『軌道共鳴 ― 数えきれない光の中で、たった一つの軌道』



まえがき
これは宇宙の物語の形をしているが、実際にはとても小さな話だ。
巨大な環状居住区も、光速通信も、自由に飛ぶ船も出てくる。
けれど本当に描きたかったのは、ただ一つのこと。
人は、当たり前になった瞬間に、何かを失い始める。
誰かと軌道が重なる奇跡よりも、
重なった軌道を維持する意志の方がずっと難しい。
忙しさも、慣れも、数字も、全部は言い訳にならない。
これは、ある軌道追跡官がそのことに気づくまでの話だ。
星を見上げる夜に、隣からの返信が遅いと感じたことがある人へ。
届けたい。




プロローグ 多くの光
環状居住区群〈環〉の外縁、第七監視塔の窓は、いつも星で満ちている。
地球を取り巻く巨大な居住棟の群れは、夜側に回るたび淡い光を灯し、
まるでもう一つの銀河のように瞬いた。
だが甲斐光(かい ひかる)の視線は、いつも環の外、闇の深いほうへ向いていた。
彼の仕事は「軌道追跡官」。
環に属さない独立船、住人たちはそれを「衛星」と呼んだ、の航跡を記録し、
危険があれば警告を出し、近づく意志を見せた船には正しい道を示す。
それだけの仕事だ。そう思っていた。
だが光は、夜勤のルーティンを終えた後も、
メインモニターに流れる無数の航跡を飽きずに眺め続けた。
速いもの、荒いもの、静かなもの。
どれも美しかったが、どれ一つとして光の生活と交わることはない。
それでいいと思っていた。
多くの光の中から、ただ一つ「これだ」と思えるものがあるなら、
その瞬間こそ迷わず動こう。
光は密かにそう決めていた。


第一章 見つけた
その船が観測網に現れたのは、四月のある晩。
光が独りで夜勤に入っていた時刻だった。
識別信号〈隼(ハヤブサ)〉。
個人所有の探査船。環のどこにも属していない。
だがその航跡は、光が見てきたどの衛星とも違っていた。
速度は驚くほど一定なのに、進路が微妙に揺れ動く。
スペースデブリ回避でも燃料節約でもない。
まるで宇宙そのものと対話しながら飛んでいるようだった。
「……何だ、この飛び方は」
背後から覗き込んだ同僚・桐生が笑った。
「隼のパイロット、天羽由紀(あまは ゆき)。
荒くれ探査船乗りの間じゃ有名だ。誰の指図も受けない一匹狼。
環の管制指示すら無視することで知られてる」
「無視にしては、丁寧すぎる」
光は航跡の揺らぎを指でなぞるように見つめた。
無視ではない。
むしろ、一挙手一投足に確かな意志がある、そう感じられた。
それから光は毎晩、隼の航跡を追った。
仕事のついでだと言い訳しながら、勤務時間を過ぎてもモニターから離れられなかった。
隼は環の重力圏の縁をかすめるように通過した。
近づきたいけれど近づけない、そんな迷いを描いたような楕円軌道。
その航跡を見るたび、光の胸の奥で何かが小さく音を立てた。
数えきれない光の中から、たった一つ。
見つけてしまった。
でも軌道は、見つけただけじゃ閉じない。近づかなきゃ楕円にもならない。


第二章 本当の言葉
独立船に私的な連絡を送る手段は、公式には存在しない。
軌道追跡官に許されているのは、衝突回避のための機械的な誘導信号だけ。
そこに私的な言葉を紛れ込ませるのは規定違反だ。
光は三日間迷った。
届く保証もない。返事が来る確率は限りなく低い。
軌道力学は希望的観測を許さない。
それでも、手繰り寄せなければ始まらない。
四日目の夜。
光は警告フォーマットの最下段に、一行だけ文字を加えた。
『貴船の航跡、第七監視塔より常に美しく見えています。
もし迷惑でなければ、いつか少しだけ、お話を。――甲斐光』
送信ボタンを押す指が震えた。
譴責は免れない。
だが光は、飾らない本当の言葉を送った。
五日間、何も手につかなかった。
返事などないだろうと自分に言い聞かせながら、通信ログを開くたび息を止めた。
五日目の深夜。
光速の壁を越えて、一通の短いメッセージが届いた。
『第七監視塔、規定違反者。分かってやってるでしょ。
……でも、嫌いじゃない。
次にそっちの重力圏をかすめる時、少し速度を落としてみる。見ていて。――天羽由紀』
光は何度も読み返した。
誰もいない管制室で、声を出さずに笑った。


第三章 同じ軌道
半年の間に、隼は少しずつ環へ近づく軌道を選ぶようになった。
速度を落とし、傾斜角を微調整し、
まるで光の呼ぶ声に応えるように。
そしてある日、隼は正式に環へ入港した。
光は非番にもかかわらずポートへ向かった。
ハッチが開き、降りてきた由紀は想像より小柄で、
目だけが宇宙の暗さを吸い込んだように深かった。
「あんたが、甲斐光」
「はい。……ようこそ、環へ」
由紀は光を眺め、不敵に笑った。
「勘違いしないで。あたしは誰の重力にも縛られない。
自分の軌道は自分で選ぶ。ただ……」
「ただ?」
「あんたの航跡の読み方が、他の誰とも違った。
あたしを“捕まえる対象”じゃなく、“ちゃんと見ている相手”として扱った。
管制官のくせに規定違反までしてさ。それが、良かった」
光は宝物のようにその言葉を受け取った。
それから二人は少しずつ時間を重ねた。
隼は環に定住したわけではないが、光の勤務に合わせて環の近くを通過した。
時にはドッキングし、展望室で並んで星を見た。
二つの光は、ゆっくりと同じ軌道を描き始めていた。


第四章 慣れ
一年が過ぎた。
光は主任追跡官になり、仕事は増え、責任も重くなった。
由紀が環に戻る頻度は、いつしか光にとって「当たり前」になっていた。
当たり前になったものを、人は大切にしなくなる。
光はそれを身をもって知ることになる。
その晩、光のデスクは新しい観測プロジェクトのデータで埋まっていた。
画面には赤い警告が明滅している。
片隅で、隼のアイコンが入港許可を待つように旋回していた。
だが光は数字と格闘するのに必死で、通知音を無意識に無視した。
「環の未来がかかってる。今返信する一分で百人が死ぬかもしれない」
そう言い訳して、由紀の通信ウィンドウを閉じた。
閉じたウィンドウの残像が、0.5秒だけ網膜に焼き付いた。気づかなかったことにした。
本当に守るべきだった一人は、その一分の中にいたのに。
翌朝、ログの山の中に短い一文を見つけた。
『今日、寄るつもりだった。まあ、いいけど』
軽い言葉の奥にある寂しさに、光は気づかなかった。
笑って謝ればいいと軽く考えた。
そんな夜が二度、三度と重なった。
隼の航跡には、環から遠ざかる小さな噴射が増えていた。
誰にも気づかれない別れの準備だった。
由紀は何も言わなかった。
展望室に立ち寄る回数が少しずつ減っていった。
光はそれにも気づかなかった。


第五章 軌道を外れて
由紀の船が環から離れていく航跡を、光はモニター越しに見つめた。
それはいつもの探査任務とは違う。
戻ることを前提としない軌道だった。
光は誘導信号を送った。
返事はない。
二度目もない。
三度目にだけ、冷たいテキストが返ってきた。
『あんたの画面、いつの間にか別の数字で埋まってたでしょ。
あたしの入る隙間がないなら、もういい。
忙しいのは分かってる。でも、それが分かるたびに寂しかった。
自分の軌道に戻るね。じゃあね』
「待ってくれ!」
叫んでも、電波は光速の壁の向こうへ消えていくだけだった。
画面の数値が「1.0」を超えた。
離心率が1を超えた軌道は、二度と戻らない。
光は長い間立ち尽くした。
数えきれない光の中から、たった一つを見つけたはずだった。
同じ軌道になったはずだった。
慣れという油断が、その光を遠ざけてしまった。


第六章 育つ心
それから光は黙々と仕事を続けた。
だが以前とは違っていた。
通り過ぎる衛星の航跡を、以前より丁寧に見るようになった。
忙しさを理由に見過ごすことが、どれほど重いか知ったからだ。
誘導信号の返信は、どんなに立て込んでいても必ずその日のうちに返した。
光にとっては誓いだった。
桐生は言った。
「時間が経てば忘れるさ。いつまでも悔やむなよ」
「忘れたくない。忘れたらまた同じことをする。
今度は、ちゃんと育てたいんだ。この後悔を」
三年が過ぎた。
光は統括官になった。
由紀の航跡は遠い観測データに名前だけ残ることがあった。
もう二度と会えない。
それでも光は時折その位置を確認した。
未練というより、自分への戒めだった。
苦しみを繰り返し、心が少しずつ育っていくのを感じていた。


第七章 交信許可
ある夜、奇妙な二つの航跡が観測網に現れた。
若いパイロットの船だった。
一隻が先行し、もう一隻が追っている。
だが先行する船の進路には迷いがあり、
追う側の返信は不自然に遅れていた。
かつての自分と由紀の姿が重なった。
光は権限を使い通信ステータスを確認した。
追う側は「仕事のトラブル」を理由に返信を後回しにしていた。
このままでは二つの軌道は永遠に離れる。
悩んでも時間は止まらない。
光は迷わず臨時回線を開いた。
「第七監視塔の甲斐だ。
仕事のデータは明日でも修正できる。
だが心の離心率が一度1を超えたら、どんな重力でも戻せない。
今すぐ、本当の言葉を送りなさい。
先手を打たなければ、その光は二度と戻らない」
数分後、二つの航跡は美しい共鳴を描きながら重なった。
光は深い安堵を覚えた。
自分が失って学んだ真理が、誰かの未来を救った。
その静かな夜、観測網の隅で新しい航跡がまたたいた。


第八章 新たな光
識別信号〈天狼(テンロウ)〉。
単独で、まっすぐに、自分の意志だけで飛ぶ光だった。
無駄のない航跡。
迷わず、寄り道もしない。
誰にも頼らず、誰も頼らせない飛び方だ。
光は何日も静かに見つめた。
今度は焦らなかった。
だが悩んでも時間は止まらないことも知っていた。
相手の孤独な自由を尊重できるか、何度も自分に問いかけた。
確信を得て、光は送信フォームを開いた。
『貴船の航跡、いつも一人で誠実に飛んでいると見えています。
もしよければ、少し、速度を落としてみませんか。――甲斐光』
返信は数日後に届いた。
『変な誘い方。管制官、暇なの。……でも、悪くない。
補給のついでに寄る。――逢坂茜』
天狼のパイロット、逢坂茜(おうさか あかね)は由紀とは違った。
慎重で、言葉少なで、決めたことには驚くほど誠実だった。
二人はゆっくりと距離を縮めた。
光は育てた後悔を忘れなかった。
忙しさを理由に返信を後回しにしない。
当たり前を軽く扱わない。
どれほど仕事が立て込んでいても、茜からの信号には必ずその日のうちに応えた。
半年後、天狼は環に完全ドッキングした。
茜は環で暮らすことを選び、光と同じ軌道を選んだ。
「怖くないの」と茜が聞いた。
「軌道が重なっても、いつか離れるかもしれない」
光は星を見つめたまま答えた。
「怖い。今でも怖い。
でも、今度は慣れで手放すようなことは絶対にしない。
育てるよ、この軌道を。生涯、ここで」
茜は何も言わず、光の隣に体を寄せた。


終章 同じ空の下
光と茜は、かつて光が一人で星を見ていた監視塔の窓辺で、今は並んで座ることが多くなった。
茜は光の後を継ぎ、若い追跡官たちを指導する立場になっていた。
彼女の言葉は少ないが、その一言一言は若い者たちの軌道を静かに正す力を持っていた。
時折、遠い観測データの片隅に、二度と交わることのない懐かしい航跡、〈隼〉の名残が映ることがある。
「隼のパイロットなら、三年前に外縁宙域で海賊から民間船を守ったらしいですよ」
若い追跡官がそう噂するのを聞いて、光は黙って頷いた。
由紀は由紀の軌道を、ちゃんと生きている。
その事実を、光はもう痛みではなく、静かな誇りとして受け止められるようになっていた。
あの痛烈な喪失がなければ、
人を本当の意味で大切にすることを学べなかった。
そして今、茜の隣に座ることもなかっただろう。光はそう思った。
ピピッ、と静かな電子音が鳴り、光の端末が光った。
画面を開くと、すぐ隣にいる茜からのプライベート・メッセージだった。
『今日の夜勤明け、地球産のリンゴが手に入ったからアップルパイ焼くね』
光はふっと目元を緩めると、一秒の躊躇もなく返信した。
『ありがとう。楽しみにしている。定時に必ず帰るよ』
画面の向こうの茜が、小さく微笑んで頷くのが見えた。
宇宙には、数えきれないほどの光がある。
それぞれが、それぞれの軌道で、今も飛び続けている。
その中から、たった一つを見つけ出し、
心を固めて手繰り寄せ、
分かち合い、
実直に返信を重ね、
そして手放さずに育てていくこと。
それがどれほど難しく、どれほど尊いことか。
光は今、隣に座る茜の温もりとともに、確かに知っている。
「何を見てるの」と茜が聞いた。
光は端末を閉じ、窓の外の星を見ずに答えた。
「次に返すべき言葉。もう見過ごさない」
(了)



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あとがき
書き終えてから気づいた。
これはSFの形を借りたが、結局のところ「返信を後回しにしない話」だった。
誰かとの距離は、壮大な事件で離れるわけじゃない。
既読スルー1回、疲れて寝落ち1回、「明日でいいか」が3回。
そうやって静かに、引き返せない双曲線軌道は描かれていく。
甲斐光は、由紀を失って初めてそれを知った。
だから茜に出会えた時、彼はもう迷わなかった。
怖さは消えない。
でも、怖いままでも、先手を打つことはできる。
もしあなたが今、画面の向こうの誰かからの通知を見て「後で返そう」と思っているなら。
その「後で」が、100年分の距離になる前に。
たった一行でいい。
飾らない、本当の言葉を送ってほしい。
宇宙は広い。
でも、あなたの軌道と重なれる光は、そう多くない。


昨今
見えなかったものたちが
見え始めて

そろそろ
あちら側へと
片足が入り込んだかな? と
苦笑いしてみれば

戸籍を辿り
先祖たち ひとりひとりを
敬ってやまなくもなる





実家の仏壇には

戸籍以前に板状に収められた位牌が

200をも数えるほど

収められている


すれば

それだけ

実家の墓地には

眠る先祖がいるということなのだろう




多くの先祖たちが
多くの血を混ぜて
次の世代を作って来た

わずか1世代を繋げただけで
その先祖の数は
倍にもなる

すると
孫の代には
更に倍の先祖のDNAが混ざり

僕らは
天文学的な先祖に支えられて
今がある

ようするに
そのひとりでも欠けていたならば
今は
僕は
子供も孫もいない

戸籍を調べれば
お爺ちゃんには
3人の妻がいて

1人目の妻には
2人の娘がいたことになっている

しかし
その2人も
若くして亡くなっており
更には
その妻にも先立たれている

2人目の妻には
子供が6人いて
その長男が親父であり

その中の2人が
養女として出されており

更にはまた
その妻も37歳の若さで
終戦の年に他界している

親父が言うには
流行り病だったそうだが
分からない

3人目の妻は
僕の知っている優しいお婆ちゃんで
息子を1人授かりながら
親父たち兄弟を育てあげ
98歳まで生きた

お爺ちゃんは
そんな激動の人生を生き
68歳で他界した

不思議かな
本家の長男といえども
我が家の過去の
それらの大きな悲しみがあって
僕まで繋がった命

それは
奇跡なのか
運命なのか
偶然なのか
まさか
決まっていたことなのか
分からない

現代は
医療も
環境も
食生活も整い
健康寿命が伸びた

昔ならば
この僕でさえ
いくつかの大病により
20歳まで
生きられなかったのだろう

さすれば
やはり
生かされてる感はあって

ならばこの身を張ってでも
守らねばならないものがある

僕の生きた最大の役目は
世代を繋ぐことだったのかと

きっと
お前には大したことは
出来ないだろうから

ならばせめて
繋ぐだけのことはと
この世に
送り込まれたのではないかと
昨今
このポンコツ男は振り返ってみる

ならば
なんとか
その役目は果たせたかと
苦笑いしながら

残りの持ち時間も
家族最優先でと
急いでみる



戦中戦後の混乱を生き抜いた
お爺ちゃんたちの
戸籍の文字の裏側にある
言葉にならなかったであろう
無数の涙や決断を
真正面から受け止めながら…

きっと
そんなことだよ
ご同輩…

まいらいふ ―趣味道楽おじさんの受難―

〜 誰も頼んでないのに全力布教するおじさんの壮絶なる半生 〜



著:物好き五十五歳

まえがき

この物語は、フィクションです。

しかしながら、あなたの隣に必ず一人はいるタイプの人間を、極限まで煮詰めた結果として生まれました。

主人公・大村熱郎(おおむら・ねつろう)、五十五歳。趣味の数、生涯で四十七種。現在継続中のもの、十二種。妻の顔色を読む精度、気象庁の週間天気予報なみ。

彼はただ、みんなに楽しんでほしかっただけなのです。

それだけなのに、なぜこんなことになってしまったのか。

読み終えたとき、あなたはきっと、そっと誰かのLINEを開いて、趣味の誘いを取り消すことでしょう。





第一章 俺は物好きだ、それの何が悪い

大村熱郎が最初に「これは俺の使命かもしれない」と思ったのは、小学三年生の夏、セミの幼虫が地面から出てくる瞬間を四時間待ち続け、ようやくその神秘を目撃した翌朝、クラス全員に熱弁を振るったときのことだった。

結果は散々だった。

担任の橋本先生は「また大村くんですか」という顔をし、隣の席の田中は「きもい」と言い、好きだった坂本さんは給食のデザートのゼリーをそっと遠ざけた。

しかし熱郎は傷つかなかった。

いや、正確には傷ついたのだが、それ以上にセミのことが面白すぎて、悲しむ暇がなかった。


五十五年後。

熱郎は今日も朝五時に起き、まず三十分のランニング(趣味その一)をこなし、帰宅後にドラム式洗濯機のリズムに合わせてカリンバ(趣味その二)を弾き、妻・幸子が起きてくる前にロードバイク(趣味その三)の清掃を終わらせ、朝食を食べながら昨夜撮影した野鳥の写真(趣味その四)を選別し、出勤前の十五分でフランス語アプリ(趣味その五)のデイリーミッションを達成する。

「あなた、また新しいカメラのレンズ届いてたわよ」

幸子の声は、毎朝少しずつ低くなっている。

「これはですね、望遠レンズでして、野鳥撮影には最低でも四百ミリが――」

「いくらだったの」

「えっと、送料込みで……大体ね……端数を丸めると……まあそのう……」

「ゼロはいくつ?」

「……五個」

幸子は無言でコーヒーを飲み干し、茶碗を洗い、エコバッグを持って出かけていった。

行先は近所のスーパーだ。所要時間は十分。しかし彼女は毎回、四十分かけて帰ってくる。

熱郎はずっと気になっていたが、聞いたことがなかった。

聞けばきっと、新しい趣味ができてしまいそうで。


第二章 職場の悲劇

熱郎が勤める中堅商社・丸誠物産の総務部では、彼のことを「布教おじさん」と呼んでいた。

本人は知らない。

「大村さんがまたサバゲーの話してる」

「何回目?」

「今月で七回目。でも毎回初めて話すみたいなテンションで言う」

「……すごいな」

熱郎はサバゲー(趣味その八)に出会ったのは三年前だが、今でも布教熱は冷めていない。週に一度は誰かを誘い、週に一度は断られ、それでも翌週には誘う。

「大村さん、サバゲー行きませんか」

「えっ、ちょっと……」

「迷彩服は貸し出せますし、ゴーグルも完備で、初心者でも――」

「いや、あの、腰が……」

「ちょうどいい! 運動不足の解消にもなりまして、しかも戦略的思考が鍛えられるので仕事にも直結して、あとですね、最近若者にも人気で、実は今の職場のストレス発散に――」

「大村さんっ!!」

新入社員の吉田が立ち上がった。二十三歳、趣味はネットフリックス。

「ぼ、僕が行きます! 大村さんと行きます!!」

部屋が静まり返った。

誰もが思った。吉田よ、なぜだ。


吉田純一がなぜ名乗り出たのか、実は理由があった。

彼は三ヶ月前から、秘かに大村熱郎を観察していた。

「布教おじさん」とは呼ばれているが、吉田の目に映る大村は、なぜかいつも楽しそうだった。月曜朝でも目が輝いている。上司に詰められても三分後には新しい趣味の話をしている。同僚に断られても傷ついた様子がない。

いや、傷ついているのかもしれないが、それよりも楽しいことのほうが多そうだった。

吉田はネットフリックスのドラマを見ながら、なんとなく虚しいと思い始めていた。

面白いのだが、終わると何も残らない。

「じゃあ吉田くん、今週の土曜に! 道具は全部こっちで用意しますから! 帽子があれば最高ですが、なければ軍手でも! あ、軍手は関係なかった、ははは!」

熱郎は笑った。久しぶりに、心の底から。


第三章 サバゲーの日

土曜日、午前八時。

熱郎は前夜から眠れなかった。嬉しすぎて。

「誰かを連れてくるの久しぶりね」と幸子が言った。

「十八ヶ月ぶりだ」と熱郎は答えた。

「数えてたの」

「もちろん」

幸子は何か言いかけてやめた。


フィールドに着いた吉田は、まず装備を見て驚いた。

大村の装備が、プロすぎる。

カスタムエアガン二丁、迷彩服フル装備、無線機、膝当て、肘当て、さらになぜかGPSウォッチ。

「あの、大村さん、これって趣味ですよね?」

「趣味です」

「本当に?」

「趣味です」

熱郎の目は、本気だった。


ゲームが始まった。

吉田は初心者なので後方で様子を見ていた。

熱郎は、鬼神のごとき動きで敵チームを制圧し始めた。

匍匐前進、木の影を使ったフランカー戦術、そして最後に仲間の若者三人と連携して、敵チームのフラッグを三分で奪取。

フィールド中から拍手が沸き起こった。

熱郎はヘルメットを脱いで、真顔で言った。

「吉田くん、楽しかったですか」

吉田は、涙が出そうだった。

「……なんか、わかった気がします」

「何が?」

「なんで大村さんがいつも楽しそうなのか」

熱郎は照れくさそうに、でも本当に嬉しそうに、笑った。


第四章 どんでん返し

三ヶ月後。

総務部に、異変が起きていた。


「あれ、吉田くん、今日もサバゲー?」

「違いますよ、今日はロードバイクです」

「ロードバイク!?」

「大村さんに教えてもらって。あ、あとカリンバも始めました。小さくて持ち運べて最高ですよ。やりませんか? 貸し出せますし、初心者でも全然大丈夫で、しかも集中力が鍛えられて――」

「い、いや……」

「手先を使うので認知症予防にもなるらしくて、あとですね、音楽系の趣味は感性が豊かになって、実は職場のコミュニケーション力にも直結して――」


総務部の空気が凍った。

吉田が、布教を始めていた。


熱郎はそれを、コーヒーを飲みながら遠くから見ていた。

あの目は、知っている。

小学三年生の朝、セミの話をしたときの自分の目だ。

誰にも伝えずにはいられない、あの感じ。


「大村さん」

後ろから声がした。振り返ると、幸子が立っていた。

「え、なんで会社に――」

「荷物。また届いてたから持ってきた」

大きな段ボール箱を二つ、幸子は台車で運んできた。

「釣り竿と……これは何、ドローン?」

「待って待って、ちょっと聞いて、これはですね、空撮ができて、野鳥撮影との組み合わせで革命的な――」

「いくら?」

「……ゼロが五個半」

「五個半って何?」


幸子はため息をついた。長い。五秒以上ある。

しかし、その口元が、わずかに緩んでいた。


「ところで」と幸子が言った。「あなた、私がスーパーの帰りに寄り道してるの、知ってた?」

熱郎は驚いた。「……知らなかった」

「陶芸教室」

「え」

「三年前から。毎週火曜と木曜。先生にも仲間にも恵まれて、来月、初めて個展に出品する」


熱郎は言葉を失った。


「でも……なんで言わなかったんだ」

「あなたに言ったら、次の日に轆轤(ろくろ)が届きそうで」

「……それは……正しい判断だ」


二人は、しばらく無言だった。

総務部では吉田が、また誰かにカリンバを勧めている声がした。


「ねえ」と幸子が言った。

「なに」

「個展、来てくれる?」

熱郎は即答した。

「もちろん。カメラ持って行っていい?」

「……ドローンは禁止よ」


エピローグ

大村熱郎、五十五歳。

趣味の数、四十八種になった。陶芸が加わった。

ただし、陶芸だけは、誰にも勧めない。

妻と二人でひっそりと、窯の前に座っている時間が、今のところ世界で一番静かで、一番好きだから。


吉田純一、二十三歳。

趣味の数、六種。先週、職場の後輩に「布教くん」というあだ名をつけられた。

本人は知らない。


職場の誰かが、また断り続けている。

どこかで、また誰かが、入ってみている。


―― 了 ――


アマゾン キンドル



あとがき

この物語を書いたのは、ある詩がきっかけでした。

「ひとりでは勿体無い」という言葉。

それは迷惑なのか、愛なのか。おそらくその両方で、その区別がつかないままに生きている人が、世の中にはたくさんいます。

大村熱郎はその代表として、少々誇張された姿で登場しましたが、彼の根っこにあるものは、誰かと一緒に何かを楽しみたいという、いたってシンプルな欲望です。

そしてどんでん返しは、最も近くにいた人が、実は最初から自分の言葉を聞かずに、自分なりに動いていたという事実。

伝えることより、背中を見せることのほうが、ずっと布教になる。

そんな話でした。

あなたの隣の「布教おじさん」に、少し優しくなれますように。

二〇二六年 初夏



右足から始める男

〜 あるいは、人生を支配する小さな儀式について 〜

著:なんとなく文庫



まえがき

私たちは日々、効率や合理性を求められて生きています。
「それにはどんな意味があるの?」「エビデンスはあるの?」
そんな言葉に少しだけ息苦しさを感じたことはないでしょうか。
本作の主人公、田中誠一(43歳)にも、他人から見ればまったく意味のない、けれど彼にとっては重大な「こだわり」があります。それは、階段を右足から上ること、そして着替えの順番を絶対に崩さないこと。
これは、そんな一見無駄に見える「小さな儀式」に人生を支配され、同時に守られている男の、ささやかで愛おしい日常の物語です。
ページをめくる前に、まずはあなたの「いつもの足」で、この物語の一歩を踏み出してみてください。






第一章 啓示は駅の階段で訪れた

田中誠一、四十三歳。

大手食品メーカーの経理部に勤めて十八年。趣味は特になし。特技も特になし。強いて言えば、エクセルの関数を組むのがやや得意であることと、もうひとつ——

階段を上がる前に、最初の一歩が右足か左足かを、数メートル手前から看破できる、という謎の才能があった。



これは本人が最初に気づいたのは中学三年の春のことだった。

通学路にある歩道橋。毎朝渡るそれを、ある朝なんとなく眺めていたら、ふと思った。

「……左足からになりそうだな」

そして実際、左足から上り始めた自分がそこにいた。

翌朝も、翌々朝も。田中少年は確信した。俺には才能がある、と。



もっとも、その才能が何かの役に立ったことは、三十年間、ただの一度もなかった。

就職面接でその話をしたら、面接官が静かに次の質問へ移った。

合コンで披露したら、相手の女性が急にスマホを取り出した。

母親に話したら「ご飯食べなさい」と言われた。



それでも田中は、毎朝、駅の階段の手前で立ち止まり、予測を立て、そして——できれば右足から上りたい、と思うのだった。

右足からが好きだった。なんとなく、縁起が良い気がした。根拠は何もない。ただ、なんとなく。



だから今朝も、田中は東西線・落合駅の地下への階段、その五メートル手前で、歩幅を微妙に調整した。

〇・三歩ほど、小さく刻む。

そして——右足から、完璧に、降りた。

一日が、始まった。

第二章 ズボンの秩序

田中家の朝のルーティンは、鉄のように固まっていた。



六時十五分 起床

六時十七分 トイレ

六時二十分 洗顔

六時二十八分 着替え



この「着替え」のくだりが、田中の人生においてひとつの宗教的儀式の様相を呈していた。



まず、パンツは左足から。

これは絶対だった。もう何年も前から、理由もなく、ただそう決まっていた。右足から履こうとすると、なぜか体がぎこちなくなる。宇宙の法則に逆らっている気がする。

靴下も左足から。これもまた然り。

ズボンも左足から。



下半身については、すべて左から始まる。



一方、上半身はその逆だった。

シャツは右腕から通す。上着も右腕から。コートも右から。

下が左で、上が右。これが田中誠一の宇宙の秩序だった。



ある朝、ぼんやりしていた田中は、うっかりズボンを右足から履いてしまった。

……気づいたのは、ベルトを締めたあとだった。

田中は三秒間、静止した。

(……まあ、いいか)

と思ったが、玄関で靴を履こうとしたとき、なぜか右足から履きたくなった。靴は左からと決まっているのに。

田中は靴を脱いだ。

玄関に戻った。

ズボンを脱いだ。

左足から履き直した。



会社に三分遅刻した。

上司に理由を聞かれ、「電車が」と言った。

電車は定刻通りだった。

第三章 同志との出会い

事件が起きたのは、社内の喫煙ルームだった。

田中は煙草を吸わないが、たまに缶コーヒーを持って息抜きに入ることがある。そこで、営業部の後輩・木村と二人きりになった。



木村は二十八歳。いつも元気で、体育会系で、朝のミーティングでは「本日も全力で参ります!」と言うタイプの人間だった。田中とは対極にいると思っていた。



その木村が、ふと言った。

「田中さん、変なこと聞いていいですか」

「どうぞ」

「階段って、右足から上がりたくないですか?」



田中の缶コーヒーが、止まった。



「…………」

「あ、おかしいですよね、忘れてください」

「いや」田中は静かに言った。「わかる」

「え?」

「わかる。数メートル手前から、どっちの足になるかわかるだろう」

「わかります!!」



喫煙ルームに、奇妙な連帯感が満ちた。



二人は二十分間、語り合った。

木村もまた、右足から階段を上りたい派だった。そして、着替えには独自の順序があった。木村の場合、すべて右から始める、という流儀だった。下も上も右から。田中とは違うが、「こだわりがある」という点では同じだった。



「逆から羽織っちゃったとき、やり直しますか?」田中は聞いた。

木村は即答した。「やり直します」

「脱いで?」

「脱いで」



田中は初めて、この世界に自分と同じ、いや自分より重症な人間がいることを知った。

木村はコートを間違えた場合、たとえ真冬の屋外でも、いったん袖を抜いてから着直すのだという。

「寒くないですか」

「めちゃくちゃ寒いです。でもやらないと落ち着かない」



田中は、この後輩を尊敬した。

第四章 伝播

それから一週間後、田中は妻の洋子に、木村の話をした。



洋子は三十九歳。パートで薬局に勤めており、基本的に合理的な人間で、「なんとなく」という言葉をあまり使わない。田中が以前、「右足から階段を上りたい」と話したときは、「そう」と言ってチャンネルを変えた。



だが今回、木村の話を聞いた洋子は、しばらく黙ったあと、こう言った。

「……私も、お風呂は左足から入るわ」



田中の箸が、止まった。



「いつから?」

「気づいたらそうなってた。右から入ると、なんか違う感じがする」

「違う感じって?」

「なんか……バランスが悪い感じ」



田中は思った。この人とは、うまくやっていけると。

十五年越しに、そう思った。



翌週、洋子が娘の菜々子(十二歳)に聞いてみた。

菜々子は即座に答えた。

「靴は右から。それ以外は全部左」

「それ以外って?」

「ぜんぶ」



田中家は、三者三様のルールを持つ一家だった。

そして誰も、誰かにそれを強制しなかった。

各自が、各自の宇宙の秩序に従って、毎朝着替えていた。

第五章 哲学的考察

田中は、ある夜、考えた。



なぜ、人はこんなことにこだわるのだろう。



合理的な意味は、まったくない。右足から階段を上ろうが左足から上ろうが、到着する場所は同じだ。ズボンをどちらから履いても、ズボンはズボンだ。宇宙は気にしない。神様も(もし存在するなら)もっと大事なことで忙しいに違いない。



それでも——



右足から、ちゃんと上れた朝は、なんとなく気分がいい。

着替えの順序が守れた日は、なんとなく一日がうまくいく気がする。

根拠はない。統計もない。エビデンスはゼロだ。



だが、人間とはそういうものではないか。



コーヒーを左手で持つと落ち着く人がいる。傘は必ず右手に持つ人がいる。メールの文末に「よろしくお願いいたします」を三回書かないと送信できない人がいる(田中の同僚・佐藤がそれで、一度「よろしく」が二回になったときに送信ボタンを押せず、結果として大事なメールが五時間遅延した)。



人生とは、無数の「なんとなく」で構成されている。

そしてその「なんとなく」が、毎朝の小さな安心を作り出している。



田中は缶ビールを一口飲んで、テレビを消した。

明日も、右足から降りよう、と思いながら。

第六章 事件

問題は、出張先で起きた。



大阪のクライアントへの訪問。田中は新幹線で向かい、ホテルにチェックインし、翌朝、スーツに着替えようとした。



そこで気づいた。



スーツのジャケットを、左腕から通してしまった。



田中は固まった。

左腕からジャケット。これは、田中の宇宙において、あってはならないことだった。

右腕から、と決まっている。上半身はすべて右から。これは不変の法則だった。



(……まあ、いいか)



と思おうとした。朝九時の商談まで、あと四十分しかない。



(いや、でも)



気になる。



田中は、ジャケットを脱いだ。

右腕から着直した。



すっきりした。

商談は、うまくいった。

因果関係は、まったくない。

終章 なんとなく、それで良い

田中誠一は今日も、東西線・落合駅の地下への階段の、五メートル手前に立っている。



朝の通勤ラッシュ。周囲の人々は誰も、足元など見ていない。スマホを見ながら、イヤホンをしながら、みんな自動的に階段を下りていく。



だが田中は、見ている。

感じている。

〇・三歩、小さく刻む。



そして——右足から、完璧に、降りる。



今日も良い一日になる。

根拠はない。

ただ、なんとなく。





あなたは——いかがでしょうか。


—— 了 ——


アマゾン キンドル



あとがき

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
作中の田中ほど極端ではなくても、「靴を履くのはいつも右から」「お風呂で体を洗うのは左腕から」といった、自分でも気づいていないレベルのルーティンが、誰しも一つや二つはあるものです。
もし、間違えて逆から始めてしまったとき。
「まあいいか」と進むのも人生ですが、「わざわざ脱ぎ直して、いつもの順番でやり直す」という非合理的な行動の中にこそ、人間の愛おしさや、張り詰めた日常をサバイブするための「心の防波堤」があるのではないかと思い、この筆を執りました。
明日、あなたが駅の階段を上るとき、ふと「あ、今どちらの足から踏み出しただろう」と思い出して、少しだけ口元を緩めていただけたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
どうぞ、明日も良い一歩を。できれば、あなたのお好きな方の足から。


—— 著者:なんとなく文庫

『時のもみじ』三部作


まえがき
京都の奥座敷、大原。
かつて永六輔氏が作詞し、デューク・エイセスが歌った名曲『女ひとり』の舞台として知られるこの地は、秋が深まる頃、燃えるような紅葉に包まれます。しかし、本作が舞台とするのは、その美しい盛りの時期ではありません。
「紅葉が盛りを、ほんの少しだけ過ぎた瞬間」
枝に残るちり際の一葉が、夕暮れの光に透けるとき、大原の片隅で静かに時間が交差します。
本作『時のもみじ』は、昭和と令和という二つの時代に生きる二人の、あまりにも不器用で、あまりにも壮大な約束を描いた物語です。
もしあなたが、大切な人を思い浮かべるとき。その心のなかに流れる時間は、本当に未来へと向かう一方通行のものでしょうか。もしかしたら、過去のあなた、未来のあなたが、今この瞬間のあなたを支えているのかもしれません。
大原の冷ややかな風の音と、ちりめんの擦れる微かな音に、どうぞ耳を澄ませてみてください。




第一部『時のもみじ、大原にて』
〜もみじが盛りを過ぎる頃〜


一 朝一番の便
涼介がその日、突然に休みを取ったのは、たいした理由があったわけではない。
ただ、前日の夜、天気予報のアナウンサーが「京都の紅葉も、そろそろ見頃の終わりです」と告げたのを聞いて、なぜか胸の奥がざわついた。それだけだった。
三十四歳、独身。恋というものから随分長く遠ざかっている自覚はあった。
新幹線の切符を手配する時間すらもどかしく、涼介は羽田発の始発便へと飛び乗った。伊丹に降り立ち、モノレールと電車とバスを乗り継いで、大原にたどり着いたのは午前十時を少し過ぎた頃だった。
三千院へと続く長い坂道——通称「女ひとり」の道とも呼ばれるその参道は、噂に違わず、今年は紅葉の盛りをわずかに過ぎていた。
ふと、視界の端に見覚えのない色を見た。朱色でも、緋色でもない。もっと深く、もっと静かな——深い色味のちりめんの小紋に塩瀬の帯を合わせたような、時代がかった着物の裾が、紅葉の陰にひらめいたのだ。


二 ちりめんに塩瀬の
涼介がその女性を見つけたのは、三千院の奥、往生極楽院を過ぎたあたりの、人影のまばらな庭の隅だった。
年の頃は二十代半ばだろうか。結い上げた髪、伏し目がちに紅葉を見上げる横顔。
「あの……」
声をかけたのは、ほとんど無意識だった。
女性はゆっくりと振り返り、涼介を見た。驚いた様子はなく、むしろどこか、ずっと誰かを待っていたかのような目をしていた。
「雪乃と申します」
低く、澄んだ声だった。
「今年のもみじは、随分と早く散ってしまいましたね」
「ええ、本当に」
会話はそれだけで途切れたが、不思議と気まずさはなかった。二人はしばらく、並んで紅葉を見上げていた。


三 昭和四十年の女
その日、二人は夕刻まで、大原の里を共に歩いた。
「あなたは、東京から?」と雪乃が尋ねた。
「ええ、羽田から朝一番の便で。今は飛行機や電車を乗り継げば、午前中のうちにはここに来られるんです」
「羽田……そんなに早く、京都に来られるのですね。わたくしの旅とは、流れる時間がずいぶん違うようです」
日が傾き、参道の灯籠に明かりが灯り始めた頃、雪乃はぽつりと言った。
「わたくし、恋に疲れて、ここに来たのです」
「好きだった人が、遠くへ行ってしまって。もう二度と、会えないところへ」
「戦争で?」
雪乃は首を振った。
「いいえ。時間です。わたくしたちの間には、越えられない時間がある。それだけのことです」


四 結び目
三千院の裏手、あまり人の訪れない小さな祠の前で、雪乃は足を止めた。
「ここは、昔から『結び目』と呼ばれている場所です」
「結び目?」
「もみじが一番美しい盛りを、ほんの少しだけ過ぎた瞬間——散り際でありながら、まだ枝に残っている、その一瞬にだけ。ここは、違う時間と、繋がるのだそうです」
「わたくしは、昭和四十年から来ました」
静かな声だった。
「あなたが今日、ここで会っているわたくしは、その年の秋、恋人を事故で亡くしたばかりでした。悲しみのあまり、毎日ここに通って、もみじだけを見ていました」
「それが……」
「ある年から、ここで、未来の人と出会うようになったのです。毎年、同じこの時期に、違う誰かと。そして今年、あなたに出会いました」
涼介は言葉を失った。信じられるはずもない話だった。
「じゃあ、あなたは……毎年ここで、誰かと出会って、そして」
「はい。日が暮れると、わたくしは自分の時間へ戻ります。これまでは、それだけのことでした」
雪乃はそこで初めて、涼介の目をまっすぐに見た。
「けれど今年は、戻りたくないと、初めて思いました」


五 もみじの落ちる音
日はもう、ほとんど沈みかけていた。
「戻らなければ、どうなるんですか」と涼介は聞いた。
「わかりません。誰も試したことがないから」
風が吹いて、二人の間を、一枚のもみじがゆっくりと落ちていった。それは地面に着く前に、光の粒のようにほどけて消えた。
「時間が来たようです」と雪乃は言った。
涼介はとっさに、雪乃の手を取ろうとした。だが、その手は、もう半分、夕暮れの光に透け始めていた。
「涼介さん」
初めて名を呼ばれた。いつ名乗ったのかも覚えていないのに、雪乃はちゃんと、その名を知っていた。
「来年も、この場所に、この季節に、来てくださいますか」
「約束します」
「もみじが盛りを過ぎた、そのわずかな時に、また」
雪乃の姿は、灯籠の明かりの中に溶けるように、消えていった。あとに残ったのは、一枚の、まだ色の残るもみじの葉だけだった。


六 一年後
翌年の同じ時期、涼介はまた朝一番の便で羽田を発った。
大原の坂道はまた、去年とよく似た表情をしていた。
「結び目」の祠の前で、涼介は一枚のもみじの葉を、そっと地面から拾い上げた。
日が傾き始める。風が吹く。葉が、揺れる。
そこに、誰かが立っている気配がした。涼介はゆっくりと振り返り。


七 女ひとり
ちりめんに塩瀬の、あの帯の色が、夕暮れの光の中に浮かび上がる。
「来てくださったのですね」
雪乃の声だった。去年と同じ、静かで澄んだ声。
「約束しましたから」
二人は、言葉少なに、また並んで紅葉を見上げた。
「わたくしたちは、決して同じ時間には生きられません。それでも、この『結び目』でだけは、こうして会える」
「はい」
「それを、幸せと呼んでいいものか、わたくしにはまだ、わかりません」
「僕は、幸せだと思います」
もみじが一枚、また一枚と、二人の間に舞い落ちる。
恋に疲れた女がひとり。かつてそう歌われた大原の地で、彼女はもう、ひとりではない。
遠い時代から時代へと架かる、細い、けれど確かな橋の上で。
もみじが盛りを過ぎるたび、二人はまた、ここで会う。
それは来年も、その先も、きっと変わらずに続いていく約束だった。



第二部『時のもみじ、雪乃にて』
〜もみじが盛りを迎えるまで〜


一 最初の秋、最後の秋
昭和四十年、十二月。誠一が逝ってから、初めての冬が来た。
大原の冬は、京都の街中より底冷えする。彼のいない大原に、色はなかった。
私は毎朝、三千院へ向かった。「結び目」と呼ばれる、あの小さな祠へ。ここに来れば、時間が止まる気がした。誠一がいた、あの秋のままで。
春、土から芽が出た。誠一が好きだったもみじだ。水をやる理由ができた。
夏、目を閉じれば「来年の紅葉も一緒に」と声がする。「嘘つき」と、声に出して初めて彼を責めた。芽は膝まで伸びた。
秋、命日。いちばん綺麗なちりめんの小紋を選んだ。深い藍色に、紅葉が織り込まれた一枚。「結び目」の祠で、手を合わせ、目を閉じる。
「誠一さん。会いに来ました」
風が吹いた。一枚、もみじが頬を掠めて落ちる。まだ青い、色づく前の葉だった。
その時だった。
「あの……」
背後から、男の人の声がした。
振り返る。そこに立っていたのは、見慣れない格好をした、白髪の、ひどく優しい目をしたがっしりとした老人だった。困ったように、けれど愛おしそうに私を見つめている。
これが、最初だった。
結び目が、初めて未来の人間を連れてきた瞬間。


二 積もる時間
その日から、私の秋は変わった。
毎年、盛りを過ぎた頃に、違う誰かが現れる。名も知らぬ、時代も違う男の人たち。
彼らは皆、優しかった。皆、私をひとりにしなかった。
でも、誰も「戻りたくない」とは言わなかった。皆、自分の時間に帰っていった。
私も、それでいいと思っていた。
涼介さん、あなたに会うまでは。

(※後に涼介が発見する、もみじの押し葉に添えられた手紙)

翌年から、私は毎年「結び目」で違う誰かと会うようになりました。
彼らがくれた時間を、胸の奥に積み重ねて生きてきた。
そして今年、涼介さん。あなたに会って、初めて「戻りたくない」と思いました。
来年も、再来年も。もみじが盛りを過ぎる、ほんの一瞬だけ。私たちは、大原で会いましょう。
それが、私の生きる理由になりました。
——雪乃——



第三部『時のもみじ、約束にて』
〜もみじが最後に色づく頃〜

一 最後の航空券
令和六十七年、十一月。涼介、九十四歳。
「おじいちゃん、京都? また?」孫の美咲が、呆れたように笑う。
「ああ。毎年恒例だ」
医師には言われた。「今年の冬を越すのは、難しいでしょう」と。
わかっていた。でも、約束がある。もみじが盛りを過ぎる頃に、また。
枕元の古い引き出しを開ける。中には、六十枚のもみじの押し葉。そして、いつの間にか上着のポケットに忍び込んでいた、色褪せた雪乃からの手紙。
毎年、雪乃と別れた後に拾ったそれらを、涼介は愛おしそうになぞった。


二 六十年目の大原
無人型の参道カートを借り、大原に着いたのは午後三時だった。
三千院の門をくぐる。紅葉は、今年も盛りを過ぎた表情で彼を迎えた。
「結び目」の祠は、六十年前より少し傾いでいたが、確かにそこにあった。
日が傾き始める。風が、吹く。
私はカートから降りた。両足にかかる懐かしい重力を感じながら、地面に這うようにして、祠の前に座る。
「遅くなって、すみません」
その時。ちりめんの擦れる音がした。


三 積み重なった六十年
「涼介さん?」
顔を上げる。そこにいたのは、雪乃だった。六十年前と同じ、深い藍色のちりめんの小紋。二十五歳のままの、雪乃。
「ずいぶん、おじいさんになっちゃいました」
「いいえ。あなたは、これまで会ったどのあなたよりも、涼介さんです」
雪乃の言葉に、涼介は息を呑んだ。
「これまで……?」
「ええ。わたくし、何人もの未来の男の人と、ここで会いました。皆、優しくて、皆、帰って行った」
「でも、皆どこか、あなたに似ていた。声の調子も、困ったような笑い方も、紅葉を見る時の目の色も」
「わたくし、ずっと思っていたのです。この人たちは、全部同じ魂が、違う形で会いに来てくれているんじゃないかって」
風が吹く。もみじが一枚、二人の間に落ちた。
「雪乃さん。実は、今日で最後かもしれません」
「知っていました。六十年、ありがとうございました」
「六十年?」
「はい。あなたが初めて結び目でわたくしと会った日から、六十年です。あなたは覚えていない。でもわたくしは、毎年のあなたを覚えています」
涼介は、震える手でもみじを握りしめた。
そうか。結び目は、一直線の時間ではなかった。六十年分の私が、ばらばらに切り取られて、雪乃の元に届いていたのか。


四 最後の一年
「涼介さん。わたくしから、一つだけ、お願いがあります」
「なんですか」
「わたくしの時間に、来てくれませんか。ただし、“最後の一年”として」
「昭和四十年、ですか」
「はい。わたくしが、初めて結び目で未来の人と会った年。誠一さんを亡くして、初めての秋。あなたが来てくれる前の、わたくしは、まだ本当に独りでした」
「その一年を、あなたに隣にいてほしい。そうしたら、わたくしの記憶の中の“未来の男たち”が、全部あなただったと証明できるから」
「そうしたら、わたくし、六十年間、ずっとあなたに愛されていたことになるから」
涼介は、ゆっくりと頷いた。
「行きます。あなたの最初の秋に。最後の私が」
目を閉じる。最後に聞こえたのは、美咲の呼ぶ声だった。
「おじいちゃん——」


五 最初の紅葉、最後の紅葉
目を開けると、昭和四十年十月、大原。
自分の足が、しっかりと大地の土を踏みしめている感覚があった。機械の補助なしに、冷たい秋の風が全身の皮膚を叩く。私は確かに、昭和四十年の秋の中に立っていた。
隣を見ると、雪乃がいた。泣き腫らした目で、喪服のような地味な着物を着た、若い雪乃。誠一を亡くしたばかりの、雪乃。
彼女は私に気づき、怪訝な顔をした。
「……どちらさま、ですか」
私は何も答えなかった。九十四年の人生で一番、優しい顔で笑っただけだった。
そして、彼女の隣に腰を下ろし、目の前の紅葉を見上げた。
盛りにはまだ早い。青葉が、少しだけ色づき始めたばかりの、十月上旬のもみじ。
「綺麗ですね」掠れた声で、そうだけ言った。
雪乃は何も言わなかった。でも、少し経ってから、小さく頷いた。
私たちは、日が暮れるまでそうしていた。
私はこの一年を、名乗らずに彼女の隣で過ごすだろう。誠一の代わりじゃない。六十年後の約束を果たしに来た、涼介として。
そして一年後、記憶を持たない三十四歳の私が、初めて結び目で雪乃と出会う。
円環じゃない。積層だ。
六十年分の私が、彼女の孤独を埋めてしていく。
最後に目を閉じる時、聞こえたのは、もみじが枝を離れる音。
始まりの音だった。
だから今年も、大原では、もみじが盛りを少し過ぎた頃になると、誰かが誰かを待っている。


エピローグ 女ひとり
令和六十七年十一月。大原のバス停で、美咲は祖父を待っていた。
日が暮れても、涼介は戻らなかった。捜索隊が出て、三千院の奥、「結び目」と呼ばれる小さな祠の前で、彼は見つかった。
穏やかな顔で、まるで眠っているように。手の中には、真っ赤に色づいた一枚のもみじが、握られていた。
翌年、美咲は一人で大原を訪れた。盛りを過ぎた紅葉の下で、彼女はふと思う。
「おじいちゃん、ここで誰に会ってたんだろう」
風が吹いた。ちりめんの擦れるような音がして、美咲は振り返る。
そこには誰もいない。ただ、真っ赤なもみじが一枚、美咲の手のひらに落ちてきた。
まだ、温かかった。
もみじは散る。人は逝く。
格好の、盛りを過ぎた一瞬に積み重なった想いだけは、時を超えて、誰かの記憶に色づき続ける。

——『時のもみじ』三部作 完——



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あとがき
時間は誰に対しても平等に、過去から未来へと流れるものだと私たちは信じています。しかし、愛する人を失ったとき、あるいは誰かを激しく想うとき、私たちの心はしばしば時間を飛び越えてしまいます。
本作の着想は、大原の三千院を訪れた際、ふと見かけた「散り際のもみじ」から得たものでした。完全に散ってしまったわけではなく、かといって全盛の輝きでもない。その曖昧な一瞬にこそ、物語が隠されているような気がしたのです。
主人公の涼介は、三十四歳から九十四歳までの人生を一直線に生きますが、ヒロインの雪乃にとっては、彼の人生の断片がバラバラに、しかし確実に積み重なっていきます。この「積層(レイヤー)」という構造を通して、人間が誰かを想うエネルギーの総量が、時空を超えてその人の孤独を救うのだという祈りを込めました。
九十四歳の涼介が選んだ「最後の一年」は、彼にとっては人生の終わりですが、雪乃にとってはすべての始まり、つまり二人の救いの「始まりの音」となります。この物語の結び目が、読者の皆様の心の中にも、温かい余韻として残ることを願ってやみません。
最後に、本作の執筆にあたりインスピレーションを与えてくれた京都・大原の美しい四季と、これまでこの物語を支えてくださったすべての方々に、心からの感謝を捧げます。




ー原詩ー

女ひとり

🎵 京都 大原 三千院
恋につかれた女が ひとり 🎵

そうそう
つかれたはひらがななんですよ
疲れたと
憑かれたとを
聴き手に
解釈を託したんですかね

京都の奥座敷は
見頃もわずかに過ぎたようです

残念ながら今年の紅葉は
どちらも パッとせず
暑さと台風とにやられ
色付く前に葉を落としてしまったような

それでも今年を観ておきたいのならば
やはり その道 1番とされる場所へと この身を運ぶわけで

これまた 突然 時間の取れた昨日
ならばと 朝1便の羽田で飛び乗り
目指すは京都 大原 三千院

伊丹空港から京都へ
京都から大原へと
モノレール 電車 バスと乗り継いで
やっとこさ たどり着いたそこは やはり例年とは違ったもので

それでも多くの方々は笑顔でカメラを向けて
その長い坂道を登っておりました

わずかにピークを越した感の もみじは
なかなかその良い日取りに合わせて出掛けられないもんで

出掛けたその時間の中に於いて その美を探し探し カメラの枠へと閉じ込める

まさか この季節 この時代に
この歌のような
🎵結城に塩瀬の素描の帯に🎵 なんて
しかも 恋に疲れた女がひとり でなんて姿はなく

それでも そんな姿がそこにあったならば
さぞかし似合うはずと
あちらこちらの紅葉の中を目で追ったわけで

昭和は遠くなりにけり
僕はきっと
この歌を書いた頃の大原と
永さんとに
会いたかったのでしょうね


22年目の今日

小雨降る中

あいつの墓前へと出向き


やあ と

言葉にしても

何も戻らない


22年もが過ぎて

もう

遥かあっち側へと

行っちまったのだろう



それでも

綺麗な花は備えられており

家族か

仲間かと

察してみるが


燃え残った

細く上品な線香に

まだまだ

愛されてることを知らされる




墓誌をと見れば

44歳とあり


だよな

同級生だからな と

あの頃を振り返る


どうして

こうして

優秀なやつを

先に連れてってしまうのかと


言葉に出さずとも

苦言を吐く


きっと

あちら側でも

必要だったのかと


こちら側はまだ

修行の場なのかと

勝手に思い

苦笑いしてみる


急ぐことなく

欲張ることなく

のほほんと生きて来た僕には


あいつは

遥か上の方で戦い

この世を生きたのだと映っている


墓誌には

こう書かれている


かすかな

上昇気流に乗って

私はまた旅に出ようと思う と…




僕たち世代もまた

いよいよ終盤戦となった


長く見積もっても

あと35年


人生100年時代とはいえ

そこまでは届かないだろう


カウントダウンは

止まることなく刻々と減り続け


あとどのくらい? と訊いても

さてね…    と

自らが答える


もしも

次の世があるのならば

今度は

あいつに負けないように

頑張ってみせる



昨日

今期の

さださんの先行チケットが取れたと

連絡があった


また

一緒に行こう


まあまあよ、と宇宙人は言った

―― ある平凡な男と、ご先祖と、犬と、アリをめぐる、ちょっと間の抜けたSF ――



まえがき

みなさんは、自分の飼っているペットや、庭先を這うアリたちが、じっとこちらを見つめてくる瞬間に立ち会ったことはないでしょうか。

「何か言いたげだな」
そう思ったあなたの直感は、もしかしたら正しいのかもしれません。

これは、宇宙規模の壮大な陰謀……では一切なく、宇宙人たちの「うっかりした事故」と、一人の風変わりなおばあちゃんの「うっかりした優しさ」が繋いだ、とても小さな星の、とても小さなお話です。

肩の力を抜いて、コンビニの唐揚げでも食べながら、どうぞ気楽にお楽しみください。





第一話 霊感ゼロ男

僕、田中健二、三十四歳。霊感というものが、まったくない。
心霊番組を見ても何も感じないし、パワースポットに行っても「ただの石」としか思えない。友人が「あそこの神社、空気が違うよね」と言うたびに、僕は心の中で(違いがわからん)とつぶやいている。

そんな霊感ゼロの僕だが、なぜかUFOだけは二度見たことがある。一度目は残業帰りのコンビニ駐輪場で。二度目は退屈な結婚式の二次会の帰り道で。どちらも、コンビニの唐揚げと同じくらいの温度感でスーッと横切って、それだけだった。

そして小人を一度。大学生の頃、深夜のファミレスで、テーブルの下を五センチくらいの人影が横切るのを見た。友人に話したら「お前、それただの寝不足」と一蹴された。

僕自身、深く考えたことはなかった。UFOも小人も、「まあ、そういうこともあるか」くらいの認識で、記憶の隅にしまい込んでいた。

それが動き出したのは、今年のお彼岸だった。



第二話 お彼岸の墓前にて

実家の墓は、小高い丘の上にある小さな霊園にある。彼岸の中日、僕は両親と共に墓参りに来ていた。

大好きだったバアちゃんは、三年前に亡くなった。優しくて、少しおっちょこちょいで、庭にお菓子の欠片を撒いては「アリさんたちにもご馳走してあげなきゃ」と笑っていた人だった。

線香をあげ、手を合わせる。ふと、いたずら心が湧いて、僕は心の中で語りかけてみた。

(バアちゃん、そっちはどう? まあまあ元気にやってる?)

その瞬間——

「まあまあよ」

耳元で、はっきり聞こえた気がした。空耳だろう。そう思って目を開けると、墓石の横のアリの巣から、一匹のアリが僕の方をじっと見つめているように見えた。

気のせいだ。たぶん。

その夜、僕は不思議な胸騒ぎを感じながら実家に泊まることにした。



第三話 ポチの異変

実家には、ポチという名の老犬がいる。柴犬の血が混ざった雑種で、もう十二歳。普段は縁側で寝てばかりの、覇気のない犬だ。

その夜、僕がスマホをいじっていると、充電ケーブルにつないでいたスマホのスピーカーから、ノイズ混じりの声が聞こえた。

『……接続確認。こちら観測ユニット、コードネーム「ポチ」。本部、応答願います』

僕は飛び起きた。振り返ると、縁側で寝ていたはずのポチが、体を起こしてこちらをじっと見ている。目が、いつもより知的な光を宿しているように見えた。

「ポ、ポチ……お前、しゃべった……?」

ポチは何も言わず、ただ尻尾をゆっくり振った。スマホのスピーカーからは、さっきの声が続いている。

『失礼。混線しました。人間の個体に気づかれるのは想定外です。まあ、いいでしょう。田中健二さん、でしたね』

僕は震える声で聞いた。「お前、何者だ……」

『説明すると長くなりますが、手短に言えば——私は、あなた方が「犬」と呼んでいる姿をした、銀河規模生態観測連盟の駐在員です』



第四話 銀河規模生態観測連盟

ポチ(本名は発音不可能な記号列らしいので、以下ポチとする)によれば、宇宙人は、実は地球中に大量に潜伏しているという。

『我々は、貴星の生態系に溶け込む形で観測任務を行っています。犬、猫、そして——』

「アリも、か?」僕は思わず口を挟んだ。

『ご名答。アリのコロニーの約三割は、我々の下部組織「微小偵察部隊」が運用する、生体型モニタリングネットワークです』

僕は頭を抱えた。じゃあ、あの小人は?

『あれは事故です。三十年ほど前、小型化技術の試験機がこの星に不時着しましてね。機体の冷却水が漏れてピンチだった偵察員を、あなたのお祖母様が偶然落としたポカリスエットの雫で救ってしまった。その後、修理担当官が慌ててファミレスの床を走っているところを、あなたに目撃されてしまったのです。あれは正直、こちらの失態でした』

後日、バアちゃんが「あのファミレス、床にポカリこぼしたら店員さんに怒られたわ」とぼやいていたのを思い出した。そういうことか。

僕は思わず笑ってしまった。宇宙人の壮大な陰謀かと思いきや、まさかの「バアちゃんのうっかりお助け」と「宇宙人のうっかり事故」。なんとも間の抜けた話である。

『それで本題ですが』とポチは続けた。『お墓で聞こえた「まあまあよ」という声——あれは、我々のネットワークを経由した正式な通信でした』



第五話 バアちゃんと宇宙人

話はこうだった。

僕のバアちゃんは、生前、庭に毎日お菓子の欠片を撒いていた。それは「アリさんにご馳走」ではなく、正確には、微小偵察部隊への重要な“補給物資(エネルギー)”になっていたのだという。

『あなたの祖母は、四十年以上にわたり、毎日欠かさず高純度の糖分を供給してくれた、我々にとって最重要の協力者でした。正直、地球でもっとも貢献した人間ランキング、現在7位です。上にはエジプトで猫に牛乳あげてた婆さんとかいます』

「バアちゃんが……銀河のVIP……?」

『しかも彼女は、庭の縁側で我々の観測ユニット——つまり私が引き継ぐ前の先代のポチにも、よく話しかけてくれました。おかげで我々は、貴星の言語と文化について、多くのデータを取得できたのです』

僕は絶句した。子供の頃に一緒に走り回っていた初代ポチも、今目の前にいる二代目ポチも、みんなバアちゃんのファンだったのだ。

そしてバアちゃんが亡くなる直前、連盟はある決定を下した。長年の功績に報いるため、彼女の意識パターンの一部をネットワークの記憶領域に保存する——いわば“名誉会員”待遇である。

『ゆえに、彼女の思考の断片は、今も我々のシステムの片隅に残っています。あなたが墓前で語りかけた際、たまたま通信が繋がってしまった。本来は許可されていない、いわば裏ルートです』

バアちゃんは、銀河のサーバーの片隅で、まだ「まあまあ」生きていたのだ。



第六話 委員会からの通達

しかし、話はそう甘くなかった。

数日後、ポチのスピーカーから、事務的な声が響いた。

『通達。銀河規模生態観測連盟・倫理委員会より。地球第7墓地区画における未承認の通信リークが検出されました。当該記憶データは規定によりただちに消去、もしくは本部への回収対象となります』

「消去!?」僕は叫んだ。「バアちゃんを消すってことか!?」

『恐縮ですが、規則は規則でして』とポチは、犬のくせに申し訳なさそうな顔をした。『本来、故人の意識断片を地球側に残すことは、文明干渉防止条約第38条『故人の意識を孫への小言に転用してはならない』の項に違反します』

僕は焦った。せっかく繋がった「まあまあよ」を、こんな官僚的な理由で消されてたまるか。

「なあポチ、なんとかならないのか?」

ポチはしばらく考え込み、やがて言った。

『一つだけ、抜け道があります。彼女の記憶データを、正式な「観測ユニット」として再登録すれば、条約の対象外になります』

「つまり?」

『つまり——お祖母様に、次のポチのサポートAIになっていただく、ということです』



第七話 バアちゃん、犬になる(一部)

もちろん、丸ごと犬になるわけではない。意識データのごく一部を、次期観測ユニットの補助人格として組み込む形式らしい。要するに、ポチの中に、ほんの少しだけ“バアちゃんスパイス”が加わるということだ。

「……スパイスって。バアちゃんを七味みたいに言うな」

複雑な気持ちだった。でも、消えてしまうよりは、ずっといい。

「頼む、それでいいから、繋いでおいてくれ」

手続きは意外とあっさり進んだ。銀河規模の官僚機構にしては、という条件付きだが。

数日後、縁側で伸びをしたポチが、ふとこちらを見て言った。

「あら健坊、また夜遅くまでスマホばっかり見て。ちゃんとご飯食べてるの?」

僕は固まった。その口調、その内容——間違いなく、バアちゃんだった。

胸の奥が、じんわり熱くなった。

「……バアちゃん?」

「まあまあよ」

ポチ(バアちゃん成分入り)は、そう言って、犬なのに、ほんの少しだけ笑ったように見えた。



第八話 それから

今でも、僕は時々実家に帰る。ポチは相変わらず縁側で寝てばかりいるが、たまに「あんた、また野菜残して」「お肌がカサカサじゃないの、ちゃんと寝なさいよ」とか、いい歳した僕に小言を言ってくる。

庭のアリたちは、相変わらず忙しそうに働いている。時々、僕がぼんやり庭を眺めていると、視線を感じて振り返る。一匹のアリがこちらをじっと見ていることがある。あれはきっと、バアちゃんの“お仲間”からの挨拶なのだろう。

お彼岸には、必ず墓参りに行くようにしている。手を合わせて、心の中で語りかける。

(バアちゃん、そっちはどう?)

すると、決まって、どこからともなく、あの声が聞こえる気がする。

「まあまあよ」

宇宙人を見たことは、一度もない。気配すら感じたことはない。

——でも、もしかしたら、宇宙人はとっくにそこにいて、僕らと、静かに、まあまあ、共存しているのかもしれない。

犬という姿で。
アリという姿で。
そして、ほんの少しだけ、夜更かしを叱ってくれる大好きだったバアちゃんという姿で。

(了)

本作はフィクションであり、実在の犬・アリ・銀河組織とは一切関係ありません。



アマゾン キンドル




あとがき

作中にもあります通り、本作はフィクションであり、実在の犬・アリ・銀河組織とは一切関係ありません。……ということになっております。

ですが、もしあなたのご自宅のワンちゃんや猫ちゃんが、急にスマホのスピーカーを鳴らして「夜更かしはダメよ」と小言を言い出したり、庭のアリたちが妙に統率の取れた動きであなたに挨拶をしてきたりしたら……。

その時はどうか、怒らずに話を聞いてあげてください。

案外、懐かしい誰かからの、最高に「まあまあ」な近況報告が聞けるかもしれません。

皆様の日常のすぐ隣にも、小さな宇宙人の優しい視線がありますように。



『笑顔同封』

〜贈り物には、想いと笑顔が同封されている〜


まえがき
世の中には、たくさんの贈り物が溢れています。
誕生日、記念日、あるいは何でもない日常のひとコマに、私たちは誰かへ物を手渡します。
けれど、私たちは忙しない日々の中で、いつの間にか「贈る」という行為そのものを、ただの手続きにしてしまってはいないでしょうか。
この物語は、小さな町の片隅にある包装専門店「つつみや」を舞台にした、ある青年と、彼を取り巻く人々の小さな変化の記録です。
あなたが最近、誰かの顔を思い浮かべて選んだものは何ですか?
もしよろしければ、ほんの少しだけ日常のスピードを落として、この「つつみや」の扉を叩いてみてください。カウベルの音とともに、皆様をお待ちしております。





葬儀の日、喪服のポケットに手を突っ込んだまま、僕は同じことばかり考えていた。祖母が死んだ。
線香の匂い。参列者の低い話し声。その向こうに、小さく見える店の看板——「つつみや」。
祖母が四十年近くひとりで営んできた、包装だけの店だ。
花屋でも雑貨屋でもない。ただ、誰かが誰かに贈ろうとする物を、丁寧に包むだけ。それなのに、近所で知らない人はほとんどいなかった。

「なんでもいいから、可愛く包んで」
そう言われると、祖母は必ず聞き返したという。
「これは、どなたに」

僕は東京で四年、営業をしていた。数字に追われて疲れ果て、辞表を出し、その足で実家に戻った。何も決めないまま迎えた訃報だった。喪主として、気づけば後継者として、僕は店の鍵を受け取っていた。

店の奥、祖母が座っていた椅子の下に、大学ノートが何冊も積んであった。表紙には日付だけ。めくると、顧客の名前、贈る相手の名前、短い言葉が並んでいる。

『田中様。奥様への誕生日。バラは好まれない方。控えめな水色を選ぶ』
『佐藤様。お断りする。急ぎすぎている。もう一度お考え直しを』
『相手は入院中と知る。届けても困ると判断』

——お断りする。
物を売る店で、断ることがあるのか。僕は最初、意味がわからなかった。




店を開けて三日目、疲れた顔のスーツの男が入ってきた。

「娘の誕生日なんです。何でもいいので、それらしく包んでもらえますか」

祖母のノートと同じ言葉だった。僕は思わず、同じ問いを口にした。

「これは、どなたに贈られますか」

男は面食らったように瞬きをした。

「娘です。十七になる」

「最近、お会いになっていますか」

カウベルの余韻だけが店に残った。
男は少し黙り、それからぽつりと話し始めた。三年前に離婚した。娘とは年に一度、誕生日にだけ会う。今年も、駅前の雑貨屋で目についたポーチを買っただけ。とりあえず可愛く包んでもらえれば、それでいいと思っていた、と。

ポーチを見た。安くはない。けれど、誰かを思って選ばれたようには見えない。ただの「無難」だった。

祖母なら、どうしただろう。

「……もう一度、考え直されませんか」

自分の声に、自分が驚いた。男は苛立ったように眉を寄せた。けれど、足は止まった。

「娘さんは、今、何がお好きですか。最後に好きだと言っていたものはありませんか」

長い沈黙のあと、男が言った。

「……天体観測が好きだと、前に。望遠鏡が欲しいと」

「それです」

「え?」

「それを渡してください。今日は包装だけお預かりします。品物が変わるなら、また改めて」

一週間後、男は小さな望遠鏡を抱えて戻ってきた。

「娘の欲しかったものでした。よく覚えていましたね」

「僕ではなく、あなたが覚えていたんです」

包装紙を選び、カードの隅に小さく「ありがとう」と三度書いた。祖母のノートにあった習慣だった。「本当に伝えたい時は、三度書く」と。意味はわからなかった。ただ、真似てみた。

そのとき、胸の奥が少しだけ温かくなった。包むという行為が、こんなふうに誰かを動かすことがあるのだと、初めて知った。




その夜、閉店後の店で、妙なものを見た。
祖母が飾っていた見本の空き箱。色褪せたリボンの結び目に、光の粒が一瞬、蛍のように浮かんで消えた。誰かが微笑んだ、その残像のように。

疲れているのだと思った。

けれど翌日も、その次も、丁寧に選ばれた贈り物を包み終え、カードに「ありがとう」を三度書いた瞬間、決まって光は現れた。
リボンの結び目が、息をするようにふっと明るくなる。

祖母のノートの最後のページに、こうあった。

『贈り物には、想いが同封される。急いで選んだ物には、急いだ心しか入らない。ちゃんと相手を思って選ばれた物には、思いのぶんだけ、何かが宿る。私はそれを確かめたことはない。ただ、長年この仕事をしてきて、そう信じるようになった』
『だから私は、なんでもいいから、と言われた時は、一度立ち止まってもらう。贈らない方がいいことも、確かにあるのだから』

僕は、あの光が何なのか、今でもわからない。それが娘の笑顔の欠片だったのか、僕の願望が見せた幻だったのか。

でも、望遠鏡の男が半年後、また店に来た日のことは覚えている。

「娘が、毎晩星を見ているそうです。電話でその話ばかりするようになりました」

男の顔は、初めて来た日とはまるで違う、穏やかなものだった。




祖母がなぜ、ある客を断ったことがあるのか。ノートの奥に、その答えがあった。

『若い頃、一度だけ、望まれてもいない贈り物を、望まれてもいない相手に包んでしまった。包んだ瞬間、相手の顔が曇った。その表情が、今でも忘れられない。あの日、私は物を包んだのではなく、誰かの気まずさを包んでしまった。それ以来決めた。急ぐ心を、そのまま包むことはしない、と』

贈り物は、物のやりとりではない。渡す瞬間までの迷いや、恥ずかしさや、伝えられなかった言葉ぜんぶを、包装紙という薄い膜で手渡す行為だ。
だから物を売る仕事ではない——祖母は、そう思っていたのだろう。

僕はその日から、来る人に必ず一つだけ聞くようになった。

「その方が、本当に喜ぶと思いますか」

答えに詰まる人には、もう一度考えてもらう。それでも「なんでもいい」と投げ出す人には、胸が痛むのをこらえながら、丁寧に包装をお断りした。祖母の背中を追うのではなく、僕の意志で、この暖簾を守ると決めたからだ。

不思議と、時間をかけて選ばれた贈り物を包むたび、光は必ず現れた。急いで選ばれた品には、一度も現れたことがない。

魔法なのか、目の錯覚なのか、今でもわからない。けれど、わからなくてもいいと、最近は思う。




祖母の一周忌の朝、僕は遺影の前に小さな箱を置いた。
祖母が好きだった、近所の和菓子屋の最中を包んだ。丁寧に、丁寧に。紙の角を合わせ、リボンの結び目を整えて。

カードには、こう書いた。

「ありがとう 
ありがとう
ありがとう」

一瞬、線香の煙の向こうで、包みのリボンがふっと明るくなった気がした。
見間違いかもしれない。けれど僕は、その日から、あの光を「見間違い」と呼ぶのをやめた。

それは、贈り物に同封された、誰かの笑顔なのだと。そう思うことにした。

今日も店の扉を開ける。カウベルが鳴る。

「いらっしゃいませ」

今日はどんな想いが、この店を通り過ぎていくのだろう。

── 完 ──


アマゾン キンドル



あとがき
「贈り物は、物のやりとりではない。渡す瞬間までの迷いや、恥ずかしさや、伝えられなかった言葉ぜんぶを、包装紙という薄い膜で包んで手渡す行為だ」


作中で主人公が気づいたこの言葉は、私自身が年齢を重ね、多くの出会いと別れを経験する中で、ずっと心のどこかに温めてきた想いでもあります。


効率やスピードが求められる現代だからこそ、あえて立ち止まり、誰かのために時間をかけることの愛おしさを描きたいと思い、この筆を執りました。


おばあさんが遺したノートの言葉、そして主人公が見た小さなリボンの光が、お読みいただいた皆様の心にも、小さく灯ってくれたならこれ以上の喜びはありません。


最後に、この本を手に取り、貴重な時間を割いて物語に付き合ってくださった読者の皆様に、心からの感謝を込めて。

ありがとう
ありがとう
ありがとう






ー原詩ー


笑顔同封


贈り物 って

贈った後が気になりますよね


お中元 お歳暮 お祝い

特に 誕生日なんて。。。


喜んでくれただろうか?

使って頂けただろうか?

いらない物ではなかったろうか? なんて。。。


それを後日

喜びで表現してくれたりすると 

とても救われた気にもなりますよね


笑顔が見れた気がしてね


決してなんでも良いからと

選んではいかんのですよ


相手が本当に喜んでくれるものをと

考えてからでないと

返って贈らない方が良い場合すらある


そうそう

ありがとう  って言葉は

良い言葉ですね


本当に伝えたい時は

3度 言うことにしたんですよ


ありがとう

ありがとう

ありがとう  なんて…


『イヴの符号』

── 二分八秒、44年のクリスマス



まえがき

クリスマスソングには、不思議な力があります。

街を歩いていても、何十年も前に聴いた一曲が流れた瞬間、その頃の景色や匂い、人の笑顔まで鮮明によみがえることがあります。

音楽は、時間を閉じ込めることができるのかもしれません。

もし、ある一曲を聴くたびに、人生でたった一度だけ後悔した「あの日」へ戻れるとしたら。
もし、その時間が、たった二分八秒しか与えられなかったとしたら。
あなたなら、誰に会いに行きますか。
何を伝えますか。
そして、どんな未来を選びますか。

『イヴの符号』は、タイムリープの物語でありながら、「時間」よりも「想い」を描いた物語です。

人生はやり直せなくても、心は何度でも誰かを想うことができます。

この物語が、あなたにとって大切な誰かを思い出す、小さなきっかけになれば幸いです。
どうぞ、レコードの針を静かに落とすような気持ちで、お読みください。




プロローグ 二分八秒のバグ

レコードに針を落とすたび、僕は六十八歳になる。

正確には、針が『Rockin' Around the Christmas Tree』のイントロを拾った瞬間、身体中の関節が六十八年分きしむ。

東京・杉並の6畳間、ユニクロのスウェット、Amazonで7,980円だった安いプレーヤー。そのすべてが“間違い”だと、ブレンダ・リーが教えてくれる。

2026年12月24日。木曜。午後11時49分。
スマホが震えた。Messenger。

Tammy Hall。
「Come?」

毎年同じ一言。44回目。写真もスタンプもない。1982年のタミーは絵文字を知らないから、53歳のタミーも使わないのだと、僕は思っている。

「今年も難しい」
打って、送信。既読は3秒でつく。返事はない。

B面、最後。2分08秒。曲の長さは44年間1秒も変わらない。変わったのは僕の方だ。

教員生活38年、定年して3年。妻とは10年前に別れた。子どもはいない。母を見送り、父を見送り、弟は先に逝った。

部屋で生きているのは、30年前に神保町で買ったLPだけだ。

『Merry Christmas from Brenda Lee』。ジャケットの彼女は日焼けして頬が黄ばんでいる。それでも歌声だけは1982年のままだった。

一分五十秒。いつもなら、部屋の隅に“影”が出る。五十歳のタミーの輪郭。僕を見て、笑らず、泣かず、ただ立っている。

今年は出ない。
代わりに、曲が震えた。

――Rockin' around... Rockin' around... Rockin' around...

針飛び。ありえない。レコードにそんな機能はない。

部屋がブレる。本棚がデジタル・ノイズに溶ける。液晶テレビが砂嵐を吐く。2026年が、書き換えられていく。

まずい。ルールが違う。二分八秒は、まだ――

内ポケットがずしりと重くなる。ツイードだ。スウェットのわけがない。1982年に着ていた、あのジャケット。使い古した英和辞書の角が脇腹に当たる。

床が消える。浮く。落ちる。耳の奥で、電子音と、人々のざわめきが混ざる。

匂いがした。甘い。パンチボウルの匂い。

視界が白く焼き切れる。




第1章 1982年の夜

次に目を開けた時、僕はパイプ椅子に座っていた。
冷たい。アルミの感触が尻にリアルだ。

見下ろすと、ツイード。締め付けが苦しいタイ。内ポケットの辞書が、確かにある。指で押すと、挟んだ写真の厚みがわかる。

日本に置いてきた、彼女の写真。1982年の僕が、まだ捨てられずにいた証拠。

ざわざわと、人の声。カトラリーの音。壁には手書きの“Merry Christmas”。天井からはモールが下がっている。

ステンドグラスの向こうはLAの冷たい夜空だ。暖房が効きすぎて、空気が甘い。

小さな教会。ワシントン大通り。1982年12月24日。

身体が、軽い。手を握る。皺がない。68歳の腰痛も、老眼も消えている。24歳だ。

鏡を見なくてもわかる。24歳の僕に戻っている。

混乱する。意識だけ飛ぶはずじゃなかったのか。肉体ごと来た。ということは、2026年の杉並の部屋で、僕は死んだのか?孤独死。明日のニュースにもならない。

「Excuse me」

声をかけられて、顔を上げる。白人の老婦人。手に持った紙皿には、クッキー。

「You must be Ken’s friend from Japan. Merry Christmas」

Ken。ケン・ミラー。語学学校のホストファザー。彼が僕をここに連れてきたんだった。そうだ、思い出す。全部、思い出す。

1982年。僕は語学留学でLAにいた。ホストファザーのケンに誘われ、彼が通う教会のクリスマス・パーティーに連れてこられた。

酒もない、厳かで、少し退屈な夜。壁際で英和辞書を握りしめて、早く終われとだけ思っていた夜。

でも、退屈じゃなかった。九歳の女の子に会ったからだ。

「……ねえ」
袖を引かれる。心臓が跳ねた。

ゆっくり、隣を見る。
僕の胸のあたりまでしか背丈のない、少女。赤いワンピース。白いタイツ。髪に大きなリボン。九歳のタミー・ホール。ケンの姪。

1982年の、あの晩のタミー。記憶の中と同じ。1ミリも違わない。

彼女が不思議そうに僕を見上げている。青い瞳。まだ何も失っていない、44年前の色。

「どうしたの?難しい顔して」
声も、同じだ。ハスキーになる前の、高い声。

BGMが切り替わる。イントロ。ピアノ。ストリングス。
僕は知ってる。この曲。

スキーター・デイヴィスの『The End of the World(世界の終わり)』。

世界の終わり、だ。チークタイム。44年前に、彼女と踊った曲。

タミーが小首をかしげる。
「次の曲、踊ってくれる?」

喉が詰まる。68歳の僕は知っている。この後どうなるかを。

僕らは背丈が合わないまま笑って、僕が「僕のフィアンセだ」とふざけて、彼女が頬を染める。

パーティーが終わって、ケンが「送っていく」と言って、僕はタミーに「来年も来れたらいいね」と言って、彼女が小指を出す。僕は「たぶん」と濁す。

翌週、父の電報が来る。母が倒れた。緊急帰国。日本。語学学校中退。就職。バブル。母の介護。気づけば44年。

「たぶん」が、44年になった。

タミーの瞳を見ている。
そこで、息が止まった。

一瞬、光った。青の奥。九歳のタミーの目じゃない。知っている、この皺。53歳のタミーが、孫の写真を送ってくる時の目だ。

Messengerのアイコンで、何百回も見た。疲れて、優しくて、諦めている目。

きらめきは、一秒で消えた。九歳の無垢な青に戻る。
彼女も、来ている。

9歳の身体に、53歳の意識が入ってる。2026年から、一緒に飛ばされたんだ。

符号は、僕一人じゃなかった。
二人で解く暗号だった。
あと二分四十秒で、この曲が終わる。

その時、僕らはどうなる? 2026年に戻されるのか。1982年に定着するのか。それとも――

タミーがもう一度、袖を引いた。
「ねえ、ケンジ。踊ろ?」

ケンジ。呼ばれた。44年ぶりに、下の名前で。

24歳の肺に、68歳の空気を詰め込む。辞書の上から、胸を一度叩く。

答えは決まっていた。44年前に、言うべきだった言葉だ。

「喜んで。メリークリスマス、タミー」

立ち上がる。彼女の手は小さくて、冷たかった。フロアの真ん中へ。周りの大人が道を開ける。九歳と二十四歳。背丈は合わない。でも、曲が始まる。

スキーター・デイヴィスの声が、1982年の空気に溶ける。

Why does the sun go on shining... 世界の終わり、の中で、僕たちの時間だけが、回り始めた。

フロアの真ん中は、僕らのために空いていた。

九歳のタミーの頭は、僕の胸の少し下にしかない。手を繋ぐすると、彼女の指は全部僕の手のひらに隠れてしまう。周りの大人たちが「まあ」と笑う。ケン・ミラーが口笛を吹いた。

「僕のフィアンセだ」

言ってみた。44年前と同じセリフ。英語は拙い。低音の響きだけが、24歳の肉体から漏れる。

タミーは一瞬きょとんとして、それから頬を真っ赤にして笑った。声を立てて。

「フィアンセって、知ってるの?結婚する人のことでしょ!」

知ってる。53歳の君が、離婚届にサインした日の顔も知ってる。言えないけど。

『The End of the World』がサビに入る。
Why does my heart go on beating... ステップなんて知らない。
ただ、ゆっくり回るだけ。タミーの白いタイツのつま先が、僕の革靴をちょんちょんと踏む。

「ごめん」
「いいの。私、背が低いから」
背が低いから、じゃない。僕が44年分の重さで沈んでいるからだ。

曲の終わりが近づく。あと30秒。24歳の僕は知らなかった。この30秒の後、何が起きるかを。68歳の僕は知っている。

何も起きない。パーティーが終わり、ケンが「送るよ」と言い、玄関でタミーが小指を出す。僕は「たぶん」と言う。翌週、日本に帰る。

同じ轍は踏まない。
曲が終わる。拍手。タミーがぺこりとお辞儀する。僕もつられて頭を下げる。

周りが解散して、パンチボウルに群がり始めた。チャンスは今しかない。

「タミー」
呼び止める。彼女が振り向く。リボンが揺れる。
「来年も、ここに来る」
断言した。44年前は言えなかった言葉。

「来年も、踊って」
タミーの青い瞳が、また一瞬きらめいた。53歳の光。彼女は一瞬だけ大人びた顔をして、すぐ九歳に戻る。

わかってる。彼女も覚えてる。2026年から来たことを。

「約束?」
彼女が小指を出す。

「約束」
僕も小指を絡める。

24歳の指と、9歳の指。44年の距離。
その時、教会の扉が開いた。ケンが顔を出す。

「Kenji, we’re leaving. Say goodbye to Tammy」

早い。まだ二分も話してない。
タミーが名残惜しそうに手を離す。
「メリークリスマス、ケンジ。また来年」
「メリークリスマス」

僕はケンの車の助手席に乗る。振り返る。教会のステンドグラスの灯りの中、タミーが小さく手を振っていた。赤いワンピースが、どんどん遠くなる。

車が発進した瞬間、耳の奥で針が上がる音がした。

――プツン。

視界がまた白く焼き切れる。
次に目を開けると、杉並の6畳間だった。

ユニクロのスウェット。68歳の腰痛。右手に握られているのは、英和辞書じゃない。スマホ。画面はMessenger。

Tammy Hall:既読。
送信時間:2026/12/24 23:52

「今年も難しい」
戻ってきた。2分55秒、経っていた。『The End of the World』1曲分。

机の上のレコードは、B面の最後。針は自動で戻って、止まっている。

夢じゃない。ツイードの匂いが、まだ鼻に残ってる。タミーの手の冷たさが、まだ左手に残ってる。

底冷えする6畳間。変わらない。僕は2026年にいる。彼女はLAにいる。44年の距離は、1ミリも縮んでない。

スマホが震える。
Tammy Hall
「I saw you.」

息が止まる。
「In 1982. You promised.」
打つ手が震える。

「You too?」
送信。

既読。
「Yes. Every year, 2:08. But only shadow. This year, real.」

毎年、二分八秒。彼女も見ていた。僕の影を。
今年だけ、実体で会えた。

「Next year?」
僕が打つ。

既読。返事はない。44年間と同じ。
一分後、最後に一通、来た。

「Merry Christmas, Kenji. 1983」
1983。来年の話だ。

符号は、終わってない。



第2章 44回の12/24|1983 - 2025

1983年12月24日 僕25歳 / タミー10歳 高円寺のレコード屋でブレンダ・リーを探した。
輸入盤。2分08秒。針を落とす。

一分五十秒。部屋の隅。タミーの影。10歳のまま。こっちを見て、小さく手を振る。触れない。二分八秒。消える。

符号の法則に気づいた。『Rockin' Around...』が“扉”。二分八秒で開く。『The End of the World』が“鍵”。踊り切ると選択権が出る。他の曲は“ノイズ”。時空が混線した年のBGM。

1985年12月24日 僕27歳 / タミー12歳 ケンからクリスマスカード。タミーの写真。少し大人びた笑顔。「Kenji is my fiancéって今でも言ってるよ」って書いてある。2分8秒。影は少女の顔つきになっていた。

1991年12月24日 僕33歳 / タミー18歳 バブルの狂乱。会社。午前0時、ビルの非常階段でウォークマンを聴く。

影のタミーはもう僕の肩くらい。高校の卒業ドレス。「戻るぞ、阿佐ヶ谷で飲み直すぞ」って同期に肩を叩かれる。現実の方が重い。

2000年12月24日 僕42歳 / タミー27歳 母が倒れた。介護でLAどころじゃない。12/24、静まり返った荻窪の病院。母の点滴の音。イヤホンで2分8秒。

影のタミーは看護師の格好。母のベッドを覗き込む。何も言わない。母は年明けに逝った。

2010年12月24日 僕52歳 / タミー37歳 離婚した。12/24、空っぽの杉並の家。2分8秒。影のタミーは、左手の薬指を見せた。指輪がない。僕もない。無言で確認し合った。

2016年12月24日 僕58歳 / タミー43歳 定年が見えてきた。タミーはFacebookに孫の写真をアップしてる。「My granddaughter, Lily」
コメントした。「Beautiful. Like you in 1982」

2分8秒。影のタミーは、Lilyを抱いて僕に見せにきた。

2025年12月24日 僕67歳 / タミー52歳 弟が死んだ。葬式の夜。2分8秒。影のタミーは喪服。僕の隣に座ろうとして、座れなくて、立ったまま。「Sorry」って口が動いた。手を伸ばした。届かない。その距離が、44年だった。

そして2026年。
――Rockin' around... ループした。肉体ごと1982年に送られ、ダンスをやり直した。

帰ってきた杉並で、わかった。符号のルール。
1. 二人とも独身の12/24にだけ発動する
2. 「後悔」が強いほど、干渉が強くなる
3. 44年分溜まった後悔が、ついに実体転送を引き起こした
4. 『The End of the World』を踊り切ると、選択権が発生する
選択権。

A. 1982年に定着:24歳と9歳で人生やり直し。2026年の身体は死ぬ
B. 2026年に帰還:68歳と53歳で老いらくの再会。もう符号は起きない
C. ???:踊り切った者にだけ見える、第三の道

Messengerが光る。
Tammy Hall:「Next year, 2027. I will be 10. You will be 25. Until we decide.」

決めるまで。毎年二分八秒だけ、1年ずつ進む過去に戻れる。

現実では69歳と54歳のまま、杉並で老いていく。

来年、訊かなきゃいけない。「いつまで、踊る?」って。
二分八秒は、来年のために取っておく。

終わらない二分八秒として。



第3章 ループの日|2027年12月24日

一年は、長い。二分八秒を待つには、長すぎた。

2027年。僕は69歳になった。タミーは54歳。12/24以外、連絡しない。破ったら、符号が壊れる気がした。

12月24日。金曜。午後11時49分。
深呼吸。25歳の肺を思い出す。針を落とした。

――プツッ。
『Rockin' Around the Christmas Tree』。
一分五十秒。来た。

部屋がブレる。テレビが砂嵐。本棚がノイズ。2027年の杉並が剥がれていく。

身体が軽くなる。ツイード。タイ。内ポケットの辞書。ずしり。
重力がない。落ちる。

――Rockin' around... Rockin' around...

ループだ。
去年と同じ。針飛び。世界がバグる。甘い匂い。パンチボウル。
視界が白く焼き切れる。

目を開ける。パイプ椅子。冷たい。アルミ。
見下ろす。ツイード。荻窪の古着屋で買ったやつだ。でも、去年と違う。袖が少し短い。身体が、若いけれど、少し大人の厚みがある。

25歳だ。去年は24歳だった。1年、進んでいる。

1983年のクリスマス。僕らは、過去の地平でも1年ずつ歳を取る。

「……ねえ」
袖を引かれた。隣。青いワンピース。髪のリボンも青。1年、成長している。

10歳のタミー。大人の階段を上り始めた少女。でも、瞳が違う。去年きらめいた53歳の光が、最初から宿っている。

「ケンジ。去年、約束したでしょ。次の曲、踊って」
BGMが切り替わる。1983年の冬。曲も1年進む。

流れてきたのは、プリンスの『Purple Rain』。まずい。リリースは翌年の1984年のはずだ。時空の有線放送が、未来へ混線している。

静かな教会で流れるはずのない、重く切ないギターが、ステンドグラスを震わせる。

タミーがくすくす笑う。「変な曲。でも、踊ろ」
フロアに出る。

10歳と25歳。去年より、少しだけ身長差が縮まった。彼女の頭が、僕の鳩尾まで来る。手を繋ぐ。1年分、成長した手。

「ケンジ、聞きたいことあるの」
踊りながら、タミーが言う。54歳の顔で。

「私たちが、このまま毎年来れるの? いつまで?」

「...決めるまで」

プリンスのギターが激しく咽び泣く。紫の雨。中身の彼女は54歳だ。

「ケンジさ、来年私は11歳になるよ。ケンジは26歳。33歳と18歳になるまで、あと8回。33歳と18歳でも、ちょっと犯罪っぽいよね、日本だと」

心臓を、鷲掴みにされた。それが、C案の持つ「毒」だ。

毎年二分八秒だけ、僕らは1歳ずつ歳を取る。現実の僕らは犯罪者か? 誰が僕らを裁く? ブレンダ・リーか?

「でもね、ケンジ」 タミーが、ぎゅっと手を握る。54歳の力。

「69歳と54歳で、今から現実の老人ホームで恋愛するより、ずっといい。だって、やり直せるから。44年分、言えなかったこと、全部」

紫の雨が、教会の床を濡らすように響く。曲が終わる。あと20秒。
タミーが、つま先立ちした。だから僕が、屈む。25歳の若い背中を、深く折る。

彼女の唇が、僕の頬に触れた。子供のキス。でも、そこには54年分の重さがあった。

「来年も、来て。約束」
小指を出す。絡める。44年分の後悔と、1年分の希望を乗せて。

その瞬間、見えた。高い天井。梁の隙間。そこに、レコードの溝みたいな黒い線が、天の川のように無数に走っている。

1982、1983、1984...2069。僕らが踊るたび、1本ずつ針が落ちる。
選択肢が、頭の中に降ってきた。

A. ここで止まる:針を上げれば、2027年の杉並に戻れる。69歳と54歳で、残りの余生を会って過ごす。
B. ここに留まる:針を落としたままにすれば、1983年の僕らとして過去に生きられる。だが2027年の僕の身体は即座に死ぬ。
C. 踊り続ける:毎年二分八秒だけ戻ってくる。現実では老いていき、過去では恋を育てていく。永遠のすれ違い、永遠の純愛。

タミーが、僕の目を見ている。54歳の目で。「ケンジ、どうする?」
僕は、屈んだまま、彼女の額に自分の額をそっと当てた。

「来年も、踊ろう。111歳と96歳になっても。死んでも、踊ろう」
タミーが笑った。10歳の無垢さで。54歳の諦念と抱擁で。

――プツン。
視界が白く焼き切れる。

目を開けると、杉並だった。69歳の腰痛。ユニクロのスウェット。針は上がっていた。

机の上の時計。2027/12/25 0:02。二分八秒、経っていた。
スマホ、通知なし。机の上のレコードジャケット。

ブレンダ・リーが、「あんたたち、どこまで行く気?」って、呆れた顔をしていた。

どこまでも、だよ。
二分八秒ずつ、全部回収する。
44年分、言えなかった「メリークリスマス」を。

メリークリスマス・エンドレス。
残された時間の少ない69歳の老人には、ちょうどいい歩幅だ。

二分八秒は、取っておく。
終わらない二分八秒として。





エピローグ 終わらない二分八秒|2028 - 2069

2028年12月24日 僕70歳 / タミー55歳 → 過去:26歳と11歳 「去年、言えなかったこと、あるんだ」

11歳のタミーが、僕の歪んだタイを直してくれる。1984年の教会。

流れているのはワム!『Last Christmas』。

「なに」
「おじいちゃん、死んじゃった」

現実の話だ。ケン・ミラーが、この年の春に逝った。

「葬儀、行けなくてごめん」

「いいの。ケンジも、仕事大変だったでしょ」

代わりに、小さな小指を出す。「来年も、来る」

「うん」

二分八秒。針が上がる。杉並に戻ると、PCにケンの訃報メールが来ていた。符号は、未来を変えない。ただ、二分八秒だけ、痛みを分け合える。

2035年12月24日 僕77歳 / タミー62歳 → 過去:33歳と18歳 恐れていた年が来た。

18歳のタミーは、深紅のドレスを着ていた。33歳の僕は、ツイードが少しきつい。マライア・キャリーの『All I Want for Christmas Is You』が未来から混線して流れる。

「ケンジ、キス、していい?」
18歳と33歳。中身は77歳と62歳。

「...だめだ。来年、34歳と19歳になったら」

「大人の言い訳。ケンジのばか。44年前のあの日も、そうやって逃げた」

18歳の彼女の濡れた頬に、33歳の僕の手が、触れるだけ触れた。
唇には、届かない。それが僕の、最後のプライドだった。

「ごめん」「ううん。来年も、絶対来て」
二分八秒。杉並の暗闇で、僕は泣いた。77歳の、情けない嗚咽。

メリークリスマス・エンドレス。終わらない罰だ。

2042年12月24日 僕84歳 / タミー69歳 → 過去:40歳と25歳 タミーが、小さな子供を連れてきた。「私の孫。Lily。現実では15歳」

1982年の教会をベースにした空間に、2027年生まれの少女が立っている。Lilyが、大きな青い目で僕を見る。

「Grandma’s fiancé?」
タミーが少女のように爆笑する。

「Yes. 44 years ago, he said so」
25歳の僕は頭を下げる。

「はじめまして。ケンジです」

『The End of the World』が流れる。40歳の美しいタミーと、25歳の僕で、静かに踊る。

15歳の孫が、それを見ている。地獄みたいに、幸福な光景だった。

「本当のプロポーズは?」「...来年」「また逃げる」「逃げない。もう60年以上、君だけを待ってた」

2051年12月24日 僕93歳 / タミー78歳 → 過去:49歳と34歳 僕は、現実の部屋で杖をついていた。

秋に高円寺の駅前で転んで脚を悪くしたからだ。過去の34歳の身体は健康そのものなのに、脳が覚えている杖の感覚が抜けない。

不格好に歩く僕の腕を、49歳のタミーが、優しく組んでくれた。

「老けたね、ケンジ。中身が」「君もな。綺麗に」

流れてきたのは、ジョンとヨーコの『Happy Xmas (War Is Over)』。
「戦争、終わってないね」と、タミーが言う。

「便も、僕らは終わらせたよ。44年間の、すれ違いという名の戦争を」
僕らは踊らなかった。

ただ、しっかりと腕を組んで、静かに曲を聴いた。93歳の魂と、78歳の魂で。二分八秒。それで、十分に満たされていた。

メリークリスマス・エンドレス。
2069年12月24日 僕111歳 / タミー96歳 → 過去:67歳と52歳 来た。本当の最後だ。

僕は111歳。日本最高齢に近い。寝たきり。点滴。杉並の、静かなホスピス。タミーは96歳、LAのホスピス。

午後11時49分。看護師が静かに部屋を出る。「メリークリスマス、加藤さん。良い夜を」

擦り切れたスピーカーから、針が落ちる。魂がイントロを拾う。
一分五十秒。部屋が、ブレない。現実を剥がす体力すら残っていない。

だが、光は満ちた。
111歳の僕。96歳のタミー。温かい光だけが満ちた、白い空間。

タミーの髪は美しい総白髪。でも、髪のリボンだけはあの晩と同じ、鮮やかな赤だった。僕のツイードジャケットは、皺だらけの111歳の身体に、やけに大きくぶら下がっていた。

「ケンジ」「タミー」 呼び合う。通算89回目のクリスマス。空間に、音はない。完全な静寂。でも、胸の奥で『The End of the World』が爆音で鳴り響いている。

「来年、どうする?」 タミーが聞く。96歳の笑顔で。

「...それでも、踊ろう」 僕は言う。
「うん」 タミーが、ゆっくりと小指を出す。96歳の、愛おしい小指。

僕も出す。
111歳の、震える小指。魂の指が、確かに結ばれた。

「ケンジ、ありがとう」

「何が」

「言わなかったこと」

「...」

「ばかだな」

「君の方が、大ばか」

光が強くなる。二分八秒が、終わる。
だが、針が上がるプツンという音は、もうしなかった。

上がるべき日常の溝が存在しない。
最後に、タミーが僕の胸に頭を預けて囁いた。

「世界の終わり、じゃなかったね。始まりだった」

「ああ。メリークリスマス・エンドレス」

「ああ。メリークリスマス、ケンジ」

2069年12月25日 午前0時02分 杉並のホスピス 2069年12月25日 午前0時02分 LAのホスピス 二つの国の、離れた部屋で、まったく同時に電子モニターが長い平坦なフラットラインを告げた。

杉並の机の上のレコードは、静かに止まっていた。

B面、最後。2分08秒。
針は、溝の一番奥、ゼロの場所で眠っている。

ジャケットのブレンダ・リーは、17歳の瑞々しい笑顔で、永遠の恋人たちを祝福するように歌っていた。

その年のクリスマス、東京とLAで、まったく同じ時間に、静かな雪が降った。

LAに雪が降るのは、実に数十年ぶりの奇跡だった。

二分八秒だけ、激しく降って、そして静かにやんだ。

数日後、大人になったLilyが、祖母の遺品から1枚の古い手紙を見つける。

『1982 - 2069』
中には、掠れた文字で、たった1行だけ。

――二分八秒。僕たちの時間は、今ここから、新しく回り始める。

Lilyは、理由も分からず涙をこぼし、その手紙を小さな額に入れた。

けれど、彼女は毎年12月24日の夜になると、部屋の明かりを消し、古いプレーヤーでブレンダ・リーをかけるようになった。

なぜだか、そうしなきゃいけない気がした。

時間の裂け目の向こうで、今も踊り続けている、二人のステップを踏み外さないために。

――了――


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あとがき

人生には、「あの時、ああしていれば」と思う出来事が、誰にでも一つや二つあるものです。
けれど現実は、時間を巻き戻してはくれません。

だからこそ私は、「もし一年に一度、クリスマスイブの二分八秒だけ戻れるなら」という小さな空想から、この物語を書き始めました。

二分八秒という短い時間は、一曲が終わるまでの長さであり、人生を変えるにはあまりにも短すぎます。

それでも、人はそのわずかな時間で約束を交わし、想いを伝え、誰かの人生を照らすことができるのではないでしょうか。

ケンジとタミーは四十四年間、「間に合わなかった時間」を抱え続けました。
それでも最後には、「世界の終わりではなく、始まりだった」と笑い合えました。

私もまた、この物語を書き終えた今、過去をやり直したいのではなく、「今日」を大切に生きようと思っています。

この本が、あなたにとって大切な人へ「メリークリスマス」と伝えるきっかけになれば、作者としてとても嬉しく思います。
また次の物語で、お会いしましょう。


ー原詩ー

ブレンダリーを聴きながら






プログレス
―― 終電のない駅



まえがき

日々の仕事に追われ、ふと立ち止まったとき、「自分は一体どこへ向かって走っているのだろう」と、妙な焦燥感に駆られることはないでしょうか。

誰かの成功を素直に喜べなかったり、他人のつまずきに小さく安堵したり。そんな、誰にも言えない心の澱(おり)は、きっと誰もが厳重に鍵をかけて隠し持っているものです。

本書『プログレス ―― 終電のない駅』は、そんな日常の迷路に迷い込んでしまった一人の男の、一夜の奇妙な体験を描いた物語です。

深夜の静寂のなかで、あるいは通勤の喧騒の合間に、主人公と共にひとときの「心の旅」を楽しんでいただければ幸いです。






残業を終え、いつもの改札を抜けたはずだった。
気づくと僕は、見覚えのないホームに立っていた。

蛍光灯は妙に白く、時刻表には数字がひとつもない。「次発」の欄は、ずっと空白のままだ。
ベンチに人影はなく、線路の向こうには闇より濃い闇が沈んでいる。

スマートフォンを取り出すと、電波は圏外。時刻だけが「0:00」で止まっていた。

「終電、逃したみたいだね」

振り向くと、駅員の制服を着た老人が立っていた。皺の奥の目だけが、妙に若い。

「ここは……何駅ですか」

「駅名はないよ。強いて言うなら――『振り出し』かな」

老人は改札の奥を指さした。そこには、小学校の校庭が広がっていた。
かけっこの前の、あの緊張と高揚が入り混じった空気。

「キミも、もう一度走ってみたいんじゃないかね」

断る理由が見つからないまま、僕は吸い寄せられるように改札をくぐった。




校庭には、同じ年頃の子どもたちが横一列に並んでいた。
その中に、見知った顔がいくつもある。

隣のクラスだった陸。父親は市議会議員で、いつも高そうな靴を履いていた。
少し離れた場所には、美咲。広い庭のある家に住んでいた。

生まれた場所も、育った環境も、手にしているものも違う。
それでも、この瞬間だけは、同じ白線の上に立っていた。

「位置について」

声と同時に、僕らは駆け出した。

走るごとに景色が変わっていく。校庭が中学の廊下になり、高校の教室になり、やがて見知らぬオフィスビルの通路になった。
走りながら、僕らは大人になっていくのだ。

最初のうちは、ただ楽しかった。誰が速いかなんて、些細なことに思えた。

けれど、しばらく走ると、陸が僕より頭ひとつ前に出た。
父親の名刺を握りしめ、「コネ」と書かれた小さな扉を迷いなくくぐっていく。

猛烈な悔しさが、喉の奥から黒くこみ上げた。




僕は走り続けた。焦りが足を重くする。

あるとき、コースの脇で陸が石につまずいて派手に転んだ。膝から血を流し、顔をしかめている。

「大丈夫か」

口では心配そうに言いながら、胃の底から醜い喜びがせり上がるのを止められなかった。

――いい気味だ。ざまあみろ。

その瞬間、照明が一斉に消えた。

闇の中に、あの老人が立っていた。

「見えたかね、自分の顔が」

老人が掲げた小さな鏡には、僕が映っていた。
心配そうな表情の下に、歪んだ笑みを必死で隠している、浅ましい自分の顔が。

「これが、あの日のキミだ。忘れたふりをしているだけで、な」

僕は何も言い返せなかった。





レースは再び動き出した。

景色はさらに移り変わり、僕はいつの間にか名刺入れとネクタイを持つ年齢になっていた。
周りを走る人々の顔にも、深い皺が刻まれている。

あの日横一列に並んでいた子どもたちは、もういない。

僕はまだ走っていた。「まだ」「もっと先へ」と自分に言い聞かせながら。

けれど、走っても走っても、あの日思い描いていた理想の自分には近づけない。

息が切れ、足が縺れた。立ち止まると、目の前に深い溝が横たわっていた。
その向こうに、まだ形にならない光のような景色が揺れている。

――今さら失敗したくないというプライドか。
――現状維持への執着か。

一歩踏み出せば何かが変わる気がするのに、その一歩がどうしても怖い。

「怖いのかね」

いつの間にか、老人が隣にいた。

「怖いというより……この歳になって傷つくのが、怖いんです。何が待っているのか、わからないから」

「それは、みんな同じだよ。生まれも育ちも、カネも名誉もコネも違うが――この一歩の前で立ち尽くすのは、誰も変わらない」

老人は僕の背を、優しく、しかし拒めない力で押した。




溝の向こうに足を踏み入れた瞬間、景色は真っ白になった。

気づくと、僕は表彰式の会場にいた。壇上に立っているのは――陸だった。

彼は自分の会社を立ち上げ、倒産寸前の町工場を救ったという。

マイクを握る白髪混じりの頭髪、ゴツゴツとした手。
話し始める前に一瞬だけ見せた照れた笑顔は、あの日の陸のままだった。

かつての驕りは消え、静かで温かい声。
コネという近道を通った彼も、その先で泥水をすすり、自分の足で必死に走り続けてきたのだ。

会場を埋める拍手の中に、僕も立っていた。

不思議なことに、胸に湧いたのは嫉妬でも恨みでもなかった。

――よかったな、陸。

そう思えた瞬間、僕の両手は自然に動き、誰よりも大きな拍手を送っていた。
目の奥がじんわりと熱くなる。

あの日、シメシメと思った自分。コネを恨めしく思った自分。
そのどちらもが、静かに溶けて消えていくのを感じた。




「気づいたようだね」

老人の声で、僕は再びホームに立っていることに気づいた。
時刻表には、相変わらず数字がひとつもない。

「キミは、いったい……」

「さあ、何だろうね。キミが忘れたくて、でも忘れられなかった誰かかもしれない」

老人は微笑み、改札の奥を指さした。

「レースにゴールはない。あるのは、歩き方を選び直す瞬間だけだ。
誰かの一歩先を妬むことも、誰かのつまずきを喜ぶことも、キミ次第でやめられる」

言い終えると、老人の姿は霧のように薄れていった。

次に目を開けたとき、僕はいつもの駅のベンチに座っていた。
始発を待つ人々がぽつりぽつりと集まり始めている。

空はまだ薄暗いが、東の端がわずかに白んでいた。

スマートフォンを見ると、時刻はいつも通りに動いている。
あれは夢だったのだろうか。それとも――。

気づくと、ポケットの中の手がじんわりと温かい。
まるで、たった今まで誰かと固く握手をしていたかのように。




数日後、後輩の一人が大きな契約を取ってきたと、社内が沸いた。

以前の僕なら、素直に喜べなかったかもしれない。
心のどこかで、自分と比べてしまっていただろうから。

けれど、今の僕は違った。

「おめでとう。よくやったな」

自然と口から出た言葉に、自分自身が驚いた。

生まれも育ちも、手にしているものも、人それぞれ違う。
横一列で並んだあの日から、僕らはずっと違う速さで、違うコースを走り続けている。

理想の自分には、今もほど遠い。
それでも――今なら、キミの成功に、心から拍手ができる。

改札へ向かって、僕は一歩を踏み出した。
ふと、向こうで白い光が揺れた気がした。

(了)



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あとがき

本作のテーマである「プログレス(Progress)」という言葉には、単なる「前進」だけでなく、「進歩」や「なりゆき」という意味が含まれています。
人生には明確なゴールなどなく、私たちはただ、それぞれが選んだ速度とコースを走り続けることしかできません。時に嫉妬に足を縺(もつ)れさせ、時にプライドから一歩が踏み出せなくなるのも、また人間らしさなのだと思います。

主人公が最後に手に入れたのは、劇的な成功ではありません。ただ、「他人の成功に心から拍手を送れるようになった」という、ほんの少しの心の進歩でした。それこそが、何よりも美しい「プログレス」なのではないか。そんな願いを込めて、この筆を執りました。

読み終えたあなたの明日が、ほんの少しだけ温かい光に照らされることを願っております。