生の使いと聞いたが」
「使いであり、それ以上のものです」と凪は言った。「私は先生の命で来ましたが、先生も私を完全には信用していない。ただ、伝えなければならないことがある」
「何だ」
「この計画は、失敗する」
 座敷に、静寂が落ちた。忠弥の目が、細く鋭くなった。
「何を根拠にそう言う」
 凪は深呼吸した。ここが正念場だと分かっていた。
「私は、未来から来た者です」
 忠弥は表情を変えなかった。ただ、続けろという目をした。
「慶安四年に由井正雪の乱は起きます。しかし幕府側に密告者が現れる。計画が漏れ、挙兵は失敗する。正雪殿は駿府で自刃し、忠弥殿は捕縛されて処刑される」
「……お前は、本当に変な男だな」と忠弥はゆっくり言った。「しかし」
 彼は立ち上がり、窓の外を見た。
「仮にそれが真だとして、俺はどうすれば良い」
「武力を捨て、訴えに変える」
「侍が、武力を捨てるか」
「捨てるのではない」と凪は言った。「使い方を変えるんです。剣は人を斬るためだけにあるのではない。守るためにもある。あなたの剣は、牢人たちを守るために使える」
 忠弥は長い間、窓の外を見ていた。
 やがて彼は振り向いた。その目に、何かが変わっていた。
「……一つ、聞いていいか」
「何でしょう」
「俺たちは、歴史に残るか」
 凪は少し考えてから答えた。
「残ります。慶安太平記として、講談に、落語に、物語として語り継がれます。ただ、それが悲劇の英雄としてか、それとも別の形かは、今ここで決まる」
 忠弥は、また長い間黙っていた。
「……分かった。先生に従う。だが」と彼は付け加えた。「もし道が違ったとしても、俺は侍として死ぬ覚悟はできている。それだけは変わらない」
「それで十分です」と凪は言った。


七章 嘆願書の行方

 松平信綱の家老・片岡右近との会合は、雨の夜に行われた。
 神田の小料理屋。座敷には三人。凪、柳沢、そして片岡。
 片岡は五十がらみの、目の細い慎重そうな男だった。凪が嘆願書を差し出すと、彼は音も立てずにそれを開き、ゆっくりと読み始めた。
 長い沈黙。
「……牢人の数が、これほどとは」と片岡はやがて言った。
「私の調べでは、全国で数十万に上ります」と凪は言った。「多くが食い詰めており、社会の不安定要因となっています。これを放置すれば、いずれ大きな騒乱が生じます」
「それは、脅しか」
「警告です。そして、解決策の提案です」
 凪は続けた。牢人を再雇用するための政策、大名家の召し抱えを促す制度、開拓地への移住奨励。現代の政策立案の知識を、江戸時代の文脈に合わせて言葉にした。
 片岡は再び、書状に目を落とした。
「この提案を書いたのは、お前か」
「はい」
「お前は、どこの何者だ」
 凪は答えた。「旅の者です。しかし、この問題を解決したいと思っている者です」
 片岡は書状を畳み、懐に入れた。
「持ち帰る。信綱様にお見せできるかどうかは約束できない。だが、この内容は……考えさせられる」
 それが会合の結論だった。
 帰り道、柳沢が言った。
「うまくいくかの」
「分かりません」と凪は言った。「でも、動かなければ何も変わらない」
 その夜、凪は宿に戻って、ようやく疲れが出た。畳の上に倒れ込み、天井を見つめた。
 どれほど時間が経ったか、分からなかった。江戸に来てからどれだけ経ったのかも、正確には把握できていなかった。
 元の時代に帰れるのか。帰る方法は何か。
 凪にはまだ、何も分からなかった。
 しかし今はそれより、目の前のことを終わらせなければならない。


八章 分岐点

 歴史は、凪の介入によって揺れ始めていた。
 しかしそれは、簡単には変わらなかった。
 正雪への密告は、史実通り起きた。稲葉正利という武士が、正雪の計画を幕府に告発した。江戸城は緊張し、勘定奉行が動いた。
 凪は駿府に急使を送った。
「正雪殿、今すぐ逃げてください。密告が入りました」
 しかし歴史の重力は強かった。正雪は逃げなかった。あるいは、逃げられなかった。
 幕府の使者が駿府に到着したのは、その二日後だった。
 凪は道場の外で、遠くから見ていた。使者たちが道場を包囲していく様子を。
 史実では、正雪はここで自刃する。
 凪は動いた。
 考える間もなく、体が動いていた。
 彼は使者たちの前に出た。着物姿で、腰に刀はない。非武装の、ただの文人として。
「待ってください」と凪は叫んだ。「私は、松平信綱様の家老・片岡右近様とお会いした者です。お取次ぎをお願いしたい」
 使者たちは戸惑った。
 凪は懐から書状を出した。片岡との会合の証となる、柳沢が用意した証文だった。
「由井殿は、すでに計画を中止しています。証拠を持っています。どうか、話を聞いてください」
 緊迫した時間が流れた。
 使者の一人が、書状を確認した。別の一人が、馬で何処かへ走った。
 やがて、正雪が道場から出てきた。
 彼は凪を見た。凪は彼を見た。
「馬鹿なことをするな」と正雪は静かに言った。
「生きていてください」と凪は言った。「あなたが生きて訴え続ける方が、牢人たちのためになります」
 正雪は長い間、凪の目を見た。
 そして、頷いた。
 彼は刀を地面に置いた。
 使者たちが前に出た。しかし大きな混乱は起きなかった。
 後日、判明したことだが、片岡が信綱に嘆願書を届けていた。信綱は内容を興味深く読み、使者たちに「穏便に」という指示を加えていたのだ。
 歴史が、変わり始めた。


九章 新しい慶安

 由井正雪は、処刑されなかった。
 取調べは長期に及んだが、計画の中止が証明され、また嘆願書の内容が幕府内の一部の者の心を動かしたこともあって、正雪は流罪に処された。遠島だった。しかし生きた。
 丸橋忠弥も、同様だった。計画への関与は認められたが、実行前に止まっていたため、重罪は免れた。
 そして不思議なことが起きた。
 松平信綱が、牢人問題への対策を検討し始めたのだ。
 嘆願書の内容が、直接の原因だったかどうかは分からない。しかし凪の書いた提案の幾つかは、信綱の政策立案の中に影を落とした。史実では「慶安の変」をきっかけとした末期養子の禁の緩和も、この時代では異なる形で実現していった。
 凪はそれを、駿府で聞いた。
 流罪になる前の数日、正雪は道場で凪と話した。
「お前のおかげだ」と正雪は言った。
「いいえ」と凪は言った。「あなたが刀を置いたからです。それができたのは、あなたの中に本当の目的があったからです。武力ではなく、牢人を救うという」
「しかし、結果として俺は流罪になる」
「生きています」
 正雪は苦笑した。
「武士として、それが誇りと言えるかどうか」
「生きて訴え続けることが、最大の武士道だと私は思います」
 正雪は長い間、黙っていた。
「お前は、いつか元の場所へ戻るのか」
「……そうだと思います。いつかは」
「お前の時代に、牢人問題は解決しているか」
 凪は少し考えた。
「形を変えた牢人問題は、あります。仕事のない者、社会からはじき出された者。それはいつの時代にも存在する。しかし、少しずつ、社会は変わっています」
「少しずつ、か」と正雪は繰り返した。「それで良いのかもしれない」
 それが、二人の最後の会話だった。
 翌日、正雪は護送されて駿府を去った。凪は道の端に立って、その行列を見送った。


十章 帰還

 正雪が去った後、凪は目的を失ったように、しばらく駿府に留まった。
 柳沢も江戸へ戻った。忠弥は、信綱の取り計らいで、ある大名家に仕官できることになったと風の便りに聞いた。
 凪は一人、道場の片隅に残された。
 どうやって帰るのか、分からなかった。
 来たときは、古書の本を手に取った瞬間に飛ばされた。逆のことをすれば戻れるのか。しかし同じ本は手元にない。
 ある夜、凪は富士山の見える丘に登った。
 月が出ていた。空が広かった。虫の声がした。
 玉響、と凪は思った。魂の微かな揺らぎ。自分をここへ送り込んだ何か。
「仕事は終わったぞ」と彼は空に向かって言った。「あとは頼む」
 風が吹いた。
 凪は目を閉じた。
 世界が揺れた。


 気づいたとき、凪は古書店の前に立っていた。
 東京の、夜の街。ネオンの光。車の音。スマートフォンを持った人々が行き交う。
 凪は自分の服装を確認した。現代の服だった。江戸の着物は、消えていた。
 夢だったのか、と彼はしばらく思った。
 しかし足の裏には、東海道を歩いた記憶がある。手のひらには、嘆願書を書き続けた記憶がある。
 古書店の中を覗いた。先ほどまで光を放っていた棚の辺りに、何もなかった。本は消えていた。
 凪は空を見上げた。東京の夜空に、星はほとんど見えない。しかし月はあった。同じ月が、四百年の時間を超えて、ここにある。
 携帯電話を取り出すと、電源が入った。日付は、古書店に入る前の日と同じだった。
 時間は、戻っていた。
 凪は歩き始めた。帰り道を、ゆっくりと。
 彼の頭の中には、由井正雪の言葉が残っていた。
「少しずつ、か。それで良いのかもしれない」
 そうだ、と凪は思った。大きな変革は、小さな意思の積み重ねから生まれる。一枚の嘆願書が、一つの会話が、歴史を少しだけ変えることがある。
 彼は歩きながら、ふと思った。
 今の時代にも、正雪のような問題は存在する。行き場のない人々。不公平な制度。力を持たない者たちの声。
 正雪ほど命を張る者は、この時代には現れないかもしれない。
 しかし、言葉を持つ者はいる。
 凪は家に帰ると、パソコンを開いた。そして、書き始めた。
 自分が見てきた江戸のこと。牢人問題のこと。正雪のこと。そしてそれが今の時代に何を示唆するか。
 それが彼の、新しい戦い方だった。


エピローグ 慶安太平記、新章

 数ヶ月後。
 榊原凪は神田連雀亭の座席にいた。いつもの定席、いつもの場所。しかし今日は少し、違う気持ちでいた。
 高座に、講釈師が上がった。演目は「慶安太平記」。
 凪は目を閉じた。
 语り口が始まった。
「……由井正雪、その名を歴史に刻んだ男。しかし諸説あり、一説には――正雪は武力を捨て、言葉によって牢人の救済を訴えたとも伝えられております……」
 凪は目を開けた。
 「一説には」。
 歴史は変わった。完全にではない。しかし、語り継がれる物語の中に、新しい声が混じっていた。
 彼は小さく、笑った。
 講釈師の語りが続く中で、凪の脳裏には、あの丘の上で見た月が浮かんでいた。富士山のシルエット。松林の匂い。
 そして、正雪の言葉。
「お前さんの力を、借りたい」
 力は貸した。できる限りのことをした。それで十分だ。
 武士道とは立派なものだった、と凪は思う。
 しかし、武士道だけが誇りある生き方ではない。言葉を持ち、考え、諦めずに訴え続けること。それもまた、一つの道だ。
 いつの時代も、人は同じ問題に直面する。格差、不公平、声の届かない人々。そしていつの時代も、それを変えようとする者が現れる。
 小さく、静かに。しかし確かに。
 玉響たちが、運ぶように。

――了――



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【作者注】
本作は慶安の変を題材としたフィクションです。由井正雪、丸橋忠弥、松平信綱などは実在の歴史人物ですが、物語の展開は著者の創作によるものです。実際の慶安の変(慶安四年、一六五一年)では、正雪は駿府で自刃し、忠弥は江戸で磔刑に処されました。この小説は、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。

止まらない時間の、その向こうで
〜あの夏は、まだ終わらない〜


まえがき
ラジカセから、知らないはずの夏が流れ出した。
1994年。私はまだ生まれていない。
けれど深夜零時、砂嵐の奥で誰かが息を吸うような気配が混じり、続いて若い声が言った。
「僕は今年で十九歳。これからどんな大人になるのか、まるで見当もつかないよ」
止まらない時間をめぐる、ひと夏の恋と、ひとつの歌の物語。
あなたの部屋にも、あの夏の風が吹くかもしれない。




第一章 深夜のノイズ
母が亡くなって三ヶ月。
遥花(はるか)は実家の納戸で、埃をかぶった古いラジカセを見つけた。銀色のボディはところどころ錆び、スピーカーの布は黄ばんでいる。電源を入れると、オレンジ色のランプが思いがけず素直に灯った。
「まだ動くんだ」
その夜、ラジカセを自室に持ち帰り、電源を入れたまま眠ってしまった。
深夜零時。真夏のテレビのような砂嵐が突然部屋に満ち、ノイズの奥で誰かが息を吸う気配がした。続いて、聞いたことのない曲が流れ出す。
アコースティックギター。少し掠れた男性の声。
切ないのに、どこか懐かしい。
曲が終わると、パチッというマイクのスイッチ音がして、若い声が告げた。
「──一九九四年、七月十四日。今夜のミニFM『スタジオ・ブルー』は、この曲でお別れです。それでは、また明日」
その年、遥花はまだ生まれていない。
翌晩も、また翌晩も、同じ時刻に同じノイズが流れた。
どうやら誰かが深夜に一人で電波を飛ばしている私設のミニFMらしい。
そしてある夜、声はこう言った。
「……この夏、あの人はテレビに出るのをやめてしまった。理由は誰も知らない。ただ、この曲だけが街のどこにいっても流れてる。僕は今年で十九歳。これからどうなるのか、ほんと全然わかんない」
その孤独に触れた瞬間、遥花は思わずラジカセに向かって呟いていた。
「……あなた、誰?」
数秒の沈黙。
...そして、狼狽した声。
「今、誰か喋った……? ここ、僕しかいないはずなのに」


第二章 拓海という青年
それから毎晩零時、遥花と一九九四年を生きる青年・拓海(たくみ)は、壊れかけたラジカセを通して言葉を交わすようになった。
「拓海が話す今日のニュースも、その日の出来事も、後から調べるとすべて一九九四年の記録と一致していた。」
「本当に未来の人間なのか、君は」
拓海の声は少し掠れていて、笑うと語尾が跳ねる。
その声だけで、遥花は彼の表情まで想像できるようになっていった。
拓海は、あの夏のことをよく話した。
憧れの歌手が忽然と姿を消し、街では一曲だけが繰り返される奇妙で美しい夏。
「不思議だよな。あの人がテレビに出ないだけで、街の雰囲気まで違って見えるんだよ」
「その曲、今のわたしにも聴こえてるよ。すごく綺麗な曲」
「だろ? タイトルが『刻よ止まれ』。止まらないものを止まれって、ちょっと笑えるよな」
その笑い声に、遥花の胸がふっと痛んだ。


第三章 重なる心、交わらない時間
会話を重ねるうち、遥花は拓海に惹かれている自分に気づいた。
会ったこともない、写真もない、声だけの相手に。
拓海もまた、同じ気持ちを抱いているようだった。
「君の声を聞いてると、この先の人生も悪くないって思えてくる」
「わたしも……あなたと話す時間が、一日の中でいちばん大事になってる」
けれど二人はすぐに、決定的な隔たりに気づく。
拓海にとって遥花は「未来からの声」であり、遥花にとって拓海は「三十年前の十九歳」なのだ。
ある晩、遥花は堪えきれず尋ねた。
「拓海さんは今、何歳になってるんだろう。三十年後の今、どこで何してるんだろう」
長い沈黙。
やがて、消え入りそうな声。
「……それを訊くのは、ずるいよ。僕にはまだ、その答えを知りようがないんだから」
遥花は自分の問いを深く悔いた。
二人の「今」は決して重ならない。


第四章 遥花が知っていたこと
ある夜、母の遺品を整理していて、遥花は一枚のアルバムに手を止めた。
一九九四年の夏。
縁側で撮られた写真。
そこに写っていたのは、十九歳の母と──語尾が跳ねそうな笑顔の青年。
裏には母の字でこう書かれていた。
『たくみさんと。あの夏、ラジオばかり聴いていた』
息をのんだ。
ページを閉じようとしても、指先が紙に貼りついたように動かなかった。
その夜、零時を待ったが、拓海に本当のことを言えなかった。
彼がこれから誰と出会い、誰を愛し、どんな夏を過ごし、どんな別れを迎えるのか──遥花はもう知っている。
「遥花、今日は静かだな。どうかしたのか」
「……ううん、なんでもない」
「そっか」
語尾の跳ねない返事が胸に刺さった。


第五章 時間は止まらない、けれど
遥花はついに、拓海にすべてを話す決意をした。
写真のこと。母のこと。
...そして、自分がすでに彼の未来の一部を知ってしまっていること。
拓海はしばらく黙っていた。
やがて穏やかな声で言った。
「そうか。じゃあ僕は、これから君のお母さんと出会って、恋をして……ちゃんと誰かを大切にして生きていくんだな」
「拓海さん、辛くない? わたしたちは結局──」
「辛くないよ」
拓海は遮った。
「むしろ嬉しい。だって、僕がこれから生きる時間の果てに、君みたいな人が僕のことを覚えていてくれる。君は、僕の人生が間違ってないって教えてくれてる。そうだろ?」
遥花の目から涙がこぼれた。
母が生前ぽつりと残した「歌がすごく上手かったの」という言葉が、拓海の声と重なった。
「あの曲、『刻よ止まれ』ってタイトルだったよね」
遥花は涙を拭い、静かに問いかけた。
──止まらない時間なのに、どうしてそんな願いを歌にしたんだろう。
「止まらないから、歌うんだと思う」
拓海は静かに続けた。
「止まらないものを、せめて歌の中でだけは引き止めておきたかったんじゃないかな。それに──」
一瞬、声が揺れた。
「時間が止まらないおかげで、僕はこれから君のお母さんに出会える。そして、いつか君も生まれてくる。止まらない時間の中でしか、僕らは出会えなかったんだよ、遥花」
ノイズがふっと凪いだ。


エピローグ
数日後、深夜零時になっても、ラジカセは砂嵐しか流さなくなった。
それでも遥花は毎晩電源を入れ続けた。
もう拓海の声は聞こえなかったが、胸には温かな風が残っていた。
アルバムの巻末には、一枚のカセットテープが挟まっていた。
母が晩年まで大切にしていたらしい。
ラベルには、少し色褪せた拓海の文字。
『刻よ止まれ ―― たくみさんと聴いた、あの夏の歌』
再生ボタンを押す。
ガチリという重い音。
ノイズの向こうから、あのアコースティックギターが流れ出す。
そして気づく。
その歌声は、深夜ラジオの向こうで何度も耳にした、あの拓海の声、そのものだった。
戻らない若さ。
止まらない時間。
けれど、止まらないからこそ、あの夏は確かに存在した。
拓海は生き、歌い、誰かを愛し、母と出会い、そしてその先に──遥花がいる。
窓の外には、新しい夏の気配。
遥花は音量を少し上げ、目を閉じた。
止まらない時間の、その向こうで。あの夏の風は、今も静かに吹いている。


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あとがき
この物語は「時間」を書こうと思って書き始めました。
止められないし、戻れない。ずるいほど一方通行です。
でも拓海が言ったように、止まらないからこそ、誰かと出会える。
遥花と拓海は触れ合えません。
同じ時代に立つことすらできません。
けれど声と言葉と一本の歌だけは、三十年を越えて届いた。
もしあなたの家にも古いラジカセやカセットテープが眠っていたら。
深夜にそっと電源を入れてみてください。
ノイズの向こうに、誰かの「まだ終わらない夏」が流れているかもしれません。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
あなたの夏にも、吹き抜ける風がありますように。


右足から始める男 完全版



まえがき

「あなたの『なんとなく』に、名前をつける本です」

駅の階段を降りる時、数歩手前から歩幅を調整したこと、ありませんか。  

シャツは右腕から、ズボンは左足からじゃないと落ち着かない。  

メールの「よろしくお願いいたします」は三回書かないと送信できない。  

根拠はない。意味もない。  

でも、それを破った日は、世界が0.5秒ズレる気がする。  

この物語は、そんな「なんとなく」に支配されてきた男・田中誠一の話です。  

右足から階段を降りたい。ただそれだけの男が、呪いをお守りに変えて、道具にして、最後は娘に渡すまでの、四十年の記録。  

読んだ後、あなたはきっと自分の足元を見る。  

そして、ふっと笑う。  

それでいい。それがこの本の目的です。  

どの足からでも、どこへでも、行ける。  

そんな当たり前を、思い出すために。  

なんとなく文庫編集部





右 足 か ら 始 め る 男 第一巻
〜 あるいは、人生を支配する小さな儀式について 〜
著:なんとなく文庫

第一章 啓示は駅の階段で訪れた
田中誠一、四十三歳。
大手食品メーカーの経理部に勤めて十八年。趣味は特になし。特技も特になし。強いて言えば、エクセルの関数を組むのがやや得意であることと、もうひとつ——
階段を上がる前に、最初の一歩が右足か左足かを、数メートル手前から看破できる、という謎の才能があった。
これは本人が最初に気づいたのは中学三年の春のことだった。
通学路にある歩道橋。毎朝渡るそれを、ある朝なんとなく眺めていたら、ふと思った。
「……左足からになりそうだな」
著者も実際、左足から上り始めた自分がそこにいた。
翌朝も、翌々朝も。田中少年は確信した。俺には才能がある、と。
もっとも、その才能が何かの役に立ったことは、三十年間、ただの一度もなかった。
就職面接でその話をしたら、面接官が静かに次の質問へ移った。
合コンで披露したら、相手の女性が急にスマホを取り出した。
母親に話したら「ご飯食べなさい」と言われた。
それでも田中は、毎朝、駅の階段の手前で立ち止まり、予測を立て、そして——できれば右足から上りたい、と思うのだった。
右足からが好きだった。なんとなく、縁起が良い気がした。根拠は何もない。ただ、なんとなく。
だから今朝も、田中は東西線・落合駅の地下への階段、その五メートル手前で、歩幅を微妙に調整した。
〇・三歩ほど、小さく刻む。
そして——右足から、完璧に、降りた。
一日が、始まった。


第二章 ズボンの秩序
田中家の朝のルーティンは、鉄のように固まっていた。
六時十五分 起床
六時十七分 トイレ
六時二十分 洗顔
六時二十八分 着替え
この「着替え」のくだりが、田中の人生においてひとつの宗教的儀式の様様を呈していた。
まず、パンツは左足から。
これは絶対だった。もう何年も前から、理由もなく、ただそう決まっていた。右足から履こうとすると、なぜか体がぎこちなくなる。宇宙の法則に逆らっている気がする。
靴下も左足から。これもまた然り。
ズボンも左足から。
下半身については、すべて左から始まる。
一方、上半身はその逆だった。
シャツは右腕から通す。上着も右腕から。コートも右から。
下が左で、上が右。これが田中誠一の宇宙の秩序だった。
ある朝、ぼんやりしていた田中は、うっかりズボンを右足から履いてしまった。
……気づいたのは、ベルトを締めたあとだった。
田中は三秒間、静止した。
(……まあ、いいか)
と思ったが、玄関で靴を履こうとしたとき、なぜか右足から履きたくなった。靴は左からと決まっているのに。
田中は靴を脱いだ。
玄関に戻った。
ズボンを脱いだ。
左足から履き直した。
会社に三分遅刻した。
上司に理由を聞かれ、「電車が」と言った。
電車は定刻通りだった。


第三章 同志との出会い
事件が起きたのは、社内の喫煙ルームだった。
田中は煙草を吸わないが、たまに缶コーヒーを持って息抜きに入ることがある。そこで、営業部の後輩・木村と二人きりになった。
木村は二十八歳。いつも元気で、体育会系で、朝のミーティングでは「本日も全力で参ります!」と言うタイプの人間だった。田中とは対極にいると思っていた。
その木村が、ふと言った。
「田中さん、変なこと聞いていいですか」
「どうぞ」
「階段って、右足から上がりたくないですか?」
田中の缶コーヒーが、止まった。
「…………」
「あ、おかしいですよね、忘れてください」
「いや」田中は静かに言った。「わかる」
「え?」
「わかる。数メートル手前から、どっちの足になるかわかるだろう」
「わかります!!」
喫煙ルームに、奇妙な連帯感が満ちた。
二人は二十分間、語り合った。
木村もまた、右足から階段を上りたい派だった。そして、着替えには独自の順序があった。木村の場合、すべて右から始める、という流儀だった。下も上も右から。田中とは違うが、「こだわりがある」という点では同じだった。
「逆から羽織っちゃったとき、やり直しますか?」田中は聞いた。
木村は即答した。「やり直します」
「脱いで?」
「脱いで」
田中は初めて、この世界に自分と同じ、いや自分より重症な人間がいることを知った。
木村はコートを間違えた場合、たとえ真冬の屋外でも、いったん袖を抜いてから着直すのだという。
「寒くないですか」
「めちゃくちゃ寒いです。でもやらないと落ち着かない」
田中は、この後輩を尊敬した。


第四章 伝播
それから一週間後、田中は妻の洋子に、木村の話をした。
洋子は三十九歳。パートで薬局に勤めており、基本的に合理的な人間で、「なんとなく」という言葉をあまり使わない。田中が以前、「右足から階段を上りたい」と話したときは、「そう」と言ってチャンネルを変えた。
だが今回、木村の話を聞いた洋子は、しばらく黙ったあと、こう言った。
「……私ね、お風呂は左足から入るわ」
田中の箸が、止まった。
「いつから?」
「気づいたらそうなってた。右から入ると、なんか違う感じがする」
「違う感じって?」
「なんか……バランスが悪い感じ」
田中は思った。この人とは、うまくやっていけると。
十五年越しに、そう思った。
翌週、洋子が娘の菜々子(十二歳)に聞いてみた。
菜々子は即座に答えた。
「靴は右から。それ以外は全部左」
「それ以外って?」
「ぜんぶ」
田中家は、三者三様のルールを持つ一家だった。
そして誰も、誰かにそれを強制しなかった。
各自が、各自の宇宙の秩序に従って、毎朝着替えていた。


第五章 哲学的考察
田中は、ある夜、考えた。
なぜ、人はこんなことにこだわるのだろう。
合理的な意味は、まったくない。右足から階段を上ろうが左足から上ろうが、到着する場所は同じだ。ズボンをどちらから履いても、ズボンはズボンだ。宇宙は気にしない。神様も(もし存在するなら)もっと大事なことで忙しいに違いない。
それでも——
右足から、ちゃんと上れた朝は、なんとなく気分がいい。
着替えの順序が守れた日は、なんとなく一日がうまくいく気がする。
根拠はない。統計もない。エビデンスはゼロだ。
だが、人間とはそういうものではないか。
コーヒーを左手で持つと落ち着く人がいる。傘は必ず右手に持つ人がいる。メールの文末に「よろしくお願いいたします」を三回書かないと送信できない人がいる(田中の同僚・佐藤がそれで、一度「よろしく」が二回になったときに送信ボタンを押せず、結果として大事なメールが五時間遅延した)。
人生とは、無数の「なんとなく」で構成されている。
そしてその「なんとなく」が、毎朝の小さな安心を作り出している。
田中は缶ビールを一口飲んで、テレビを消した。
明日も、右足から降りよう、と思いながら。


第六章 事件
問題は、出張先で起きた。
大阪のクライアントへの訪問。田中は新幹線で向かい、ホテルにチェックインし、翌朝、スーツに着替えようとした。
そこで気づいた。
スーツのジャケットを、左腕から通してしまった。
田中は固まった。
左腕からジャケット。これは、田中の宇宙において、あってはならないことだった。
右腕から、と決まっている。上半身はすべて右から。これは不変の法則だった。
(……まあ、いいか)
と思おうとした。朝九時の商談まで、あと四十分しかない。
(いや、でも)
気になる。
田中は、ジャケットを脱いだ。
右腕から着直した。
すっきりした。
商談は、うまくいった。
因果関係は、まったくない。


終章 なんとなく、それで良い
田中誠一は今日も、東西線・落合駅の地下への階段の、五メートル手前に立っている。
朝の通勤ラッシュ。周囲の人々は誰も、足元など見ていない。スマホを見ながら、イヤホンをしながら、みんな自動的に階段を下りていく。
だが田中は、見ている。
感じている。
〇・三歩、小さく刻む。
そして——右足から、完璧に、降りる。
今日も良い一日になる。
根拠はない。
ただ、なんとなく。
あなたは——いかがでしょうか。





右 足 か ら 始 め る 男 第二巻 

——左右の彼方へ
著:田中誠一


第七章 左足の裏切り
田中誠一、四十三歳。その日は、決定的に違っていた。
東京メトロ東西線・落合駅。いつもの階段の手前、残り五メートルの地点。
田中の脳内コンピューターは、すでに冷徹な予測を弾き出していた。——このままの歩調では、今日は、左足から降りることになる。
(……調整すればいい)
彼は密かに歩幅を狭めた。〇・三歩、細かく刻む。さらに微調整を加えて、もう〇・一歩。
だがその瞬間、計算の外から不確定要素が飛び込んできた。前にいた大学生が、急に立ち止まってスマホを取り出したのだ。衝突を避けるため、田中は横へステップを踏んだ。その刹那、彼が何年も守り続けてきた精緻なリズムが、音を立てて崩れ去った。
左足から、降りた。
田中は階段の途中で、凍りついたように足を止めた。網膜の奥で、世界の時間が〇.五秒ほど不自然にズレたような奇妙な感覚に襲われる。
(まあ、いいか……)
無理やり自分を納得させようとしたが、胸の奥に生じた小さなしこりは消えてくれなかった。
会社に到着してからも、その底知れない違和感は影のように彼に付きまとった。いつもなら完璧にこなすエクセルの関数設定で、なぜか三回連続のエラーを出した。昼飯に注文した大好物の唐揚げ定食は、不思議なほど味が薄く、なんとなくパサついているように感じられた。
今朝の左足と、この不調。因果関係など、あるはずがない。ない、はずだった。
夕方、いつものように重い足取りで向かった喫煙ルームで、後輩の木村と遭遇した。
「田中さん、なんだか顔色悪いっすよ。大丈夫ですか?」
田中はしばらく沈黙したあと、消え入りそうな声で告白した。
「……今朝、左足から降りたんだ」
木村の手が震え、持っていた缶コーヒーをあやうく床に落としそうになった。
「マジすか……。で、どうだったんすか?」
「最悪だ」
「ですよね」
二人はそれ以上、言葉を交わさなかった。ただ無言で缶コーヒーを口に運ぶ。非合理な世界の住人たちだけが共有する、重く、深い沈黙が部屋を満たしていた。

第八章 洋子の提案
帰宅後、夕食の食卓についた田中は、おもむろに妻の洋子へ告げた。
「今日、左足から階段を降りたんだ」
洋子は手を止めることもなく、お椀に味噌汁をよそいながら即答した。
「で、死んだ?」
「……死んでない」
「じゃあ大丈夫じゃない」
すると、隣で唐揚げを勢いよく頬張っていた十二歳の娘・菜々子が、咀嚼を止めて二人を見た。
「パパ、ルールに支配されてるんだよ。ルールを使ってるんじゃなくてさ」
娘の放った一言が、田中の胸に深く突き刺さった。返す言葉がなかった。
その夜、お風呂上がりに髪を拭きながら、洋子がふと思い出したように言った。
「私ね、さっきあえて右足からお風呂に入ってみたの」
田中はベッドの上で身を起こした。「……どうだった」
「別に。いつもとお湯の温度も変わらないし、自分の機嫌が悪くなることもなかった。ただね、ほんのちょっとだけ、自分が自由になった気がしたかな」
「自由?」
「うん。だって、自分でルールを破れるってことは、自分で次の行動を選べるってことでしょ」
静まり返った寝室で、田中は枕元に置いた靴下をじっと見つめた。
左足から。
いつも通りの順番でそれを履いた。しかし彼は、自分の意志で「右足から履こうと思えば、いつでも履けるのだ」という事実を、人生で初めて明確に認識していた。

第九章 乱れ打ちの日
翌朝、田中は密かな実験を開始した。
ズボンを穿くときは、右足から。
シャツに袖を通すときは、左腕から。
靴を履くときは、あえて右から。
全身の皮膚がむずむずするような、奇妙な焦燥感が這い回る。まるで、大いなる宇宙の秩序に一人で逆らっているかのような、途方もないスケールの恐怖があった。
しかし、通勤電車は一分の狂いもなく定刻通りにホームへ滑り込んできた。午前中の重要な商談も、何事もなくごく平穏に終わった。昼休みに食べた唐揚げ定食にいたっては、昨日よりも明らかにジューシーで美味かった。
夕方、再び喫煙ルームで木村を捕まえ、田中は事もなげに報告した。
「……今日、全部の順番を逆にしてやってみた」
木村はタバコをくわえたまま絶句した。
「田中さん、正気ですか。そんなことしたら世界が終わりますよ」
「終わらなかった」
「……怖くないんすか」
「怖いよ。でもな、怖いままの一日を、何事もなく過ごせることも分かったんだ」
それから三日後、木村がどこか誇らしげな顔で田中に報告してきた。
「僕も実験してみました。真冬なのに、コートを着直さずにそのまま出社してみたんすよ」
「結果は?」
「ばっちり風邪ひきました」
「それはただの防寒不足だろ」
二人は声を上げて笑った。彼らが知り合って以来、儀式の話題について冗談を言い合い、笑い合えたのは、これが初めてのことだった。

終章・改 どちらからでも良い
それから一ヶ月の月日が流れた。
田中は相変わらず、できれば右足から階段を降りたいと思っている。
衣服を着るときだって、下半書は左から、上半身は右から始めたい。その方が、単純に身体が馴染むし、気持ちが落ち着くからだ。
でも、今の彼はもう、かつての彼ではない。彼は知っているのだ。
左足から降りてしまった日も、ジャケットを左の袖から通した日も、この世界が崩壊することは決してないということを。
「なんとなく」続けてきた日々の儀式は、自分を縛り付ける呪いではなく、自分をそっと守ってくれるためのお守りだった。お守りなら、いつでも肌身離さず持っていればいいし、ときにはポケットから取り出して、ただ眺めるだけでも十分にその役割を果たしてくれる。
今日もまた、東京メトロ東西線・落合駅。いつもの階段の手前、残り五メートル。
田中はもう、立ち止まらない。
歩数の予測もしない。姑息な歩幅の調整もしない。
彼はただ、前を向いて歩く。
右足から、降りた。
とても気分が良い。
そこに特別な根拠は存在しない。
ただ、今日の右足は、誰に強制されたわけでもなく、彼自身が選び取った右足だから。なんとなく、そう思うのだ。
明日の朝は、もしかしたら左足になるかもしれない。
それでも、きっとそれは良い一歩になる。
根拠はない。
ただ、なんとなく。
あなたは——どちらの足から歩み出しても、それで良い。




右 足 か ら 始 め る 男 第三巻

 —— 両足で立つ男
著:田中誠一

第十章 部下の呪い
田中誠一、四十四歳。係長になった。
春の人事異動で、彼のチームに新人が二人配属された。一人は佐藤。もう一人は、大学を出たばかりの高橋という男だった。
高橋は優秀だった。エクセルの関数も組める。報連相もできる。ただ一つ、厄介な癖があった。
メールの文末に、必ずこう書くのだ。

何卒よろしくお願いいたします。
何卒よろしくお願いいたします。
何卒よろしくお願いいたします。

三回。必ず三回。
ある日、取引先への重要なメールを、高橋が「よろしくお願いいたします」二回で送信してしまった。
十分後、取引先の部長から電話が来た。
「田中さん、君のところの新人、やる気あるのかね?」
高橋は青ざめた。
「すみません……二回しか書けなくて……手が止まってしまって」
喫煙ルームで、木村がニヤついた。
「田中さん、これ、既視感ありません?」
「……俺のズボンだ」
田中は、高橋を会議室に呼んだ。
「高橋くん。なぜ三回なんだ?」
「……三回書かないと、送信ボタンが押せないんです。根拠はないんですけど。なんか、メールが届かない気がして」
田中は、一年前の自分を見ている気がした。
「わかるよ」と、言いそうになって、やめた。
「高橋くん。今日から一週間、『よろしくお願いいたします』を一回で送ってみろ」
「無理です!事故ります!会社が潰れます!」
「潰れない。俺が保証する。怖いままでいい。怖いまま、送信しろ」
高橋は三日間、送信前に嘔吐した。四日目、初めて一回で送れた。五日目、取引先から返信が来た。
「先日の件、承知しました。よろしくお願いします」
一回だった。
高橋は泣いた。田中は、黙って缶コーヒーを渡した。

第十一章 菜々子の反乱
中学二年になった菜々子が、ある朝宣言した。
「私、今日から全部ランダムにする」
靴は左右バラバラに履く日がある。朝食は味噌汁から飲む日と、鮭から食う日がある。風呂は右足から入ったり、頭から潜ったりする。
田中家の朝はカオスになった。洗面所の順番が崩れ、洋子がキレた。
「あんた、わざとやってるでしょ!」
「わざとだよ。だってパパもママも、ルールで安心してるんでしょ。私も安心したいもん」
痛いところを突かれた。
定期テストの朝、菜々子はいつもより一時間早く起きた。
そして、玄関で立ち止まり、深呼吸して、左足から家を出た。
夜、返ってきた点数を見せに来た。数学、98点。
「……左足から出たの、ゲン担ぎ?」
菜々子は照れくさそうに笑った。
「うん。パパの遺伝かな」
田中は、娘のバッグが少しだけ、大人に見えた。

第十二章 木村の独立
木村が、退職願を出した。ベンチャーに転職するという。
送別会の帰り、木村が駅のホームで言った。
「田中さん、俺、新しい会社でやっていけるかな」
「どうして?」
「あそこ、フリーアドレスなんすよ。毎日席が違う。コートを右から着る前に、席を探して焦って、順番ぐちゃぐちゃになる。もうダメかも」
田中は、一年前の自分を思い出した。
「木村。お前、真冬にコート着着直さなくても風邪ひくだけだったろ」
「はい」
「儀式が崩れても、世界は終わらない。終わらないけど、怖いよな」
「怖いっす」
「怖いまま、行け。怖いまま働いて、怖いまま成果出せ。お守りは、ポケットに入れとけ。使うかは、お前が選べ」
三ヶ月後、木村から写メが届いた。新しい会社のデスクで、右手に缶コーヒー、左手でピース。
『リーダーになりました。コート、たまに左から着てます』
田中は、返信に五分かかった。
『よろしくお願いいたします』
一回だけ押した。

終章 両足で立つ
冬の朝。落合駅。
田中は階段の手前で、立ち止まらなかった。歩数も数えない。
ただ、前に進む。
今日は左足から降りた。
昨日は右足だった。おとといは、覚えていない。
大事な商談の日は、なんとなく右足から降りる。寝坊した日は、走り出す足が一歩目だ。
下半身はまだ左から履くことが多い。落ち着くから。
でも、急いでる日は右から履く。遅刻しない方が、もっと落ち着くから。
儀式は、呪いじゃない。お守りだった。
そして今は、道具だ。使いたい時に使えばいい。
部下の高橋が、メール一回で稟議を通した。
菜々子が、「今日は右足から出る」と言って高校受験に向かった。
洋子が、「レジのピッ、右手でもできるようになった」と笑った。
田中は、両足で立っていた。
右でも左でもない。どちらでもいい、を選べる場所に。
階段を降りきって、彼は振り返らない。
根拠はない。
ただ、なんとなく、今日も良い一日になる気がした。
あなたは——もう、どちらの足か気にしなくても、それで良い。





右足から始める男 第四巻

 —— 踏み出す娘へ
著:田中誠一

第十三章 十八歳の左足
田中誠一、五十八歳。定年まであと二年。
娘の菜々子が、大学四年生になった。就職活動の季節だ。
リクルートスーツに袖を通す菜々子が、洗面所の鏡の前で固まっていた。
「パパ……」
「どうした」
「ジャケット、どっちから着ればいいか、分かんなくなった」
田中は、十四年前の食卓を思い出した。
「靴は右から。それ以外は全部左」って言ってた十二歳の菜々子を。
「菜々子。お前、家を出る時はどっちの足から出てる?」
「……最近、バラバラ。良い日は左足。ダメそうな日は、右足から出直したりしてた」
「今日は?」
「今日、最終面接。絶対受かりたい」
沈黙が一秒。洋子が台所から顔を出した。
「菜々子、あんたが安心する方で行きな。お守りは、使うためにあるんだから」
菜々子は、ゆっくり右腕からジャケットに袖を通した。
「……行ってきます」
左足から、家を出た。
夜、菜々子からLINEが来た。
『受かった。第一志望。左足のおかげかも』
田中は返信した。
『おめでとう。お前が選んだ足だ』
既読がついて、すぐに『よろしくお願いいたします』と返ってきた。
一回だけだった。

第十四章 木村からの電話
「田中さん、俺、部下に抜かれました」
夜、木村から電話があった。四十歳、管理職。声は明るかった。
「『コート、左から着てもいいっすよ』って新人に言ったら、『木村さん、そういうの気にしすぎじゃないですか?』って言われました」
「……それで?」
「笑いました。昔の俺に言ってやりたいっす。世界、終わらねえぞって」
「今、コートどっちから着てんだ?」
「日によるっすね。急いでる日は、頭から被ります」
二人は笑った。喫煙ルームで出会った二人の「変な奴」が、十五年かけて普通の大人になっていた。
「田中さん、聞いてもいいですか」
「なんだ」
「今でも、階段、右足から降りたいっすか?」
田中は、窓の外を見た。
「あ。降りたいよ。でもな、左足でも平気になった。平気って、選べるってことだ」

第十五章 佐藤の卒業
高橋が、課長になった。三十五歳。
送別会で、高橋が田中に言った。
「係長、あの時『一回で送れ』って言われなかったら、俺まだ三回書いてました」
「今は?」
「『よろしくお願いします』すら書かない時あります。『承知』だけ。だってその方が早いし」
「取引先、怒らないか?」
「怒られないっすね。要件が伝わればいいんで」
田中は、缶ビールを飲んだ。苦くなかった。
二次会の帰り道、高橋がふと聞いた。
「係長は、なんで右足だったんすか?」
田中は、落合駅の階段を思い出した。三十年前の歩道橋も。
「……なんとなく、縁起が良い気がした。根拠はゼロだ」
「俺もっす。なんか、三回じゃないと届かない気がしてた」
「届いたな」
「届きましたね」
二人の影が、街灯に長く伸びた。

終章 踏み出す娘へ
定年退職の日。
田中は、最後に自分のデスクを片付けた。引き出しの奥から、古い名刺入れが出てきた。裏に、マジックで書いた文字。
『右足』
いつ書いたか覚えていない。三十代の、自分だ。必死だったんだろう。
田中は、名刺入れをスーツの内ポケットに入れた。捨てなかった。
落合駅。
もう「五メートル手前」を測らない。
エスカレーターを使う日もある。エレベーターの日もある。
雨の日は、滑らない方の足から降りる。
今日、田中は階段を選んだ。
踏み出す。
右足だった。
気分が良い。理由はない。
ただ、五十八年間付き合ってきた自分の足だから、なんとなく信頼している。
改札を出ると、菜々子が待っていた。社会人二年目。スーツがよく似合う。
「パパ、定年おめでとう」
「おう」
「で、今日どっちから降りた?」
「内緒だ」
菜々子が笑った。「私も内緒」
二人は並んで歩いた。右足と左足、どちらが先かなんて、もう数えない。
大事なのは、止まらずに歩くことだ。
田中は、ポケットの名刺入れに触れた。お守りは、まだそこにいる。
使う日も、使わない日もある。持っているだけで、いい。
人生は、無数の「なんとなく」でできている。
その「なんとなく」に、殺される時期もある。救われる時期もある。
そして最後は、それを笑えるようになる。
田中誠一は、今日も歩く。
右足から始める男。
左足でも進める男。
両足で立つ男。
そして今、踏み出す娘を見送る男。
根拠はない。
ただ、なんとなく、明日も良い一歩になる。
あなたは——どの足でも、どこへでも、行ける。

田中誠一、五十八歳。完走。
呪いをお守りに変えて、道具にして、最後は娘に渡した。
これで「右足から始める男」は本当に了。
でも田中の人生は続くし、菜々子の「左足から始める女」が始まるかもしれない。
右足から始める男 第五巻 —— 右足から始める私たち
著:なんとなく文庫編集部

第一章 私の右足
東京都在住・会社員・28歳・女
私の儀式は、イヤホンだ。
右耳から入れないと、その日一日、音楽が全部ズレて聞こえる。ボーカルが0.5秒遅れてくる。根拠はない。
今日、満員電車で押されて、左耳から入れちゃった。
一日、Adoの新曲が全部オフビートだった。仕事、ミスった。
因果関係、ないはずなのに。
夜、Xで呟いた。
「イヤホン左から入れた日、世界終わる説」
知らない人からリプが来た。
『わかる。私は靴下左から履かないと死ぬ』
死なないよ、って返そうとして、やめた。
だって私も、死ぬと思ってるから。

第二章 俺の左手
大阪府在住・大学生・21歳・男
俺は、コンビニの「ありがとうございました」を言わないと出られない。
店員が言わなくても、俺が言う。言わないと、レシートが呪われてる気がする。
ある日、無人レジしか空いてなかった。
「ありがとうございました」って、機械に言った。虚しかった。
その日、バイト落ちた。
関係ない。関係ないけど、次から有人レジに並んでる。
この前、バイト先の社員さんに言われた。
「君、律儀だね」
違う。呪われてるだけだ。でも、言わなかった。
だって社員さん、コーヒー左手で持たないと落ち着かないって、休憩中に見たから。

第三章 母のルーティン
埼玉県在住・主婦・45歳
私の「なんとなく」は、洗濯物を干す順番。
タオル→下着→シャツ→ズボン。この順番じゃないと、乾かない気がする。
台風の日、急いでて順番ぐちゃぐちゃに干した。
全部、乾いた。むしろいつもより早かった。
でも、次の晴れの日、またタオルから干してた。
娘に言われた。
「お母さん、それ意味あるの?」
「ないよ。でもね、お母さんがお母さんでいられるの」
娘は「ふーん」って言って、自室に戻った。
ドアを閉める時、左手で閉めてた。娘も、左手じゃないと気が済まない子だ。
遺伝、したんだなって、洗濯物畳みながら笑った。

第四章 田中家の食卓
落合・田中家・現在
「パパ、菜々子、灯、今日の議題」
洋子が、唐揚げを置きながら言った。
「『来週の運動会、どの足から家を出るか問題』について」
田中誠一、60歳。定年後、地域の経理ボランティア。
「俺は右足。縁起担ぐ」
田中菜々子、28歳。営業課長。
「私はケンケン。どっちでもないのが一番強い」
木村灯、8歳。小学三年生。
「あかりはね、スキップ!」
木村拓也、45歳。婿養子。
「俺は……灯と同じでいいや」
四者四様。誰も否定しない。
洋子が味噌汁をよそいながら、まとめた。
「じゃあ全員バラバラで。ゴールで会いましょう」
運動会当日、田中家の四人はバラバラの足で家を出て、公園のゴールで合流した。
誰も転ばなかった。誰も一位じゃなかった。
でも、唐揚げ弁当は世界一うまかった。

第五章 佐藤の卒業式
元・高橋の部下・佐藤・30歳
俺、佐藤。
新人の頃、「よろしくお願いいたします」三回書かないとメール送れなかった。今、部下50人いる。
昨日、新人が泣きついてきた。
「佐藤さん、プレゼンのスライド、左クリックから作らないと不安なんです」
俺は、田中係長に言われた言葉を、そのまま渡した。
「怖いまま、作れ。右クリックでも、世界は終わらない」
新人は、右クリックで新機能見つけて、プレゼン大成功した。
俺は、自分のデスクの『よろしくお願いいたします』お守りシールを、剥がした。
もう、いらない。でも、捨てない。引き出しにしまう。

終章 私たちの足
あなたへ
この五冊は、田中誠一の話だった。
田中菜々子の話だった。
木村拓也の話だった。
洋子の話だった。佐藤の話だった。高橋の話だった。
そして今、あなたの話だ。
電車で隣の人が、必ずマスクの紐を右耳からかけるのを見た。
友達が、ビールを飲む前に必ずグラスを右に一回まわすのを見た。
あなたは、朝ドアを開ける時、右手で開けないと落ち着かない。
それ、呪いじゃない。
お守りだ。
底で、選べるなら、道具だ。
右足から始めてもいい。
左足でもいい。
両足ジャンプでも、ケンケンでも、スキップでもいい。
エスカレーターでも、エレベーターでも、階段でもいい。
たまに転んでもいい。
尻もちついて、笑えばいい。
大事なのは、止まらないことだ。
あなたの足が、あなたを連れていく。どこへでも。
田中誠一は、今日も落合駅の階段を降りる。数えない。
田中菜々子は、左足だった日を忘れて商談に向かう。
木村灯は、スキップで小学校に登校する。
あなたは、今この本を閉じる。右手で?左手で?
どっちでも、いい。
根拠はない。
ただ、なんとなく、私たちは全員、良い一歩を踏み出せる。
だって、私たちの「なんとなく」は、世界で一番優しい呪いだから。


あとがきに代えて
第一巻から第五巻まで、読んでくれてありがとう。
田中の右足は、あなたの右足になっただろうか。
最後に、一つだけお願いがある。
明日、駅の階段を降りる時。家を出る時。コーヒーを飲む時。
「あ、今どっちからだっけ」って、思い出してほしい。
そして、口元が少しだけ緩んだら、それでいい。
あなたの「なんとなく」を、許してあげて。
使う時は使って、しまう時はしまって。
怖いまま、進んで。
どの足でも、どこへでも、行けるよ。
私たちだから。
—— なんとなく文庫編集部一同より ——




第六巻(番外編)—— 木村の右から始める育児日誌
著:木村拓也

俺、木村拓也。四十二歳。ベンチャーの部長。
そして、三歳の娘の父親。
うちの娘、名前は木村灯。あかりって読む。
こいつがまあ、俺以上に重症だった。
ミルク飲む時、必ず哺乳瓶を右手で持たないと泣く。左手で渡すと、顔を背けてギャン泣き。
嫁に「あんたの遺伝よ」って言われた。反論できなかった。
靴を履かせる時、右足からじゃないと全力で脱ぎ捨てる。
保育園の先生に「灯ちゃん、こだわり強いですね」って遠回しに言われた。
俺は心の中で「ですよね!!」って叫んだ同志。田中さんにすぐLINEした。
『田中さん、遺伝しました』
『知ってた』
お風呂、右足から入れないと湯船の外で仁王立ち。
風呂場が水浸しになる。でも、俺は怒れない。だって俺、真冬にコート着直して風邪ひいた男だから。
ある日、嫁が言った。
「灯、左足からお風呂入ってみ?」
灯は、俺の顔を見た。三歳児のくせに、めちゃくちゃ不安そうな顔で。
俺はしゃがんで、灯の目線に合わせた。
「灯。パパもな、昔はコート右から着ないと死ぬと思ってた」
「しぬの?」
「死ななかった。ただ風邪ひいた」
灯、爆笑。
その日、灯は左足から風呂に入った。上がった後、ドヤ顔で言った。
「しななかった!」
俺、泣いた。風呂場で。お湯より熱いもんが出た。
最近の灯のブームは、「ぜんぶおとうさんとおなじ」にすること。
歯磨きは右下奥から。エレベーターのボタンは中指。
そして、階段は右足から。
昨日、公園の低い階段で、灯が立ち止まった。
「パパ、みてて」
〇・三歩、小さく刻む。やってる、俺の癖、完全に遺伝してる。
そして、右足から、降りた。
「じょうず?」
「世界一上手い」
帰り道、灯が手を繋ぎながら聞いてきた。
「パパ、ひだりあしからおりたら、せかいおわる?」
田中さんから教わった答えを、そのまま渡した。
「終わんないよ。ただ、怖いだけ。怖いまま、降りても大丈夫」
灯は「ふーん」と言って、次の階段を左足から降りた。
着地して、こっちを振り向いて、満面の笑み。
「こわくなかった!」
俺は、空を見上げた。
右足から始めた男は、左足でも進めるようになった。
そして今、右足から始める娘を、左足でも平気な娘に育ててる。
これ、連鎖だ。呪いじゃない。お守りの、継承だ。
今夜、田中さんに写真送ろう。
灯が左足から降りた瞬間の、最高のドヤ顔。
タイトルは決まってる。
『左足でも進む娘』
根拠はない。
ただ、なんとなく、この子はどこへでも行ける気がする。




特別編 あなたの右足から始める物語
著:あなた


第一章 あなたの儀式
あなたにも、あるでしょう。
他人から見れば「それ意味ある?」って言われる、でも自分にとっては大事な、小さなルール。
歯磨きは右下奥から。
スマホのロック解除は親指じゃないと落ち着かない。
改札は必ず右側を通る。
LINEの文末に「!」を付けないと冷たく見える気がして、つい付ける。
カフェでは角の席じゃないと作業が進まない。
服を脱ぐ時は靴下が最後。履く時は靴下が最初。
イヤホンは右から耳に入れる。
信号待ちは白線の内側に立たないと、なんかソワソワする。
根拠は、ない。
でも、それをやらない日は、世界が〇・五秒ずれる。

第二章 左足の朝
いつか、その儀式が崩れる日が来る。
寝坊した朝。急いでる時。誰かに急かされた時。
「あ、今イヤホン左から入れちゃった」
「うわ、改札左側通っちゃった」
その瞬間、胸の奥がざわつく。
今日一日、ダメかもしれない。そんな気がしてくる。
でも、気づいてるでしょう?
その日も、電車は来る。仕事は終わる。飯はうまい。
世界は、終わらない。

第三章 誰かとの遭遇
あなたはある日、気づく。
同僚が、コーヒーを必ず左手で持ってることに。
友達が、エレベーターの「閉」ボタンを3回押さないと不安だって話してるのを聞く。
SNSで「わかる。私も傘は左手持ちじゃないと無理」って投稿を見る。
あ、いたんだ。同じ世界の住人。
「変なの自分だけじゃなかった」って、缶コーヒーが止まる瞬間。
あなたはその人に、心の中で言う。
「わかるよ」って。
 

終章 どちらでも良い、を選べるあなた
儀式は、あなたを縛るためにあるんじゃない。
張り詰めた毎日を、なんとかやり過ごすためのお守りだった。
持っていていい。
使ってもいい。
ポケットにしまおくだけでもいい。
大事なプレゼンの日は、角の席に座ればいい。
遅刻しそうな日は、カウンターで立ってコーヒー飲めばいい。
右足から始めてもいい。
左足からでも、いい。
たまには両足ジャンプで改札抜けたっていい。
選べるあなたが、一番強い。
明日、あなたが家を出る時。
どちらの足から踏み出したか、数えてみてほしい。
そして、ふっと笑ってほしい。
根拠はない。
ただ、なんとなく、今日もあなたの一歩は良い一歩だ。




あなたの右足から始める物語
なんとなく文庫


はい、書いた。
これは田中誠一の話じゃない。

木村の話でもない。
あなたの話。


で、聞かせて?
あなたの「右足」は、何?
〇・三歩刻んでまで守ってる、その儀式。
言わなくてもいいよ。
でも、言ったら楽になるかもしれない。
ここは、非合理な世界の住人だけが集まる喫煙ルームだから。




あとがき

「書いた人たちより」

第一巻を書き始めた時、これは田中誠一の話でした。  

第三巻で、菜々子の話になりました。  

第五巻で、あなたの話になりました。  

気づけば、右足は俺たち全員の足になっていた。  

取材で会った人たちが言いました。  

「イヤホンは右からじゃないと音がズレる」  

「レジでありがとうございましたを言わないと呪われる」  

「洗濯物はタオルから干さないと乾かない気がする」  

みんな、根拠なんてなかった。  

でも、みんな真剣だった。  

そして、みんな優しかった。  

この本を閉じた後、あなたが駅の階段で〇・三秒だけ自分の足を見て、  

「ま、いっか」って笑えたら、編集部としてこれ以上嬉しいことはありません。  

あなたの「なんとなく」は、世界で一番優しい呪いです。  

使う時は使って。しまう時はしまって。  

怖いまま、進んで。  

田中誠一は今日も、落合駅を歩いています。  

数えていません。  

あなたも、もう数えなくて大丈夫。  

どの足でも、どこへでも、行けるよ。  

私たちだから。  

なんとなく文庫編集部 一同  

木村拓也 / 田中菜々子 / 佐藤 / 高橋 / そして、あなた


これでどう?  

帯つけて、コンビニに並べたい。  

タイトル横に「累計100万足突破!」って書きたくなる。





あらすじ

田中誠一、四十三歳。経理部。特技は「階段をどちらの足から上るか」を数メートル手前で看破すること。役に立たない。  

彼は右足から階段を降りたい。  

ズボンは左足から履きたい。  

ジャケットは右腕から着たい。  

合理的な意味はゼロ。でも、それを守れない日は一日が台無しになる。  

そんな田中が、同じ“変なこだわり”を持つ後輩・木村と出会い、妻の洋子、娘の菜々子もまた、それぞれの「なんとなく」を抱えていることを知る。  

左足から降りてしまった最悪の朝。  

全部の順序を逆にした実験の日。  

「よろしくお願いいたします」を一回しか書けない部下。  

右足にこだわる娘。左足でも平気な孫。  

呪いは、お守りになった。  

お守りは、道具になった。  

そして最後は、誰かに渡せるものになった。  

これは「右足から始める男」が、「どちらの足でも良いを選べる男」になるまでの物語。  

そして読み終えたあなたが、「右足から始める私たち」になる物語。  

第一巻から第五巻+番外編+特別編、全7編。  



『軌道共鳴 ― 数えきれない光の中で、たった一つの軌道』



まえがき
これは宇宙の物語の形をしているが、実際にはとても小さな話だ。
巨大な環状居住区も、光速通信も、自由に飛ぶ船も出てくる。
けれど本当に描きたかったのは、ただ一つのこと。
人は、当たり前になった瞬間に、何かを失い始める。
誰かと軌道が重なる奇跡よりも、
重なった軌道を維持する意志の方がずっと難しい。
忙しさも、慣れも、数字も、全部は言い訳にならない。
これは、ある軌道追跡官がそのことに気づくまでの話だ。
星を見上げる夜に、隣からの返信が遅いと感じたことがある人へ。
届けたい。




プロローグ 多くの光
環状居住区群〈環〉の外縁、第七監視塔の窓は、いつも星で満ちている。
地球を取り巻く巨大な居住棟の群れは、夜側に回るたび淡い光を灯し、
まるでもう一つの銀河のように瞬いた。
だが甲斐光(かい ひかる)の視線は、いつも環の外、闇の深いほうへ向いていた。
彼の仕事は「軌道追跡官」。
環に属さない独立船、住人たちはそれを「衛星」と呼んだ、の航跡を記録し、
危険があれば警告を出し、近づく意志を見せた船には正しい道を示す。
それだけの仕事だ。そう思っていた。
だが光は、夜勤のルーティンを終えた後も、
メインモニターに流れる無数の航跡を飽きずに眺め続けた。
速いもの、荒いもの、静かなもの。
どれも美しかったが、どれ一つとして光の生活と交わることはない。
それでいいと思っていた。
多くの光の中から、ただ一つ「これだ」と思えるものがあるなら、
その瞬間こそ迷わず動こう。
光は密かにそう決めていた。


第一章 見つけた
その船が観測網に現れたのは、四月のある晩。
光が独りで夜勤に入っていた時刻だった。
識別信号〈隼(ハヤブサ)〉。
個人所有の探査船。環のどこにも属していない。
だがその航跡は、光が見てきたどの衛星とも違っていた。
速度は驚くほど一定なのに、進路が微妙に揺れ動く。
スペースデブリ回避でも燃料節約でもない。
まるで宇宙そのものと対話しながら飛んでいるようだった。
「……何だ、この飛び方は」
背後から覗き込んだ同僚・桐生が笑った。
「隼のパイロット、天羽由紀(あまは ゆき)。
荒くれ探査船乗りの間じゃ有名だ。誰の指図も受けない一匹狼。
環の管制指示すら無視することで知られてる」
「無視にしては、丁寧すぎる」
光は航跡の揺らぎを指でなぞるように見つめた。
無視ではない。
むしろ、一挙手一投足に確かな意志がある、そう感じられた。
それから光は毎晩、隼の航跡を追った。
仕事のついでだと言い訳しながら、勤務時間を過ぎてもモニターから離れられなかった。
隼は環の重力圏の縁をかすめるように通過した。
近づきたいけれど近づけない、そんな迷いを描いたような楕円軌道。
その航跡を見るたび、光の胸の奥で何かが小さく音を立てた。
数えきれない光の中から、たった一つ。
見つけてしまった。
でも軌道は、見つけただけじゃ閉じない。近づかなきゃ楕円にもならない。


第二章 本当の言葉
独立船に私的な連絡を送る手段は、公式には存在しない。
軌道追跡官に許されているのは、衝突回避のための機械的な誘導信号だけ。
そこに私的な言葉を紛れ込ませるのは規定違反だ。
光は三日間迷った。
届く保証もない。返事が来る確率は限りなく低い。
軌道力学は希望的観測を許さない。
それでも、手繰り寄せなければ始まらない。
四日目の夜。
光は警告フォーマットの最下段に、一行だけ文字を加えた。
『貴船の航跡、第七監視塔より常に美しく見えています。
もし迷惑でなければ、いつか少しだけ、お話を。――甲斐光』
送信ボタンを押す指が震えた。
譴責は免れない。
だが光は、飾らない本当の言葉を送った。
五日間、何も手につかなかった。
返事などないだろうと自分に言い聞かせながら、通信ログを開くたび息を止めた。
五日目の深夜。
光速の壁を越えて、一通の短いメッセージが届いた。
『第七監視塔、規定違反者。分かってやってるでしょ。
……でも、嫌いじゃない。
次にそっちの重力圏をかすめる時、少し速度を落としてみる。見ていて。――天羽由紀』
光は何度も読み返した。
誰もいない管制室で、声を出さずに笑った。


第三章 同じ軌道
半年の間に、隼は少しずつ環へ近づく軌道を選ぶようになった。
速度を落とし、傾斜角を微調整し、
まるで光の呼ぶ声に応えるように。
そしてある日、隼は正式に環へ入港した。
光は非番にもかかわらずポートへ向かった。
ハッチが開き、降りてきた由紀は想像より小柄で、
目だけが宇宙の暗さを吸い込んだように深かった。
「あんたが、甲斐光」
「はい。……ようこそ、環へ」
由紀は光を眺め、不敵に笑った。
「勘違いしないで。あたしは誰の重力にも縛られない。
自分の軌道は自分で選ぶ。ただ……」
「ただ?」
「あんたの航跡の読み方が、他の誰とも違った。
あたしを“捕まえる対象”じゃなく、“ちゃんと見ている相手”として扱った。
管制官のくせに規定違反までしてさ。それが、良かった」
光は宝物のようにその言葉を受け取った。
それから二人は少しずつ時間を重ねた。
隼は環に定住したわけではないが、光の勤務に合わせて環の近くを通過した。
時にはドッキングし、展望室で並んで星を見た。
二つの光は、ゆっくりと同じ軌道を描き始めていた。


第四章 慣れ
一年が過ぎた。
光は主任追跡官になり、仕事は増え、責任も重くなった。
由紀が環に戻る頻度は、いつしか光にとって「当たり前」になっていた。
当たり前になったものを、人は大切にしなくなる。
光はそれを身をもって知ることになる。
その晩、光のデスクは新しい観測プロジェクトのデータで埋まっていた。
画面には赤い警告が明滅している。
片隅で、隼のアイコンが入港許可を待つように旋回していた。
だが光は数字と格闘するのに必死で、通知音を無意識に無視した。
「環の未来がかかってる。今返信する一分で百人が死ぬかもしれない」
そう言い訳して、由紀の通信ウィンドウを閉じた。
閉じたウィンドウの残像が、0.5秒だけ網膜に焼き付いた。気づかなかったことにした。
本当に守るべきだった一人は、その一分の中にいたのに。
翌朝、ログの山の中に短い一文を見つけた。
『今日、寄るつもりだった。まあ、いいけど』
軽い言葉の奥にある寂しさに、光は気づかなかった。
笑って謝ればいいと軽く考えた。
そんな夜が二度、三度と重なった。
隼の航跡には、環から遠ざかる小さな噴射が増えていた。
誰にも気づかれない別れの準備だった。
由紀は何も言わなかった。
展望室に立ち寄る回数が少しずつ減っていった。
光はそれにも気づかなかった。


第五章 軌道を外れて
由紀の船が環から離れていく航跡を、光はモニター越しに見つめた。
それはいつもの探査任務とは違う。
戻ることを前提としない軌道だった。
光は誘導信号を送った。
返事はない。
二度目もない。
三度目にだけ、冷たいテキストが返ってきた。
『あんたの画面、いつの間にか別の数字で埋まってたでしょ。
あたしの入る隙間がないなら、もういい。
忙しいのは分かってる。でも、それが分かるたびに寂しかった。
自分の軌道に戻るね。じゃあね』
「待ってくれ!」
叫んでも、電波は光速の壁の向こうへ消えていくだけだった。
画面の数値が「1.0」を超えた。
離心率が1を超えた軌道は、二度と戻らない。
光は長い間立ち尽くした。
数えきれない光の中から、たった一つを見つけたはずだった。
同じ軌道になったはずだった。
慣れという油断が、その光を遠ざけてしまった。


第六章 育つ心
それから光は黙々と仕事を続けた。
だが以前とは違っていた。
通り過ぎる衛星の航跡を、以前より丁寧に見るようになった。
忙しさを理由に見過ごすことが、どれほど重いか知ったからだ。
誘導信号の返信は、どんなに立て込んでいても必ずその日のうちに返した。
光にとっては誓いだった。
桐生は言った。
「時間が経てば忘れるさ。いつまでも悔やむなよ」
「忘れたくない。忘れたらまた同じことをする。
今度は、ちゃんと育てたいんだ。この後悔を」
三年が過ぎた。
光は統括官になった。
由紀の航跡は遠い観測データに名前だけ残ることがあった。
もう二度と会えない。
それでも光は時折その位置を確認した。
未練というより、自分への戒めだった。
苦しみを繰り返し、心が少しずつ育っていくのを感じていた。


第七章 交信許可
ある夜、奇妙な二つの航跡が観測網に現れた。
若いパイロットの船だった。
一隻が先行し、もう一隻が追っている。
だが先行する船の進路には迷いがあり、
追う側の返信は不自然に遅れていた。
かつての自分と由紀の姿が重なった。
光は権限を使い通信ステータスを確認した。
追う側は「仕事のトラブル」を理由に返信を後回しにしていた。
このままでは二つの軌道は永遠に離れる。
悩んでも時間は止まらない。
光は迷わず臨時回線を開いた。
「第七監視塔の甲斐だ。
仕事のデータは明日でも修正できる。
だが心の離心率が一度1を超えたら、どんな重力でも戻せない。
今すぐ、本当の言葉を送りなさい。
先手を打たなければ、その光は二度と戻らない」
数分後、二つの航跡は美しい共鳴を描きながら重なった。
光は深い安堵を覚えた。
自分が失って学んだ真理が、誰かの未来を救った。
その静かな夜、観測網の隅で新しい航跡がまたたいた。


第八章 新たな光
識別信号〈天狼(テンロウ)〉。
単独で、まっすぐに、自分の意志だけで飛ぶ光だった。
無駄のない航跡。
迷わず、寄り道もしない。
誰にも頼らず、誰も頼らせない飛び方だ。
光は何日も静かに見つめた。
今度は焦らなかった。
だが悩んでも時間は止まらないことも知っていた。
相手の孤独な自由を尊重できるか、何度も自分に問いかけた。
確信を得て、光は送信フォームを開いた。
『貴船の航跡、いつも一人で誠実に飛んでいると見えています。
もしよければ、少し、速度を落としてみませんか。――甲斐光』
返信は数日後に届いた。
『変な誘い方。管制官、暇なの。……でも、悪くない。
補給のついでに寄る。――逢坂茜』
天狼のパイロット、逢坂茜(おうさか あかね)は由紀とは違った。
慎重で、言葉少なで、決めたことには驚くほど誠実だった。
二人はゆっくりと距離を縮めた。
光は育てた後悔を忘れなかった。
忙しさを理由に返信を後回しにしない。
当たり前を軽く扱わない。
どれほど仕事が立て込んでいても、茜からの信号には必ずその日のうちに応えた。
半年後、天狼は環に完全ドッキングした。
茜は環で暮らすことを選び、光と同じ軌道を選んだ。
「怖くないの」と茜が聞いた。
「軌道が重なっても、いつか離れるかもしれない」
光は星を見つめたまま答えた。
「怖い。今でも怖い。
でも、今度は慣れで手放すようなことは絶対にしない。
育てるよ、この軌道を。生涯、ここで」
茜は何も言わず、光の隣に体を寄せた。


終章 同じ空の下
光と茜は、かつて光が一人で星を見ていた監視塔の窓辺で、今は並んで座ることが多くなった。
茜は光の後を継ぎ、若い追跡官たちを指導する立場になっていた。
彼女の言葉は少ないが、その一言一言は若い者たちの軌道を静かに正す力を持っていた。
時折、遠い観測データの片隅に、二度と交わることのない懐かしい航跡、〈隼〉の名残が映ることがある。
「隼のパイロットなら、三年前に外縁宙域で海賊から民間船を守ったらしいですよ」
若い追跡官がそう噂するのを聞いて、光は黙って頷いた。
由紀は由紀の軌道を、ちゃんと生きている。
その事実を、光はもう痛みではなく、静かな誇りとして受け止められるようになっていた。
あの痛烈な喪失がなければ、
人を本当の意味で大切にすることを学べなかった。
そして今、茜の隣に座ることもなかっただろう。光はそう思った。
ピピッ、と静かな電子音が鳴り、光の端末が光った。
画面を開くと、すぐ隣にいる茜からのプライベート・メッセージだった。
『今日の夜勤明け、地球産のリンゴが手に入ったからアップルパイ焼くね』
光はふっと目元を緩めると、一秒の躊躇もなく返信した。
『ありがとう。楽しみにしている。定時に必ず帰るよ』
画面の向こうの茜が、小さく微笑んで頷くのが見えた。
宇宙には、数えきれないほどの光がある。
それぞれが、それぞれの軌道で、今も飛び続けている。
その中から、たった一つを見つけ出し、
心を固めて手繰り寄せ、
分かち合い、
実直に返信を重ね、
そして手放さずに育てていくこと。
それがどれほど難しく、どれほど尊いことか。
光は今、隣に座る茜の温もりとともに、確かに知っている。
「何を見てるの」と茜が聞いた。
光は端末を閉じ、窓の外の星を見ずに答えた。
「次に返すべき言葉。もう見過ごさない」
(了)



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あとがき
書き終えてから気づいた。
これはSFの形を借りたが、結局のところ「返信を後回しにしない話」だった。
誰かとの距離は、壮大な事件で離れるわけじゃない。
既読スルー1回、疲れて寝落ち1回、「明日でいいか」が3回。
そうやって静かに、引き返せない双曲線軌道は描かれていく。
甲斐光は、由紀を失って初めてそれを知った。
だから茜に出会えた時、彼はもう迷わなかった。
怖さは消えない。
でも、怖いままでも、先手を打つことはできる。
もしあなたが今、画面の向こうの誰かからの通知を見て「後で返そう」と思っているなら。
その「後で」が、100年分の距離になる前に。
たった一行でいい。
飾らない、本当の言葉を送ってほしい。
宇宙は広い。
でも、あなたの軌道と重なれる光は、そう多くない。


昨今
見えなかったものたちが
見え始めて

そろそろ
あちら側へと
片足が入り込んだかな? と
苦笑いしてみれば

戸籍を辿り
先祖たち ひとりひとりを
敬ってやまなくもなる





実家の仏壇には

戸籍以前に板状に収められた位牌が

200をも数えるほど

収められている


すれば

それだけ

実家の墓地には

眠る先祖がいるということなのだろう




多くの先祖たちが
多くの血を混ぜて
次の世代を作って来た

わずか1世代を繋げただけで
その先祖の数は
倍にもなる

すると
孫の代には
更に倍の先祖のDNAが混ざり

僕らは
天文学的な先祖に支えられて
今がある

ようするに
そのひとりでも欠けていたならば
今は
僕は
子供も孫もいない

戸籍を調べれば
お爺ちゃんには
3人の妻がいて

1人目の妻には
2人の娘がいたことになっている

しかし
その2人も
若くして亡くなっており
更には
その妻にも先立たれている

2人目の妻には
子供が6人いて
その長男が親父であり

その中の2人が
養女として出されており

更にはまた
その妻も37歳の若さで
終戦の年に他界している

親父が言うには
流行り病だったそうだが
分からない

3人目の妻は
僕の知っている優しいお婆ちゃんで
息子を1人授かりながら
親父たち兄弟を育てあげ
98歳まで生きた

お爺ちゃんは
そんな激動の人生を生き
68歳で他界した

不思議かな
本家の長男といえども
我が家の過去の
それらの大きな悲しみがあって
僕まで繋がった命

それは
奇跡なのか
運命なのか
偶然なのか
まさか
決まっていたことなのか
分からない

現代は
医療も
環境も
食生活も整い
健康寿命が伸びた

昔ならば
この僕でさえ
いくつかの大病により
20歳まで
生きられなかったのだろう

さすれば
やはり
生かされてる感はあって

ならばこの身を張ってでも
守らねばならないものがある

僕の生きた最大の役目は
世代を繋ぐことだったのかと

きっと
お前には大したことは
出来ないだろうから

ならばせめて
繋ぐだけのことはと
この世に
送り込まれたのではないかと
昨今
このポンコツ男は振り返ってみる

ならば
なんとか
その役目は果たせたかと
苦笑いしながら

残りの持ち時間も
家族最優先でと
急いでみる



戦中戦後の混乱を生き抜いた
お爺ちゃんたちの
戸籍の文字の裏側にある
言葉にならなかったであろう
無数の涙や決断を
真正面から受け止めながら…

きっと
そんなことだよ
ご同輩…

まいらいふ ―趣味道楽おじさんの受難―

〜 誰も頼んでないのに全力布教するおじさんの壮絶なる半生 〜



著:物好き五十五歳

まえがき

この物語は、フィクションです。

しかしながら、あなたの隣に必ず一人はいるタイプの人間を、極限まで煮詰めた結果として生まれました。

主人公・大村熱郎(おおむら・ねつろう)、五十五歳。趣味の数、生涯で四十七種。現在継続中のもの、十二種。妻の顔色を読む精度、気象庁の週間天気予報なみ。

彼はただ、みんなに楽しんでほしかっただけなのです。

それだけなのに、なぜこんなことになってしまったのか。

読み終えたとき、あなたはきっと、そっと誰かのLINEを開いて、趣味の誘いを取り消すことでしょう。





第一章 俺は物好きだ、それの何が悪い

大村熱郎が最初に「これは俺の使命かもしれない」と思ったのは、小学三年生の夏、セミの幼虫が地面から出てくる瞬間を四時間待ち続け、ようやくその神秘を目撃した翌朝、クラス全員に熱弁を振るったときのことだった。

結果は散々だった。

担任の橋本先生は「また大村くんですか」という顔をし、隣の席の田中は「きもい」と言い、好きだった坂本さんは給食のデザートのゼリーをそっと遠ざけた。

しかし熱郎は傷つかなかった。

いや、正確には傷ついたのだが、それ以上にセミのことが面白すぎて、悲しむ暇がなかった。


五十五年後。

熱郎は今日も朝五時に起き、まず三十分のランニング(趣味その一)をこなし、帰宅後にドラム式洗濯機のリズムに合わせてカリンバ(趣味その二)を弾き、妻・幸子が起きてくる前にロードバイク(趣味その三)の清掃を終わらせ、朝食を食べながら昨夜撮影した野鳥の写真(趣味その四)を選別し、出勤前の十五分でフランス語アプリ(趣味その五)のデイリーミッションを達成する。

「あなた、また新しいカメラのレンズ届いてたわよ」

幸子の声は、毎朝少しずつ低くなっている。

「これはですね、望遠レンズでして、野鳥撮影には最低でも四百ミリが――」

「いくらだったの」

「えっと、送料込みで……大体ね……端数を丸めると……まあそのう……」

「ゼロはいくつ?」

「……五個」

幸子は無言でコーヒーを飲み干し、茶碗を洗い、エコバッグを持って出かけていった。

行先は近所のスーパーだ。所要時間は十分。しかし彼女は毎回、四十分かけて帰ってくる。

熱郎はずっと気になっていたが、聞いたことがなかった。

聞けばきっと、新しい趣味ができてしまいそうで。


第二章 職場の悲劇

熱郎が勤める中堅商社・丸誠物産の総務部では、彼のことを「布教おじさん」と呼んでいた。

本人は知らない。

「大村さんがまたサバゲーの話してる」

「何回目?」

「今月で七回目。でも毎回初めて話すみたいなテンションで言う」

「……すごいな」

熱郎はサバゲー(趣味その八)に出会ったのは三年前だが、今でも布教熱は冷めていない。週に一度は誰かを誘い、週に一度は断られ、それでも翌週には誘う。

「大村さん、サバゲー行きませんか」

「えっ、ちょっと……」

「迷彩服は貸し出せますし、ゴーグルも完備で、初心者でも――」

「いや、あの、腰が……」

「ちょうどいい! 運動不足の解消にもなりまして、しかも戦略的思考が鍛えられるので仕事にも直結して、あとですね、最近若者にも人気で、実は今の職場のストレス発散に――」

「大村さんっ!!」

新入社員の吉田が立ち上がった。二十三歳、趣味はネットフリックス。

「ぼ、僕が行きます! 大村さんと行きます!!」

部屋が静まり返った。

誰もが思った。吉田よ、なぜだ。


吉田純一がなぜ名乗り出たのか、実は理由があった。

彼は三ヶ月前から、秘かに大村熱郎を観察していた。

「布教おじさん」とは呼ばれているが、吉田の目に映る大村は、なぜかいつも楽しそうだった。月曜朝でも目が輝いている。上司に詰められても三分後には新しい趣味の話をしている。同僚に断られても傷ついた様子がない。

いや、傷ついているのかもしれないが、それよりも楽しいことのほうが多そうだった。

吉田はネットフリックスのドラマを見ながら、なんとなく虚しいと思い始めていた。

面白いのだが、終わると何も残らない。

「じゃあ吉田くん、今週の土曜に! 道具は全部こっちで用意しますから! 帽子があれば最高ですが、なければ軍手でも! あ、軍手は関係なかった、ははは!」

熱郎は笑った。久しぶりに、心の底から。


第三章 サバゲーの日

土曜日、午前八時。

熱郎は前夜から眠れなかった。嬉しすぎて。

「誰かを連れてくるの久しぶりね」と幸子が言った。

「十八ヶ月ぶりだ」と熱郎は答えた。

「数えてたの」

「もちろん」

幸子は何か言いかけてやめた。


フィールドに着いた吉田は、まず装備を見て驚いた。

大村の装備が、プロすぎる。

カスタムエアガン二丁、迷彩服フル装備、無線機、膝当て、肘当て、さらになぜかGPSウォッチ。

「あの、大村さん、これって趣味ですよね?」

「趣味です」

「本当に?」

「趣味です」

熱郎の目は、本気だった。


ゲームが始まった。

吉田は初心者なので後方で様子を見ていた。

熱郎は、鬼神のごとき動きで敵チームを制圧し始めた。

匍匐前進、木の影を使ったフランカー戦術、そして最後に仲間の若者三人と連携して、敵チームのフラッグを三分で奪取。

フィールド中から拍手が沸き起こった。

熱郎はヘルメットを脱いで、真顔で言った。

「吉田くん、楽しかったですか」

吉田は、涙が出そうだった。

「……なんか、わかった気がします」

「何が?」

「なんで大村さんがいつも楽しそうなのか」

熱郎は照れくさそうに、でも本当に嬉しそうに、笑った。


第四章 どんでん返し

三ヶ月後。

総務部に、異変が起きていた。


「あれ、吉田くん、今日もサバゲー?」

「違いますよ、今日はロードバイクです」

「ロードバイク!?」

「大村さんに教えてもらって。あ、あとカリンバも始めました。小さくて持ち運べて最高ですよ。やりませんか? 貸し出せますし、初心者でも全然大丈夫で、しかも集中力が鍛えられて――」

「い、いや……」

「手先を使うので認知症予防にもなるらしくて、あとですね、音楽系の趣味は感性が豊かになって、実は職場のコミュニケーション力にも直結して――」


総務部の空気が凍った。

吉田が、布教を始めていた。


熱郎はそれを、コーヒーを飲みながら遠くから見ていた。

あの目は、知っている。

小学三年生の朝、セミの話をしたときの自分の目だ。

誰にも伝えずにはいられない、あの感じ。


「大村さん」

後ろから声がした。振り返ると、幸子が立っていた。

「え、なんで会社に――」

「荷物。また届いてたから持ってきた」

大きな段ボール箱を二つ、幸子は台車で運んできた。

「釣り竿と……これは何、ドローン?」

「待って待って、ちょっと聞いて、これはですね、空撮ができて、野鳥撮影との組み合わせで革命的な――」

「いくら?」

「……ゼロが五個半」

「五個半って何?」


幸子はため息をついた。長い。五秒以上ある。

しかし、その口元が、わずかに緩んでいた。


「ところで」と幸子が言った。「あなた、私がスーパーの帰りに寄り道してるの、知ってた?」

熱郎は驚いた。「……知らなかった」

「陶芸教室」

「え」

「三年前から。毎週火曜と木曜。先生にも仲間にも恵まれて、来月、初めて個展に出品する」


熱郎は言葉を失った。


「でも……なんで言わなかったんだ」

「あなたに言ったら、次の日に轆轤(ろくろ)が届きそうで」

「……それは……正しい判断だ」


二人は、しばらく無言だった。

総務部では吉田が、また誰かにカリンバを勧めている声がした。


「ねえ」と幸子が言った。

「なに」

「個展、来てくれる?」

熱郎は即答した。

「もちろん。カメラ持って行っていい?」

「……ドローンは禁止よ」


エピローグ

大村熱郎、五十五歳。

趣味の数、四十八種になった。陶芸が加わった。

ただし、陶芸だけは、誰にも勧めない。

妻と二人でひっそりと、窯の前に座っている時間が、今のところ世界で一番静かで、一番好きだから。


吉田純一、二十三歳。

趣味の数、六種。先週、職場の後輩に「布教くん」というあだ名をつけられた。

本人は知らない。


職場の誰かが、また断り続けている。

どこかで、また誰かが、入ってみている。


―― 了 ――


アマゾン キンドル



あとがき

この物語を書いたのは、ある詩がきっかけでした。

「ひとりでは勿体無い」という言葉。

それは迷惑なのか、愛なのか。おそらくその両方で、その区別がつかないままに生きている人が、世の中にはたくさんいます。

大村熱郎はその代表として、少々誇張された姿で登場しましたが、彼の根っこにあるものは、誰かと一緒に何かを楽しみたいという、いたってシンプルな欲望です。

そしてどんでん返しは、最も近くにいた人が、実は最初から自分の言葉を聞かずに、自分なりに動いていたという事実。

伝えることより、背中を見せることのほうが、ずっと布教になる。

そんな話でした。

あなたの隣の「布教おじさん」に、少し優しくなれますように。

二〇二六年 初夏



右足から始める男

〜 あるいは、人生を支配する小さな儀式について 〜

著:なんとなく文庫



まえがき

私たちは日々、効率や合理性を求められて生きています。
「それにはどんな意味があるの?」「エビデンスはあるの?」
そんな言葉に少しだけ息苦しさを感じたことはないでしょうか。
本作の主人公、田中誠一(43歳)にも、他人から見ればまったく意味のない、けれど彼にとっては重大な「こだわり」があります。それは、階段を右足から上ること、そして着替えの順番を絶対に崩さないこと。
これは、そんな一見無駄に見える「小さな儀式」に人生を支配され、同時に守られている男の、ささやかで愛おしい日常の物語です。
ページをめくる前に、まずはあなたの「いつもの足」で、この物語の一歩を踏み出してみてください。






第一章 啓示は駅の階段で訪れた

田中誠一、四十三歳。

大手食品メーカーの経理部に勤めて十八年。趣味は特になし。特技も特になし。強いて言えば、エクセルの関数を組むのがやや得意であることと、もうひとつ——

階段を上がる前に、最初の一歩が右足か左足かを、数メートル手前から看破できる、という謎の才能があった。



これは本人が最初に気づいたのは中学三年の春のことだった。

通学路にある歩道橋。毎朝渡るそれを、ある朝なんとなく眺めていたら、ふと思った。

「……左足からになりそうだな」

そして実際、左足から上り始めた自分がそこにいた。

翌朝も、翌々朝も。田中少年は確信した。俺には才能がある、と。



もっとも、その才能が何かの役に立ったことは、三十年間、ただの一度もなかった。

就職面接でその話をしたら、面接官が静かに次の質問へ移った。

合コンで披露したら、相手の女性が急にスマホを取り出した。

母親に話したら「ご飯食べなさい」と言われた。



それでも田中は、毎朝、駅の階段の手前で立ち止まり、予測を立て、そして——できれば右足から上りたい、と思うのだった。

右足からが好きだった。なんとなく、縁起が良い気がした。根拠は何もない。ただ、なんとなく。



だから今朝も、田中は東西線・落合駅の地下への階段、その五メートル手前で、歩幅を微妙に調整した。

〇・三歩ほど、小さく刻む。

そして——右足から、完璧に、降りた。

一日が、始まった。

第二章 ズボンの秩序

田中家の朝のルーティンは、鉄のように固まっていた。



六時十五分 起床

六時十七分 トイレ

六時二十分 洗顔

六時二十八分 着替え



この「着替え」のくだりが、田中の人生においてひとつの宗教的儀式の様相を呈していた。



まず、パンツは左足から。

これは絶対だった。もう何年も前から、理由もなく、ただそう決まっていた。右足から履こうとすると、なぜか体がぎこちなくなる。宇宙の法則に逆らっている気がする。

靴下も左足から。これもまた然り。

ズボンも左足から。



下半身については、すべて左から始まる。



一方、上半身はその逆だった。

シャツは右腕から通す。上着も右腕から。コートも右から。

下が左で、上が右。これが田中誠一の宇宙の秩序だった。



ある朝、ぼんやりしていた田中は、うっかりズボンを右足から履いてしまった。

……気づいたのは、ベルトを締めたあとだった。

田中は三秒間、静止した。

(……まあ、いいか)

と思ったが、玄関で靴を履こうとしたとき、なぜか右足から履きたくなった。靴は左からと決まっているのに。

田中は靴を脱いだ。

玄関に戻った。

ズボンを脱いだ。

左足から履き直した。



会社に三分遅刻した。

上司に理由を聞かれ、「電車が」と言った。

電車は定刻通りだった。

第三章 同志との出会い

事件が起きたのは、社内の喫煙ルームだった。

田中は煙草を吸わないが、たまに缶コーヒーを持って息抜きに入ることがある。そこで、営業部の後輩・木村と二人きりになった。



木村は二十八歳。いつも元気で、体育会系で、朝のミーティングでは「本日も全力で参ります!」と言うタイプの人間だった。田中とは対極にいると思っていた。



その木村が、ふと言った。

「田中さん、変なこと聞いていいですか」

「どうぞ」

「階段って、右足から上がりたくないですか?」



田中の缶コーヒーが、止まった。



「…………」

「あ、おかしいですよね、忘れてください」

「いや」田中は静かに言った。「わかる」

「え?」

「わかる。数メートル手前から、どっちの足になるかわかるだろう」

「わかります!!」



喫煙ルームに、奇妙な連帯感が満ちた。



二人は二十分間、語り合った。

木村もまた、右足から階段を上りたい派だった。そして、着替えには独自の順序があった。木村の場合、すべて右から始める、という流儀だった。下も上も右から。田中とは違うが、「こだわりがある」という点では同じだった。



「逆から羽織っちゃったとき、やり直しますか?」田中は聞いた。

木村は即答した。「やり直します」

「脱いで?」

「脱いで」



田中は初めて、この世界に自分と同じ、いや自分より重症な人間がいることを知った。

木村はコートを間違えた場合、たとえ真冬の屋外でも、いったん袖を抜いてから着直すのだという。

「寒くないですか」

「めちゃくちゃ寒いです。でもやらないと落ち着かない」



田中は、この後輩を尊敬した。

第四章 伝播

それから一週間後、田中は妻の洋子に、木村の話をした。



洋子は三十九歳。パートで薬局に勤めており、基本的に合理的な人間で、「なんとなく」という言葉をあまり使わない。田中が以前、「右足から階段を上りたい」と話したときは、「そう」と言ってチャンネルを変えた。



だが今回、木村の話を聞いた洋子は、しばらく黙ったあと、こう言った。

「……私も、お風呂は左足から入るわ」



田中の箸が、止まった。



「いつから?」

「気づいたらそうなってた。右から入ると、なんか違う感じがする」

「違う感じって?」

「なんか……バランスが悪い感じ」



田中は思った。この人とは、うまくやっていけると。

十五年越しに、そう思った。



翌週、洋子が娘の菜々子(十二歳)に聞いてみた。

菜々子は即座に答えた。

「靴は右から。それ以外は全部左」

「それ以外って?」

「ぜんぶ」



田中家は、三者三様のルールを持つ一家だった。

そして誰も、誰かにそれを強制しなかった。

各自が、各自の宇宙の秩序に従って、毎朝着替えていた。

第五章 哲学的考察

田中は、ある夜、考えた。



なぜ、人はこんなことにこだわるのだろう。



合理的な意味は、まったくない。右足から階段を上ろうが左足から上ろうが、到着する場所は同じだ。ズボンをどちらから履いても、ズボンはズボンだ。宇宙は気にしない。神様も(もし存在するなら)もっと大事なことで忙しいに違いない。



それでも——



右足から、ちゃんと上れた朝は、なんとなく気分がいい。

着替えの順序が守れた日は、なんとなく一日がうまくいく気がする。

根拠はない。統計もない。エビデンスはゼロだ。



だが、人間とはそういうものではないか。



コーヒーを左手で持つと落ち着く人がいる。傘は必ず右手に持つ人がいる。メールの文末に「よろしくお願いいたします」を三回書かないと送信できない人がいる(田中の同僚・佐藤がそれで、一度「よろしく」が二回になったときに送信ボタンを押せず、結果として大事なメールが五時間遅延した)。



人生とは、無数の「なんとなく」で構成されている。

そしてその「なんとなく」が、毎朝の小さな安心を作り出している。



田中は缶ビールを一口飲んで、テレビを消した。

明日も、右足から降りよう、と思いながら。

第六章 事件

問題は、出張先で起きた。



大阪のクライアントへの訪問。田中は新幹線で向かい、ホテルにチェックインし、翌朝、スーツに着替えようとした。



そこで気づいた。



スーツのジャケットを、左腕から通してしまった。



田中は固まった。

左腕からジャケット。これは、田中の宇宙において、あってはならないことだった。

右腕から、と決まっている。上半身はすべて右から。これは不変の法則だった。



(……まあ、いいか)



と思おうとした。朝九時の商談まで、あと四十分しかない。



(いや、でも)



気になる。



田中は、ジャケットを脱いだ。

右腕から着直した。



すっきりした。

商談は、うまくいった。

因果関係は、まったくない。

終章 なんとなく、それで良い

田中誠一は今日も、東西線・落合駅の地下への階段の、五メートル手前に立っている。



朝の通勤ラッシュ。周囲の人々は誰も、足元など見ていない。スマホを見ながら、イヤホンをしながら、みんな自動的に階段を下りていく。



だが田中は、見ている。

感じている。

〇・三歩、小さく刻む。



そして——右足から、完璧に、降りる。



今日も良い一日になる。

根拠はない。

ただ、なんとなく。





あなたは——いかがでしょうか。


—— 了 ——


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あとがき

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
作中の田中ほど極端ではなくても、「靴を履くのはいつも右から」「お風呂で体を洗うのは左腕から」といった、自分でも気づいていないレベルのルーティンが、誰しも一つや二つはあるものです。
もし、間違えて逆から始めてしまったとき。
「まあいいか」と進むのも人生ですが、「わざわざ脱ぎ直して、いつもの順番でやり直す」という非合理的な行動の中にこそ、人間の愛おしさや、張り詰めた日常をサバイブするための「心の防波堤」があるのではないかと思い、この筆を執りました。
明日、あなたが駅の階段を上るとき、ふと「あ、今どちらの足から踏み出しただろう」と思い出して、少しだけ口元を緩めていただけたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
どうぞ、明日も良い一歩を。できれば、あなたのお好きな方の足から。


—— 著者:なんとなく文庫

『時のもみじ』三部作


まえがき
京都の奥座敷、大原。
かつて永六輔氏が作詞し、デューク・エイセスが歌った名曲『女ひとり』の舞台として知られるこの地は、秋が深まる頃、燃えるような紅葉に包まれます。しかし、本作が舞台とするのは、その美しい盛りの時期ではありません。
「紅葉が盛りを、ほんの少しだけ過ぎた瞬間」
枝に残るちり際の一葉が、夕暮れの光に透けるとき、大原の片隅で静かに時間が交差します。
本作『時のもみじ』は、昭和と令和という二つの時代に生きる二人の、あまりにも不器用で、あまりにも壮大な約束を描いた物語です。
もしあなたが、大切な人を思い浮かべるとき。その心のなかに流れる時間は、本当に未来へと向かう一方通行のものでしょうか。もしかしたら、過去のあなた、未来のあなたが、今この瞬間のあなたを支えているのかもしれません。
大原の冷ややかな風の音と、ちりめんの擦れる微かな音に、どうぞ耳を澄ませてみてください。




第一部『時のもみじ、大原にて』
〜もみじが盛りを過ぎる頃〜


一 朝一番の便
涼介がその日、突然に休みを取ったのは、たいした理由があったわけではない。
ただ、前日の夜、天気予報のアナウンサーが「京都の紅葉も、そろそろ見頃の終わりです」と告げたのを聞いて、なぜか胸の奥がざわついた。それだけだった。
三十四歳、独身。恋というものから随分長く遠ざかっている自覚はあった。
新幹線の切符を手配する時間すらもどかしく、涼介は羽田発の始発便へと飛び乗った。伊丹に降り立ち、モノレールと電車とバスを乗り継いで、大原にたどり着いたのは午前十時を少し過ぎた頃だった。
三千院へと続く長い坂道——通称「女ひとり」の道とも呼ばれるその参道は、噂に違わず、今年は紅葉の盛りをわずかに過ぎていた。
ふと、視界の端に見覚えのない色を見た。朱色でも、緋色でもない。もっと深く、もっと静かな——深い色味のちりめんの小紋に塩瀬の帯を合わせたような、時代がかった着物の裾が、紅葉の陰にひらめいたのだ。


二 ちりめんに塩瀬の
涼介がその女性を見つけたのは、三千院の奥、往生極楽院を過ぎたあたりの、人影のまばらな庭の隅だった。
年の頃は二十代半ばだろうか。結い上げた髪、伏し目がちに紅葉を見上げる横顔。
「あの……」
声をかけたのは、ほとんど無意識だった。
女性はゆっくりと振り返り、涼介を見た。驚いた様子はなく、むしろどこか、ずっと誰かを待っていたかのような目をしていた。
「雪乃と申します」
低く、澄んだ声だった。
「今年のもみじは、随分と早く散ってしまいましたね」
「ええ、本当に」
会話はそれだけで途切れたが、不思議と気まずさはなかった。二人はしばらく、並んで紅葉を見上げていた。


三 昭和四十年の女
その日、二人は夕刻まで、大原の里を共に歩いた。
「あなたは、東京から?」と雪乃が尋ねた。
「ええ、羽田から朝一番の便で。今は飛行機や電車を乗り継げば、午前中のうちにはここに来られるんです」
「羽田……そんなに早く、京都に来られるのですね。わたくしの旅とは、流れる時間がずいぶん違うようです」
日が傾き、参道の灯籠に明かりが灯り始めた頃、雪乃はぽつりと言った。
「わたくし、恋に疲れて、ここに来たのです」
「好きだった人が、遠くへ行ってしまって。もう二度と、会えないところへ」
「戦争で?」
雪乃は首を振った。
「いいえ。時間です。わたくしたちの間には、越えられない時間がある。それだけのことです」


四 結び目
三千院の裏手、あまり人の訪れない小さな祠の前で、雪乃は足を止めた。
「ここは、昔から『結び目』と呼ばれている場所です」
「結び目?」
「もみじが一番美しい盛りを、ほんの少しだけ過ぎた瞬間——散り際でありながら、まだ枝に残っている、その一瞬にだけ。ここは、違う時間と、繋がるのだそうです」
「わたくしは、昭和四十年から来ました」
静かな声だった。
「あなたが今日、ここで会っているわたくしは、その年の秋、恋人を事故で亡くしたばかりでした。悲しみのあまり、毎日ここに通って、もみじだけを見ていました」
「それが……」
「ある年から、ここで、未来の人と出会うようになったのです。毎年、同じこの時期に、違う誰かと。そして今年、あなたに出会いました」
涼介は言葉を失った。信じられるはずもない話だった。
「じゃあ、あなたは……毎年ここで、誰かと出会って、そして」
「はい。日が暮れると、わたくしは自分の時間へ戻ります。これまでは、それだけのことでした」
雪乃はそこで初めて、涼介の目をまっすぐに見た。
「けれど今年は、戻りたくないと、初めて思いました」


五 もみじの落ちる音
日はもう、ほとんど沈みかけていた。
「戻らなければ、どうなるんですか」と涼介は聞いた。
「わかりません。誰も試したことがないから」
風が吹いて、二人の間を、一枚のもみじがゆっくりと落ちていった。それは地面に着く前に、光の粒のようにほどけて消えた。
「時間が来たようです」と雪乃は言った。
涼介はとっさに、雪乃の手を取ろうとした。だが、その手は、もう半分、夕暮れの光に透け始めていた。
「涼介さん」
初めて名を呼ばれた。いつ名乗ったのかも覚えていないのに、雪乃はちゃんと、その名を知っていた。
「来年も、この場所に、この季節に、来てくださいますか」
「約束します」
「もみじが盛りを過ぎた、そのわずかな時に、また」
雪乃の姿は、灯籠の明かりの中に溶けるように、消えていった。あとに残ったのは、一枚の、まだ色の残るもみじの葉だけだった。


六 一年後
翌年の同じ時期、涼介はまた朝一番の便で羽田を発った。
大原の坂道はまた、去年とよく似た表情をしていた。
「結び目」の祠の前で、涼介は一枚のもみじの葉を、そっと地面から拾い上げた。
日が傾き始める。風が吹く。葉が、揺れる。
そこに、誰かが立っている気配がした。涼介はゆっくりと振り返り。


七 女ひとり
ちりめんに塩瀬の、あの帯の色が、夕暮れの光の中に浮かび上がる。
「来てくださったのですね」
雪乃の声だった。去年と同じ、静かで澄んだ声。
「約束しましたから」
二人は、言葉少なに、また並んで紅葉を見上げた。
「わたくしたちは、決して同じ時間には生きられません。それでも、この『結び目』でだけは、こうして会える」
「はい」
「それを、幸せと呼んでいいものか、わたくしにはまだ、わかりません」
「僕は、幸せだと思います」
もみじが一枚、また一枚と、二人の間に舞い落ちる。
恋に疲れた女がひとり。かつてそう歌われた大原の地で、彼女はもう、ひとりではない。
遠い時代から時代へと架かる、細い、けれど確かな橋の上で。
もみじが盛りを過ぎるたび、二人はまた、ここで会う。
それは来年も、その先も、きっと変わらずに続いていく約束だった。



第二部『時のもみじ、雪乃にて』
〜もみじが盛りを迎えるまで〜


一 最初の秋、最後の秋
昭和四十年、十二月。誠一が逝ってから、初めての冬が来た。
大原の冬は、京都の街中より底冷えする。彼のいない大原に、色はなかった。
私は毎朝、三千院へ向かった。「結び目」と呼ばれる、あの小さな祠へ。ここに来れば、時間が止まる気がした。誠一がいた、あの秋のままで。
春、土から芽が出た。誠一が好きだったもみじだ。水をやる理由ができた。
夏、目を閉じれば「来年の紅葉も一緒に」と声がする。「嘘つき」と、声に出して初めて彼を責めた。芽は膝まで伸びた。
秋、命日。いちばん綺麗なちりめんの小紋を選んだ。深い藍色に、紅葉が織り込まれた一枚。「結び目」の祠で、手を合わせ、目を閉じる。
「誠一さん。会いに来ました」
風が吹いた。一枚、もみじが頬を掠めて落ちる。まだ青い、色づく前の葉だった。
その時だった。
「あの……」
背後から、男の人の声がした。
振り返る。そこに立っていたのは、見慣れない格好をした、白髪の、ひどく優しい目をしたがっしりとした老人だった。困ったように、けれど愛おしそうに私を見つめている。
これが、最初だった。
結び目が、初めて未来の人間を連れてきた瞬間。


二 積もる時間
その日から、私の秋は変わった。
毎年、盛りを過ぎた頃に、違う誰かが現れる。名も知らぬ、時代も違う男の人たち。
彼らは皆、優しかった。皆、私をひとりにしなかった。
でも、誰も「戻りたくない」とは言わなかった。皆、自分の時間に帰っていった。
私も、それでいいと思っていた。
涼介さん、あなたに会うまでは。

(※後に涼介が発見する、もみじの押し葉に添えられた手紙)

翌年から、私は毎年「結び目」で違う誰かと会うようになりました。
彼らがくれた時間を、胸の奥に積み重ねて生きてきた。
そして今年、涼介さん。あなたに会って、初めて「戻りたくない」と思いました。
来年も、再来年も。もみじが盛りを過ぎる、ほんの一瞬だけ。私たちは、大原で会いましょう。
それが、私の生きる理由になりました。
——雪乃——



第三部『時のもみじ、約束にて』
〜もみじが最後に色づく頃〜

一 最後の航空券
令和六十七年、十一月。涼介、九十四歳。
「おじいちゃん、京都? また?」孫の美咲が、呆れたように笑う。
「ああ。毎年恒例だ」
医師には言われた。「今年の冬を越すのは、難しいでしょう」と。
わかっていた。でも、約束がある。もみじが盛りを過ぎる頃に、また。
枕元の古い引き出しを開ける。中には、六十枚のもみじの押し葉。そして、いつの間にか上着のポケットに忍び込んでいた、色褪せた雪乃からの手紙。
毎年、雪乃と別れた後に拾ったそれらを、涼介は愛おしそうになぞった。


二 六十年目の大原
無人型の参道カートを借り、大原に着いたのは午後三時だった。
三千院の門をくぐる。紅葉は、今年も盛りを過ぎた表情で彼を迎えた。
「結び目」の祠は、六十年前より少し傾いでいたが、確かにそこにあった。
日が傾き始める。風が、吹く。
私はカートから降りた。両足にかかる懐かしい重力を感じながら、地面に這うようにして、祠の前に座る。
「遅くなって、すみません」
その時。ちりめんの擦れる音がした。


三 積み重なった六十年
「涼介さん?」
顔を上げる。そこにいたのは、雪乃だった。六十年前と同じ、深い藍色のちりめんの小紋。二十五歳のままの、雪乃。
「ずいぶん、おじいさんになっちゃいました」
「いいえ。あなたは、これまで会ったどのあなたよりも、涼介さんです」
雪乃の言葉に、涼介は息を呑んだ。
「これまで……?」
「ええ。わたくし、何人もの未来の男の人と、ここで会いました。皆、優しくて、皆、帰って行った」
「でも、皆どこか、あなたに似ていた。声の調子も、困ったような笑い方も、紅葉を見る時の目の色も」
「わたくし、ずっと思っていたのです。この人たちは、全部同じ魂が、違う形で会いに来てくれているんじゃないかって」
風が吹く。もみじが一枚、二人の間に落ちた。
「雪乃さん。実は、今日で最後かもしれません」
「知っていました。六十年、ありがとうございました」
「六十年?」
「はい。あなたが初めて結び目でわたくしと会った日から、六十年です。あなたは覚えていない。でもわたくしは、毎年のあなたを覚えています」
涼介は、震える手でもみじを握りしめた。
そうか。結び目は、一直線の時間ではなかった。六十年分の私が、ばらばらに切り取られて、雪乃の元に届いていたのか。


四 最後の一年
「涼介さん。わたくしから、一つだけ、お願いがあります」
「なんですか」
「わたくしの時間に、来てくれませんか。ただし、“最後の一年”として」
「昭和四十年、ですか」
「はい。わたくしが、初めて結び目で未来の人と会った年。誠一さんを亡くして、初めての秋。あなたが来てくれる前の、わたくしは、まだ本当に独りでした」
「その一年を、あなたに隣にいてほしい。そうしたら、わたくしの記憶の中の“未来の男たち”が、全部あなただったと証明できるから」
「そうしたら、わたくし、六十年間、ずっとあなたに愛されていたことになるから」
涼介は、ゆっくりと頷いた。
「行きます。あなたの最初の秋に。最後の私が」
目を閉じる。最後に聞こえたのは、美咲の呼ぶ声だった。
「おじいちゃん——」


五 最初の紅葉、最後の紅葉
目を開けると、昭和四十年十月、大原。
自分の足が、しっかりと大地の土を踏みしめている感覚があった。機械の補助なしに、冷たい秋の風が全身の皮膚を叩く。私は確かに、昭和四十年の秋の中に立っていた。
隣を見ると、雪乃がいた。泣き腫らした目で、喪服のような地味な着物を着た、若い雪乃。誠一を亡くしたばかりの、雪乃。
彼女は私に気づき、怪訝な顔をした。
「……どちらさま、ですか」
私は何も答えなかった。九十四年の人生で一番、優しい顔で笑っただけだった。
そして、彼女の隣に腰を下ろし、目の前の紅葉を見上げた。
盛りにはまだ早い。青葉が、少しだけ色づき始めたばかりの、十月上旬のもみじ。
「綺麗ですね」掠れた声で、そうだけ言った。
雪乃は何も言わなかった。でも、少し経ってから、小さく頷いた。
私たちは、日が暮れるまでそうしていた。
私はこの一年を、名乗らずに彼女の隣で過ごすだろう。誠一の代わりじゃない。六十年後の約束を果たしに来た、涼介として。
そして一年後、記憶を持たない三十四歳の私が、初めて結び目で雪乃と出会う。
円環じゃない。積層だ。
六十年分の私が、彼女の孤独を埋めてしていく。
最後に目を閉じる時、聞こえたのは、もみじが枝を離れる音。
始まりの音だった。
だから今年も、大原では、もみじが盛りを少し過ぎた頃になると、誰かが誰かを待っている。


エピローグ 女ひとり
令和六十七年十一月。大原のバス停で、美咲は祖父を待っていた。
日が暮れても、涼介は戻らなかった。捜索隊が出て、三千院の奥、「結び目」と呼ばれる小さな祠の前で、彼は見つかった。
穏やかな顔で、まるで眠っているように。手の中には、真っ赤に色づいた一枚のもみじが、握られていた。
翌年、美咲は一人で大原を訪れた。盛りを過ぎた紅葉の下で、彼女はふと思う。
「おじいちゃん、ここで誰に会ってたんだろう」
風が吹いた。ちりめんの擦れるような音がして、美咲は振り返る。
そこには誰もいない。ただ、真っ赤なもみじが一枚、美咲の手のひらに落ちてきた。
まだ、温かかった。
もみじは散る。人は逝く。
格好の、盛りを過ぎた一瞬に積み重なった想いだけは、時を超えて、誰かの記憶に色づき続ける。

——『時のもみじ』三部作 完——



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あとがき
時間は誰に対しても平等に、過去から未来へと流れるものだと私たちは信じています。しかし、愛する人を失ったとき、あるいは誰かを激しく想うとき、私たちの心はしばしば時間を飛び越えてしまいます。
本作の着想は、大原の三千院を訪れた際、ふと見かけた「散り際のもみじ」から得たものでした。完全に散ってしまったわけではなく、かといって全盛の輝きでもない。その曖昧な一瞬にこそ、物語が隠されているような気がしたのです。
主人公の涼介は、三十四歳から九十四歳までの人生を一直線に生きますが、ヒロインの雪乃にとっては、彼の人生の断片がバラバラに、しかし確実に積み重なっていきます。この「積層(レイヤー)」という構造を通して、人間が誰かを想うエネルギーの総量が、時空を超えてその人の孤独を救うのだという祈りを込めました。
九十四歳の涼介が選んだ「最後の一年」は、彼にとっては人生の終わりですが、雪乃にとってはすべての始まり、つまり二人の救いの「始まりの音」となります。この物語の結び目が、読者の皆様の心の中にも、温かい余韻として残ることを願ってやみません。
最後に、本作の執筆にあたりインスピレーションを与えてくれた京都・大原の美しい四季と、これまでこの物語を支えてくださったすべての方々に、心からの感謝を捧げます。




ー原詩ー

女ひとり

🎵 京都 大原 三千院
恋につかれた女が ひとり 🎵

そうそう
つかれたはひらがななんですよ
疲れたと
憑かれたとを
聴き手に
解釈を託したんですかね

京都の奥座敷は
見頃もわずかに過ぎたようです

残念ながら今年の紅葉は
どちらも パッとせず
暑さと台風とにやられ
色付く前に葉を落としてしまったような

それでも今年を観ておきたいのならば
やはり その道 1番とされる場所へと この身を運ぶわけで

これまた 突然 時間の取れた昨日
ならばと 朝1便の羽田で飛び乗り
目指すは京都 大原 三千院

伊丹空港から京都へ
京都から大原へと
モノレール 電車 バスと乗り継いで
やっとこさ たどり着いたそこは やはり例年とは違ったもので

それでも多くの方々は笑顔でカメラを向けて
その長い坂道を登っておりました

わずかにピークを越した感の もみじは
なかなかその良い日取りに合わせて出掛けられないもんで

出掛けたその時間の中に於いて その美を探し探し カメラの枠へと閉じ込める

まさか この季節 この時代に
この歌のような
🎵結城に塩瀬の素描の帯に🎵 なんて
しかも 恋に疲れた女がひとり でなんて姿はなく

それでも そんな姿がそこにあったならば
さぞかし似合うはずと
あちらこちらの紅葉の中を目で追ったわけで

昭和は遠くなりにけり
僕はきっと
この歌を書いた頃の大原と
永さんとに
会いたかったのでしょうね