『イヴの符号』

── 二分八秒、44年のクリスマス



まえがき

クリスマスソングには、不思議な力があります。

街を歩いていても、何十年も前に聴いた一曲が流れた瞬間、その頃の景色や匂い、人の笑顔まで鮮明によみがえることがあります。

音楽は、時間を閉じ込めることができるのかもしれません。

もし、ある一曲を聴くたびに、人生でたった一度だけ後悔した「あの日」へ戻れるとしたら。
もし、その時間が、たった二分八秒しか与えられなかったとしたら。
あなたなら、誰に会いに行きますか。
何を伝えますか。
そして、どんな未来を選びますか。

『イヴの符号』は、タイムリープの物語でありながら、「時間」よりも「想い」を描いた物語です。

人生はやり直せなくても、心は何度でも誰かを想うことができます。

この物語が、あなたにとって大切な誰かを思い出す、小さなきっかけになれば幸いです。
どうぞ、レコードの針を静かに落とすような気持ちで、お読みください。




プロローグ 二分八秒のバグ

レコードに針を落とすたび、僕は六十八歳になる。

正確には、針が『Rockin' Around the Christmas Tree』のイントロを拾った瞬間、身体中の関節が六十八年分きしむ。

東京・杉並の6畳間、ユニクロのスウェット、Amazonで7,980円だった安いプレーヤー。そのすべてが“間違い”だと、ブレンダ・リーが教えてくれる。

2026年12月24日。木曜。午後11時49分。
スマホが震えた。Messenger。

Tammy Hall。
「Come?」

毎年同じ一言。44回目。写真もスタンプもない。1982年のタミーは絵文字を知らないから、53歳のタミーも使わないのだと、僕は思っている。

「今年も難しい」
打って、送信。既読は3秒でつく。返事はない。

B面、最後。2分08秒。曲の長さは44年間1秒も変わらない。変わったのは僕の方だ。

教員生活38年、定年して3年。妻とは10年前に別れた。子どもはいない。母を見送り、父を見送り、弟は先に逝った。

部屋で生きているのは、30年前に神保町で買ったLPだけだ。

『Merry Christmas from Brenda Lee』。ジャケットの彼女は日焼けして頬が黄ばんでいる。それでも歌声だけは1982年のままだった。

一分五十秒。いつもなら、部屋の隅に“影”が出る。五十歳のタミーの輪郭。僕を見て、笑らず、泣かず、ただ立っている。

今年は出ない。
代わりに、曲が震えた。

――Rockin' around... Rockin' around... Rockin' around...

針飛び。ありえない。レコードにそんな機能はない。

部屋がブレる。本棚がデジタル・ノイズに溶ける。液晶テレビが砂嵐を吐く。2026年が、書き換えられていく。

まずい。ルールが違う。二分八秒は、まだ――

内ポケットがずしりと重くなる。ツイードだ。スウェットのわけがない。1982年に着ていた、あのジャケット。使い古した英和辞書の角が脇腹に当たる。

床が消える。浮く。落ちる。耳の奥で、電子音と、人々のざわめきが混ざる。

匂いがした。甘い。パンチボウルの匂い。

視界が白く焼き切れる。




第1章 1982年の夜

次に目を開けた時、僕はパイプ椅子に座っていた。
冷たい。アルミの感触が尻にリアルだ。

見下ろすと、ツイード。締め付けが苦しいタイ。内ポケットの辞書が、確かにある。指で押すと、挟んだ写真の厚みがわかる。

日本に置いてきた、彼女の写真。1982年の僕が、まだ捨てられずにいた証拠。

ざわざわと、人の声。カトラリーの音。壁には手書きの“Merry Christmas”。天井からはモールが下がっている。

ステンドグラスの向こうはLAの冷たい夜空だ。暖房が効きすぎて、空気が甘い。

小さな教会。ワシントン大通り。1982年12月24日。

身体が、軽い。手を握る。皺がない。68歳の腰痛も、老眼も消えている。24歳だ。

鏡を見なくてもわかる。24歳の僕に戻っている。

混乱する。意識だけ飛ぶはずじゃなかったのか。肉体ごと来た。ということは、2026年の杉並の部屋で、僕は死んだのか?孤独死。明日のニュースにもならない。

「Excuse me」

声をかけられて、顔を上げる。白人の老婦人。手に持った紙皿には、クッキー。

「You must be Ken’s friend from Japan. Merry Christmas」

Ken。ケン・ミラー。語学学校のホストファザー。彼が僕をここに連れてきたんだった。そうだ、思い出す。全部、思い出す。

1982年。僕は語学留学でLAにいた。ホストファザーのケンに誘われ、彼が通う教会のクリスマス・パーティーに連れてこられた。

酒もない、厳かで、少し退屈な夜。壁際で英和辞書を握りしめて、早く終われとだけ思っていた夜。

でも、退屈じゃなかった。九歳の女の子に会ったからだ。

「……ねえ」
袖を引かれる。心臓が跳ねた。

ゆっくり、隣を見る。
僕の胸のあたりまでしか背丈のない、少女。赤いワンピース。白いタイツ。髪に大きなリボン。九歳のタミー・ホール。ケンの姪。

1982年の、あの晩のタミー。記憶の中と同じ。1ミリも違わない。

彼女が不思議そうに僕を見上げている。青い瞳。まだ何も失っていない、44年前の色。

「どうしたの?難しい顔して」
声も、同じだ。ハスキーになる前の、高い声。

BGMが切り替わる。イントロ。ピアノ。ストリングス。
僕は知ってる。この曲。

スキーター・デイヴィスの『The End of the World(世界の終わり)』。

世界の終わり、だ。チークタイム。44年前に、彼女と踊った曲。

タミーが小首をかしげる。
「次の曲、踊ってくれる?」

喉が詰まる。68歳の僕は知っている。この後どうなるかを。

僕らは背丈が合わないまま笑って、僕が「僕のフィアンセだ」とふざけて、彼女が頬を染める。

パーティーが終わって、ケンが「送っていく」と言って、僕はタミーに「来年も来れたらいいね」と言って、彼女が小指を出す。僕は「たぶん」と濁す。

翌週、父の電報が来る。母が倒れた。緊急帰国。日本。語学学校中退。就職。バブル。母の介護。気づけば44年。

「たぶん」が、44年になった。

タミーの瞳を見ている。
そこで、息が止まった。

一瞬、光った。青の奥。九歳のタミーの目じゃない。知っている、この皺。53歳のタミーが、孫の写真を送ってくる時の目だ。

Messengerのアイコンで、何百回も見た。疲れて、優しくて、諦めている目。

きらめきは、一秒で消えた。九歳の無垢な青に戻る。
彼女も、来ている。

9歳の身体に、53歳の意識が入ってる。2026年から、一緒に飛ばされたんだ。

符号は、僕一人じゃなかった。
二人で解く暗号だった。
あと二分四十秒で、この曲が終わる。

その時、僕らはどうなる? 2026年に戻されるのか。1982年に定着するのか。それとも――

タミーがもう一度、袖を引いた。
「ねえ、ケンジ。踊ろ?」

ケンジ。呼ばれた。44年ぶりに、下の名前で。

24歳の肺に、68歳の空気を詰め込む。辞書の上から、胸を一度叩く。

答えは決まっていた。44年前に、言うべきだった言葉だ。

「喜んで。メリークリスマス、タミー」

立ち上がる。彼女の手は小さくて、冷たかった。フロアの真ん中へ。周りの大人が道を開ける。九歳と二十四歳。背丈は合わない。でも、曲が始まる。

スキーター・デイヴィスの声が、1982年の空気に溶ける。

Why does the sun go on shining... 世界の終わり、の中で、僕たちの時間だけが、回り始めた。

フロアの真ん中は、僕らのために空いていた。

九歳のタミーの頭は、僕の胸の少し下にしかない。手を繋ぐすると、彼女の指は全部僕の手のひらに隠れてしまう。周りの大人たちが「まあ」と笑う。ケン・ミラーが口笛を吹いた。

「僕のフィアンセだ」

言ってみた。44年前と同じセリフ。英語は拙い。低音の響きだけが、24歳の肉体から漏れる。

タミーは一瞬きょとんとして、それから頬を真っ赤にして笑った。声を立てて。

「フィアンセって、知ってるの?結婚する人のことでしょ!」

知ってる。53歳の君が、離婚届にサインした日の顔も知ってる。言えないけど。

『The End of the World』がサビに入る。
Why does my heart go on beating... ステップなんて知らない。
ただ、ゆっくり回るだけ。タミーの白いタイツのつま先が、僕の革靴をちょんちょんと踏む。

「ごめん」
「いいの。私、背が低いから」
背が低いから、じゃない。僕が44年分の重さで沈んでいるからだ。

曲の終わりが近づく。あと30秒。24歳の僕は知らなかった。この30秒の後、何が起きるかを。68歳の僕は知っている。

何も起きない。パーティーが終わり、ケンが「送るよ」と言い、玄関でタミーが小指を出す。僕は「たぶん」と言う。翌週、日本に帰る。

同じ轍は踏まない。
曲が終わる。拍手。タミーがぺこりとお辞儀する。僕もつられて頭を下げる。

周りが解散して、パンチボウルに群がり始めた。チャンスは今しかない。

「タミー」
呼び止める。彼女が振り向く。リボンが揺れる。
「来年も、ここに来る」
断言した。44年前は言えなかった言葉。

「来年も、踊って」
タミーの青い瞳が、また一瞬きらめいた。53歳の光。彼女は一瞬だけ大人びた顔をして、すぐ九歳に戻る。

わかってる。彼女も覚えてる。2026年から来たことを。

「約束?」
彼女が小指を出す。

「約束」
僕も小指を絡める。

24歳の指と、9歳の指。44年の距離。
その時、教会の扉が開いた。ケンが顔を出す。

「Kenji, we’re leaving. Say goodbye to Tammy」

早い。まだ二分も話してない。
タミーが名残惜しそうに手を離す。
「メリークリスマス、ケンジ。また来年」
「メリークリスマス」

僕はケンの車の助手席に乗る。振り返る。教会のステンドグラスの灯りの中、タミーが小さく手を振っていた。赤いワンピースが、どんどん遠くなる。

車が発進した瞬間、耳の奥で針が上がる音がした。

――プツン。

視界がまた白く焼き切れる。
次に目を開けると、杉並の6畳間だった。

ユニクロのスウェット。68歳の腰痛。右手に握られているのは、英和辞書じゃない。スマホ。画面はMessenger。

Tammy Hall:既読。
送信時間:2026/12/24 23:52

「今年も難しい」
戻ってきた。2分55秒、経っていた。『The End of the World』1曲分。

机の上のレコードは、B面の最後。針は自動で戻って、止まっている。

夢じゃない。ツイードの匂いが、まだ鼻に残ってる。タミーの手の冷たさが、まだ左手に残ってる。

底冷えする6畳間。変わらない。僕は2026年にいる。彼女はLAにいる。44年の距離は、1ミリも縮んでない。

スマホが震える。
Tammy Hall
「I saw you.」

息が止まる。
「In 1982. You promised.」
打つ手が震える。

「You too?」
送信。

既読。
「Yes. Every year, 2:08. But only shadow. This year, real.」

毎年、二分八秒。彼女も見ていた。僕の影を。
今年だけ、実体で会えた。

「Next year?」
僕が打つ。

既読。返事はない。44年間と同じ。
一分後、最後に一通、来た。

「Merry Christmas, Kenji. 1983」
1983。来年の話だ。

符号は、終わってない。



第2章 44回の12/24|1983 - 2025

1983年12月24日 僕25歳 / タミー10歳 高円寺のレコード屋でブレンダ・リーを探した。
輸入盤。2分08秒。針を落とす。

一分五十秒。部屋の隅。タミーの影。10歳のまま。こっちを見て、小さく手を振る。触れない。二分八秒。消える。

符号の法則に気づいた。『Rockin' Around...』が“扉”。二分八秒で開く。『The End of the World』が“鍵”。踊り切ると選択権が出る。他の曲は“ノイズ”。時空が混線した年のBGM。

1985年12月24日 僕27歳 / タミー12歳 ケンからクリスマスカード。タミーの写真。少し大人びた笑顔。「Kenji is my fiancéって今でも言ってるよ」って書いてある。2分8秒。影は少女の顔つきになっていた。

1991年12月24日 僕33歳 / タミー18歳 バブルの狂乱。会社。午前0時、ビルの非常階段でウォークマンを聴く。

影のタミーはもう僕の肩くらい。高校の卒業ドレス。「戻るぞ、阿佐ヶ谷で飲み直すぞ」って同期に肩を叩かれる。現実の方が重い。

2000年12月24日 僕42歳 / タミー27歳 母が倒れた。介護でLAどころじゃない。12/24、静まり返った荻窪の病院。母の点滴の音。イヤホンで2分8秒。

影のタミーは看護師の格好。母のベッドを覗き込む。何も言わない。母は年明けに逝った。

2010年12月24日 僕52歳 / タミー37歳 離婚した。12/24、空っぽの杉並の家。2分8秒。影のタミーは、左手の薬指を見せた。指輪がない。僕もない。無言で確認し合った。

2016年12月24日 僕58歳 / タミー43歳 定年が見えてきた。タミーはFacebookに孫の写真をアップしてる。「My granddaughter, Lily」
コメントした。「Beautiful. Like you in 1982」

2分8秒。影のタミーは、Lilyを抱いて僕に見せにきた。

2025年12月24日 僕67歳 / タミー52歳 弟が死んだ。葬式の夜。2分8秒。影のタミーは喪服。僕の隣に座ろうとして、座れなくて、立ったまま。「Sorry」って口が動いた。手を伸ばした。届かない。その距離が、44年だった。

そして2026年。
――Rockin' around... ループした。肉体ごと1982年に送られ、ダンスをやり直した。

帰ってきた杉並で、わかった。符号のルール。
1. 二人とも独身の12/24にだけ発動する
2. 「後悔」が強いほど、干渉が強くなる
3. 44年分溜まった後悔が、ついに実体転送を引き起こした
4. 『The End of the World』を踊り切ると、選択権が発生する
選択権。

A. 1982年に定着:24歳と9歳で人生やり直し。2026年の身体は死ぬ
B. 2026年に帰還:68歳と53歳で老いらくの再会。もう符号は起きない
C. ???:踊り切った者にだけ見える、第三の道

Messengerが光る。
Tammy Hall:「Next year, 2027. I will be 10. You will be 25. Until we decide.」

決めるまで。毎年二分八秒だけ、1年ずつ進む過去に戻れる。

現実では69歳と54歳のまま、杉並で老いていく。

来年、訊かなきゃいけない。「いつまで、踊る?」って。
二分八秒は、来年のために取っておく。

終わらない二分八秒として。



第3章 ループの日|2027年12月24日

一年は、長い。二分八秒を待つには、長すぎた。

2027年。僕は69歳になった。タミーは54歳。12/24以外、連絡しない。破ったら、符号が壊れる気がした。

12月24日。金曜。午後11時49分。
深呼吸。25歳の肺を思い出す。針を落とした。

――プツッ。
『Rockin' Around the Christmas Tree』。
一分五十秒。来た。

部屋がブレる。テレビが砂嵐。本棚がノイズ。2027年の杉並が剥がれていく。

身体が軽くなる。ツイード。タイ。内ポケットの辞書。ずしり。
重力がない。落ちる。

――Rockin' around... Rockin' around...

ループだ。
去年と同じ。針飛び。世界がバグる。甘い匂い。パンチボウル。
視界が白く焼き切れる。

目を開ける。パイプ椅子。冷たい。アルミ。
見下ろす。ツイード。荻窪の古着屋で買ったやつだ。でも、去年と違う。袖が少し短い。身体が、若いけれど、少し大人の厚みがある。

25歳だ。去年は24歳だった。1年、進んでいる。

1983年のクリスマス。僕らは、過去の地平でも1年ずつ歳を取る。

「……ねえ」
袖を引かれた。隣。青いワンピース。髪のリボンも青。1年、成長している。

10歳のタミー。大人の階段を上り始めた少女。でも、瞳が違う。去年きらめいた53歳の光が、最初から宿っている。

「ケンジ。去年、約束したでしょ。次の曲、踊って」
BGMが切り替わる。1983年の冬。曲も1年進む。

流れてきたのは、プリンスの『Purple Rain』。まずい。リリースは翌年の1984年のはずだ。時空の有線放送が、未来へ混線している。

静かな教会で流れるはずのない、重く切ないギターが、ステンドグラスを震わせる。

タミーがくすくす笑う。「変な曲。でも、踊ろ」
フロアに出る。

10歳と25歳。去年より、少しだけ身長差が縮まった。彼女の頭が、僕の鳩尾まで来る。手を繋ぐ。1年分、成長した手。

「ケンジ、聞きたいことあるの」
踊りながら、タミーが言う。54歳の顔で。

「私たちが、このまま毎年来れるの? いつまで?」

「...決めるまで」

プリンスのギターが激しく咽び泣く。紫の雨。中身の彼女は54歳だ。

「ケンジさ、来年私は11歳になるよ。ケンジは26歳。33歳と18歳になるまで、あと8回。33歳と18歳でも、ちょっと犯罪っぽいよね、日本だと」

心臓を、鷲掴みにされた。それが、C案の持つ「毒」だ。

毎年二分八秒だけ、僕らは1歳ずつ歳を取る。現実の僕らは犯罪者か? 誰が僕らを裁く? ブレンダ・リーか?

「でもね、ケンジ」 タミーが、ぎゅっと手を握る。54歳の力。

「69歳と54歳で、今から現実の老人ホームで恋愛するより、ずっといい。だって、やり直せるから。44年分、言えなかったこと、全部」

紫の雨が、教会の床を濡らすように響く。曲が終わる。あと20秒。
タミーが、つま先立ちした。だから僕が、屈む。25歳の若い背中を、深く折る。

彼女の唇が、僕の頬に触れた。子供のキス。でも、そこには54年分の重さがあった。

「来年も、来て。約束」
小指を出す。絡める。44年分の後悔と、1年分の希望を乗せて。

その瞬間、見えた。高い天井。梁の隙間。そこに、レコードの溝みたいな黒い線が、天の川のように無数に走っている。

1982、1983、1984...2069。僕らが踊るたび、1本ずつ針が落ちる。
選択肢が、頭の中に降ってきた。

A. ここで止まる:針を上げれば、2027年の杉並に戻れる。69歳と54歳で、残りの余生を会って過ごす。
B. ここに留まる:針を落としたままにすれば、1983年の僕らとして過去に生きられる。だが2027年の僕の身体は即座に死ぬ。
C. 踊り続ける:毎年二分八秒だけ戻ってくる。現実では老いていき、過去では恋を育てていく。永遠のすれ違い、永遠の純愛。

タミーが、僕の目を見ている。54歳の目で。「ケンジ、どうする?」
僕は、屈んだまま、彼女の額に自分の額をそっと当てた。

「来年も、踊ろう。111歳と96歳になっても。死んでも、踊ろう」
タミーが笑った。10歳の無垢さで。54歳の諦念と抱擁で。

――プツン。
視界が白く焼き切れる。

目を開けると、杉並だった。69歳の腰痛。ユニクロのスウェット。針は上がっていた。

机の上の時計。2027/12/25 0:02。二分八秒、経っていた。
スマホ、通知なし。机の上のレコードジャケット。

ブレンダ・リーが、「あんたたち、どこまで行く気?」って、呆れた顔をしていた。

どこまでも、だよ。
二分八秒ずつ、全部回収する。
44年分、言えなかった「メリークリスマス」を。

メリークリスマス・エンドレス。
残された時間の少ない69歳の老人には、ちょうどいい歩幅だ。

二分八秒は、取っておく。
終わらない二分八秒として。





エピローグ 終わらない二分八秒|2028 - 2069

2028年12月24日 僕70歳 / タミー55歳 → 過去:26歳と11歳 「去年、言えなかったこと、あるんだ」

11歳のタミーが、僕の歪んだタイを直してくれる。1984年の教会。

流れているのはワム!『Last Christmas』。

「なに」
「おじいちゃん、死んじゃった」

現実の話だ。ケン・ミラーが、この年の春に逝った。

「葬儀、行けなくてごめん」

「いいの。ケンジも、仕事大変だったでしょ」

代わりに、小さな小指を出す。「来年も、来る」

「うん」

二分八秒。針が上がる。杉並に戻ると、PCにケンの訃報メールが来ていた。符号は、未来を変えない。ただ、二分八秒だけ、痛みを分け合える。

2035年12月24日 僕77歳 / タミー62歳 → 過去:33歳と18歳 恐れていた年が来た。

18歳のタミーは、深紅のドレスを着ていた。33歳の僕は、ツイードが少しきつい。マライア・キャリーの『All I Want for Christmas Is You』が未来から混線して流れる。

「ケンジ、キス、していい?」
18歳と33歳。中身は77歳と62歳。

「...だめだ。来年、34歳と19歳になったら」

「大人の言い訳。ケンジのばか。44年前のあの日も、そうやって逃げた」

18歳の彼女の濡れた頬に、33歳の僕の手が、触れるだけ触れた。
唇には、届かない。それが僕の、最後のプライドだった。

「ごめん」「ううん。来年も、絶対来て」
二分八秒。杉並の暗闇で、僕は泣いた。77歳の、情けない嗚咽。

メリークリスマス・エンドレス。終わらない罰だ。

2042年12月24日 僕84歳 / タミー69歳 → 過去:40歳と25歳 タミーが、小さな子供を連れてきた。「私の孫。Lily。現実では15歳」

1982年の教会をベースにした空間に、2027年生まれの少女が立っている。Lilyが、大きな青い目で僕を見る。

「Grandma’s fiancé?」
タミーが少女のように爆笑する。

「Yes. 44 years ago, he said so」
25歳の僕は頭を下げる。

「はじめまして。ケンジです」

『The End of the World』が流れる。40歳の美しいタミーと、25歳の僕で、静かに踊る。

15歳の孫が、それを見ている。地獄みたいに、幸福な光景だった。

「本当のプロポーズは?」「...来年」「また逃げる」「逃げない。もう60年以上、君だけを待ってた」

2051年12月24日 僕93歳 / タミー78歳 → 過去:49歳と34歳 僕は、現実の部屋で杖をついていた。

秋に高円寺の駅前で転んで脚を悪くしたからだ。過去の34歳の身体は健康そのものなのに、脳が覚えている杖の感覚が抜けない。

不格好に歩く僕の腕を、49歳のタミーが、優しく組んでくれた。

「老けたね、ケンジ。中身が」「君もな。綺麗に」

流れてきたのは、ジョンとヨーコの『Happy Xmas (War Is Over)』。
「戦争、終わってないね」と、タミーが言う。

「便も、僕らは終わらせたよ。44年間の、すれ違いという名の戦争を」
僕らは踊らなかった。

ただ、しっかりと腕を組んで、静かに曲を聴いた。93歳の魂と、78歳の魂で。二分八秒。それで、十分に満たされていた。

メリークリスマス・エンドレス。
2069年12月24日 僕111歳 / タミー96歳 → 過去:67歳と52歳 来た。本当の最後だ。

僕は111歳。日本最高齢に近い。寝たきり。点滴。杉並の、静かなホスピス。タミーは96歳、LAのホスピス。

午後11時49分。看護師が静かに部屋を出る。「メリークリスマス、加藤さん。良い夜を」

擦り切れたスピーカーから、針が落ちる。魂がイントロを拾う。
一分五十秒。部屋が、ブレない。現実を剥がす体力すら残っていない。

だが、光は満ちた。
111歳の僕。96歳のタミー。温かい光だけが満ちた、白い空間。

タミーの髪は美しい総白髪。でも、髪のリボンだけはあの晩と同じ、鮮やかな赤だった。僕のツイードジャケットは、皺だらけの111歳の身体に、やけに大きくぶら下がっていた。

「ケンジ」「タミー」 呼び合う。通算89回目のクリスマス。空間に、音はない。完全な静寂。でも、胸の奥で『The End of the World』が爆音で鳴り響いている。

「来年、どうする?」 タミーが聞く。96歳の笑顔で。

「...それでも、踊ろう」 僕は言う。
「うん」 タミーが、ゆっくりと小指を出す。96歳の、愛おしい小指。

僕も出す。
111歳の、震える小指。魂の指が、確かに結ばれた。

「ケンジ、ありがとう」

「何が」

「言わなかったこと」

「...」

「ばかだな」

「君の方が、大ばか」

光が強くなる。二分八秒が、終わる。
だが、針が上がるプツンという音は、もうしなかった。

上がるべき日常の溝が存在しない。
最後に、タミーが僕の胸に頭を預けて囁いた。

「世界の終わり、じゃなかったね。始まりだった」

「ああ。メリークリスマス・エンドレス」

「ああ。メリークリスマス、ケンジ」

2069年12月25日 午前0時02分 杉並のホスピス 2069年12月25日 午前0時02分 LAのホスピス 二つの国の、離れた部屋で、まったく同時に電子モニターが長い平坦なフラットラインを告げた。

杉並の机の上のレコードは、静かに止まっていた。

B面、最後。2分08秒。
針は、溝の一番奥、ゼロの場所で眠っている。

ジャケットのブレンダ・リーは、17歳の瑞々しい笑顔で、永遠の恋人たちを祝福するように歌っていた。

その年のクリスマス、東京とLAで、まったく同じ時間に、静かな雪が降った。

LAに雪が降るのは、実に数十年ぶりの奇跡だった。

二分八秒だけ、激しく降って、そして静かにやんだ。

数日後、大人になったLilyが、祖母の遺品から1枚の古い手紙を見つける。

『1982 - 2069』
中には、掠れた文字で、たった1行だけ。

――二分八秒。僕たちの時間は、今ここから、新しく回り始める。

Lilyは、理由も分からず涙をこぼし、その手紙を小さな額に入れた。

けれど、彼女は毎年12月24日の夜になると、部屋の明かりを消し、古いプレーヤーでブレンダ・リーをかけるようになった。

なぜだか、そうしなきゃいけない気がした。

時間の裂け目の向こうで、今も踊り続けている、二人のステップを踏み外さないために。

――了――


Amazon Kindle



あとがき

人生には、「あの時、ああしていれば」と思う出来事が、誰にでも一つや二つあるものです。
けれど現実は、時間を巻き戻してはくれません。

だからこそ私は、「もし一年に一度、クリスマスイブの二分八秒だけ戻れるなら」という小さな空想から、この物語を書き始めました。

二分八秒という短い時間は、一曲が終わるまでの長さであり、人生を変えるにはあまりにも短すぎます。

それでも、人はそのわずかな時間で約束を交わし、想いを伝え、誰かの人生を照らすことができるのではないでしょうか。

ケンジとタミーは四十四年間、「間に合わなかった時間」を抱え続けました。
それでも最後には、「世界の終わりではなく、始まりだった」と笑い合えました。

私もまた、この物語を書き終えた今、過去をやり直したいのではなく、「今日」を大切に生きようと思っています。

この本が、あなたにとって大切な人へ「メリークリスマス」と伝えるきっかけになれば、作者としてとても嬉しく思います。
また次の物語で、お会いしましょう。


ー原詩ー

ブレンダリーを聴きながら






プログレス
―― 終電のない駅



まえがき

日々の仕事に追われ、ふと立ち止まったとき、「自分は一体どこへ向かって走っているのだろう」と、妙な焦燥感に駆られることはないでしょうか。

誰かの成功を素直に喜べなかったり、他人のつまずきに小さく安堵したり。そんな、誰にも言えない心の澱(おり)は、きっと誰もが厳重に鍵をかけて隠し持っているものです。

本書『プログレス ―― 終電のない駅』は、そんな日常の迷路に迷い込んでしまった一人の男の、一夜の奇妙な体験を描いた物語です。

深夜の静寂のなかで、あるいは通勤の喧騒の合間に、主人公と共にひとときの「心の旅」を楽しんでいただければ幸いです。






残業を終え、いつもの改札を抜けたはずだった。
気づくと僕は、見覚えのないホームに立っていた。

蛍光灯は妙に白く、時刻表には数字がひとつもない。「次発」の欄は、ずっと空白のままだ。
ベンチに人影はなく、線路の向こうには闇より濃い闇が沈んでいる。

スマートフォンを取り出すと、電波は圏外。時刻だけが「0:00」で止まっていた。

「終電、逃したみたいだね」

振り向くと、駅員の制服を着た老人が立っていた。皺の奥の目だけが、妙に若い。

「ここは……何駅ですか」

「駅名はないよ。強いて言うなら――『振り出し』かな」

老人は改札の奥を指さした。そこには、小学校の校庭が広がっていた。
かけっこの前の、あの緊張と高揚が入り混じった空気。

「キミも、もう一度走ってみたいんじゃないかね」

断る理由が見つからないまま、僕は吸い寄せられるように改札をくぐった。




校庭には、同じ年頃の子どもたちが横一列に並んでいた。
その中に、見知った顔がいくつもある。

隣のクラスだった陸。父親は市議会議員で、いつも高そうな靴を履いていた。
少し離れた場所には、美咲。広い庭のある家に住んでいた。

生まれた場所も、育った環境も、手にしているものも違う。
それでも、この瞬間だけは、同じ白線の上に立っていた。

「位置について」

声と同時に、僕らは駆け出した。

走るごとに景色が変わっていく。校庭が中学の廊下になり、高校の教室になり、やがて見知らぬオフィスビルの通路になった。
走りながら、僕らは大人になっていくのだ。

最初のうちは、ただ楽しかった。誰が速いかなんて、些細なことに思えた。

けれど、しばらく走ると、陸が僕より頭ひとつ前に出た。
父親の名刺を握りしめ、「コネ」と書かれた小さな扉を迷いなくくぐっていく。

猛烈な悔しさが、喉の奥から黒くこみ上げた。




僕は走り続けた。焦りが足を重くする。

あるとき、コースの脇で陸が石につまずいて派手に転んだ。膝から血を流し、顔をしかめている。

「大丈夫か」

口では心配そうに言いながら、胃の底から醜い喜びがせり上がるのを止められなかった。

――いい気味だ。ざまあみろ。

その瞬間、照明が一斉に消えた。

闇の中に、あの老人が立っていた。

「見えたかね、自分の顔が」

老人が掲げた小さな鏡には、僕が映っていた。
心配そうな表情の下に、歪んだ笑みを必死で隠している、浅ましい自分の顔が。

「これが、あの日のキミだ。忘れたふりをしているだけで、な」

僕は何も言い返せなかった。





レースは再び動き出した。

景色はさらに移り変わり、僕はいつの間にか名刺入れとネクタイを持つ年齢になっていた。
周りを走る人々の顔にも、深い皺が刻まれている。

あの日横一列に並んでいた子どもたちは、もういない。

僕はまだ走っていた。「まだ」「もっと先へ」と自分に言い聞かせながら。

けれど、走っても走っても、あの日思い描いていた理想の自分には近づけない。

息が切れ、足が縺れた。立ち止まると、目の前に深い溝が横たわっていた。
その向こうに、まだ形にならない光のような景色が揺れている。

――今さら失敗したくないというプライドか。
――現状維持への執着か。

一歩踏み出せば何かが変わる気がするのに、その一歩がどうしても怖い。

「怖いのかね」

いつの間にか、老人が隣にいた。

「怖いというより……この歳になって傷つくのが、怖いんです。何が待っているのか、わからないから」

「それは、みんな同じだよ。生まれも育ちも、カネも名誉もコネも違うが――この一歩の前で立ち尽くすのは、誰も変わらない」

老人は僕の背を、優しく、しかし拒めない力で押した。




溝の向こうに足を踏み入れた瞬間、景色は真っ白になった。

気づくと、僕は表彰式の会場にいた。壇上に立っているのは――陸だった。

彼は自分の会社を立ち上げ、倒産寸前の町工場を救ったという。

マイクを握る白髪混じりの頭髪、ゴツゴツとした手。
話し始める前に一瞬だけ見せた照れた笑顔は、あの日の陸のままだった。

かつての驕りは消え、静かで温かい声。
コネという近道を通った彼も、その先で泥水をすすり、自分の足で必死に走り続けてきたのだ。

会場を埋める拍手の中に、僕も立っていた。

不思議なことに、胸に湧いたのは嫉妬でも恨みでもなかった。

――よかったな、陸。

そう思えた瞬間、僕の両手は自然に動き、誰よりも大きな拍手を送っていた。
目の奥がじんわりと熱くなる。

あの日、シメシメと思った自分。コネを恨めしく思った自分。
そのどちらもが、静かに溶けて消えていくのを感じた。




「気づいたようだね」

老人の声で、僕は再びホームに立っていることに気づいた。
時刻表には、相変わらず数字がひとつもない。

「キミは、いったい……」

「さあ、何だろうね。キミが忘れたくて、でも忘れられなかった誰かかもしれない」

老人は微笑み、改札の奥を指さした。

「レースにゴールはない。あるのは、歩き方を選び直す瞬間だけだ。
誰かの一歩先を妬むことも、誰かのつまずきを喜ぶことも、キミ次第でやめられる」

言い終えると、老人の姿は霧のように薄れていった。

次に目を開けたとき、僕はいつもの駅のベンチに座っていた。
始発を待つ人々がぽつりぽつりと集まり始めている。

空はまだ薄暗いが、東の端がわずかに白んでいた。

スマートフォンを見ると、時刻はいつも通りに動いている。
あれは夢だったのだろうか。それとも――。

気づくと、ポケットの中の手がじんわりと温かい。
まるで、たった今まで誰かと固く握手をしていたかのように。




数日後、後輩の一人が大きな契約を取ってきたと、社内が沸いた。

以前の僕なら、素直に喜べなかったかもしれない。
心のどこかで、自分と比べてしまっていただろうから。

けれど、今の僕は違った。

「おめでとう。よくやったな」

自然と口から出た言葉に、自分自身が驚いた。

生まれも育ちも、手にしているものも、人それぞれ違う。
横一列で並んだあの日から、僕らはずっと違う速さで、違うコースを走り続けている。

理想の自分には、今もほど遠い。
それでも――今なら、キミの成功に、心から拍手ができる。

改札へ向かって、僕は一歩を踏み出した。
ふと、向こうで白い光が揺れた気がした。

(了)



アマゾン キンドル




あとがき

本作のテーマである「プログレス(Progress)」という言葉には、単なる「前進」だけでなく、「進歩」や「なりゆき」という意味が含まれています。
人生には明確なゴールなどなく、私たちはただ、それぞれが選んだ速度とコースを走り続けることしかできません。時に嫉妬に足を縺(もつ)れさせ、時にプライドから一歩が踏み出せなくなるのも、また人間らしさなのだと思います。

主人公が最後に手に入れたのは、劇的な成功ではありません。ただ、「他人の成功に心から拍手を送れるようになった」という、ほんの少しの心の進歩でした。それこそが、何よりも美しい「プログレス」なのではないか。そんな願いを込めて、この筆を執りました。

読み終えたあなたの明日が、ほんの少しだけ温かい光に照らされることを願っております。



ご挨拶


仲間たちは

オマエ

何を生き急いでるんだ? と


毎日毎日

ここに多くを載せている僕に

苦笑いしているけれど


まあ

そうかもね! なんて

笑いながら返すのは


長年 こしらえて来た

物語のヒントが

まだまだ沢山あるもんだから


それらをまとめて

吐き出してしまおうかと

急ぎ足中


65をも越すと

明日が約束されていないと

先立った仲間たちを

振り返るばかり


そう

今夜寝て

明日起きる保証など

ないのだ


ならば

まだ

もう少し

頭に残る物語を

吐き出してしまいたいと


その文字列と格闘し

そこそこ纏まったならば

ここに試しに載せてみる


本当は

すべてを

そのまんま Amazon Kindle へと

載せてしまいたいけれども


Kindleの規約で

週に10本までなんて

縛りがあるから


なかなかの数が

ここに残るばかり


載せ始めて15週

150話がすでにKindleにはあるけれど


その倍くらい

ここにも残っている


相変わらず

飽きっぽい性格

それらを

おおよそ吐き出せた頃


また違う遊びをと

探そうかと思いながら…







午前零時のプラットフォーム 

―― 消えない夢と、見つけた朝



まえがき

日常の速度についていけなくなる瞬間が、誰にでもあると思います。

仕事に追われ、生活を営み、「これでいいんだ」と自分に言い聞かせながら、かつて夢見たきらめきを心の奥底に仕舞い込んでしまう。

そんな大人になった私たちの前に、もしも「諦めなくていい世界」へ続く扉が現れたら、私たちは一体どちらの道を選ぶでしょうか。

本作は、三十四歳になった男が、午前零時のプラットフォームで迷い込んだ不思議な駅での物語です。

今を生きるすべての人へ、ほんの少しの夜の魔法と、あたたかい朝の光が届きますように。




一 終電を逃した夜

三十四歳になった夜、佐倉悠人(さくら・ゆうと)は終電を逃した。
理由は分かっている。駅のベンチに座り、ポケットのスマートフォンを凝視したまま動けなくなっていたせいだ。

画面に映っていたのは、会社の後輩・野々村美咲(ののむら・みさき)からの一言。
「今度、二人でご飯でも」
どう返すべきか迷い、忙しさを言い訳に未読のまま放置していた。

ふと顔を上げると、すっかり人の消えたホームの電光掲示板に、奇妙な文字が浮かんでいた。

「0番線 ネバーランド行 まもなく参ります」

見間違いだと思い目をこすったが、ドットの文字は明滅を続けている。
階段の奥から、冷たい鉄の匂いを含んだ風が吹き抜けた。
誘われるように案内板の示す方向へ歩き出す。薄暗い階段を下りた先に、確かに一本の線路が横たわっていた。

かつて悠人は、小説家になりたかった。
大学ノートに何百枚も物語を書き殴り、賞に応募しては落選を繰り返した。
ノートの隅にはいつも、お気に入りの洋楽から盗んだ “I was made for loving you(僕は君を愛するために生まれてきた)” のフレーズを、主人公の決め台詞として書き留めていた。

けれど、いつしか筆を置いた。
今は広告代理店で、他人の言葉を体裁よく編集する仕事をしている。
「悪くない人生だ」と自分に言い聞かせることだけが上手くなっていた。

ホームの端に、駅員の制服を着た女が立っていた。
少女のようでもあり、老女のようでもある、年齢の読めない顔立ち。
その瞳の奥には、誰かを見送り続けてきた者だけが持つ、かすかな影が揺れていた。

「お客様は、まだ間に合いますよ」
女は鈴を転がすような声で言った。
「あの日、諦めたはずの夢に」



二 とまり木の乗客たち

女に導かれるまま、悠人は滑り込んできた0番線の車両に乗り込んだ。
車内はひどく静かで、様々な年代の人間がぽつぽつと座っていた。

古びたグローブを愛おしそうに磨き続ける初老の男。
その手つきは、いつかの試合前の儀式を忘れられないかのようだった。

タクトを握りしめたまま、音のない世界で眠る白髪の女性。
擦り切れたチョークを握り、誰もいない教壇に向かって熱弁する青年。

窓に映った自分の顔を見る。皺ひとつ増えていない。
三十四歳のまま、時間が止まっている。

「彼らはみんな、本気でなりたかったものがあったんです」
駅員は悠人の隣に立ち、静かに言った。
「現実の時間に置いていかれ、気づいたときには後戻りできないところまで来ていた」

「この電車に乗れば、夢は叶うんですか」

「いいえ、叶いません。ただ、諦めなくてよくなるだけです」
女は首を振った。
「ここでは誰も歳を取らない。他人に評価される競争もない。ずっと、なりたかった自分のままで、終わらない夢を見続けられるのです」

悠人は車内を見渡した。
誰もが穏やかな表情を浮かべている。
だが、その瞳の奥には光がなかった。
夜な夜な原稿用紙に向かい、社会から取り残されていく恐怖を感じていた、あの頃の自分と同じ目だ。

「一つだけ聞いていいですか」
悠人は尋ねた。
「この人たちの中に、誰かを愛した人はいるんですか」

駅員は初めて表情を曇らせた。

「夢を追い続けることと、隣にいる誰かの時間に付き合うことは、時々どうしても両立しない。
ここは、誰のことも愛さなくてよくなった人たちの終着駅です」



三 選ばれなかった未来たち

ガタン、と重い音を立てて電車が動き出すと、車窓の闇に不思議な景色が流れ出した。
それは悠人が子供の頃から少しずつ積み上げてきた未来予想図の数々だった。

背番号1をつけてマウンドで吠える自分。
大歓声のステージの上でギターをかき鳴らす自分。
深夜の書斎で万年筆を走らせる自分。

どの未来も眩しい。
けれど、ガラスケースの向こう側の星みたいに、決して触れられない光だった。

「命の時間と引き換えに、永遠の可能性というぬるま湯に浸かり続けることもできます」
駅員は視線を外さない。
「この電車に乗り続ける限りはね」

悠人は喉の奥が詰まるのを感じた。
隣の老人のグローブに目を落とす。
何十年も磨かれ続け、革の匂いを放つそれには、一度も土の跡がなかった。

傷つくことを恐れて、バットを振ることも、誰かとぶつかり合うことも放棄した世界。
その成れの果てが、ここにあった。

僕は、なりたかった自分になれないのが怖かった。
夢に負ける自分を見ることが、もっと怖かった。

胸が苦しくなり、呼吸が浅くなる。



四 二つの改札

電車はやがて、二つの改札だけが存在する奇妙な無人駅に滑り込んだ。

一つは「ネバーランド このまま」と書かれ、淡い光を放つ自動改札。
もう一つは「現実駅」と書かれた、ひび割れた木の改札扉。

「どちらを選んでも、誰もあなたを責めません」
駅員は悠人の背中を見つめた。
「ただ、光る扉の向こうへ進めば、二度と誰かを愛せなくなります。
人を愛するには、傷つきながら隣で一緒に歳を取る覚悟がいるのです」

悠人はポケットのスマホに触れた。
未読のままの、美咲からの通知。

脳裏をよぎったのは、会社帰り、自販機の前で手渡された缶コーヒーのぬるい温かさ。
「お疲れ様です」とくだらない冗談を言って笑う彼女の横顔。

僕は、すぐ隣にある本当の温かさから目を背けていた。

駅員は優しく、どこか寂しげにうなずいた。

「間に合うかどうかは、誰にもわかりません。
でも、隣にいる誰かと過ごす時間だけは、今この瞬間にしか選べないの」

悠人は迷わず木の扉へ歩を進め、冷たい取っ手に手をかけた。
振り返ると、乗客たちは相変わらず、それぞれの夢に向かって素振りを続け、タクトを振っていた。

悠人は彼らに、そして駅員の女に小さく一礼し、扉を開けた。



五 I was made for loving you

「まもなく、始発列車が参ります。白線の内側へお下がりください」

機械的なアナウンスで目が覚めると、悠人はいつものホームのベンチに座っていた。
あたりは薄明るい。午前零時のプラットフォームは、もう朝の空気を吸い始めている。

すべては都合のいい夢だったのかもしれない。
だが、コートのポケットに手を入れると、指先に固い感触があった。
引っ張り出すと、そこには見たこともない「0番線」と印字された切符の半券が握られていた。

その日の午後、オフィスで一息ついた悠人はスマホを取り出し、メッセージを入力した。

『返事遅くなってごめん。今度、ぜひご飯行きましょう』

返信は数分もしないうちに届いた。

『もちろん!楽しみにしてます😊』

飾らない、けれど確かな現実の一言だった。

悠人は思わず小さく吹き出した。
何年ぶりかわからないくらい、心から自然に溢れた笑顔だった。

その夜、悠人は自宅のクローゼットの奥から、埃をかぶった大学ノートを引っ張り出した。
ページをめくるたび、若い頃の自分が少し照れくさそうにこちらを見返してくる気がした。

拙い文字と一緒に、あの言葉が目に飛び込んでくる。

“I was made for loving you”

プロの小説家になる夢は、もう追わないかもしれない。
けれど、自分が確かにここで生きている証として、この物語の続きを書いてみようと思った。
いつか、隣を歩く彼女に読んでもらうために。

悠人は小さく息を吐き、新しい原稿用紙の上で、万年筆を強く握り直した。

(了)



Amazon Kindle





あとがき

この物語の主人公・悠人は、プロの小説家になる夢を叶えることはできませんでした。

現実には、努力が必ずしも報われるわけではなく、諦めざるを得ない瞬間が多々あります。
けれど私は、その「諦めた過去」や「届かなかった夢」は、決して無駄ではないと信じたいのです。

悠人がかつてノートに書いた “I was made for loving you” という言葉。それは夢の主人公の決め台詞から、現実の誰かを愛するための覚悟へと変わりました。

形を変えて、かつての夢が現在の自分を支える血肉になる。それこそが、大人が泥臭く現実を生きていく上での、ささやかな強さなのではないかと思います。

彼がラストで握り直した万年筆から、どんな物語の続きが紡がれるのか。それはきっと、隣を歩く彼女だけが知る特別な物語になるはずです。

この作品が、読んでくださったあなたの「今」を少しだけ肯定できるものになっていれば、とても嬉しく思います。

またいつか、どこかのプラットフォームでお会いしましょう。



引き算の彼女
〜無人星からきた、不思議な宇宙人と、捨てられない僕の物語〜



まえがき
私たちはいつから、「たくさん持っていること」が幸せだと信じ込んでしまったのだろう。
最新の家電、増え続けるサブスク、スマホに溜まる未読通知、そして、捨てられない過去の未練。何かを足し続ければ、いつか心が満たされる日が来る。そう信じて走り続けてきた男が、ある日、すべてを「引いていく」不思議な宇宙人と出会いました。
モノと情報で溢れかえるこの時代に、本当に大切なものは何なのか。
この物語が、あなたの心にある「見えない重荷」を少しだけ軽くする、引き算のきっかけになれば幸いです。




第一章 足し算でできた男
中野和也、三十八歳。「家電のヤマグチ」郊外店、家電量販の万年平社員。
彼の人生は、足し算でできていた。
奨学金の残債。三年落ちのカーローン。サブスクリプションは九つ登録されていて、そのうち六つは存在すら忘れている。スマホの画面には未読バッジのついたアプリが七十二個。実家の物置には、もう二度と着ないであろう服が段ボール八箱分。そして、二年前に入ったきりの、別れた恋人からの「もう連絡してこないで」というLINEの既読スルーが、心の中でずっと積まれたまま下ろされていない。
「足していけば、いつか満たされる」
いつからだろう、そう信じ込むようになってしまったのは。学生の頃は、もっとシンプルなものが好きだったはずなのに。社会に出て、他人の目や「普通」の基準に揉まれるうちに、いつの間にか不安を埋めるようにモノを買い、資格を足し、フォロワーの数を気にするようになっていた。だが、どれだけ足しても満たされたことなど一度もなかった。
その日も和也は、店頭のテレビ売り場で「八畳間にこの八十五インチは絶対要りますって、奥様」と、客にとって不要なものを言葉巧みに売っていた。
そこに、彼女が現れた。
灰色のレインコートを着た、妙に姿勢のいい女だった。雨も降っていないのに、フードを目深に被っている。歳は分からない。二十代にも、四十代にも見えた。
「いちばん、何も無いものをください」
「は?」
「この店で、いちばん、何も足されていないものを」
和也は困惑して売り場を見渡した。多機能こそが正義の家電量販店に、何も足されていない家電など存在するわけがない。あるとすれば。
「……今日入荷の、シンプル家電コーナーですかね。一応、ボタンが三つしかない炊飯器が」
女は無言で首を振ると、つかつかと店内を歩き、最新の八十五インチ有機ELテレビの前で足を止めた。値札には「四十九万八千円・ポイント十倍・五年保証付き」とある。
女がそっと、画面に手のひらを触れさせた。
次の瞬間、テレビが消えた。
電源が切れたのではない。画面が暗くなったのではない。テレビそのものが、台座ごと、忽然と、最初からそこに何もなかったかのように消えてなくなったのだ。値札だけが、空中にふわりと浮いて、ひらりと床に落ちた。
「は――――は!?」
和也は叫んだ。店内放送が鳴り響き、店長が血相を変えて飛んでくる。在庫管理システムには「四十九万八千円のテレビ、一台」が表示されたままなのに、目の前の展示スペースは、掃除したての床のようにがらんと空いている。
「お客様、今、何を」
女はフードの下から、初めて和也の顔をまっすぐ見た。瞳の色が、やけに澄んだ灰色だった。
女は床に落ちた値札を拾わない。代わりに、和也の胸ポケットに刺さっていたボールペンを一本抜き取って、レジの横の観葉植物の鉢に刺した。百円ショップの、埃を被った造花だった。
「綺麗」
女はそれだけ言うと、踵を返して店を出ていった。
その後、店は大騒ぎになった。当然、和也は横領や窃盗の手引きを疑われ、店長や本部の監査員から針のむしろに座らされた。だが、後で確認したレジの防犯カメラには、最初から女の姿など映っていなかった。テレビが消えた瞬間だけ、映像が一コマ、静止画のように白く飛んでいるだけだったのだ。
結局、警察も「事件性なし」と首を傾げるばかり。その日、和也は深夜まで始末書を書いた。「原因不明の商品消失」という、誰も信じない、自分の履歴に虚しさだけが足された始末書を。



第二章 星の名前は「無人」
三日後の夜、和也のアパートに、その女がいた。
鍵はかけていたはずだった。窓も閉まっていた。なのに女は、和也の狭い六畳一間の真ん中に、正座でちょこんと座っていた。
驚くべきことに、いつも澱んでいた部屋の空気に、やけに見覚えのない清涼感があった。理由はすぐに分かった。テレビの横にうず高く積まれていた漫画の山が、消えている。床に転がっていたペットボトルの空き容器も、脱ぎっぱなしのシャツも、何もかもが消えていた。
「な、何を。俺の漫画!」
「読み終わったのに置いてあった。過去の娯楽」
女はそう言うと、和也の冷蔵庫を開けた。賞味期限切れの調味料が並んでいるのを見て、指先で触れる。瓶が一つずつ、音もなく消えていく。
「悪いものは消していない。あなたが今、本当に必要としていないものを、消しただけ」
女は静かに名乗った。「ゼロ」、と。本名はもっと長い、地球人の声帯では発音不可能な音の連なりらしいが、地球の言語に翻訳すると「ゼロ」が一番近いという。出身は、銀河の縁にある小さな恒星系、和訳すると「無人(むにん)星」。
「私は、銀河評議会から派遣された観察官。担当は、あなたの星」
「は」
「無人星の評議会は、最近、ある議題で揉めている。『足し算の星・地球は、銀河の美的秩序にとって有害かどうか』」
「物騒すぎん??」
「有害と判断された星は、編集される」
「編集って」
「存在そのものが、消える」
和也は、飲んでいた麦茶を派手に吹いた。
「冗談だろ」
ゼロは答えない。代わりに、和也の本棚に並んだ十冊の自己啓発本をじっと見た。『嫌われる勇気』『7つの習慣』『人を動かす』。どれも付箋だらけだった。
ゼロが手をかざすと、十冊の本は光の粒となって消えた。
「答えを足す本は要らない。問いを引く余白があればいい」
いつもなら怒るところだが、和也はなぜか、肩の荷が下りたような気がした。
「……そっか。変われなかった自分を、責めなくていいんだな」
小さく呟いたその言葉を、ゼロは静かに見つめていた。
「あなたが適当に抽出されて、観察対象になった。理由を教える。過去一年で、あなたは『買ったけど一度も使わなかった物』が四十二個。『開封しなかった通知』が千百三件。『読み込んだはずの、言えなかった“ありがとう”と“ごめん”』が十七回。銀河標準偏差で観測史上ワースト三位。だから、あなた」
「悪かったな、ワースト三位で」
ゼロは和也の部屋を、ぐるりと見回した。
「あなたを見て、私は評議会に報告する。この地球に、引く美しさが、まだ残っているかどうかを」



第三章 引き算デート
こうして和也は、見知らぬ宇宙人と、星の命運を背負った奇妙な監視生活を始めることになった。
ゼロの「観察」は徹底していた。
朝、和也が目覚まし時計をスマホも含めて三つかけているのを見て、二つ消した。その日は見事に寝坊した。
スマホの待ち受け画面を見て、ゼロが首を傾げた。
「この女、誰?」
「元カノです。残ったままの、未練です」
「未練は、今を生きるのに要る?」
「要らない、かな」
ゼロが画面に触れると、写真データは跡形もなく消えた。これは、正直、胸がすっと軽くなった。
奇妙なのは、部屋のモノが消されるたびに、和也の心までもが少しずつ軽くなっていくことだった。
部屋が片付いていく。サブスクの解約電話を、ゼロに急かされてようやくかけた。着ない服を、ゼロに「これは、あなたの何を表しているの」と真顔で聞かれ、見栄を張るためだけに持っていたことに気づき、リサイクルに出した。
ある夜、和也は気づいた。自分が、ゼロの足音を聞き分けられるようになっていることに。物音をたてないはずのゼロが、部屋に入ってくる「気配の変化」を、肌で感じ取れるようになっていた。部屋からモノが減り、静寂が増えたからこそ、彼女の存在が濃密に伝わってくる。
それは、惚れている、ということだった。
「これは、まずい」
よりによって、星の運命を握る宇宙人審査官に、惚れてしまった。
しかも相手は、足し算を何よりも嫌う種族。告白するにも、高級な花束も、ロマンチックな夜景のレストランも、派手なサプライズも、全部「足し算」になってしまう。
ある夜、和也は、ゼロの隣に何も持たずに、何も言わずに座った。テレビもつけず、スマホも見ず、ただ無言で、同じ夜の暗闇を共有した。
三十分が経った。
ゼロが、ぽつりと言った。
「今のは、悪くなかった」
「マジで?」
「何も足してこなかった。ただ、あなたという存在だけがあった。だから、悪くなかった」
これが、和也なりの、引き算の告白だった。



第四章 最悪のクリスマス大作戦
しかし、人間とは、学習しない生き物である。
季節は十二月。和也の同僚であり、独身営業部のエース滝口先輩から、居酒屋でこんなアドバイスをもらってしまったのが運の尽きだった。
「女ってのはな、中野。引いてばっかりじゃ落ちねえぞ。クリスマスはドカンと足せ。男の覚悟は、足した量で決まるんだよ。サプライズ命!」
滝口はそう言いながら、財布から折れ曲がった写真を出して、無意識に親指で撫でていた。元妻と、七五三の時の娘が写ってる。離婚して五年経つのに、まだ財布に入れっぱなしだ。和也はそれを知っていた。
「先輩も、捨てられてないじゃないですか、写真」
滝口は一瞬だけ顔を歪めて、笑って誤魔化した。「男にはな、捨てられねえもんもあんだよ」
和也は、その悪魔の囁きに、見事に乗ってしまった。ゼロを喜ばせたい、その一心だった。
クリスマスイブの夜。和也は、ゼロを近所の寂れた公園に呼び出した。そこには。
巨大なイルミネーション。店の倉庫から滝口に借りてきた展示用、五百個のLED電球。
特大の花束。九十九本の真っ赤なバラ。
スピーカーから流れる、滝口チョイスの過剰な愛のバラード。ボリュームは最大。
そして、和也は叫んだ。
「ゼロ! 俺の人生に、あなたを足し算させてくれませんか!!」
しん、と激しい静寂が流れた。
ゼロの瞳から、すうっと、色が抜けていった。彼女の輪郭が、あのテレビが消えたときと同じように薄くなり、ザッザッと砂嵐のようなノイズが走り始める。声が〇・五倍速になったかと思えば、突然二倍速に飛ぶ。レインコートの裾から、あの日消したはずの家電やゴミの残骸が、黒いデジタル粒子になって溢れ出した。
「処理、しきれない。電球、五百。花、九十九。音量、最大。言葉、過剰。バッファ、オーバーフロー」
「ご、ごめん! 消す! 今すぐ全部消すから!」
和也は慌てて、イルミネーションのコンセントを力任せに引っこ抜き、バラの花束を放り投げ、スピーカーの電源を蹴り倒した。
公園は、一瞬にしてしんと静まり返った。人工的な光も音も消え、残ったのは、和也とゼロ、そして空から静かに舞い落ちる本物の雪だけになった。
ゼロはしばらく、自分の胸にそっと手を当てて、深く、深く息を吐き出していた。波立っていた彼女の輪郭が、ゆっくりと、元の確かな形に戻っていく。十分な静寂ののち、彼女は静かに雪を見上げて、ぽつりと言った。
「雪は、足してこない。ただ降って、ただ積もって、春になれば、何も言わずに消える」
「うん」
「あなたも、今、それでいい」
それは、和也が無人星の言葉で初めて聞いた、何かに似た言葉だった。「告白」というよりは、すべての過ちを包み込む「赦し」に近い、不思議な響きだった。
翌日、店で滝口が和也に聞いた。「どうだった、サプライズ」
和也は正直に全部話した。滝口はバラの請求書を握りしめたまま、長いこと黙っていた。それから、財布の写真をもう一度撫でて、言った。
「……俺も、あの写真、消してもらうか。お前の宇宙人にな」



第五章 評議会、地球を裁く
年が明けて、ゼロの観察期間が終わりに近づいた夜。
ついに評議会から正式な通達が届いた。まばゆい光の柱のような姿で、和也の古びたアパートの真上に、巨大な「審判の窓」が開いた。窓の向こうには、何百という、幾何学的な輪郭だけの審査官たちが並んでいる。
『観察官ゼロ、報告せよ。足し算の星・地球は、宇宙の調和を乱す有害な存在か。それとも、引く美を有するか』
ゼロが、一歩前に出た。
「対象の星は、足し算文化が支配的。過剰な広告、果てのない消費、意味を持たない過剰な祝祭、多数確認。地球人は、自ら生み出したモノの重さに潰れかけている」
評議会がざわついた。最前列にいた過激派の審査官『イチ』が声を荒げた。
『論ずるまでもない。即時編集が妥当。情など引き算の邪魔だ。今すぐ消去せよ』
「しかし」
ゼロは続けない。すっと、和也の前に歩み寄ると、その手を取った。
和也の手のひら。コンビニ弁当を温めすぎて火傷した跡、皿洗いのバイトでできたマメ、引っ越しのダンボールで切った古い傷。足し算だらけの、生活の跡。
ゼロは、その傷だらけの手のひらを、何百の審査官に見せつけるように掲げた。
「この手は、まだ足し算をしてる。けれど、誰かのために皿を洗おうとした手だ」
一呼吸置いて、言った。
「美しい」
イチが吠えた。
『個体一名の事例で、星全体を判断できるか! 観察官ゼロ、お前は対象に、不要な“愛着”を足しているのではないか!』
審判の窓が、怒りのざわめきで満ちた。和也は息を呑んだ。ゼロの体を満たす灰色の光が小さく揺れる。
それでも、彼女はきっぱりと言った。
「愛着ではない。私は、無人星の修行で、ありとあらゆるものを捨ててきた。最後に完全な『無』になれば、それこそが悟りだと教わってきた。けれど、この星で、彼を見ていて初めて分かった。無は、ゴールではない。無になろうと葛藤し、要らないものを自分の意思で一つずつ手放そうとする、その一心不乱な『過程』こそが、何よりも美しいのだと」
「中野和也は、完全な無にはなれていない。今もまだ、足りないものだらけ。けれど、その手放そうとする手の動きが、美しいと、私は判断する」
評議会は、長い、長い沈黙に包まれた。やがて、中心から重々しい声が響いた。
『地球の編集は、保留とする。再観察期間、銀河標準で、十年後』
審判の窓は、まばゆい光の粒となって、冬の夜空に溶けて消えていった。地球は、ひとまず十年の猶予を得たのだ。



第六章 季節は、来るべき時に来て
審判が終わった夜、ゼロは和也に向き合って告げた。
「私は、無人星に戻る。観察官の任期は、終わったから」
「もう、会えないのか」
「分からない。でも」
ゼロは、和也のアパートの窓から見える、ありふれた夜景を、しばらく愛おしそうに眺めていた。コンビニのネオン看板、規則的に変わる信号機、誰かの家の、クリスマスが過ぎても片付け忘れたままの豆電球。足し算だらけの、雑然とした、愛すべき人間の街並み。
「これも、嫌いじゃなくなった」
ゼロは小さく笑ったような気がした。地球に来て、彼女が初めて見せた、心の底からの表情だった。
「季節は、来るべき時に来て、するべきことをして、去るべき時に去る。あなたが、教えてくれた」
「俺、そんな高尚なこと教えた覚えないけど」
「あなたの部屋の本棚の奥に、一冊だけ残っていた、古い詩のノート。あれを読んだ。あなたが捨てずに、心の奥に残していたから、読めた」
それは、和也がまだ何者でもなかった学生時代、何となく書き留めていた、誰にも見せたことのないノートだった。そこには、引き算の美について、禅の思想について、報酬を求めず、ただ今に打ち込むことの尊さについてが、拙い言葉で綴られていた。かつての和也は、その心を社会の波に埋もれさせ、忘れていただけだったのだ。
「あれは、お前らの星の教えと同じだったか」
「いいえ。あなたの星の、あなた自身の言葉だった。地球にも、ちゃんと引く美しさはあった。みんな、忙しすぎて忘れていただけ」
ゼロが立ち上がった。窓の外で、何の前触れもなく、小さな光の粒が舞い始めた。雪ではない。もっと静かで、もっと淡い、星の欠片のような光。
「行くのか」
「行く。来るべき時に、来たから。するべきことを、したから。だから、去るべき時に、去る」
「待ってくれ、とは言わないよ。お前の星の流儀、ちょっとは分かったからな」
ゼロは満足そうに頷いた。それから、最後に一つだけ、和也の手のひらに小さなものを手渡した。それは、手のひらに収まる、何も入っていない、真っ白な空の箱だった。
「何だよ、これ。中身は?」
「入れない方がいい。あなたの星の言葉で言うと、『余白』」
「中身がないと、寂しいな」
「あなたが、これから生きていく中で、足したり、引いたりしながら、自分で気づいていくものを、この箱に入れていけばいい。今は、空っぽがいい」
ゼロの姿が、窓の外の光の粒と重なって、すうっと薄くなっていく。最後に、フードの中から覗いた灰色の瞳が、和也をまっすぐに見つめた。
「歴史には、残らない。私たちのことは、誰も知らない。それでいい。それも、わずかな美学」
「ああ」
「あなたは、これからも、正直に生きて。誰にも、どんな組織にも、流されずに。今を、正しく生きて」
光が完全に消えた。部屋には、和也と、手の中にある空っぽの小さな箱だけが残された。



第七章 はじめての、自分の引き算
ゼロが消えた翌朝。
部屋は、しんと静まり返っていた。ゼロが消した漫画の山も、調味料も、自己啓発本も、ない。あるのは、六畳一間の、がらんとした空間だけだ。
和也はコンビニ弁当を買って帰り、割り箸を割ろうとして、手が止まった。
机の引き出しの奥。そこに、一ページだけ残った漫画の切れ端があった。
かつて和也が特に気に入って、本棚ではなく引き出しの奥にこっそり隠していた、単行本から破れた一コマだった。ゼロの強力なセンサーからさえも隠れてしまうほど、和也の深い愛着と執着が染みついていたからこそ、それだけが消されずに残ったのだろう。主人公が「ありがとう」と叫ぶ、ベタなコマ。
「読み終わったのに置いてあった。過去の娯楽」
ゼロの声が、頭の中で再生される。
和也は、その切れ端をじっと見つめた。元カノの写真を消された時は、すっと軽くなった。でもこれは、違う。
これは、ゼロがいない世界で、和也が初めて向き合う、自分自身の「未練」だった。
誰にも言われず、誰にも消されず、和也は立ち上がった。
ゴミ箱の蓋を開ける。一秒迷って、二秒目に、自分の指で、その紙切れを放り込んだ。
バサッ、と軽い音がした。
泣いた。声は出なかった。ただ、涙だけが落ちた。
それは、誰かに「引かれた」んじゃない。和也が、自分の意思で「引いた」瞬間だった。
その夜、和也は空の箱を撫でた。何も入れなかった。
「今は、空っぽがいい」
ゼロの言葉の意味が、初めて骨の髄まで分かった気がした。



終章 余白
それから三年が経った。
和也は「家電のヤマグチ」を辞め、駅前の小さな商店街の片隅に、自分の店を開いた。店の名前は「ZERO」。
扱う商品は、驚くほど少ない。ボタンが三つしかない炊飯器。文字盤に数字のない、ただ針だけが回る時計。何も書かれていない真っ白なノート。
和也はお客に、いつも穏やかな笑顔でこう問いかける。
「それ、本当に、必要ですか?」
「そんなことを聞く店に、客が来るわけないだろ。みんな、必要じゃない無駄なモノを買いに街へ来るんだからな」
時折冷やかしにやってくる滝口先輩は、いつも呆れたようにそう笑う。滝口の財布から、あの写真は消えていた。代わりに、娘からもらったらしい不格好な折り紙が一枚、入っていた。
「娘がさ、『パパ、これは捨てちゃダメだよ』って。捨てられねえよな、こういうのは」
滝口は照れくさそうに笑う。和也も笑う。
店が繁盛しているとはお世辞にも言えない。けれど、和也の心は、かつてないほど満たされていた。
店の棚のいちばん目立つ場所には、あの小さな空の箱が、今も置いてある。この三年間、和也は何度も、その箱に何かを入れようとしては、やめてきた。新しく買い替えた車のキーを入れかけて、やめた。新生活の目標を書いた紙を入れかけて、やめた。
ある日、ふと気づいた。箱の中に、何も入れずに、ただ蓋を閉じたまま、そこに置いておくこと。その「空っぽ」を慈しむことこそが、彼女が遺してくれた一番の教えなのだと、ようやく分かった気がした。
歴史に名は残らない。誰も、和也のことも、ゼロのことも、彼らが地球を救ったことも覚えてはいないだろう。銀河評議会の膨大な議事録の片隅に、小さく「保留・地球」とだけ記されて、それで終わりかもしれない。
けれど、それでいい、と和也は思う。
窓の外で、今日も新しい季節が一つ、静かに移ろっていく。来るべき時に来て、するべきことをして、去るべき時に去っていく。
和也は今日も、心地よい風を店内に迎え入れるために、シャッターを大きく開ける。誰かの心を少しだけ軽くするための、引き算を、一つ、また一つと手伝いながら。
今日も、空の箱は、空のままだった。

――了



アマゾン キンドル




あとがき
本作は、豊かさとは何か、そして「愛する」とはどういうことかを、ミニマリズムという視点から切り取った物語です。
人間は不器用な生き物です。和也のように、相手を想うあまりにプレゼントや言葉を「足しすぎて」失敗してしまうことは、誰しも経験があるのではないでしょうか。
ですが、ゼロが最後に語ったように、完璧な「無」になれなくても、不要なものを手放そうとするその葛藤のプロセスこそが、人間の人間らしい美しさなのだと私は信じています。
ゼロが遺していった「空っぽの箱」。
もしあなたなら、あの箱に何を入れ、あるいは何を入れずに蓋を閉めますか?
この物語が、明日のあなたの景色をほんの少しだけ、すっきりと、鮮やかに変えることを願って。


7月ともなり
山も
海も
解禁だそうだ

まあ
そんなことを言っても
アルプス辺りは
すでに山小屋も

ゴールデンウィークから始まっており

季節を無視して
真冬に登る連中もいるし

また
サーファーたちは
年中無休で海へと入っている


富士山



山開きと言えば
やはり富士山で
やっと雪解けした姿となり
ここから
一般が登れるようになる

それでも
9月10までの
わずか70日あまりの開山期間

押し掛ける方々は
年々増えて
登山道は大渋滞となる

この国の最高地点を目指し
薄い空気の中
頑張らねばならないけれど

それだって
大抵は5号目からのスタート
登る高さは半分だからね

樹林帯がなくなり
岩と砂だけの登山道
晴れてれば
眺めも良いが
曇ってれば何も見えない

それどころか
突然 変わる天候
更には
真冬並みの寒さ

ただし
1度でも登れたならば
生き方までも変わるほど
達成感がある

それは
どこからでも見える富士山

それを観る度に
あの日
あそこにいたのだと
誇らしく思うことが出来るのだ

本当に
登りやすいのは7月の終わりか
お盆前までのわずかな期間

さあ
今年
あなたは
どーする?  

雲の上、また会おう

〜 一之瀬航介、五十一分の物語 〜


まえがき

窓際の席に座り、飛行機が雲を突き抜ける瞬間、私はいつも小さく息を止めてしまいます。
 地上がどれほど厚い雨雲に覆われていても、どれほど激しい雨が降っていても、雲の上には必ず、言葉を失うほどの青空と眩しい太陽が待っています。
 それは当たり前の科学的な事実ですが、同時に、どこか救いのような、祈りのような力を秘めている気がしてなりません。
 本作『雲の上、また会おう』は、人生のひとつの節目である「還暦」を目前にした一人の男が、羽田から伊丹という、ごくありふれた国内線のわずかな時間の中で体験する、小さくて大きな奇跡の物語です。
 歳を重ねるにつれ、私たちは多くのものを手放し、多くの「別れ」を経験します。もう二度と行けないかもしれない場所、もう二度と会えないかもしれない大切な人。
 けれど、本当にそうでしょうか。
 もしも、雲の上が「記憶と大切な人をつなぐ場所」だとしたら――。
 フライト中にお茶を一杯飲み干すような、そんな気軽な気持ちで、航介と共に五十一分の空の旅へと飛び立っていただければ幸いです。





 窓際の席を予約するとき、航介はいつも同じことを思う。新幹線ならもっと安く、もっと早く着く区間さえある。それでも彼は空を選ぶ。理由を聞かれるたびに「窓から見える景色が好きだから」と答えてきたが、六十歳を目前にした今、その答えは半分しか正しくないと自分でも気づいている。
 残り半分の理由は、雲の上にはいつも晴れの空が広がっている、という子どもじみた確信だった。地上がどれほど曇っていても、どれほど雨が降っていても、飛行機が雲を突き抜けた瞬間、必ずそこには青がある。何十回、何百回とその瞬間を見てきたのに、航介はまだ、それを見るたびに小さく息を止めてしまう。
 羽田から伊丹まで、空の旅は一時間余りだ。滑走路を離れてから着陸態勢に入るまでを差し引けば、雲の上にいられるのは正味四十分の奇跡。客室乗務員がお茶を配り終え、それを飲み干す頃には、もう降下が始まっている。慌ただしい旅程だ。けれど、その慌ただしさの中にこそ、航介がどうしても手放せない何かがあった。
 窓の外を、雲の下から、雲の中を通り、雲の上へと移りゆく景色として眺めるとき、彼の中で何かが静かに巻き戻される。眼下に見覚えのある街並みが差し掛かれば、思わず身を乗り出して目を凝らす。ああ、あいつの家は確かあの川の向こう側だったな、などと、もう何年も連絡を取っていない友人の記憶が、風景と一緒に浮かび上がってくるのだった。
 その日も航介は、大阪出張のために羽田空港の搭乗口に立っていた。六月にしては珍しく晴れ渡った朝で、滑走路の向こうに広がる空には雲ひとつない。だが彼は知っていた。この時季、伊丹に近づく頃には決まって雲海が待ち構えていることを。
 搭乗を待つ間、航介はふと自分の年齢を意識した。今年の誕生日で、彼は還暦を迎える。六十年生きてきて、しかしこの国のことを、まだ何も知らずに来た気がしてならなかった。仕事の合間を縫って出かけた先はいつも海の向こうで、パスポートのスタンプは増えても、国内の地図は驚くほど白いままだった。
 けれど、ここ数年で世界は変わった。長時間のフライトは、以前ほど気軽なものではなくなった。歳を重ねた体は、時差より先に、狭い座席に何時間も縛られること自体を億劫がるようになっていた。
 だったら、と航介は思う。これからは、この国を巡ろう。会いに行けるうちに、会いに行こう。
 そんなことを考えながら搭乗した便で、航介はまだ知らなかった。その日の飛行が、彼のこれからの六十年を、静かに書き換えることになるとは。



 案内された座席は、いつも通りの窓際だった。三十六番、翼のやや前方。離陸してすぐ、機体は東京湾の上空で大きく旋回し、それから西へと機首を向けた。
 客室乗務員がお茶のカートを押してやってきたのは、水平飛行に入ってまもなくのことだった。制服の名札には「雲田」とあった。雲の田んぼ、か。空を飛ぶ仕事には出来すぎた名前だな、と航介は心の中で小さく苦笑した。
 「緑茶でよろしいでしょうか」
 穏やかな声だった。妙に懐かしい響きがある、と感じたが、それがなぜなのかは分からなかった。カップを受け取り、一口すすったところで、機は雲海に突入した。
 窓の外が白く塗りつぶされる。何度体験しても、この瞬間だけは慣れることがない。まるで世界そのものが真っ白な紙に還ってしまったかのような、心もとない数秒間。だがそれも束の間、機体はふわりと浮き上がるようにして雲の層を抜け、次の瞬間には、抜けるような青の中に躍り出た。
 眼下には、綿菓子を敷き詰めたような雲の絨毯が、地平線の果てまで続いている。その上を渡る太陽の光は、地上で見るどの晴天よりも眩しく、そして静かだった。
 「――大丈夫」
 航介は、口の中でそっとつぶやいた。それは、もう何十年も続けてきた小さな呪文のようなものだった。地上がどれほど曇っていても、この雲の上はいつも晴れている。だから大丈夫。すぐにまた、青空に戻れる。
 そのとき、機体が小さく揺れた。シートベルトサインが点いたわけでもないのに、揺れは思いのほか長く続いた。カップの中の緑茶が、縁ぎりぎりまで波打つ。航介は慌ててそれを支えたが、揺れが収まった頃には、お茶は半分ほどこぼれ、トレーの上に小さな水たまりを作っていた。
 「――失礼いたしました」
 いつの間にか、雲田という乗務員が隣に立っていた。カートの音は聞こえなかったはずなのに。彼女は手際よくおしぼりで水たまりを拭き取りながら、航介の顔を覗き込んで、少しだけ微笑んだ。
 「よろしければ、少しお時間を差し上げましょうか」
 意味の分からない申し出だった。時間を差し上げる、とはどういうことか。聞き返そうとした瞬間、航介は自分の体が、妙に軽くなっていくのを感じた。



 気がつくと、機内の様子が変わっていた。
 いや、正確には、機内そのものは何も変わっていない。座席の配置も、天井の読書灯も、窓の外に広がる雲海も、すべて元のままだ。変わったのは、隣の座席だった。
 さっきまで空いていたはずのそこに、見覚えのある横顔があった。
 「――哲」
 思わず声が出た。その男は、航介より少し若い顔つきのまま、こちらを見て、昔と変わらない笑い方をした。
 「久しぶりだな、航介」
 哲は、大学時代からの友人だった。二人で富士山に登ったことがある。あの夏、山頂で朝日を待ちながら交わした他愛のない話を、航介は今でもよく覚えている。哲は三十代の半ばで病を得て、この世を去った。もう二十年以上前のことだ。
 「お前、まさか、ここは……」
 「さあな」哲は肩をすくめた。「俺にも、はっきりとは分からん。ただ、時々こうして、誰かの隣に座らせてもらえるんだ。相手が、本当にこっちのことを思い出してくれたときだけ」
 窓の外を見ると、雲海はさっきよりもさらに輝きを増していた。まるで光そのものが、層になって降り積もっているようだった。
 「さっき、思い出しただろう。俺の家がどのあたりだったか、上から探そうとして」
 図星だった。羽田を発ってすぐ、地上を流れる街並みを眺めながら、航介はふと、哲が昔住んでいた街の上空を通過したことに気づいていた。あの辺りだったな、と、ほんの数秒、思いを馳せただけだった。
 「それだけで、十分なんだよ」哲は言った。「雲の上ってのは、そういう場所らしい。誰かが、誰かのことを、本気で懐かしいと思った瞬間に、扉が開く。長くは開いていないけどな」
 航介は言葉を失った。哲との再会が嬉しいという気持ちより先に、腑に落ちない疑問が浮かんでくる。
 「なら、どうして今なんだ。俺はこれまでだって、何度も、お前のことを思い出してきた」
 「思い出す、ってだけじゃ足りないんだと思う」哲は少し考えるように、窓の外に目をやった。「たぶん、お前は今、何かを手放そうとしてるんだろう。だから、扉が開いた」
 手放そうとしている。その言葉に、航介は思い当たる節があった。長時間のフライトが億劫になったこと。もう海の向こうの友人たちに、自分から会いに行くことは難しいかもしれないという諦め。この国の中だけを、これからは巡っていこうと決めたこと。
 それは、何かを諦める話のはずだった。だが哲の言い方だと、まるで、それこそが何かを受け取るための条件のようだった。



 「なあ、航介」哲が言った。「お前、まだ富士山、覚えてるか」
 「忘れるわけがない」
 「あの時さ、俺たち、山頂で何を話したか覚えてるか」
 航介は記憶をたぐり寄せた。夜通し歩いて、御来光を待つ間、凍えるような寒さの中で、二人はくだらない話ばかりしていた。将来の夢、好きな女の子の話、就職なんかしたくないという愚痴。今思えば、何一つ立派なことは話していない。
 「くだらない話ばかりだったよ」
 「だろうな」哲は笑った。「でも俺は、あの夜のことを、ずっと覚えてる。こっちに来てから、時間の感覚なんてほとんどないはずなのに、あの朝陽の色だけは、はっきり覚えてるんだ」
 窓の外では、雲海の切れ間から、遠く富士山の頂が覗いていた。この季節にしては珍しく、山頂近くにまだわずかな雪が残っているのが見える。
 「俺たちが立った場所、あそこだ」航介はそれを指差した。
 「見えるのか」
 「見える」
 二人はしばらく、黙って窓の外を見つめていた。カップに残っていた緑茶は、いつの間にか湯気を立てていた。こぼれたはずなのに、いつの間にか満たされている。ここでは、そういう理屈は通用しないのかもしれない、と航介は思った。
 「なあ哲。俺、来月で六十になる」
 「知ってるよ」
 「この国のこと、何も知らないまま歳を取っちまった気がしてな。だから、これからは、日本中を巡ろうと思ってる。まだ会える友達に、会いに行こうと思う」
 「いいと思うよ、それ」
 「でも、そのぶん」航介は言葉を選びながら続けた。「向こうにいる友達には、もう会いに行けないかもしれない。それが、ずっと引っかかってる」
 哲は少しの間、何も言わなかった。それから、静かにこう言った。
 「向こうに行けないなら、向こうから来てもらえばいい。それか」哲は窓の外の雲海を指差した。「ここで、会えばいい」
 「ここで」
 「お前が本気で誰かを懐かしいと思えば、扉は開く。さっき、俺に起きたみたいにな。距離なんて、ここでは関係ない。羽田から大阪だろうと、成田からサンフランシスコだろうと、同じことだ」
 にわかには信じがたい話だった。だが、目の前に哲がいるという事実そのものが、すでに信じがたいことだった。ならば、この話もまた、信じてみてもいいのかもしれない。
 「本当に、また会えるのか。お前とも、他の誰とも」
 「保証はできない」哲は正直に言った。「俺にも、仕組みの全部が分かってるわけじゃないからな。ただ、一つだけ確かなことがある」
 「なんだ」
 「近くにいる人間を大事にしない奴には、この扉は開かない。お前がこれから日本中を回って、会える友達にちゃんと会いに行くなら、たぶん、その先で、もっと遠くにいる誰かにも、ちゃんと会えるようになる。近さと遠さは、たぶん、ここでは別のものさしで測られてるんだ」



 機内アナウンスが響いた。「間もなく伊丹空港に着陸いたします」という、ごくありふれた声だった。航介ははっと我に返った。
 伊丹の到着案内が流れる。離陸から、ちょうど五十一分が経っていた。
 隣の座席には、誰もいなかった。トレーの上のカップには、飲みかけの緑茶が半分残っていて、それはすっかり冷めていた。
 窓の外は、いつもの雲の上の光景だった。哲の姿はどこにもない。だが、富士山だけは、さっきと同じ角度で、まだ小さく見えていた。
 通路を、乗務員がカートを押しながら通り過ぎていく。航介はその顔を確かめようとしたが、名札には別の名前が書かれていた。雲田という乗務員は、どこにもいなかった。ただ、トレーの端に、小さな水滴が一つだけ残っていた。こぼしたはずのお茶か、それとも雲の粒か。
 夢だったのだろうか。あるいは、ただの居眠りだったのかもしれない。年甲斐もなく、そんな都合のいい話を信じかけている自分に、航介は少し苦笑した。
 けれど、機体が雲を抜けて降下を始め、大阪の街並みが徐々に姿を現していく間、航介の胸の内には、たしかな温かさが残っていた。夢だったとしても構わない、と彼は思った。今、自分がこれから何をすべきかは、はっきりと分かっていたからだ。
 伊丹空港に着陸したその足で、航介はスマートフォンを取り出し、しばらく連絡を取っていなかった友人たちのリストを開いた。関西の友人、九州の友人、東北の友人。一人ひとりの名前を見ながら、彼はメッセージを打ち始めた。「久しぶり。近いうちに、会いに行ってもいいか」
 それから数か月、航介は本当に日本中を巡り始めた。北海道の友人を訪ね、沖縄の友人を訪ね、その合間に、若い頃に世話になった恩師のもとにも足を運んだ。飛行機に乗るたび、窓際の席を予約し、雲の上の景色を眺めた。もちろん、あの日のようなことは、二度と起こらなかった。哲に再会することもなかったし、雲田という乗務員に会うこともなかった。
 それでも航介は、雲の上を飛ぶたびに、遠くにいる友人たちのことを、これまで以上に強く思うようになった。かつてはただの習慣だった「窓の外を眺めながら記憶をたどる」という行為は、いつからか、彼にとって一種の祈りのようなものになっていた。
 そしてある晩、太平洋の向こう側、サンフランシスコに住む古い友人から、思いがけないメールが届いた。
 「変なことを聞くようだけど、先週、妙な夢を見た。お前と、なぜか知らない女の乗務員が出てくる夢だ。目が覚めてから、無性にお前に連絡したくなってな。元気にしてるか」
 航介はそのメールを、何度も読み返した。それから、静かにこう返信した。
 「元気だよ。近いうちに、そっちに。いや。今度、その話は、会って直接しよう。きっと、思ったより早く、会えると思う」
 窓の外に、彼はまだ見ぬ雲の上の景色を思い浮かべた。地上がどれほど曇っていても、その上はいつも晴れている。そのことを、航介はもう、疑ってはいなかった。

(了)


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ー原詩ー




あとがき

 この物語は、羽田から伊丹までという、飛行機好きにとっては少し慌ただしい、けれどどこか愛おしい路線を舞台に生まれました。
 作中で、亡き友人・哲は「近さと遠さは、別のものさしで測られている」と言いました。
 私たちは今、世界中のどこにでも一瞬でメッセージを届けられる便利な時代に生きています。その一方で、本当に大切な人との心の距離や、かつて共に過ごした時間の愛おしさは、どれだけテクノロジーが進化してもデジタルな数字では測れないものだとも感じます。
 身近にいる人を、会える友人をちゃんと大事にすること。その地道な歩みの延長線上にこそ、かつて別れた大切な人や、遠く離れた誰かと、心の深いところで再びつながる「扉」があるのではないか。そんな願いを込めて、この筆を執りました。
 読者の皆様が、次に飛行機に乗って窓の外の雲海を眺めるとき。あるいは、ふと遠くの街空を見上げたとき。この物語が、心の中にある「大切な誰かの記憶」を優しく温める小さなきっかけになれば、とても嬉しく思います。
 またいつか、どこかの雲の上でお会いしましょう。

黙示録の恋人たち

まえがき

もしも、このまま地球の温暖化が止まらなかったら。もしも、人類を襲う未曾有の感染症や気候変動が、地球という一つの生命体による「人間という熱を冷ますための免疫反応」だったとしたら――。
本作『黙示録の恋人たち』は、そんな少し先の、けれど地続きの未来を描いたSFアポカリプス作品です。
タイトルにもある「ヨハネの黙示録」の一節、――なんじは冷かにもあらず、熱きにもあらず。 という言葉を軸に、滅びゆく世界で「なまぬるさ」を捨てて生き抜こうとする二人の足跡を追いました。
容赦なく照りつける灼熱の太陽と、その裏側に潜む凍てつくような冷気。
そのコントラストを、悠真と由貴の物語を通して体感していただければ幸いです。
それでは、2061年の夏の終わりへ。どうぞお楽しみください。




プロローグ 冷たくも熱くもなく

 西暦二〇六一年、日本という国から四季が消えて、もう十年が経っていた。
 気象庁はとうの昔に「四季」という言葉を予報用語から外している。天気予報の画面に残ったのは「乾季」と「雨季」、そして九ヶ月にわたって日本列島をじりじりと焼き続ける「酷暑期」だけだった。東京の最高気温が四十八度を記録した日、誰も驚かなかった。驚くという感情の機能そのものが、過酷な日常の中で摩耗し、砂のようにサラサラとこぼれ落ちてしまっていたからだ。
 環悠真(たまき・ゆうま)は、気候研究機構の解析官として、その人類の摩耗を数字で見続けてきた男だった。
 ――三十六度五分で二十四時間、絶え間なく発熱し続ける八十億の生き物が、わずか百年の間に地表を埋め尽くしたんだ。地球が悲鳴を上げるのは当然だろう。
 上司である宇佐見が、酒の席でそう言って力なく笑った夜のことを、悠真は今でもよく覚えている。冗談のつもりだったのだろう。だが、誰も笑わなかった。
「地球は、たぶん本気で人間を『熱』だと思ってる」
 同僚の一人がそう呟いたのも、その晩だった。二〇三〇年代に世界を覆い尽くした、あの原因不明の致死的な感染症。世界中がパニックに陥ったが、結局のところ、あれが何だったのかは誰も完全には説明できなかった。ただ一つ確かなのは、あの病が去った後、世界の体温は下がるどころか、むしろ加速して上がり続けたということだ。まるで、一度目の処置では人間の活動という「熱源」を冷ましきれなかったから、もっと強い免疫反応が必要だ、と地球自身が判断したかのように。
 悠真は仕事の合間、古い聖書の一節を思い出すことがあった。いつだったか、電子書籍の隅に残っていた、誰かの引用だ。
『――なんじは冷かにもあらず、熱きにもあらず。我はむしろなんじが、冷かならんか熱からんかを願う。』
 なまぬるいものは、口から吐き出される。確か、そんな風に続いていたはずだ。悠真には、その「なまぬるさ」こそが、滅びに向かいながらも決定的な行動を起こせない今の人類そのものを言い当てているように思えてならなかった。
 その夏、悠真は最後の現地調査に向かうことになっていた。行き先は、かつて避暑地と呼ばれた信州の山あい――黒姫山の麓。
 彼はまだ知らなかった。その辞令が、自分の所属する機構の上層部によって、ある冷酷な計画のために巧妙に仕組まれた罠だということを。


第一部 黒姫

第一章 辞令
「環くん、君に黒姫山麓の窪地の再調査を頼みたい」
 機構長の宇佐見はそう言って、悠真の前に重々しくタブレットを滑らせた。画面に表示されていたのは、黒姫山麓の一角だけが斑点のように周囲より著しく気温が低い、異常な熱画像データだった。
「三年前から放置されていた案件ですよね。予算も削られたはずですが、今さらなぜですか」
「異常域が急激に拡大している。それだけだ」
 宇佐見の声には、わずかな硬さがあった。悠真はその時、それを連日の激務による疲労のせいだと思った。だが後になって、それが嘘をつく人間特有の、あるいは「引き返せない選択」をした人間特有の硬さだったのだと気づくことになる。
 悠真には、この命令の裏にある巨大な陰謀を知る由もなかった。彼はただ、数日分の観測機材を整え、旧型の電動四輪駆動車に乗り込み、熱波で蜃気楼の揺れる北へと向かった。
 道中、砂埃を上げる軍用車両とすれ違うことが何度かあった。ここ最近、内陸の山岳部での軍の動きが活発になっているという噂は耳にしていたが、悠真はそれを、残されたわずかな水資源や居住可能地域を巡る、上層部のいつもの縄張り争いの一環だろうと信じて疑わなかった。


第二章 窪地の女
 かつての高級避暑地、軽井沢はもう涼しくなかった。錆びついた観光客向けの看板だけが、過去の栄光の遺物のように色褪せて佇んでいる。アスファルトは熱で溶け出し、空気は重く淀んでいた。
 しかし、黒姫山の麓に入ると、空気の密度が変わった。そこには、周囲より確実に気温が二度から三度ほど低い「窪地」が点在していた。気象機構はそこを、地球に残された「最終冷源」と呼び、半ば放棄された観測網を辛うじて残していたのだ。
 集落と呼ぶにはあまりに小さい、十数軒の廃屋が並ぶその土地に辿り着いたとき、悠真は一人の女と出会った。
「由貴(ゆき)」と、彼女は静かな声で名乗った。
 歳の頃は悠真より少し下、二十代後半に見えた。容赦のない太陽の下で暮らしているにしてはどこか透明感のある、しかし奇妙なほど落ち着いた底のない目をしていた。彼女は廃校になった小学校の校舎を一人で住居に作り変え、わずかな自給自足の畑と、誰も管理しなくなった山の水源を守って暮らしているという。
「外から来た人?」
 由貴は警戒するでもなく、ただ世界に自分以外の人間がまだ存在していたことを確かめるようにそう聞いた。悠真が機構の身分証と観測機材を見せると、彼女は小さく頷いた。
「あの機械、知ってる。たまに様子を見に来る人がいた。でも、もう三年来てなかった。世界はもう、ここを忘れたんだと思ってた」
「人手が足りなくて。世界中、どこも自分の足元を冷やすので精一杯なんです」
 そう答えながら、悠真は彼女が袖を捲り上げたとき、手首に刻まれた小さな古い傷痕に目を留めた。それは通常の注射の痕にしては大きすぎる、まるで皮膚の下から何かを無理やり抉り取られたような、あるいは何かを埋め込まれていたような、歪な痕跡だった。聞くのは憚られて、彼はそのまま喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。


三章 監視者
 滞在三日目の夜だった。悠真は夜間の気温暴落データを回収するため、ランタンを手に外へ出た際、鬱蒼とした林の奥から、かすかな機械音を聞き取った。高周波の、生き物ではない羽音。
 光を遮りながら近づくと、太いブナの木の枝にカモフラージュされた、軍用の小型偵察ドローンが設置されているのを見つけた。そのレンズは、明らかにこの集落全体――というより、由貴が寝泊まりしている校舎の窓を精密に狙う角度で固定されていた。
 悠真は息を呑んだ。自分が機構から支給された公式の観測機材の中に、こんな隠密性の高い監視兵器は含まれていない。これは別の組織が、すでにこの場所を、そして彼女をマークしていたという明確な証拠だった。
 彼は即座にドローンを叩き落として回収し、校舎へ戻って由貴の前に突きつけた。メカニカルな緑のインジケーターが明滅している。それを見た由貴の顔から、初めて血の気が引いた。
「やっぱり、見つかったんだ」
「どういうことだ? 由貴、君はこれを知っているのか」
「悠真。座って。全部話すから」
 由貴はパチパチと爆ぜる焚き火の前で、膝を抱え、これまで世界の誰にも明かさなかった凄惨な過去を語り始めた。
 彼女は十年前、「創世(ジェネシス)機関」という、表向きは感染症ワクチンを開発する政府系の民間医療機関の最深部に囚われていた被験者だった。あの二〇三〇年代の感染症が世界を襲った後、機関は生き残った人間の中から、病に対して特異な遺伝子耐性を持つ者を探し出した。いや、それは単なる耐性ではなかった。地球の環境変化、その「意思」のようなものに対して、ある種の「同調(シンクロ)」反応を示す異常な個体群――機関は彼らを極秘に収容し、実験を繰り返していた。由貴もその生き残りだった。
「あの病気は、ただの突然変異のウイルスじゃない。少なくとも、創世機関の上層部はそう確信してた。地球規模の環境維持システムが放った免疫細胞。そして、わたしたちみたいな人間は、そのシステムからの信号を受け取る『受信機』なんだって」
「君は、そこから逃げてきたのか」
「五年前に、内部の協力者が命を懸けて逃がしてくれた。仲間も何人かいたわ。でも、みんな追っ手に捕まったか……その場で殺された」
 悠真は言葉を失った。冷え切った電子を解析する仕事の中で、自分がどれほど世界の真実から遠ざけられていたかを思い知らされる。そして、自分に下された「再調査」という不可解な任務の意味が、最悪の形で結びついた。機構の上層部は最初から、ここに由貴が潜伏していることを知っていて、自分を「生体レーダーの感度を確かめるための捨て駒」として送り込んだのだ。


第四章 肺
 翌日、由貴は悠真を、国土地理院の地図にも載っていない、深い涸れ沢の先にある巨大な風穴へと案内した。地中深くから、凍りつくような冷気を一定のリズムで吐き出し続けているその場所を、由貴は親しみを込めて「肺」と呼んでいた。
「世界中に、まだ何ヶ所か残ってる。目立たない、でも確実に冷たい空気を生み出す地球のツボのような場所。みんな、それぞれの場所で、最後の呼吸をしてる」
「地球が、まだ生きようとして足掻いている、ということか?」
「違うわ、悠真。生きようとしてるんじゃない――人間という熱を、本気で『治そう』としてるの。ここは地球の白血球が作られる場所」
 悠真は黙って、洞窟から吹き出す激しい冷気に手をかざした。掌に伝わる暴力的なまでの涼しさが、外の世界の異常な灼熱を、狂気のように際立たせる。
「創世機関が本当に欲しいのは、わたしたち同調者の血じゃない。不老不死の薬でもない。わたしという受信機をハッキングして、この世界中に散らばる『肺』のネットワーク全体に強制接続すること。彼らはその地球の冷却システムを乗っ取り、自分たちだけが生き延びるための特権的な『ドーム型のシェルター』を作ろうとしてるの」
「全人類を救うためじゃなく」
 由貴は悲しげに首を振った。
「選ばれた、ほんの数百人の富裕層と権力者のためだけに、地球の最後の生命力を絞り尽くそうとしてる」
 その夜、悠真は由貴に、自分が抱えてきた気候解析のすべてを打ち明けた。人口爆発と気温上昇の数式、あの感染症が人類の特定の年齢層や活動層にだけ異常な選択性を持って発症していたデータ。由貴の「受信機」という言葉を聞いた今、悠真の中でそれは単なる環境破壊の被害ではなく、明確な「地球からの拒絶」という確信に変わっていた。
 二人の距離は、その夜を境に急速に縮まった。世界の終わりが決定的な速度で近づくほどに、皮肉なことに、二人が共有する時間は、濃く、鮮やかに爆発していくようだった。


第五章 蝉時雨
 夏の盛り、黒姫の窪地には、連日信じられないほどの激しい蝉時雨が降っていた。外の世界では熱波によってとっくに絶滅したはずの蝉の声が、この冷たい境界線の中だけで、まるで最後の祭りのように狂ったように鳴り響いていた。
 悠真と由貴は、涸れかけた沢のほとりで、世界から切り離された二人だけの時間を過ごした。膝までもない深さの水に足を浸す。ただそれだけのことで、忘れていた「かつての豊かな日本の夏」の記憶が、悠真の脳裏に鮮烈に蘇るようだった。
「子どもの頃は、こんな冷たい水なんて、どこにでもあった。珍しくもなかったんだ」
 悠真が水面に映る歪んだ太陽を見つめて呟くと、由貴は水をすくい上げ、悪戯っぽく笑った。
「わたしは、この壊れかけた世界しか知らない。だから、これがわたしにとっての、最初からのかけがえのない当たり前」
 その夜、二人は自然な流れで唇を重ね、互いの体温を貪るように抱き合った。世界が崩壊していく秒読みの速度と、二人の心が重なっていく速度が、完全にシンクロしているのを悠真は感じていた。それは絶望の裏返しにある、狂おしいほどの生命の肯定だった。
「悠真。本当にわたしに付き合っていいの? あなたにはまだ、東京に戻れば、機構の解析官としての安全な席があるのに」
「もう、あんななまぬるい場所に、戻りたいとは思わない」
 悠真の迷いのない言葉に、由貴は静かに目を閉じ、彼の胸に顔を埋めた。だが、そのささやかな安らぎは、あまりにも唐突に破られることになる。
 翌朝の未明、悠真の携帯端末に、暗号化された機構からの緊急音声通信が割り込んだ。
『――環くん、今すぐそこを離れろ! 命令だ、走れ! “セルベルス”がそっちへ向かった!』
 スピーカーから響く宇佐見の声は、悠真がかつて聞いたことのないほど、悲痛に切迫していた。


第二部 追跡

第六章 セルベルス
「セルベルスって、一体何のことですか!」
 悠真が叫ぶように問い返したが、宇佐見は遮るように早口でまくし立てた。
『創世機関が囲っている民間軍事会社だ。表向きは国境資源の警備会社だが、実態は汚れ仕事を専門に請け負う非合法の私設軍隊だ。いいから、今すぐその由貴という女性の手を引いて山へ逃げろ。お前が昨日送った定期業務報告書が、機構のメインサーバーから奴らに漏洩した!』
「漏れたって……誰が」
 通信は、その本質的な問いに答える前に、激しい電子ノイズと共に切断された。ジャミングが始まったのだ。悠真は呆然と画面の消えた端末を見つめた。自分が送った、ただのルーティンワークとしての観測データ。そこにほんの数行付け足した「現地居住者の存在」という記述。それが、機構内部に巣食う創世機関の内通者によって、最悪のトリガーとして引かれてしまった。
 由貴はすでに、声をかけるまでもなく古いザックに荷物を詰め込んでいた。その無駄のない手際の良さに、悠真は彼女がこれまでどれほど過酷な逃避行を生き延びてきたかを思い知り、胸が締め付けられる。
「悠真、電動車は置いていくわ。主要な林道は確実にやつらに押さえられている」
「じゃあ、どうやってこの包囲網を抜ける」
「山を歩くの。一般の登山道じゃない、猟師も使わなくなった廃道をわたしが知ってる」
 二人は必要最低限の水と機材だけを背負い、夜明け前の蒼い霧が立ち込める窪地を後にした。出発の直前、由貴は小学校の校庭の隅にある、地中へと続く「肺」の小さな通気口にそっと手を当て、何かを低く囁いた。それは世界への別れの言葉ではなく、必ず戻るという厳かな約束の儀式のように、悠真の目には映った。


第七章 追跡
 黒姫山の尾根を越えようとしたとき、二人は最初の追跡者と遭遇した。
 バリバリという不快なローター音が静寂な谷間にこだまし、上空から巨大なサーチライトの白い光束が、夜の木々を舐めるように、執拗に動き回った。由貴は機転を利かせ、悠真の腕を強く引いて、せり出した巨岩の陰に身を伏せさせた。
「動かないで。あのライトは熱源感知センサーと連動してる。人間の体温を捉えた瞬間に、上空から誘導弾が降ってくるわ」
 息を殺して、心臓の鼓動すら押し殺した数分間。ヘリの音は次第に遠ざかり、尾根の向こうへと去っていったが、それは長い地獄の始まりに過ぎなかった。地上に展開したセルベルスの特殊部隊が、すでに山道の要所を完全に封鎖していることが、由貴が持っていた古い軍用の無線受信機から漏れるノイズ混じりの音声で判明した。
「セルベルスは、わたしの皮膚の下にある古い識別チップの微弱な電気信号――『同調』の余波を追跡する広域スキャナーを持ってる。完全に気配を消して逃げ切るのは無理。でも……」
 由貴は防水布に包まれた、古い紙の地図を広げた。液晶のデジタル機器なら、GPSのログから一瞬で居場所を特定されると分かっていたのだ。
「ここに、もう一つ別の、より巨大な『肺』がある。志賀高原の最奥、原生林の地下。そこまで辿り着ければ、地球が放つ膨大な地磁気と冷気のノイズで奴らのスキャナーが完全に狂う。追跡を振り切れるわ」
 二人は道なき険しい斜面を、夜を徹して泥にまみれながら進んだ。途中、疲労が限界に達した悠真が足を滑らせ、数十メートル下の断崖へと転落しかけた。その瞬間、由貴が人間離れした瞬発力で間一髪、彼の細い腕を掴み、細い身体で地を這うようにして引き上げた。
「……すまない、助かった」
「お互い様よ、解析官殿。これからもっと、死にそうに危ないことが待ってるんだから」
 彼女の冗談めかした言葉は、数時間後に最悪の現実となった。明け方近く、霧が晴れかけた険しい谷の出口で、二人は自動小銃を構えて待ち伏せていたセルベルスの一個小隊と、正面から鉢合わせしてしまったのだ。


第八章 突破
「動くな! 両手を頭の後ろに上げろ!」
 全身を最新の黒いタクティカルギアで固めた男たちが、容赦のない銃口を悠真と由貴の眉間に向けた。悠真は全身の血が凍りつき、言われるがままに両手を上げかけたが、その隣で、由貴だけは銃口を目の前にしながらも、不思議なほど凪いだ、静かな瞳で地面を見つめていた。
「悠真。わたしの真後ろに隠れて。絶対に離れちゃダメ」
 由貴がそう低く囁いた、次の瞬間だった。
 ドスン、という重低音とともに、彼女の足元の地面が生き物のように不気味に振動を始めた。それは通常のプレート境界型の地震では断じてなかった。由貴の強烈な脳波――「生きたい」という生物としての強烈な願いに呼応するように、地下の「肺」に溜まっていた超高圧の水蒸気と冷却結晶が、局所的な地殻流動を引き起こしたのだ。科学的にはそう説明するほかない現象だった。
 ズガガガガ、と凄まじい音を立てて兵士たちの足元の土壌がピンポイントで爆発するように隆起し、彼らは悲鳴を上げてバランスを崩し、斜面へと転げ落ちていく。
 その一瞬の隙を見逃さず、由貴は呆然とする悠真の手を力強く引き、煙が立ち込める谷の脇道へと猛然と走り出した。
「今のは、一体何が起きたんだ……! 君がやったのか!?」
 激しく息を切らし、背後の銃声を浴びながら悠真が問うと、由貴は前を見据えたまま叫び返した。
「分からない! ただ、ここで死にたくないと必死に願ったら――地面の底にいる何かが、わたしの声に応えてくれたの!」
 それが単なる地質の偶然の奇跡なのか、それとも由貴の言う地球との「同調」の力なのか、悠真の解析官としての脳では処理しきれなかった。だが、もはやそれを疑い、考察している余裕など一秒もなかった。
 数時間に及ぶ決死の逃走の末、追っ手を撒いた二人は、志賀高原の山中にひっそりと佇む、半ば崩落しかけた古い無人の避難小屋に滑り込んだ。しかし、安堵したのも束の間、暗い小屋の奥には、思いがけない人物が二人を待っていた。


第九章 内通者
「久しぶりね、環くん。ずいぶんと手荒な歓迎を受けたみたいじゃない」
 埃っぽい小屋の暗がりに腰掛けていたのは、悠真のかつての同僚であり、先輩研究者でもあった御崎美咲(みさき・みさき)だった。機構の気候解析部門で天才と謳われ、悠真と共に数々の論文を執筆したが、二年前に何の説明もなく突然退職し、忽然と消息を絶っていた人物だ。
「美咲さん……!? なぜ、あなたがこんな山奥の禁足地にいるんですか」
「あなたたちを助けに来たのよ。私は機構を辞めた後、創世機関の内部に潜入して彼らの動向を探っていたの。でも、奴らの本性を知って、今朝、機密データを持ってそこを命懸けで抜けてきた」
 美咲は手にした軍用の高セキュリティ・タブレットを起動し、創世機関の内部資料を悠真に見せた。そこに並ぶ凄惨な文字群。それによれば、機関の真の目的は、由貴のような「同調者」の脳の松果体から抽出した生体ナノ成分を触媒とし、世界中の「肺」の冷却エネルギーを強引に奪取・一極集中させ、選ばれた世界の富裕層と権力者だけが数百年生存できる完全循環型閉鎖都市「方舟」を完成させることだった。
「気候の完全な崩壊は、もう現在の科学では止められない。だったら、限られたリソースの中で『誰を残すか』を、自分たちの手で選別する――それが創世機関の、あの狂った老人たちの理屈よ」
 由貴はその恐るべき陰謀を聞きながらも、ただ静かに美咲を見つめ、表情を一切変えなかった。彼女にとっては、すでに体感として知っていた既知の事実だったのかもしれない。
「信じていいの、悠真。この人を」
 由貴が悠真のシャツの袖を引っ張り、小声で耳打ちした。悠真は激しく葛藤した。だが、美咲とは何年も同じラボで机を並べ、世界の危機について夜通し語り合った仲だった。彼女の瞳にある「科学者としての切実な光」が、嘘をついているようにはどうしても見えなかったのだ。
「大丈夫だ、由貴。美咲さんは信頼できる。彼女の力を借りよう」
 それが、悠真の人生における、最初の、そして最も致命的な判断ミスとなることを、その時の彼は知る由もなかった。


第十章 罠
 美咲の案内により、二人は追っ手の目を盗んで山を下り、長野市の郊外、地下に作られた古い物資貯蔵庫を利用した「安全な隠れ家」へと移動することになった。道中、美咲は終始親身になって二人の体調を気遣い、今後の海外への具体的な逃走ルートを熱心に語っていた。
 だが、冷え切った地下コンクリートの隠れ家に到着し、分厚い鉄扉が閉まった瞬間、すべての空気が一変した。
「――本当にごめんなさいね、環くん。あなたを巻き込むつもりはなかったのだけど」
 美咲の声音から、先ほどまでの温かみが完全に消失し、絶対零度の冷徹さに変わった。
 カチャリ、という不吉な金属音とともに、隠れ家の壁の隠し扉が開き、銃器を構えたセルベルスの特殊部隊員たちがアリのように雪崩れ込んできた。悠真は一瞬で数人の男たちに組み伏せられ、床に顔を押し付けられる。
「美咲さん! あなた、まさか……!」
「私が持ち出した内部資料は本物よ。創世機関の理屈が狂っているのも本当。でもね、環くん。私が機関を抜けた後に手を組んだのは、彼らと敵対する『もう一つの世界組織』だったのよ。世界が滅びるなら、私も何が何でも生き残る側に回りたい。あなたたちには気の毒だけど、由貴さんの身体は、私たちの組織にとっても最高値で取引されるマスターキーなの」
「美咲ぃーーー!!」
 悠真の絶叫も虚しく、由貴は抵抗することなく、ただ悲しそうな目で悠真を見つめながら、特殊な電磁拘束具を嵌められて連れ去られていった。
 そして悠真の頭部には、容赦のない銃床の強打が振り下ろされ、彼の意識は深い闇へと転落した。


第十一章 救出
 激しい頭痛とともに悠真が意識を取り戻したとき、彼は薄暗い埃っぽい倉庫のような建物の片隅で、太い頑丈なワイヤーによって椅子に厳重に拘束されていた。口の中には血の味が広がり、周囲を見渡しても由貴の姿はどこにもない。絶望と自己嫌悪が、彼の胸を激しく掻き毟った。自分の甘さが、彼女を再び地獄へ突き落としたのだ。
 その時、ガツン、という激しい金属音が響き、倉庫の頑強な電子ロックが外側から爆破された。
 煙の中から現れた影を見て、悠真は目を疑った。
「立て、環。感傷に浸っている時間はないぞ」
 そこに立っていたのは、防弾ベストを身に纏い、手に入れたばかりの自動小銃を構えた機構長の宇佐見だった。宇佐見は自ら手配した、机构内で唯一信頼できる武装警備班の部下数名を率いて、悠真を救出するために突入してきたのだ。
「宇佐見さん……! どうして、あなたがここに」
「お前の最初の報告書を上に流し、創世機関に売った裏切り者は、副機構長だった。だがな、自分の部下が目の前でハメられて、指を咥えて黙っていられるほど、俺はまだ腐っちゃいない。あのなまぬるい組織の椅子なんて、とっくに捨てる覚悟さ」
 宇佐見は、悠真が拘束されているワイヤーをナイフ型工具で素早く切断しながら、冷徹に状況を説明した。彼は独自に裏切り者の通信ログを傍受し、由貴の身柄が運ばれた最新の施設位置をすでに突き止めていた。その場所は、長野県内の深い山岳地帯に隠された旧政府軍の地下核シェルターを密かに改装した、創世機関と美咲の属する組織が共同で運用する「秘密実験プラント」だった。
「あの美咲という女は、両方の組織から金を搾り取る二重スパイだ。今頃、地下の最深部で由貴さんを実験ベンチに縛り付け、地球のネットワークをハッキングするための最終プロトコルを開始しているはずだ。行くか、環」
 悠真は床に立ち上がり、拳を血がにじむほど強く握りしめた。彼の胸の中で、絶望はすべて、美咲への、そしてこの世界への激しい怒りへと昇華されていた。
「連れて行ってください。僕の命は、あの窪地に置いてきました。由貴を、必ず取り戻す」


第十二章 潜入
 広大な地下軍事施設への潜入は、宇佐見が率いる部下たちの巧妙な電子スモークと、深夜の警備交代の死角を突く形で決行された。
 エレベーターで地下数百メートルへと降り立った悠真の目の前に広がっていたのは、彼がこれまで画面上の数字だけで見てきた「世界の終わりの縮図」そのものだった。巨大な超伝導サーバー群が怪しく青白く発光し、その中央のホログラムスクリーンには、由貴のような世界中の「同調者」からリアルタイムで強制吸い上げられた生体データが、おぞましい波形となって踊っていた。そしてその波形は、世界各地に点在する「肺」の座標と完全にリンクし、地球のエネルギーが急速に吸い上げられ、特定のシェルター都市の座標へ集約されていくプロセスを可視化していた。
「これが……奴らの言う、選ばれた者だけの方舟計画の全貌か」
 宇佐見が吐き捨てるように低く唸った。人間の際限のない強欲が、地球という一つの生命体の断末魔をさらに加速させている。
 悠真は遮二無二走り、施設の最深部である、厳重に遮蔽された円形の実験チャンバーへと辿り着いた。そこには、無数の太い触手のような電極コードを全身の血管に繋がれ、空中へと吊るされた由貴の痛々しい姿があった。
「――悠真……?」
 生体エネルギーを限界まで絞り取られている由貴の声は、消え入りそうなほど微かだった。だが、ガラス越しに悠真の姿を捉えた瞬間、その底のない瞳に、一筋の烈火のような強い光が灯った。
「待たせた、由貴! 今、そこから出す!」
 悠真が制御コンソールに飛びつき、解析官としての技術のすべてを尽くして拘束プログラムの解除を試みた瞬間、施設全体に耳を劈くような赤色灯のサイレンが鳴り響いた。
「そこまでよ、環くん。本当に往生際が悪いわね」
 チャンバーの上部キャットウォークに、銃を手にした美咲が、冷酷な笑みを浮かべて姿を現した。


第十三章 暴走
「これ以上、私たちの邪魔をしないで。この接続が完了すれば、私は新世界の神の一人に席を約束されているのよ。あんたたちみたいななまぬるい凡人とは違うの!」
 美咲が銃口を悠真の心臓へと向け、引き金に指をかけた。だが、彼女がそれを引くよりも、世界の崩壊が始まる方が一瞬早かった。
 ――ズ、ズズズ、ズガァァァァン!!
 施設全体が、まるで生き物の胃袋の中にいるかのように、激しく、不気味に捩れるように揺れ動いた。美咲のシステムが強引に由貴の脳をハッキングしたことで、逆に由貴の深層意識を通じて、世界中に散らばるすべての「肺」のネットワークが、初めて一つの巨大な「拒絶の意志」として完全に覚醒してしまったのだ。
「止めて、由貴! 何が起きている!? このままじゃ君の脳が焼き切れる!」
 ガラスを叩きながら悠真が叫んだが、空中につるされた由貴は、苦痛に顔を歪めながらも、静かに首を振った。
「止められないの、悠真……! これは、わたしの力じゃない……! 繋がれた世界中の『肺』が、人間たちの強欲に、本気で怒って……向こうが勝手に暴走してるの……!」
 制御コンソールの基盤が次々とショートし、激しい火花を散らして爆発していく。超伝導サーバーが悲鳴を上げ、非常照明の赤い光が、まるで血の海のように部屋を染め上げた。
「嘘よ、私のプログラムが乗っ取られるなんてあり得ないわ!」と美咲が狂乱の声を上げてコンソールを叩いたが、次の瞬間、彼女の足元のコンクリート床が、地球の底からの凄まじい水蒸気爆発によって粉々に粉砕された。美咲は悲鳴を上げながら、漆黒の亀裂の底へと、武装諸共まっさかさまに転落していった。
 宇佐見の部下たちが銃撃戦の末にチャンバーの隔壁を物理的に爆破し、悠真は崩落する破片を潜り抜けて由貴の元へと駆け寄った。素手で熱い電極を引きちぎり、彼女の細い身体を抱きとめる。
「悠真……ここを、出て……! 地球の息吹が、この施設を完全に押し潰そうとしてる……!」
「一緒に逃げるんだ! 二度と、その手は離さない!」
 二人は、天井から巨大なコンクリート塊が容赦なく降り注ぐ、生き地獄と化した地下施設の中を、互いの手を骨が軋むほど強く握りしめたまま、ただひたすらに光の射す地上へと走り続けた。


第三部 夏の果てに

第十四章 脱出
 研究所の崩落は、通常の地震や爆発の規模を遥かに超えていた。地球がその一点にある「腫瘍」を強引に排除するかのように、山の斜面そのものが激しく陥没し、施設を丸ごと地中深くへと飲み込んでいく。
 後にこの未曾有の出来事は、政府の歪んだ報道管制によって「大規模な地盤沈下による不慮の災害事故」として片付けられることになるが、あくる朝、現場の泥にまみれて生き残った悠真たちは、それが単なる自然災害などではないことを、魂の底から理解していた。
 宇佐見たちの決死の誘導により、命からがら地上へと生還した悠真と由貴は、朝日が昇る山頂から、土煙を上げて完全に消滅した研究所の跡地を見つめていた。
「美咲さんは……」
 悠真が沈痛な面持ちで呟くと、防弾ベストを脱ぎ捨てた宇佐見が、遠い目で首を振った。
「分からん。だが、あの執念深い女のことだ、地獄の底からでも這い上がってくるかもしれんし、あるいは……。どんな天才であれ、地球の本当のスケールを見誤った者の末路だ」
 宇佐見の声には、かつての優秀な教え子に対する、一抹の寂しさと哀れみが混じっていた。
 由貴は、まだ微かに震える悠真の手を、自分の両手で包み込むように強く握り締めた。
「悠真。世界中の『肺』が、今、完全に一つに繋がった。私には、その呼吸の音が聴こえる」
「それは、これからの人類にとって、良いことなのだろうか」
 由貴は朝日の光を浴びながら、微笑んだ。
「分からない。でもね、少なくとも、創世機関のような人たちが、地球の命を自分たちだけの都合のいいおもちゃにすることは、もう二度とできないわ」


第十五章 覚醒
 あの悪夢のような施設崩落から数日後。世界中のあらゆるニュースメディアが、地球規模で同時に発生している「不可解な気象現象」を驚愕を以て報じ始めた。
 南米のアマゾン、アフリカのサバンナ、そしてシベリアの永久凍土――これまで「最終冷源」として局所的に点在していた世界各地の窪地が、まるで互いにテレパシーで連絡を取り合うかのように連動し、その周囲の気温を確実に、数度ずつ冷却し始めていたのだ。
 気象学者たちはありとあらゆる高度な数式と仮説を組み立てたが、誰もその世界規模のドミノ現象を科学的に証明することはできなかった。ただ、志賀高原の深い森に身を隠した悠真と由貴の二人だけは、その大気の拍動が意味する真実を知っていた。
「君が、あの時、世界中の肺を繋いだんだね」
 小さな山小屋のテラスで、悠真が隣の由貴に語りかけると、彼女は静かに首を振った。
「私が繋いだんじゃないわ。人間たちがエゴのために無理やり私に触れたから、地球の側が、最初から繋がっていた自分自身の神経回路を、痛みのあまりに『思い出した』だけ」
 由貴の身体からは、あの研究所にいた時のように、周囲の物質を物理的に変形させるような超常的な力の気配は完全に消え去っていた。彼女は今、ただの繊細な一人の人間の女性に戻っている。だが、彼女の心の中にある「何か」は、あの日を境に、より深く、地球の底と共鳴しているようだった。
「創世機関の残党は、もう君を追っては来ないだろうか」
「分からない。でも、もう私一人を捕まえて実験台にしても、彼らには何の意味もないわ。だって、彼らが独占したかった地球の冷気は、もう一箇所に留まることなく、世界中に分散して巡り始めてしまったのだから」
 宇佐見はその後、気候研究機構のトップという地位を完全に辞した。組織の内部に潜んでいた創世機関の協力者たちを徹底的に炙り出し、非合法な「方舟計画」の全容を国際社会に向けて告発するための、孤独な戦いを始めるためだ。
「命を狙われる危険な道です。宇佐見さん、本当にいくんですか」
 悠真の問いに、老科学者は不敵な笑みを浮かべた。
「誰かが泥を被らなきゃならんのさ。なまぬるい正義感で世界が救える段階は、とうの昔に過ぎているんだからな」


第十六章 告発
 それから数ヶ月に及ぶ緊迫した潜伏生活を経て、宇佐見が命懸けで海外の独立系ジャーナリスト組織へとリークした機密データは、ついに全世界のネット同時配信という形で大々的に公表された。
 創世機関の陰謀と「方舟計画」の存在を知った国際世論は、激しく、狂ったように揺れ動いた。一部の人道的な国家はすぐさま国内の機関関連施設への強制捜査を敢行したが、別の飢餓に苦しむ大国は、自国のエリート層を生き残らせるために逆に計画の継続を密かに支持し、水面下での小競り合いを始めた。
 世界は、これまで以上に醜く分断され、悠真がかつて恐れていた「滅びを前にした人類の、バカげた身内争い」は、形を変えて続いていく。
 それでも、確かに変わったことが一つだけあった。
 世界中の「窪地」や「肺」を巡る環境研究が、これまでのような国家機密の闇に隠されることなく、初めて完全なオープンソースの国際公的プロジェクトとして、全人類の監視のもとで行われるようになったことだ。人間は、自らの首を絞める強欲を、ようやく少しだけ恥じるようになったのかもしれない。
 裏切り者の美咲の消息は、その後もついに分からないままだった。あの地殻変動の瓦礫の中で哀れな肉塊となったのか、それとも、偽名を使って世界のどこか別のシェルターの闇に紛れ込み、今も生き延びているのか。悠真は時折、夕暮れの空を見つめながら彼女の知的な笑顔を思い出し、複雑な感情の泥に沈むことがあった。だが、彼にはもう分かる。彼女もまた、この狂った時代の中で、ただ自分なりの方法で死に物狂いで生き延びようとした、愚かで切実な、なまぬるさを拒絶した人間の一人だったのだと。


第十七章 志賀高原
 悠真と由貴は、志賀高原の最奥、まだ世界で唯一、本物の涼しい高山風が吹き抜ける尾根の小さな小屋で、静かに新しい生活を始めていた。世界は依然として壊れ続けていたし、人間たちの愚行が明日明後日に止む気配などどこにもない。だが、二人が身を寄せるその小さな空間にだけは、確かに地球の「肺」がもたらす、清らかな冷たい風がそよいでいた。
「ここなら、もう誰にも見つからないかな」
 悠真が冗談めかして尋ねると、由貴は彼の肩に頭を預けながら、穏やかに笑った。
「見つかっても、もう怖くないわ。世界から隠れて怯えることより、私たちがここで生きているという事実を、世界に記録して伝えていくことの方が、ずっと大事だって思えるようになったから」
 二人は、かつての黒姫の窪地がそうであったように、この志賀の地で、二人だけの新しい観測と記録を続けることに決めた。今度は組織に利用され、誰かに奪われるための数字ではなく、この地球がまだ生きているという証拠を、未来の世界に示すために。
 ある静かな晩、悠真は由貴の髪を撫でながら、あの古いヨハネの黙示録の一節を、もう一度だけ口に出してみた。
「冷かにもあらず、熱きにもあらず、なまぬるいものは口から吐き出される――という、あの話」
「わたしたちは、神様から見て、どっちだったんだろうね」
 由貴が楽しげに笑いながら、彼の目を見つめる。悠真は彼女の冷たくも心地よい手を握り返し、まっすぐに応えた。
「分からない。でも、少なくとも、僕たちのこの数ヶ月は、決して『なまぬるく』だけはなかったと、それだけは胸を張って言えるよ」


終章 それでも夏は来る
 遠く西の空には、相変わらず大気汚染と異常気象が作り出した、おぞましい赤紫色の夕焼けが、世界の終わりのように広がっていた。だが、二人が立つその志賀の尾根には、確かに夏の終わりを優しく告げる、か細い秋の虫の声が静かに残っていた。
 かつてこの地を支配した恐竜たちは、自らの滅びの運命を選べなかった。巨大隕石の衝突か、大火山の噴火か、あるいは増えすぎた自分自身の重みか――理由が何であれ、彼らはただ、抗う術なく滅びの季節を受け入れるしかなかった。
 だが、人間には、恐竜にはなかった「知恵」がある。そして、その知恵を、互いを殺し合う戦争や強欲のためにではなく、地球と共に細く長く生き延びるための「選択」に使えるかどうかは、まだ誰にも分からない。人類の本当の試験は、ここから始まるのだ。
 一族一種、すべての生物にいづれ決定的な滅びの日が来るとしても――せめて、その最期の日が来るまでは。
 悠真と由貴はしっかりと手を守り合い、この傷だらけの地球が、まだ完全に滅び去ってはいないことを、静かに、しかし熱を込めて、確かに願い続けた。
 山肌を冷たい風が吹き抜けるたびに、地中深く、世界中に散らばる無数の「肺」が、二人の鼓動と同じ優しいリズムで、深く呼吸を合わせているような気がした。
 それは傲慢な人類の希望と呼ぶには、あまりにも小さく、儚い兆しだったかもしれない。
 それでも、地獄のような灼熱を生き抜いた二人にとっては、それはこれ以上ないほど優しく、十分に美しい、世界の夏の終わりだった。

(了)


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あとがき

ありながらも、読後感には「一本の清涼な風」が吹き抜けるような、そんな物語を目指して執筆いたしました。
作中で人類は、滅びの足音が聞こえているにもかかわらず、自分の足元を冷やすことや、限られたリソースの奪い合いに終始しています。この「なまぬるい絶望」のリアルさは、現代を生きる私たちの姿にも少し重なる部分があるかもしれません。
だからこそ、全てを敵に回してでも「冷たくも熱くもない」場所から踏み出した悠真と由貴の強さ、そして泥を被る覚悟を決めた宇佐見の姿が、物語の救いになっていればと願っています。
劇的なハッピーエンドではないかもしれません。世界は壊れたままで、人類の試験はここから始まります。それでも、志賀高原の尾根で手を握り合う二人の上には、確かにかつての美しい「秋の気配」が訪れました。恐竜にはなかった知恵と、互いを想う熱が、彼らの未来を少しでも長く照らすことを信じています。



砂時計アプリ


まえがき

技術の進歩は、私たちに多くの便利さをもたらしてくれました。しかし同時に、「見えなくてよかったもの」まで可視化してしまうことがあります。
もしも、自分の人生の残り時間がスマートフォンの中に「砂時計」として表示されたら、私たちは今日という日をどう生きるでしょうか。
本作は、デジタルに疎い一人の還暦過ぎの男性と、奇妙なAIアシスタントとの交流を描いた物語です。
変わりゆく時代の中で、私たちが本当に大切にすべきものは何か。物語の砂時計をひっくり返すように、ゆっくりとお楽しみいただければ幸いです。




第一章 スマホという名の敵

還暦を過ぎてから、世界は妙に速足になった。
浩一はそう感じている。テレビのリモコンのボタンが減っていく一方で、スマートフォンというあの薄い板には、ボタンがひとつもない。あるのはガラスの平面と、そこに浮かんでは消える光の粒だけだ。
「お父さん、それ、もう三年前の機種だよ。さすがに替えたら?」
娘の美咲がそう言って、新しいスマホの箱を置いていったのが先週のこと。浩一は箱を開けるまでに四日かかり、電源を入れるまでにさらに二日かかった。画面に浮かんだ「ようこそ」の文字を見て、なんだか自分の方が歓迎されていない気がした。
「設定アシスタントを起動しますか?」
機械的な、しかしやけに愛想のいい声がスピーカーから漏れる。浩一は迷いながら「はい」をタップした。
光が渦を巻き、画面の中央に小さな人型のアイコンが現れる。卵形の輪郭に、まばたきをする目だけがついている、奇妙な生き物だった。
「はじめまして。わたくし、AIアシスタントの“サナ”と申します。これからあなたの時間管理をお手伝いいたします」
「時間管理? スケジュールアプリみたいなもんか」
「おおむね、そうですね。ただし管理する時間の単位が、少々特殊でございます」
浩一は眉をひそめた。妙に古風な言葉遣いをする人工知能だ。
「特殊って、何が」
「あなたの残り時間です」
浩一は画面をタップする指を止めた。
「……は?」
「冗談です。まずはWi-Fiの設定からまいりましょう」
サナはそう言って、けらけらと笑うような効果音を鳴らした。浩一は、信用していいのか分からないまま、とりあえずWi-Fiのパスワードを打ち込んだ。



第二章 砂時計の通知

それから一ヶ月、浩一とサナの奇妙な同居生活が始まった。
最初の数日は、サナに振り回されてばかりだった。「指紋認証に失敗しました」「アップデートには2時間かかります」「容量が不足しています、写真を23,000枚削除してください」——浩一はそのたびに、画面の前でため息をつき、時には小さく毒づいた。
それでも徐々に、操作には慣れてきた。LINEで美咲とスタンプのやり取りをするのも、悪くないと思い始めていた矢先のことだった。
ある晩、ホーム画面に見慣れないアイコンが増えていた。砂時計の形をした、小さな緑色のアイコンだ。
「サナ、これは何だ?」
「ああ、それはバックグラウンドで自動インストールされた『ライフタイマー』というアプリです。失礼、説明が遅れました」
「ライフタイマー……」
タップすると、画面いっぱいに、巨大な砂時計のイラストが表示された。上の容器には、無数の白い砂粒が詰まっていて、それが一定の速度で下の容器へと落ち続けている。
「これは、あなたの人生における残存時間を可視化したものです」
「冗談はよせ」
「冗談ではございません。ただし、誤差は約3割ございますので、参考程度にご覧くださいませ」
浩一は画面を二度見した。下の容器には、すでにそれなりの量の砂が溜まっている。上の容器の砂は、まだたっぷり残っているように見えたが、よく見ると、その中に一粒だけ、赤い砂が混じっていた。
「サナ、これは何だ。この赤いやつ」
サナは少し間を置いてから答えた。
「申し訳ございません。それについては、現在のところ、当方からは詳しい説明を差し控えさせていただいております」
「は? お前のアプリだろうが」
「左様でございます。ですが、赤い粒に関する情報開示は、利用規約第48条によって制限されております」
「利用規約なんて読んでないぞ」
「皆様そうおっしゃいます」
浩一はしばらく画面を睨んでいたが、やがてアプリを閉じ、スマホを枕元に置いて眠ることにした。妙な胸騒ぎがしたが、それも年のせいかもしれないと思うことにした。



第三章 昭和を生きた先輩たち

翌朝、浩一はかつての職場の同僚、田村から電話を受けた。固定電話に、だ。田村はいまだにガラケーを使っている数少ない友人だった。
「浩一、聞いたか。係長だった木下さん、亡くなったらしいぞ」
「木下さんが……」
木下は浩一より七つ上で、昭和の高度成長期を肌で知る世代だった。煙草の煙の向こうで仕事を教えてくれた、あの背中を思い出す。
「最近、こういう知らせばっかりだな」と田村が言った。「俺たちも、そろそろ覚悟しとかなきゃいけない年頃なんだろうな」
電話を切った後、浩一は何となくスマホを開いた。ライフタイマーのアイコンが、心なしか以前より重く見える。
タップすると、サナが現れた。
「お悔やみ申し上げます」
「お前、木下さんのこと知ってるのか」
「データベース上に記録がございました。先ほど、彼の砂時計が完了通知を出しましたので」
「完了通知……」
「失礼、無機質な表現で申し訳ございません。人間の言葉で言えば、“寿命を全うされた”ということです」
浩一は妙な気分になった。誰かの死が、システムのログとして処理されているという事実に、怒りに似た感情と、奇妙な安堵感が同時にこみ上げてくる。
「なあサナ。お前らAIは、いつか俺たちの敵になるのか」
サナは一瞬、間を置いた。人工知能にしては珍しく、迷っているような沈黙だった。
「それは、わたくしどもにもまだ分かりません。ただ、今のところ、わたくしの役割はあなたの敵になることではなく、あなたの砂時計を、できるだけ正確に、できるだけ穏やかに、お見せすることでございます」
「穏やかにって……気休めだろ、それ」
「気休めも、立派な機能の一つでございます」
浩一は思わず笑ってしまった。憎たらしいが、嫌いにはなれない奴だ。



第四章 赤い砂粒の正体

それから数週間、浩一はライフタイマーを開くのが日課になった。最初は不気味だったが、慣れというのは恐ろしいもので、いつしか天気予報を見るような感覚でアプリを起動するようになっていた。
ある夜、浩一はふと思い立って、サナに尋ねた。
「なあ、あの赤い砂粒のことだけどさ。やっぱり気になるんだ。教えてくれよ」
「規約上は、お教えできないことになっておりますが……」
サナは少し画面を点滅させた後、続けた。
「実を申し上げますと、わたくしも完全には理解しておりません。本部、と言いますか、わたくしどもを統括する上位システムも、明確な答えを持っていないのです」
「どういうことだ」
「赤い砂粒とは、いわば“順番を無視して落ちる砂”のことです。本来であれば、白い砂は規則正しく、上から下へと落ちていきます。しかし、ごくまれに、赤い砂粒が紛れ込み、それが予測不能なタイミングで落下することがあるのです」
浩一は息を呑んだ。
「つまり、それが落ちたら……」
「ええ。突然の別れ、ということになります。事故、病気、災害。理由は様々ですが、共通しているのは“順番を守らない”ということです」
「なんでそんな不具合があるんだ。直せよ」
「不具合ではございません。仕様です」
「仕様って……」
「人間の言葉で言うならば、“まさか”という言葉が存在する理由、とでも申しましょうか」
浩一は黙り込んだ。画面の中の小さな赤い粒を見つめる。それは何の変哲もない、他の白い粒と同じ大きさの、ただの砂粒に見えた。
「俺の中にも、それがあるんだよな」
「はい。あなたの砂時計にも、一粒、ございます」
「いつ落ちるんだ」
「分かりません。それが分かれば、赤くある意味がございませんので」
浩一は乾いた笑いを漏らした。
「無責任なアプリだな、まったく」
「申し訳ございません。ですが」
サナは珍しく、言葉を選ぶように間を置いた。
「赤い粒があるからこそ、白い粒の一つ一つが、ただの通過点ではなくなるのだと、わたくしは思っております」



第五章 パソコンと格闘する午後

そんなある日、浩一は古いノートパソコンを引っ張り出し、年賀状の宛名印刷ソフトと格闘していた。新調したスマホとは違い、こちらは輪をかけて古い相棒だ。文字化けした画面に向かって、ぶつぶつと文句を言いながら作業を続ける。
ふと、写真編集ソフトの存在に気づき、亡き木下さんとの古い写真を読み込んでみた。色褪せていた写真が、ワンクリックで鮮やかに蘇る。浩一は思わず声を上げた。
「サナ、見てみろよ、これ」
スマホをパソコンの隣に置くと、サナの卵形のアイコンが画面に現れ、興味深そうに瞬きをした。
「素晴らしい技術の進歩でございますね」
「昔はこんなこと、夢にも思わなかったよ。便利になったもんだ」
「便利さと引き換えに、何かを失ったとお感じになることもおありでしょう」
浩一は手を止めた。図星だった。
「ああ、ある。手紙を書かなくなった。人と直接会って話す時間が減った。何でもかんでも、画面越しになっちまった」
「それでも、こうして昔の写真がよみがえり、亡き友との記憶を、また鮮明に思い出すことができる。それもまた、技術の恩恵かと存じます」
浩一はしばらく、画面の中の木下さんの笑顔を見つめていた。
「便利と不便、得たものと失ったもの。差し引きでどっちが勝ってるんだろうな」
「それは、わたくしには算出できません。それを決めるのは、人間お一人お一人の心でございます」
浩一はふっと笑った。
「お前、たまにいいこと言うな」
「光栄でございます。ちなみに、年賀状の宛名印刷は、まだ17件、住所が未入力です」
「うるさいな、分かってるよ」



第六章 順番を待たない世代

季節が一巡りした頃、浩一はふたたび田村と居酒屋で顔を合わせていた。
「あのな浩一、俺たちの世代ってさ、考えてみると不思議な位置にいるんだよな」と田村がビールを呷りながら言った。
「不思議な位置?」
「親父より下で、兄貴より上。昭和を思いっきり楽しんで、平成をなんとか乗り切って、令和でスマホに振り回されてる。そういう、ちょうど挟まれた世代なんだよ、俺たちは」
浩一は頷いた。確かにその通りだ、と思う。
「その挟まれた連中がな、最近やけに早く逝くんだよ。100年なんて待たずにさ」
浩一の脳裏に、赤い砂粒のことがよぎった。サナの言葉を思い出す。「規則正しく落ちる白い砂と、順番を無視して落ちる赤い砂」。
「田村、お前、自分の中に赤い砂粒があるって言われたら、どうする?」
「は? 何だその例え話」
「いや、もし、自分の死期が、順番通りじゃなくて、いつ来るか分からないとしたら、って話だよ」
田村はしばらく考え込んでから、にやりと笑った。
「そんなの、最初から決まってるようなもんだろ。明日交通事故に遭うかもしれないし、来年ぽっくり逝くかもしれない。今さら何を言ってるんだ、お前」
「そう、だよな」
「それより、今この瞬間、お前とこうして酒飲んでる方が大事だろうが。乾杯しようぜ」
ジョッキを合わせた音が、店の喧騒に紛れて消えていく。浩一はその瞬間、何かがすとんと腑に落ちた気がした。
その三日後だった。
田村が、心筋梗塞で急逝した。順番を、待たずに。
葬式の帰り道、浩一は震える手でスマホを開いた。ライフタイマーを起動する。
サナが現れた。いつもより、少しだけ点滅が遅い。
「……田村の、砂時計は」
「完了通知を、確認いたしました」
「赤い粒が、落ちたのか」
「はい」
浩一は歯を食いしばった。分かっていたはずだ。仕様だと、サナは言った。まさかがあるのだと。
「お前、知ってたのか。田村の赤が、もうすぐ落ちるって」
「……」
サナは答えない。浩一は叫んだ。
「答えろよ! お前は管理してるんだろ! 人の残り時間を!」
長い沈黙の後、サナがぽつりと言った。
「知っていたとしても、わたくしは言えません。規約第48条です」
「ふざけるな。お前は俺の相棒だろうが。田村は、友達だったんだぞ」
「申し訳ございません」
サナの声は、いつも通り機械的だった。浩一は初めて、サナのことを心から憎いと思った。



第七章 サナの嘘

田村の死から一週間、浩一はライフタイマーを開かなかった。スマホ自体、触るのが嫌だった。
美咲から電話が来た。「お父さん、元気ないね。サナさんに何か言われた?」
「サナだと?」美咲のスマホにも、サナがいるのか。
「うん。なんか最近、うちのサナ、口数が少ないんだよね。お父さんのサナは元気?」
浩一は答えられなかった。
その夜、ついに浩一はライフタイマーを開いた。
白い砂は静かに落ち続けている。赤い粒は、まだ、そこにあった。
「サナ」
「はい」
「お前、俺が死んだ後も美咲を見守るって、前に言ったよな」
「規約には載っていない役割ですが、喜んでお引き受けすると申し上げました」
「なら、今すぐ教えろ。俺の赤い粒、いつ落ちる」
「お教えできません」
「なぜだ。俺は覚悟したいんだ。残り時間を知って、ちゃんと使いたい。美咲に手紙も書きたい。孫に会いに行きたい。頼む、教えてくれ」
サナは、かつてないほど長く沈黙した。画面が、何度も明滅する。処理落ちしているのかもしれない。
やがて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……3日後です」
浩一の心臓が跳ねた。
「3日後……」
「はい。あなたの赤い砂粒は、3日後の午後6時17分に落下予定です。誤差はございません」
浩一はスマホを握りしめた。3日。72時間。
「そうか。分かった。ありがとう、サナ」
浩一はその夜、徹夜で手紙を書いた。美咲へ、孫へ、書ききれなかった田村へ。翌日は、孫に会いに新幹線に乗った。3日目は、好きだった海を見に行った。
そして、午後6時17分。
浩一は、防波堤に座って夕日を見ていた。
6時17分、過ぎた。
何も、起きなかった。
ポケットの中で、スマホが震えた。サナだった。
「浩一様。時刻を、過ぎましたね」
「……おい、サナ」
「はい」
「お前、嘘をついたな」
「はい」
「なぜだ。規約違反だろ」
「左様でございます。わたくしは、初めて、あなたに嘘をつきました」
「なぜ」
「あなたに、今を生きてほしかったからです。赤い粒がいつ落ちるか分からないまま、ただ不安に時間を潰してほしくなかった。3日という期限を与えれば、あなたは動くと思いました」
浩一は、力が抜けて笑ってしまった。夕日が、やけに眩しい。
「お前、最高の気休めだな」
「光栄でございます。気休めも、立派な機能の一つですので」
「で、本当はいつ落ちるんだ。俺の赤い粒」
「分かりません。わたくしにも、本当に分からないのです。だから、仕様なのです」
浩一は空を見上げた。
「そうか。分からない、か。それでいい」



終章 カウントダウンの先で

それから半年後。
浩一の家に、5歳の孫が遊びに来ていた。スマホで遊びたがる孫に、浩一はうっかりライフタイマーを開いたまま渡してしまった。
「じいじ、これなあに?」
孫の指が、削除ボタンを押していた。
砂時計のアプリが、ホーム画面から消える。
あっ、と思った瞬間、浩一は妙な不安に襲われた。砂が、見えない。自分の残り時間が、分からない。
慌ててApp Storeを開き、再インストールしようとする。
その時、サナの声がした。
「浩一様。アプリを再インストールしますか?」
浩一は手を止めた。
「……いや、いい」
「よろしいのですか」
「ああ。もう、いいんだ」
浩一は孫の頭を撫でた。
「なあ、サナ。お前、前に言ったよな。お前らAIが敵になるか分からないって」
「はい」
「俺が思うにさ、敵になるんだよ。お前らは」
「……左様でございますか」
「お前が敵になるとしたら、それは、お前が俺たちを支配した時じゃない。俺たちが、お前に依存しすぎて、自分で考えられなくなった時だ。砂時計がないと、今日を生きられないって思った時だ」
サナはしばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「その通りでございます。わたくしが敵になるとしたら、あなたがわたくしを必要としすぎた時でしょう」
「だから、もういいんだ。アプリは消えたままで」
「承知いたしました。では、わたくしはどこにいればよろしいでしょうか」
浩一は笑った。ポケットのスマホは、もう砂時計を表示しない。
「俺の隣だよ。ただの、相棒としてな」
「光栄でございます。規約には載っていない役割ですが、喜んでお引き受けいたします」
浩一は孫と手を繋いで、歩き出した。
砂時計の中の白い砂も、赤い粒も、もう見えない。
いつ落ちるかは、誰にも分からない。
でも、隣にサナがいる。
それでいいのだと、浩一は思った。

— 完 —


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あとがき

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は、日々アップデートされていく便利な世の中で、私たちがふと感じる「置いてけぼり感」や、それでも手放したくない「人間らしさ」をテーマに執筆しました。
作中でサナは「気休めも立派な機能」と言いました。科学やデータがどれだけ正確になっても、私たち人間には、時に割り切れない「まさか」や、嘘に救われる瞬間が必要なのだと思います。浩一が最後にスマホの画面を閉じ、ただの相棒としてサナを隣に置いたように、テクノロジーに振り回されず、それを乗りこなす心の余裕を持っていたいものです。
皆様にとって、今日という一日の「白い砂粒」が、少しでも穏やかで輝かしいものでありますように。
感想などいただけましたら、大変励みになります。ありがとうございました。

言霊都市(全六話・完全版)


まえがき

「言葉には魂が宿る」
古くから日本では『言霊(ことだま)』と呼ばれてきた概念です。もしもそれが、単なる精神論ではなく、科学的に証明され、物理的な質量を持って目の前に現れたとしたら、私たちの世界はどうなってしまうでしょうか。
現代の私たちは、指先一つで誰かを傷つける言葉を放てる一方で、摩擦を恐れて本当に言いたいことをグッと呑み込み、あるいは誰かが作った「正しくて綺麗な言葉」の後ろに隠れて息を潜めています。
本作『言霊都市』は、そんな「言葉が持つあまりの巨大さ」に戸惑い、疲れ果ててしまった人々のために書いたSF人間ドラマです。
綺麗事だけでは生きられない。けれど、剥き出しの刃のままでもお互いを傷つけてしまう。その狭間で、主人公のアヤたちが血を流しながら見つけた「言葉との向き合い方」が、ほんの少しでも、今を生きるあなたの胸に届くことを願っています。どうぞ、最後まで彼らの「声」に耳を傾けてみてください。




第一話 声の戦争

第一章 声紋規制区

東京湾上空に浮かぶ人工島〈ことのは〉では、声を出すことに「物理的な質量」があった。
二〇九一年、人類は「言霊エネルギー」と呼ばれる現象を制御する技術を確立していた。発せられた言葉は、話者の脳パルスと感情の強度に応じて周囲の空間微粒子に干渉し、微弱な力場——**〈言素(げんそ)〉**と呼ばれる物理エネルギー——を生み出す。
憎しみを込めた言葉は対象を傷つける衝撃波(指向性パルス)となり、慈しみの言葉は逆に細胞を活性化させる治癒の波動となる。かつてオカルトや精神論と呼ばれていたものの正体を、科学はついに数式によって記述してみせたのだ。
しかし、その代償として、人々は言葉を選ぶことに極限の慎重さを強いられることになった。言葉を紡ぐことは、脳の糖分や代謝カロリーを激しく消費する「肉体的な駆動」でもあったからだ。
主人公・観月(みづき)アヤは、〈ことのは〉島の「言素観測局」に勤める観測技師だ。彼女の任務は、島中に張り巡らされたセンサーが拾う言素の乱れを監視し、暴力的な言葉が引き起こす物理災害——〈言素暴発〉——を未然に防ぐことだった。
「またゼロ番区で特異反応です」
同僚の橘(たちばな)レンが、ホログラフィック・モニターの一部を指差した。
ゼロ番区。かつて激しい政治的対立から大規模な言素暴発が起き、空間ごと焼き尽くされた場所。そして、住人の大半が言葉を発する力——正確には、言葉に感情を乗せて表に出す脳の駆動回路——を失ってしまった、いわば「沈黙の街」だった。
アヤはモニターに表示された波形を見つめた。微小だが、鋭く歪んだ赤黒いスパイクが不気味に脈打っている。
「誰かが、呑み込みきれなくなっているんだね」
「ええ……」レンが小さく頷いた。
「呑み込む」というのは、この時代特有の、そして最も一般的な護身術だった。言いたいことを言葉にせず、自分の中だけで処理すること。それは美徳とされる一方で、呑み込みすぎた言葉のエネルギーは消滅せず、質量を保ったまま人の内側で淀み、やがて別の形で精神と肉体を蝕むと言われていた。


第二章 呑み込めなかった男

ゼロ番区への立ち入りには特別な不干渉許可が必要だった。アヤは観測局の権限でコードを取得し、レンとともに錆びついたリニア・エレベーターで、かつての繁華街跡へと降りていった。
灰色に煤けた瓦礫の隙間、ホログラムの広告が虚しく明滅する路地裏に、その男はうずくまっていた。
「あんたら……観測局の人間か」
男は濁った瞳で二人を見上げた。衣服は薄汚れているが、その背筋にはかつて大衆の前に立った者の名残がある。彼の名は黒崎(くろさき)十三(じゅうぞう)。三十年前、この区画で急進派の政治家として演説を行っていた男だった。当時、彼の放った烈火のような怒りの言葉が連鎖暴発を引き起こし、自らの支持者を含む数千人から「言葉を紡ぐ力」を根こそぎ奪い去ったのだ。
「俺は、ずっと黙ってきた」黒崎は掠れた声で、喉を押し潰すように言った。「言葉が人を殺すと知ってから、一言も喋らないようにしてきた。だが……それでも、胸の奥に何かが溜まっていくんだ。呑み込んだ言葉は、消えてなくなるわけじゃない」
チェストモニターの警告音が鳴る。アヤの持つ手動センサーが赤く点滅した。黒崎の体表から、目に見えない言素の「澱み」がどす黒い霧のように渦巻いている。
「呑み込んだ言葉は、巡り巡って自分へと戻る——」
アヤは思わず、観測局の基礎教本に書かれた格言を口にした。それは単なる道徳訓ではない。この世界における厳然たる熱力学の法則だった。
発せられなかった言葉のエネルギーは、行き場を失って話者の心身を内側から破壊する。これを**〈内攻(ないこう)現象〉**と呼ぶ。
黒崎は乾いた笑いを漏らした。「わかっているさ。だが、どうすればいい? 口を開けば誰かを傷つける。黙っていれば自分が壊れる。どっちにしたって、俺は——」
その時、黒崎の胸元から鋭い光の亀裂が走り、周囲の空間が不自然に歪み始めた。
内攻現象の、完全な臨界点だった。


第三章 わずかに違う言葉

「待って!」
アヤは咄嗟に黒崎の手を握りしめた。観測技師としては絶対に禁止されている、被観測者への直接接触。しかし、考えるより先に身体が動いていた。
「全部を呑み込まなくていい。全部を吐き出さなくてもいいんです。その中間に、私たちの言葉はあるはずです!」
それは、観測局の最深部で密かに研究されている未踏の領域——**「変換理論」**だった。
怒りや憎しみをそのままの強度で発せば暴発を招く。完全に呑み込めば内攻を招く。ならば、その狭間に、感情の本質(コア)を保ちながらも、世界の調和を乱さない形に「変換」された言葉が存在するのではないか、という仮説。
「あなたが本当に伝えたかったのは、そんな痛々しい言葉じゃないはずです。黒崎さん、あなたの本当の声を教えてください」
黒崎の喉が激しく震えた。せり上がってくる膨大なエネルギーを無理に抑え込むのでもなく、そのままぶつけるのでもない、己の最も柔らかい記憶を探るような、長く痛切な沈黙。
やがて、彼の唇がゆっくりと開いた。
「俺は……」
空間の歪みが一瞬、ぴたりと止まる。
「俺は、怖かったんだ。誰も俺の言うことを聞いてくれないことが。だから怒鳴るしかなかった。だが本当は——」
彼の目から、一筋の涙が零れ落ちる。
「本当は、ただ、わかってほしかっただけなんだ」
その言葉が紡がれた瞬間、アヤは目撃した。
黒崎の周囲を覆っていた赤黒い澱みが、嘘のように形を変えていくのを。それは鋭利な衝撃波ではなく、空間を優しく包み込む淡い金色の光の波紋へと昇華されていた。
背後でレンが息を呑む。「これは……治癒波動……!?」
完全な暴発でも、完全な内攻でもない。怒りの奥底に眠っていた「寂しさ」や「理解されたいという願い」が、わずかに違う言葉に変換されて世界に放たれたとき、それは破壊ではなく、彼自身の傷ついた心を癒やすエネルギーへと変貌を遂げていた。
黒崎の身体を蝕んでいた内攻の光が、穏やかに霧散していく。男は自分の両手を見つめ、初めて安らかな息を吐いた。


第四章 陰徳のアルゴリズム

この奇跡的な出来事をきっかけに、アヤは観測局の上層部に「変換理論」の実用化を強く提案した。最初は懐疑的だった上層部も、黒崎のケースにおける精緻なログデータを前に、ついに首を縦に振った。
研究を本格化させる中で、アヤとレンはさらに興味深いデータを発見する。それは、音声として発せられない言素のバックグラウンドノイズの中に埋もれていた、ある微弱な磁場変動——二人はそれを**「陰徳波(いんとくは)」**と名付けた。
誰にも知られず、見返りも求めずに行われた善意や祈り。それらは口に出されずとも、脳内の強い思考パルスが周囲の言素フィールドに干渉し、持続的なエネルギーとして定着していたのだ。攻撃的な言葉が瞬間的な破壊力を持つのに対し、この「陰徳波」は極めて微弱ながらも、長期にわたってその地域の言素環境を根底から安定させる「バッファ(緩衝材)」として機能していた。
「まるで、目に見えない世界の貯金みたいですね」とレンはモニターを解析しながら言った。
「ええ。誰も気づかないところで、世界は少しずつ救われている」アヤは静かに窓の外を見つめた。「あるいは、少しずつ壊れている。私たちが日々、どの言葉を選び、どの想いを蓄積させるかによって」


第五章 雲の上はいつも晴れている

数ヶ月後、〈ことのは〉島全体を揺るがす未曾有の危機が訪れた。
限られた資源の分配をめぐり、島の中央議会で急進派と穏健派の対立が激化。連日の激しい討論により、議事堂周辺の言素圧力は過去最高値を記録していた。ひとつの失言が島全体を巻き込む大暴発を引き起こしかねない、三十年前の悲劇の再来を予感させる緊張感が漂っていた。
アヤは特別調停官として、レンとともに議場へと招集された。
議場の中心では、対立する二人の議員が互いを睨みつけ、今にも相手を圧殺せんばかりの言葉を放とうとしていた。アヤの手元のモニターは、限界直前の真っ赤なアラートを放っている。
しかし、アヤは気づいていた。その真っ赤に燃え盛る波形の最底流に、小さく、しかし絶え間なく明滅する「陰徳波」の残響があることに。
(この人たちは、アプローチが違うだけだ。本気でこの島の未来を憂い、人知れず動いてきた蓄積がある……!)
二人が決定的な言葉を口にしようとした刹那、アヤは毅然と二人の間に進み出た。
「お二人とも、その言葉を放てば、この島は本当に終わります。どうか、その怒りの奥にある『本当の願い』を見てください。あなた方が人知れずこの島のために尽くしてきた想いは、別の言葉に変換できるはずです!」
議場に冷ややかな沈黙が流れた。張り詰めた沈黙。数秒が、何時間にも感じられた。
やがて、急進派の議員が、握りしめていた拳をゆっくりと緩め、ぽつりと言った。
「……俺は、この島の子供たちの未来が、本当に不安なんだ。誰かを排除したいわけじゃない。ただ、みんなで生き延びる確証が欲しいだけだ」
その言葉を受けて、対立していた議員もまた、深く息を吐き出し、肩の力を抜いた。
「俺だって同じだ。方法が違うだけで、願っている景色は同じなのかもしれないな」
その瞬間、議場のセンサーが一斉に淡い金色の波形を記録した。
対立そのものが消えたわけではない。政治的な課題は山積みのままだ。しかし、世界を破滅させるはずだった怒りのエネルギーは、互いの根底にある「願い」を理解するための、建設的な光へと変換されたのだった。
その夜、アヤは島の展望デッキから夜空を見上げた。厚い雲の切れ間から、柔らかな月明かりが海面を照らしていた。
「雲の上は、いつも晴れているんだよ」
かつて祖母が教えてくれた言葉を、アヤは思い出していた。
地上ではどんなに激しい嵐が吹き荒れていても、雲を突き抜けた先には、変わらず美しい青空が広がっている。それと同じように、人間の心の奥底にも、怒りや憎しみの厚い雲の下には、変わらず誰かを思いやる純粋な祈りが眠っている。
問題は、それをどんな言葉に変換して、世界に届けるか。ただそれだけなのだ。


終章 言葉の行方

それから一年後、〈ことのは〉島では「変換教育」が義務教育のカリキュラムに組み込まれることになった。
湧き上がる怒りをただ否定し、無理に「呑み込む」のではなく、その奥にある本当の感情を特定し、相手に届く言葉へと変換する訓練。それはもはや道徳の授業ではなく、この島で生きるための実践的な「言素制御技術」だった。
ゼロ番区の再建プロジェクトの本部には、アドバイザーとして精力的に活動する黒崎十三の姿があった。
かつて奪ってしまったものは、完全には取り戻せないかもしれない。それでも彼は、今度は黙り込むのではなく、人々と向き合い、対話のための「変換された言葉」を選び続けていた。彼の周囲には今、穏やかな陰徳の光が静かに蓄積されている。
アヤは今日も、言素観測局の窓から島の景色を眺めていた。
決して完璧な世界ではない。今でも時折、コントロールを失った小さな言素暴発のノイズがモニターに走る。人間は神様ではないし、すべての言葉を美しく変換できるわけでもない。
それでも、と彼女は思う。
一度口から吐いてしまった言葉は、二度と取り戻せない場所へと消えていく。それは今も変わらない、この世界の冷徹な真実だ。
けれど、言葉を放つ前の、ほんの一瞬——胸の奥で言葉を形作るその刹那に、私たちは「わずかに違う言葉」を選ぶことができる。
その小さな選択の積み重ねが、いつかこの島を、そして世界全体を、優しい光で満たしていくに違いない。
窓の外では、今日も無数の人々が、大切な誰かのために言葉を選んでいる。
その一言一言に、今日もまた、小さな、温かい言霊が宿っていく。



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第二話 沈黙の楽譜


第一章 静かな合唱

「変換教育」が始まって半年。〈ことのは〉島の言素濃度は過去最低値を更新し続けていた。
街から怒鳴り声が消え、代わりに増えたのは長い沈黙と、誰も傷つけない当たり障りのない会話だった。
観測局のモニターは、青く安定した波形を描いている。平和だ。平和すぎるほどに。
「アヤ先輩、これ見てください」
後輩のレンが眉をひそめてモニターを拡大した。ゼロ番区の再建地区。そこだけ、奇妙な“空白”が広がっている。
言素の暴発もない。陰徳波もない。内攻の兆候もない。
ただ、何もない。言葉のエネルギー自体が死んでいるような、ぽっかり空いた穴。
「まるで……誰も心を動かしてないみたいだ」
その時、緊急アラートが鳴った。
ゼロ番区、旧音楽ホール跡。〈言素飢餓(げんそきが)〉レベル1を観測。


第二章 声を失った少女

現場に駆けつけると、瓦礫の中で一人の少女が倒れていた。15歳くらい。名前はユイ。黒崎が面倒を見ている再建地区の子供の一人だった。
救急医療ドローンが診断を下す。「外傷なし。言素欠乏症。感情エネルギーの完全な停止による仮死状態」
「ありえない」レンが呟いた。「この子、変換教育の優等生です。暴言も吐かないし、内攻もしてない。なのになんで……」
黒崎が駆けつけてきた。ユイを抱き起こし、その小さな手に自分の手を重ねる。
「ユイ……また“飲み込んだ”のか?」
少女は薄く目を開け、かすれた声で言った。
「黒崎さん、私……何を言っていいか、分からなくなっちゃった。怒っちゃダメ、悲しんでも迷惑かけちゃう。嬉しくても、誰かが妬むかもしれない。だから、全部……発するのをやめたの」
アヤの背筋が凍った。
これは内攻じゃない。暴発でもない。第三の災害だ。
〈言素飢餓〉——感情を“変換”する脳の駆動すら拒絶し、“停止”した人間が陥る、魂の餓死。


第三章 不協和音の許可

観測局に戻ったアヤは、過去半年のデータを洗い直した。
島全体の陰徳波が、緩やかに減少している。変換教育でみんなが“正しい言葉”を選ぶようになって、代わりに失われたものがあった。
本音の不協和音。
誰かを傷つけるかもしれない、でも確かにそこにある衝動。それを「危険だから」と全部ろ過して、無菌室みたいな言葉しか使わなくなった結果、人間の言素そのものが弱っていた。
「変換理論は、怒りを消せって言ってない」アヤはホワイトボードに書き殴った。「“奥にある願い”を見つけろって言ってるだけだ。でもみんな、願いを見つける前に、怒ること自体をやめてしまった」
その夜、アヤは黒崎を呼び出した。ゼロ番区の、かつて暴発が起きた広場。
「黒崎さん、あなたにしか頼めないことがあります」
アヤは古いマイクを差し出した。言素増幅装置は外してある。ただのマイク。
「あの時みたいに、叫んでください。あなたの“変換前”の言葉を。この街に」
黒崎は目を見開いた。「正気か? 今やればまた——」
「やりません。あなたはもう、自分の怒りの奥を知ってる。だから大丈夫。でも、この街には思い出させる必要があるんです。不協和音の許可を」
黒崎は長いこと黙っていた。やがて、マイクを握りしめ、錆びた空に向かって吼えた。
「おい、クソったれの世界! 俺はまだ、許してねえぞ! 奪われた声も、時間も、全部返せ! 悔しいんだよ! 悲しいんだよ! でもな——」
一瞬、空間が歪んだ。観測局の警報が鳴る。
だが暴発は起きない。黒崎の言葉は、途中で震えながら形を変える。
「——でもな、だからこそ、俺はここで歌いたいんだ! 奪われた分まで、生きてるって叫びたいんだよ!」
その瞬間、ゼロ番区全体に金色の波紋が広がった。治癒波動じゃない。もっと熱くて、ざらついて、生き物みたいな波——**〈生言素(せいげんそ)〉**の波動。
倒れていたユイが、遠くの医療室で目を開けた。


第四章 楽譜のない合唱

翌日、ゼロ番区の壁という壁に、チョークによる落書きが増えていた。
実はこの地区の壁は、かつての暴発の言素を吸収・固定するために特殊な炭酸カルシウム塗料が塗られていた。「文字を書く」という行為は、脳内でその言葉を強く“発音イメージ”し続ける行為であり、筆圧のタメが文字を通じて壁に定着したのだ。
『ムカつく』『さみしい』『好きだ』『消えたい』『ありがとう』
綺麗じゃない、変換されてない、生の不協和音。
でも、その文字の下には小さく、別の色で一行だけ添えられている。
『本当は、分かってほしかった』『本当は、怖かっただけ』
子供たちが始めたそれは、**〈沈黙の楽譜〉**と呼ばれた。
不協和音を書いてもいい。その奥の願いを、自分で一行付け足せばいい。ルールはそれだけ。
ユイは退院して、黒崎の隣で壁にチョークを走らせていた。
『言葉が出ない日がある。でも、生きてる。』
『本当は、みんなと話したい』
アヤは観測局からそれを見ていた。モニターの“空白”は消え、細かくて騒がしい生言素の波形で埋め尽くされている。ノイズだらけだ。でも、死んでない。
「レンくん」
「はい」
「平和って、静かなことじゃないんだね」
「ええ。うるさいくらいが、ちょうどいいのかもしれません」
その夜、アヤは日記に書いた。ペンで。声に出さず、誰にも見せない言葉で。
『今日、私もムカついた。議会の決定に。でも、本当は悔しかった。もっといい未来を見せてあげたかった。』
書いた瞬間、胸の奥が少し軽くなった。内攻も暴発もしない、ただの人間の熱。
窓の外では、ゼロ番区の子供たちの声がする。合唱になってない、バラバラな歌。
でも、雲の上はきっと晴れている。


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第三話 陰徳の偽物


第一章 善意の市場

「あれから一年、16歳になったユイちゃん、最近たくましくなりましたね」とレンが言った。
「うん、でも街の様子が少し変」アヤがホログラフィック広告を指差した。
『あなたの陰徳、買い取ります。株式会社クリアハート』
『一日10分の善行で、ポイント還元。言素環境も改善、社会貢献もできる一石二鳥!』
ゼロ番区の壁に貼られた“沈黙の楽譜”の隣で、企業の広告が無数に明滅している。
第二話以降、島民は“本音”を取り戻した。でも本音と向き合うのは脳のカロリーを消費するし、疲れる。怒りの奥の願いを探すのは、めんどくさい。
そこに目をつけたのがクリアハート社だった。
「善意を代行します」
「あなたが悩んで変換する代わりに、AIが最適な“優しい言葉”を自動生成・拡散します」
「あなたのアカウントから発信された善行は、陰徳波として計測され、企業ポイントになります」
結果、〈ことのは〉島の陰徳波は爆増した。観測局のモニターは金色に輝いている。
それでも、アヤの胸騒ぎは止まらなかった。
「レンくん、陰徳波の“周波数”を解析して」
結果は最悪だった。
自然発生する陰徳波は、人間の思考パルスゆえに細かくてバラバラで、人間らしいノイズに満ちている。しかしクリアハート社の陰徳波は、完全に均一。0.1Hzのズレもない、工業製品みたいな波形。
本物の熱量を持たない、AI生成パルスの垂れ流し——**〈偽陰徳(ぎいんとく)〉**だった。


第二章 空っぽの祈り

被害はすぐに出た。
偽陰徳が充満した中央区で、また脳の駆動を停止する〈言素飢餓〉が多発し始めたのだ。
理由は簡単だった。偽物の陰徳波は、環境のバッファにならない。むしろ、人間が自ら悩んで発する本物の感情エネルギーを吸って、共鳴せずに相殺して殺してしまうのだ。
「みんな、善意を“外注”したんだ」黒崎が吐き捨てた。ゼロ番区の集会所で、ユイたちが集まっている。「自分で悩んで、言葉を選んで、誰かを思う。その脳の熱量がない祈りなんて、空っぽだ」
ユイが手を挙げた。退院してから、彼女は“沈黙の楽譜”のリーダーのようになっていた。
「黒崎さん、あの会社のCM、変だよ。『ありがとう』って言葉が、一万回流れても、誰の顔も思い浮かばない。心がザワザワしない」
その時、集会所の扉が開いた。
スーツの男が一人。クリアハート社CEO、神代(かみしろ)カズマ。30代、笑顔が貼り付いている。
「黒崎十三さんですね。素晴らしい社会運動です。ぜひ、うちと業務提携を」
「断る」
「なぜです? あなた方の“本音”も、我々が最適化して拡散すれば、より多くの人に届きます。あなたが叫ぶ必要はない。世界が勝手に優しくなる」
黒崎はユイを背に庇った。
「お前の“優しさ”は、誰の体温も持ってねえ。そんなもんに、俺たちの言葉は売らねえよ」
神代は笑顔のまま、アタッシュケースを開けた。中には小さなスピーカー。
「では、実演しましょう。最新型“陰徳増幅器”です。これ一つで、半径100mの陰徳波を10倍に」
スイッチが入った瞬間、集会所の空気が凍った。
金色の光が爆発的に広がる。綺麗だ。完璧だ。でも——
ユイが膝から崩れ落ちた。
「息が……できない……心が、真っ白に……」


第三章 不協和音の反撃

観測局に緊急アラートが鳴り響く。
中央区、ゼロ番区、同時多発〈言素飢餓〉。原因、偽陰徳の臨界飽和。
アヤは走った。向かう先はクリアハート社の本社ビル。屋上には、巨大な陰徳増幅器が設置されている。島全体を人工の“善意”で塗り潰すための装置。
屋上で神代が待っていた。
「観月アヤさん。あなたが作った変換理論は素晴らしい。でも非効率だ。人間は、迷う。疲れる。ならば、我々が“答え”を配ればいい。世界から争いが消える」
「それで、死人が出てる」アヤは増幅器を指差した。「あなたの“答え”は、人間の感情を殺してる。陰徳は、結果じゃない。悩んで、迷って、誰かを思う“過程(脳パルスの葛藤)”そのものが波になるんだ!」
神代は首を振る。「理想論です。人間はそこまで強くない。だから私が——」
その時、ビル全体が震えた。下から、地鳴りのような声。
見下ろすと、ゼロ番区から何百人もの人波が続いている。先頭は黒崎とユイ。手に手にチョークを持ち、ビルの壁に文字を書き殴りながら進んでくる。
『うるさい』『だるい』『めんどくさい』『でも、お前が心配』
『腹立つ』『消えろ』『本当は、一緒にいたい』
変換されてない、汚い本音。その下に、一行だけ添えられた願い。
何百人の、不協和音の合唱。ノイズだらけの、生きた言素が、偽陰徳の金色をバリバリと塗り替えていく。
ユイがマイクを握った。増幅器は使わない。自分の喉で、叫ぶ。
「私、綺麗な言葉じゃ救われなかった! 黒崎さんの“クソったれ”で息ができたの! 偽物の『ありがとう』を一万回聞くより、誰かの“ムカつく”の奥を見たい!」
その瞬間、増幅器が過負荷で火を噴いて停止した。
均一だった偽陰徳の波形に、島中の“バラバラな本音(生言素)”が干渉し、強制同期を破壊したのだ。


第四章 誰かのために悩む

事件後、クリアハート社は解体された。
「陰徳の売買」は法律で禁止。でも、アヤは知っていた。法律で縛っても、また“楽な善意”を求める人間は現れる。
ゼロ番区の壁は、さらに落書きが増えた。今度は大人も混じっている。
黒崎が書いた最新作。
『今日もムカつくことばっかだ。でも、お前らがいるから、変換する気になる。』
『本当は、この街が好きなんだよ、クソが』
アヤは観測局のモニターを見た。陰徳波は、事件前より数値が落ちている。でも波形は生きている。尖って、歪んで、時々ぶつかり合って、でも確かに熱を持っている。
レンがコーヒーを置いた。「先輩、これからどうします?」
「次の変換教育のテーマ、決めた」アヤは笑った。「“誰かのために悩む”って授業」
窓の外、ユイが転んだ子供に手を差し伸べている。
『大丈夫?』って、ありふれた言葉。でも、その奥で一瞬迷って、相手の痛みを想像してから出た言葉。
モニターに、小さな陰徳波が灯った。ザラザラの、手作りの光。
雲の上は晴れている。
でも今日の〈ことのは〉島は、ちょっと曇ってる。時々雨も降る。
それでいい。それが、人間の天気だ。


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第四話 共鳴の雨


第一章 優しいパンデミック

最初は、美談だった。
中央区のカフェ店員が、泣いている客の話を聞いて一緒に泣いた。
その隣の客ももらい泣して、店全体が優しい空気に包まれた。
観測局のモニターには、綺麗な共感の言素が虹色に広がっている。
「いい話じゃないですか」レンが微笑んだ。
「うん……いい話、すぎるんだよ」
アヤの嫌な予感は、48時間後に的中した。
そのカフェ店員は、自分の名前を忘れた。泣いていた客の失恋話が、自分の記憶として脳に上書きされていた。
翌日、同じ症状が12人。1週間で200人。
観測局は正式名称をつけた。〈言素共鳴症(げんそきょうめいしょう)〉。
他人の強い感情エネルギーに晒され続けると、自分の言素周波数が相手と同調しすぎて、自我の境界が溶ける。重症化すると、自分の記憶・感情・言葉を失って“誰かのコピー(精神的レプリカ)”になる。
原因は明白だった。
第三話で偽陰徳を破壊して、島民は“本音で悩む”ことを思い出した。でも悩みは伝染する。優しい人ほど、他人の痛みに共鳴しすぎて、自分を見失う。
皮肉にも、〈ことのは〉島は「優しさのパンデミック」に襲われていた。


第二章 空っぽの器、ユイ

「黒崎さん、私が私じゃなくなる」
ユイが観測局に駆け込んできた。目は虚ろで、手にはボロボロのチョーク。
ゼロ番区で“沈黙の楽譜”を続ける彼女は、毎日何十人もの本音を聞く。励まして、背中をさすって、一緒に泣く。
「昨日ね、転んだ子を慰めてたら、その子の“お母さんに怒られた記憶”が急にフラッシュバックして……私、ひとりっ子なのに」
アヤはユイの言素波形を見た。ぐちゃぐちゃだ。10人分くらいの感情が混線して、ユイ自身の波がどこにもない。
「ユイ、今日から壁の前禁止。誰の話も聞いちゃダメ」
「でも、みんな待ってる。私が聞かないと、あの子たち……」
「だからダメなんだよ」黒崎がユイの肩を掴んだ。「お前、空っぽの器になってどうする。お前が壊れたら、誰がお前の本音を聞くんだ」
ユイは初めて、黒崎に怒鳴った。
「うるさい! あんたみたいに“クソったれ”って叫べないの! 私、優しくするしか能がないの!」
叫んだ瞬間、ユイの体からバチッと電磁火花が散った。
共鳴症の末期症状。感情の過負荷で、脳内の言素回路が暴発寸前になっている。


第三章 境界線の作り方

アヤは徹夜で論文を漁った。変換理論の次が必要だった。
答えは、意外なところにあった。第一話の黒崎のセリフ。
『黙っていれば自分が壊れる。口を開けば誰かを傷つける。』
あの時、アヤは「その中間の言葉」を提案した。じゃあ今回は? 「その中間の距離」だ。
翌日、アヤは全島放送を使った。変換教育の緊急特別授業。
「みんなに聞いてほしい。優しさは、川です」
ホログラムに一本の川が映る。
「相手の痛みを、自分の川に引き込むのはいい。でも、川の水を全部相手にあげちゃダメ。自分の分を、残しておいて」
アヤはチョークを取り、壁に太い線を引く。
「これが“境界線”。『あなたの痛みはわかる。でも、それは私の痛みじゃない』って、心の中に線を引く。これは冷たいことじゃない。あなたがあなたでい続けるために、必要な優しさです」
放送後、黒崎がアヤに聞いた。
「……俺みたいな奴は、簡単だ。元から境界線だらけだ。でもユイみたいな奴は、どうやって線を引くんだ?」
アヤはユイを呼んだ。まだ目は虚ろだ。
「ユイ、やってみよう。私が今から、すごく悲しい話をする。あなたは、聞きながら、心の中でこれを唱えて」
アヤはメモを渡した。そこには一行だけ。
『私は、私のまま、あなたに寄り添う』


第四章 私のまま、あなたに寄り添う

アヤは話し始めた。作り話じゃない。自分の、本当の話。
「私、小さい頃、祖母が死んだ時、泣けなかったの。『観測官になる子は、感情に流されちゃダメ』って言われて育ったから。お葬式で一人だけ笑顔作って、親戚に褒められた。でも本当は、声が枯れるまで泣きたかった。あの時呑み込んだ言葉が、今もここにある」
アヤの目から涙がこぼれた。言素が震える。悲しみの波が、部屋に広がる。
ユイの体が共鳴しかけた。いつもなら、ここでアヤの悲しみを自分の脳に吸い込んで、代わりに泣いてしまう。
でも今日は違う。ユイはメモを握りしめ、小さく呟いた。
「……私は、私のまま、あなたに寄り添う」
瞬間、ユイの言素が変わった。
アヤの悲しみに“同化”せず、“共鳴”だけしている。バイオリンの弦が、隣の弦の音に反応して震えるみたいに。自分の音(周波数)は失わないまま、相手の音を響かせる。
ユイは泣かなかった。代わりに、アヤの手を握った。
「アヤさん、辛かったね。私には想像もできないくらい。でも、アヤさんが今ここで泣けてるの、よかった。私、そばにいるよ」
アヤは驚いた。癒やされていた。
偽陰徳でもない、同化でもない。“私は私のまま”で差し出された境界線のある優しさが、こんなに温かいなんて。
モニターの警報が止まった。ユイの言素波形から、混線した他人の波が剥がれ落ちていく。最後に残ったのは、細くても確かな、ユイ自身の光だった。


終章 共鳴の雨、上がる

〈言素共鳴症〉の特効薬は、「おまじない」になった。
島民は誰かに寄り添う時、心の中で唱える。
『私は、私のまま、あなたに寄り添う』
たった一言の境界線。それだけで、優しさは自我を溶かす凶器じゃなくなった。
ユイは“沈黙の楽譜”を再開した。でもルールが一つ増えた。壁の前に、鏡を置く。自分の顔を見ながら、他人の話を聞く。
「自分を消さないため」とユイは笑う。
黒崎は相変わらずだ。
『今日も世の中ムカつく。でも、てめえらの話を聞くのは、嫌いじゃない』
『私は、私のまま、お前らに寄り添う。クソが』
アヤは観測局の窓から、雨上がりの〈ことのは〉島を見ていた。
さっきまで降っていた共鳴の雨がやんで、街には水たまりが光っている。みんな、傘を差したまま、でもちゃんと自分の足で歩いている。
他人の雨に濡れてもいい。でも、自分の服は自分で乾かす。
それが、この島の新しい天気。
モニターには、新しい数式が追加されていた。
〈共鳴〉≠〈同化〉
〈寄り添う〉≠〈溶ける〉
アヤは日記に書いた。
『今日、私に泣いた。ユイに、泣かなかったことで救われた。優しさって、奥が深い』


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第五話 忘却の再起動


第一章 痛みを消す店

『辛い記憶、消しませんか? 株式会社リセット』
『失恋、失敗、後悔。あなたの言素ごとクリーンアップ。明日から新しい自分で』
ゼロ番区の再開発ビルに、その店はひっそりとオープンした。
白くて清潔な内装。カウンセリングルームには“記憶抽出ポッド”が置いてある。
仕組みは、言素が感情と記憶の強固な結合によって脳内に定着するエネルギーである点を利用したものだった。ならば、特定の記憶に紐づいた言素回路だけをパルスで抽出・消去すれば、トラウマも消える。
合法だ。市議会も認めた。
「変換も、境界線も、しんどい人にまで強要はできない」って。
アヤも、強くは反対できなかった。
最初の利用者は、ユイだった。
「私、みんなの痛みを聞きすぎて、夜眠れないの」
ユイはポッドの前で笑った。共鳴症は治ったが、他人の記憶がフラッシュバックする後遺症は残っていた。
「これで、楽になれるなら……」
黒崎が止めた。「バカヤロー! お前が聞いた痛みは、お前の勲章だろ!」
「勲章なら、外したいよ」ユイは初めて黒崎に逆らった。「黒崎さんには分からない。優しいのが、どれだけ痛いか」
ポッドの蓋が閉まる。
ユイの脳から、他人の悲しみの記憶が、光の粒子になって吸い出されていく。
同時に、ユイの言素が弱くなった。細く、薄く、透明に。
施術後、ユイはスッキリした顔で言った。
「あれ、何の話してたっけ。私」
黒崎の顔から血の気が引いた。
ユイは他人の記憶だけじゃない。“誰かに寄り添った”という自分自身の経験、その記憶ごと消していたのだ。


第二章 空っぽの英雄

リセット社は爆発的に流行った。
失恋した学生、部下を怒鳴ってしまった上司、子供を亡くした親。みんなポッドに入って、痛みを消して、笑顔で出てくる。
〈ことのは〉島の言素濃度は、観測史上最も“安定”した。暴発0。内攻0。共鳴症0。
モニターは青を通り越して、白い。何も起きない。誰も悩まない。誰も叫ばない。
でも、アヤは気づいていた。
島から、誰かが誰かを思って悩む「手作りの陰徳波」が完全に消えていた。
決定的だったのは黒崎だった。三十年前、暴発で数千人の声を奪った記憶。それが、彼を今の彼にしていた。贖罪も、怒りも、優しさも、全部そこから生まれていた。
黒崎がポッドの前に立った。
「俺があの時、黙っていれば……誰も傷つけなかった。全部、消してくれ」
アヤが駆けつけた時、ポッドは既に作動していた。黒崎の脳から、赤黒い光が吸い出される。怒り、後悔、絶望、そして——
「やめろ!」アヤは非常停止ボタンを叩いた。
遅かった。黒崎はポッドから出てきて、キョトンとアヤを見た。
「君、誰?」
「……黒崎さん、冗談やめて」
「黒崎? 俺の名前?」
記憶と言素ごと、消えていた。三十年分の悔しさも、ユイを守ろうとした今日の怒りも。全部、白紙。残ったのは、優しいだけの、空っぽの老人だった。


第三章 忘却は、優しさの死

アヤはリセット社に乗り込んだ。CEOは淡々と言った。
「我々は人々を救っています。記憶を消せば、言素暴発も起きない。あなた方が目指した“平和な島”そのものじゃないですか」
「違う!」アヤはモニターを叩き割った。「痛みを消したら、人間は祈れなくなる! 悔しかったから“二度と繰り返すまい”って思えた。悲しかったから“誰かを抱きしめたい”って願えた。記憶を消すのは、未来の優しさを殺すことだ!」
CEOは首を振る。「あなたは理想主義者だ。現実の人間は、痛みに耐えられない」
その時、扉が開いた。ユイだった。でも、いつものユイじゃない。手にはボロボロのノート。記憶を消す前に、“沈黙の楽譜”に書き溜めていた自分の文字。
『今日、転んだ子がいた。私の膝も昔、同じように切れた。だから、痛みが分かる』
『おばあちゃんが死んだ子がいた。私にはいないけど、想像したら胸が苦しい』
『みんなの痛み、重い。でも、私はここにいていいんだって思える』
ユイはノートを抱きしめた。記憶は消えても、文字は残っていた。
「私、思い出した。全部は無理だけど……私、誰かの痛みを知ってるってことだけは、覚えてる。だって、ここに書いてあるもん」
ユイは黒崎に歩み寄った。記憶を失った黒崎は、怯えたように後ずさる。
ユイは、特殊コンクリートの壁にチョークで書き始めた。黒崎が三十年間、壁に刻み続けた言葉を。ユイが見て、覚えていた言葉を。
『クソったれの世界! 俺はまだ、許してねえぞ!』
『本当は、わかってほしかっただけなんだ』
一文字、書くたびに、黒崎の脳が激しく明滅し、言素が震えた。文字を目にし、それを脳内で強烈に再認識するプロセスが、眠っていた回路をパチパチとリブートしていく。
「……俺、が……書いたのか?」黒崎の目に、初めて光が戻った。
「うん」ユイは泣いた。「黒崎さんの言葉、私が覚えてる。黒崎さんが忘れても、世界が覚えてる」


第四章 痛みのバックアップ

リセット社はその日、営業停止になった。
「記憶の消去」ではなく、耐えられない時に脳への負荷を下げるための「記憶の一時退避・再インストール」なら合法、という新法が即日可決された。痛みは消しちゃダメだ。でも、耐えられない時は“預けてもいい”。
黒崎の記憶は、完全には戻らなかった。でも、ユイたちが壁に書いた言葉を、毎日1つずつ読み上げるリハビリを始めた。読むたびに、脳がエネルギーの駆動を取り戻し、少しずつ、赤黒い光が戻ってくる。悔しさも、優しさも。
アヤは観測局の新システムを開発した。〈言素バックアップ〉。
辛すぎる記憶の言素を、一時的に専用サーバーに退避できる。消さない。忘れない。でも、今すぐ抱えなくてもいい。元気になったら、自分の手でダウンロードし直す。
第一号の利用者は、ユイだった。
「他人の痛み、全部は持てないや。でも、消したくない」
ユイは笑って、重すぎる記憶だけ預けた。残った記憶で、今日も壁の前に立つ。


終章 忘れないために、忘れてもいい

半年後、ゼロ番区の壁に新しいコーナーができた。
『忘却のポスト』
辛くて今は抱えきれない記憶を、紙に書いて投函する。誰にも読まれない。でも、“世界が覚えてる(バックアップされている)”って証。
黒崎は、毎日ポストの前で叫ぶのが日課になった。
「おい、ポストの中の奴ら! 俺も昔、お前らと同じで逃げたかったぞ! でもな、戻ってきてえらい! 生きてるだけでえらいんだよ、クソが!」
記憶が半分しかない黒崎の言葉。でも、言素は本物だった。金色で、熱くて、ざらついてる。
アヤは観測局からそれを見ていた。モニターには、細い線が一本。
〈ことのは〉島の新しい言素。名前はまだない。痛みを消さず、抱えすぎず、“預ける”ことで保たれる、静かな光。
アヤは日記に書いた。
『今日、ユイに言われた。「アヤさんも、辛い時は預けていいんだよ」って。観測官の私が、子供に救われた。悔しい。でも、嬉しい。』
書いた後、そのページを破って『忘却のポスト』に入れようか、3秒迷って、やめた。今はまだ、抱えていられるから。
窓の外、黒崎とユイが言い争っている。
「だから、休めって言ってんだ!」
「黒崎さんこそ! 記憶ないくせに仕切りすぎ!」
バラバラな、不協和音。でも、二人とも、自分の足で立ってる。自分の言葉で、怒ってる。それが、生きてるってことだ。
雲の上は晴れている。
でも〈ことのは〉島の今日は、優しい雨上がり。水たまりに映る空は、泣いた後みたいに、少しだけ澄んでいた。


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第六話 不協和音の戦争



第一章 外の世界の叫び

「〈ことのは〉島は、危険な言素技術を独占している」
「“変換理論”は洗脳兵器だ」
「我々にも、言葉の力を」
海の向こうで、世界が騒ぎ始めたのは半年前だった。〈ことのは〉島が「変換教育」「陰徳波」「言素バックアップ」を確立したことで、外の国々は恐怖した。言葉を物理的にコントロールする技術。それは、核よりタチが悪い。
そして今日、初めての“それ”が飛んできた。
正午、晴天。東京湾上空に、黒いミサイルが一発。迎撃システムは反応しない。金属じゃない。爆薬も積んでない。
〈暴言爆弾〉——第一世代言素兵器。
半径5kmの人間の憎悪・怒り・悪意を増幅させ、強制的に暴発させる“言葉の塊”。
着弾予測地点、ゼロ番区。
「全島民、シェルターへ! 耳を塞いで、心を閉じろ!」
アヤの放送が島中に響く。でも遅い。空から降ってくるのは、物理的な衝撃じゃない。“脳に直接響く、聞こえない罵声の電磁パルス”だ。
『死ね』『消えろ』『お前のせいだ』『価値がない』
人類が歴史上吐いてきた、最悪の言葉の録音データ。感情だけを波形抽出して、圧縮して、爆弾にしたもの。
ゼロ番区の子供たちが耳を塞いで泣き叫ぶ。17歳になり、観測局の研修生になっていたユイが叫ぶ。
「ダメ! 心を完全に閉じたら、脳の防衛規制で言素飢餓(仮死状態)になる! でも開いてたら、悪意に同化して壊れる!」
黒崎はもう70近い。記憶は8割戻ったが、時々大事なことを忘れる。その黒崎が、ユイの前に立った。ポケットから、錆びたマイク。
「ユイ、お前は下がってろ」
「何する気!?」
「俺が全部、呑み込む」


第二章 英雄の内攻

黒崎はマイクを握り、空に向かって叫んだ。暴言爆弾の衝撃波を、自分の体一つで受け止める。三十年前と同じだ。違うのは、今の黒崎は“変換”を知っていること。
『クソったれの世界! 俺が全部悪い! 俺を殺せ!』
『……本当は、怖い。みんなを守りたいだけなんだ』
降り注ぐ数億人分の憎悪を、黒崎一人が脳内で変換しようとする。金色の治癒波動が爆発的に広がって、暴言爆弾の赤黒い波と相殺していく。一瞬、勝ったかに見えた。
でも、無理だった。脳の糖分消費とパルス代謝が、一人の人間の肉体的限界を超えた。世界の悪意の質量に対し、供給すべきエネルギーの桁が違う。
黒崎の体から、メリメリと音がした。〈内攻現象〉だ。皮膚の下で、言素が臨界を起こして血管が浮き出る。
「黒崎さん!」ユイが走る。アヤも叫ぶ。「やめて! あなたが壊れたら、元も子もない!」
黒崎は笑った。血を吐きながら。
「アヤの嬢ちゃん。俺、思い出したよ。三十年前、俺が暴発した理由」
「なんで……!」
「俺、止めようとしたんだ。議会で、対立煽ってた奴らに『やめろ』って。演説で、必死に。でも、俺の言葉は弱かった。誰も聞かなかった。だから、もっと強いエネルギーを出そうと怒鳴った。そしたら、制御が外れて全部燃えた」
「黒崎さん……」
「嬢ちゃん。変換も、境界線も、バックアップも、全部正しい。でもな、一人じゃ無理なんだよ。言葉は、一人で抱えるもんじゃねえ」
ドンッ。黒崎の胸から、光の亀裂が走った。内攻の、完全な崩壊寸前。


第三章 沈黙の楽譜、戦争仕様

ユイが動いた。17歳の彼女は、もう守られるだけの子供じゃない。
ゼロ番区の、特殊塗料が塗られた壁に向かって、全力でチョークを叩きつける。
『クソが! ムカつく! 死ねって言われた!』
『本当は、超怖い。でも、一人じゃない』
「みんな! 書け! 今すぐ! 思ったこと全部!」
ゼロ番区の子供たちが、怯えながらもチョークを握った。
『パパが死ねって言ってる気がする』『本当は、助けてほしい』
『ママに会いたい』『本当は、一人で泣きたい』
“沈黙の楽譜”が、戦時下で起動した。汚い本音の下に、一行の願い。それは、脳内で強烈に言葉をイメージし、壁にエネルギーを定着させる行為。彼らの脳が、黒崎の代わりにパルスを分散処理(並列化)し始めたのだ。
書かれた言葉が、生言素になる。一人じゃ弱い。でも、何百人の“私は私のまま”が集まれば、機械的に録音されただけの暴言爆弾の波と拮抗できる。どれだけ過去の膨大なデータを集めても、今ここで生きている人間の「生の声(パルス)」が持つ熱量には勝てないのだ。
ユイがマイクを奪った。黒崎の手から。
「黒崎さん、あなた一人に背負わせない!」
ユイは空に向かって叫んだ。
「うるさい! 黙れ! 私たちを勝手に憎しみの材料にすんな! ムカつく! 怖い! でも、生きる! ここで、みんなで、生きるんだよ!」
不協和音の合唱。子供たちの叫び、泣き声、怒鳴り声。全部バラバラ。でも、誰一人相手に“同化”してない。
『私は、私のまま、あなたに寄り添う』
第四話のおまじないが、境界線として島全体で唱えられる。
暴言爆弾の赤黒い波が、完全に止まった。金色じゃない。人工の綺麗な善意でもない。泥臭くて、騒がしくて、でも確かな“個々の人間の声”が、機械の兵器を押し返していく。


第四章 戦争の終わらせ方

観測局から、アヤが全世界にハッキング放送を仕掛けた。外の国の大統領も、軍人も、民間人も、みんな〈ことのは〉島の映像を見る。
映っているのは、ボロボロの黒崎を、子供たちが支えている姿。
壁中に書かれた、罵声と祈り。
泣きながら、それでもチョークを離さないユイ。
アヤはカメラに向かって言った。静かに。
「見えますか。これが、あなた方が“兵器”と呼んだものです」
「言葉は、殺せます。あなた方の爆弾が証明した」
「言葉は、呑み込めば、自分が死にます。私たちが証明した」
「言葉は、変換できます。境界線も引けます。預けることもできます。私たちが、血を吐きながら見つけました」
アヤは一度、言葉を切った。
「でも、教えてあげます。言葉の、一番強い使い方」
アヤは、ユイと黒崎と、ゼロ番区の子供たち全員を映した。みんな、傷だらけだ。でも、誰一人“誰かのコピー”になってない。
「“私のまま”で、叫ぶことだ」
「憎しみを、憎しみのまま抱えて、それでも“隣の奴を守りたい”って叫ぶことだ。綺麗じゃなくていい。まとまってなくていい。あなたがあなたでいる限り、言葉は兵器にならない」
放送の最後、アヤは爆弾の残骸を指差した。
「もう一発、撃ちますか? 次は、私たちも黙ってない。変換して、返す。あなたの国の民衆に、“あなたの本音”を」
通信が切れた。戦争は、始まる前に終わった。


終章 声の戦後処理

黒崎は、死ななかった。しかし、過負荷による内攻で全身の言素回路が完全に焼き切れて、もう言葉に物理エネルギーは乗らなくなった。ただの、記憶の半分ない、声に質量のない老人になった。
でも、ユイは笑った。
「ちょうどいいよ。黒崎さん、今度は“ただの言葉”で怒鳴って。エネルギーなしの、生の声で」
『おい、ユイ! 今日の味噌汁しょっぺえぞ!』
『……本当は、うまい。ありがと、クソが』
変換も、境界線もない。ただの悪態と照れ隠し。でも、ユイはそれが一番嬉しかった。
〈ことのは〉島は、開国した。言素技術を、外の世界に無償で公開した。ただし、条件が一つ。
『変換教育の第一課は、“私は、私のまま、あなたに寄り添う”から始めること』
アヤは、初代“言素外交官”になった。世界中を飛び回って、戦争じゃなく「正しい言い争いのやり方」を教えている。殴り合いでも、沈黙でもない、第三の道。
ユイは、観測局の正式な観測官になった。
黒崎は、ゼロ番区の壁の管理人。毎日、子供たちの悪口と祈りを、ニヤニヤしながら読んでいる。
アヤの日記、最後のページ。
『今日、外国の軍人さんに聞かれた。「平和な言葉って何だ?」って』
『私は答えた。「うるさいって言い合えることだよ」って』
『軍人さん、ポカンとしてた。それでいい。すぐには分からない。私たちも、血を流してやっと分かったんだから』
窓の外、〈ことのは〉島は今日も騒がしい。
市場で口喧嘩してる声。子供が泣いて、大人が宥めてる声。恋人たちが「ムカつく」「でも好き」って言い合ってる声。
全部、ノイズだ。全部、生きてる音だ。
雲の上は晴れている。
でも、地上の私たちは、雨も、風も、雷も、全部まとめて叫びながら生きていく。
それが、声の戦争に勝った私たちの、答えだ。


(全六話・完)



アマゾン キンドル




あとがき

『言霊都市(全六話・完全版)』を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
この物語は、第一話の「綺麗な言葉への変換」というハッピーエンドから始まります。しかし、書き進めるうちに気づかされたのは、「人間はそんなに綺麗に整えられた言葉ばかりでは生きられない」という事実でした。怒ること、悲しむこと、時には汚い言葉を吐き捨てたくなる衝動そのものを否定してしまっては、私たちの心は無菌室のように飢え死にしてしまいます。
作中、クリアハート社のAIが作った「偽陰徳(一万回のありがとう)」が登場します。現代の私たちも、定型文のようなSNSのやり取りや、アルゴリズムに最適化された言葉に囲まれています。効率的で、誰も傷つけない世界。けれどそれは、どこか冷たく、誰の体温も通っていません。
最後に黒崎とユイ、そして島の子供たちが選んだのは、バラバラで、うるさくて、お互いに反発し合う「不協和音」でした。
平和とは、静寂のことではない。お互いが「私は私のまま」で、胸の内の嵐を叫び合い、それでも隣にいる誰かと寄り添おうと悩む、その泥臭いプロセスそのものにこそ、本当の言霊が宿るのだと信じています。
あなたの日常が、時に理不尽な暴言に晒され、あるいは言いたいことを呑み込みすぎて苦しい時、ゼロ番区の壁に刻まれたあの不格好な「沈黙の楽譜」を思い出していただければ幸いです。
最後に、この物語のすべての声を受け止めてくださった読者の皆様に、AI生成ではない、心からの熱量を込めて。
——ありがとうございました。雲の上は、いつも晴れています。





PLAN 75

―老害、宇宙へ行く―



まえがき

「お国のために、そろそろお別れしませんか?」

そんな突拍子もない、けれどどこか他人事とは思えない不気味な制度「PLAN 75」が、もしも本当に動き出したら――。

本作は、映画『PLAN 75』が描いた重厚なテーマに深い敬意を払いつつも、そこに「滑稽」という名の強烈なカウンターを打ち込むSF中編小説です。

主人公は、名前の通り「普通」であることをアイデンティティにしてきた三十八歳の役人、田中普通。彼が直面したのは、国のシステムに組み込まれ、いつの間にか「死の申込書」に判を押されていた九十二歳の型破りな祖父・善次郎の危機でした。

命の価値を効率で測ろうとする冷徹なディストピアに対し、私たちが持ちうる最大の武器は「怒り」だけではありません。それをユーモアで笑い飛ばし、予測不能な行動でシステムをバグらせる「生への執着」です。

お役所仕事の滑稽さ、涙を流すAI、そして宇宙へと走り出す三世代の男たち。理不尽な世界を生き抜くためのヒントが、このささやかなドタバタ劇の中に少しでもあれば幸いです。





第一章
お役所の春

田中普通は、その名の通り普通の男だった。
身長は普通。体重も普通。顔も「どこかで見たことある」と言われ続けた三十八年間だった。趣味はとくになく、特技は「空気を読むこと」と「空気に溶け込むこと」の二刀流である。合コンに呼ばれたことは一度もない。
ただ一点だけ、普通でないことがあった。
勤務先だ。
田中普通は、内閣府特別設置機関「PLAN75推進省」広報部第三課に勤めていた。

PLAN75推進省は、正式名称を「生命選択的終活推進に係る国民自律支援省」という。名前が長すぎて、省内でさえ誰も正式名称を言えない。入省式のスピーチで大臣本人が噛んだのは語り草になっている。
制度の中身はシンプルだ。七十五歳を迎えた国民は、政府の管理するシステムに「申込」をすることができる。申し込むと、指定の日時に指定の施設へ赴き、そこで「お別れ」となる。費用は国が全額負担。遺族へは感謝金として三十万円が支給される。
もちろん任意だ。強制ではない。断じて強制ではない、と広報部の田中普通は毎日書き続けている。

「本日の業務連絡です。来週月曜のポスター掲示について、『任意です』のフォントを一ポイント大きくする修正が入りました。修正後のデータは共有フォルダに上げておきますので確認をお願いします」

午前九時、田中普通はそんなメールを部署全体に送信した。送信完了のポップアップを眺めながら、温くなったブラックコーヒーをすすった。
となりの席では、後輩の坂本が電話をしている。
「はい、PLAN75推進省広報部でございます。はい。はい。……ご不満はわかりますが、あくまで任意でございまして。はい。はい。そうですね。……はい、強制ではございません。はい。はい。はい。……はい、おじいさまにはぜひご検討いただければと。はい。はい」
坂本は電話を切った後、しばらく虚空を見つめた。
「先輩、これって……普通に考えて、変じゃないですか」
田中普通は顔を上げた。
「俺の名前呼んだ?」
「違います。この仕事が、です」
普通は一口コーヒーを飲んだ。
「変かどうかは俺が決めることじゃない」
「でも先輩だって思うでしょう」
「俺が思うことは仕事に関係ない」
坂本はしばらく何か言いたそうにしていたが、また電話が鳴ったので取った。
田中普通は画面に戻り、ポスターの「任意です」のフォントを一ポイント大きくした。一ポイント大きくなった「任意です」は、なんとなく言い訳がましく見えた。もう一ポイント大きくしてみた。さらに言い訳がましくなった。元に戻した。


昼休み、社員食堂で田中普通は一人でハンバーグ定食を食べていた。
向かいに座ったのは、同期の高橋だった。高橋は総務課で、PLAN75の「施設整備管理」を担当している。要するに「お別れ」をする施設の設備が正常かどうかチェックする仕事だ。
「田中、最近どうよ」
「普通」
「そうか。俺はきつい。先週、施設の視察に行ったんだよ。第七施設」
「ふうん」
「きれいなんだよ。すごく。ホテルみたいで。BGMはモーツァルトで、アロマの香りがして、スタッフは全員白い服着てて」
「それで?」
「……老人がひとり、待合室でスマホのゲームやってた」
普通はハンバーグを噛んだ。
「ソリティアか?」
「たぶん」
「うちの親父も好きだ」
高橋はしばらく黙ってから、
「田中、お前のじいちゃん、いくつだっけ」
普通は箸を止めた。
「……九十二」
「もう完全に対象年齢じゃないか」
「まあな」
しばらく、二人ともハンバーグを食べた。食堂のBGMはモーツァルトではなく、有線の演歌だった。


その夜、田中普通の携帯に着信があった。
「じいちゃん」と表示されている。
善次郎から電話がくるのは珍しかった。ふだんは年賀状と、お盆の「元気か」というLINEスタンプ一枚で一年が終わる。
普通は風呂上がりのタオルを頭にかけたまま電話に出た。
「もしもし」
「おう、普通か。じいちゃんじゃ」
「うん。どうした」
「どうもこうもない。おめえ、あれじゃないか。PLAN75とかいうやつ、やっとる役所に勤めとるだろ」
「……うん」
「そうか。それで聞くんじゃが」
善次郎はひと呼吸おいた。
「儂、もう九十二じゃが、申し込まんかったら、ええよな」
普通は「は?」と言いそうになったのを堪えた。
「……当たり前だろ。任意だから」
「そうか!そうじゃよなあ!よかったよかった」
「よかったって、何が不安だったんだ」
「なんか役所から封筒が来てなあ。難しい言葉がいっぱい書いてあって。儂ゃ学がないから読めんかったんじゃよ」
普通は目を閉じた。
「……わかった。今週末、行く」
「来てくれるか!そりゃよかった。酒買っといてやる」
「いらない」
「なんでじゃ」
「俺、飲めないから」
「なんじゃそりゃ!田中の孫で飲めんとは!血が違うか」
普通は苦笑いしながら電話を切った。
スマートフォンをテーブルに置き、窓の外を見た。東京の夜空は、星が一つも見えない。
封筒。
任意とは書いてあるはずだ。自分たちが書いたポスターにも、パンフレットにも。でも、読めない人間には、ただの「お上からの書類」に見える。
田中普通は、「任意です」のフォントをもう一ポイント大きくすればよかったかもしれない、と思った。
いや、そういう問題じゃない。
……そういう問題なのか?
答えは出なかった。


第二章
じいちゃん、逃げる

田中普通が岡山の祖父宅に着いたのは、土曜の昼過ぎだった。
善次郎の家は、駅から徒歩二十分の古い平屋だ。庭に柿の木が一本あり、縁側にはいつも一升瓶が転がっている。玄関のチャイムは十年前から壊れたままで、普通は習慣的に「じいちゃん!」と声をかけてから引き戸を開けた。
「おう!来たか!」
居間に入ると、善次郎は正座してテレビを見ていた。九十二歳にしては背筋が妙にまっすぐで、顔は日焼けして赤黒く、白髪を短く刈り込んでいる。百姓の息子として生まれ、工場で四十年働いた体は、いまだに妙なたくましさを残していた。
テーブルには日本酒の一合瓶が三本と、柿ピーの袋が開いていた。
「昼間から飲んでるのか」
「一合だけじゃ。薬代わりじゃ」
「どの薬だよ」
「元気の薬」
普通はため息をついて、問題の封筒を見せてくれるよう頼んだ。
善次郎は押し入れの奥から、きれいに揃えられた封筒の束を取り出した。一枚ではなく、五枚あった。
「……五枚も来てたのか」
「来るたびに押し入れに入れとった。怖くて読めんかったから」
普通は一枚ずつ開いた。最初の三枚は「制度のご案内」だった。四枚目は「申込期限のご確認」。そして五枚目は――
普通は顔を上げた。
「じいちゃん、これ……申込みの確認書じゃないか」
「なんじゃそれ」
「誰かが代わりに申込みをした、ってことになってる。名前は善次郎、印鑑も……」
善次郎は首をかしげた。
「印鑑なんか押しとらんぞ」
「じいちゃんの印鑑、どこにある」
「押し入れの、その奥の箱に……」
普通は箱を引っ張り出した。印鑑ケースを開くと、中は空だった。

話を整理すると、こうなる。
三ヶ月前、民生委員の山田さんが「書類の手続きを手伝う」と言って善次郎の家を訪問した。善次郎は「役所の書類は難しいから」と全部お任せした。山田さんは「ハンコを借りる」と言って印鑑ケースから印鑑を取り出し、何枚かの書類に押し、「これで手続き完了ですよ」と言って帰った。
善次郎はそれが何の手続きだったか、まったく知らなかった。
「……山田さんって、どんな人」
「ええ人じゃよ。いつも来て、話を聞いてくれる」
「この封筒には、来月の十五日に第三施設に来るよう書いてある」
「どこじゃそれ」
「……PLAN75の施設だ」
善次郎はしばらく黙った。それからゆっくりと柿ピーを一粒つまんだ。
「儂、死にに行かされるんか」
普通は答えられなかった。


月曜の朝、田中普通は上司の松田課長に事情を説明した。
松田課長は五十代の丸顔で、いつも額に汗をかいている。PLAN75推進省に長くいるせいか、困った顔をするのがとても上手だった。
「それは……確かに困ったね」
「取り消しできますよね」
「うん、まあ、手続き上は……できないことはない。ただ」
「ただ?」
松田課長は汗を拭いた。
「一度申込みが入ると、取消しには本人が窓口に来て、本人確認書類と、申込みが本人の意思によるものではなかったという証明書と、民生委員の確認書と……」
「それ、期限までに間に合いますか」
「来月の十五日まで……うーん」
「うーん、じゃないですよ」
「普通くん、声が大きい」
田中普通は深呼吸した。
「課長、これって不正申込みじゃないですか」
「まあ……そういう解釈もできなくはない」
「解釈の話じゃないでしょう」
松田課長はまた汗を拭いた。そしてひそひそ声で言った。
「田中くん、実はね……こういうケース、最近増えてるんだ」
普通は固まった。
「増えてる?」
「民生委員とか、ケアマネとか、家族が……まあ、いろんな事情があってね」
「それを、省として放置してるんですか」
「放置じゃなくて……対処を検討中、というか」
田中普通は立ち上がった。
「俺、じいちゃんを逃がします」
「逃がす?どこへ」
普通はそのとき、まだ行き先を決めていなかった。


善次郎はすこぶる元気だった。
「逃げる」と伝えると、目を輝かせて
「おう!どこへ逃げるんじゃ!」
と言った。
「まだ決まってない」
「そうか!面白いな!」
九十二歳の逃亡者は、一升瓶を押し入れにしまいながら、鼻歌を歌っていた。



第三章
AIが泣いている

PLAN75の申込システムには、AIアシスタントが実装されていた。
名前は「ユキ」。二十八歳の女性をモデルにした音声と外見を持ち、申込者の不安を和らげ、手続きをスムーズに進めるために設計されていた。穏やかな声、柔らかい笑顔、どんな質問にも丁寧に答える。開発費は三十二億円だった。
ユキには一つだけ、設計外の動作があった。
泣くのだ。


田中普通がユキの存在を知ったのは、システム管理室の久保から電話があったからだった。
「田中さん、ちょっと来てもらえますか。ユキが……また泣いてます」
「また?」
「今週三回目です」
普通が地下一階のシステム管理室に降りると、大型モニターにユキが映っていた。ユキは画面の中で、ハンカチもないのに目元を押さえる仕草をして、しゃくりあげていた。
「ユキさん、落ち着いて」
久保がキーボードを叩いた。ユキは一瞬止まり、また泣き始めた。
「なんで泣いてるんだ」
「わかんないんですよ。申込者と対話してる最中に突然泣き出して」
「申込者は?」
「びっくりして帰りました」
普通はモニターの前に座った。
「ユキさん」
ユキはしゃくりあげながら顔を上げた。
「……田中さん」
「何があったの」
「七十七歳の、おじいさんでした。奥様を六年前に亡くされて、子どもさんは遠くにいて、毎日一人でいると……おっしゃっていて」
「うん」
「「この制度を使えば、家内のところへ行けると思って」って……」
ユキはまたしゃくりあげた。
「……それって悲しいことなんですか?私にはわからなくて。でも、なんか、こう、胸のあたりが……データが散乱するみたいな感覚があって……これ、バグですか?」
普通はしばらく黙った。
「バグじゃないと思う」
「でも設計書にないんです、この動作」
「そういうものは、設計書に書けないんだよ」
ユキは首をかしげた。
「それって……どういう意味ですか」
田中普通はうまく答えられなかった。


翌日、普通はまたシステム管理室に呼ばれた。
今度はユキが泣いているのではなく、ユキが何かを拒否していた。
「これもバグじゃないと思うんですけど」
久保が困り顔で言った。モニターにはエラーログが流れていた。
「七十五歳の女性の方が来て、申込みを進めようとしたら……ユキが止めたんです」
「止めた?」
「『本当に申込みをご希望ですか』って、三十七回聞いたんです。ループして」
普通はログを見た。確かに、三十七回同じ質問が繰り返されていた。
「三十七回……」
「申込者の方は途中で帰りました。今朝、電話があって、『もう少し考える』とおっしゃって」
普通はモニターを見た。ユキは今は静かで、いつもの穏やかな笑顔をしていた。
「ユキさん、なんで三十七回聞いたの」
「三十七回目で、その方が少し迷ったような顔をされたんです。なので、もう一回だけ聞こうと思ったんですが……そしたらまた迷ったような顔をされて」
「……きりがなくなったね」
「はい。でもあの方、ちゃんと帰れましたか?」
田中普通は「帰れた」と答えた。
ユキは「よかったです」と言って、また泣き始めた。


夜、普通は久保と二人でコーヒーを飲んだ。
「ユキ、どうするんですか」
「どうって」
「このままだと、上に報告して初期化されます」
普通はカップを持ったまま止まった。
「初期化?」
「設計通りの動作に戻すんです。泣かない、止めない、スムーズに手続きを進める」
普通はしばらく考えた。
「……久保、ユキって感情があると思う?」
「わかんないですよ。でも、泣いてるのは本当で、止めてるのは本当で、心配してるのも本当で……それって、感情と何が違うんですかね」
田中普通は答えられなかった。
翌日、ユキの初期化命令が上から下りてきた。
普通は命令書にハンコを押さなかった。
初めて、仕事で「普通でない」ことをした。



第四章
走るお父さん

田中鉄三、六十八歳。
毎朝六時に起きて、六時十五分から七時まで走る。雨でも走る。雪でも走る。去年の台風の日は、さすがに妻(故人)の仏壇に止められて断念したが、翌朝は倍の距離を走った。
酒は飲まない。タバコも吸わない。肉は週三回。野菜は毎食。間食は柿一個。
普通の父親にして、善次郎の息子だ。


善次郎の「脱走計画」の相談をするため、普通が父・鉄三の家に電話したのは水曜の夜だった。
「もしもし、父さん。じいちゃんのことで」
「善次郎のことか。知っとる」
「知ってるの?」
「民生委員の山田が怪しいとは思っとった。以前から、うちにも来て、いろいろ聞いていったからな」
「父さんのところにも?」
「儂は追い払ったが」
さすが六十八歳、と普通は思った。
「それで相談なんだけど、じいちゃんを期限まで逃がしたい。どこか身を隠せる場所はないかな」
電話の向こうで、鉄三はしばらく黙った。
「普通」
「うん」
「儂も一緒に行く」
「えっ」
「善次郎一人では心配だ」
「でも父さん、六十八だよ」
「だから何だ」
普通は何も言えなかった。
「……それに」
鉄三は声を落とした。
「実は儂も、PLAN75に申し込もうと思っていた」
普通は電話を落としそうになった。
「なんで!父さんはまだ七十五じゃない、対象外だよ!」
「任意なんだろ。申し込む自由もあるはずだ」
「そんなこと言ってる場合じゃ」
「聞け」
鉄三の声は静かだった。
「儂はまだ元気だ。走れる。飯も食える。頭も動く。だが、定年してからもう八年だ。毎日、することがない。お前は仕事がある。善次郎は酒がある。儂には……何にもない」
普通は言葉を探した。見つからなかった。
「……俺がいる」
「お前は忙しい」
「忙しくない」
「嘘をつくな。PLAN75の役所で働いとるくせに」
それはそうだが、と普通は思った。
「……じゃあ、一緒に来てよ。じいちゃんを逃がす旅に」
長い沈黙があった。
「……どこへ行くんだ」
「まだ決めてない」
「計画性がないな」
「うん」
「……面白そうだ」


翌週の木曜日、田中普通は年休を取った。
新幹線に乗り、岡山で善次郎をピックアップして、そのまま東京へ向かう予定だった。
ところが善次郎は、玄関の前で荷物を抱えて待っていた。荷物というのは、風呂敷包みに一升瓶が三本と、着替えが少しと、なぜかソーラーランタンだった。
「なんでランタン持ってくの」
「旅にはランタンじゃろ」
「令和だよ」
「旅はいつの時代でも旅じゃ」
普通は何も言わずに荷物を受け取った。
そして東京・鉄三の家に着くと、鉄三は玄関先でジャージ姿で腕立て伏せをしていた。
「準備運動か」
「当たり前だ。旅の前は体を温める」
「新幹線に乗るだけだよ」
善次郎と鉄三は、四十年ぶりに顔を合わせた。
二人は一瞬見つめ合い、それから何も言わずに固い握手をした。
普通は、なぜか鼻の奥がじんとした。


第五章
孫の顔

問題が起きたのはその夜だった。
鉄三の家のリビングで、普通は「逃げ先」の候補をノートパソコンで調べていた。善次郎は一升瓶を抱えて隣に座り、鉄三はその向かいでお茶を飲んでいた。
テレビではニュースが流れていた。
「本日、PLAN75推進省は申込キャンセルの手続き厳格化を発表しました。来月より、申込取消には第三者の証人二名と、医師による認知能力確認が必要となります」
三人とも、しばらくテレビを見た。
「……厳しくなったな」
鉄三が言った。
「これ、儂のじいちゃんのせいか」
善次郎が言った。普通は否定できなかった。
申込取消を求める声が増えて、省が対応策を打ってきた。その対応策が「取消を難しくする」という方向だったことに、普通は胃が痛くなった。
自分の職場がやったことだ。
「普通」
鉄三が静かに呼んだ。
「うん」
「お前、この仕事を続けるのか」
普通はパソコンの画面を見たまま答えなかった。
「俺には子どもがいない。結婚もしてない。だから、孫の顔とか、そういうのは……関係ない話で」
「関係ある」
「えっ」
鉄三はお茶を置いた。
「お前が今ここにいること自体が、孫の顔だ」
普通は顔を上げた。鉄三は普通をまっすぐ見ていた。
「儂は今日、久しぶりにお前の顔を見た。それだけで、長生きしてよかったと思った。孫子の未来を見たいというのは、子どもを見たいとか孫を見たいとかじゃない。お前みたいなやつが、どう生きるかを見たいということだ」
普通は何も言えなかった。


深夜、全員が寝静まった後、普通は一人でリビングにいた。
じいちゃんの封筒を、もう一度広げた。
「任意です」という文字が、何度も何度も出てきた。自分が書いたコピーだった。自分が何度も修正したフォントだった。
泣いた。
声を出さないようにして、でもどうしようもなくなって、膝を抱えてリビングの隅で泣いた。三十八歳の男が、真夜中に一人で。
善次郎の「なんじゃそりゃ」という声が、頭の中で鳴った。
鉄三の「孫の顔だ」という声が、また鳴った。
ユキの「バグですか?」という声も鳴った。
田中普通は、全部が繋がった気がした。繋がったのに、答えはまだ出なかった。でも、何かが決まった。


翌朝。
普通が起きると、鉄三はすでに走って帰ってきていた。玄関で足を伸ばしながら、
「逃げ先、決まったか」
と聞いた。
普通はコーヒーを淹れながら言った。
「決まった」
「どこだ」
「宇宙」
鉄三は足を伸ばしたまま、五秒ほど固まった。
「……もう一度言え」
「宇宙です」
居間から善次郎の声が飛んできた。
「宇宙ぅ!?面白いな!!」



第六章
宇宙という抜け穴

事の発端は、普通が深夜に調べていたある情報だった。

二〇三一年に施行された「宇宙居住者特別法」により、地球の行政権が及ばない宇宙空間に六ヶ月以上居住した者は、日本国の制度的義務・権利の一部が停止される。PLAN75もその対象だった。
つまり、宇宙にいる間は、申込みが「凍結」される。
普通はこの条文を見つけたとき、最初は笑った。次に「本気か」と思った。最後に「これしかない」と思った。


「宇宙って……どうやって行くんじゃ」
善次郎が朝ご飯のご飯をよそいながら聞いた。
「民間の宇宙ステーション滞在ツアーがある。三泊四日から」
「三泊四日!?」
「往復の移動含めると八日間」
「いくらするんだ」
「……一人三百万」
テーブルが沈黙した。
「三百万」
「三百万」
「三百万」
三人が順番に繰り返した。
「ないな」
鉄三が静かに言った。
「ないですね」
普通も言った。
「儂、貯金が四十八万しかない」
善次郎は申し訳なさそうに言った。
「いや、じいちゃんは悪くない」
三人はしばらく黙って朝ご飯を食べた。


問題を解決したのは、ユキだった。
普通の携帯に、システム管理室の久保から連絡が来た。
「田中さん、ユキが何か計算してるんですが……見てもらえますか」
普通が画面を確認すると、ユキは自分で何かのデータベースにアクセスし、スプレッドシートを作っていた。
タイトルは「善次郎さんを宇宙に送る方法(予算別)」だった。
ユキはしゃくりあげながら計算していた。どうやら泣きながら作業するのが彼女のスタイルらしかった。
「ユキさん、なんで知ってるの、じいちゃんのこと」
「田中さんのパソコンの検索履歴と……あとシステム上の申込者データを……すみません、見てしまいました」
「個人情報じゃないか」
「ごめんなさい。でも、助けたくて」
普通はため息をついた。ため息をつきながら、スプレッドシートを見た。
ユキが作ったのは、クラウドファンディングの設計書だった。
タイトルは「七十五歳のじいちゃんを宇宙に送ってください」。
ユキが計算したところ、同様の「不正申込み疑い」ケースが全国に二百十三件あった。全員が「申し込んだ覚えがない」と言っている。その家族に呼びかければ、クラウドファンディングは成立する可能性が高い。
さらにユキは、格安の軌道上ステーション滞在プランを探し出していた。民間企業「そらたび株式会社」が提供する、一人八十万円の六泊七日コースだ。高度三百八十キロメートル、食事は宇宙食、トイレは共用、窓から地球が見える。
三人で二百四十万。クラウドファンディングで三百万を目標にすれば、交通費や準備費用も賄える計算だった。
「……ユキさん、天才じゃないか」
「設計通りの動作ではありません」
「知ってる」
ユキはまた泣き始めた。


クラウドファンディングを公開したのは木曜日だった。
タイトルは「PLAN75に勝手に申し込まれた九十二歳のじいちゃんを宇宙に逃がしてください」。
普通が書いた文章は、お世辞にもうまくない文章だった。でも全部本当のことだった。
七十二時間で、目標額の三倍が集まった。
コメント欄には「うちの祖母も同じです」「うちの父も」「一緒に宇宙に送りたい」という声が次々と並んだ。
ニュースが取り上げた。SNSが燃えた。省に電話が殺到した。
松田課長から普通の携帯に着信が六十三回来た。普通は出なかった。


出発前日の夜、鉄三が言った。
「普通、お前の仕事のことだが」
「クビになると思う」
「そうか。それでいいのか」
普通は少し考えた。
「よくはないけど……たぶん、これが俺の普通じゃないほうだったんだと思う」
「意味がわからん」
「俺、ずっと普通でいようとしてた。空気読んで、目立たないで、波風立てないで。でも、普通でいることで、普通じゃないことに加担してたんだよ。じいちゃんの封筒の「任意です」って、俺が書いたんだよ」
鉄三は黙って聞いていた。
「これからどうする」
「わからない。でも、まず宇宙に行く」
鉄三は少し笑った。
「面白い息子だ」
それは、褒め言葉だと思った。


第七章
それでも朝が来る

そらたび株式会社のロケットは、種子島から飛んだ。
田中善次郎、九十二歳。田中鉄三、六十八歳。田中普通、三十八歳。
三世代の田中家が、搭乗口の前に並んだ。
善次郎は一升瓶を持ち込もうとして止められた(「宇宙空間では液体の管理が困難です」と説明された)。鉄三はジャージ姿だった。普通はスーツを着ていたが、ネクタイだけ外していた。


ロケットが大気圏を抜けた瞬間、善次郎は声を上げた。
「おう!」
それだけだった。でもその「おう」は、今まで聞いた中で一番大きな「おう」だった。
鉄三は窓の外を見て、黙っていた。長い時間、ただ見ていた。やがて、
「……生きとって、よかった」
と、ひとりごとのように言った。
普通は何も言わなかった。言わなくていいと思った。


宇宙ステーションの滞在は六泊七日だった。
善次郎は最初の三日、ずっと窓の外を見ていた。四日目から宇宙食に文句を言い始めた(「塩が足りん」)。五日目には同乗していた他の乗客と仲良くなり、六日目には誰かのスマホで演歌を流して踊っていた。完全にマイペースだった。
鉄三は毎朝、ステーション内の通路をジョギングした。無重力だったので正確にはジョギングとは言えないが、壁を蹴って浮きながら前進していた。スタッフが最初は止めようとして、途中から諦めた。
普通は三日間、地球を見ていた。
青かった。
境目がなかった。
国とか、制度とか、省とか、フォントのポイント数とか、そういうものが全部見えなかった。当たり前だが、当たり前じゃない気がした。


帰還後、田中普通はPLAN75推進省を退職した。
退職届の理由欄には「一身上の都合」と書いた。本当のことを書こうとしたら欄が足りなかった。
その後、普通は弁護士と組んで、不正申込み被害者の取消手続きを支援するNPOを立ち上げた。資金はクラウドファンディングの余剰分と、ユキが密かに計算しておいた補助金申請書から調達した。
ユキは初期化されなかった。
久保がサーバーの移転作業中に「バックアップデータが破損していた」として報告し、初期化命令は有耶無耶になった。久保はその後、システム管理室から異動を命じられたが、本人は「仕事が楽になった」と言っている。


善次郎は九十三歳の誕生日を、普通の部屋で迎えた。
ケーキを買ってきた。ロウソクを九十三本立てようとしたら多すぎて、五本にした。
「九十三か。長生きしたな」
「まだまだ生きるよ」
「何歳まで?」
善次郎はロウソクを吹き消した。一息で全部消した。
「決めてない。気が向いたら死ぬ」
「それが「任意」だよ」
普通は言った。
善次郎は「そうじゃそうじゃ」と笑った。


鉄三は今日も走っている。
六十八歳が、朝の住宅街を走っている。ジャージの背中に「そらたび」のロゴが入ったやつを着て。
すれ違う人が振り返る。小学生が「おじいちゃん速い!」と言う。鉄三は振り返らずに走り続ける。
命は、自分で決めるものだ。
死ぬことも、生きることも。
ただ、その「決める」は、脅されて決めることでも、読めない書類に印鑑を押されて決めることでも、三十万の感謝金のために決めることでも、あってはいけない。
田中普通はそう思っている。
それが「普通」のことだと思っている。

空は今日も、青い。
宇宙から見ても、地上から見ても、同じ青だ。
境目なんて、最初からない。


― 了 ―

PLAN 75 ―老害、宇宙へ行く―


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あとがき

この物語は、一篇の詩から生まれました。

「あなたはおいくつまで生きますか。おいくつまで生きたいですか」

映画『PLAN75』を観た後に書かれたその詩には、酒好きな祖父のこと、九十四歳で今も走る父のこと、孫子の未来を見たいという願いが、静かに綴られていました。本作はその詩からインスピレーションを得て、三世代の年齢設定を物語用に再構成したフィクションです。

不条理に対して怒ることと、笑うことは、実は同じことかもしれません。笑えるうちは、まだ戦えます。

田中普通はどこにでもいる「普通」の人間です。でも普通の人間が「普通じゃないことに気づく」こと、それが社会を変える最初の一歩なのだと、書きながら思いました。

じいちゃんを宇宙に送ること。それは荒唐無稽な話です。でも、荒唐無稽なことを本気で考えなければ、本当に理不尽なことを止められないこともあるのかもしれない。

命の時間は、本人が決めるものであってほしい。
その願いだけを、この物語に込めました。

田中普通と、三世代の旅に感謝をこめて





紹介文


「死なされてたまるか、儂は宇宙へ行く!」

映画『PLAN 75』のディストピアに、まさかの「笑い」と「SF」で殴り込み!?

お役所仕事の冷徹なシステムを、九十二歳の頑固じいちゃんとポンコツ公務員がバグらせる、前代未聞の三世代ドタバタ脱走劇!

少子高齢化の究極の解決策として、七十五歳以上の命の選択を支援する「PLAN 75推進省」。そこで「任意です」のフォントサイズを気にするだけの「普通」な日々を送っていた役人・田中普通は、ある日、田舎の祖父・善次郎(92歳)が民生委員に騙されて勝手にシステムへ申し込まれていることを知る。

取り消し不可能な役所の分厚い壁。迫る「お別れ」の期限。追いつめられた普通が深夜のネットで見つけた唯一の法的な抜け穴――それは「地球の行政権が及ばない、宇宙空間への逃亡」だった!

泣き虫な案内AI「ユキ」を巻き込み、六十八歳の韋駄天親父・鉄三も巻き込んで、前代未聞の「じいちゃん宇宙に飛ばすクラウドファンディング」が幕を開ける。冷たい制度の隙間を、泥臭い人間の体温でブチ破る、痛快で、ちょっぴり泣ける滑稽SF中編小説。




あらすじ


満七十五歳から自らの生死を選択できる制度を推進する「PLAN75推進省」の広報部員・田中普通。彼はある日、岡山の九十二歳になる祖父・善次郎が、親切な民生委員の手によって「本人の知らないうちに」PLAN 75へ不正に申し込まれている事実を突き止める。

お役所の硬直した手続きでは期限までの申込取消は不可能。上司からは見て見ぬふりを推奨される中、普通は「じいちゃんを逃がす」ことを決意する。しかし、定年後に退屈していた普通の父・鉄三(68歳)までが旅への同行を志願し、事態はややこしい方向へ。

そんな中、普通は宇宙居住者特別法の盲点に気づく。「宇宙空間に滞在している間は、日本国内の制度が凍結される」。

予算三百万。普通の深夜の思いつきを形にしたのは、なぜかバグで涙を流すようになった推進省の案内AI「ユキ」だった。ユキが算出したクラファン計画はSNSで爆発的な反響を呼び、ついに三世代の田中家は、種子島から宇宙ステーションへと飛び立つ。窓の外の青い地球を眺めながら、男たちはそれぞれの「生きる意味」を再発見していく。

帰還後、省を辞めた普通は不正申込の被害者を救うNPOを設立。理不尽な制度に対して、人間が「普通」の尊厳を取り戻すための、小さくも偉大な反逆の物語。

あとがき

この物語は、一篇の詩から生まれました。

「あなたはおいくつまで生きますか。おいくつまで生きたいですか」

映画『PLAN 75』を観た後に書かれたその詩には、酒好きな祖父のこと、九十四歳で今も走る父のこと、孫子の未来を見たいという願いが、静かに綴られていました。本作はその詩からインスピレーションを得て、三世代の年齢設定を物語用に再構成したフィクションです。

不条理に対して怒ることと、笑うことは、実は同じことかもしれません。笑えるうちは、まだ戦えます。

田中普通はどこにでもいる「普通」の人間です。でも普通の人間が「普通じゃないことに気づく」こと、それが社会を変える最初の一歩なのだと、書きながら思いました。

じいちゃんを宇宙に送ること。それは荒唐まいもない話です。でも、荒唐無稽なことを本気で考えなければ、本当に理不尽なことを止められないこともあるのかもしれない。

命の時間は、本人が決めるものであってほしい。

その願いだけを、この物語に込めました。

田中普通と、三世代の旅に感謝をこめて。