『イヴの符号』
── 二分八秒、44年のクリスマス
まえがき
クリスマスソングには、不思議な力があります。
街を歩いていても、何十年も前に聴いた一曲が流れた瞬間、その頃の景色や匂い、人の笑顔まで鮮明によみがえることがあります。
音楽は、時間を閉じ込めることができるのかもしれません。
もし、ある一曲を聴くたびに、人生でたった一度だけ後悔した「あの日」へ戻れるとしたら。
もし、その時間が、たった二分八秒しか与えられなかったとしたら。
あなたなら、誰に会いに行きますか。
何を伝えますか。
そして、どんな未来を選びますか。
『イヴの符号』は、タイムリープの物語でありながら、「時間」よりも「想い」を描いた物語です。
人生はやり直せなくても、心は何度でも誰かを想うことができます。
この物語が、あなたにとって大切な誰かを思い出す、小さなきっかけになれば幸いです。
どうぞ、レコードの針を静かに落とすような気持ちで、お読みください。
プロローグ 二分八秒のバグ
レコードに針を落とすたび、僕は六十八歳になる。
正確には、針が『Rockin' Around the Christmas Tree』のイントロを拾った瞬間、身体中の関節が六十八年分きしむ。
東京・杉並の6畳間、ユニクロのスウェット、Amazonで7,980円だった安いプレーヤー。そのすべてが“間違い”だと、ブレンダ・リーが教えてくれる。
2026年12月24日。木曜。午後11時49分。
スマホが震えた。Messenger。
Tammy Hall。
「Come?」
毎年同じ一言。44回目。写真もスタンプもない。1982年のタミーは絵文字を知らないから、53歳のタミーも使わないのだと、僕は思っている。
「今年も難しい」
打って、送信。既読は3秒でつく。返事はない。
B面、最後。2分08秒。曲の長さは44年間1秒も変わらない。変わったのは僕の方だ。
教員生活38年、定年して3年。妻とは10年前に別れた。子どもはいない。母を見送り、父を見送り、弟は先に逝った。
部屋で生きているのは、30年前に神保町で買ったLPだけだ。
『Merry Christmas from Brenda Lee』。ジャケットの彼女は日焼けして頬が黄ばんでいる。それでも歌声だけは1982年のままだった。
一分五十秒。いつもなら、部屋の隅に“影”が出る。五十歳のタミーの輪郭。僕を見て、笑らず、泣かず、ただ立っている。
今年は出ない。
代わりに、曲が震えた。
――Rockin' around... Rockin' around... Rockin' around...
針飛び。ありえない。レコードにそんな機能はない。
部屋がブレる。本棚がデジタル・ノイズに溶ける。液晶テレビが砂嵐を吐く。2026年が、書き換えられていく。
まずい。ルールが違う。二分八秒は、まだ――
内ポケットがずしりと重くなる。ツイードだ。スウェットのわけがない。1982年に着ていた、あのジャケット。使い古した英和辞書の角が脇腹に当たる。
床が消える。浮く。落ちる。耳の奥で、電子音と、人々のざわめきが混ざる。
匂いがした。甘い。パンチボウルの匂い。
視界が白く焼き切れる。
第1章 1982年の夜
次に目を開けた時、僕はパイプ椅子に座っていた。
冷たい。アルミの感触が尻にリアルだ。
見下ろすと、ツイード。締め付けが苦しいタイ。内ポケットの辞書が、確かにある。指で押すと、挟んだ写真の厚みがわかる。
日本に置いてきた、彼女の写真。1982年の僕が、まだ捨てられずにいた証拠。
ざわざわと、人の声。カトラリーの音。壁には手書きの“Merry Christmas”。天井からはモールが下がっている。
ステンドグラスの向こうはLAの冷たい夜空だ。暖房が効きすぎて、空気が甘い。
小さな教会。ワシントン大通り。1982年12月24日。
身体が、軽い。手を握る。皺がない。68歳の腰痛も、老眼も消えている。24歳だ。
鏡を見なくてもわかる。24歳の僕に戻っている。
混乱する。意識だけ飛ぶはずじゃなかったのか。肉体ごと来た。ということは、2026年の杉並の部屋で、僕は死んだのか?孤独死。明日のニュースにもならない。
「Excuse me」
声をかけられて、顔を上げる。白人の老婦人。手に持った紙皿には、クッキー。
「You must be Ken’s friend from Japan. Merry Christmas」
Ken。ケン・ミラー。語学学校のホストファザー。彼が僕をここに連れてきたんだった。そうだ、思い出す。全部、思い出す。
1982年。僕は語学留学でLAにいた。ホストファザーのケンに誘われ、彼が通う教会のクリスマス・パーティーに連れてこられた。
酒もない、厳かで、少し退屈な夜。壁際で英和辞書を握りしめて、早く終われとだけ思っていた夜。
でも、退屈じゃなかった。九歳の女の子に会ったからだ。
「……ねえ」
袖を引かれる。心臓が跳ねた。
ゆっくり、隣を見る。
僕の胸のあたりまでしか背丈のない、少女。赤いワンピース。白いタイツ。髪に大きなリボン。九歳のタミー・ホール。ケンの姪。
1982年の、あの晩のタミー。記憶の中と同じ。1ミリも違わない。
彼女が不思議そうに僕を見上げている。青い瞳。まだ何も失っていない、44年前の色。
「どうしたの?難しい顔して」
声も、同じだ。ハスキーになる前の、高い声。
BGMが切り替わる。イントロ。ピアノ。ストリングス。
僕は知ってる。この曲。
スキーター・デイヴィスの『The End of the World(世界の終わり)』。
世界の終わり、だ。チークタイム。44年前に、彼女と踊った曲。
タミーが小首をかしげる。
「次の曲、踊ってくれる?」
喉が詰まる。68歳の僕は知っている。この後どうなるかを。
僕らは背丈が合わないまま笑って、僕が「僕のフィアンセだ」とふざけて、彼女が頬を染める。
パーティーが終わって、ケンが「送っていく」と言って、僕はタミーに「来年も来れたらいいね」と言って、彼女が小指を出す。僕は「たぶん」と濁す。
翌週、父の電報が来る。母が倒れた。緊急帰国。日本。語学学校中退。就職。バブル。母の介護。気づけば44年。
「たぶん」が、44年になった。
タミーの瞳を見ている。
そこで、息が止まった。
一瞬、光った。青の奥。九歳のタミーの目じゃない。知っている、この皺。53歳のタミーが、孫の写真を送ってくる時の目だ。
Messengerのアイコンで、何百回も見た。疲れて、優しくて、諦めている目。
きらめきは、一秒で消えた。九歳の無垢な青に戻る。
彼女も、来ている。
9歳の身体に、53歳の意識が入ってる。2026年から、一緒に飛ばされたんだ。
符号は、僕一人じゃなかった。
二人で解く暗号だった。
あと二分四十秒で、この曲が終わる。
その時、僕らはどうなる? 2026年に戻されるのか。1982年に定着するのか。それとも――
タミーがもう一度、袖を引いた。
「ねえ、ケンジ。踊ろ?」
ケンジ。呼ばれた。44年ぶりに、下の名前で。
24歳の肺に、68歳の空気を詰め込む。辞書の上から、胸を一度叩く。
答えは決まっていた。44年前に、言うべきだった言葉だ。
「喜んで。メリークリスマス、タミー」
立ち上がる。彼女の手は小さくて、冷たかった。フロアの真ん中へ。周りの大人が道を開ける。九歳と二十四歳。背丈は合わない。でも、曲が始まる。
スキーター・デイヴィスの声が、1982年の空気に溶ける。
Why does the sun go on shining... 世界の終わり、の中で、僕たちの時間だけが、回り始めた。
フロアの真ん中は、僕らのために空いていた。
九歳のタミーの頭は、僕の胸の少し下にしかない。手を繋ぐすると、彼女の指は全部僕の手のひらに隠れてしまう。周りの大人たちが「まあ」と笑う。ケン・ミラーが口笛を吹いた。
「僕のフィアンセだ」
言ってみた。44年前と同じセリフ。英語は拙い。低音の響きだけが、24歳の肉体から漏れる。
タミーは一瞬きょとんとして、それから頬を真っ赤にして笑った。声を立てて。
「フィアンセって、知ってるの?結婚する人のことでしょ!」
知ってる。53歳の君が、離婚届にサインした日の顔も知ってる。言えないけど。
『The End of the World』がサビに入る。
Why does my heart go on beating... ステップなんて知らない。
ただ、ゆっくり回るだけ。タミーの白いタイツのつま先が、僕の革靴をちょんちょんと踏む。
「ごめん」
「いいの。私、背が低いから」
背が低いから、じゃない。僕が44年分の重さで沈んでいるからだ。
曲の終わりが近づく。あと30秒。24歳の僕は知らなかった。この30秒の後、何が起きるかを。68歳の僕は知っている。
何も起きない。パーティーが終わり、ケンが「送るよ」と言い、玄関でタミーが小指を出す。僕は「たぶん」と言う。翌週、日本に帰る。
同じ轍は踏まない。
曲が終わる。拍手。タミーがぺこりとお辞儀する。僕もつられて頭を下げる。
周りが解散して、パンチボウルに群がり始めた。チャンスは今しかない。
「タミー」
呼び止める。彼女が振り向く。リボンが揺れる。
「来年も、ここに来る」
断言した。44年前は言えなかった言葉。
「来年も、踊って」
タミーの青い瞳が、また一瞬きらめいた。53歳の光。彼女は一瞬だけ大人びた顔をして、すぐ九歳に戻る。
わかってる。彼女も覚えてる。2026年から来たことを。
「約束?」
彼女が小指を出す。
「約束」
僕も小指を絡める。
24歳の指と、9歳の指。44年の距離。
その時、教会の扉が開いた。ケンが顔を出す。
「Kenji, we’re leaving. Say goodbye to Tammy」
早い。まだ二分も話してない。
タミーが名残惜しそうに手を離す。
「メリークリスマス、ケンジ。また来年」
「メリークリスマス」
僕はケンの車の助手席に乗る。振り返る。教会のステンドグラスの灯りの中、タミーが小さく手を振っていた。赤いワンピースが、どんどん遠くなる。
車が発進した瞬間、耳の奥で針が上がる音がした。
――プツン。
視界がまた白く焼き切れる。
次に目を開けると、杉並の6畳間だった。
ユニクロのスウェット。68歳の腰痛。右手に握られているのは、英和辞書じゃない。スマホ。画面はMessenger。
Tammy Hall:既読。
送信時間:2026/12/24 23:52
「今年も難しい」
戻ってきた。2分55秒、経っていた。『The End of the World』1曲分。
机の上のレコードは、B面の最後。針は自動で戻って、止まっている。
夢じゃない。ツイードの匂いが、まだ鼻に残ってる。タミーの手の冷たさが、まだ左手に残ってる。
底冷えする6畳間。変わらない。僕は2026年にいる。彼女はLAにいる。44年の距離は、1ミリも縮んでない。
スマホが震える。
Tammy Hall
「I saw you.」
息が止まる。
「In 1982. You promised.」
打つ手が震える。
「You too?」
送信。
既読。
「Yes. Every year, 2:08. But only shadow. This year, real.」
毎年、二分八秒。彼女も見ていた。僕の影を。
今年だけ、実体で会えた。
「Next year?」
僕が打つ。
既読。返事はない。44年間と同じ。
一分後、最後に一通、来た。
「Merry Christmas, Kenji. 1983」
1983。来年の話だ。
符号は、終わってない。
第2章 44回の12/24|1983 - 2025
1983年12月24日 僕25歳 / タミー10歳 高円寺のレコード屋でブレンダ・リーを探した。
輸入盤。2分08秒。針を落とす。
一分五十秒。部屋の隅。タミーの影。10歳のまま。こっちを見て、小さく手を振る。触れない。二分八秒。消える。
符号の法則に気づいた。『Rockin' Around...』が“扉”。二分八秒で開く。『The End of the World』が“鍵”。踊り切ると選択権が出る。他の曲は“ノイズ”。時空が混線した年のBGM。
1985年12月24日 僕27歳 / タミー12歳 ケンからクリスマスカード。タミーの写真。少し大人びた笑顔。「Kenji is my fiancéって今でも言ってるよ」って書いてある。2分8秒。影は少女の顔つきになっていた。
1991年12月24日 僕33歳 / タミー18歳 バブルの狂乱。会社。午前0時、ビルの非常階段でウォークマンを聴く。
影のタミーはもう僕の肩くらい。高校の卒業ドレス。「戻るぞ、阿佐ヶ谷で飲み直すぞ」って同期に肩を叩かれる。現実の方が重い。
2000年12月24日 僕42歳 / タミー27歳 母が倒れた。介護でLAどころじゃない。12/24、静まり返った荻窪の病院。母の点滴の音。イヤホンで2分8秒。
影のタミーは看護師の格好。母のベッドを覗き込む。何も言わない。母は年明けに逝った。
2010年12月24日 僕52歳 / タミー37歳 離婚した。12/24、空っぽの杉並の家。2分8秒。影のタミーは、左手の薬指を見せた。指輪がない。僕もない。無言で確認し合った。
2016年12月24日 僕58歳 / タミー43歳 定年が見えてきた。タミーはFacebookに孫の写真をアップしてる。「My granddaughter, Lily」
コメントした。「Beautiful. Like you in 1982」
2分8秒。影のタミーは、Lilyを抱いて僕に見せにきた。
2025年12月24日 僕67歳 / タミー52歳 弟が死んだ。葬式の夜。2分8秒。影のタミーは喪服。僕の隣に座ろうとして、座れなくて、立ったまま。「Sorry」って口が動いた。手を伸ばした。届かない。その距離が、44年だった。
そして2026年。
――Rockin' around... ループした。肉体ごと1982年に送られ、ダンスをやり直した。
帰ってきた杉並で、わかった。符号のルール。
1. 二人とも独身の12/24にだけ発動する
2. 「後悔」が強いほど、干渉が強くなる
3. 44年分溜まった後悔が、ついに実体転送を引き起こした
4. 『The End of the World』を踊り切ると、選択権が発生する
選択権。
A. 1982年に定着:24歳と9歳で人生やり直し。2026年の身体は死ぬ
B. 2026年に帰還:68歳と53歳で老いらくの再会。もう符号は起きない
C. ???:踊り切った者にだけ見える、第三の道
Messengerが光る。
Tammy Hall:「Next year, 2027. I will be 10. You will be 25. Until we decide.」
決めるまで。毎年二分八秒だけ、1年ずつ進む過去に戻れる。
現実では69歳と54歳のまま、杉並で老いていく。
来年、訊かなきゃいけない。「いつまで、踊る?」って。
二分八秒は、来年のために取っておく。
終わらない二分八秒として。
第3章 ループの日|2027年12月24日
一年は、長い。二分八秒を待つには、長すぎた。
2027年。僕は69歳になった。タミーは54歳。12/24以外、連絡しない。破ったら、符号が壊れる気がした。
12月24日。金曜。午後11時49分。
深呼吸。25歳の肺を思い出す。針を落とした。
――プツッ。
『Rockin' Around the Christmas Tree』。
一分五十秒。来た。
部屋がブレる。テレビが砂嵐。本棚がノイズ。2027年の杉並が剥がれていく。
身体が軽くなる。ツイード。タイ。内ポケットの辞書。ずしり。
重力がない。落ちる。
――Rockin' around... Rockin' around...
ループだ。
去年と同じ。針飛び。世界がバグる。甘い匂い。パンチボウル。
視界が白く焼き切れる。
目を開ける。パイプ椅子。冷たい。アルミ。
見下ろす。ツイード。荻窪の古着屋で買ったやつだ。でも、去年と違う。袖が少し短い。身体が、若いけれど、少し大人の厚みがある。
25歳だ。去年は24歳だった。1年、進んでいる。
1983年のクリスマス。僕らは、過去の地平でも1年ずつ歳を取る。
「……ねえ」
袖を引かれた。隣。青いワンピース。髪のリボンも青。1年、成長している。
10歳のタミー。大人の階段を上り始めた少女。でも、瞳が違う。去年きらめいた53歳の光が、最初から宿っている。
「ケンジ。去年、約束したでしょ。次の曲、踊って」
BGMが切り替わる。1983年の冬。曲も1年進む。
流れてきたのは、プリンスの『Purple Rain』。まずい。リリースは翌年の1984年のはずだ。時空の有線放送が、未来へ混線している。
静かな教会で流れるはずのない、重く切ないギターが、ステンドグラスを震わせる。
タミーがくすくす笑う。「変な曲。でも、踊ろ」
フロアに出る。
10歳と25歳。去年より、少しだけ身長差が縮まった。彼女の頭が、僕の鳩尾まで来る。手を繋ぐ。1年分、成長した手。
「ケンジ、聞きたいことあるの」
踊りながら、タミーが言う。54歳の顔で。
「私たちが、このまま毎年来れるの? いつまで?」
「...決めるまで」
プリンスのギターが激しく咽び泣く。紫の雨。中身の彼女は54歳だ。
「ケンジさ、来年私は11歳になるよ。ケンジは26歳。33歳と18歳になるまで、あと8回。33歳と18歳でも、ちょっと犯罪っぽいよね、日本だと」
心臓を、鷲掴みにされた。それが、C案の持つ「毒」だ。
毎年二分八秒だけ、僕らは1歳ずつ歳を取る。現実の僕らは犯罪者か? 誰が僕らを裁く? ブレンダ・リーか?
「でもね、ケンジ」 タミーが、ぎゅっと手を握る。54歳の力。
「69歳と54歳で、今から現実の老人ホームで恋愛するより、ずっといい。だって、やり直せるから。44年分、言えなかったこと、全部」
紫の雨が、教会の床を濡らすように響く。曲が終わる。あと20秒。
タミーが、つま先立ちした。だから僕が、屈む。25歳の若い背中を、深く折る。
彼女の唇が、僕の頬に触れた。子供のキス。でも、そこには54年分の重さがあった。
「来年も、来て。約束」
小指を出す。絡める。44年分の後悔と、1年分の希望を乗せて。
その瞬間、見えた。高い天井。梁の隙間。そこに、レコードの溝みたいな黒い線が、天の川のように無数に走っている。
1982、1983、1984...2069。僕らが踊るたび、1本ずつ針が落ちる。
選択肢が、頭の中に降ってきた。
A. ここで止まる:針を上げれば、2027年の杉並に戻れる。69歳と54歳で、残りの余生を会って過ごす。
B. ここに留まる:針を落としたままにすれば、1983年の僕らとして過去に生きられる。だが2027年の僕の身体は即座に死ぬ。
C. 踊り続ける:毎年二分八秒だけ戻ってくる。現実では老いていき、過去では恋を育てていく。永遠のすれ違い、永遠の純愛。
タミーが、僕の目を見ている。54歳の目で。「ケンジ、どうする?」
僕は、屈んだまま、彼女の額に自分の額をそっと当てた。
「来年も、踊ろう。111歳と96歳になっても。死んでも、踊ろう」
タミーが笑った。10歳の無垢さで。54歳の諦念と抱擁で。
――プツン。
視界が白く焼き切れる。
目を開けると、杉並だった。69歳の腰痛。ユニクロのスウェット。針は上がっていた。
机の上の時計。2027/12/25 0:02。二分八秒、経っていた。
スマホ、通知なし。机の上のレコードジャケット。
ブレンダ・リーが、「あんたたち、どこまで行く気?」って、呆れた顔をしていた。
どこまでも、だよ。
二分八秒ずつ、全部回収する。
44年分、言えなかった「メリークリスマス」を。
メリークリスマス・エンドレス。
残された時間の少ない69歳の老人には、ちょうどいい歩幅だ。
二分八秒は、取っておく。
終わらない二分八秒として。
エピローグ 終わらない二分八秒|2028 - 2069
2028年12月24日 僕70歳 / タミー55歳 → 過去:26歳と11歳 「去年、言えなかったこと、あるんだ」
11歳のタミーが、僕の歪んだタイを直してくれる。1984年の教会。
流れているのはワム!『Last Christmas』。
「なに」
「おじいちゃん、死んじゃった」
現実の話だ。ケン・ミラーが、この年の春に逝った。
「葬儀、行けなくてごめん」
「いいの。ケンジも、仕事大変だったでしょ」
代わりに、小さな小指を出す。「来年も、来る」
「うん」
二分八秒。針が上がる。杉並に戻ると、PCにケンの訃報メールが来ていた。符号は、未来を変えない。ただ、二分八秒だけ、痛みを分け合える。
2035年12月24日 僕77歳 / タミー62歳 → 過去:33歳と18歳 恐れていた年が来た。
18歳のタミーは、深紅のドレスを着ていた。33歳の僕は、ツイードが少しきつい。マライア・キャリーの『All I Want for Christmas Is You』が未来から混線して流れる。
「ケンジ、キス、していい?」
18歳と33歳。中身は77歳と62歳。
「...だめだ。来年、34歳と19歳になったら」
「大人の言い訳。ケンジのばか。44年前のあの日も、そうやって逃げた」
18歳の彼女の濡れた頬に、33歳の僕の手が、触れるだけ触れた。
唇には、届かない。それが僕の、最後のプライドだった。
「ごめん」「ううん。来年も、絶対来て」
二分八秒。杉並の暗闇で、僕は泣いた。77歳の、情けない嗚咽。
メリークリスマス・エンドレス。終わらない罰だ。
2042年12月24日 僕84歳 / タミー69歳 → 過去:40歳と25歳 タミーが、小さな子供を連れてきた。「私の孫。Lily。現実では15歳」
1982年の教会をベースにした空間に、2027年生まれの少女が立っている。Lilyが、大きな青い目で僕を見る。
「Grandma’s fiancé?」
タミーが少女のように爆笑する。
「Yes. 44 years ago, he said so」
25歳の僕は頭を下げる。
「はじめまして。ケンジです」
『The End of the World』が流れる。40歳の美しいタミーと、25歳の僕で、静かに踊る。
15歳の孫が、それを見ている。地獄みたいに、幸福な光景だった。
「本当のプロポーズは?」「...来年」「また逃げる」「逃げない。もう60年以上、君だけを待ってた」
2051年12月24日 僕93歳 / タミー78歳 → 過去:49歳と34歳 僕は、現実の部屋で杖をついていた。
秋に高円寺の駅前で転んで脚を悪くしたからだ。過去の34歳の身体は健康そのものなのに、脳が覚えている杖の感覚が抜けない。
不格好に歩く僕の腕を、49歳のタミーが、優しく組んでくれた。
「老けたね、ケンジ。中身が」「君もな。綺麗に」
流れてきたのは、ジョンとヨーコの『Happy Xmas (War Is Over)』。
「戦争、終わってないね」と、タミーが言う。
「便も、僕らは終わらせたよ。44年間の、すれ違いという名の戦争を」
僕らは踊らなかった。
ただ、しっかりと腕を組んで、静かに曲を聴いた。93歳の魂と、78歳の魂で。二分八秒。それで、十分に満たされていた。
メリークリスマス・エンドレス。
2069年12月24日 僕111歳 / タミー96歳 → 過去:67歳と52歳 来た。本当の最後だ。
僕は111歳。日本最高齢に近い。寝たきり。点滴。杉並の、静かなホスピス。タミーは96歳、LAのホスピス。
午後11時49分。看護師が静かに部屋を出る。「メリークリスマス、加藤さん。良い夜を」
擦り切れたスピーカーから、針が落ちる。魂がイントロを拾う。
一分五十秒。部屋が、ブレない。現実を剥がす体力すら残っていない。
だが、光は満ちた。
111歳の僕。96歳のタミー。温かい光だけが満ちた、白い空間。
タミーの髪は美しい総白髪。でも、髪のリボンだけはあの晩と同じ、鮮やかな赤だった。僕のツイードジャケットは、皺だらけの111歳の身体に、やけに大きくぶら下がっていた。
「ケンジ」「タミー」 呼び合う。通算89回目のクリスマス。空間に、音はない。完全な静寂。でも、胸の奥で『The End of the World』が爆音で鳴り響いている。
「来年、どうする?」 タミーが聞く。96歳の笑顔で。
「...それでも、踊ろう」 僕は言う。
「うん」 タミーが、ゆっくりと小指を出す。96歳の、愛おしい小指。
僕も出す。
111歳の、震える小指。魂の指が、確かに結ばれた。
「ケンジ、ありがとう」
「何が」
「言わなかったこと」
「...」
「ばかだな」
「君の方が、大ばか」
光が強くなる。二分八秒が、終わる。
だが、針が上がるプツンという音は、もうしなかった。
上がるべき日常の溝が存在しない。
最後に、タミーが僕の胸に頭を預けて囁いた。
「世界の終わり、じゃなかったね。始まりだった」
「ああ。メリークリスマス・エンドレス」
「ああ。メリークリスマス、ケンジ」
2069年12月25日 午前0時02分 杉並のホスピス 2069年12月25日 午前0時02分 LAのホスピス 二つの国の、離れた部屋で、まったく同時に電子モニターが長い平坦なフラットラインを告げた。
杉並の机の上のレコードは、静かに止まっていた。
B面、最後。2分08秒。
針は、溝の一番奥、ゼロの場所で眠っている。
ジャケットのブレンダ・リーは、17歳の瑞々しい笑顔で、永遠の恋人たちを祝福するように歌っていた。
その年のクリスマス、東京とLAで、まったく同じ時間に、静かな雪が降った。
LAに雪が降るのは、実に数十年ぶりの奇跡だった。
二分八秒だけ、激しく降って、そして静かにやんだ。
数日後、大人になったLilyが、祖母の遺品から1枚の古い手紙を見つける。
『1982 - 2069』
中には、掠れた文字で、たった1行だけ。
――二分八秒。僕たちの時間は、今ここから、新しく回り始める。
Lilyは、理由も分からず涙をこぼし、その手紙を小さな額に入れた。
けれど、彼女は毎年12月24日の夜になると、部屋の明かりを消し、古いプレーヤーでブレンダ・リーをかけるようになった。
なぜだか、そうしなきゃいけない気がした。
時間の裂け目の向こうで、今も踊り続けている、二人のステップを踏み外さないために。
――了――
あとがき
人生には、「あの時、ああしていれば」と思う出来事が、誰にでも一つや二つあるものです。
けれど現実は、時間を巻き戻してはくれません。
だからこそ私は、「もし一年に一度、クリスマスイブの二分八秒だけ戻れるなら」という小さな空想から、この物語を書き始めました。
二分八秒という短い時間は、一曲が終わるまでの長さであり、人生を変えるにはあまりにも短すぎます。
それでも、人はそのわずかな時間で約束を交わし、想いを伝え、誰かの人生を照らすことができるのではないでしょうか。
ケンジとタミーは四十四年間、「間に合わなかった時間」を抱え続けました。
それでも最後には、「世界の終わりではなく、始まりだった」と笑い合えました。
私もまた、この物語を書き終えた今、過去をやり直したいのではなく、「今日」を大切に生きようと思っています。
この本が、あなたにとって大切な人へ「メリークリスマス」と伝えるきっかけになれば、作者としてとても嬉しく思います。
また次の物語で、お会いしましょう。
ー原詩ー














