絵路転生記

〜葛飾北斎と刻をこえた男〜
玉響転生記・第十話


まえがき
九度の邂逅を経て、榊原凪は、また少し違う色合いの「刻」へと導かれることになった。
 伊能忠敬との旅で、凪は「星路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「絵路」であった。
 筆を措くその日まで、ただひたすらに、絵の道を究めようとした男。
 嘉永二年(一八四九年)四月。齢九十にして、なお「あと十年、いや五年の命があれば」と悔いたと伝えられる男――葛飾北斎。生涯に画号を三十回以上変え、九万点とも言われる作品を遺しながら、最期まで「まだ足りぬ」と言い続けた絵師の物語である。




プロローグ 卯月の来訪
 東京は、初夏に向かう、爽やかな夜だった。
 榊原凪は、五十四歳になっていた。伊能忠敬との旅から、半年余りが経っている。
 深川の病床で、忠敬が「拙者の死を、隠すな」と言い残した、あの静かな声を、凪は今も思い出す。
 書き上げた小説『星の彼方へ』は、静かな、しかし確かな共感を呼んだ。「名声より、仕事そのものを信じる」という生き方に、多くの読者が心を動かされたようだった。
 その夜、凪は書斎で、浮世絵の画集を眺めながら、うたた寝をしていた。
 ふと、墨と、絵の具の匂いがした。
 顔を上げると、部屋の隅に、一人の老人が座っていた。
 粗末な着物。痩せ細った体。しかし、その目だけは、驚くほど鋭く、爛々と輝いていた。齢を全く感じさせない、少年のような好奇の光だった。
 「夜分に、御免」
 老人は、ぶっきらぼうに言った。
 「あなたは……」
 「画狂老人、卍(まんじ)と申す。もっとも、世間では、葛飾北斎と呼ぶ者の方が、多かろうな」
 凪は、息を呑んだ。
 葛飾北斎。『富嶽三十六景』『北斎漫画』をはじめ、生涯に無数の作品を生み出し、その画業は、後にゴッホやモネら西洋の画家たちにまで影響を与えることになる絵師。そして――このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。
 「なぜ、ここに」
 「知らんよ、そんなことは」北斎は、ぶっきらぼうに言った。「気づいたら、この妙な部屋におった。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能――そなたが会うてきた連中の気配が、なんとのう分かる。奇妙な男じゃな、そなたは」
 彼は、凪をじろりと見た。
 「拙者は今、浅草の裏長屋で、寝たきりよ。もう、絵筆を握る力も、ろくに残っておらぬ」
 「北斎様……」
 「だが」老人の目が、鋭く光った。「拙者には、まだ、描きたい絵がある。それを描かずに死ぬのが、悔しくて、たまらぬ」


一章 十度目のたゆたい
 その夜、凪は画集に埋もれながら、考え続けていた。
 これまでの九人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
 だが葛飾北斎の場合、その重さは、また違う質のものだった。
 史実において、北斎は嘉永二年四月十八日(西暦一八四九年五月十日)、浅草・遍照院の境内にあった仮住まいで没する。享年九十。臨終の際、彼はこう言い残したと伝えられている。
 「天、我をして十年の命を保たしめば」「天、我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」
 あと十年、いや五年、命があれば、本当の絵師になれたのに――九十年生き、あれほどの作品群を遺しながら、なお「まだ足りぬ」と言い続けた男。
 彼の傍らには、娘のお栄――後に「応為(おうい)」の画号で知られることになる天才絵師――が、生涯にわたって付き添い、父の絵を手伝い、自らも優れた絵師でありながら、その名は、父の巨大な影に、長らく隠れ続けることになる。
 凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
 北斎が悔いていたのは、本当に「己の技量が足りぬこと」だけだったのか。それとも――その悔いの陰で、見過ごされてきたものが、何かあったのではないか。
 凪は、暗い天井を見つめた。
 「行きます」
 呟くと同時に、部屋の空気が震え、画集の匂いが、墨と絵の具の匂いに変わった。
 玉響。
 世界が、揺れた。


二章 浅草の裏長屋
 気づくと、凪は、浅草の裏路地に立っていた。
 遍照院に近い、粗末な長屋。板壁の隙間から、初夏の風が吹き込んでいる。
 凪の身なりは、町人風の羽織姿に変わっていた。
 「もし」
 戸口にいた女性に声をかけると、彼女は鋭い目で凪を見た。
 「北斎先生に、お目通り願いたい」
 「お前さん、何者だい」
 「先生のお指図で参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
 女性は、訝しみながらも、奥へと入っていった。
 しばらくして、戻ってきた。
 「榊原さんとやら。お上がりよ」
 この女性こそ、お栄――北斎の娘であった。


三章 北斎の病床
 病床の間は、狭く、粗末だった。だが、その壁という壁に、描きかけの絵、下絵、色見本が、所狭しと貼られている。九十歳の老絵師の、なお衰えぬ創作意欲の跡だった。
 北斎は、床の中から、鋭い目で凪を見た。
 「よう来た」
 「参りました」
 「座れ」北斎は、ぶっきらぼうに言った。「拙者は、六歳の頃から絵を描いてきた。もう八十四年になる。それでも、まだ、描き足りぬ」
 「なぜ、そこまで、描くことに、こだわられるのですか」
 北斎は、しばらく黙っていた。
 「拙者は、七十歳までに描いたものは、取るに足らぬと思うておる」彼は言った。「七十三歳になって、ようやく、鳥獣魚介の骨格、草木の生態の、真の姿が、少し分かってきた。八十で、さらに上達し、九十で、その奥義を極める。……そう思うておった」
 「今は、どう思われますか」
 「まだ、奥義には、程遠い」北斎は、悔しげに言った。「百歳になれば、拙者の絵は、神域に達すると思うておった。百十歳になれば、一点一格、生けるが如くになると。だが――拙者には、その時が、来ぬようじゃ」


四章 問いの重さ
 その夜、凪は北斎の家の隅で、眠れぬまま過ごした。
 北斎の言葉が、頭から離れなかった。
 ――百歳になれば、神域に達すると思うておった。
 これまでの八人は、皆、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが北斎の場合、彼の目指す先は、そもそも「有限の生」では到達し得ない、無限の高みにあるように思えた。
 九十年生き、あれほどの作品を遺してなお、「まだ足りぬ」と言う。それは、凄まじいまでの向上心であり、同時に――決して満たされることのない、渇きでもある。
 凪は、ふと思った。
 北斎が、これほどまでに「己の未熟」を語る一方で、傍らで彼を支え続けてきた娘、お栄の存在は、どう扱われているのか。
 史実において、お栄もまた、卓越した絵師であった。だが、彼女の作品の多くは、父の名の陰に埋もれ、後世、彼女自身の画業として、正当に評価されるまでには、長い時間がかかることになる。
 北斎は、自分自身の「未完成」を、あれほど雄弁に語る。ならば、お栄の才能についても、何か、語るべきことがあるのではないか。
 窓の外、隅田川の方から、微かな水音が聞こえていた。


五章 お栄との対話
 翌日、凪は、家の隅で絵の具を溶いていたお栄と、言葉を交わす機会を得た。
 「あんた、父についてきて、何を話してるんだい」
 「絵についてのお話を、伺っておりました。……お栄様も、絵を描かれるのですね」
 お栄は、手を止めた。
 「ああ、描くよ。父の手伝いも、自分の絵も」
 「お栄様ご自身の絵は、どのように評価されておいでですか」
 お栄は、少し皮肉な笑みを浮かべた。
 「『北斎の娘にしては、なかなかのものだ』ってね。……いつも、そう言われる」
 凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。
 「お栄様は、それを、どう思っておられますか」
 お栄は、しばらく黙って、絵筆を見つめていた。
 「悔しくないと言えば、嘘になる」彼女は、やがて言った。「でも、父の傍にいて、絵を学べたこと自体は、間違いなく、あたしの財産だ。……ただ」
 「ただ?」
 「父が死んだ後、あたしの絵は、どうなるんだろうね。『北斎の娘』としてしか、覚えられないんじゃないか。……そう思うことは、ある」


六章 弟子・露木為一との対話
 その日の夕刻、北斎の弟子の一人、露木為一(つゆき いいつ)が、見舞いに訪れた。
 「榊原殿と申されるか。先生より、聞いております」
 「露木殿は、お栄様の絵を、どう見ておられますか」
 為一は、少し驚いた顔をした。
 「素晴らしい腕前でございますよ。特に、光と影の描き方――あれほど巧みに扱える絵師は、江戸広しといえど、そう多くはございません」
 「それは、先生ご自身も、認めておられることですか」
 「先生は……」為一は、言葉を選びながら言った。「口には出されませぬが、内心では、誰よりも認めておられるはずです。ただ、先生ご自身が『まだ足りぬ』と、常に己を追い込んでおられる方ゆえ、他人を手放しで褒めるということが、あまり、お得意ではないのでしょう」
 凪は、頷いた。
 「もし、先生が、はっきりと、お栄様の才能を、世に向けて語られたら――何か、変わると思われますか」
 為一は、しばらく考えた。
 「変わりましょう。……先生のお言葉には、それだけの重みがございます」


七章 夜半の対話
 その夜、凪は北斎に呼ばれ、二人だけで病床に残った。
 「弟子どもから、聞いた」と北斎は言った。「そなたが、お栄について、あれこれ問うておるそうじゃな」
 「差し出がましいことを、申し上げました」
 「いや」北斎は、鋭い目で凪を見た。「拙者自身、考えたことのない角度であった」
 「北斎様は、ご自身の『未完成』について、あれほど雄弁に語られます。ですが、お栄様の絵については、あまり、多くを語られないように見受けました」
 北斎は、しばらく、黙っていた。
 「拙者は……」やがて彼は、絞り出すように言った。「お栄の腕を、誰よりも、認めておる。あれの陰影の付け方は、拙者には、真似のできぬものがある。……だが、それを、はっきりと言葉にしたことは、なかったやもしれぬ」
 「なぜですか」
 「拙者自身が、常に『まだ足りぬ』と、己を追い立てて生きてきたゆえ、じゃろう。他人を褒める、認める、ということに、慣れておらぬ」
 凪は、深く息を吸った。
 「北斎様。あなたは、あと十年、五年の命があれば、真正の画工になれたと、悔いておられます。ですが――もし、その悔いだけを言葉にして終われば、お栄様の才能は、あなたの影の中に、埋もれたままになってしまうかもしれません」
 北斎の目が、微かに揺れた。
 「あなたが本当に遺したいものは、ご自身の『未完成』への悔いだけでしょうか。それとも――お栄様という、確かな才能を、次の時代へと、はっきり引き渡すことも、含まれているのではないでしょうか」
 北斎は、長い間、目を閉じていた。


八章 最期の言葉
 嘉永二年四月十八日。
 北斎の容態は、急速に悪化していった。
 枕元には、お栄、弟子の露木為一、そして凪が集まっていた。
 北斎は、絞り出すような声で、言った。
 「天、我をして……十年の命を保たしめば……いや、五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」
 それは、史実に伝わる言葉と、寸分違わなかった。
 だが、彼は、続けてこう言った。
 「……お栄」
 「はい、父上」
 「そなたの絵は……拙者の絵とは、また違う光を、持っておる。……拙者が見ることの叶わなんだ高みまで、そなたなら、あるいは……届くやもしれぬ」
 お栄の目に、涙が浮かんだ。
 「父上……」
 「それを、拙者は、はっきりと、言うておくべきであった。……為一、皆にも、伝えよ。お栄の絵は、拙者の陰にあるものではない。あれ自身の、絵の道じゃ、とな」
 為一は、深く頭を下げた。
 北斎は、静かに、息を引き取った。享年九十。


九章 絵を継ぐ者
 北斎の死後、その最期の言葉は、弟子たちの間で、静かに語り継がれた。
 史実では、お栄――応為の名は、長きにわたり、父の巨大な業績の陰に埋もれ、彼女自身の画業が正当に評価されるようになるのは、遥か後年、近代に入ってからのことになる。
 だが、もう一つの結末では――。
 北斎の最期の言葉を聞いた露木為一らの弟子たちは、お栄の作品を、単なる「北斎の手伝い」としてではなく、彼女自身の署名と画号によって、独立した作品として、世に紹介し始めた。
 お栄は、父の死後も、絵を描き続けた。光と影を巧みに操る、彼女独自の画風は、江戸の画壇に、静かに、しかし確かな評判を築いていった。


終章 もう一つの絵路
 数年後。
 浅草のある一室で、初老の女性が、一人、絵に向かっていた。
 筆を運ぶその姿は、かつての父の姿と、どこか似ていた。だが、生み出される絵には、父とは違う、彼女自身の光があった。
 彼女のもとには、時折、若い絵師の卵たちが訪れた。彼らは、応為の名で呼ばれるその絵師に、教えを請うた。
 「北斎先生の娘御」としてではなく、「応為先生」として。


エピローグ もう一つの光
 東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を, 静かに読み返していた。
 窓の外では、初夏の風が、心地よく吹いていた。
 「あなたが遺したかったのは、ご自身の悔いだけではなかったはずです」
 凪は、静かに呟いた。
 パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『嘉永二年四月十八日、浅草の空は、静かに暮れようとしていた。九十年、絵の道を求め続けた男は、その最期に、己の未完成を悔いながらも、もう一つの光を、確かに次の時代へと、手渡したのである。』
 風が吹いた。墨と、絵の具の匂いが、微かにした。
 玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。

——了——


【作者注】
 本作は葛飾北斎の晩年を題材としたフィクションです。葛飾北斎、娘のお栄(葛飾応為)、弟子の露木為一などは実在の人物ですが、物語の展開は著者の創作によるものです。実際に北斎は嘉永二年(一八四九年)四月十八日に没し、臨終の際「天が我に十年、あるいは五年の命を与えてくれれば、真正の画工となれたであろう」という趣旨の言葉を残したと伝えられています。娘の応為は優れた浮世絵師でしたが、その画業が広く再評価されるのは、近代以降のことです。
 本作は、前九作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
 そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。

星路転生記

〜伊能忠敬と刻をこえた男〜
玉響転生記・第九話


まえがき
 八度の邂逅を経て、榊原凪は、いつも「死」そのものと向き合ってきた。討死、切腹、暗殺、自刃。刃と炎の匂いが、彼の旅には常について回った。
 だが今回、彼が導かれた先には、刃も炎もなかった。
 あったのは、夜空と、測量の器具と、静かに燃え尽きようとする、一つの命だけだった。
 この巻だけは、玉響転生記でありながら、あえて別の名で呼びたいと思う。
 星路(みち)――星を測り、その高さから、大地の弧を知る道。
 文化十五年(一八一八年)。五十を過ぎてから第二の人生を歩み始め、日本全国を測量し続けた男――伊能忠敬。その生涯最大の仕事、日本地図の完成を目前にしながら、病床に伏すことになる男の物語である。




プロローグ 文化十五年、春浅き来訪
 現代の東京は、桜の便りが聞こえ始める頃だった。
 榊原凪は、五十三歳になっていた。楠木正成との旅から、半年余りが経っている。
 金剛山の山中に姿を消していく正成の背中――忠義を、死によってではなく、生き続けることによって示した男の背中――を、凪はまだ、鮮明に思い出せた。
 書き上げた小説『生き続ける忠義』は、これまでの作品の中でも、特に「戦わずして勝つ」という発想に、多くの読者が新鮮な驚きを覚えたようだった。
 その夜、凪は書斎のパソコンから目を移し、手元に広げた文化期の日本沿海測量資料や伊能図の写本を眺めながら、うたた寝をしていた。
 ふと、墨と紙、そして微かに、潮風の匂いがした。
 顔を上げると、部屋の隅に、一人の老人が、静かに座っていた。
 羽織姿。年の頃は七十三、四。痩せた体つきだが、その目には、これまで出会ってきたどの男とも違う、不思議な澄んだ光があった。死を恐れる目でも、死を急ぐ目でもない。ただ、遠くの何かを、静かに見つめる目だった。
 「夜分に、お邪魔いたす」
 老人は、穏やかに一礼した。
 「あなたは……」
 「伊能忠敬と申す」
 凪の呼吸が、静かに整った。これまでの男たちに感じてきた緊張とは、少し違う何かがあった。
 伊能忠敬。上総国の名主・酒造家として財を成した後、五十歳で家督を子に譲り、江戸に出て、幕府天文方・高橋至時に弟子入りした男。その後十七年にわたり、日本全国の海岸線を、自らの足で測量し続けた。そして――このおよそひと月半後、その生涯最大の事業、日本地図の完成を見ることなく、世を去ることになっている男。
 「なぜ、ここに」
 「分からぬ」忠敬は、静かに微笑んだ。「気づけば、この見慣れぬ部屋におった。由井殿、明智殿、石田殿、真田殿、土方殿、坂本殿、大石殿、楠木殿――そなたが会うてきた方々の気配が、微かに感じられる」
 彼は、凪をまっすぐに見た。
 「拙者は今、深川の家で、病の床に伏しておる。地図は、まだ、できあがっておらぬ」


一章 八度目のたゆたい
 その夜、凪は資料に埋もれながら、考え続けていた。
 これまでの七人には、皆、「死ぬべきか、生きるべきか」という、鋭い刃の上の選択があった。
 だが伊能忠敬の場合、事情はまったく異なる。彼の死は、戦の帰結でも、罰でもない。ただの、老い先短い人間の、自然な病であった。
 史実において、忠敬は文化十五年四月十九日(西暦一八一八年五月十七日)、深川の自宅にて没する。享年七十四。彼が生涯を懸けて測量してきた日本地図――『大日本沿海輿地全図』は、まだ完成していなかった。
 弟子たちは、この事実を、幕府にも、世間にも、およそ三年間、伏せ続けた。師の死を公にすれば、幕府からの信頼と支援を失い、地図の完成そのものが危うくなる、と恐れたためである。忠敬は、死してなお、生きているものとして扱われ続けた。
 正式に地図が完成し、上呈された文政四年(一八二一年)になって初めて、彼の死が公表されたのだ。
 この史実を知ったとき、凪の胸に、複雑な思いが去来した。
 弟子たちの選択は、師の偉業を守るための、苦渋の決断だったに違いない。だが――忠敬自身は、その「三年間の沈黙」を、望んでいたのだろうか。それとも、自分の死それ自体が、まるで存在しなかったことのように扱われることに、何か、割り切れぬ思いを抱いていたのではないか。
 凪は、暗い天井を見つめた。
 「行きます」
 呟くと同時に、部屋の空気が震え、桜の匂いが、墨と潮風の匂いに変わった。
 玉響。
 世界が、揺れた。


二章 深川の家
 気づくと、凪は、江戸・深川の、静かな路地に立っていた。
 隅田川からの風が、心地よく吹いている。忠敬の家は、質素だが、手入れの行き届いた佇まいだった。
 凪の身なりは、町人風の羽織姿に変わっていた。
 「もし」
 門先の弟子らしき若者に声をかけると、彼は怪訝な顔をした。
 「忠敬先生に、お目通り願いたい」
 「お主、何者か」
 「先生のお指図で参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
 若者は訝しみながらも、奥へと入っていった。
 しばらくして、戻ってきた。
 「榊原殿とお見受けする。ご案内いたす」


三章 忠敬の病床
 病床の間は、地図と天体観測の記録で、埋め尽くされていた。壁には、描きかけの海岸線の図面が、幾枚も貼られている。
 忠敬は、床の中から、静かに凪を迎えた。
 「よう参られた」
 「参りました」
 凪が枕元に座ると、忠敬は、天井を見上げながら、ゆっくりと語り始めた。
 「拙者は、五十の齢まで、上総の酒造家の当主として生きてきた。一文の狂いも許さぬ商人として、名主として、村を治め、家業を守った。……それだけの人生でも、悪くはなかったろう」
 「なぜ、江戸へ出られたのですか」
 「星を、測りたかった」忠敬は、目を細めた。「幼き頃より、天体と暦の学問に、憧れておった。だが、家督を継ぐ身として、それを追うことは許されなんだ。……五十になり、ようやく、その夢を、追う番が来た」
 「遅すぎる、とは思われませんでしたか」
 忠敬は、微かに笑った。
 「思うた。だが、拙者には、拙者の刻(とき)があった。他人の刻と比べても、詮無きことじゃ」
 彼は、傍らの地図の一枚を、指し示した。
 「これが、拙者の第一次測量――蝦夷地の海岸線じゃ。拙者は、まず北へ向かい、そこから南へ、日本の海岸線をすべて、この足で歩いた」
 「十七年に渡って、ですね」
 「うむ。そして今、地図は、あと少しで完成する。……だが、拙者の体は、それを待ってはくれぬようじゃ」


四章 問いの重さ
 その夜、凪は忠敬の家の一室で、眠れぬまま過ごした。
 忠敬の言葉が、頭から離れなかった。
 ――拙者の体は、それを待ってはくれぬようじゃ。
 これまでの七人は、皆、「死ぬ間際に、何を選ぶか」という問いを抱えていた。だが忠敬の場合、選択の余地は、もはやない。彼は、確実に、あとひと月半ほどで世を去る。地図の完成を、その目で見ることは、叶わない。
 問われるべきは、彼自身の生死の選択ではない。彼の死んだ後、残された弟子たちが、その死を、どう扱うか――ということだ。
 史実では、弟子たちは師の死を隠した。それは、地図という「仕事」を守るための選択だった。だが、それは、忠敬という「人間」を、正しく弔うことだったのだろうか。
 凪は、これまで出会ってきた男たちの言葉を思い返していた。
 「近藤の名誉は、拙者が死ぬことでは、取り戻せぬ」
 「あなたの忠義は、四十六人全員が死ぬことでは、なかったはずです」
 これらの言葉は、当人自身が「死をどう扱うか」を選ぶ場面で、意味を持ってきた。だが忠敬の場合、その選択は、彼が世を去った後、弟子たちの手に委ねられることになる。
 ならば――今、まだ生きている忠敬自身に、その選択について、問うことができるのではないか。
 窓の外で、隅田川の水音が、静かに響いていた。


五章 高橋景保との対話
 翌日、凪は思わぬ人物と対面することになった。
 高橋景保――幕府天文方を継ぎ、忠敬の測量事業を、学術的に支え続けてきた人物である。忠敬の師・高橋至時の息子でもある。
 「榊原殿と申されるか。先生より聞き及んでおる」
 「景保様、伺いたいことがございます。もし忠敬先生が身罷られたら、地図の事業は、どうなるのでしょうか」
 景保の表情が、曇った。
 「正直に申せば……案じておる。先生の名は、幕府からの信頼そのものじゃ。先生が亡くなったと知れれば、資金も、人手も、途絶えるやもしれぬ。お上は『人』に金を出すのであって、『事業』に出すのではないからのう」
 「では、どうなさるおつもりですか」
 景保は、しばらく黙っていた。
 「弟子たちの間では――先生の死を、地図の完成まで、伏せておくべきだという声がある」
 「景保様は、それに、賛成なのですか」
 「賛成、というより……他に道がないように思える。先生の生涯を懸けた仕事を、無に帰させるわけには、いかぬ」
 凪は、景保の苦渋に満ちた表情を真っ直ぐに見つめ、その胸中にある師への強い忠実さを深く受け止めながら、静かに、しかし確かな口調で言葉を返した。
 「先生の偉業を何としても守り抜きたいという皆様のお覚悟、痛いほど分かります。そのために泥をかぶることも辞さないほどの、深いお気持ちなのでしょう。……ですが、もしその隠し立てがのちに露見した時、先生の名誉にどのような傷がつくか、お考えになりましたか。それ以上に……あなた方が泥にまみれて積み上げてきた数字そのものの価値を、あなた方自身が疑うことになりはしませんか」
 景保は、はっとした顔をした。
 「そこまでは……考えが及んでおらなんだ」


六章 弟子たちの評定
 その日の夕刻、忠敬の弟子たちが、家に集まった。高橋景保をはじめ、尾形慶助、下河辺政五郎ら、測量事業を支えてきた面々である。凪も、末席に加わることを許された。
 「先生の御病状、思わしくない」下河辺が、重い声で言った。「万一のことがあれば、如何いたす」
 「伏せるほかあるまい」尾形が言った。「地図が完成するまで、先生は御存命ということにしておく。さすれば、幕府からの支援も、途切れずに済む」
 「それは、先生を、偽ることになりはせぬか」
 凪は、議論の白熱する座一座を見渡し、弟子たちが抱く「事業打ち切りへの恐怖」をその身に感じながら、そっと頭を下げて口を開いた。
 「畏れながら、申し上げます。皆様が、何としてでも先生の地図を完成させたい、そのためにあらゆる非難を引き受ける覚悟でおられることは、十分に承知しております。その上で、あえて伺わせてください」
 全員の視線が、凪に集まった。
 「皆様が本当に信じ、誇るべきは、先生のお名前という権威でしょうか。それとも、命を削って積み上げてきた、この確かな歩みの跡でしょうか」
 凪は立ち上がり、壁に貼られた膨大な測量図と、一分の狂いもなく書き込まれた数字の列を指し示した。
 「この、針の穴一つ通さぬ正確無比な大地の姿を見て、言い逃れのできる役人がおりましょうか。先生ご自身は、どう思われるでしょうか。ご自身の死が、まるで存在しなかったことのように、三年もの間、扱われることを、望んでおられるでしょうか」
 誰も、答えられなかった。だが、その瞳には、技術者としての強いプライドの火が灯り始めていた。


七章 夜半の対話
 その夜、凪は忠敬に呼ばれ、二人だけで病床に残った。
 「弟子たちから、聞いた」と忠敬は言った。「そなたが、面白い問いを、立てたそうじゃな」
 「差し出がましいことを、申し上げました」
 「いや」忠敬は、静かに首を振った。「拙者自身、考えたことのない問いであった」
 「忠敬様は、ご自身の死を、どう扱ってほしいと、お考えですか」
 忠敬は、しばらく、天井を見つめていた。
 「正直に申そう」と彼は言った。「拙者は、五十まで商人として、一文の狂いもなく帳簿を合わせて生きてきた。後半生は、一分の狂いもなく星と大地を測ることに費やした。……その拙者の人生の最後の『帳尻』が、死を隠すという偽りで濁されるのは、どうにも座りが悪い。自分の死くらい、正しい数字としてそこに記録しておきたいものじゃな」
 「では、どうなさりたいですか」
 忠敬は、微かに笑った。
 「拙者が死んだことを、隠さず、正直に、弟子たちに伝えてほしい。……ただし、地図の仕事は、続けてほしい。拙者の名によってではなく、拙者が積み上げてきた測量の記録、その正確さそのものによって、幕府の信頼を得られるように」
 「それは、可能でしょうか」
 「可能かどうかは、分からぬ」忠敬は言った。「だが、拙者は、賭けてみたい。拙者という一人の人間の名声にすがってではなく、拙者たちが積み重ねてきた仕事そのものの価値によって、この地図が、完成されることを」


八章 春の別れ
 文化十五年四月十九日(西暦一八一八年五月十七日)。
 伊能忠敬は、深川の自宅にて、静かに息を引き取った。
 その死は、史実と何ら変わらなかった。ただ一つ、彼の枕元に集まった高橋景保、尾形慶助、下河辺政五郎、そして凪の前で、彼は最後に、こう言い残した。
 「拙者の死を、隠すな。拙者が積み上げてきたものを、信じよ」


九章 公表
 忠敬の死後、弟子たちは、迷いながらも、師の遺言に従うことを決めた。
 景保は幕府に対し、忠敬の隠居および不帰の客となった事実を正直に報告した。突然の巨星の墜落に、当然ながら勘定奉行や老中らの間には大きな動揺と、事業打ち切りの声が広がった。「伊能忠敬という一人の天才がいなくては、これほどの精緻な地図を完成させることなど不可能だ」というお決まりの役人論理であった。
 しかし、景保は一歩も引かなかった。彼はこれまで全国から集積された膨大な測量データの正確性を、科学的・実務的に証明する詳細な文書を突きつけた。
 「今ここで本事業を止めれば、これまで幕府が投じてきた莫大な御用金と、異国船への国防・沿岸警備の要となる最重要機密データが、すべて水の泡に帰します。我々弟子一同は、すでに先生の手法を完全に受け継いでおり、一分の狂いもなくこれを仕上げる術を持っております。これをお捨てになることこそ、幕府の最大の損失でございます」
 実利と国防の論理、そして「嘘を排した誠実さ」に、幕府の実務者たちもついに首を縦に振った。こうして、忠敬の死は公に悼まれながらも、プロジェクトの継続が正式に認められたのである。


終章 大日本沿海輿地全図
 文政四年(一八二一年)、忠敬の死から、およそ三年後。
 弟子たちの手により、『大日本沿海輿地全図』が、ついに完成した。
 地図には、忠敬の名が、事業の創始者として、大きく記された。彼の死が公然の事実として扱われたことで、むしろ、地図の完成は、亡き師への、弟子たちからの、公明正大な報告として、世に迎えられた。
 「伏せられた死」ではなく、「悼まれ、引き継がれた死」として。


エピローグ もう一つの星路
 東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
 窓の外では、桜が、静かに散り始めていた。
 「あなたの死は、隠されるべきものではなかった。悼まれ、そして、引き継がれるべきものでした」
 凪は、静かに呟いた。
 パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『文化十五年四月十九日、深川の空には、静かな春の光が差していた。星を測り、大地の弧を知った男は、その日、己の死を包み隠すことなく、仕事の価値そのものに未来を託し、静かに、星の彼方へと旅立ったのである。』
 風が吹いた。墨と、微かな潮の匂いがした。
 玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。

――了――


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【作者注】
 本作は伊能忠敬の日本地図作成事業を題材としたフィクションです。伊能忠敬、高橋景保、尾形慶助、下河辺政五郎などは実在の歴史人物ですが、物語の展開は著者の創作によるものです。実際には、伊能忠敬は文化十五年(一八一八年)四月十九日に没しましたが、地図『大日本沿海輿地全図』が完成する文政四年(一八二一年)まで、弟子たちによってその死は伏せられていたとされています。地図には、後に忠敬の名が、事業の創始者として記されました。
 本作は、前八作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
 そして、玉響(たまゆら)は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。


ケサランパサラン仮説
―ある夏の、白い綿毛についての覚え書き―


まえがき
誰もが、胸の奥に「あの時、止まってしまった時間」を抱えて生きているのではないでしょうか。
伝えるべきだった言葉、行けなかった場所、そして、突然の別れ。
科学や理屈では割り切れない、けれど確かにそこにある「祈り」のような感情。この物語は、そんな行き場のない思いを抱えた人間たちが、偶然手にした小さな綿毛から、もう一度前を向いて走り出すまでの物語です。
もしあなたにも、忘れられない誰かがいるなら。
どうかこの「仮説」が、あなたの心に静かな風を吹かせますように。




プロローグ アザミの季節
 街路樹の隙間から、白い綿毛がひとつ、ふたつと舞い上がるのが見える。六月の終わりから七月の初めにかけて、この街では毎年きまってアザミの種が風に乗る。誰も気に留めない、ただの初夏の景色だ。通勤のバスを待つ人も、犬を散歩させる老人も、それが空中を漂っていくのを一瞥することさえしない。
 けれど僕だけは、その白い粒が視界の端をよぎるたびに、車のハンドルを握る手に力がこもる。信号待ちで窓の外を見て、思わず息を止めてしまうこともある。もう十四年も同じことを繰り返しているのに、体はいっこうに忘れない。医者に言わせれば、これも一種の条件反射というやつなのだろう。頭では分かっていても、体は勝手に反応する。
 今年は仕事の都合で、命日から一日遅れの墓参りになった。得意先との打ち合わせが長引き、日が傾きかけた頃にようやく霊園に着いた。石段は記憶よりも急に感じられ、息を切らして上りきると、亮の墓の前に、もう先客がいた。奈津子さんだ。日傘も差さずに、じっと墓石を見つめている。白いブラウスの背中が、夕方の光の中でやけに小さく見えた。
「あ、遅くなってすみません」
「ううん、こちらこそ。毎年ありがとうございます」
 奈津子さんは振り向いて、いつものように小さく頭を下げた。かつてはここに、亮の同僚だった連中も、バイク仲間も、十人近く集まっていたはずだった。命日には墓前で缶コーヒーを開け、亮の好きだった煙草を一本供えて、笑いながら思い出話をしたものだ。今はもう、僕と奈津子さんの二人だけになった。それぞれが、それぞれの仕方で忙しくなり、あるいは疲れてしまい、少しずつ離れていった。子どもの受験、親の介護、転勤、離婚。誰が悪いわけでもない。ただ、そういうものなのだと思う。人の縁は、始まったときと同じ静かさで、ほどけていく。
 線香の煙がまっすぐに立ちのぼり、やがて風にほどけて消えていく。僕は花を供え、奈津子さんは小さな包みから団子を取り出して置いた。今日は団子の日らしい。次に来るときは花にしようと、僕は勝手に決める。花にするか団子にするか、いつもその日の気分で選んでいる。決まりなんてない。
 人は二度死ぬ、という話をどこかで読んだことがある。一度目は肉体が止まるとき。二度目は、その人を覚えている者が、この世からいなくなるときだ。あと何十年かすれば、亮を実際に知っている僕らも、いずれは同じ側に回る。百年もすれば、生きていた頃の亮を覚えている人間すら、この世からいなくなる。そうやって命は、忘れられることと引き換えに、次の世代へと受け渡されていくのだろう。それは悲しいことのようでいて、案外、そう悪くない仕組みなのかもしれないとも思う。
 だが、この年の七月は、僕の中でその静かな循環に、小さな亀裂が入ることになった。
 墓参りから戻って三日後、僕のもとに一通のメールが届いた。差出人の名前には見覚えがなかった。件名には、こうあった。
「亡くなられたご友人の医療データについて、お伺いしたいことがあります」
 迷惑メールかと思って、削除しかけた指を、僕は途中で止めた。件名の下に添えられていた、亮のフルネームと、生年月日らしき数字の羅列が、目に飛び込んできたからだ。

第一章 バイクと心臓
 亮と出会ったのは、僕がまだ二十代の終わりだった、会社主催の合同勉強会でのことだ。他部署や関連会社の若手が集められて、半日がかりの研修を受けさせられる、あの退屈な催しだった。休憩時間、隅の席で文庫本を読んでいた彼に、僕はたまたま話しかけた。
 彼は僕よりいくつか若いのに、妙に落ち着いた話し方をする男だった。名刺交換のとき、彼のシャツの胸ポケットから、小さな手帳がのぞいていた。あとで知ったことだが、そこには服薬の時間と、通院の予定がびっしりと書き込まれていた。
「実は、これが入っているんです」
 初めて二人で飲みに行った夜、亮は自分の胸を軽く叩いてそう言った。ペースメーカーのことだった。生まれつき心臓の伝導系に問題があり、二十歳になる前に手術で埋め込んだのだという。
「重そうな話だろ。でも本人はいたって元気なんだ、これが」
 事実、彼はどこまでも元気だった。週末になるとバイクにまたがり、あそこの峠へ、その先の海岸線へと飛び回っては、僕にお土産話を聞かせてくれた。
 ある夏には、日本海側まで一人で走り抜いたと言って、真っ黒に日焼けした腕を見せびらかした。「途中で一度だけ、休憩がてら海沿いのベンチで寝転んだんだけどさ」と彼は言った。「空があんまり広くて、このまま消えても悪くないな、って本気で思った」。物騒な冗談を、彼はいつも軽い調子で口にした。
 ある冬には、凍結した峠道で危うく転倒しかけたと、まるで武勇伝のように笑いながら話した。「タイヤが一瞬、地面を掴んでる感覚がなくなってさ。あの数秒間だけは、さすがに機械のことを思い出したよ」。それでも彼は、次の週末には別のルートへ出かけていた。
 また別の年には、峠の茶屋で偶然出会った老夫婦にツーリングマップを見せてもらい、そこから半年かけて全ルートを走破したのだと、得意げに地図を広げて見せてくれたこともある。地図の余白には、彼の几帳面な字で、日付と天気と、立ち寄った店の名前が細かく書き込まれていた。「記録魔なんだよ、僕は」と彼は笑っていたが、その記録の細かさは、どこか、限られた時間を丁寧に使い切ろうとする人間の癖のようにも見えた。
 心臓に機械を抱えた男が、風を切ってどこまでも走っていく。その矛盾めいた身軽さが、僕は妙に好きだった。
「怖くないのか」と聞いたことがある。
「怖いさ」と彼は笑った。「機械が止まったら、僕もそこで終わりだ。分かってる。でも、だからこそ、行けるうちに行っておきたいんだよ。じっとしてる方が、僕にとってはよっぽど怖い」
 その言葉の意味を、僕はあの頃、まだ本当には理解していなかった。ただ、彼のツーリングの写真フォルダを見せてもらうたび、僕自身がどこか置き去りにされているような、悔しいような、うらやましいような気持ちになったことだけは覚えている。
 一度だけ、彼の定期検診に付き添ったことがある。待合室のベンチで順番を待ちながら、亮は珍しく静かな声で言った。
「この機械のおかげで、僕は普通の人より、自分の心臓のことをよく知ってるんだ。何ボルトで、何ミリ秒で動いてるかまで、数字で分かる。それって、ちょっと得だと思わないか」
「得、なのか、それ」
「得だよ。だって、みんな自分がいつまで動くか知らずに生きてるだろ。僕は、機械の寿命が分かってるぶん、少しだけ、逆算しやすいんだ」
 その言い方が、あまりに軽やかだったので、僕はどう相槌を打っていいか分からなかった。亮は続けた。
「だからって、悲観してるわけじゃないよ。むしろ、得した気分でいる。おかげで、今日やりたいことを後回しにしない癖がついた。これは、機械をもらった人間の特権だと思ってる」
 診察室から呼ばれ、亮は「じゃあ、行ってくる」と、まるで散歩にでも行くような足取りで立ち上がった。あの軽やかさの裏にある、彼なりの覚悟のようなものに、僕はもっと早く気づいてやるべきだったのかもしれない。

第二章 カクカクシカジカ
 亮が奈津子さんと結婚したのは、それから数年後のことだった。結婚式のスピーチで、亮は「僕の心臓は少し変わっていますが、その分、彼女への気持ちは人一倍まっすぐです」と言って、会場を笑わせた。奈津子さんは、そんな亮の隣で、ずっと穏やかに笑っていた。披露宴の後、二人で近づいてきた亮は、少し照れくさそうに「まだまだこれからだよ」とだけ言った。
「家を建てようと思うんです」
 亮からそう相談を受けたのは、それから何年か経った、よく晴れた昼休みのことだった。彼は珍しく紙とペンを持ち出して、間取りの案を僕に見せた。リビングを広く取りたいこと、奈津子さんの趣味の部屋を作りたいこと、庭にはバイクの整備スペースを確保したいこと。彼は子どものように目を輝かせて話した。
「土地はもう決めてて。あとはハウスメーカーで悩んでて」
 僕は住宅ローンを組んで数年になる先輩風を吹かせ、カクカクシカジカと、聞きかじりの知識をわずかばかり並べた。ローンの金利のこと、耐震等級のこと、頼まれてもいないのに窓の断熱のことまで喋った気がする。亮は真剣な顔でメモを取っていたが、途中から少し困ったような笑みを浮かべていた。
数週間後、亮は嬉しそうな顔で報告に来た。
「結局、僕の意見は全部却下されました」
「え」
「かみさんの好きなメーカーに決めたんです。だって、住むのはあいつのほうが長くなるかもしれないし」
 そう言って笑う亮の顔を、僕は今でもよく覚えている。冗談めかしていたが、本気で言っているようにも聞こえた。彼はいつも、自分のことより先に、誰かの喜びを数えるところがあった。
 その後、月に一度くらいの頻度で、亮は現場の写真を送ってきた。基礎工事が始まり、骨組みが立ち上がり、壁ができ、屋根が葺かれ、あとは内装を残すだけになった、その七月のことだった。ある日届いた写真には、リビングになる予定の空間に、奈津子さんが選んだという壁紙の見本が何枚も立てかけられていた。「結局これに決めたよ。あったかい色でしょ」というメッセージが添えられていた。
「あともう少しで完成です。できたら真っ先に呼びますから。今度は北海道を走ろうと思ってるんです。新築祝いの代わりに」
 それが、亮から届いた最後のメッセージになった。

第三章 訃報
 電話がかかってきたのは、平日の午後、僕が資料を作っている最中だった。会社の後輩からの短い一言に、僕はしばらく言葉の意味がつかめなかった。
「亮さん、亡くなったそうです」
 なんだよ、それ。
 最初に浮かんだのは悲しみより先に、腹の底からせり上がるような怒りに似た感情だった。早すぎるじゃないか。まだ家が出来ていないだろう。奥さんの好きなメーカーで建てた家に、まだ一晩も泊まっていないだろう。次はどこへ行くつもりだったんだ。北海道はまだ、走っていないだろう。整備スペースにはまだ、バイクも入っていないだろう。
 通夜の席で、僕はずっとその怒りを持て余していた。悲しいのに、悲しみ方がわからない。焼香をあげる列に並びながら、僕は何度も同じ言葉を胸の中で繰り返していた。早すぎるじゃないか、早すぎるじゃないか。
 バイク仲間だった高橋や佐伯とも、そこで顔を合わせた。誰もが同じ顔をしていた。行き場のない怒りを持て余し、しかしそれをぶつける先が見つからず、ただ黙って立ち尽くしている顔だった。高橋は喪服のポケットから、亮の写真を一枚だけ取り出し、「棺に入れてやってもいいかな」と、誰にともなく呟いていた。
 奈津子さんは、喪服のまま、参列者に深く頭を下げ続けていた。その姿を見た瞬間、僕の中の怒りは、行き場を失った悲しみに変わった。誰にぶつけていいのか分からない感情ほど、始末に負えないものはない。
 完成間近だった家は、結局、奈津子さんが一人で住むことになった。引き渡しの日、彼女は「あの人が選んだわけじゃない壁紙の部屋に、一人で座っている」と、電話越しに笑っているのか泣いているのか分からない声で言った。

第四章 最後の日
 亮が最後に何をしていたのか、僕がきちんと聞いたのは、それから何年も経ってからのことだった。奈津子さんが、ようやく話せるようになったころに、ぽつりぽつりと教えてくれた。
 その日、亮は現場監督との最終打ち合わせを終えたあと、少しだけ時間があると言って、バイクで近所を一回りしてきますと家を出たのだという。完成間近の我が家を、外から眺めてみたかったのかもしれない。整備スペースに置く予定のバイクは、まだ実家のガレージにあったから、彼はそこから乗ってきていた。
「いつもの調子で、行ってきますって、笑って出て行ったの」と奈津子さんは言った。「まさか、それが最後になるなんて、思うわけないじゃない」
 新居からほんの二キロほど離れた交差点の手前で、亮はバイクを路肩に寄せ、停車したところを、通行人に発見された。虫の知らせだったのか、あるいは単なる偶然だったのか、彼は倒れる前に、なんとかバイクを安全な場所へ寄せていたらしい。最後まで、誰かに迷惑をかけまいとする人だった。
 救急隊が到着したときには、すでに意識がなかった。ペースメーカーは、その日の朝まで正常に機能していた記録が残っている。何が引き金になったのかは、今も分かっていない。
 この話を聞いたとき、僕は改めて、亮という人間の輪郭を思い知らされた気がした。彼は最後の瞬間まで、自分のバイクを、自分の家を、そして自分と関わった誰かのことを、気にかけていた。そういう人間だった。

第五章 完成した家
 葬儀から一月ほど経ったころ、僕は奈津子さんに呼ばれて、完成したばかりの家を初めて訪れた。亮が最後まで写真を送り続けていた、あの家だ。
 玄関を入ってすぐ、まだ新しい木材と壁紙の匂いがした。生活の匂いがまだ染みついていない、真新しい空間だった。奈津子さんは、僕を居間へ案内しながら、努めて明るい声で言った。
「この壁紙、覚えてる? 写真、あなたにも送ってたでしょう」
 あたたかい色の、木目調の壁紙だった。写真で見たときよりも、実際に光の中で見ると、もっと優しい色に見えた。
「亮くんが選んだんですか」
「ううん、最後は私が選んだの。でもね」と奈津子さんは少し笑った。「あの人、これでいいの? って聞いたら、うん、それがいいと思う、って。本当にそれだけ。何一つ、自分の希望を通そうとしなかった」
 庭に面した掃き出し窓の向こうには、まだ何も置かれていない整備スペースがあった。バイクを停めるはずだった場所だ。奈津子さんは、そこに視線をやったまま、しばらく黙っていた。
「バイク、どうするか、まだ決めてないの。売る気にもなれないし、かといって、誰も乗らないのに置いておくのも」
 僕は何も言えなかった。ただ、その空っぽのスペースを、二人でしばらく見つめていた。
帰り際、玄関先で奈津子さんは、僕にひとつだけ頼み事をした。
「これから先も、たまにでいいから、様子を見に来てくれる? 一人だと、この家、広すぎるから」
 僕は約束した。その約束は、今日まで、形を変えながらも続いている。

第六章 白いもの
 葬儀からしばらく経った、ある夕方のことだ。仕事帰りに車を走らせていると、フロントガラスの向こうに、白いふわふわとしたものが浮かんでいるのが見えた。
 街灯にほのかに照らされて、それはゆっくりと、しかし確かな意志を持っているかのように宙を漂っていた。まさか、と思う一方で、心のどこかがすでに信じたがっていた。
 ケサランパサランだ。
 子どもの頃、祖母の家で聞いた話を思い出す。ケサランパサランは山中に棲む白い綿毛のような生き物で、捕まえた者だけがひそかに桐の箱にしまい、白粉を与えて育てると、その者に幸運をもたらすという。姿を人に見せることは滅多になく、正体を明かせば逃げてしまうとも言われていた。願いを叶える生き物だと語る者もいれば、幸運を運ぶ前触れにすぎないと語る者もいた。真偽のほどは誰も知らない。それでも、その正体不明さが、僕の胸のどこかに、都合のいい隙間を作った。
 僕は路肩に車を止め、走ってそれを追いかけた。風に流され、電線をかすめ、街路樹の枝をすり抜けて、それはなかなか捕まらなかった。息が上がり、革靴の底が街路のコンクリートを何度も踏みしめた。通りすがりの人が、何事かという顔で僕を見ていたが、構っていられなかった。
ようやく指先が触れ、両手でそっと包み込んだとき、僕は思わず声に出していた。
「捕まえた」
 その手のひらの中で、僕は目を閉じて願った。
 頼む。あいつの目を覚まさせてくれ。あいつにはまだ、やらなきゃいけないことがあるんだ。家だって、まだ完成していないんだ。奥さんと二人で暮らす、これからがあったはずなんだ。北海道だって、まだ走っていないだろう。今度はどこへ行くつもりだったんだ、まだ聞いていないじゃないか。
 もちろん、そんな願いが叶うはずはなかった。分かっていて、それでも願わずにはいられなかった。祈るという行為には、叶うかどうかとは無関係に、人を支える力があるのだと、僕はあの夜、初めて知った気がする。
 持ち帰ってよく見ると、それはどうやらアザミの種子だったらしい。綿毛の先に、小さな痩果がついている。図鑑で確かめて、僕はひとりで苦く笑った。ケサランパサランなんて、はなから都市伝説にすぎない。分かっていたことだ。願いを託した相手が、ただの雑草の種だったという事実は、悲しみに追い打ちをかけるようにも、逆に少しだけ滑稽で救いになるようにも感じられた。
 それでも僕は、それを小さな透明カプセルに入れ、戸棚の奥にしまった。願いが届かなかった証拠を、なぜか捨てられなかった。

第七章 過ぎていく年月
 それから何年かは、悲しみを持て余しながらも、日々は容赦なく前に進んでいった。会社では役職がつき、部下ができ、僕自身も結婚し、子どもが生まれた。亮のことを思い出す回数は、少しずつ減っていった。それが薄情なことのようで、同時に、生きているということはそういうことなのだとも思った。
 バイク仲間だった高橋は、しばらくは毎年の命日に顔を出していたが、地方への転勤をきっかけに来られなくなった。佐伯は、親の介護と自分の体調不良が重なり、いつしか連絡が途絶えがちになった。誰かが悪いわけではない。それぞれが,、それぞれの事情を抱え、仕方なく離れていっただけだ。人の縁というのは、そうやって少しずつ、しかし確実に薄まっていくものらしい。
 毎月の墓参りだけは、なんとか続けていた。奈津子さんとは、示し合わせたわけでもないのに、いつしか毎月どちらかが墓前を訪れる習慣になっていた。花を持っていく月もあれば、団子を持っていく月もある。日常の好き勝手なことを墓前で呟き、返ってくるはずのない返事を勝手に想像し、「だよなあ」なんて、ひとりで相槌を打つ。そうしていると、不思議と、自分がまだ生かされているという実感が増してくるのだった。
「すまんな、また来年な」
 毎年、命日にはそう言って墓を後にした。一年先の予定を勝手に見積もる、それも一種の祈りなのかもしれなかった。
 気がつけば二十年足らずのうちに、僕らもそれなりの年齢になり、組織や家庭で相応の責任を背負う世代になっていた。仕事や遊びで出会った多くの人たちのことを思い返す。その誰もが、今の僕を形作る何かを残していってくれた。だとしたら、今もまだ会える人たちにはできるだけ会っておきたいし、先に逝ってしまった人には、せめて手を合わせることしかできない。
 そんなふうに、亮のいない日常は続いていた。あの戸棚のカプセルのことも、いつしか思い出す回数が減っていった。だが、あの年の七月、それは思いがけない形で、また僕の前に姿を現すことになる。

第八章 二人の研究者
 届いたメールに記されていたのは、大学の生体情報工学研究室だった。差出人は三雲静。医療データの解析を専門にしているという。
 指定された日、僕と奈津子さんは二人で研究室を訪ねた。現れた三雲さんは、思ったよりずっと若く、落ち着いた声で話す人だった。白衣のポケットから名刺を出し、軽く頭を下げる。
「わざわざありがとうございます。亮さんのことで、お話を伺いたくて」
 壁には心電図のような波形が何枚も貼られていた。僕らが席に着いて十分ほど経った頃、部屋のドアがノックされた。
「遅れてすみません」
 入ってきたのはスーツの男だった。三十代半ば。細いネクタイを締め、仕立てのいい背広を着ている。三雲が紹介した。
「共同研究しているデータプランナーの真壁です。ペースメーカー製造元の匿名化データにアクセスできる立場で、今回の解析を担当しています」
 真壁は名刺を差し出した。笑顔は柔らかいのに、目の奥だけが理詰めの光を宿している。三雲がお茶を淹れ、話を始めた。
「まず前提からお話しします」と三雲。「心臓が停止する前後、神経系は短時間だけ強い電気的活動を示します。亮さんのログにもそれがありました。ただ、振幅も持続時間も普通じゃないんです」
「そこで私の方で」と真壁がタブレットを開いた。「製造元の臨床データと突き合わせました。結果、亮さんが倒れる直前の約三分間、ペースメーカーが“通常ではない微弱な高周波”を受信していた痕跡が出たんです」
 三雲が補足する。
「私たちは仮に『残光仮説』と呼んでいます。強い電気的活動が、大気中の微粒子と共鳴して痕跡を残すんじゃないか、という仮説です。まだ証明はされていません。慎重に扱いたい」
 真壁が画面を指差した。赤や青の線が激しく上下する中で、緑の細い線だけが一定のリズムで波を描いている。
「この緑の波です。心筋を動かす信号じゃない。受信音のようなもの。時刻は、加藤さんが訃報を聞く少し前。亮さんが路肩にバイクを停めてから、意識を失うまでの三分間。途切れずに続いています」
 僕は喉が渇くのを感じた。
「この時、彼は苦しんでいたんですか」
「データ上は逆です」と真壁は言い切った。「心拍は安定。むしろ、好きな景色でも見ている時のように穏やかだった。ノイズは彼を脅かさず、包み込むような性質だったと見ています」
 三雲が静かに言った。
「証明はできません。でも、データは“誰かとのつながり”を示している。だから、お二人に会いたかった」
 真壁が尋ねる。
「私たちが知りたいのは、この時間に、亮さんへ強い思いを向けていた方がいたかどうかです。奥様は当日、いつも通り送り出したと。加藤さんは、何か」
 僕は黙った。アザミの種を追いかけた夜のことを、データ屋に話してどうなる。センチメンタリズムで片付けられるのが怖かった。
 三雲が真壁を制するように言った。
「無理に聞き出すことじゃないです。私たちは、数字の向こうに人がいることを忘れたくない。それだけなんです」
真壁も頷いた。
「すみません。職業柄、因果を結びたがる癖で」
 そのやり取りを見て、僕は少しだけ息ができた。優しさと理屈が、同席している。どちらか一方だけでは、たぶん耐えられなかった。

第九章 二つの世界
 研究室を出たのは夜だった。ビルの合間から見える空が、やけに広い。キャンパスの並木道を駐車場に向かって歩きながら、奈津子さんがぽつりと言った。
「科学的に正しいことと、心が救われることは、別なんだね……」
「え?」
「ううん。ただね、あの二人の優しさに、私は本当に救われちゃったなと思って」
 その言葉に、僕は返す言葉が見つからず、ただ深くうなずいた。
 車に乗り込んで、僕はしばらくハンドルから手を離せなかった。
 真壁に全部は話さなかった。十四年前に拾った綿毛のこと、手のひらで泣きながら願ったこと。でも、もう二つの世界が繋がった気がしていた。僕が悲しみに暮れていた「こっち側」と、亮が最後まで風を感じていた「あっち側」。その間に、白い綿毛が橋を渡していた。
 僕の願いは命を救えなかった。けれど、三分間を一人にしなかったのかもしれない。
「得だよ。逆算しやすいんだ」
 待合室の亮の声が蘇る。彼は時間を逆算して、最後の数分に僕らの思いが滑り込む余白を、心臓に空けておいてくれたのだ。
 携帯を取り出す。奈津子さんに送った。
『今週末、伺ってもいいですか。亮くんのバイクのことで話が』
 返信はすぐ来た。
『お待ちしています。あたたかいお茶、淹れておきます』

第十章 これからの季節
 週末、奈津子さんの家へ行った。整備スペースは空っぽのままだけど、前より寂しく見えない。何かが始まるのを待つ場所に見えた。
「奈津子さん、あのバイク、僕に譲ってくれませんか」
 奈津子さんは目を見開いて、それから泣きそうに笑った。
「乗ってくれるの?」
「北海道まで走ろうと思うんです。新築祝いの代わりだって、亮が言点(※言っていた)から」
 奥からツーリングマップが出てきた。余白に几帳面な字。最後のページだけ白紙。
「続き、あなたが書いてあげて」
「はい。埋めてきます」
 帰り際、戸棚から持ってきた透明カプセルを渡した。アザミの種が一本。
「ケサランパサランです。亮が寂しくなかったのは、これのおかげだったみたいで」
 奈津子さんは不思議そうに、でも大事そうに両手で包んだ。あの夜の僕と同じ仕草だった。
 車を出す。バックミラーに家が小さくなる。
 家に帰り、居間のソファに腰を下ろすと、小学生になったばかりの娘がトコトコと駆け寄ってきた。窓の外を指差し、「パパ、あの白いのなあに」と聞いてくる。庭の向こうを、アザミの綿毛がいくつか、ふわふわと漂っていた。
「アザミの種だよ。風に乗って、遠くまで飛んでいくんだ」
「ふうん。パパ、あれ好きなの? じっと見てる」
「昔ね、大事な友達がいてね。その友達が遠くへ行っちゃったとき、パパはあの白いのを一生懸命追いかけたことがあるんだよ。願い事をしたくてね」
「叶った?」
「叶わなかった。でもね、その友達のこと、パパは今でもよく覚えてる。だから、まだちょっとだけ、この風の中にいるのかもしれないなって、パパは思ってるんだ」
 娘は分かったような分からないような顔をして、しばらく黙って空を見上げていた。それから、ぽつりと言った。
「じゃあ、パパが死んじゃっても、わたしが覚えてたら、パパはまだちょっとだけこっちにいるんだね」
 不意打ちのような一言に、僕は言葉に詰まった。子どもというのは時々、大人が長い時間をかけてようやくたどり着く答えに、まっすぐ近道をしてくる。
「……そういうことになるかな」
「じゃあ、わたし、ずっと覚えとく。パパのこと、ずうっと覚えとくね」
 娘はそう言うと、満足したように笑って、またおもちゃのほうへ駆けていった。その後ろ姿を見ながら、僕は、亮の記憶がこうして僕から娘へと、姿を変えながら受け渡されていくのを感じていた。証明できる仮説でなくてもいい。覚えているという行為そのものが、たぶん、いちばん確かな残光なのだ。
 今年も七月が来る。綿毛が舞う季節だ。もうハンドルを握りしめることはないと思う。
 大切なのは、思いは風に乗って届く場所へ届いている、ってことだ。真壁のデータがそれを裏付けた。三雲の優しさがそれを許した。
 僕は次に乗る車のアクセルを想像した。窓の隙間から、亮が好きだった風の匂いが、もうすぐ入ってくるはずだった。

エピローグ 来年もまた
 亮のいない年は続く。でも、毎月の墓参りは続く。花の日も団子の日もある。
「すまんな、また来年な」
 そう言って墓を後にする。一年先の予定を勝手に見積もるのも、祈りの一種だ。
 高橋と佐伯にも連絡を取った。十数年ぶりに、あの峠の茶屋でお茶を飲んだ。昔と変わらない佇まいの店主が、「久しぶりだね、あの子の友達だろう」と覚えていてくれたのには驚いた。
「また来ようぜ」って、高橋が言った。約束はそれでいい。大げさなものでなくても、また会おうと思う気持ちがあれば、それでいい。
 戸棚のカプセルは、もう奈津子さんの家にある。空っぽだった整備スペースには、今では小さな家庭菜園があり、トマトとバジルが青々と葉を広げている。バイクの代わりに、新しい命を育てる場所になったのだ。それもまた、悪くない変化だと思う。
 娘は今も「白いの飛んでるよ」と教えてくれる。会ったことのない亮を、「パパの友達」って呼ぶ。
 証明はできない。でも、データはある。優しさはある。そして、これから埋める白紙のツーリングマップがある。
 それでいい。仮説のままでいいし、走り出す理由にもなる。
 白いものが風に舞うたび、僕は目で追う。これからも。
 今度は悲しみじゃなく、次の目的地を探すために。

(おわり)



あとがき
この『ケサランパサラン仮説』という物語は、私自身にとっても、何度も何度も書き直しを重ねながら、長い時間をかけて登場人物たちの心の行く末を見つめ続けた、非常に愛着のある作品です。
そして半分は私たちに巡ったノンフィクションであり、今まだ私の机の引き出しには透明なカプセルに白いそれが収まったままあります。



物語の中で、奈津子さんが「正しいことと、心が救われることは、別なんだね」と呟くシーンがあります。
現代を生きる私たちは、あらゆることを数字やデータ、科学的な正しさで割り切ろうとしてしまいがちです。しかし、大切な人を亡くした人間の心が本当に救われる場所は、きっとその「正しさ」の外側にあるのではないか。そんな思いが、この小説の背骨にあります。
三雲教授の優しさと、真壁さんの冷徹なデータ。その二つが同席したからこそ、主人公は亮の残したバイクにまたがり、白紙のマップを埋める旅に出ることができました。そしてその記憶は、会ったことのない次の世代の娘へと受け継がれていきます。
あなたが今日見上げた空に、もし小さな白い綿毛が舞っていたなら。
それはどこかの誰かの、あるいはあなた自身の、大切な人へと届く残光(ログ)なのかもしれません。
また次の物語で、お会いできることを楽しみにしています。
2026年 初夏


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紹介文
「正しいことと、心が救われることは、別なんだね……」
十四年前に親友の亮を急性の心臓疾患で亡くした「僕」。
新築の家が完成する直前、愛車(バイク)を路肩に止めたまま逝ってしまった親友への、割り切れない悲しみと行き場のない怒りを抱えたまま、ただ歳月だけが過ぎていった。
ああ、あの日――。
葬儀の帰り道、悲しみのあまり街に舞う「アザミの綿毛」を都市伝説の生き物【ケサランパサラン】だと信じ込み、必死で追いかけて小さなカプセルに閉じ込めた、あの夜の滑稽な祈り。
止まったはずの過去が、一通の奇妙なメールによって動き出す。
出迎えたのは、大学の生体情報工学研究室。
誠実な女性研究者・三雲と、理詰めのデータプランナー・真壁。
二人が提示したのは、亡き友のペースメーカーに残されていた、倒れる直前の「三分間の奇妙なログ」だった。
科学が導き出したデータ(理屈)と、遺された者が抱き続けた祈り(優しさ)が交差するとき、十四年の時を超えて、ある美しい「仮説」が浮かび上がる――。
大切な人を亡くしたすべての人に捧ぐ、せつなくも圧倒的な希望に満ちた、大人のための感動作(ミドル・SFファンタジー)。


大義転生記
〜楠木正成と刻をこえた男〜


まえがき
七度の邂逅を経て、榊原凪(さかきばら なぎ)は、一つのことを繰り返し思い知らされてきた。
「忠義」や「大義」という言葉は、時に、当人自身の判断を奪う。
玉響(たまゆら)――魂の微かな揺らぎ。
その揺らぎは今度は、南北朝の争乱の世へ、彼を運ぼうとしていた。
延元元年(一三三六年)五月。後醍醐天皇に仕え、河内国・楠木の地から身を起こした武将――楠木正成。奇策と籠城戦をもって鎌倉幕府打倒に最大の功を上げながら、湊川の戦いにおいて、勝ち目のない野戦を命じられ、弟・正季とともに自害することになる男の物語である。




プロローグ 皐月の来訪
東京は、初夏の瑞々しい陽気に包まれていた。
榊原凪は、五十二歳になっていた。大石内蔵助との旅から、半年余りが経っている。
雪の降る江戸の屋敷で、内蔵助が涙を流しながら「あの子は、拙者よりも、よほど、腹が据わっておる」と呟いた声を、凪は今も忘れられずにいた。
書き上げた小説『もう一人の忠臣蔵』は、これまでの作品の中でも、特に静かな支持を得た。「忠義とは、誰のためにあるのか」という問いが、多くの読者の胸に深く突き刺さったようだった。
その夜、凪は資料に埋もれながら、書斎でうたた寝をしていた。
ふと、馬の嘶きと土埃、そして微かな潮の匂いが鼻腔をくすぐった。兵庫の海の匂いだろうか、と凪はぼんやり思った。
顔を上げると、部屋の隅に、鎧姿の男が立っていた。
当世具足とは異なる、古式ゆかしい大鎧。年の頃は四十前後。日に焼けた精悍な顔立ち。だが、その目には、深い諦念と、それでもなお消えぬ思索の光が同居していた。
「夜分に、推参いたす」
男は、静かに一礼した。
「あなたは……」
「楠木正成と申す」
凪の呼吸が、止まった。
楠木正成。後醍醐天皇の倒幕運動に呼応し、赤坂城・千早城での奇策に富んだ籠城戦で、鎌倉幕府の大軍を文字通り翻弄した怪物。建武の新政を支えた最高の忠臣でありながら、足利尊氏の反乱に際し、朝廷の無謀な命によって、勝ち目のない野戦へと赴くことになっている男。
「なぜ、ここに」
「分からぬ」正成は首を振った。「気づけば、この見慣れぬ部屋におった。由井殿、明智殿、真田殿、土方殿、坂本殿、大石殿――そなたが会うてきた方々の気配が、この空間に微かに感じられる」
正成は、静かに凪を見据えた。
「拙者は今、兵庫の陣におる。明日にも、尊氏殿の大軍と、湊川にて雌雄を決することになろう」
「勝算は」
正成は、力なく笑った。
「ない。拙者は、京へ一度退き、帝を叡山へお移しした上で、尊氏の大軍を京の中に誘い込み、東西から包囲して討つべしと上奏いたした。……この策ならば、確実に勝てた。だが――」
彼の顔に、言葉にならぬ苦悩がよぎった。
「その献策は、退けられた」

一章 七度目のたゆたい
正成が消えた後、凪は資料に埋もれながら、夜通し考え続けていた。
正雪、光秀、信繁、歳三、龍馬、内蔵助――それぞれに、己自身、あるいは大切な者の生死を懸けた問いがあった。
だが、楠木正成の場合は、いささか事情が異なるように思えた。
史実において、正成は自らの戦略的判断――京での持久・包囲戦――を朝廷に献策しながら、それを退けられ、兵庫での野戦を命じられる。彼自身、この戦に勝ち目がないことを、誰よりも理解していた。それでも彼は、帝への絶対的な忠義から、その命に従った。
湊川にて足利軍に包囲された正成は、弟・正季とともに、「七生報国(七度生まれ変わっても朝敵を滅ぼさん)」と誓い合い、自害して果てる。
この最期は、後世「大楠公」として、忠義の最高峰と称えられ続けることになる。
だが、と凪は思う。
正成は、正しい戦略を持っていた。それを退けたのは彼自身ではなく、戦を知らぬ朝廷の判断だった。ならば――彼が、その誤った命令に唯々諾々と従い、命を落とす必要が、本当にあったのか。
忠義とは、命令に従って死ぬことなのか。それとも、正しいと信じる道を、たとえ命令に背いてでも貫くことなのか。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が激しく震え、初夏の匂いが、一気に馬と土埃の匂いに変わった。
玉響。
世界が、大きく揺れた。

二章 兵庫の陣
気づくと、凪は瀬戸内の海を一望する丘の上に立っていた。
眼下に広がるのは、楠木勢の陣営。青い空に旗指物が初夏の風にはためいている。だが、遠く海上を見やれば、すでに足利方の無数の軍船が黒い影となって押し寄せていた。
凪の身なりは、旅の修験者風の装いに変わっていた。
「もし」
見張りの武士に声をかけると、彼は怪訝な顔をして刀の柄に手をかけた。
「正成様に、お目通り願いたい」
「お主、何者だ。ここは戦場ぞ」
「正成様のお指図で参った者です。『東京の書斎の者』と告げていただければ、必ず通じるはずです」
武士は訝しみながらも、そのただならぬ雰囲気に気圧され、奥へと駆けていった。
しばらくして、案内の者が血相を変えて戻ってきた。
「榊原殿とお見受けする。正成様がお待ちだ、ご案内いたす」

三章 正成の陣屋
陣屋は、質実剛健を絵に描いたような作りだった。薄暗い堂内には、詳細な地図と、書きかけの上奏文の写しが文机に広げられている。
正成は地図を見つめていたが、凪が入ると顔を上げた。
「よう参られた、榊原殿」
「参りました、正成様」
「座ってくれ」正成は静かに言った。「明日には、決着がつく。……いや、決着というほどのものでもないな。拙者の負けは、初めから決まっておるのだから」
「京での持久戦を、頑なに拒まれたのですね」
「うむ」正成は頷いた。「帝を比叡山へお移しし、尊氏の大軍を京の中へ誘い込む。そこを、新田殿の軍と拙者の軍とで、南北から挟み撃ちにする。……この策以外に、この戦況を覆す道はなかった」
「なぜ、退けられたのですか」
正成は、重い息を吐き出した。
「坊門宰相清忠(ぼうもん さいしょう きよただ)殿をはじめとする公家衆が、帝を再び都から落とすことを、良しとされなんだ。帝の御威光に傷がつく、とな。……戦の理(ことわり)よりも、体面が優先されたのだ」
「それでも、あなたは、その愚策に従われるのですね」
正成は、長い沈黙のあと、胸の奥底から絞り出すように答えた。
「拙者は、帝に忠義を誓うた身じゃ。その忠義が、拙者自身の戦略眼よりも、優先されねばならぬ時がある。……それが今なのだと、自分に言い聞かせている」

四章 問いの重さ
その夜、凪は陣屋の隅で、眠れぬまま夜空を見上げていた。
正成の言葉が、呪縛のように頭から離れなかった。
――拙者自身の戦略眼よりも、優先されねばならぬ時がある。
これまで出会ってきた男たちは皆、己自身の意志と、外からの圧力との間で揺れていた。だが、楠木正成の場合、彼自身の判断はすでに完璧に定まっている。「京での持久戦こそが正しい」と。にもかかわらず、彼はそれが退けられたという理由だけで、誤った命令に従い、死地へ向かおうとしている。
これは本当に忠義なのか。それとも――大義という名の「思考の放棄」ではないのか。
凪は、かつて出会った明智光秀の言葉を思い出していた。
『拙者は、いずれ殺されるかもしれぬ。だが、己の心を裏切ることだけは選ばぬ』
正成にとっての「己の心」とは、何なのか。戦略家としての正しい瞳か、それとも、帝への絶対的な盲従か。
もし、その二つが真っ向から対立してしまったとき――彼は、どちらを選ぶべきなのか。
暗闇の向こうで、寄せては返す波音が、まるでタイムリミットを刻むように響いていた。

五章 桜井の別れ、ふたたび
翌朝、凪は正成が息子・正行(まさつら)に宛てて書いた文を、偶然目にする機会を得た。
正行は、この兵庫への出陣に先立ち、桜井の駅にて、正成から故郷・河内へ帰るよう諭されていた。当時、わずか十一歳。
「息子様は、すでに故郷へお帰しになったのですね」
「うむ」正成は優しく目を細めた。「あの子には、生きて、この先の世を見てほしい。父に殉ずることだけが忠義ではない。生き延び、いつか帝のために真に働くことこそが、真の忠義じゃと伝えた」
凪は、その言葉に、かつて我が子・主税を戦場へ送り出した大石内蔵助の姿を重ねた。そして、真っ直ぐに正成を見据えた。
「正成様。あなたは、正行様には『生きよ』と説かれた。ならば――なぜ、ご自身には、その言葉を当てはめられないのですか」
正成は、はっとした顔で凪を見た。
「拙者自身に……?」
「あなたは、勝つための正しい戦略を持っておられる。それが退けられたからといって、あなたがここで犬死にすることは、本当に帝への忠義になりますか? それとも――泥をすすってでも生き延びて、いつか再び、正しい戦略をもって帝の軍を勝利に導く機会を待つことこそが、正行様に説いたのと同じ『真の忠義』ではないのですか」
正成は、落雷に打たれたかのように硬直したまま、長い間、答えることができなかった。

六章 坊門清忠との対話
その日の昼過ぎ、凪は陣屋の天幕で、思わぬ人物と対峙することになった。
坊門清忠――正成の持久策を真っ向から退けた、朝廷の公家である。彼は監軍として、この兵庫の陣に同行していた。
「榊原殿と申されるか。正成殿より、妙な旅の者がいると聞き及んでおる」
烏帽子を被り、戦場には不釣り合いな直衣を纏った清忠は、傲然と言い放った。
「清忠様、お伺いしたいことがございます。なぜ、正成様の献策――京での持久戦――を退けられたのですか」
清忠は、不快そうに眉をひそめた。
「しつこいな。武士風情はすぐに戦の勝ち負けの次元で物を見る。帝を再び都からお移しすることなど、あってはならぬのだ。帝の御威光に、傷がつく」
「しかし、正成様の策ならば、確実に足利を討てた」
「戦とは、勝てば良いというものではない!」清忠は苛立たしげに扇子で机を叩いた。「帝の御威光を守ることこそが何よりも肝要じゃ。それに……」
清忠の目に、冷徹な計算の光が宿る。
「正成殿ほどの天下の忠臣が、帝の御下命に従い、身命を賭して戦う。たとえここで散ろうとも、その壮絶な最期こそが、他の日和見の武将たちへの何よりの『示し』になろう。朝廷の権威を担保する、不滅のプロパガンダとなるのだ」
凪の胸の内に、猛烈な怒りが湧き上がった。一歩前に踏み出し、清忠を鋭く睨みつける。その眼光には、これまで幾多の英雄の生死を見届けてきた重みがあった。
「『示し』、ですか」
凪の声は、低く、しかし冷徹に響いた。
「一人の人間の命を、それも国を救いうる不世出の知将の命を、ただの飾りにするおつもりか。……あなた方が守ろうとしているのは、帝の御威光ではない。御威光という盾の裏に隠れた、あなた方自身の保身と体面だ。生きた知略を殺し、死んだ美談を欲しがる者に、国を治める資格などない!」
「な、何だと……! 無礼者!」
清忠は顔を真っ赤にして立ち上がったが、凪の凄まじい気迫に圧され、それ以上言葉を続けることができなかった。

七章 弟・正季との対話
その夜、凪は篝火の傍らで刀を研いでいる正成の弟・正季(まさすえ)を訪ねた。
正季は豪胆な武人で、兄とは対照的に、迷いのない目をしていた。
「榊原殿とやら。兄上に、昼間から何を吹き込んでおる」
「吹き込んでなどいません。ただ、問いを立てているだけです」
「問い、だと?」
「正成様が、本当にこの湊川の地で死ぬことを、望んでおられるのか、です」
正季は手を止め、じっと凪を見つめた。
「兄上は、拙者にこう申された。『たとえ勝ち目がなくとも、帝の御下命とあらば赴かねばならぬ。それが武士の生き様じゃ』と。拙者は、兄上とともに死ぬことに、一片の迷いもない」
「正季様」凪は一歩近づいた。「本当に、それで悔いはありませんか。正成様ほどの知将が、このような犬死にを遂げることを、最も惜しいと思っているのは、あなたではないのですか」
正季は視線を落とし、研ぎ澄まされた刀身を見つめた。しばらくの沈黙の後、ぽつりと言った。
「……兄上は、赤坂城、千早城にて、寡兵をもって大軍を翻弄した。あの、敵の裏をかき、嘲笑うかのような戦い方こそ、兄上の真骨頂じゃ。野に出て、正面から大軍にぶつかって玉砕するなど……兄上らしくない。そう思わぬと言えば、嘘になるな」

八章 夜半の対話
深い夜、凪は正成に呼ばれ、二人だけで静まり返った陣屋に残った。
「拙者は、迷うておる」と正成は言った。
「何を、ですか」
「そなたの言葉、そして正行へ残した己の言葉を思い返しておった。……拙者は、帝への忠義を『命令通りに死ぬこと』でしか示せぬと、思い込んでおっていたのかもしれぬ。だが、赤坂城や千早城での泥臭い戦いを思えば、拙者の真の忠義は、華々しく散ることではなく、生き延び、知略を尽くして、いつか帝に真の勝利を捧げることにあるのではないか、と」
「もし、そう思われるなら」
「だが」正成は顔を曇らせた。「清忠殿の命、すなわち朝廷の命に表立って背くわけにはいかぬ。それは朝廷の秩序そのものを崩壊させる」
凪は、深く息を吸い込んだ。
「正成様。命令に背くことと、戦い方を工夫することは違います。あなたは正面からの力比べではなく、地の利と奇策をもって大軍を翻弄してきたはずだ。この湊川でも、あなた自身の戦い方ができるはずです」
正成の目に、かつて幕府軍を震撼させた鋭い光が宿った。
「拙者自身の、戦い方……」
「野戦で真正面からぶつかり、全滅することだけが命令に従う道ではないはずです。命じられた通り兵庫で足利を迎え撃ちつつも、あなた自身の知略で、全員が生きて撤退する道を構築することは不可能なのですか」
正成の口元に、不敵な笑みが浮かんだ。
「……できるな。いや、拙者にしかできぬわ」

九章 湊川の采配
翌朝、延元元年五月二十五日。
湊川の地は、両軍の軍勢で埋め尽くされていた。足利尊氏率いる圧倒的大軍に対し、楠木勢はあまりにも寡兵。
正成は、兵たちを前に、静かに采配を執った。
「これより、兵庫にて足利勢を迎え撃つ! だが――正面からの力比べは一切せぬ!」
将兵の間に、微かなどよめきが走る。
「兵を三手に分ける。一手は湊川沿いに陣を張り、敵を正面から受け止める構えを見せよ。だが、深追いは厳禁だ。偽りの本陣を作り、我が身代わりの鎧をつけた案山子を大量に並べ立てよ。敵が『正成を包囲した』と歓喜し、突撃してきた瞬間――」
正成は全軍を見渡した。
「全軍、山の手へと退き、金剛山へ向けて撤退する!」
老練な将の一人が、驚愕の声を上げた。
「殿! それは……敵前逃亡と見られはしませぬか! 忠臣の名が廃ります!」
「見られよう! 罵りたければ罵るが良い!」
正成は、腹の底から響く声で言い放った。
「拙者は、帝への忠義を、この場で死ぬという自己満足でのみ示すつもりはない! 生き延び、金剛山の地の利を頼り、幾度でも泥にまみれて蘇り、いつか必ず朝敵・足利尊氏を討つ! それこそが、拙者の真の忠義じゃ!」
「兄上、これが俺たちの真の誓いですな」
正季が隣で不敵に笑った。正成は力強く頷く。
「うむ。死んで生まれ変わるのではない。この命がある限り、七度でも、何度でも蘇って戦い続ける。これぞ、我らの『七生報国』よ!」
史実であれば、この日、楠木正成・正季兄弟は足利軍に包囲され、民家にて凄絶な自刃を遂げるはずだった。
だが、もう一つの結末では――。
足利勢が「正成の本陣」へと怒涛の勢いで突撃した時、そこにいたのは無数の案山子と空の天幕だけだった。完全なる欺瞞戦術によって時間を稼がれた足利軍が混乱している隙に、楠木勢の本隊は、一人の犠牲者も出すことなく山の手へと鮮やかに撤退していたのである。
正成・正季、そして生き残った将兵たちは、夜陰に紛れて、河内・金剛山方面へと悠然と落ち延びていった。

終章 金剛山の抵抗
それから数年、楠木正成は、金剛山の千早城を拠点に、地の利を徹底的に活かしたゲリラ戦を続けたと伝えられる。
湊川で名誉の討死を遂げたという「大楠公」の美談が、後世に広まることはなかった。その代わりに、彼は「生きて幾度も蘇り、権力者を震撼させ続けた不屈の智将」として、河内の山中で、畏怖と敬意を込めて静かに語り継がれることになる。
後醍醐天皇が崩御した後も、成長した息子・正行が父のもとに合流し、二代にわたって不屈の抵抗を続けたという。
「七生報国」の誓いは、自刃による美化ではなく、泥臭く生き続けることによって、真に体現されたのだった。

エピローグ もう一つの忠義
東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を静かに読み返していた。
窓の外では、初夏の風が、鮮やかな緑の匂いを運んでいた。
「あなたの忠義は、命令通りに死ぬことでは、なかったはずです」
凪は、画面の向こうの英雄に語りかけるように、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が静かに明滅していた。
『延元元年五月二十五日、兵庫の海は、どこまでも凪いでいた。知略の将は、その日、忠義を死によってではなく、生き続けることによって示す道を選び、山深く、静かに姿を消したのである。』
カーテンが大きく揺れ、柔らかな風が吹き抜けた。潮の匂いが、微かに、確かにした。
玉響の揺らぎは、今日もまた、世界のどこかで静かに続いている。

――了――


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【作者注】
本作は南北朝時代・湊川の戦いを題材としたフィクションです。楠木正成、正季、正行、坊門清忠などは実在の歴史人物ですが、物語の展開は著者の創作によるものです。
実際の湊川の戦い(延元元年、一三三六年五月二十五日)では、楠木正成は足利尊氏の大軍に敗れ、弟・正季とともに「七生報国」を誓い、自刃したとされています。この最期は「大楠公」として、後世長く忠義の象徴として語り継がれています。
本作は、前七作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響(たまゆら)は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。


忠義転生記

〜大石内蔵助と刻をこえた男〜


まえがき
 由井正雪、明智光秀、石田三成、真田信繁、土方歳三、坂本龍馬――六度の邂逅を経て、榊原凪は、一つのことをはっきりと自覚するようになっていた。
 自分が向き合ってきたのは、いつも「大義のために死ぬこと」を、当然のものとして背負わされた男たちの背中だった。
 玉響(たまゆら)――魂の微かな揺らぎ。
 その揺らぎは今度は、元禄の江戸へ、彼を運ぼうとしていた。
 元禄十六年(一七〇三年)二月。吉良邸討ち入りから、一月半余り。
 赤穂浪士四十六人の頭領――大石内蔵助良雄。主君の仇を討ち、自らの死をもって忠義を示すことになる男。そして、齢わずか十五にして父とともに死地へ赴くことになる、その息子・主税(ちから)の物語でもある。




プロローグ 睦月の来訪
 東京は、正月気分の抜けきらぬ、底冷えのする夜だった。
 榊原凪は、五十一歳になっていた。坂本龍馬との旅から、半年余りが過ぎている。
 横浜の港で、洋装の龍馬が笑っていた姿――伝説になることを退け、自らの目で未来を見ることを選んだ男の顔――を、凪は時折、深い愛おしさともにお思い出していた。
 書き上げた小説『刀を納めた維新の男』は、世間に賛否両論の嵐を呼んだ。「龍馬は暗殺されてこそ伝説になった」「歴史を汚すな」と批判する声も、少なくなかった。だが凪は、その批判の痛みに、静かに耳を傾けていた。
 伝説として死ぬことと、泥をすすっても生きること。そのどちらが「正しい」のか、凪にはまだ分からない。
 その夜、凪は資料の山に埋もれながら、うたた寝をしていた。
 ふと、畳に落ちる線香の煙と、凍てつく雪の匂いが鼻腔をくすぐった。
 顔を上げると、部屋の隅に、男が座っていた。正座の姿勢のまま、微動だにしない。
 羽織袴の、質素な装い。年の頃は四十四、五。痩身だが、その背筋には一分の隙もない。顔立ちは温和だが、目の奥には、底の知れない深い覚悟が沈んでいた。
「夜分に、ご無礼つかまつる」
 男は、静かに一礼した。
「あなたは……」
「赤穂浪士、大石内蔵助良雄にござる」
 凪の呼吸が、止まった。
 大石内蔵助。播州赤穂藩の筆頭家老。主君・浅野内匠頭の刃傷事件による切腹、そしてお家断絶ののち、一年九ヶ月にわたる雌伏を経て、四十六人の同志とともに吉良邸に討ち入り、主君の仇を討った男。そして――このおよそひと月半後、幕命により、自ら腹を切ることになっている男。
「なぜ、ここに」
「分からぬ」内蔵助は答えた。「気づけば、この見慣れぬ部屋におった。由井殿、明智殿、真田殿、土方殿、坂本殿――そなたが会うてきた方々の気配が、この空間に微かに感じられる」
 彼は、澄んだ瞳で凪をまっすぐに見つめた。
「拙者は今、細川家の御預かりの身にて、江戸の屋敷にて沙汰を待っておる。近々、切腹の命が下ろう。拙者一人のことならば、とうに覚悟はできておる。じゃが……」
 内蔵助の声が、わずかに震えた。
「倅の主税のことが、心に、重うのしかかっておる」
「主税殿は……おいくつか」
「十五じゃ。数えで、十五にすぎぬ」

一章 六度目のたゆたい
 内蔵助の姿が掻き消えたあとも、凪は机の前で考え続けていた。
 正雪、光秀、信繁、歳三、龍馬――それぞれに、己自身の生死を懸けた問いがあった。
 だが大石内蔵助の場合、問われるべきは、彼自身のことだけではない。
 史実において、内蔵助は元禄十六年二月四日、幕命により切腹する。享年四十五。同志四十六人全員が、同日、四つの大名家に分かれて切腹を命じられた。その中には、内蔵助の嫡男・主税、わずか十五歳の少年も含まれていた。
 この集団切腹は、後世「忠臣蔵」として、日本人の心を捉え続けることになる。主君への忠義を貫き、自らの命と引き換えに本懐を遂げた四十六人の、非の打ち所がない美しい物語として。
 だが、と凪は思う。
 主税は、討ち入りに加わった時点で、まだ十四歳だった。彼が本当に、父と同じだけの思想と覚悟をもって、この死を受け入れているのか。それとも――偉大な父の背を追うことしか、選べなかっただけなのか。
 完璧な悲劇の美しさを保つために、十五歳の少年の命が消費されていいはずがない。
「行きます」
 凪が呟くと同時に、部屋の空気が激しく震え、蛍光灯の光が掻き消えた。現代の温室の空気が、剥き出しの江戸の冬の香りに変わる。
 玉響。
 世界が、ぐにゃりと揺れた。

二章 細川屋敷
 気づくと、凪は雪の深く積もった江戸の屋敷の、薄暗い庭先に立っていた。
 高輪にある細川越中守綱利の下屋敷。内蔵助以下、赤穂浪士十七人が、ここに「御預かり」の身として留め置かれている。
 凪の身なりは、いつの間にか浪人風の地味な羽織袴に変わっていた。
「もし」
 かがり火の傍らで警戒する警護の武士に声をかけると、彼は怪訝な顔をして刀の柄に手をかけた。
「内蔵助殿に、お目通り願いたい。榊原が参ったとお伝えいただければ、通じるはずです」
 武士は訝しみながらも、その佇まいに気圧されたのか、奥へと入っていった。
 しばらくして、吐く息を白くさせた案内の者が戻ってきた。
「榊原殿とお見受けする。内蔵助様がお待ちだ。ご案内いたす」

三章 内蔵助の座敷
 通された座敷は、驚くほど質素だった。畳の上に、文机と、書きかけの手紙が数通。
 内蔵助は、現代の凪の部屋に現れた時と同じ、微動だにしない正座で凪を迎えた。
「よう参られた、榊原殿」
「参りました、内蔵助様」
 凪が腰を下ろすと、内蔵助はみずから静かに茶を淹れ、勧めた。
「沙汰が下るまで、あとひと月ほどであろう」内蔵助は、淡々と言った。「細川様は、我らを罪人としてではなく、大義の士として遇してくださっておる。夜着や食事に至るまで、身に余る優しさじゃ。有り難きこと極まりない」
「内蔵助様は、ご自身の切腹の沙汰を、完全に受け入れておられるのですね」
「無論じゃ」内蔵助は、静かに頷いた。「主君の仇を討ったこと、それ自体に、拙者は一片の悔いもない。武士としてこれ以上の本懐があろうか。……だが」
 彼は、そこで初めて、言葉を詰まらせた。視線が、文机の上に置かれた一通の手紙へと落ちる。
「主税のことだけは、幾晩考えても、答えが出ぬのだ」
「主税殿は、討ち入りに加わることを、ご自身で望まれたのですか」
「望んだ、と言えば、望んだのであろう。血気盛んな若者たちの前で、凛として見せた」内蔵助は、苦しげに目を伏せた。「じゃが、あの子に、真に己の意志で選ぶ余地が、どれほどあったか。父が、赤穂藩の筆頭家老が頭領を務める企てじゃ。断ることなど、あの子にできたであろうか。拙者が、あの子の選択肢を、最初から奪っていたのではないかとな……」

四章 問いの重さ
 その夜、凪は細川屋敷の一室で、冷える身体を抱えながら眠れぬまま過ごした。
 内蔵助の言葉が、耳の奥で何度もリフレインしていた。
 かつて出会った真田信繁は、我が子・大助を、豊臣秀頼とともに死なせるか、生かすかで苦しんだ。だが大石内蔵助の場合、事情はさらに複雑で、残酷だった。
 討ち入りという「事件」そのものは、すでに終わっている。主税はすでに吉良邸の門をくぐり、すでに幕府に自訴し、四十六人の一人として世間に名前が知れ渡っている。
 今さら、主税だけを生き延びさせることが、物理的に可能なのか。
 そしてそれは、「忠義を貫いた赤穂浪士」という完璧な物語に、取り返しのつかない瑕(きず)をつけることにならないか。後世の人間は、「大石の息子だけが命を惜しんで逃げた」と嘲笑うかもしれない。
 だが――と凪は激しく葛藤する。
 その「物語の完全さ」という、生きている人間の身勝手な美意識のために、十五歳の少年の未来を、当然の供物として差し出させて良いはずがない。
 凪は、暗闇の中で、これまで出会ってきた男たちの言葉を思い返していた。
『生きて訴え続けることが、最大の武士道だ』
『近藤の名誉は、拙者が死ぬことでは、取り戻せぬ』
 それらの言葉は、当事者自身が「生きる」ことを選ぶ場面で意味を持ってきた。だが主税の場合、生きることを選ぶ主体は、彼自身なのか、それとも父・内蔵助なのか。
 窓の外で、雪がしんしんと、すべてを埋め尽くすように降り積もっていた。

五章 主税との対話
 翌日、凪は内蔵助の計らいにより、他の浪士たちの目を盗んで、主税と対面することを許された。
 目の前に座る少年は、まだあどけなさが残る細面に、産毛の生えた顎をしていた。しかし、その瞳には、無理に大人びようとする静けさが張り付いている。
「榊原殿と申されるか。父上より、伺うております」
「主税殿、お身体の加減はいかがですか」
「変わりなく過ごしております」主税は、微かに笑った。「細川の方々は皆お優しく、案じてくださり、忝い」
 凪は、少し躊躇いながらも、彼の目をまっすぐに見つめて切り出した。
「主税殿。単刀直入に伺います。あなたは、これから訪れるであろう切腹の沙汰を、どう思っておられますか」
 主税は、しばらく黙っていた。その細い指が、膝の上でぎゅっと袴を掴む。
「正直に申せば……」と、彼は声を震わせた。「怖くないと申せば、嘘になりましょう。夜、目を閉じると、首筋が寒くなることがございます。……ですが、父上と、四十六人の方々と、共に主君の本懐を遂げたこと。それは、拙者の誇りでございます。大石の家名に恥じぬ生き方ができたと」
「もし――もしもの話ですが」凪は、慎重に、しかし熱を込めて言葉を選んだ。「もし、あなただけが、この屋敷を抜け出し、生き延びる道があるとしたら、それを望まれますか」
 主税は、初めて、驚いたように目を見開いた。
「そのようなことが、あり得るのですか」
「分かりません。ただ、主税殿、あなた自身の『本音』が知りたいのです」
 主税は、長い間、じっと畳の一点を見つめて考え込んだ。やがて、ぽつり、ぽつりと、十五歳の少年の本当の肉声が漏れ出した。
「拙者は……父上とともに、大義の中に死にたいと思う心と――正直に申せば、生きて、この先の世を見てみたい、母上や弟たちの元へ帰りたいという心と、両方がございます。どちらが本当の拙者の心なのか、拙者自身にも、もう分かりませぬ」
 凪は、そのあまりに誠実な告白に、胸を締め付けられた。
「ただ」と主税は顔を上げ、きっぱりと言った。「父上が、拙者のために、ご自身の忠義に瑕をつけるようなことをなさるのは……それだけは、拙者の本意ではございません」

六章 同志たちの声
 その日の午後、細川屋敷の廊下で、凪は堀部安兵衛に呼び止められた。
 血気盛んで、江戸急進派のリーダーであった男。安兵衛の目は、鋭く凪を値踏みしていた。
「榊原殿とやら。お主、内蔵助様に、妙な入れ知恵をしておるのではあるまいな」
「入れ知恵、とは」
「主税殿を、逃がそうなどという戯れ言だ」安兵衛は一歩詰め寄り、低い声で言った。「そのようなこと、我ら赤穂浪士の忠義を、根底から汚すものぞ。世間は『大石は我が子だけを助けた』と指を差す。主税殿の武士としての誇りは、どこへ行く」
「安兵衛殿は、主税殿が死ぬことを、当然だと思っておられるのですか」
「当然だ!」安兵衛の瞳に、烈火のような純粋さが宿る。「我ら四十六人、心を一つにして、命を捨ててここまで来た。一人だけ抜け駆けのように生き延びるは、義に反する。主税殿とて、立派な赤穂の武士。死を汚すことこそ、あの子への不義理だと思わぬか!」
 安兵衛の言葉には、彼なりの狂信的なまでの「愛」と「武士道」があった。
 一方で、大石内蔵助の遠縁にあたり、討ち入りには加わらなかった大石信興は、夜陰に乗じて凪にそっと耳打ちした。
「榊原殿。拙者は、内蔵助殿に、密かに文を送ったことがござる。主税殿だけは何とか病死とでも偽り、逃れる道を、と。……だが、内蔵助殿からの返事はなかった」
「なぜだと思われますか」
「内蔵助殿は、義と情の狭間で、身動きが取れずにおられるのだ。頭領としての顔と、父親としての顔。そのどちらを選んでも、地獄だからな……」

七章 夜半の対話
 その夜、凪は再び内蔵助に呼ばれ、二人だけで灯籠の薄明かりの中に座った。
「拙者は、激しく迷うておる」と内蔵助は言った。その顔は、昼間よりも酷くやつれて見えた。
「主税殿のことですね」
「うむ。安兵衛たちの申すことも、一理、いや万理ある。四十六人が一人も欠けることなく本懐を遂げてこそ、この義挙は完成する。誰か一人が欠ければ、それはただの『私怨の殺戮』と擦り切れるやもしれぬ。だが……」
 内蔵助は、痛みに耐えるように固く目を閉じた。
「あの子は、まだ十五じゃ。これから、美味いものを食い、恋を知り、新しい世を見るはずの命じゃ。拙者の、浅野家への忠義のために、あの子の未来まで、すべて差し出して良いものか。拙者は、悪鬼羅刹か……」
「内蔵助様」
 凪は、一歩這い寄った。そして、内蔵助の、寒さで強張ったその手の上に、みずからの手を重ねた。現代人の体温が、歴史の闇に触れる。
「あなたが本当に守りたいのは、『四十六人が一人も欠けることなく死んだ』という、後世の人間が喜ぶ『完璧な物語』ですか? それとも――浅野内匠頭様への、純粋な忠義の心そのものですか」
 内蔵助は、弾かれたように凪を見た。
「忠義の心そのもの、じゃ。そこに偽りはない」
「ならば」と凪は、まっすぐにその眼差しを受け止めた。「主税殿が生き延びることは、その忠義を裏切ることにはなりません。むしろ、主税殿が生き延び、この討ち入りの真意を、あなたの苦悩を、本当の心を後の世に語り継ぐことこそが、忠義の、もう一つの形ではないでしょうか」
 内蔵助は、長い間、言葉を失っていた。
「そなたは……真田殿にも、同じようなことを申したのか」
「はい。あなたが誰かを生かすために戦い、その誰かが未来に命を繋いだとしたら、その方が遥かに大きな意味を持つのではないか、と。主税殿自身も、生きて先の世を見てみたいと、本音を漏らしてくれました。ただ、あなたが忠義に瑕をつけてまで、無理に生かされることは望まないと」
 内蔵助の目から、一筋の涙が溢れ、頬を伝って畳に落ちた。それは、完璧な頭領という石像が、一人の「父親」へと溶けた瞬間だった。
「あの子は……拙者よりも、よほど、腹が据わっておるな」

八章 沙汰の前夜
 それから数日、内蔵助は、他の浪士たちに気づかれぬよう、静かに一通の文をしたためていた。
 宛先は、細川家の家老・堀内伝右衛門。浪士たちの世話役を務め、彼らに深い同情と敬意を寄せていた人物である。
 沙汰の日が数日後に迫った夜、内蔵助は凪を呼び出した。その表情には、憑き物が落ちたような、別の覚悟が宿っていた。
「堀内殿に、命を懸けた頼み事をした」と内蔵助は囁いた。「沙汰の日、もし叶うならば――主税を、幼き頃より仕えてきた、体格の似た若党と、密かに入れ替えることができぬか、と」
「入れ替える……。しかし、幕府の目付(検使役)の目は厳しすぎます。もし露見すれば、細川家もお家断絶、堀内殿の首も飛びます」
「分かっておる。あまりに無茶な、独善の博打じゃ」内蔵助は、微かに笑った。「だが、堀内殿は、我らに深い情けをかけてくださっておる。万に一つの望みじゃ。もし、これが露見し、拙者が不忠の者として惨殺されようとも、一構えもない。拙者は、武士の形骸たる忠義よりも、あの子の命を選びたい。それが、大石内蔵助の、最後の我が儘じゃ」

九章 沙汰の日
 元禄十六年二月四日。
 江戸の空は、厚い雲に覆われ、大粒の雪が舞い散っていた。
 幕府からの上使が細川屋敷に到着し、大石内蔵助以下十七名に、正式に「切腹」の沙汰が下った。
 だが、その直前――。
 堀内伝右衛門の、命懸けの手引きがあった。主税は「急な腹痛により、検使の前に出せる状態にない」として、隔離された奥の一室に移されていた。そこには、あらかじめ用意されていた、主税の衣服を纏い、うつむいた若党が控えていた。
 検使役の臨検は苛烈を極めたが、細川家の家臣たちが一丸となって「主税殿に間違いございませぬ」と、その肉の壁で視線を遮った。浪士たちへの深い同情が、幕府の厳命という巨大なシステムを、一瞬だけ麻痺させたのだ。
 主税は、その日の夜陰に乗じ、堀内の手引きで密かに細川屋敷を脱出した。
 白洲の切腹の座に、内蔵助は臨んだ。
 隣の座にいるのが、我が子ではなく、身代わりの若党(のちに細川家によって密かに逃がされた)であることを、彼は知っていた。
 内蔵助の最期の姿は、史実の伝えるところと、何ら変わりはなかった。従容として、乱れることなく、見事な手際で腹を切り、忠義の士としてその生涯を閉じた。
 ただ、その今際の際、彼の唇が、誰にも聞こえない小さな声で「生きよ」と動いたのを、影から見守っていた凪だけが目撃していた。

終章 もう一人の忠臣蔵
 それから数年後。
 京の外れの、風が吹き抜ける小さな寺の境内で、一人の若い僧が、静かに経を読んでいた。
 名を変え、僧籍に入ったその青年は、かつて「大石主税」と呼ばれていた面影を、その涼やかな目元に残していた。
彼は、父や同志たちの物語を、誰にも語らなかった。ただ、毎年二月四日の雪の降る日になると、本堂の片隅で、静かに手を合わせるのだった。
 生き延びた彼は、父の願い通り、新しい時代をその目で見た。武士の世が少しずつ傾き、人々が泰平を謳歌する姿を。
 晩年、彼は一冊の、決して表に出ることのない記録を書き残した。
 討ち入りの真実、そして、父・内蔵助が最後まで抱えていた、一人の父親としての迷いと、自分を逃がしてくれた愛について。
 それは、後世「忠臣蔵」という完璧な美談として語られる物語には、決して描かれることのない、泥臭くも温かい、もう一つの忠義の記録だった。

エピローグ もう一つの忠義
 東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、愛おしそうに読み返していた。
 窓の外では、あの夜と同じように、雪が静かに降っていた。
「あなたの本当の忠義は、全員が死んで人形になることでは、なかったはずです」
 凪は、誰もいない空間に向かって、静かに呟いた。
 パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文がまたたいていた。
『元禄十六年二月四日、江戸の空には、雪が静かに舞っていた。四十六の忠義の士は、粛々とその本懐を遂げた。だが、そのうちの一人の父は、美しき忠義よりも遥かに重い我が子の命を、歴史の闇の中に、そっと逃してみせたのである。』
 ふっと、冷たい風が部屋を吹き抜けた。線香の懐かしい匂いが、微かに鼻をかすめ、そして消えた。
 玉響の揺らぎは、今日もまた、凪の心の中で、静かに、優しく続いている。

――了――


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【作者注】
 本作は赤穂事件・忠臣蔵を題材としたフィクションです。大石内蔵助、大石主税、堀部安兵衛、堀内伝右衛門などは実在の歴史人物ですが、物語の展開は著者の創作によるものです。実際の赤穂事件(元禄十五〜十六年、一七〇二〜一七〇三年)では、大石内蔵助以下四十六人の赤穂浪士は、元禄十六年二月四日、幕命により四つの大名家に分かれて切腹し、その中には当時十五歳であった大石主税も含まれていました。
 本作は、前六作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
 そして、玉響(たまゆら)は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。



黎明転生記 

〜坂本龍馬と刻をこえた男〜

まえがき
 榊原凪(さかきばら なぎ)は、一つのことに気づき始めていた。
 自分が出会うのは、いつも「死の間際」の男たちだ。だが、その死が、本人の望みであったことは、一度もなかった。
 玉響(たまゆら)――魂の微かな揺らぎ。
 その揺らぎは今度は、幕末の京へ、彼を運ぼうとしていた。
 慶応三年(一八六七年)十一月。大政奉還から、一月余り。
 土佐脱藩浪士にして、亀山社中・海援隊を興した男――坂本龍馬。新しい国のかたちを誰よりも早く思い描きながら、その完成を見ることなく、凶刃に斃れることになる男の物語である。




プロローグ 霜月の来訪
 東京は、木枯らしの吹く季節を迎えていた。
 榊原凪は、五十歳になっていた。土方歳三との旅から、半年ほどが経っている。
 北海道の牧場で、静かに馬の世話をする男の後ろ姿――あの記憶は、今も凪の胸の奥に、温かく残っていた。
 書き上げた小説『鬼が刀を納めた日』は、これまでで最も大きな反響を呼んだ。だが凪は、その評判の大きさに、むしろ戸惑いを覚えていた。
 自分は、あと何度、この揺らぎに導かれるのだろうか。
 その夜、凪は書斎で、幕末期の資料を整理していた。ふと、潮の匂いと、微かな血の匂いがした。
 顔を上げると、部屋の隅に、男が立っていた。
 着流しに、袴。腰には、大小ではなく、一振りの脇差と、見慣れぬ拳銃が差してあった。年の頃は三十二、三。日に焼けた顔に、屈託のない笑みを浮かべている。だが、その目の奥には、隠しきれない緊張があった。
 「おう、失礼するぜよ」
 男は、気さくな調子で言った。
 「あなたは……」
 「坂本龍馬じゃ」
 凪の呼吸が、止まった。
 坂本龍馬。土佐藩を脱藩し、勝海舟に学び、薩長同盟の周旋に奔走し、大政奉還という日本史上最大級の政治転換を裏で動かした男。
 そして――このわずか数日後、京都・近江屋にて、何者かに暗殺されることになっている男。
 「なぜ、ここに」
 「わからんちや」龍馬は、あっけらかんと答えた。「気づいたら、この妙な部屋におった。由井さん、明智さん、真田さん、土方さん――そなたが会うてきた連中の気配が、なんとのう分かる。面白い男じゃのう、そなたは」
 「……何をお求めですか」
 龍馬は、笑みを消し、少し真剣な顔になった。
 「拙者は今、京の近江屋におる。数日のうちに、新しい国の仕組みを作らねばならん。やることが、山ほどある」
 「山ほど……」
 「じゃが」龍馬は続けた。「拙者の身に、何やら危うい気配が迫っておるのも、感じておる。中岡君からも、用心せいと、口を酸っぱくして言われとる」
 彼は、凪をまっすぐに見た。
 「そなたに聞きたい。拙者は、このまま突き進んで良いのか。それとも――」

一章 五度目のたゆたい
 その夜、凪は資料に埋もれながら、考え続けていた。
 正雪には牢人という大義、光秀には生と汚名の選択、信繁には武名と他者の命の天秤、歳三には死者への義理と自身の生の天秤があった。
 坂本龍馬の場合は、何が問われるべきなのか。
 史実において、龍馬は慶応三年十一月十五日の夜、京都・近江屋で、中岡慎太郎とともに何者かに襲撃され、命を落とす。享年三十三。大政奉還からわずか一月後、明治維新の完成を見ることなく、彼はこの世を去る。
 その死は、後世「維新の立役者でありながら、最も無防備であった男」として、惜しまれ続けることになる。
 だが、と凪は思う。
 龍馬は、自分の身に危険が迫っていることを、知らなかったわけではない。むしろ、彼は多くの警告を受けながら、それでも十分な護衛を置かず、無防備なまま、近江屋に留まり続けた。
 なぜか。
 大きな仕事を成し遂げた直後の油断か。それとも――何か、別の理由があったのか。
 凪は、暗い天井を見つめた。
 「行きます」
 呟くと同時に、部屋の空気が震え、木枯らしの匂いが、京の町の潮風と埃っぽい匂いに変わった。
 玉響。
 世界が、揺れた。

二章 近江屋
 気づくと、凪は京都・河原町の、夕暮れの通りに立っていた。
 醤油商・近江屋の軒先。土蔵造りの、質実な商家である。周囲には、行き交う人々の喧騒があった。
 凪の身なりは、着流しの浪人風に変わっていた。
 「もし」
 店先の者に声をかけると、番頭らしき男が振り返った。
 「坂本様に、お目通り願いたい」
 「お客人、坂本先生は、二階の奥座敷におられますが……お約束は」
 「先生のお指図で参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
 番頭は訝しみながらも、奥へと入っていった。
 しばらくして、戻ってきた。
 「どうぞ、お上がりくだされ」

三章 龍馬の座敷
 二階の座敷は、書物と書きかけの文で溢れていた。
 新政府の閣僚名簿を記した『新政府綱領八策』の写し、諸藩への手紙、そして『船中八策』の草案。龍馬は、その中に埋もれるように座り、筆を走らせていた。
 「よう来た」
 龍馬は、筆を置き、凪を見た。
 「参りました」
 「座ってくれ。……見ての通り、忙しゅうてかなわん」龍馬は笑った。「大政奉還は成った。じゃが、これからが本番じゃ。新しい政府の仕組みを、誰かが作らにゃならん」
 「船中八策、ですか」
 「おお、知っとるがか」龍馬は目を丸くした。「そうじゃ。議会を開き、万機を公論に決する。身分の上下なく、能力のある者を用いる。……そういう国を、作りたい」
 「それは、あなたご自身が、その新政府に加わる、ということですか」
 龍馬は、少し考えた。
 「いや」と彼は言った。「拙者は、表舞台には、あまり興味がない。政府の役職には就かず、いずれは商売――世界を股にかけた貿易じゃ――に戻りたいと思うておる」
 「では、なぜ、これほどまでに」
 龍馬は、筆を手に取り、また置いた。
 「拙者は、仕組みを作るのが好きなんじゃ。作った後、それを動かすのは、別の誰かで良い。……いや、正直に言おう」
 彼は、初めて、少し寂しげな顔をした。
 「拙者は、どこにも属さぬ男じゃ。土佐を脱藩し、薩摩にも長州にも、幕府にも属さぬ。だからこそ、誰の利害にも縛られず、自由に動けた。だが――それは同時に、拙者を守ってくれる者が、どこにもおらぬ、ということでもある」

四章 問いの重さ
 その夜、凪は近江屋の一室で、眠れぬまま過ごした。
 龍馬の言葉が、頭から離れなかった。
 ――拙者を守ってくれる者が、どこにもおらぬ。
 正雪には牢人仲間、光秀には家臣団、信繁には豊臣家、歳三には新選組という強固な「帰属」があった。だが龍馬には、それがない。だからこそ彼は自由に動けたが、同時に、彼を組織として守る仕組みも存在しなかった。
 そして今、京の町には、彼を快く思わない者たちが確かに存在している。大政奉還という、それぞれの思惑を裏切る形の決着を導いた男として。
 龍馬は、その危険を頭では理解している。だが、新国家のビジョンに熱中するあまり、生々しい人間の嫉妬や怨恨という泥臭い現実を、どこか他人事のように軽んじている節があった。
 凪は、これまで出会ってきた男たちの顔を思い浮かべた。
 彼らは皆、「生きる」ことと「死ぬ」ことのどちらかを選ぶ場面に立っていた。だが龍馬の場合は、もしかすると――そもそも「自分が死ぬかもしれない」という現実味を、まだ十分に引き受けていないのではないか。
 窓の外で、夜回りの拍子木の音が響いていた。夜は、深まっていた。

五章 中岡慎太郎との対話
 翌日の昼過ぎ、凪は近江屋を訪れた、もう一人の男と対面することになった。
 中岡慎太郎――土佐出身の志士であり、龍馬とともに薩長同盟に尽力してきた盟友。陸援隊を率いる、実直な男である。
 中岡は、凪の存在を知ると、まっすぐに彼を見た。
 「榊原殿と申されるか。坂本君より聞いておる」
 「中岡様、お目にかかれて光栄です」
 「単刀直入に申す」中岡は言った。「そなた、坂本君に、護衛をつけるよう、説いてくれぬか」
 「中岡様は、そう思っておられるのですね」
 「無論じゃ」中岡は、苛立たしげに言った。「拙者は、何度も申しておる。近江屋は、あまりに無防備じゃ。護衛の一人も置かず、二階の座敷で、書きものに没頭しておる。京の町には、坂本君を狙う者が、確かにおる」
 「なぜ、坂本様は、護衛を置かれないのでしょうか」
 中岡は、しばらく考えた。
 「あの男は……己が狙われておるということを、どこか、他人事のように思うておる節がある。あるいは、自分が死ぬということが、実感として湧いておらぬのやもしれぬ」
 「中岡様は、坂本様に、どうあってほしいとお思いですか」
 中岡は、即答した。
 「生きてほしい。この国の仕組みが、本当に動き出すのを、あの男自身の目で、見届けてほしい」

六章 軍議ならぬ談議
 その日の夕刻、近江屋の座敷に、龍馬、中岡、そして海援隊の若い隊士・岡本健三郎らが集まった。凪も、末席に加わることを許された。
 議題は、龍馬の身の安全についてであった。
 「先生」岡本が言った。「せめて、住まいをお変えください。新選組にも、見廻組にも、先生の居所は、知られてしもうております」
 「案ずるな」龍馬は、あっけらかんと言った。「拙者は、誰の恨みも買うようなことは、しておらん」
 「先生」中岡が、声を強めた。「大政奉還は、幕府にとっても、佐幕派にとっても、倒幕派にとっても、それぞれの思惑を裏切る決着じゃ。恨みを買わぬはずが、なかろう」
 龍馬は、しばらく黙った。
 凪は、そこで、静かに口を開いた。
 「坂本様。一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
 龍馬が、凪を見た。
 「あなたが本当に望んでおられるのは、新しい国の仕組みを作ることですか。それとも――その仕組みが実際に動き出し、あなた自身がこの目で、その国の姿を見ることですか」
 龍馬は、しばらく答えなかった。
 「……両方じゃ」と彼はやがて言った。「じゃが、正直に言えば、拙者は、仕組みさえ動き出せば、自分がどうなろうと、あまり気にしておらんかった」
 「それは、なぜですか」
 龍馬は、窓の外を見た。
 「拙者は、この国のどこにも、深く根を張ったことがない男じゃ。土佐を脱藩した時から、拙者は、いつ死んでもおかしくない生き方を、選んできた。……それに、いつしか、慣れてしもうたのかもしれん」

七章 夜半の対話
 談議のあと、凪は龍馬に呼ばれ、二人だけで座敷に残った。
 「拙者は、迷うておる」と龍馬は言った。
 「何を、ですか」
 「中岡たちの言う通り、住まいを変えるべきかもしれん。じゃが、そうすれば、拙者を頼ってくる者たちが、拙者を見つけられなくなる。今は、一日でも早く、新政府の仕組みを固めねばならん時じゃ」
 「もし、今夜、住まいを変えなければ、どうなると思われますか」
 龍馬は、凪を見た。
 「そなた、何かを知っておるのか」
 凪は、深く息を吸った。
 「坂本様。史実――未来の記録では、あなたは、数日のうちに、この近江屋で、何者かに襲撃され、命を落とすことになっています。中岡様も、ともに」
 座敷の空気が、一瞬で凍りついた。
 龍馬はしばらく、自分の手のひらを見つめていた。やがて、長い沈黙を破り、低く、しかし地を這うような声で凪をまっすぐに見た。
 「……いつじゃ」
 「十一月十五日の夜、と伝えられています」
 龍馬は、そっと目を閉じた。
 「あと、四日か」
 「はい」
 龍馬は、深く息を吐いた。そして、驚くほど静かな声で言った。
 「拙者は、正直、驚いておらん。どこかで、覚悟しておったのやもしれん」
 「坂本様……」
 「そなたに問う」龍馬は、凪の目を射抜くように見つめた。「拙者が、ここで護衛を置き、住まいを変え、生き延びたとして――それは、卑怯であろうか。仕事を放り出して、我が身を守るだけの、臆病者のすることであろうか」

八章 問いへの答え
 凪は、これまで四度、投げかけてきた問いの重みを、今度は龍馬から向けられて感じた。
 「坂本様」と凪は静かに言った。「私は以前、土方歳三様にお会いしたとき、こう申し上げました。『あなたが誰かのために死ぬことは、あなたの本当の望みですか。それとも、あなた自身が、ただ一人の人間として、この先の時代を生きてみたいという気持ちは、本当にないのですか』と」
 「うむ」
 「坂本様。あなたが今、命を懸けているのは、新しい国の『仕組み』です。しかし、会社(カンパニー)を興すだけ興して、一度も航海に出ず、事業の行方を見ずに他人に譲り渡す商人がどこにいますか。あなたが作ろうとしているのは、日本という名の巨大な船です。その船長にはならずとも、初航海を見届け、嵐が来れば舵の取り方を教える――それこそが、創設者たるあなたの責任ではないですか」
 龍馬は、黙って聞いていた。
 「あなたが今、ここで命を落とせば、『船中八策』も、新政府の構想も、後を継ぐ者たちが、あなたの真意を推し量りながら、手探りで進めることになります。しかし、もしあなたが生き延びれば――あなた自身の言葉で、あなた自身の目で、その仕組みを育てていくことができます。それを見届けることこそが、あなたの本当の望みなのではないでしょうか」
 龍馬は、長い間、目を閉じていた。
 やがて、彼は目を開け、笑った。それは、いつもの屈託のない笑みだった。だが、その奥に、これまでとは違う、静かで確固たる決意が宿っていた。
 「そなたの言う通りかもしれんな。……よし」

九章 霜月十五日の夜
 龍馬は、その日のうちに近江屋の主人と相談し、二階座敷の警護を固めることにした。海援隊の若い隊士たちが交代で見張りに立ち、中岡もまた、陸援隊の者たちに周辺の警戒を命じた。
 そして、慶応三年十一月十五日の夜――。
 しんしんと冷え込む京の夜。一階から、鈍い衝撃音と、何かが激しく倒れる音が響いた。
 いつもの龍馬であれば、「ほたえな(騒ぐな)!」と階下を笑って叱り飛ばし、自ら居場所を教えていただところだった。しかし、その瞬間、龍馬の脳裏に凪の「十一月十五日の夜」という言葉が閃光のように走った。
 「中岡君、引き金を!」
 龍馬は叫びざま、枕元からスミス&ウェッソンの拳銃をひったくり、撃鉄を起こした。
 直後、激しく襖が引き絞られ、刺客の白刃が滑り込んでくる。
 「待たんかい! 話をつけようやないか!」
 龍馬の一喝とともに、火花を散らす銃声が座敷に轟いた。
 同時に、あらかじめ二階に配置されていた海援隊士たちが一斉に抜刀し、飛び出した。階下からも陸援隊の怒号が響き渡る。完全に警戒され、多勢の警護に阻まれた刺客たちは、想定外の反撃に動揺した。彼らは深追いを避け、闇の中へと引き上げていった。
 龍馬は、額に汗を浮かべながらも、無事だった。中岡もまた、刀の峰で防戦し、軽傷を負っただけで済んだ。歴史の歯車が、確かに音を立てて変わった瞬間だった。

エピローグ もう一つの明治
 数年後。
 横浜の港に、一人の男が立っていた。
 洋装に身を包み、少し白髪の交じった髪を、潮風になびかせている。かつての着流しの浪人の面影は薄れていたが、屈託のない笑顔だけは、変わっていなかった。
 男の名は、坂本龍馬。彼は、新政府の役職には、結局就かなかった。だが、貿易商社を興し、日本の近代化を、経済の側面から支え続けていた。
 時折、彼のもとを、かつての志士たちが訪れた。西郷隆盛、大久保利通、自由民権運動の旗手となった、生き延びた中岡慎太郎も。
 彼らは、新しい国の仕組みが、少しずつ、しかし確かに動き始めているのを、龍馬とともに見守っていた。
 パソコンの画面には、書き上げられた物語の、最後の一文が点滅していた。
『慶応三年十一月十五日、京の夜は、いつもより深く、静かだった。維新の仕組みを描いた男は、その夜、伝説となることを退け、己の手で紡いだ未来を、自らの目で見届けるために、静かに刀を納めたのである。』
 凪は静かにエンターキーを押し、原稿を保存すると、自室の窓辺に歩み寄った。
 西の空を見つめながら、彼は静かに呟いた。
 「あなたは、伝説になることを、選ばなかった。ただ、この国が育っていくのを、見届けることを選んだだけです」
 窓の外で、風が吹いた。潮の匂いが、微かにした。
 玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。

ー了ーー



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【作者注】
 本作は幕末の京都を題材としたフィクションです。坂本龍馬、中岡慎太郎、岡本健三郎などは実在の歴史人物ですが、物語の展開は著者の創作によるものです。実際の近江屋事件(慶応三年、一八六七年十一月十五日)では、坂本龍馬・中岡慎太郎は何者か(見廻組によるものとする説が有力)に襲撃され、龍馬はその場で、中岡も数日後に、命を落としたとされています。
 本作は、前五作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
 そして、玉響(たまゆら)は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。



泡沫転生記

〜土方歳三と刻をこえた男〜


まえがき
 由井正雪、明智光秀、真田信繁、石田三成――四度の邂逅を経て、榊原凪は一つのことを、確信するようになっていた。
 歴史の中で「美しい最期」として語り継がれる者ほど、その死の直前に、誰にも見せない迷いを抱えている。
 泡沫(うたかた)――歴史の濁流に消えゆく、命の儚いまたたき。
 その泡沫の導きは今度は、幕末の函館へ、彼を運ぼうとしていた。
 明治二年(一八六九年)五月。旧幕府軍、最後の砦。
 新選組副長にして、蝦夷共和国陸軍奉行並――土方歳三。「鬼の副長」と恐れられ、 shadow(影)のように生きて、そして後世、もっとも人気のある「敗者」として愛され続ける男の物語である。




プロローグ 春浅き来訪
 東京は、桜の盛りを過ぎ、葉桜の季節を迎えていた。
 榊原凪は、四十九歳になっていた。真田信繁との旅から、一年近くが経っている。
 あの朝、茶臼山の空の下で信繁が見せた笑み――死に場所ではなく、生かす場所を選んだ男の顔――を、凪は今も鮮明に覚えている。
 書き上げた小説『日本一の兵、もう一つの生涯』は、前二作を上回る反響を呼んだ。だが凪自身は、その評判よりも、自分の中に積み重なっていく何かの方が、気になっていた。
 自分は、なぜ何度も、あの泡沫の運命に選ばれるのか。
 その夜、凪は書斎で、資料を広げたまま、うたた寝をしていた。
 ふと、革と鉄の匂いがした。硝煙の匂いも、微かに混じっていた。
 目を開けると、部屋の隅に、男が立っていた。
 洋装の軍服に、ブーツ。腰には洋剣。だが、その佇まいには、どこか和装の頃の名残――すっと伸びた背筋、静かに据わった目――があった。年の頃は三十五、六。整った顔立ちだが、表情は硬く、まるで能面のように動かない。
 「夜分に相すまぬ」
 男は短く言った。声には、多摩の訛りが微かに残っていた。
 「あなたは……」
 「土方歳三」
 凪の呼吸が、止まった。
 新選組副長、土方歳三。近藤勇亡き後、旧幕府軍を率いて蝦夷地・箱館まで転戦し、明治二年五月、五稜郭の攻防戦の中で命を落とすとされる男。史実では、一本木関門への出撃中、銃弾を受けて落馬し、絶命したと伝えられている。
 「なぜ、ここに」
 「分からぬ」歳三は硬い声で答えた。「気づけば、この妙な部屋にいた。由井殿、明智殿、真田殿――そなたが会うてきた男たちの気配が、うっすらと分かる。奇妙なものだな」
 「……何をお求めですか」
 歳三は、初めて微かに笑った。それは苦笑に近かった。
 「今宵、拙者は、五稜郭で最後の軍議を終えたところじゃ。明日、拙者は馬に乗り、一本木の関門へ向かう。……そこで、拙者は死ぬことになっておるのだろう」
 凪は、答えられなかった。
 「そなたの目を見れば、分かる。図星のようだな」
 歳三は、静かに言った。
 「だが、拙者には、まだ定まらぬものがある。それを確かめに、参った」

一章 四度目のたゆたい
 その夜、凪は資料に埋もれながら、考え続けていた。
 正雪には、牢人を救うという大義があった。光秀には、生きるか汚名を負うかの選択があった。信繁には、己の武名か、誰かの命かという天秤があった。
 土方歳三の場合は、何が問われるべきなのか。
 史実において、歳三の死は、すでに一つの「型」として完成されている。旧幕府軍はすでに勝ち目を失い、榎本武揚は新政府軍との降伏交渉を模索していた。それでも歳三は、部下たちの前で気弱な姿を見せることを拒み、最後まで戦い抜く姿勢を崩さなかった。そして、一本木関門の先、弁天台場で孤立した新選組の戦友・島田魁たちを救うべく、単騎で駆けつけ、銃弾に斃れた。
 この死に様は、後世「最後まで武士であり続けた男」として、圧倒的な人気を獲得することになる。
 だが、と凪は思う。
 その死は、本当に歳三が望んだものだったのか。それとも――新選組という組織の「型」、鬼の副長という「役割(ロール)」を、最後まで演じ切ることを、自らに強いていただけなのか。
 凪は、暗い天井を見つめた。
 「行きます」
 呟くと同時に、部屋の空気が震え、桜の花の匂いが、硝煙と潮の匂いに変わった。
 泡沫。
 世界が、揺れた。

二章 五稜郭
 気づくと、凪は雪の残る荒れ地に立っていた。
 北国の、冷たく澄んだ空気。遠くに、星形の城郭――五稜郭が見えた。周囲には、旧幕府軍の兵たちが、疲れた顔で警備に当たっている。
 凪の身なりは、洋装の書生風に変わっていた。
 「もし」
 警護の兵に声をかけると、彼は怪訝な顔をした。
 「土方様に、お目通り願いたい」
 「お主、何者だ」
 「土方様のお指図で参った者です。到着を告げていただければ、分かるはずです」
 兵は訝しみながらも、奥へと走っていった。
 しばらくして、案内の者が戻ってきた。
 「榊原殿とお見受けする。ご案内いたす」
 凪は、五稜郭の中へと通された。

三章 歳三の執務室
 執務室は、和洋折衷の妙な部屋だった。畳の上に、洋式の机と椅子。壁には、地図と、一振りの刀が掛けられている。
 歳三は、机に向かっていたが、凪が入ると立ち上がった。
 「よう参った」
 「参りました」
 「座ってくれ」歳三は椅子を勧めた。「拙者は、この北の果てまで来て、ようやく椅子というものに慣れた」
 凪が座ると、歳三は自らも腰を下ろし、しばらく黙って窓の外を見ていた。
 「明日、拙者は一本木の関門を越え、弁天台場へ向かう」と歳三は口を開いた。「あそこには、島田魁をはじめ、京の頃から拙者に従うてきた新選組の生き残りが籠っておる。すでに敵に包囲され、孤立無援じゃ。拙者が出て、彼らを救い出さねばならぬ」
 「勝算は」
 「ない」歳三は、あっさりと答えた。「榎本殿は、すでに新政府軍と裏で接触しておる。もはや、この戦、負けは決まっておる。拙者が行かねば、島田たちはあそこで全滅する。ならば、拙者もろとも、華々しく散るまでよ」
 「では、ご自身が死ぬために行くのですか」
 歳三の目が、初めて凪を捉えた。
 「そなたに、正直に申そう。拙者は、近藤の分まで、生きねばならぬと思うてきた。近藤勇――拙者の盟友であり、義兄弟であり、新選組を共に興した男じゃ。奴は、板橋で斬首された。武士として、あまりに惨めな最期であった」
 「……」
 「拙者は、近藤の名誉を、取り戻したかった。新選組が、ただの人斬り集団ではなく、最後まで義を貫いた武士団であったと、後の世に示したかった。だが――」
 彼は、言葉を切った。
 「それは、拙者自身の望みなのか、それとも、死んだ近藤への義理立てに過ぎぬのか、拙者には、もはや分からぬ。島田たちを救いたいという思いの裏で、拙者は、自分の死に場所を躍起になって探しておるだけなのかもしれぬ」

四章 問いの重さ
 その夜、凪は五稜郭内の一室で、眠れぬまま過ごした。
 歳三の言葉が、頭から離れなかった。
 ――拙者自身の望みなのか、それとも、死んだ近藤への義理立てに過ぎぬのか。
 正雪の場合、彼の大義は牢人という「他者」のためのものだった。光秀の場合、迷いの果てに「生きる」という選択があった。信繁の場合、己の武名と、他者の命との天秤だった。
 歳三の場合は――死者への「義理」と、生者である自分自身の「生」、そして前線で孤立する戦友たちの命との天秤なのかもしれない。
 近藤勇の名誉のために死ぬことは、本当に近藤が望んだことなのか。それとも、歳三自身が、そう思い込んでいるだけなのか。そして、島田たちを救うために死地に飛び込むことは、本当に彼らを救うことになるのか。
 凪は、暗闇の中で、由井正雪、明智光秀、真田信繁――これまで出会ってきた男たちの顔を思い浮かべた。
 彼らは皆、最後には「生きる」ことを選んだ。あるいは、誰かを「生かす」ことを選んだ。
 歳三にも、同じ問いを向けるべきなのか。
 窓の外で、潮騒が響いていた。夜明けは、近かった。

五章 榎本武揚との対話
 翌朝、凪は思わぬ人物と対峙することになった。
 榎本武揚――蝦夷共和国総裁であり、旧幕府海軍の総帥。
 榎本は、凪の存在を知ると、五稜郭の一室に彼を招いた。
 「榊原殿と申されるか。土方君より聞いておる」
 「榎本様、お目にかかれて光栄です」
 「単刀直入に聞こう」榎本は言った。「そなたは、土方君に、何を吹き込んでおる」
 「吹き込んでなど、おりません。ただ、問いを立てているだけです」
 「問い、とは」
 「土方様が、本当に何を望んでおられるのか、です」
 榎本は、しばらく凪を見つめた。その目の奥には、深い疲弊と、隠しきれない自責の念があった。
 「正直に申そう」と彼は言った。「拙者は、これ以上の無駄死には避けたい。国際法に照らし、降伏の条件を詰める覚悟はできておる。だが、彼(土方)は頑として『弁天台場の島田たちを救いに出撃する』の一点張りでな。……彼は、私の諦めきれない『武士の意地』を、代わりに背負って死のうとしているように見えて、痛々しいのだ」
 「榎本様は、土方様に、生きてほしいとお思いですか」
 「無論じゃ」と榎本は即答した。「彼ほどの男を、こんな北の果てで、武士の意地などというもののために無駄死にさせてなるものか。だが――拙者が言えば言うほど、彼は『新選組の規律』を盾にして頑なになる。妙な男よ」
 凪は、頷いた。
 「なぜだと思われますか」
 榎本は、少し考えた。
 「彼にとって、『生き延びること』は、近藤君への、そして新選組という組織への裏切りそのものに思えるのかもしれぬな」
 「それは、真実、裏切りなのでしょうか」
 榎本は、凪を見た。
 「そなたが、彼に問うべきことじゃな。拙者ではなく」

六章 軍議
 その日の午後、五稜郭内で軍議が開かれた。
 土方歳三、榎本武揚、大鳥圭介、 shadow(影)のように控える幹部たち。凪は末席で、記録役として同席を許された。
 議題は、新政府軍の総攻撃に対する防衛、そして弁天台場の救出についてであった。
 「弁天台場は完全に包囲されている」と大鳥圭介が言った。「今から救援に向かうのは、自殺行為に等しい。土方君、気持ちは分かるが、そなたが出るというなら、拙者も同行しよう」
 「いや」歳三は首を振った。「大鳥殿、そなたはここに残れ。この城の守りは、そなたに任す」
 「土方君一人で、何ができる」
 「拙者一人で、十分じゃ。島田たちを見殺しにはできぬ」
 榎本が、口を挟んだ。
 「土方君。もう一度問う。私が正式に使者を立て、降伏交渉を行えば、弁天台場の将兵の命も救えるやもしれぬ。そなたが今、死地に出撃せずとも――」
 「榎本殿」歳三は、静かに、しかし強い口調で遮った。「それでは新選組の意地が立たぬ。降伏など、近藤が草葉の陰で泣くわ。拙者が出ることで、僅かでも時を稼ぎ、奴らの意地を通させてやる。それだけのことじゃ」
 凪は、そこで初めて、末席から口を開いた。
 「畏れながら、申し上げます」
 全員の視線が、凪に集まった。
 「土方様。もし、あなたが出撃して戦死されることが、新選組の意地を通すことではなく、むしろ弁天台場の島田様たちに『我々を救うために副長を死なせてしまった』という、一生の十字架を背負わせることになるとしたら――それでも、あなたは出撃されますか」
 歳三は、激しく凪を睨みつけた。
 「榊原、そなたに何が分かる」
 「分かります。島田様たちが本当に求めているのは、あなたと共に死ぬことでも、あなたの死と引き換えに生き延びることでもありません。指揮官であるあなた自身が、生きて進む姿のはずです」
 歳三は、しばらく答えなかった。その拳が、机の上で激しく震えていた。
 軍議は、結論を出せぬまま、いったん解散となった。

七章 届かぬ伝令、残された願い
 その夜、五稜郭に一人の負傷した兵が転がり込んできた。弁天台場の島田魁の元から、決死の覚悟で包囲網を潜り抜けてきた伝令であった。
 凪は、歳三と共にその兵の元へ駆けつけた。
 兵は息も絶え絶えに、一枚の書状を歳三に手渡した。そこには、島田魁の、力強い文字が残されていた。
 『土方さん。弁天台場はもはやこれまで。なれど、我らは一歩も引く気はなし。伏してお願い奉る。土方さん、どうか我らを救おうと、一本木の関門を越えて来んでくだされ。あなたが死ねば、新選組は本当に終わる。生きてくだされ。ただの、一人の男として、新しい時代を見てくだされ。それが、残された我らの最後の願いにございます』
 「島田……」
 歳三は書状を握りしめ、言葉を失った。
 凪は、その背中に静かに声をかけた。
 「島田様は、あなたの『鬼の副長』という役割ではなく、あなたという人間の『生』を願っています」

八章 夜半の対話
 深夜、凪は歳三に呼ばれ、二人だけで執務室に残った。
 「拙者は、激しく迷うておる」と歳三は言った。その声は、かつてないほどかすれていた。
 「何を、ですか」
 「島田たちの願いは分かった。だが、拙者が出撃を取りやめ、生き延びたとして――それは、これまで散っていった近藤や、多くの隊士たちに対する裏切り、卑怯にはならぬか」
 凪は、これまで三度、投げかけてきた問いの重みを、今度は自分自身に向けられて感じた。
 「土方様」と凪は静かに言った。「私は以前、真田信繁様にお会いしたとき、こう申し上げました。『あなたが討死したとしても武名は残る。しかし、あなたが誰かを生かすために戦い、その誰かが未来に命を繋いだとしたら、その方が遥かに大きな意味を持つのではないか』と」
 「うむ」
 「土方様の場合、生かすべき相手は、前線の兵たちであり、そして他ならぬ、あなた自身かもしれません。あなたがここで死ねば、新選組の本当の姿を、近藤様の真実の想いを、誰がのちの世に伝えるのですか」
 歳三の目が、微かに揺れた。
 「拙者が、伝える、と……」
 「近藤様のために死ぬことは、あなたの本当の望みですか。それとも、あなた自身が、ただ一人の人間として、この先の時代を生きてみたいという気持ちは、本当にないのですか」
 歳三は、長い間、黙っていた。
 「拙者は……」
 彼の声が、初めて震えた。
 「拙者は、時代に置いていかれるのが、恐ろしいのかもしれぬ。刀の時代は、終わる。拙者のような男は、もう、必要とされぬ時代が来る。ならばいっそ、刀とともに、この時代の最後の男として、散った方が――」
 「その方が、楽なのですか」
 歳三は、凪を見た。
 その目に、初めて、深い疲労と、隠しきれない迷いが浮かんでいた。

九章 夜明けの采配
 翌朝、明治二年五月十一日。
 凪は、執務室を出た歳三の姿を見た。
 洋装に身を包み、腰に洋剣を佩いたその姿は、昨夜の迷いを感じさせなかった。だが、目には、これまでとは違う、静かな光が宿っていた。
 「榊原」と歳三は言った。
 「はい」
 「拙者は、一本木の関門へは、出ぬ」
 凪は、小さく息を呑んだ。
 歳三はそのまま榎本武揚の元へ歩み寄り、毅然と言い放った。
 「榎本殿。弁天台場の島田たち、そして関門の兵たちに、新政府軍への降伏の使者を、今日中に出していただきたい。拙者が出撃を辞める代わりに、一つだけ、条件がある」
 榎本が、驚きと安堵の混ざった顔で頷いた。
 「何なりと言ってくれ、土方君」
 「拙者の名で、兵たちの助命を、新政府軍に嘆願していただきたい。彼らは、拙者に従うてきただけの者たちじゃ。責任はすべて、この陸軍奉行並である拙者が背負う」
 「無論じゃ。必ずや、全員の命を救う交渉をしてみせる」
 歳三は、凪を見た。
 「そなたの問いが、拙者に、死に場所ではなく――生き延びて、この先の時代を、この目で見るという道を、選ばせた」
 「土方様……」
 「近藤の名誉は、拙者が死ぬことでは、取り戻せぬ。むしろ、拙者が生き延び、あの男が何のために戦ったのかを、語り継ぐことでこそ、取り戻せるのかもしれぬな」

十章 一本木の空
 その日、土方歳三が出撃を取りやめ、榎本武揚による迅速な降伏交渉が始まったことで、一本木関門および弁天台場での激しい戦闘は最少限に抑えられた。
 島田魁をはじめとする新選組の生き残りたちは、副長の生存と「生きろ」という命令を知り、涙を流しながら武器を収めた。
 交渉は数日を要したが、最終的に、旧幕府軍の将兵の多くは、死罪を免れることとなった。
 土方歳三もまた、榎本、大鳥らとともに投獄されたが、数年後に赦免され、明治の世を生きることを許された。
 史実の歳三は、この五月十一日、一本木関門への出撃中に銃弾を受け、落馬して戦死したとされる。享年三十五。
 だが、もう一つの結末では――歳三は、その日、馬に乗らなかった。

エピローグ もう一つの時代
 数年後。
 北海道のある牧場で、一人の男が、馬の世話をしていた。
 かつて「鬼の副長」と恐れられた面影は、すっかり和らいでいた。頬には白いものが混じり、目元には、深い皺が刻まれている。だが、その背筋は、今も変わらず、まっすぐだった。
 男の名は、もはや土方歳三ではなかった。彼は、実際の生存説に語られる「稗田(ひえだ)」という新しい姓を名乗り、静かに、牧場を営んでいた。
 時折、彼のもとを訪ねる者があった。島田魁をはじめとした、かつての新選組隊士たち、あるいは、彼らの子や孫たち。彼らは、口を揃えて言った。
 「あなたのおかげで、私たちは生きています。そして、近藤先生の物語を、次の世代へ繋ぐことができます」
 男は、そのたびに、何も言わず、ただ静かに頷いた。
 東京では、榊原凪が、自室の窓辺に立っていた。
 北の空を見つめながら、彼は静かに呟いた。
 「あなたは、時代に置いていかれたのではありません。ただ、時代とともに、生き延びただけです」
 パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『明治二年五月十一日、函館の空は、抜けるように青かった。鬼と呼ばれた男は、その日、刀を鞘に納め、剣ではなく、己の足で、新しい時代へと歩み出したのである。』
 窓の外で、風が吹いた。潮の匂いに、微かに、硝煙ではなく、青々とした草の匂いが混じっていた。
 泡沫(うたかた)のまたたきは、今日もまた、静かに続いている。

――了――


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【作者注】
 本作は箱館戦争を題材としたフィクションです。土方歳三、榎本武揚、大鳥圭介、島田魁などは実在の歴史人物ですが、物語の展開は著者の創作によるものです。実際の箱館戦争(明治二年、一八六九年)では、土方歳三は五月十一日、一本木関門への出撃中に銃弾を受け、落馬して戦死したとされています。
 本作は、土方歳三が生き延びたとする一部の民間伝承・都市伝説(土方生存説・稗田姓の伝承)を下敷きに、前四作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
 そして、泡沫(うたかた)のまたたきは、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。


刻渡転生記
〜真田信繁と時をこえた男〜

まえがき
 『慶安転生記〜由井正雪と時をこえた男〜』で由井正雪と、『玉響(たまゆら)転生記〜明智光秀と時をこえた男〜』で明智光秀と、『残心転生記 〜石田三成と刻をこえた男〜』で石田三成と時を越えて向き合ってきた榊原凪。
 三度の邂逅を経て、彼の中で一つの確信が育っていた。
 歴史を変えることなど、自分にはできない。ただ、決断の淵に立つ男の隣に座り、彼が己自身に問えないことを、代わりに問うことができるだけだ。
 玉響――魂の微かな揺らぎ。
 その揺らぎは、今度は大坂へ、彼を運ぼうとしていた。
 慶長二十年(一六一五年)五月。豊臣家、最後の戦。
 そして、日本史上もっとも美しく、もっとも悲しい敗者として語り継がれる男――真田信繁、後の世に幸村と呼ばれる武将の物語である。




プロローグ 雨夜の来訪
 東京は、梅雨の只中にあった。
 榊原凪は、四十八歳になっていた。
三成との旅から一年余りが過ぎていた。しかし凪の脳裏には、さらにその前、丹波亀山で見た明智光秀の顔――地獄を飲み込んだような澄んだ目――が、今も時折よみがえっていた。あの後に書き上げた小説『三日天下を生きた男』は、静かな評判を呼んだ。歴史の「if」を扱った作品として、思いのほか多くの読者に届いた。凪自身も驚くほどに。
 だが凪は知っていた。この評判は、始まりに過ぎないということを。
 その夜、窓を叩く雨の音に混じって、凪はふと、別の音を聞いた。
 馬のいななき。具足が擦れる、硬く乾いた音。そして、微かな血と土のにおい。
 振り返ると、部屋の隅に、男が立っていた。
 朱色の具足。烏帽子形の兜は、脇に抱えられている。年の頃は四十九、五十ほどか。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、体つきは戦場を生きてきた者特有の、無駄のない引き締まりがあった。だが、その目は――信じがたいほど穏やかだった。まるで、すでに死を通り過ぎてきた者の目のように。
 「夜分に、押し入るご無礼をお許しあれ」
 男は静かに一礼した。
 「……あなたは」
 凪の声は、掠れていた。すでに三度目である。しかし、慣れることなどなかった。
 「真田左衛門佐信繁と申す」
 その名を聞いた瞬間、凪の背筋を、冷たいものが走った。
 真田信繁。後世、真田幸村の名で語られる男。大坂の陣において「日本一の兵(つわもの)」と、敵将・徳川家康方の記録にすら称えられた武将。そして――もうすぐ、安居神社の境内で、その生涯を終えることになっている男。
 「なぜ、ここに……」
 「分からぬ」と信繁は答えた。「気づけば、この見慣れぬ部屋に立っておった。由井殿を、そして明智日向守殿を助けたという男は、そなたか」
 凪は、答える代わりに、深く息を吐いた。
 「時が、近いのですか」
 信繁は、小さく頷いた。
 「慶長二十年、五月七日。明日、拙者は最後の戦に出る。……いや、すでに拙者の中では、出陣は決まっておる。ただ――」
 彼は言葉を切り、凪をまっすぐに見た。
 「己の中に、まだ定まらぬものがある。それを確かめに、参った」

一章 三度目のたゆたい
 その夜、凪は一睡もできなかった。
 由井正雪のときは、牢人という「救うべき者」がいた。明智光秀のときは、本能寺という巨大な分岐点があった。
 だが、真田信繁の場合は、何が問われるべきなのか。
 史実において、信繁の最期はすでに「美しい」ものとして完成している。徳川方十五万に対し、豊臣方はわずか五万。勝算などない戦であることを、信繁自身が誰よりも理解していた。それでも彼は、家康の本陣に猛烈な突撃を敢行し、あと一歩のところまで追い詰めながら、力尽きて散った。
 その死に様は、後世「日本一の兵」という最大級の賛辞を、敵からさえ引き出した。
 ――ならば、自分は何を問えばよいのか。美しく死ぬと分かっている男に、これ以上何を望めばいいというのか。
 凪は、パソコンの前に座ったまま、朝を迎えた。
 窓の外で、雨が上がっていた。
 彼は、正雪と光秀に投げかけてきた、あの問いを思い出していた。
 「あなたが本当に望んでいるのは、何ですか」
 答えは、行ってみなければ分からない。
 凪は、静かに目を閉じた。
 「行きます」
 部屋の空気が震え、雨上がりの土の匂いが、濃い松の香りに変わった。
 玉響。
 世界が、激しく揺れた。

二章 茶臼山の陣
 気づくと、凪は野営地の外れに立っていた。
 空気は、初夏のものだった。乾いた土埃と、鎧が擦れる音、そして遠くから地鳴りのように響く陣太鼓。
 目の前には、赤備えの旗指物を背負った兵たちが、粛々と隊列を組んでいる。茶臼山――大坂城の南、天王寺口に近い高台。史実に照らせば、ここは翌朝、真田隊が最後の陣を敷く場所だった。
 凪の身なりは、旅の商人風の羽織袴に変わっていた。腰には、護身用の脇差が一本。
 「もし」
 声をかけると、陣を警護していた若い足軽が振り返った。
 「左衛門佐様に、お目通り願いたく参った」
 「お主、何者か」
 「殿のお指図で参った者にございます。到着を告げていただければ、通じるはずです」
 足軽は訝しげな顔をしたが、凪のただならぬ佇まいに圧されたか、やがて陣の奥へと駆けていった。
 凪は、しばし陣の様子を眺めた。
 兵たちの顔には、疲労と緊張、そして――奇妙な静けさがあった。負け戦を悟った者たちの顔だ、と凪は思った。それでも彼らは、逃げようとはしていなかった。そこにあるのは、諦念ではなく、盲信でもない、ただひたすらに張り詰めた武士の意地だった。
 「榊原殿でござるな」
 案内の武士が戻ってきた。
 「殿がお待ちです」

三章 信繁の陣幕
 陣幕の中は、驚くほど質素だった。
 具足櫃、地図を広げた文机、そして小さな酒器がひとつ。
 信繁は、地図に向かっていたが、凪が入ると顔を上げた。
 「よう参った」
 「参りました」
 凪は正座し、頭を下げた。
 「明日の采配について、思案しておった」信繁は地図の一点を指した。「家康の本陣は、思いのほか手薄と見た。ここを衝く」
 「勝算は、あるのですか」
 信繁は、微かに唇を歪めて笑った。
 「勝算、か。……正直に申せば、ない。数の差は如何ともしがたい」
 「ないのに、なぜ突っ込むのですか」
 「一つの賭けじゃ。家康の本陣さえ崩せれば、敵軍は浮き足立つ。その隙に秀頼様を……いや、徳川の肝を冷やしてやれば、戦の流れが変わるやもしれぬ。……だがな、榊原よ」
 信繁は、酒器を手に取り、一口含んだ。
 「正直に申そう。拙者は、ただ死に場所を求めておるだけかもしれぬ」
 凪は、息を呑んだ。
 「なぜ、そのように……」
 「この戦、すでに城の堀は埋め立てられ、勝ち目はない。城内では、和睦を望む声と、徹底抗戦を叫ぶ声が入り乱れておる。誰も、この先の絵図を描けておらぬ。拙者の父、真田安房守昌幸は、徳川を二度まで退けた知将じゃ。だが父は九度山で無念のまま世を去り、拙者は十年余り、飼い殺しにされた。この大坂での戦は、拙者にとって――最後に、真田の武士として、名を残す唯一の機会でもあるのだ」
 真田の誇り、そして父への思慕。それが信繁を死へと駆り立てている。凪はその背負うものの重さに圧倒されていた。

四章 問いの重さ
 その夜、凪は与えられた陣幕の隅で、眠れぬまま夜を過ごした。
 信繁の言葉が、頭から離れなかった。
 ――拙者は、ただ死に場所を求めておるだけかもしれぬ。
 史実の信繁は、この戦いで散ることで「日本一の兵」と呼ばれた。その死は、後世、限りなく美しいものとして語り継がれる。
 だが、と凪は思った。
 美しい死は、本当に、信繁という一人の人間が心から望んだものだったのか。それとも――家臣たちへの、あるいは豊臣家への、あるいは亡き父への「責任」が、彼を死の美学へと押し出しているだけではないのか。
 正雪には、牢人を救うという大義があった。
 光秀には、迷いの果てに「生きる」という選択肢があった。
 信繁には、何があるのか。
 凪は、光秀が最後に選んだ言葉を思い出していた。
 「生きるぞ、榊原。死ぬまで、生きる」
 あの言葉を、信繁にも向けるべきなのか。それとも、信繁の場合、死してなお語り継がれることこそが、彼の望む「生き方」なのか。
 凪には、まだ分からなかった。
 陣幕の外で、梟が鳴いた。夜明けは、近かった。

五章 豊臣秀頼への使者
 翌朝、凪は思わぬ形で、もう一人の当事者と対峙することになった。
 大野治長――豊臣秀頼の側近であり、城内の政務を一身に背負う人物である。
 治長は、信繁の陣を訪れ、凪の存在を知ると、鋭い目を向けた。
 「榊原殿と申されるか。左衛門佐殿より聞き及んでおる。殿がそなたを呼びたいと仰せだ」
 凪は驚いたが、拒む理由はなかった。信繁の目配せを受け、彼は大坂城の本丸へと案内された。
 本丸御殿の一室で、凪は豊臣秀頼と対面した。齢二十二の若き主君は、巷間噂されるような愚鈍な人物では決してなく、聡明な目をしていた。しかし、その表情には、拭いきれぬ孤高の不安が浮かんでいた。
 「そなたが、左衛門佐の申す、未来の記憶を持つという者か」
 「はい」
 秀頼は、しばらく凪をじっと見つめた。
 「教えてくれ。未来の史書は、拙者を、豊臣を、どう記しておる」
 凪は、答えに詰まった。史実を語れば、秀頼は数日後、大坂城の炎の中で自害することになっている。だが、ここで確定した未来を予言のように突きつけることが、凪の役割ではない。
 凪は静かに、しかし真っ直ぐに秀頼を見返した。
 「未来の史書には……秀頼様はお母上とともに、大坂城と運命を共にされた、と記されています。豊臣の栄華の幕引きを、見事に演じきられた、と」
 「演じきった、か……」
 秀頼は自嘲気味に、小さく笑った。
 「拙者は、幼き頃よりこの城の中で育った。父・秀吉が築いた栄華という名の檻の中でな。拙者自身の手で、何かを成したことは、一度もない。……もし、生き延びる道があるとするならば、それは拙者にとって、名誉なことだろうか。それとも、ただの恥だろうか」
 凪は、その問いの切実さに胸を突かれながらも、一年前の記憶を呼び覚ました。
 「秀頼様。私は一年前、明智光秀という武将に会いました。彼は、家臣たちの命のために『三日天下の謀反人』という汚名を選ぶか、それとも自らの心に従って生きるか、その狭間で苦しみました。彼は最後に、汚名を恐れず、生きることを選びました」
 「汚名を恐れず、生きた……」
 「はい。そして彼は言いました。『拙者は、いずれ殺されるかもしれぬ。だが、己の心を裏切ることだけは、選ばぬ』と。見事な死を演じることだけが、武士の誉れではないはずです」
 秀頼は、長い間、目を閉じて沈黙していた。やがて目を開けたとき、その瞳には、これまでになかった微かな光が宿っていた。
 「その言葉、しかと心に留め置こう」

六章 軍議
 その日の夕刻、大坂城内で最後の軍議が開かれた。
 真田信繁、大野治房、明石全登、毛利勝永、そして大野治長。凪は末席で、記録役のように同席を許された。
 議題は、翌朝の戦の采配についてであった。
 「もはや、城を枕に討死する他あるまい」と大野治房が息巻いた。「和議はすでに破れておる。徳川方はこちらの言い分など聞く耳を持たぬ」
 「治房殿」
 それまで黙っていた信繁が、静かに口を開いた。その声には、不思議な重みがあった。
 「討死するにしても、無為に死ぬのと、意味を持って死ぬのとでは、違いがあろう。我らが望むのは、ただの華々しい自滅か、それとも豊臣の血を、未来へ繋ぐことか」
 大野治長が顔を上げた。「左衛門佐殿、それはどういう意味だ」
 信繁は末席の凪を一度だけ見つめ、それから地図を強く叩いた。
 「明日の突撃、拙者は家康の首を狙う。だが、それは真田の武名を挙げるための死に花ではない。家康の本陣を叩き、徳川全軍を恐怖でマヒさせる。敵が混乱し、こちらの動きを追えなくなる『一刻』を作り出す。その一刻こそが、我らの勝機だ」
 「勝機とは……」
 「その隙に、秀頼様と若君を城外へお逃がしする。これ以外に、豊臣が生き延びる道はない」
 緊迫した沈黙が落ちた。これまで「死に場所」を探していたはずの信繁が、明確に「誰かを生かすため」の戦略を提示したのだ。
 明石全登が、深く頷いた。「……左衛門佐殿がその一刻を作ってくださるなら、私に策がございます」

七章 夜半の対話
 軍議のあと、凪は信繁に呼ばれ、二人だけで陣幕に残った。
 「榊原よ。そなたに問う」信繁は酒器を傾けた。「もし拙者が、家康の首を獲ることを諦め、その代わりに秀頼様と若君を落ち延びさせる時間稼ぎに徹したとしたら――それは、武士として卑怯であろうか」
 凪は、その問いの重さを、全身で受け止めた。これは、正雪や光秀に投げてきた問いの、鏡像だった。今、信繁は自らその問いを立て、凪に投げ返している。
 「左衛門佐様」と凪は静かに言った。「私は、以前、明智光秀様にこう申し上げました。『生きて訴え続けることが、最大の武士道だ』と。あなたが誰かを生かすために戦い、その誰かが未来に命を繋いだとしたら――それこそが、後世に『日本一の兵』と呼ばれるに足る、真の武士道ではないでしょうか」
 信繁は、目を閉じた。「日本一の兵、か。皮肉なものよな」
 「未来の人間は、皆、『生きよ』と説くのですか」
 「はい」と凪は答えた。「私たちは、死者からではなく、生き延びた者の言葉から、多くを学ぶからです」
 信繁は、長い沈黙のあと、小さく笑った。その顔から、すべての迷いが消えていた。

八章 明石全登の決意
 その夜更け、凪の元を明石全登が訪れた。
 「榊原殿」とキリシタン武将は囁いた。「左衛門佐様のご決断、見事なもの。実を申せば、拙者はかねてより、密かに手筈を整えておった」
 「手筈、とは」
 「万一の場合、秀頼様と若君を、船にて西国へお逃しする策じゃ。薩摩の島津家は義理堅い。あそこなら徳川の手も容易には届かぬ。だが、これまでは秀頼様も城内も『美しく散る』ことばかりに囚われ、この策を切り出す隙がなかった」
 全登は、凪をじっと見た。
 「そなたの言葉が、左衛門佐殿を動かし、殿の心を動かした。明日、拙者の策は、ただの絵空事ではなくなる。命を繋ぐための戦が、始まるのだ」

九章 夜明けの采配
 翌朝、慶長二十年五月七日。
 凪は、陣幕を出た信繁の姿を見た。
 朱色の具足に身を包み、兜を小脇に抱えたその姿には、凄まじい覇気が満ちていた。
 「皆の者」
 信繁は、集まった赤備えの将兵に向かって、地を傷つけるような声で告げた。
 「これより、家康の本陣に突撃する。だが、これは討死のための戦にあらず。家康の本陣を叩き、敵の目をすべて我らに引きつける。その隙に秀頼様を城外へお逃がしする。――者ども、深追いは無用! 敵陣を突き崩したのち、速やかに退くぞ。一人でも多く、生きてここを脱せよ!」
 兵たちの間に、大きな衝撃が走った。討死を覚悟し、悲壮感に満ちていた男たちの目に、にわかに「生への執念」というギラついた光が宿る。
 信繁は、馬に跨がった。そして、凪を見た。
 「榊原よ。そなたの問いが、拙者に、死に場所ではなく、生かす場所を選ばせた。真田の戦、とくと見よ」
 「左衛門佐様……ご武運を」
 馬蹄の音が、朝靄の中に激しく響き渡った。

十章 本陣崩し
 真田隊三千五百の赤備えが、怒涛の勢いで徳川の泥海へと突き進む。
 地を震わせる咆哮、肉を裂き骨を砕く音。凄まじい乱戦の中、信繁の赤備えは、史実通り家康の本陣へと三度に渡り突撃を敢行した。
 「真田、恐るるに足らず! 押し包め!」と叫ぶ徳川の宿老たちを、信繁の槍が次々と叩き伏せる。ついに真田の刃が家康の至近に迫ったとき、家康は恐怖のあまり「もはやこれまで」と切腹を覚悟したという――そこまでは、史実の記録通りだった。
 だが、ここから歴史が激しく分岐する。
 家康の旗本たちが総崩れとなり、本陣が完全にパニックに陥ったその刹那、信繁は家康の首にトドメを刺しにいくのを、あえて止めた。
 「ここまでだ! 全軍、退けい! 引けい!」
 信繁の雷鳴のような大音声が響く。城の方角を見れば、明石全登の合図である煙が上がっていた。秀頼たちの脱出が成功した証拠だった。
 勝ちに乗り、討死を覚悟して突き進もうとする兵たちを、信繁は自ら馬を駆って引き留めた。「目的は達した! 無駄に死ぬな! 生きて真田の誇りを繋げ!」
 混乱の極みにあった徳川軍は、突如として統制を保ったまま鮮やかに撤退を始めた真田隊を、追撃することすらできなかった。
 史実の信繁は、この戦いの直後、安居神社の境内で力尽き、その首を差し出したことになっている。しかし、この世界線において、安居神社に残されたのは、信繁が脱ぎ捨てた、血に染まった主将の具足だけだった。
 大坂城は炎上した。しかしその裏で、秀頼と若君、そして真田信繁は、明石全登の手筈通り、密かに用意された船で西へと落ち延びていったのである。

終章 薩摩の空
 数ヶ月後。
 一艘の船が、瀬戸内を西へ向かっていた。
 甲板に立つ男は、もはや赤備えの鎧を纏ってはいない。粗末な旅装に身を包み、その顔には、戦場の緊張の代わりに、どこか穏やかな諦観と、未来を見据える静かな光が浮かんでいた。
 「殿、まことに薩摩でよろしいのですか」
 供の者が尋ねると、信繁は遠い水平線を見つめながら、静かに笑った。
 「島津殿は義理堅い。……それに、もう十分に戦った。これからは、違う生き方を探す番じゃ。真田の名を捨てても、生きておれば、また語れることもある」
 秀頼もまた、名を変え、ごく少数の近臣とともに薩摩の地で新しい土を踏んだという。豊臣家は名目上滅亡したが、その血脈と、彼らの「生」の意志は、歴史の闇に深く、確かに息づいていた。
エピローグ もう一つの歴史
 気がつくと、凪は自分のマンションの床に座り込んでいた。
 東京の梅雨は、まだ明けていなかった。窓の外で、雨が静かに降っている。
 凪は、しばらく動けなかった。全身に残る土埃と、松の香りが、あの戦場が幻ではなかったことを告げていた。
 やがて、彼はパソコンの前に座り、新しいファイルを開いた。
 数ヶ月後、凪の机の上には、刷り上がったばかりの一冊の本が置かれていた。
 表紙には『日本一の兵の明日(あす)』という題字が躍っている。
 歴史との整合性も、世間の評価も、今の彼にはどうでもよかった。ただ、あの朝、確かに一人の武将が「死に場所」ではなく「生かす場所」を選んだという事実を、言葉として残したかった。それだけだった。
 窓の外、雲の切れ間から、微かな夏の光が差し込んでいた。
 彼はパソコンの画面を見つめた。そこには、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『慶長二十年五月七日、天王寺口の空はどこまでも高かった。日本一の兵と呼ばれた男は、己の武名ではなく、誰かの明日のために槍を振るい、そして静かに、歴史の表舞台から姿を消したのである。』
 風が吹いた。松の匂いが、微かにした。
刻は人から人へ渡る。
その渡りは、今日もまた誰かの決断の傍らで静かに続いている。

――了――



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【作者注】
 本作は大坂の陣を題材としたフィクションです。真田信繁、豊臣秀頼、大野治長・治房、明石全登などは実在の歴史人物ですが、物語の展開は著者の創作によるものです。実際の大坂夏の陣(慶長二十年、一六一五年)では、信繁は家康本陣に迫る果敢な突撃の末、安居神社付近で討死し、豊臣秀頼は淀殿とともに大坂城内で自害したとされています。
 本作は、真田信繁が薩摩へ落ち延びたとする民間伝承(真田生存説)を下敷きに、前三作『慶安転生記』『玉響転生記』『残心転生記』と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして刻渡とは、時を越えて受け渡される「決断」のことなのかもしれません。


残心転生記
〜石田三成と刻をこえた男〜

まえがき
『玉響転生記』を書き終えたあと、私は榊原凪という男を、もう一度呼び戻したいと思うようになった。
由井正雪。明智光秀。二人の男に共通していたのは、「歴史の敗者」でありながら、その内側に、単純な悪や単純な野望では割り切れない何かを抱えていたことです。
そして、もう一人。
日本史上、もっとも「嫌われた」男がいます。豊臣家への忠義ゆえに、多くの武将から疎まれ、戦下手と嘲られ、そして敗れた男。
石田三成。
彼もまた、玉響に呼ばれたのかもしれません。
これは、丹波の一夜から、さらに数年後の物語です。




プロローグ 関ヶ原前夜
東京の秋は、静かに深まっていた。
榊原凪は、五十二歳になっていた。
丹波の夜から、七年が経っていた。彼の書いた小説——明智光秀を描いたあの一冊——は、静かなロングセラーとなっていた。歴史の見方を変えた本だ、と評する者もいた。
凪自身は、その評価に戸惑いながらも、次の題材を探すことなく、穏やかに日々を過ごしていた。
もう、玉響は訪れないのだろう、と思っていた。
その夜、彼は書斎で古い甲冑の写真集を手に取っていた。理由はない。ただ、何かに呼ばれるように。
窓の外で、遠くの音が聞こえた。
馬のいななき。陣太鼓。夥しい数の人の気配。
凪は顔を上げた。
部屋の隅に、男が立っていた。
地味な具足に身を包み、面長で、神経質そうな、しかし鋭い目をした男だった。歳の頃は四十前後。疲労と、それを上回る強い意志が、その顔に同居していた。
「夜分に、御免」
声は、硬質で、几帳面な響きを持っていた。
「あなたは……」
「治部少輔、石田三成」
凪の記憶が、瞬時に巡った。
石田三成。豊臣秀吉の忠実な奉行として辣腕を振るい、秀吉の死後、徳川家康に対抗して西軍を組織し、そして慶長5年9月15日、関ヶ原にて敗れた男。戦下手、傲慢、人望なし——後世、そう酷評され続けてきた人物。しかし近年では、豊臣家への忠義に篤い、生真面目な文治派官僚として、再評価も進んでいた。
「なぜ、ここに」
「分からぬ」と三成は答えた。「気づけば、この部屋におった。そなたの書いた明智殿の物語、拙者も——いや、これは妙な言い方じゃな。まだ拙者は、それを読んではおらぬ」
三成は、静かに部屋を見渡した。動じない目だった。むしろ、観察し、分析している目だった。
「そなたが、光秀殿や由井殿を助けた者か」
「……はい」
「ならば、頼みがある」
三成は、一歩前に出た。
「拙者は今、大垣におる。明日、あるいは明後日、関ヶ原にて、家康と雌雄を決する。時が、乱れておる」
「関ヶ原……」
「そなたに、来てほしい。拙者の陣に」
「私に、何ができるのですか」
三成は、少し間を置いた。
「分からぬ。ただ、拙者には今、誰かに問うてほしいことがある。それが何か、拙者自身にも、まだ分からぬのだ」
彼は静かに頭を下げた。
「一夜、考えてくれ」
そして、彼の姿は闇に溶けた。部屋には、硝煙と、馬の汗のにおいだけが、微かに残っていた。

一章 三度目の揺らぎ
凪は、その夜も眠れなかった。
由井正雪、明智光秀、そして今度は石田三成。
三人には、共通点がある。誰もが「歴史の敗者」であり、その敗北の理由を、後世の人間が単純化して語ってきた。正雪は「愚かな反乱者」、光秀は「恩知らずの謀反人」、そして三成は「戦下手で人望のない官僚」。
しかし凪は、既に知っていた。単純な物語の裏には、必ず複雑な人間がいる。
三成の場合、彼が呼んだ理由は、何だろうか。
光秀とは違う。三成には、迷いがないように見えた。忠義という、揺るぎない軸があるように見えた。
では、彼は何を問われたいのか。
凪は、朝までかけて考えた。そして、ひとつの仮説に辿り着いた。
三成が恐れているのは、おそらく「決断」そのものではない。
彼が恐れているのは、負けたあとに何が残るか、ということではないか。
朝が来た。
凪は、窓を開けた。秋の冷たい風が入ってきた。
「行きます」
その言葉とともに、世界が震えた。玉響。三度目の揺らぎだった。

二章 大垣の陣
気づくと、凪は陣中にいた。
夜だった。無数の篝火が、暗闇の中で揺れていた。具足を着けた兵たちが、慌ただしく行き交っていた。緊張が、空気そのものを重くしていた。
凪は、自分の服装を確認した。今回も、最初から具足姿だった。
一人の武将が、彼に気づいて近づいてきた。鋭い眼光を持つ、屈強な男だった。
「そなたが、榊原殿か」島左近と名乗ったその男は、値踏みするように凪を見た。「殿がお呼びじゃ。妙な男を連れてくるとは思わなんだが……まあよい、参れ」
左近に案内され、凪は本陣の天幕に入った。
三成は、地図を前に、じっと座っていた。傍らには、頭巾で顔を覆った、痩せた武将がいた。目の周りに、包帯のようなものが巻かれている。
「大谷刑部殿だ」と三成が紹介した。「拙者の、数少ない真の友じゃ」
大谷吉継——業病を患いながらも、三成の盟友として西軍に加わった武将。凪は、その名を知っていた。
「榊原殿と申されるか」吉継の声は、穏やかだった。「治部殿から聞いておる。未来より来た者、と」
「はい」
「面白い世になったものよ」吉継は、微かに笑ったようだった。「して、榊原殿。未来の史書は、この戦をどう記しておるのか」
凪は、答えに詰まった。
三成が、静かに言った。
「良い。正直に申せ」
凪は、深呼吸をした。
「明日——いえ、もう今日かもしれません。関ヶ原にて、東西の軍が激突します。西軍は数において優っています。しかし……」
「しかし?」
「小早川秀秋様の裏切りにより、西軍は総崩れとなります。あなたは敗走し、後日、捕らえられて処刑されます」
天幕の中に、沈黙が落ちた。
三成は、表情を変えなかった。ただ、目を閉じた。
吉継が、静かに言った。
「秀秋、か。やはりのう」
「ご存じだったのですか」と凪は聞いた。
「疑うておった」吉継は答えた。「あの若造の目は、定まっておらぬ。松尾山に布陣させたこと自体、拙者は危ういと申し上げた」
三成が、目を開けた。
「分かっていて、なぜ止めなかったのですか」と凪は問うた。
「止められなんだからじゃ」三成の声は、静かだが、鋭かった。「西軍には、大将が必要だった。毛利輝元殿は動かず、他に担げる者がおらぬ。秀秋を疑うても、代わりがおらぬのだ」

三章 三成の本陣
夜が更けても、三成は眠らなかった。
凪は、彼と二人きりで、天幕の中に残った。
「榊原殿」と三成は言った。「そなたに問う。拙者は、なぜここにおると思う」
「豊臣家への、忠義のためではないのですか」
「うむ、それはある」三成は頷いた。「太閤殿下には、拙者は取り立てていただいた恩がある。近江の一介の小者から、奉行にまで引き上げていただいた」
「では——」
「だが、それだけではない」三成は、凪を見た。「拙者は、家康を憎んでおる。あの男が、太閤殿下の遺言を踏みにじり、天下を我が物にしようとしておることが、許せぬ」
「憎しみ、ですか」
「憎しみと、忠義と……」三成は言葉を探した。「——意地じゃ」
「意地?」
「拙者は、戦下手と言われておる。武功のない、ただの帳面付けじゃと。加藤清正、福島正則、そういった歴戦の将たちに、そう蔑まれてきた。ここで退けば、拙者はただの、口先だけの官僚として歴史に残る」
三成の目に、初めて、迷いのようなものが浮かんだ。
「拙者は、負けることが恐ろしいのではない」と彼は言った。「負けたあと、拙者の忠義そのものが、無意味だったと断じられることが、恐ろしいのだ」
凪は、その言葉を、静かに受け止めた。
「治部少輔様。もう一つ、伺ってもよろしいですか」
「申せ」
「もし、負けると分かっていたら——それでも、戦われますか」
三成は、長い間、答えなかった。
やがて、彼は言った。
「分からぬ。ただ、ここまで来て退くことは、拙者にはできぬ。多くの者が、拙者を信じてついてきておる。今さら、退けと言えるはずがない」
「では、問いは、戦うか退くかではないのかもしれません」
「なんじゃと」
「負けたあと、あなたがどう在るか、ということかもしれません」
三成は、凪の顔を見つめた。
外で、鶏が鳴いた。夜明けが、近づいていた。

四章 決戦
九月十五日、朝。
深い霧が、関ヶ原の盆地を覆っていた。
凪は、三成のすぐ後ろで、戦の推移を見守った。開戦は、思いのほか、西軍優勢に進んだ。島左近の奮戦、大谷隊の踏ん張り。霧が晴れる頃には、東軍の一部が押されているようにさえ見えた。
しかし、正午近く。
松尾山の方角から、銃声が轟いた。
小早川秀秋の軍が、動いた。
東軍にではない。西軍——大谷吉継の陣に向かって。
裏切りだった。
凪は、三成の顔を見た。三成は、動かなかった。まるで、初めからそれを知っていたかのように、静かにその光景を見つめていた。
「刑部殿……」三成の口から、小さく漏れた。
その声は、戦場の喧騒に掻き消された。だが凪には聞こえた。友を失う男の、最初で最後の慟哭だった。
大谷隊は、寡兵ながら、奮戦した。しかし、小早川の裏切りに呼応するように、脇坂安治、朽木元綱ら諸隊も次々と東軍に寝返った。西軍の一角が、瞬く間に崩壊していった。
「殿」島左近が、血に汚れた顔で天幕に駆け込んできた。「もはや、これまでにございます。お退きくだされ!」
三成は、動かなかった。
「左近、そなたは——」
「拙者はここで、殿の御退去の時を稼ぎまする!」左近は叫んだ。「行ってくだされ! 生きて、殿!」
三成の目に、初めて、激しい感情が浮かんだ。
「左近……」
「行けと申しておる!」
三成は、拳を握りしめた。そして、凪を見た。
「榊原、共に参れ」
二人は、乱戦の中を、駆け出した。

五章 伊吹山
三成は、伊吹山中へと逃れた。
数日間、山中をさまよった。従う者は、わずかだった。凪は、影のようにその傍らにあり続けた。
ある夜、洞窟のような岩陰で、三成はうずくまっていた。飢えと疲労で、その顔は土気色になっていた。
「榊原よ」と彼は、掠れた声で言った。「なぜ、拙者はまだ、生きておるのだろうな」
「治部少輔様」
「左近は死んだ。刑部殿も、自ら命を絶たれたと聞く。多くの者が、拙者のために死んだ。それなのに、拙者だけが、こうして山中を這い回っておる」
「生きることは、恥ではありません」
「恥だとも!」三成の声が、初めて荒れた。「武士として、潔く自害すべきであろう! このまま生き延びて、捕らえられ、市中を引き回され、晒し首にされる——それが、拙者にふさわしい末路か!」
凪は、彼の目を見た。
「治部少輔様。かつて、明智光秀という方に、私はこう申し上げました。『生きて訴え続けることこそ、最大の武士道だ』と」
「光秀殿に、そう申したのか」
「はい。そして光秀殿は、生きることを選ばれました」
三成は、しばらく黙っていた。
「拙者は、光秀殿とは違う」と彼はやがて言った。「拙者には、訴えるべきものが、はっきりとある」
「それは、何ですか」
「拙者の忠義は、決して私欲ではなかった、ということじゃ。戦下手だ、人望がないと嘲られようと、拙者は太閤殿下の御恩に報い、豊臣家のために戦った。それだけは、誰にも否定させぬ」
三成の目に、光が戻っていた。
「ならば」と凪は言った。「生きて、それを語ってください。死んでしまえば、あなたの言葉は、誰にも届きません」

六章 選択
三成は、その夜、長い沈黙のあと、口を開いた。
「榊原よ。拙者は、腹を切るまい」
「……はい」
「多くの者が、拙者を臆病者と呼ぶだろう。戦に負け、山中で捕らえられ、無様に生き延びようとした男、と」
「それでも、生きるのですね」
「うむ」三成は、静かに頷いた。「拙者が死ねば、拙者の忠義は、拙者と共に消える。だが、生きて捕らえられ、たとえ晒し首になろうとも、拙者の言葉が誰かの耳に届くなら——それは、無駄ではない」
彼は、凪をまっすぐに見た。
「榊原よ。もし拙者が捕らえられ、処刑の前に柿でも勧められたら、拙者は『体に障る』と断るつもりじゃ」
「……命を落とす間際に、ですか」
「周囲の者は嘲笑うだろう。『死ぬ者が今さら体を気にしてどうする』と」
三成は、微かに——本当に微かに——笑った。
「だが、大志を持つ者は、最後の一瞬まで己の命を大事にするものよ。最後まで生きる意志を捨てぬ。それが、拙者なりの、意地というものよ」
凪は、その言葉の意味を、深く理解した。
死を望まれてなお、最後の瞬間まで、生きることを選び続ける。それこそが、三成という男の、静かな抵抗だった。
夜明けが近づいていた。山の稜線が、白く浮かび上がり始めていた。
「治部少輔様」と凪は言った。「あなたの物語を、私は書き残します」
「戦下手の、負け犬の物語をか」
「忠義を貫いた男の物語です」
三成は、長い間、凪を見つめていた。
「良い」と彼は言った。「そなたに、任せよう」
そのとき、麓から、人の気配がした。追手だった。
三成は、静かに立ち上がった。逃げようとはしなかった。
「行け、榊原」と彼は言った。「そなたの時代へ」
世界が、大きく揺らいだ。

エピローグ 生きて候
気づくと、凪は自室の床に座り込んでいた。
窓の外は、まだ夜だった。
彼は、しばらく動けなかった。
やがて、パソコンの前に座り、新しいファイルを開いた。
数ヶ月後、凪は一冊の本を書き上げた。
史実では、石田三成はその後、伊吹山中で村人に捕らえられ、京へ送られた。市中を引き回され、六条河原にて斬首された。享年四十一歳。処刑に臨んでも、彼は取り乱すことなく、堂々とした態度を崩さなかったと伝えられている。
凪は、その史実を、一切変えなかった。
変えられるはずもない、と彼は思っていた。歴史の大きな流れは、たった一人の意思では、動かせない。
しかし、と彼は書いた。
三成が最期まで見せた、あの奇妙なまでの生への執着——処刑直前に勧められた柿を「体に毒だから」と拒んだという、あの有名な逸話——それは、命を惜しんだ臆病さの証などではない。最後の一瞬まで、自らの大志と信念を証明し続けようとした、一人の男の、静かな戦いだったのではないか。
凪は、原稿の最後に、こう記した。
『負けることは、恥ではない。負けたあとも、自らの言葉を手放さぬこと——それこそが、この男の、誰にも奪えなかった勝利であった』
風が吹いた。硝煙のにおいは、もうしなかった。
しかし凪の胸の奥には、三度目の玉響が、静かに、確かな熱を持って残り続けていた。

——了——


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【作者注】
本作は関ヶ原の戦いを題材としたフィクションです。石田三成、大谷吉継、島左近などは実在の歴史人物ですが、物語の展開は著者の創作によるものです。実際の関ヶ原の戦い(慶長5年9月15日、1600年)では、小早川秀秋らの寝返りにより西軍は敗北し、三成は伊吹山中に逃れたのち捕縛され、京の六条河原にて処刑されました。処刑直前に「体に毒だから」と柿を断ったという逸話は、実際に伝わる史実(伝承)に基づいています。
前2作と異なり、本作では歴史の結末そのものは変えていません。玉響は、時に大きな分岐を生み、時に、ただ一人の男の内側だけを、静かに揺らすのかもしれません。

玉響転生記

 〜明智光秀と時をこえた男〜


まえがき

 前作『慶安転生記』を書き終えたあと、私はしばらくの間、榊原凪という男のことを考えていました。

 彼は江戸から現代へ帰ってきた。日常に戻った。しかし——本当に、それで終わりだったのでしょうか。

 玉響(たまゆら)。魂の微かな揺らぎ。

 一度その揺らぎに触れた者は、二度目の揺らぎを、無意識のうちに待つのかもしれません。

 「もし、あの時に戻れるなら」という願いは、一度叶えられれば消えるものではなく、むしろ深く根を張っていくのかもしれない。

 これは、由井正雪との旅から数年後の、榊原凪の物語です。

 そして、日本史上もっとも饒舌に語られ、もっとも真意を問われ続けてきた男——明智光秀の物語でもあります。





プロローグ 夜半の来訪

 東京の夏の夜は、湿った風が吹いていた。

 榊原凪は、四十七歳になっていた。

 慶安の江戸から戻って、五年が経っていた。あのタイムトラベルの経験を、彼は誰にも話さなかった。話しても信じられないだろうし、話す必要も感じなかった。

 ただ、生き方は変わった。

 彼はITエンジニアの仕事を続けながら、夜な夜な文章を書くようになった。ブログ、雑誌への寄稿、やがて一冊の本。『声なき者たちの江戸』というタイトルだった。牢人問題を切り口に、現代社会の非正規労働者や社会的孤立の問題を論じたその本は、静かに、しかし確実に読者を得ていた。

 彼は「言葉を持つ者」として、慎ましく生きていた。

 その夜、凪は原稿を書きあぐねていた。次の本のテーマが、まだ定まらない。

 窓の外で、風が松の木を揺らしていた。

 ——松?

 凪は顔を上げた。彼のマンションのベランダに、松の木などない。しかし確かに、松の葉が擦れ合う音がした。乾いた、微かな音。

 そして、匂いがした。

 煙のにおい。土のにおい。人の汗と、動物の——。

 凪は動けなかった。

 振り返ると、部屋の真ん中に、男が立っていた。

 着物姿。しかし正雪ではない。正雪よりも年齢は上、五十前後だろうか。顔立ちは整っているが、疲労の影が深く刻まれている。目には、鋭さと同時に、底知れぬ悲しみがあった。

 男は静かに口を開いた。

「夜分に、失礼つかまつる」

 声は、穏やかだった。

「……どなたですか」

 凪は自分の声が、震えていることに気づいた。

 男は少し首を傾げ、それから小さく笑った。自嘲するような、疲れた笑みだった。

「拙者の名を申せば、そなたは驚くであろう。あるいは、既に察しておるかもしれぬが」

「まさか」と凪は言った。「まさか、あなたは——」

「日向守。明智光秀と申す」

 凪の呼吸が、止まった。

 明智光秀。天正十年六月二日、本能寺にて主君・織田信長を討った男。そして、十一日後の山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、落ち武者狩りに遭って命を落としたとされる男。日本史上、もっとも有名な「謀反人」。

 しかし同時に、その動機が四百年以上議論され続けている、謎の多い人物。

「なぜ……ここに」

「知らぬ」と光秀は静かに答えた。「気づけば、この奇妙な部屋にいた。そなたが、由井殿を助けた男か」

 凪は、頷くことができなかった。

光秀は部屋の中を見渡した。パソコンの画面、電灯、本棚。異物に囲まれても、彼の表情は動かなかった。ただ、静かに観察していた。

「奇妙な世じゃ」と光秀は呟いた。「しかし人の顔は、変わらぬな」

 凪は、ようやく口を開いた。

「あなたも……夢の中で、私に会いに来られるのですか」

「これは夢ではないと思うておる」と光秀は言った。「しかし、拙者にも仔細は分からぬ。ただ、時が迫っておることだけは分かる」

「時、とは」

光秀は、凪の目をまっすぐに見た。

「天正十年、五月末。拙者は間もなく、主君を討つ決断を下す。あるいは、下したところじゃ。時の流れが、乱れておる」

凪の背筋が、冷たくなった。

「あなたは……止めてほしいのですか。本能寺を」

光秀は、しばらく答えなかった。

風が、また松の葉を揺らした。しかし部屋の中には、松などない。

「分からぬのだ」と光秀はやがて言った。「それが、拙者が来た理由やもしれぬ。分からぬから、確かめに来た」

彼は一歩、凪に近づいた。

「そなたに、頼みがある。共に、丹波亀山まで来てはくれぬか」

「丹波……」

「拙者の居城じゃ。そこで、拙者は決断する。その決断を、そなたに見届けてほしい。そして、必要とあらば——」

光秀は言葉を切った。

「止めてほしい、と?」

「いや」と光秀は首を振った。「止めてほしいのではない。問いかけてほしい。拙者が己自身に問えぬことを、そなたに問うてほしい」

凪は、答えられなかった。

光秀は、静かに頭を下げた。

「一夜、考えてくれ。返答は、明朝で良い」

そして、彼の姿は、風のように消えた。

部屋には、松の匂いだけが、微かに残っていた。


一章 二度目の揺らぎ

 その夜、凪は眠れなかった。

 パソコンの画面には、書きかけの原稿が残っていた。しかし彼は、それを見ることができなかった。

 明智光秀。

 由井正雪のときとは、根本的に何かが違う気がした。

 正雪の場合、歴史は「失敗した反乱」だった。凪は、その失敗を「別の形」へと導いた。牢人問題という、抽象的だが救うべき対象があった。

 しかし光秀の場合はどうか。

 本能寺の変。日本史上、もっとも巨大な「if」の分岐点。もし信長が本能寺で死ななければ、日本の統一はもっと早く進んだかもしれない。あるいは、遅れたかもしれない。切支丹の禁圧はなかったかもしれない。江戸幕府は生まれなかったかもしれない。

変数が、多すぎる。

And——光秀を止めるとは、どういうことか。

信長を生かすことは、正しいのか。

凪はコーヒーを淹れた。窓の外は、まだ夜だった。都市の光が、遠くに滲んでいた。

彼は、正雪との別れ際の言葉を思い出していた。

「少しずつ、か。それで良いのかもしれない」

あのときの凪は、大きな歴史を変えたのではない。ただ一人の男を、生かした。一枚の嘆願書を、届けた。それだけだった。

光秀の場合も、同じ考え方でいけるだろうか。

彼は歴史全体を変える必要はない。ただ一人の男の、内側の何かに触れれば良いのかもしれない。

朝が来た。

凪は、窓を開けた。夏の湿った風が入ってきた。

そして、彼は言った。

「行きます」

誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。

しかしその瞬間、部屋の空気が、微かに震えた。

玉響。

風が吹いた。松の匂いがした。世界が揺れた。

凪は、目を閉じた。


二章 丹波の里

 気がつくと、凪は山道に立っていた。

 空気が、冷たかった。夏の朝ではなかった。おそらく、春の終わりか初夏の始まり。天正十年、五月末なら、その時期のはずだ。

 周囲は深い山。針葉樹と広葉樹が入り混じる、豊かな森。

 凪は、自分の服装を確認した。今回は最初から、着物姿だった。腰には脇差もあった。前回の教訓が、彼の意識のどこかに反映されていたのか、あるいは玉響が最適化してくれたのか。

道を、下っていった。

半刻ほど歩くと、集落が見えた。丹波の農村。田んぼでは、農民たちが働いていた。田を耕す季節だった。

凪は、道端の農民に声をかけた。

「もし、ここは丹波亀山の近くでござろうか」

「ああ、亀山なら、この道をずっと下って、川沿いに行けば見えてくる」と農民は答えた。「侍様、旅の方か」

「はい。日向守様に、お目通り願いたく」

農民の表情が、微かに緊張した。

「殿は今、忙しゅうしておられる。目通りは難しかろう」

「日向守様のお指図で参った者です。到着したと告げていただければ、通じるはずです」

凪は、そう告げた。それが真実であることを、彼は確信していた。

農民に礼を言い、彼は再び歩き始めた。

丹波の景色は、美しかった。慶安の江戸とは違う、より原初的な、より人の手が入っていない自然。しかし同時に、その中に確実に人の営みがあった。田を耕し、水を引き、木を切り、家を建てる人々。

凪は、彼らを見ながら思った。

この人々の運命が、あと数日で大きく変わる。

本能寺の変、そして山崎の合戦。丹波は光秀の領地であり、彼が敗れれば、この土地は羽柴秀吉のものとなる。農民たちには、直接には関係ないかもしれない。しかし、確実に、何かが変わる。

歴史は、農民の顔をしていない。

しかし歴史は、農民の暮らしを揺さぶる。

亀山城が見えてきたのは、昼過ぎだった。

小高い山の上に築かれた、堅牢な城。天守はまだ完成していなかったが、石垣と櫓が威容を示していた。

凪は、城下の茶屋に入った。そこで待てば、光秀からの使いが来るはずだった。

実際、彼は待つことになった。

三時間ほど、茶屋に座り続けた。

夕暮れが近づいた頃、一人の若い武士が茶屋に入ってきた。彼は凪を見て、小さく頷いた。

「榊原殿でござるか」

「はい」

「殿がお待ちです。お連れいたします」

凪は、静かに立ち上がった。


三章 光秀の座敷

 光秀の私室は、質素だった。

 城主の部屋にしては、装飾が少ない。畳の上に、文机、筆、そして数冊の書物。壁には掛け軸が一つ、それも書だった。「静処養神」——静かな場所で、精神を養う。

 光秀は、文机に向かっていた。凪が案内されて入ると、彼は筆を置き、ゆっくりと振り返った。

「よう来た」と彼は言った。「まことに、来てくれたか」

「参りました」と凪は答え、正座した。

光秀は、凪の顔を長く見つめた。

「奇妙なものじゃな。夢とも現ともつかぬ場所で会うた者と、こうして向かい合うておる」

「私も、同じことを思っています」

二人の間に、しばしの沈黙が落ちた。

女中が茶を運んできて、また去っていった。光秀は自分で茶碗を持ち上げ、一口飲んだ。凪もそれに倣った。抹茶ではなく、番茶に近い、素朴な味だった。

「時が」と光秀は口を開いた。「あと数日で、拙者は決断せねばならぬ」

「本能寺の、ことですね」

「うむ」

光秀は、静かに頷いた。

「そなたは、拙者がなぜ主君を討とうとしているか、知っておるか」

「……いいえ」と凪は正直に答えた。「未来の史書には、様々な説が書かれています。しかし、どれが真実かは、誰にも分かっていません」

「様々な説、とは」

「怨恨説。信長様に度々辱められた恨みからだ、と。野望説。天下を取ろうとしたのだ、と。黒幕説。朝廷、あるいは徳川家康、あるいは羽柴秀吉が背後にいた、と。四国政策説。長宗我部との関係が信長様に切り捨てられたことへの反発だ、と」

光秀は、微かに笑った。

「面白いのう。四百年経っても、拙者の心を測りかねておるか」

「はい」

「そなた自身は、どの説を信じておる」

凪は、少し考えた。

「私は、一つに決められません。おそらく、どれか一つだけが理由ではないのだと思います。人の決断とは、そういうものです。複数の理由が、重なり合い、絡み合い、そして一つの瞬間に、決断となる」

光秀は、深く頷いた。

「そなた、良いことを申す」

彼は、茶碗を置いた。

「拙者自身、己の心が分からぬのだ。信長様への恨みも、確かにある。あの御方の苛烈さは、家臣にとって重荷であった。しかし恨みだけで、主君を討つか。それだけの決断ができるか。分からぬ」

「野望はありますか」

「あるとも、ないとも言える」と光秀は答えた。「天下人になりたいと思うたことはある。しかし、それが本当に己の望みなのか、それとも周囲の期待に応えようとしているだけなのか、区別がつかぬ」

「周囲の期待、とは」

「拙者の家臣たちじゃ。斎藤利三をはじめ、多くの者が、拙者を天下人と見立てておる。彼らを裏切ることは、できぬ」

凪は、光秀の言葉を、静かに聞いていた。

「そして」と光秀は続けた。「時が、迫っておる。信長様は間もなく、中国攻めの支援に向かわれる。その途上、本能寺に少人数で滞在される。護衛はほとんどおらぬ。あのような機会は、二度と来ぬ」

「機会があるから、動く、と」

「否、と言い切れぬ己が、恐ろしい」

光秀の声が、初めて微かに震えた。

凪は、しばらく黙っていた。

And、口を開いた。

「日向守様。一つ、伺ってもよろしいですか」

「なんじゃ」

「あなたは、信長様を、討ちたいのですか」

光秀の目が、凪を見た。

その目には、答えがなかった。あるいは、あまりにも多くの答えがあった。


四章 問いの重さ

 その夜、凪は城内の一室に泊まった。

 布団に横たわっても、眠れなかった。

 彼は、天井を見つめていた。木の梁が、月明かりに照らされて、静かに光っていた。

光秀の目を、思い出していた。

あの目には、迷いがあった。決断を下しかけている男の、最後の迷い。しかしその迷いは、外部からの説得では取り除けないもののように見えた。

凪は、正雪のときのことを思い出していた。

正雪の場合、彼には明確な「代案」を示すことができた。武力ではなく、言葉で。挙兵ではなく、嘆願書で。

しかし光秀の場合は、どうか。

信長を討たない、という選択肢は、光秀にとって「代案」たり得るのか。

もし討たなければ、光秀はどうなるか。信長の家臣として、そのまま生きるのか。しかし彼は、信長の苛烈さに耐えかねていた。近いうちに、彼は追放されるか、あるいは自ら身を退くか、そのどちらかを選ばざるを得なかったかもしれない。

いや、それだけではない。

光秀は、自分の中の「討ちたい」という気持ちと、向かい合わなければばならなかった。恨み、野望、家臣たちへの責任——それらが混ざり合った、複雑な感情。

凪は、身を起こした。

自分は、何をするためにここに来たのか。

光秀は言った。「止めてほしいのではない。問いかけてほしい」と。

凪は、その意味を考え続けた。

問う、とは何か。

正雪のときは、凪は「代案」を提示した。それは、ある意味で答えを与えることだった。

しかし光秀には、答えを与えることはできない。彼の決断は、彼自身の内部からしか生まれない。

できることは、問いを立てることだけ。正しい問いを、正しい時に、光秀の前に置くこと。

凪は、また横になった。

窓の外で、鳥が鳴いた。夜明けが、近かった。


五章 二度目の対話

 翌朝、凪は再び光秀の私室に呼ばれた。

 光秀は、既に文机の前に座っていた。しかし今日は筆を持たず、ただ、庭を眺めていた。

庭には、小さな池があった。鯉が泳ぎ、その周りに石が配され、松と紅葉が植えられていた。

凪が正座すると、光秀は振り返らずに口を開いた。

「昨夜、そなたは拙者に問うた。『討ちたいのか』と。あの問いを、拙者は一晩、考え続けた」

「……はい」

「答えは、出ておらぬ」と光秀は言った。「しかし、別のことは分かった」

「別のこと、とは」

「拙者が本当に恐れておるのは、討ったあとのことじゃ」

光秀は、ようやく振り返った。

「主君を討った男は、どうなる。天下を取れば良し。しかし取れなんだら、拙者はただの謀反人となる。歴史に、汚名として残る」

「……はい」

「そなたは知っておるのじゃろう」と光秀は言った。「拙者は、天下を取れたのか」

凪は、深呼吸をした。

これは、避けて通れない問いだった。

「日向守様」と凪は静かに言った。「未来の歴史では、あなたは本能寺で信長様を討ちます。しかし十一日後、羽柴秀吉様との山崎の合戦で敗れます。逃走中に、落ち武者狩りに遭って、命を落とされます」

光秀の表情は、動かなかった。

「十一日、か」

「はい」

「拙者は、秀吉を舐めておったのか」

「秀吉様の中国大返しは、後世『神業』と呼ばれます。誰も予想できないほどの速さで、彼は毛利との和睦を成立させ、本隊を京へ返します」

「うむ」と光秀は頷いた。「奴なら、あり得るな」

彼は、また庭を見た。

「そして、拙者の名は、歴史にどう記されておる」

「三日天下」と凪は正直に答えた。「あるいは、日本史上最大の謀反人、と」

沈黙。

鯉が水面を跳ねた。ぽちゃん、と小さな音がした。

「三日天下、か」と光秀は繰り返した。「短いのう」

彼は、微かに笑った。それは自嘲というより、むしろ悟りに近い笑みだった。

「日向守様」と凪は言った。「未来では、あなたの動機は謎とされています。しかしあなたのことを、単純な悪人と見なす者は、少なくなってきています。むしろ、教養のある文化人として、そして、複雑な事情を抱えた悲劇の人物として、多くの者が興味を持っています」

「……ほう」

「連歌にも、茶の湯にも造詣が深く、家臣にも領民にも慕われた武将であった、と」

光秀は、しばらく無言だった。

「そなたが未来から来た者だと、拙者はもはや疑わぬ」と彼はやがて言った。「そなたの目には、拙者への同情があるが、それは軽蔑ではない。真の同情じゃ」

「はい」

「では、教えてくれ。拙者が本能寺を襲わなかったら、どうなる」

凪は、答えを持っていなかった。

しかし、こう答えた。

「分かりません。しかし、一つだけ確かなことがあります」

「なんじゃ」

「あなたが襲わなかったとしても、いずれ誰かが信長様を討ったかもしれない。あるいは、信長様は天寿を全うされたかもしれない。それは、誰にも分かりません」

「うむ」

「ただ、あなたが襲わなければ、あなたは『三日天下の謀反人』とは呼ばれない。それは、確かです」

光秀は、深く頷いた。

「そなたは、正雪殿に、何と言うた?」

「『生きて訴え続けることが、最大の武士道だ』と」

光秀は、また笑った。今度は、少し声が漏れた。

「良き言葉じゃな」

「はい」

「しかし、拙者には当てはまらぬかもしれぬ」

「なぜです」

「拙者には、訴えるべき『大義』が、明確ではないからじゃ。牢人を救う、という正雪殿のような、明確なものがない。ただ、恨みと、疲れと、家臣への責任と、そして……」

光秀は、言葉を切った。

「底は?」

「信長様への、複雑な思いじゃ」

彼は、遠くを見た。

「あの御方は、時に恐ろしく、時に驚くほど寛大であった。憎いと思うと同時に、慕わしいとも思う。討ちたいと思うと同時に、討たれる姿を見たくないとも思う。人の心とは、こうも矛盾するものかと、拙者自身、呆れておる」

凪は、その言葉に、深く胸を打たれた。

これが、明智光秀の真実なのかもしれない、と彼は思った。歴史書には書かれない、人間の複雑さ。

「日向守様」と凪は言った。「あなたが決断されるまで、私はここにおります。もし、あなたが問いを必要とするなら、私は問い続けます」

「うむ、頼む」

光秀は、深く頭を下げた。

それは、主君が家臣に対してする所作ではなかった。一人の人間が、もう一人の人間に対する、深い礼だった。


六章 斎藤利三

 凪が城に滞在して三日目の夕方、彼は思わぬ人物と対峙することになった。

 斎藤利三。

 光秀の重臣であり、腹心。四国の長宗我部氏との縁が深く、信長が長宗我部を討とうとしたことに、強い反発を抱いていたとされる人物。

利三は、凪の部屋を訪ねてきた。前触れもなく、静かに。

「榊原殿と申されるか」と彼は言った。「殿より聞き及んでおる。お目通りしたく参った」

凪は、緊張した。

利三の目は、光秀とはまた違う鋭さを持っていた。武人の目。実戦を潜り抜けてきた者の目。

「斎藤様、何用でしょうか」

「そなたは、殿を惑わせておる」と利三は率直に言った。「事は既に動いておる。今、殿の心を揺らすことは、我らにとって命取りになる」

「私は、殿を惑わせているのではありません」

「では、何をしておる」

「問いかけているだけです」

利三は、鋭く凪を見つめた。

「その問いが、殿を惑わせておるのじゃ。殿は元来、思慮深いお方。しかし今は、決断すべき時。思慮を深めるべき時ではない」

「なぜ、今が決断すべき時なのですか」

「機会があるからじゃ」と利三は言った。「信長公は間もなく、少人数で本能寺に入られる。あのような機会は、二度とない。それに——」

彼は、少し声を落とした。

「殿ご自身の御身も、危うい」

凪の耳が、鋭くなった。

「危うい、とは」

「信長公は、家臣を使い捨てにされる。丹羽長秀殿、佐久間信盛殿、林秀貞殿——皆、追放された。次は殿かもしれぬ、との噂もある」

「その噂は、確かなのですか」

「確かではない」と利三は正直に答えた。「しかし、あり得る話じゃ。殿が動かねば、殿は追放されるかもしれぬ。追放されれば、我ら家臣も路頭に迷う」

凪は、頷いた。

これが、光秀を動かしているもう一つの力なのだ。家臣たちの生活。彼らへの責任。信長の下では、いつ何が起きるか分からない。ならば、動くべき時に動くべきだ、という論理。

「斎藤様」と凪は言った。「一つ伺います。もし殿が信長様を討たなかったら、あなたはどうしますか」

利三は、しばらく黙った。

「拙者は、殿に従う。それだけじゃ」

「殿の決断に、従うのですね」

「うむ」

「しかし今、あなたは殿を動かしようとしている。殿の決断ではなく、あなたの判断で」

利三の表情が、微かに動いた。

「拙者は、殿の御為を思うておる」

「私も、殿の御為を思うています。ただ、私は殿ご自身の中から決断が生まれることを、望んでいます」

利三は、長い間、凪を見つめた。

「そなた、奇妙な男じゃ」と彼はやがて言った。「殿がなぜそなたを近くに置くのか、分かる気がしてきた」

彼は、立ち上がった。

「明日、殿は最終の軍議を開かれる。そなたも、同席することになるやもしれぬ。心してかかれ」

そして、彼は部屋を去った。

凪は、しばらく座り続けた。

軍議。

史実では、この軍議で光秀は本能寺への出兵を決定する。

凪は、そこに立ち会うことになる。

彼は、何を言えば良いのか。何を問えば良いのか。

窓の外で、夕日が沈もうとしていた。丹波の山々が、赤く染まっていた。


七章 軍議

 軍議は、亀山城の広間で開かれた。

 光秀、斎藤利三、明智秀満、藤田伝五、そのほか主だった重臣が数名。凪は末席に、書記のような形で控えることを許された。

軍議の議題は、表向きは「中国出兵の準備」であった。信長の命により、光秀の軍は羽柴秀吉の中国攻めを支援するため、備中に向かうことになっていた。

しかし議論が進むにつれ、話は徐々に別の方向へと流れていった。

「殿」と斎藤利三が口を開いた。「中国出兵の道筋は、本能寺の近くを通ります。信長公は間もなく、上洛の予定と伺っております」

「うむ」

「本能寺には、信長公の護衛は少ない、との情報もございます」

広間の空気が、一気に緊張した。

光秀は、無言のまま、目を閉じた。

誰も、次の言葉を発しなかった。

凪は、その沈黙の中で、心臓の鼓動を聞いていた。

やがて、光秀が目を開けた。

「利三」と彼は静かに言った。「そなたの申しておることは、拙者を主殺しに導く言葉じゃな」

利三は、一瞬たじろいだ。しかし、退かなかった。

「殿、機は今しかございませぬ」

「機は、いつでも来る」と光秀は言った。「問題は、その機を掴むべきか否かじゃ」

彼は、広間を見渡した。

「皆に問う。拙者が主君を討つこと、真に正しいと思うか」

重臣たちは、沈黙した。

凪は、末席から見ていた。彼らの顔には、様々な感情が浮かんでいた。決意、迷い、恐怖、そして——期待。

最初に口を開いたのは、明智秀満だった。光秀の娘婿でもある、若い将。

「殿の御意のままに」

次に、藤田伝五。

「拙者も、殿に従いまする」

利三が、続けた。

「殿、時は待ってくれませぬ」

光秀は、彼らを見た。そして、末席の凪に、視線を向けた。

「榊原よ」と彼は言った。「そなたも、意見を申せ」

広間の全員が、凪を見た。

凪は、深呼吸をした。

彼は、立場を持たない。この時代の人間ではない。しかし、光秀は彼に問うている。

そして、これが最後の機会だった。

凪は、口を開いた。

「日向守様。恐れながら、申し上げます」

「うむ」

「私は、殿を止めるつもりはございません。しかし、一つだけ、問いを立てさせていただきたい」

「申せ」

凪は、光秀の目を見た。

「殿は、信長様を討たれたあと、どのような世を作られたいのですか」

広間が、静まり返った。

利三が、口を挟もうとした。しかし光秀が、手で制した。

「続けよ」と光秀は言った。

「正雪殿には、明確な目的がありました。牢人を救うこと。それがあったからこそ、彼の名は歴史に、悲劇の英雄として残った。しかし殿——」

凪は、言葉を選びながら続けた。

「殿の目的は、何でしょうか。信長様の代わりに、天下を治めることでしょうか。それとも、信長様の苛烈な政策を、より穏やかなものに変えることでしょうか。あるいは、家臣たちを守ることでしょうか」

光秀は、答えなかった。

「殿が明確な目的を持っておられるなら、私は何も申し上げません。しかしもし、目的が定まっておられぬまま動かれるなら——それは、悲劇に終わる可能性が高い、と申し上げねばなりません」

凪の声は、静かだった。しかし広間の全員が、その言葉を聞いていた。

利三が、口を開こうとした。

「無礼な——」

しかし光秀が、また手で制した。

光秀は、長い間、目を閉じていた。

どれほどの時間が経ったか、凪には分からなかった。

やがて、光秀は目を開けた。

「軍議は、明朝まで延期する」と彼は言った。

重臣たちは、動揺した。しかし光秀の決断には、逆らえなかった。

彼らは、一人ずつ広間を去っていった。利三が最後に、凪を鋭く睨みながら去った。

広間には、光秀と凪だけが残った。


八章 夜明け前

 その夜、光秀は凪を、亀山城の天守の下に呼んだ。

 まだ完成していない天守の、基礎の部分。石垣の上に立つと、丹波の夜景が一望できた。灯火は少なく、大部分が闇に沈んでいた。

「拙者に、明確な目的はない。信長様の代わりに天下を治めたいのか、家臣たちを守りたいのか、それすらも……」

光秀は星を見上げた。その横顔には、引き裂かれるような迷いがあった。

凪が「生きて、あなたの物語を語ってください」と告げ、光秀が「答えは夜明けに出す」と言い残して天守を降りたのは、そのすぐ後のことだった。

 しかし、試練はそこからだった。

 天守の階段を下りた光秀を待っていたのは、暗がりに佇む斎藤利三であった。その手には、既にいつでも出陣できるだけの具足が握られている。

「殿」

利三の声は地を走るように低く、そして重かった。

「先ほどの未来人の言葉、拙者も盗み聞きいたしました。……なればこそ、申し上げます。行くべきにございます」

「利三」

「あやつは『生きていれば道は開ける』と綺麗事を申した! だが、信長公の恐ろしさを知らぬ者の妄言にございます! 丹羽長秀殿が、佐久間信盛殿が、追放されたあとどうなったか! 誇りを奪われ、這いつくばって死んだ。殿が同じ目に遭うて、生きて連歌など詠んでおられるとお思いか!」

利三は一歩、光秀ににじり寄った。その目は血走っている。

「殿だけの御身ではない。我ら明智の家臣、その家族、数千の命が殿の双肩にかかっているのです。ここで退けば、疑心暗鬼の信長公のこと、遅かれ早かれ我らは族滅の憂き目に遭いましょう。……三日天下、上等ではございませぬか! 泥の中でなぶり殺されるくらいなら、天下を震撼させ、武士として華々しく散るべきだ!」

「利三、お主は……拙者に死ねと言うか」

「生きるために、殺すのです!」

利三は床に膝を突き、激しく畳を叩いた。

「行ってくだされ。これは我ら『現実』を生きる地獄の者の、総意にございます!」

利三を下がらせたあと、光秀は一人、深夜の書斎で文机にしがみついていた。

脳裏に、津波のように記憶が押し寄せる。

——折檻された痛みが蘇る。大勢の面前で足蹴にされ、領地を召し上げると脅された恐怖。あの男は魔王だ。討たねば殺される。

だが、同時に蘇る記憶があった。

まだ美濃の牢人だった自分を、これほどの重臣に引き立ててくれたのは誰だったか。

『光秀、お前の才だけが、この儂の見た夢に追いついてくる』

本能寺の茶会で、信長がふと見せた、子供のような無邪気な笑顔。自分を誰よりも評価し、誰よりも酷使し、誰よりも愛してくれた主君。

(憎い。……だが、恋しい。儂はあの男を殺したいのか、それとも、あの男のいない世界が寂しいだけなのか)

光秀は吐血せんばかりの息を吐き、頭を抱えて夜の闇に咽び泣いた。

家臣たちの命。信長への恩仇。未来人の問い。

あらゆる濁流が光秀の中で渦巻き、夜明けの光が、刻一刻と迫っていた。


九章 夜明けの決断

 凪は、その夜も眠れなかった。

 夜明け前、彼は自室で正座していた。窓の外は、まだ暗かった。しかし東の空が、微かに白み始めていた。

足音が、廊下から近づいてきた。一つではない。二つの足音だ。

襖が開いた。

光秀が立っていた。そしてその後ろには、悔しさに顔を歪め、涙を流しながらも、刀を鞘に収めた斎藤利三が控えていた。

光秀の顔は、死人のように憔悴していた。だが、その目には、全ての地獄を飲み込んだような、澄んだ光があった。

「榊原よ」と光秀は静かに言った。

「はい」

「拙者は、行かぬ」

凪は、息を呑んだ。

「本能寺への出兵は、取りやめる。中国出兵は、予定通り行う。……利三とは、夜通し話した。我が首一つで家臣一同の助命が叶うよう、信長様への釈明の書状も、既に認めた」

後ろで、利三が「ううむ」と声を漏らして男泣きに暮れている。利三は最後まで「行くべきだ」と叫び続けたのだろう。しかし光秀は、家臣を道連れにする「破滅の華」ではなく、汚名を一身に背負う「生苦」を選んだのだ。利三の涙は、主君の決断のあまりの重さに対する、畏怖と悲痛の現れだった。

「そなたのおかげじゃ」と光秀は言った。

「いいえ」と凪は答えた。声が震えた。「あなたご自身の、あまりにも重い決断です」

「拙者は、いずれ信長様に殺されるかもしれぬ。だが、主君を討つことによって、己の心を裏切ることは、選ばぬ。生きるぞ、榊原。死ぬまで、生きる」

光秀は、深く頭を下げた。利三もまた、床に額を擦り付けた。

凪の視界が、涙で滲んでいく。

「行け。そなたの時代へ」

その声を最後に、世界が大きく揺らいだ。


エピローグ もう一つの歴史

 気がつくと、凪は自分のマンションの床に倒れていた。

 夏の夜の湿気が、まだ残っていた。パソコンの画面は、書きかけの原稿を映していた。

凪は、しばらく動けなかった。

やがて、彼は起き上がり、パソコンの前に座った。書きかけの社会批評の原稿を、全て消去した。

そして、新しいファイルを開き、猛然とキーボードを叩き始めた。


 数ヶ月後。

 凪の部屋の机の上には、刷り上がったばかりの一冊の小説本があった。

表紙には、彼が付けたタイトルが踊っている。

彼はそれを本屋に確認しに行くこともしなかった。世間の評価も、歴史の整合性も、今の彼にはどうでもよかった。ただ、あの夜明けに、確かに一つの巨大な意思が、地獄のような現実の中で「生きる」ことを選んだのだという事実を、言葉にして残したかった。それだけだった。

凪は窓を開けた。

東京の夏の夕暮れ。ビル群の向こうに、四百年前と変わらぬ月が昇り始めている。

彼はパソコンの画面をそっと見つめた。そこには、彼が魂を削って書き上げた、物語の最後の一文が残されていた。


『天正十年六月二日、本能寺の朝空はどこまでも青かった。謀反人の汚名からも、天下人という虚妄からも解放された男は、ただ一振りの筆を携え、自らの物語を生きるために、静かに歩みを進めたのである。』


風が吹いた。松の匂いは、もうしなかった。

しかし凪の胸の奥には、あの玉響の揺らぎが、確かな温もりとして残り続けていた。


——了——



【作者注】

 本作は本能寺の変を題材としたフィクションです。明智光秀、斎藤利三、明智秀満などは実在の歴史人物ですが、物語の展開は著者の創作によるものです。実際の本能寺の変(天正十年、一五八二年六月二日)では、光秀は信長を討ち、十一日後の山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、逃走中に命を落としました。この小説は、前作『慶安転生記』と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。

 そして、玉響(たまゆら)は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。


まえがき
 前作『慶安転生記』を書き終えたあと、私はしばらくの間、榊原凪という男のことを考えていました。
 彼は江戸から現代へ帰ってきた。日常に戻った。しかし——本当に、それで終わりだったのでしょうか。
 玉響(たまゆら)。魂の微かな揺らぎ。
 一度その揺らぎに触れた者は、二度目の揺らぎを、無意識のうちに待つのかもしれません。
 「もし、あの時に戻れるなら」という願いは、一度叶えられれば消えるものではなく、むしろ深く根を張っていくのかもしれない。
 これは、由井正雪との旅から数年後の、榊原凪の物語です。
 そして、日本史上もっとも饒舌に語られ、もっとも真意を問われ続けてきた男——明智光秀の物語でもあります。


プロローグ 夜半の来訪
 東京の夏の夜は、湿った風が吹いていた。
 榊原凪は、四十七歳になっていた。
 慶安の江戸から戻って、五年が経っていた。あのタイムトラベルの経験を、彼は誰にも話さなかった。話しても信じられないだろうし、話す必要も感じなかった。
 ただ、生き方は変わった。
 彼はITエンジニアの仕事を続けながら、夜な夜な文章を書くようになった。ブログ、雑誌への寄稿、やがて一冊の本。『声なき者たちの江戸』というタイトルだった。牢人問題を切り口に、現代社会の非正規労働者や社会的孤立の問題を論じたその本は、静かに、しかし確実に読者を得ていた。
 彼は「言葉を持つ者」として、慎ましく生きていた。
 その夜、凪は原稿を書きあぐねていた。次の本のテーマが、まだ定まらない。
 窓の外で、風が松の木を揺らしていた。
 ——松?
 凪は顔を上げた。彼のマンションのベランダに、松の木などない。しかし確かに、松の葉が擦れ合う音がした。乾いた、微かな音。
 そして、匂いがした。
 煙のにおい。土のにおい。人の汗と、動物の——。
 凪は動けなかった。
 振り返ると、部屋の真ん中に、男が立っていた。
 着物姿。しかし正雪ではない。正雪よりも年齢は上、五十前後だろうか。顔立ちは整っているが、疲労の影が深く刻まれている。目には、鋭さと同時に、底知れぬ悲しみがあった。
 男は静かに口を開いた。
「夜分に、失礼つかまつる」
 声は、穏やかだった。
「……どなたですか」
 凪は自分の声が、震えていることに気づいた。
 男は少し首を傾げ、それから小さく笑った。自嘲するような、疲れた笑みだった。
「拙者の名を申せば、そなたは驚くであろう。あるいは、既に察しておるかもしれぬが」
「まさか」と凪は言った。「まさか、あなたは——」
「日向守。明智光秀と申す」
 凪の呼吸が、止まった。
 明智光秀。天正十年六月二日、本能寺にて主君・織田信長を討った男。そして、十一日後の山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、落ち武者狩りに遭って命を落としたとされる男。日本史上、もっとも有名な「謀反人」。
 しかし同時に、その動機が四百年以上議論され続けている、謎の多い人物。
「なぜ……ここに」
「知らぬ」と光秀は静かに答えた。「気づけば、この奇妙な部屋にいた。そなたが、由井殿を助けた男か」
 凪は、頷くことができなかった。
光秀は部屋の中を見渡した。パソコンの画面、電灯、本棚。異物に囲まれても、彼の表情は動かなかった。ただ、静かに観察していた。
「奇妙な世じゃ」と光秀は呟いた。「しかし人の顔は、変わらぬな」
 凪は、ようやく口を開いた。
「あなたも……夢の中で、私に会いに来られるのですか」
「これは夢ではないと思うておる」と光秀は言った。「しかし、拙者にも仔細は分からぬ。ただ、時が迫っておることだけは分かる」
「時、とは」
光秀は、凪の目をまっすぐに見た。
「天正十年、五月末。拙者は間もなく、主君を討つ決断を下す。あるいは、下したところじゃ。時の流れが、乱れておる」
凪の背筋が、冷たくなった。
「あなたは……止めてほしいのですか。本能寺を」
光秀は、しばらく答えなかった。
風が、また松の葉を揺らした。しかし部屋の中には、松などない。
「分からぬのだ」と光秀はやがて言った。「それが、拙者が来た理由やもしれぬ。分からぬから、確かめに来た」
彼は一歩、凪に近づいた。
「そなたに、頼みがある。共に、丹波亀山まで来てはくれぬか」
「丹波……」
「拙者の居城じゃ。そこで、拙者は決断する。その決断を、そなたに見届けてほしい。そして、必要とあらば——」
光秀は言葉を切った。
「止めてほしい、と?」
「いや」と光秀は首を振った。「止めてほしいのではない。問いかけてほしい。拙者が己自身に問えぬことを、そなたに問うてほしい」
凪は、答えられなかった。
光秀は、静かに頭を下げた。
「一夜、考えてくれ。返答は、明朝で良い」
そして、彼の姿は、風のように消えた。
部屋には、松の匂いだけが、微かに残っていた。

一章 二度目の揺らぎ
 その夜、凪は眠れなかった。
 パソコンの画面には、書きかけの原稿が残っていた。しかし彼は、それを見ることができなかった。
 明智光秀。
 由井正雪のときとは、根本的に何かが違う気がした。
 正雪の場合、歴史は「失敗した反乱」だった。凪は、その失敗を「別の形」へと導いた。牢人問題という、抽象的だが救うべき対象があった。
 しかし光秀の場合はどうか。
 本能寺の変。日本史上、もっとも巨大な「if」の分岐点。もし信長が本能寺で死ななければ、日本の統一はもっと早く進んだかもしれない。あるいは、遅れたかもしれない。切支丹の禁圧はなかったかもしれない。江戸幕府は生まれなかったかもしれない。
変数が、多すぎる。
And——光秀を止めるとは、どういうことか。
信長を生かすことは、正しいのか。
凪はコーヒーを淹れた。窓の外は、まだ夜だった。都市の光が、遠くに滲んでいた。
彼は、正雪との別れ際の言葉を思い出していた。
「少しずつ、か。それで良いのかもしれない」
あのときの凪は、大きな歴史を変えたのではない。ただ一人の男を、生かした。一枚の嘆願書を、届けた。それだけだった。
光秀の場合も、同じ考え方でいけるだろうか。
彼は歴史全体を変える必要はない。ただ一人の男の、内側の何かに触れれば良いのかもしれない。
朝が来た。
凪は、窓を開けた。夏の湿った風が入ってきた。
そして、彼は言った。
「行きます」
誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。
しかしその瞬間、部屋の空気が、微かに震えた。
玉響。
風が吹いた。松の匂いがした。世界が揺れた。
凪は、目を閉じた。

二章 丹波の里
 気がつくと、凪は山道に立っていた。
 空気が、冷たかった。夏の朝ではなかった。おそらく、春の終わりか初夏の始まり。天正十年、五月末なら、その時期のはずだ。
 周囲は深い山。針葉樹と広葉樹が入り混じる、豊かな森。
 凪は、自分の服装を確認した。今回は最初から、着物姿だった。腰には脇差もあった。前回の教訓が、彼の意識のどこかに反映されていたのか、あるいは玉響が最適化してくれたのか。
道を、下っていった。
半刻ほど歩くと、集落が見えた。丹波の農村。田んぼでは、農民たちが働いていた。田を耕す季節だった。
凪は、道端の農民に声をかけた。
「もし、ここは丹波亀山の近くでござろうか」
「ああ、亀山なら、この道をずっと下って、川沿いに行けば見えてくる」と農民は答えた。「侍様、旅の方か」
「はい。日向守様に、お目通り願いたく」
農民の表情が、微かに緊張した。
「殿は今、忙しゅうしておられる。目通りは難しかろう」
「日向守様のお指図で参った者です。到着したと告げていただければ、通じるはずです」
凪は、そう告げた。それが真実であることを、彼は確信していた。
農民に礼を言い、彼は再び歩き始めた。
丹波の景色は、美しかった。慶安の江戸とは違う、より原初的な、より人の手が入っていない自然。しかし同時に、その中に確実に人の営みがあった。田を耕し、水を引き、木を切り、家を建てる人々。
凪は、彼らを見ながら思った。
この人々の運命が、あと数日で大きく変わる。
本能寺の変、そして山崎の合戦。丹波は光秀の領地であり、彼が敗れれば、この土地は羽柴秀吉のものとなる。農民たちには、直接には関係ないかもしれない。しかし、確実に、何かが変わる。
歴史は、農民の顔をしていない。
しかし歴史は、農民の暮らしを揺さぶる。
亀山城が見えてきたのは、昼過ぎだった。
小高い山の上に築かれた、堅牢な城。天守はまだ完成していなかったが、石垣と櫓が威容を示していた。
凪は、城下の茶屋に入った。そこで待てば、光秀からの使いが来るはずだった。
実際、彼は待つことになった。
三時間ほど、茶屋に座り続けた。
夕暮れが近づいた頃、一人の若い武士が茶屋に入ってきた。彼は凪を見て、小さく頷いた。
「榊原殿でござるか」
「はい」
「殿がお待ちです。お連れいたします」
凪は、静かに立ち上がった。

三章 光秀の座敷
 光秀の私室は、質素だった。
 城主の部屋にしては、装飾が少ない。畳の上に、文机、筆、そして数冊の書物。壁には掛け軸が一つ、それも書だった。「静処養神」——静かな場所で、精神を養う。
 光秀は、文机に向かっていた。凪が案内されて入ると、彼は筆を置き、ゆっくりと振り返った。
「よう来た」と彼は言った。「まことに、来てくれたか」
「参りました」と凪は答え、正座した。
光秀は、凪の顔を長く見つめた。
「奇妙なものじゃな。夢とも現ともつかぬ場所で会うた者と、こうして向かい合うておる」
「私も、同じことを思っています」
二人の間に、しばしの沈黙が落ちた。
女中が茶を運んできて、また去っていった。光秀は自分で茶碗を持ち上げ、一口飲んだ。凪もそれに倣った。抹茶ではなく、番茶に近い、素朴な味だった。
「時が」と光秀は口を開いた。「あと数日で、拙者は決断せねばならぬ」
「本能寺の、ことですね」
「うむ」
光秀は、静かに頷いた。
「そなたは、拙者がなぜ主君を討とうとしているか、知っておるか」
「……いいえ」と凪は正直に答えた。「未来の史書には、様々な説が書かれています。しかし、どれが真実かは、誰にも分かっていません」
「様々な説、とは」
「怨恨説。信長様に度々辱められた恨みからだ、と。野望説。天下を取ろうとしたのだ、と。黒幕説。朝廷、あるいは徳川家康、あるいは羽柴秀吉が背後にいた、と。四国政策説。長宗我部との関係が信長様に切り捨てられたことへの反発だ、と」
光秀は、微かに笑った。
「面白いのう。四百年経っても、拙者の心を測りかねておるか」
「はい」
「そなた自身は、どの説を信じておる」
凪は、少し考えた。
「私は、一つに決められません。おそらく、どれか一つだけが理由ではないのだと思います。人の決断とは、そういうものです。複数の理由が、重なり合い、絡み合い、そして一つの瞬間に、決断となる」
光秀は、深く頷いた。
「そなた、良いことを申す」
彼は、茶碗を置いた。
「拙者自身、己の心が分からぬのだ。信長様への恨みも、確かにある。あの御方の苛烈さは、家臣にとって重荷であった。しかし恨みだけで、主君を討つか。それだけの決断ができるか。分からぬ」
「野望はありますか」
「あるとも、ないとも言える」と光秀は答えた。「天下人になりたいと思うたことはある。しかし、それが本当に己の望みなのか、それとも周囲の期待に応えようとしているだけなのか、区別がつかぬ」
「周囲の期待、とは」
「拙者の家臣たちじゃ。斎藤利三をはじめ、多くの者が、拙者を天下人と見立てておる。彼らを裏切ることは、できぬ」
凪は、光秀の言葉を、静かに聞いていた。
「そして」と光秀は続けた。「時が、迫っておる。信長様は間もなく、中国攻めの支援に向かわれる。その途上、本能寺に少人数で滞在される。護衛はほとんどおらぬ。あのような機会は、二度と来ぬ」
「機会があるから、動く、と」
「否、と言い切れぬ己が、恐ろしい」
光秀の声が、初めて微かに震えた。
凪は、しばらく黙っていた。
And、口を開いた。
「日向守様。一つ、伺ってもよろしいですか」
「なんじゃ」
「あなたは、信長様を、討ちたいのですか」
光秀の目が、凪を見た。
その目には、答えがなかった。あるいは、あまりにも多くの答えがあった。

四章 問いの重さ
 その夜、凪は城内の一室に泊まった。
 布団に横たわっても、眠れなかった。
 彼は、天井を見つめていた。木の梁が、月明かりに照らされて、静かに光っていた。
光秀の目を、思い出していた。
あの目には、迷いがあった。決断を下しかけている男の、最後の迷い。しかしその迷いは、外部からの説得では取り除けないもののように見えた。
凪は、正雪のときのことを思い出していた。
正雪の場合、彼には明確な「代案」を示すことができた。武力ではなく、言葉で。挙兵ではなく、嘆願書で。
しかし光秀の場合は、どうか。
信長を討たない、という選択肢は、光秀にとって「代案」たり得るのか。
もし討たなければ、光秀はどうなるか。信長の家臣として、そのまま生きるのか。しかし彼は、信長の苛烈さに耐えかねていた。近いうちに、彼は追放されるか、あるいは自ら身を退くか、そのどちらかを選ばざるを得なかったかもしれない。
いや、それだけではない。
光秀は、自分の中の「討ちたい」という気持ちと、向かい合わなければばならなかった。恨み、野望、家臣たちへの責任——それらが混ざり合った、複雑な感情。
凪は、身を起こした。
自分は、何をするためにここに来たのか。
光秀は言った。「止めてほしいのではない。問いかけてほしい」と。
凪は、その意味を考え続けた。
問う、とは何か。
正雪のときは、凪は「代案」を提示した。それは、ある意味で答えを与えることだった。
しかし光秀には、答えを与えることはできない。彼の決断は、彼自身の内部からしか生まれない。
できることは、問いを立てることだけ。正しい問いを、正しい時に、光秀の前に置くこと。
凪は、また横になった。
窓の外で、鳥が鳴いた。夜明けが、近かった。

五章 二度目の対話
 翌朝、凪は再び光秀の私室に呼ばれた。
 光秀は、既に文机の前に座っていた。しかし今日は筆を持たず、ただ、庭を眺めていた。
庭には、小さな池があった。鯉が泳ぎ、その周りに石が配され、松と紅葉が植えられていた。
凪が正座すると、光秀は振り返らずに口を開いた。
「昨夜、そなたは拙者に問うた。『討ちたいのか』と。あの問いを、拙者は一晩、考え続けた」
「……はい」
「答えは、出ておらぬ」と光秀は言った。「しかし、別のことは分かった」
「別のこと、とは」
「拙者が本当に恐れておるのは、討ったあとのことじゃ」
光秀は、ようやく振り返った。
「主君を討った男は、どうなる。天下を取れば良し。しかし取れなんだら、拙者はただの謀反人となる。歴史に、汚名として残る」
「……はい」
「そなたは知っておるのじゃろう」と光秀は言った。「拙者は、天下を取れたのか」
凪は、深呼吸をした。
これは、避けて通れない問いだった。
「日向守様」と凪は静かに言った。「未来の歴史では、あなたは本能寺で信長様を討ちます。しかし十一日後、羽柴秀吉様との山崎の合戦で敗れます。逃走中に、落ち武者狩りに遭って、命を落とされます」
光秀の表情は、動かなかった。
「十一日、か」
「はい」
「拙者は、秀吉を舐めておったのか」
「秀吉様の中国大返しは、後世『神業』と呼ばれます。誰も予想できないほどの速さで、彼は毛利との和睦を成立させ、本隊を京へ返します」
「うむ」と光秀は頷いた。「奴なら、あり得るな」
彼は、また庭を見た。
「そして、拙者の名は、歴史にどう記されておる」
「三日天下」と凪は正直に答えた。「あるいは、日本史上最大の謀反人、と」
沈黙。
鯉が水面を跳ねた。ぽちゃん、と小さな音がした。
「三日天下、か」と光秀は繰り返した。「短いのう」
彼は、微かに笑った。それは自嘲というより、むしろ悟りに近い笑みだった。
「日向守様」と凪は言った。「未来では、あなたの動機は謎とされています。しかしあなたのことを、単純な悪人と見なす者は、少なくなってきています。むしろ、教養のある文化人として、そして、複雑な事情を抱えた悲劇の人物として、多くの者が興味を持っています」
「……ほう」
「連歌にも、茶の湯にも造詣が深く、家臣にも領民にも慕われた武将であった、と」
光秀は、しばらく無言だった。
「そなたが未来から来た者だと、拙者はもはや疑わぬ」と彼はやがて言った。「そなたの目には、拙者への同情があるが、それは軽蔑ではない。真の同情じゃ」
「はい」
「では、教えてくれ。拙者が本能寺を襲わなかったら、どうなる」
凪は、答えを持っていなかった。
しかし、こう答えた。
「分かりません。しかし、一つだけ確かなことがあります」
「なんじゃ」
「あなたが襲わなかったとしても、いずれ誰かが信長様を討ったかもしれない。あるいは、信長様は天寿を全うされたかもしれない。それは、誰にも分かりません」
「うむ」
「ただ、あなたが襲わなければ、あなたは『三日天下の謀反人』とは呼ばれない。それは、確かです」
光秀は、深く頷いた。
「そなたは、正雪殿に、何と言うた?」
「『生きて訴え続けることが、最大の武士道だ』と」
光秀は、また笑った。今度は、少し声が漏れた。
「良き言葉じゃな」
「はい」
「しかし、拙者には当てはまらぬかもしれぬ」
「なぜです」
「拙者には、訴えるべき『大義』が、明確ではないからじゃ。牢人を救う、という正雪殿のような、明確なものがない。ただ、恨みと、疲れと、家臣への責任と、そして……」
光秀は、言葉を切った。
「底は?」
「信長様への、複雑な思いじゃ」
彼は、遠くを見た。
「あの御方は、時に恐ろしく、時に驚くほど寛大であった。憎いと思うと同時に、慕わしいとも思う。討ちたいと思うと同時に、討たれる姿を見たくないとも思う。人の心とは、こうも矛盾するものかと、拙者自身、呆れておる」
凪は、その言葉に、深く胸を打たれた。
これが、明智光秀の真実なのかもしれない、と彼は思った。歴史書には書かれない、人間の複雑さ。
「日向守様」と凪は言った。「あなたが決断されるまで、私はここにおります。もし、あなたが問いを必要とするなら、私は問い続けます」
「うむ、頼む」
光秀は、深く頭を下げた。
それは、主君が家臣に対してする所作ではなかった。一人の人間が、もう一人の人間に対する、深い礼だった。

六章 斎藤利三
 凪が城に滞在して三日目の夕方、彼は思わぬ人物と対峙することになった。
 斎藤利三。
 光秀の重臣であり、腹心。四国の長宗我部氏との縁が深く、信長が長宗我部を討とうとしたことに、強い反発を抱いていたとされる人物。
利三は、凪の部屋を訪ねてきた。前触れもなく、静かに。
「榊原殿と申されるか」と彼は言った。「殿より聞き及んでおる。お目通りしたく参った」
凪は、緊張した。
利三の目は、光秀とはまた違う鋭さを持っていた。武人の目。実戦を潜り抜けてきた者の目。
「斎藤様、何用でしょうか」
「そなたは、殿を惑わせておる」と利三は率直に言った。「事は既に動いておる。今、殿の心を揺らすことは、我らにとって命取りになる」
「私は、殿を惑わせているのではありません」
「では、何をしておる」
「問いかけているだけです」
利三は、鋭く凪を見つめた。
「その問いが、殿を惑わせておるのじゃ。殿は元来、思慮深いお方。しかし今は、決断すべき時。思慮を深めるべき時ではない」
「なぜ、今が決断すべき時なのですか」
「機会があるからじゃ」と利三は言った。「信長公は間もなく、少人数で本能寺に入られる。あのような機会は、二度とない。それに——」
彼は、少し声を落とした。
「殿ご自身の御身も、危うい」
凪の耳が、鋭くなった。
「危うい、とは」
「信長公は、家臣を使い捨てにされる。丹羽長秀殿、佐久間信盛殿、林秀貞殿——皆、追放された。次は殿かもしれぬ、との噂もある」
「その噂は、確かなのですか」
「確かではない」と利三は正直に答えた。「しかし、あり得る話じゃ。殿が動かねば、殿は追放されるかもしれぬ。追放されれば、我ら家臣も路頭に迷う」
凪は、頷いた。
これが、光秀を動かしているもう一つの力なのだ。家臣たちの生活。彼らへの責任。信長の下では、いつ何が起きるか分からない。ならば、動くべき時に動くべきだ、という論理。
「斎藤様」と凪は言った。「一つ伺います。もし殿が信長様を討たなかったら、あなたはどうしますか」
利三は、しばらく黙った。
「拙者は、殿に従う。それだけじゃ」
「殿の決断に、従うのですね」
「うむ」
「しかし今、あなたは殿を動かしようとしている。殿の決断ではなく、あなたの判断で」
利三の表情が、微かに動いた。
「拙者は、殿の御為を思うておる」
「私も、殿の御為を思うています。ただ、私は殿ご自身の中から決断が生まれることを、望んでいます」
利三は、長い間、凪を見つめた。
「そなた、奇妙な男じゃ」と彼はやがて言った。「殿がなぜそなたを近くに置くのか、分かる気がしてきた」
彼は、立ち上がった。
「明日、殿は最終の軍議を開かれる。そなたも、同席することになるやもしれぬ。心してかかれ」
そして、彼は部屋を去った。
凪は、しばらく座り続けた。
軍議。
史実では、この軍議で光秀は本能寺への出兵を決定する。
凪は、そこに立ち会うことになる。
彼は、何を言えば良いのか。何を問えば良いのか。
窓の外で、夕日が沈もうとしていた。丹波の山々が、赤く染まっていた。

七章 軍議
 軍議は、亀山城の広間で開かれた。
 光秀、斎藤利三、明智秀満、藤田伝五、そのほか主だった重臣が数名。凪は末席に、書記のような形で控えることを許された。
軍議の議題は、表向きは「中国出兵の準備」であった。信長の命により、光秀の軍は羽柴秀吉の中国攻めを支援するため、備中に向かうことになっていた。
しかし議論が進むにつれ、話は徐々に別の方向へと流れていった。
「殿」と斎藤利三が口を開いた。「中国出兵の道筋は、本能寺の近くを通ります。信長公は間もなく、上洛の予定と伺っております」
「うむ」
「本能寺には、信長公の護衛は少ない、との情報もございます」
広間の空気が、一気に緊張した。
光秀は、無言のまま、目を閉じた。
誰も、次の言葉を発しなかった。
凪は、その沈黙の中で、心臓の鼓動を聞いていた。
やがて、光秀が目を開けた。
「利三」と彼は静かに言った。「そなたの申しておることは、拙者を主殺しに導く言葉じゃな」
利三は、一瞬たじろいだ。しかし、退かなかった。
「殿、機は今しかございませぬ」
「機は、いつでも来る」と光秀は言った。「問題は、その機を掴むべきか否かじゃ」
彼は、広間を見渡した。
「皆に問う。拙者が主君を討つこと、真に正しいと思うか」
重臣たちは、沈黙した。
凪は、末席から見ていた。彼らの顔には、様々な感情が浮かんでいた。決意、迷い、恐怖、そして——期待。
最初に口を開いたのは、明智秀満だった。光秀の娘婿でもある、若い将。
「殿の御意のままに」
次に、藤田伝五。
「拙者も、殿に従いまする」
利三が、続けた。
「殿、時は待ってくれませぬ」
光秀は、彼らを見た。そして、末席の凪に、視線を向けた。
「榊原よ」と彼は言った。「そなたも、意見を申せ」
広間の全員が、凪を見た。
凪は、深呼吸をした。
彼は、立場を持たない。この時代の人間ではない。しかし、光秀は彼に問うている。
そして、これが最後の機会だった。
凪は、口を開いた。
「日向守様。恐れながら、申し上げます」
「うむ」
「私は、殿を止めるつもりはございません。しかし、一つだけ、問いを立てさせていただきたい」
「申せ」
凪は、光秀の目を見た。
「殿は、信長様を討たれたあと、どのような世を作られたいのですか」
広間が、静まり返った。
利三が、口を挟もうとした。しかし光秀が、手で制した。
「続けよ」と光秀は言った。
「正雪殿には、明確な目的がありました。牢人を救うこと。それがあったからこそ、彼の名は歴史に、悲劇の英雄として残った。しかし殿——」
凪は、言葉を選びながら続けた。
「殿の目的は、何でしょうか。信長様の代わりに、天下を治めることでしょうか。それとも、信長様の苛烈な政策を、より穏やかなものに変えることでしょうか。あるいは、家臣たちを守ることでしょうか」
光秀は、答えなかった。
「殿が明確な目的を持っておられるなら、私は何も申し上げません。しかしもし、目的が定まっておられぬまま動かれるなら——それは、悲劇に終わる可能性が高い、と申し上げねばなりません」
凪の声は、静かだった。しかし広間の全員が、その言葉を聞いていた。
利三が、口を開こうとした。
「無礼な——」
しかし光秀が、また手で制した。
光秀は、長い間、目を閉じていた。
どれほどの時間が経ったか、凪には分からなかった。
やがて、光秀は目を開けた。
「軍議は、明朝まで延期する」と彼は言った。
重臣たちは、動揺した。しかし光秀の決断には、逆らえなかった。
彼らは、一人ずつ広間を去っていった。利三が最後に、凪を鋭く睨みながら去った。
広間には、光秀と凪だけが残った。

八章 夜明け前
 その夜、光秀は凪を、亀山城の天守の下に呼んだ。
 まだ完成していない天守の、基礎の部分。石垣の上に立つと、丹波の夜景が一望できた。灯火は少なく、大部分が闇に沈んでいた。
「拙者に、明確な目的はない。信長様の代わりに天下を治めたいのか、家臣たちを守りたいのか、それすらも……」
光秀は星を見上げた。その横顔には、引き裂かれるような迷いがあった。
凪が「生きて、あなたの物語を語ってください」と告げ、光秀が「答えは夜明けに出す」と言い残して天守を降りたのは、そのすぐ後のことだった。
 しかし、試練はそこからだった。
 天守の階段を下りた光秀を待っていたのは、暗がりに佇む斎藤利三であった。その手には、既にいつでも出陣できるだけの具足が握られている。
「殿」
利三の声は地を走るように低く、そして重かった。
「先ほどの未来人の言葉、拙者も盗み聞きいたしました。……なればこそ、申し上げます。行くべきにございます」
「利三」
「あやつは『生きていれば道は開ける』と綺麗事を申した! だが、信長公の恐ろしさを知らぬ者の妄言にございます! 丹羽長秀殿が、佐久間信盛殿が、追放されたあとどうなったか! 誇りを奪われ、這いつくばって死んだ。殿が同じ目に遭うて、生きて連歌など詠んでおられるとお思いか!」
利三は一歩、光秀ににじり寄った。その目は血走っている。
「殿だけの御身ではない。我ら明智の家臣、その家族、数千の命が殿の双肩にかかっているのです。ここで退けば、疑心暗鬼の信長公のこと、遅かれ早かれ我らは族滅の憂き目に遭いましょう。……三日天下、上等ではございませぬか! 泥の中でなぶり殺されるくらいなら、天下を震撼させ、武士として華々しく散るべきだ!」
「利三、お主は……拙者に死ねと言うか」
「生きるために、殺すのです!」
利三は床に膝を突き、激しく畳を叩いた。
「行ってくだされ。これは我ら『現実』を生きる地獄の者の、総意にございます!」
利三を下がらせたあと、光秀は一人、深夜の書斎で文机にしがみついていた。
脳裏に、津波のように記憶が押し寄せる。
——折檻された痛みが蘇る。大勢の面前で足蹴にされ、領地を召し上げると脅された恐怖。あの男は魔王だ。討たねば殺される。
だが、同時に蘇る記憶があった。
まだ美濃の牢人だった自分を、これほどの重臣に引き立ててくれたのは誰だったか。
『光秀、お前の才だけが、この儂の見た夢に追いついてくる』
本能寺の茶会で、信長がふと見せた、子供のような無邪気な笑顔。自分を誰よりも評価し、誰よりも酷使し、誰よりも愛してくれた主君。
(憎い。……だが、恋しい。儂はあの男を殺したいのか、それとも、あの男のいない世界が寂しいだけなのか)
光秀は吐血せんばかりの息を吐き、頭を抱えて夜の闇に咽び泣いた。
家臣たちの命。信長への恩仇。未来人の問い。
あらゆる濁流が光秀の中で渦巻き、夜明けの光が、刻一刻と迫っていた。

九章 夜明けの決断
 凪は、その夜も眠れなかった。
 夜明け前、彼は自室で正座していた。窓の外は、まだ暗かった。しかし東の空が、微かに白み始めていた。
足音が、廊下から近づいてきた。一つではない。二つの足音だ。
襖が開いた。
光秀が立っていた。そしてその後ろには、悔しさに顔を歪め、涙を流しながらも、刀を鞘に収めた斎藤利三が控えていた。
光秀の顔は、死人のように憔悴していた。だが、その目には、全ての地獄を飲み込んだような、澄んだ光があった。
「榊原よ」と光秀は静かに言った。
「はい」
「拙者は、行かぬ」
凪は、息を呑んだ。
「本能寺への出兵は、取りやめる。中国出兵は、予定通り行う。……利三とは、夜通し話した。我が首一つで家臣一同の助命が叶うよう、信長様への釈明の書状も、既に認めた」
後ろで、利三が「ううむ」と声を漏らして男泣きに暮れている。利三は最後まで「行くべきだ」と叫び続けたのだろう。しかし光秀は、家臣を道連れにする「破滅の華」ではなく、汚名を一身に背負う「生苦」を選んだのだ。利三の涙は、主君の決断のあまりの重さに対する、畏怖と悲痛の現れだった。
「そなたのおかげじゃ」と光秀は言った。
「いいえ」と凪は答えた。声が震えた。「あなたご自身の、あまりにも重い決断です」
「拙者は、いずれ信長様に殺されるかもしれぬ。だが、主君を討つことによって、己の心を裏切ることは、選ばぬ。生きるぞ、榊原。死ぬまで、生きる」
光秀は、深く頭を下げた。利三もまた、床に額を擦り付けた。
凪の視界が、涙で滲んでいく。
「行け。そなたの時代へ」
その声を最後に、世界が大きく揺らいだ。

エピローグ もう一つの歴史
 気がつくと、凪は自分のマンションの床に倒れていた。
 夏の夜の湿気が、まだ残っていた。パソコンの画面は、書きかけの原稿を映していた。
凪は、しばらく動けなかった。
やがて、彼は起き上がり、パソコンの前に座った。書きかけの社会批評の原稿を、全て消去した。
そして、新しいファイルを開き、猛然とキーボードを叩き始めた。

 数ヶ月後。
 凪の部屋の机の上には、刷り上がったばかりの一冊の小説本があった。
表紙には、彼が付けたタイトルが踊っている。
彼はそれを本屋に確認しに行くこともしなかった。世間の評価も、歴史の整合性も、今の彼にはどうでもよかった。ただ、あの夜明けに、確かに一つの巨大な意思が、地獄のような現実の中で「生きる」ことを選んだのだという事実を、言葉にして残したかった。それだけだった。
凪は窓を開けた。
東京の夏の夕暮れ。ビル群の向こうに、四百年前と変わらぬ月が昇り始めている。
彼はパソコンの画面をそっと見つめた。そこには、彼が魂を削って書き上げた、物語の最後の一文が残されていた。

『天正十年六月二日、本能寺の朝空はどこまでも青かった。謀反人の汚名からも、天下人という虚妄からも解放された男は、ただ一振りの筆を携え、自らの物語を生きるために、静かに歩みを進めたのである。』

風が吹いた。松の匂いは、もうしなかった。
しかし凪の胸の奥には、あの玉響の揺らぎが、確かな温もりとして残り続けていた。

——了——


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【作者注】
 本作は本能寺の変を題材としたフィクションです。明智光秀、斎藤利三、明智秀満などは実在の歴史人物ですが、物語の展開は著者の創作によるものです。実際の本能寺の変(天正十年、一五八二年六月二日)では、光秀は信長を討ち、十一日後の山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、逃走中に命を落としました。この小説は、前作『慶安転生記』と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
 そして、玉響(たまゆら)は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。