玉響転生記
〜明智光秀と時をこえた男〜
まえがき
前作『慶安転生記』を書き終えたあと、私はしばらくの間、榊原凪という男のことを考えていました。
彼は江戸から現代へ帰ってきた。日常に戻った。しかし——本当に、それで終わりだったのでしょうか。
玉響(たまゆら)。魂の微かな揺らぎ。
一度その揺らぎに触れた者は、二度目の揺らぎを、無意識のうちに待つのかもしれません。
「もし、あの時に戻れるなら」という願いは、一度叶えられれば消えるものではなく、むしろ深く根を張っていくのかもしれない。
これは、由井正雪との旅から数年後の、榊原凪の物語です。
そして、日本史上もっとも饒舌に語られ、もっとも真意を問われ続けてきた男——明智光秀の物語でもあります。
プロローグ 夜半の来訪
東京の夏の夜は、湿った風が吹いていた。
榊原凪は、四十七歳になっていた。
慶安の江戸から戻って、五年が経っていた。あのタイムトラベルの経験を、彼は誰にも話さなかった。話しても信じられないだろうし、話す必要も感じなかった。
ただ、生き方は変わった。
彼はITエンジニアの仕事を続けながら、夜な夜な文章を書くようになった。ブログ、雑誌への寄稿、やがて一冊の本。『声なき者たちの江戸』というタイトルだった。牢人問題を切り口に、現代社会の非正規労働者や社会的孤立の問題を論じたその本は、静かに、しかし確実に読者を得ていた。
彼は「言葉を持つ者」として、慎ましく生きていた。
その夜、凪は原稿を書きあぐねていた。次の本のテーマが、まだ定まらない。
窓の外で、風が松の木を揺らしていた。
——松?
凪は顔を上げた。彼のマンションのベランダに、松の木などない。しかし確かに、松の葉が擦れ合う音がした。乾いた、微かな音。
そして、匂いがした。
煙のにおい。土のにおい。人の汗と、動物の——。
凪は動けなかった。
振り返ると、部屋の真ん中に、男が立っていた。
着物姿。しかし正雪ではない。正雪よりも年齢は上、五十前後だろうか。顔立ちは整っているが、疲労の影が深く刻まれている。目には、鋭さと同時に、底知れぬ悲しみがあった。
男は静かに口を開いた。
「夜分に、失礼つかまつる」
声は、穏やかだった。
「……どなたですか」
凪は自分の声が、震えていることに気づいた。
男は少し首を傾げ、それから小さく笑った。自嘲するような、疲れた笑みだった。
「拙者の名を申せば、そなたは驚くであろう。あるいは、既に察しておるかもしれぬが」
「まさか」と凪は言った。「まさか、あなたは——」
「日向守。明智光秀と申す」
凪の呼吸が、止まった。
明智光秀。天正十年六月二日、本能寺にて主君・織田信長を討った男。そして、十一日後の山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、落ち武者狩りに遭って命を落としたとされる男。日本史上、もっとも有名な「謀反人」。
しかし同時に、その動機が四百年以上議論され続けている、謎の多い人物。
「なぜ……ここに」
「知らぬ」と光秀は静かに答えた。「気づけば、この奇妙な部屋にいた。そなたが、由井殿を助けた男か」
凪は、頷くことができなかった。
光秀は部屋の中を見渡した。パソコンの画面、電灯、本棚。異物に囲まれても、彼の表情は動かなかった。ただ、静かに観察していた。
「奇妙な世じゃ」と光秀は呟いた。「しかし人の顔は、変わらぬな」
凪は、ようやく口を開いた。
「あなたも……夢の中で、私に会いに来られるのですか」
「これは夢ではないと思うておる」と光秀は言った。「しかし、拙者にも仔細は分からぬ。ただ、時が迫っておることだけは分かる」
「時、とは」
光秀は、凪の目をまっすぐに見た。
「天正十年、五月末。拙者は間もなく、主君を討つ決断を下す。あるいは、下したところじゃ。時の流れが、乱れておる」
凪の背筋が、冷たくなった。
「あなたは……止めてほしいのですか。本能寺を」
光秀は、しばらく答えなかった。
風が、また松の葉を揺らした。しかし部屋の中には、松などない。
「分からぬのだ」と光秀はやがて言った。「それが、拙者が来た理由やもしれぬ。分からぬから、確かめに来た」
彼は一歩、凪に近づいた。
「そなたに、頼みがある。共に、丹波亀山まで来てはくれぬか」
「丹波……」
「拙者の居城じゃ。そこで、拙者は決断する。その決断を、そなたに見届けてほしい。そして、必要とあらば——」
光秀は言葉を切った。
「止めてほしい、と?」
「いや」と光秀は首を振った。「止めてほしいのではない。問いかけてほしい。拙者が己自身に問えぬことを、そなたに問うてほしい」
凪は、答えられなかった。
光秀は、静かに頭を下げた。
「一夜、考えてくれ。返答は、明朝で良い」
そして、彼の姿は、風のように消えた。
部屋には、松の匂いだけが、微かに残っていた。
一章 二度目の揺らぎ
その夜、凪は眠れなかった。
パソコンの画面には、書きかけの原稿が残っていた。しかし彼は、それを見ることができなかった。
明智光秀。
由井正雪のときとは、根本的に何かが違う気がした。
正雪の場合、歴史は「失敗した反乱」だった。凪は、その失敗を「別の形」へと導いた。牢人問題という、抽象的だが救うべき対象があった。
しかし光秀の場合はどうか。
本能寺の変。日本史上、もっとも巨大な「if」の分岐点。もし信長が本能寺で死ななければ、日本の統一はもっと早く進んだかもしれない。あるいは、遅れたかもしれない。切支丹の禁圧はなかったかもしれない。江戸幕府は生まれなかったかもしれない。
変数が、多すぎる。
And——光秀を止めるとは、どういうことか。
信長を生かすことは、正しいのか。
凪はコーヒーを淹れた。窓の外は、まだ夜だった。都市の光が、遠くに滲んでいた。
彼は、正雪との別れ際の言葉を思い出していた。
「少しずつ、か。それで良いのかもしれない」
あのときの凪は、大きな歴史を変えたのではない。ただ一人の男を、生かした。一枚の嘆願書を、届けた。それだけだった。
光秀の場合も、同じ考え方でいけるだろうか。
彼は歴史全体を変える必要はない。ただ一人の男の、内側の何かに触れれば良いのかもしれない。
朝が来た。
凪は、窓を開けた。夏の湿った風が入ってきた。
そして、彼は言った。
「行きます」
誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。
しかしその瞬間、部屋の空気が、微かに震えた。
玉響。
風が吹いた。松の匂いがした。世界が揺れた。
凪は、目を閉じた。
二章 丹波の里
気がつくと、凪は山道に立っていた。
空気が、冷たかった。夏の朝ではなかった。おそらく、春の終わりか初夏の始まり。天正十年、五月末なら、その時期のはずだ。
周囲は深い山。針葉樹と広葉樹が入り混じる、豊かな森。
凪は、自分の服装を確認した。今回は最初から、着物姿だった。腰には脇差もあった。前回の教訓が、彼の意識のどこかに反映されていたのか、あるいは玉響が最適化してくれたのか。
道を、下っていった。
半刻ほど歩くと、集落が見えた。丹波の農村。田んぼでは、農民たちが働いていた。田を耕す季節だった。
凪は、道端の農民に声をかけた。
「もし、ここは丹波亀山の近くでござろうか」
「ああ、亀山なら、この道をずっと下って、川沿いに行けば見えてくる」と農民は答えた。「侍様、旅の方か」
「はい。日向守様に、お目通り願いたく」
農民の表情が、微かに緊張した。
「殿は今、忙しゅうしておられる。目通りは難しかろう」
「日向守様のお指図で参った者です。到着したと告げていただければ、通じるはずです」
凪は、そう告げた。それが真実であることを、彼は確信していた。
農民に礼を言い、彼は再び歩き始めた。
丹波の景色は、美しかった。慶安の江戸とは違う、より原初的な、より人の手が入っていない自然。しかし同時に、その中に確実に人の営みがあった。田を耕し、水を引き、木を切り、家を建てる人々。
凪は、彼らを見ながら思った。
この人々の運命が、あと数日で大きく変わる。
本能寺の変、そして山崎の合戦。丹波は光秀の領地であり、彼が敗れれば、この土地は羽柴秀吉のものとなる。農民たちには、直接には関係ないかもしれない。しかし、確実に、何かが変わる。
歴史は、農民の顔をしていない。
しかし歴史は、農民の暮らしを揺さぶる。
亀山城が見えてきたのは、昼過ぎだった。
小高い山の上に築かれた、堅牢な城。天守はまだ完成していなかったが、石垣と櫓が威容を示していた。
凪は、城下の茶屋に入った。そこで待てば、光秀からの使いが来るはずだった。
実際、彼は待つことになった。
三時間ほど、茶屋に座り続けた。
夕暮れが近づいた頃、一人の若い武士が茶屋に入ってきた。彼は凪を見て、小さく頷いた。
「榊原殿でござるか」
「はい」
「殿がお待ちです。お連れいたします」
凪は、静かに立ち上がった。
三章 光秀の座敷
光秀の私室は、質素だった。
城主の部屋にしては、装飾が少ない。畳の上に、文机、筆、そして数冊の書物。壁には掛け軸が一つ、それも書だった。「静処養神」——静かな場所で、精神を養う。
光秀は、文机に向かっていた。凪が案内されて入ると、彼は筆を置き、ゆっくりと振り返った。
「よう来た」と彼は言った。「まことに、来てくれたか」
「参りました」と凪は答え、正座した。
光秀は、凪の顔を長く見つめた。
「奇妙なものじゃな。夢とも現ともつかぬ場所で会うた者と、こうして向かい合うておる」
「私も、同じことを思っています」
二人の間に、しばしの沈黙が落ちた。
女中が茶を運んできて、また去っていった。光秀は自分で茶碗を持ち上げ、一口飲んだ。凪もそれに倣った。抹茶ではなく、番茶に近い、素朴な味だった。
「時が」と光秀は口を開いた。「あと数日で、拙者は決断せねばならぬ」
「本能寺の、ことですね」
「うむ」
光秀は、静かに頷いた。
「そなたは、拙者がなぜ主君を討とうとしているか、知っておるか」
「……いいえ」と凪は正直に答えた。「未来の史書には、様々な説が書かれています。しかし、どれが真実かは、誰にも分かっていません」
「様々な説、とは」
「怨恨説。信長様に度々辱められた恨みからだ、と。野望説。天下を取ろうとしたのだ、と。黒幕説。朝廷、あるいは徳川家康、あるいは羽柴秀吉が背後にいた、と。四国政策説。長宗我部との関係が信長様に切り捨てられたことへの反発だ、と」
光秀は、微かに笑った。
「面白いのう。四百年経っても、拙者の心を測りかねておるか」
「はい」
「そなた自身は、どの説を信じておる」
凪は、少し考えた。
「私は、一つに決められません。おそらく、どれか一つだけが理由ではないのだと思います。人の決断とは、そういうものです。複数の理由が、重なり合い、絡み合い、そして一つの瞬間に、決断となる」
光秀は、深く頷いた。
「そなた、良いことを申す」
彼は、茶碗を置いた。
「拙者自身、己の心が分からぬのだ。信長様への恨みも、確かにある。あの御方の苛烈さは、家臣にとって重荷であった。しかし恨みだけで、主君を討つか。それだけの決断ができるか。分からぬ」
「野望はありますか」
「あるとも、ないとも言える」と光秀は答えた。「天下人になりたいと思うたことはある。しかし、それが本当に己の望みなのか、それとも周囲の期待に応えようとしているだけなのか、区別がつかぬ」
「周囲の期待、とは」
「拙者の家臣たちじゃ。斎藤利三をはじめ、多くの者が、拙者を天下人と見立てておる。彼らを裏切ることは、できぬ」
凪は、光秀の言葉を、静かに聞いていた。
「そして」と光秀は続けた。「時が、迫っておる。信長様は間もなく、中国攻めの支援に向かわれる。その途上、本能寺に少人数で滞在される。護衛はほとんどおらぬ。あのような機会は、二度と来ぬ」
「機会があるから、動く、と」
「否、と言い切れぬ己が、恐ろしい」
光秀の声が、初めて微かに震えた。
凪は、しばらく黙っていた。
And、口を開いた。
「日向守様。一つ、伺ってもよろしいですか」
「なんじゃ」
「あなたは、信長様を、討ちたいのですか」
光秀の目が、凪を見た。
その目には、答えがなかった。あるいは、あまりにも多くの答えがあった。
四章 問いの重さ
その夜、凪は城内の一室に泊まった。
布団に横たわっても、眠れなかった。
彼は、天井を見つめていた。木の梁が、月明かりに照らされて、静かに光っていた。
光秀の目を、思い出していた。
あの目には、迷いがあった。決断を下しかけている男の、最後の迷い。しかしその迷いは、外部からの説得では取り除けないもののように見えた。
凪は、正雪のときのことを思い出していた。
正雪の場合、彼には明確な「代案」を示すことができた。武力ではなく、言葉で。挙兵ではなく、嘆願書で。
しかし光秀の場合は、どうか。
信長を討たない、という選択肢は、光秀にとって「代案」たり得るのか。
もし討たなければ、光秀はどうなるか。信長の家臣として、そのまま生きるのか。しかし彼は、信長の苛烈さに耐えかねていた。近いうちに、彼は追放されるか、あるいは自ら身を退くか、そのどちらかを選ばざるを得なかったかもしれない。
いや、それだけではない。
光秀は、自分の中の「討ちたい」という気持ちと、向かい合わなければばならなかった。恨み、野望、家臣たちへの責任——それらが混ざり合った、複雑な感情。
凪は、身を起こした。
自分は、何をするためにここに来たのか。
光秀は言った。「止めてほしいのではない。問いかけてほしい」と。
凪は、その意味を考え続けた。
問う、とは何か。
正雪のときは、凪は「代案」を提示した。それは、ある意味で答えを与えることだった。
しかし光秀には、答えを与えることはできない。彼の決断は、彼自身の内部からしか生まれない。
できることは、問いを立てることだけ。正しい問いを、正しい時に、光秀の前に置くこと。
凪は、また横になった。
窓の外で、鳥が鳴いた。夜明けが、近かった。
五章 二度目の対話
翌朝、凪は再び光秀の私室に呼ばれた。
光秀は、既に文机の前に座っていた。しかし今日は筆を持たず、ただ、庭を眺めていた。
庭には、小さな池があった。鯉が泳ぎ、その周りに石が配され、松と紅葉が植えられていた。
凪が正座すると、光秀は振り返らずに口を開いた。
「昨夜、そなたは拙者に問うた。『討ちたいのか』と。あの問いを、拙者は一晩、考え続けた」
「……はい」
「答えは、出ておらぬ」と光秀は言った。「しかし、別のことは分かった」
「別のこと、とは」
「拙者が本当に恐れておるのは、討ったあとのことじゃ」
光秀は、ようやく振り返った。
「主君を討った男は、どうなる。天下を取れば良し。しかし取れなんだら、拙者はただの謀反人となる。歴史に、汚名として残る」
「……はい」
「そなたは知っておるのじゃろう」と光秀は言った。「拙者は、天下を取れたのか」
凪は、深呼吸をした。
これは、避けて通れない問いだった。
「日向守様」と凪は静かに言った。「未来の歴史では、あなたは本能寺で信長様を討ちます。しかし十一日後、羽柴秀吉様との山崎の合戦で敗れます。逃走中に、落ち武者狩りに遭って、命を落とされます」
光秀の表情は、動かなかった。
「十一日、か」
「はい」
「拙者は、秀吉を舐めておったのか」
「秀吉様の中国大返しは、後世『神業』と呼ばれます。誰も予想できないほどの速さで、彼は毛利との和睦を成立させ、本隊を京へ返します」
「うむ」と光秀は頷いた。「奴なら、あり得るな」
彼は、また庭を見た。
「そして、拙者の名は、歴史にどう記されておる」
「三日天下」と凪は正直に答えた。「あるいは、日本史上最大の謀反人、と」
沈黙。
鯉が水面を跳ねた。ぽちゃん、と小さな音がした。
「三日天下、か」と光秀は繰り返した。「短いのう」
彼は、微かに笑った。それは自嘲というより、むしろ悟りに近い笑みだった。
「日向守様」と凪は言った。「未来では、あなたの動機は謎とされています。しかしあなたのことを、単純な悪人と見なす者は、少なくなってきています。むしろ、教養のある文化人として、そして、複雑な事情を抱えた悲劇の人物として、多くの者が興味を持っています」
「……ほう」
「連歌にも、茶の湯にも造詣が深く、家臣にも領民にも慕われた武将であった、と」
光秀は、しばらく無言だった。
「そなたが未来から来た者だと、拙者はもはや疑わぬ」と彼はやがて言った。「そなたの目には、拙者への同情があるが、それは軽蔑ではない。真の同情じゃ」
「はい」
「では、教えてくれ。拙者が本能寺を襲わなかったら、どうなる」
凪は、答えを持っていなかった。
しかし、こう答えた。
「分かりません。しかし、一つだけ確かなことがあります」
「なんじゃ」
「あなたが襲わなかったとしても、いずれ誰かが信長様を討ったかもしれない。あるいは、信長様は天寿を全うされたかもしれない。それは、誰にも分かりません」
「うむ」
「ただ、あなたが襲わなければ、あなたは『三日天下の謀反人』とは呼ばれない。それは、確かです」
光秀は、深く頷いた。
「そなたは、正雪殿に、何と言うた?」
「『生きて訴え続けることが、最大の武士道だ』と」
光秀は、また笑った。今度は、少し声が漏れた。
「良き言葉じゃな」
「はい」
「しかし、拙者には当てはまらぬかもしれぬ」
「なぜです」
「拙者には、訴えるべき『大義』が、明確ではないからじゃ。牢人を救う、という正雪殿のような、明確なものがない。ただ、恨みと、疲れと、家臣への責任と、そして……」
光秀は、言葉を切った。
「底は?」
「信長様への、複雑な思いじゃ」
彼は、遠くを見た。
「あの御方は、時に恐ろしく、時に驚くほど寛大であった。憎いと思うと同時に、慕わしいとも思う。討ちたいと思うと同時に、討たれる姿を見たくないとも思う。人の心とは、こうも矛盾するものかと、拙者自身、呆れておる」
凪は、その言葉に、深く胸を打たれた。
これが、明智光秀の真実なのかもしれない、と彼は思った。歴史書には書かれない、人間の複雑さ。
「日向守様」と凪は言った。「あなたが決断されるまで、私はここにおります。もし、あなたが問いを必要とするなら、私は問い続けます」
「うむ、頼む」
光秀は、深く頭を下げた。
それは、主君が家臣に対してする所作ではなかった。一人の人間が、もう一人の人間に対する、深い礼だった。
六章 斎藤利三
凪が城に滞在して三日目の夕方、彼は思わぬ人物と対峙することになった。
斎藤利三。
光秀の重臣であり、腹心。四国の長宗我部氏との縁が深く、信長が長宗我部を討とうとしたことに、強い反発を抱いていたとされる人物。
利三は、凪の部屋を訪ねてきた。前触れもなく、静かに。
「榊原殿と申されるか」と彼は言った。「殿より聞き及んでおる。お目通りしたく参った」
凪は、緊張した。
利三の目は、光秀とはまた違う鋭さを持っていた。武人の目。実戦を潜り抜けてきた者の目。
「斎藤様、何用でしょうか」
「そなたは、殿を惑わせておる」と利三は率直に言った。「事は既に動いておる。今、殿の心を揺らすことは、我らにとって命取りになる」
「私は、殿を惑わせているのではありません」
「では、何をしておる」
「問いかけているだけです」
利三は、鋭く凪を見つめた。
「その問いが、殿を惑わせておるのじゃ。殿は元来、思慮深いお方。しかし今は、決断すべき時。思慮を深めるべき時ではない」
「なぜ、今が決断すべき時なのですか」
「機会があるからじゃ」と利三は言った。「信長公は間もなく、少人数で本能寺に入られる。あのような機会は、二度とない。それに——」
彼は、少し声を落とした。
「殿ご自身の御身も、危うい」
凪の耳が、鋭くなった。
「危うい、とは」
「信長公は、家臣を使い捨てにされる。丹羽長秀殿、佐久間信盛殿、林秀貞殿——皆、追放された。次は殿かもしれぬ、との噂もある」
「その噂は、確かなのですか」
「確かではない」と利三は正直に答えた。「しかし、あり得る話じゃ。殿が動かねば、殿は追放されるかもしれぬ。追放されれば、我ら家臣も路頭に迷う」
凪は、頷いた。
これが、光秀を動かしているもう一つの力なのだ。家臣たちの生活。彼らへの責任。信長の下では、いつ何が起きるか分からない。ならば、動くべき時に動くべきだ、という論理。
「斎藤様」と凪は言った。「一つ伺います。もし殿が信長様を討たなかったら、あなたはどうしますか」
利三は、しばらく黙った。
「拙者は、殿に従う。それだけじゃ」
「殿の決断に、従うのですね」
「うむ」
「しかし今、あなたは殿を動かしようとしている。殿の決断ではなく、あなたの判断で」
利三の表情が、微かに動いた。
「拙者は、殿の御為を思うておる」
「私も、殿の御為を思うています。ただ、私は殿ご自身の中から決断が生まれることを、望んでいます」
利三は、長い間、凪を見つめた。
「そなた、奇妙な男じゃ」と彼はやがて言った。「殿がなぜそなたを近くに置くのか、分かる気がしてきた」
彼は、立ち上がった。
「明日、殿は最終の軍議を開かれる。そなたも、同席することになるやもしれぬ。心してかかれ」
そして、彼は部屋を去った。
凪は、しばらく座り続けた。
軍議。
史実では、この軍議で光秀は本能寺への出兵を決定する。
凪は、そこに立ち会うことになる。
彼は、何を言えば良いのか。何を問えば良いのか。
窓の外で、夕日が沈もうとしていた。丹波の山々が、赤く染まっていた。
七章 軍議
軍議は、亀山城の広間で開かれた。
光秀、斎藤利三、明智秀満、藤田伝五、そのほか主だった重臣が数名。凪は末席に、書記のような形で控えることを許された。
軍議の議題は、表向きは「中国出兵の準備」であった。信長の命により、光秀の軍は羽柴秀吉の中国攻めを支援するため、備中に向かうことになっていた。
しかし議論が進むにつれ、話は徐々に別の方向へと流れていった。
「殿」と斎藤利三が口を開いた。「中国出兵の道筋は、本能寺の近くを通ります。信長公は間もなく、上洛の予定と伺っております」
「うむ」
「本能寺には、信長公の護衛は少ない、との情報もございます」
広間の空気が、一気に緊張した。
光秀は、無言のまま、目を閉じた。
誰も、次の言葉を発しなかった。
凪は、その沈黙の中で、心臓の鼓動を聞いていた。
やがて、光秀が目を開けた。
「利三」と彼は静かに言った。「そなたの申しておることは、拙者を主殺しに導く言葉じゃな」
利三は、一瞬たじろいだ。しかし、退かなかった。
「殿、機は今しかございませぬ」
「機は、いつでも来る」と光秀は言った。「問題は、その機を掴むべきか否かじゃ」
彼は、広間を見渡した。
「皆に問う。拙者が主君を討つこと、真に正しいと思うか」
重臣たちは、沈黙した。
凪は、末席から見ていた。彼らの顔には、様々な感情が浮かんでいた。決意、迷い、恐怖、そして——期待。
最初に口を開いたのは、明智秀満だった。光秀の娘婿でもある、若い将。
「殿の御意のままに」
次に、藤田伝五。
「拙者も、殿に従いまする」
利三が、続けた。
「殿、時は待ってくれませぬ」
光秀は、彼らを見た。そして、末席の凪に、視線を向けた。
「榊原よ」と彼は言った。「そなたも、意見を申せ」
広間の全員が、凪を見た。
凪は、深呼吸をした。
彼は、立場を持たない。この時代の人間ではない。しかし、光秀は彼に問うている。
そして、これが最後の機会だった。
凪は、口を開いた。
「日向守様。恐れながら、申し上げます」
「うむ」
「私は、殿を止めるつもりはございません。しかし、一つだけ、問いを立てさせていただきたい」
「申せ」
凪は、光秀の目を見た。
「殿は、信長様を討たれたあと、どのような世を作られたいのですか」
広間が、静まり返った。
利三が、口を挟もうとした。しかし光秀が、手で制した。
「続けよ」と光秀は言った。
「正雪殿には、明確な目的がありました。牢人を救うこと。それがあったからこそ、彼の名は歴史に、悲劇の英雄として残った。しかし殿——」
凪は、言葉を選びながら続けた。
「殿の目的は、何でしょうか。信長様の代わりに、天下を治めることでしょうか。それとも、信長様の苛烈な政策を、より穏やかなものに変えることでしょうか。あるいは、家臣たちを守ることでしょうか」
光秀は、答えなかった。
「殿が明確な目的を持っておられるなら、私は何も申し上げません。しかしもし、目的が定まっておられぬまま動かれるなら——それは、悲劇に終わる可能性が高い、と申し上げねばなりません」
凪の声は、静かだった。しかし広間の全員が、その言葉を聞いていた。
利三が、口を開こうとした。
「無礼な——」
しかし光秀が、また手で制した。
光秀は、長い間、目を閉じていた。
どれほどの時間が経ったか、凪には分からなかった。
やがて、光秀は目を開けた。
「軍議は、明朝まで延期する」と彼は言った。
重臣たちは、動揺した。しかし光秀の決断には、逆らえなかった。
彼らは、一人ずつ広間を去っていった。利三が最後に、凪を鋭く睨みながら去った。
広間には、光秀と凪だけが残った。
八章 夜明け前
その夜、光秀は凪を、亀山城の天守の下に呼んだ。
まだ完成していない天守の、基礎の部分。石垣の上に立つと、丹波の夜景が一望できた。灯火は少なく、大部分が闇に沈んでいた。
「拙者に、明確な目的はない。信長様の代わりに天下を治めたいのか、家臣たちを守りたいのか、それすらも……」
光秀は星を見上げた。その横顔には、引き裂かれるような迷いがあった。
凪が「生きて、あなたの物語を語ってください」と告げ、光秀が「答えは夜明けに出す」と言い残して天守を降りたのは、そのすぐ後のことだった。
しかし、試練はそこからだった。
天守の階段を下りた光秀を待っていたのは、暗がりに佇む斎藤利三であった。その手には、既にいつでも出陣できるだけの具足が握られている。
「殿」
利三の声は地を走るように低く、そして重かった。
「先ほどの未来人の言葉、拙者も盗み聞きいたしました。……なればこそ、申し上げます。行くべきにございます」
「利三」
「あやつは『生きていれば道は開ける』と綺麗事を申した! だが、信長公の恐ろしさを知らぬ者の妄言にございます! 丹羽長秀殿が、佐久間信盛殿が、追放されたあとどうなったか! 誇りを奪われ、這いつくばって死んだ。殿が同じ目に遭うて、生きて連歌など詠んでおられるとお思いか!」
利三は一歩、光秀ににじり寄った。その目は血走っている。
「殿だけの御身ではない。我ら明智の家臣、その家族、数千の命が殿の双肩にかかっているのです。ここで退けば、疑心暗鬼の信長公のこと、遅かれ早かれ我らは族滅の憂き目に遭いましょう。……三日天下、上等ではございませぬか! 泥の中でなぶり殺されるくらいなら、天下を震撼させ、武士として華々しく散るべきだ!」
「利三、お主は……拙者に死ねと言うか」
「生きるために、殺すのです!」
利三は床に膝を突き、激しく畳を叩いた。
「行ってくだされ。これは我ら『現実』を生きる地獄の者の、総意にございます!」
利三を下がらせたあと、光秀は一人、深夜の書斎で文机にしがみついていた。
脳裏に、津波のように記憶が押し寄せる。
——折檻された痛みが蘇る。大勢の面前で足蹴にされ、領地を召し上げると脅された恐怖。あの男は魔王だ。討たねば殺される。
だが、同時に蘇る記憶があった。
まだ美濃の牢人だった自分を、これほどの重臣に引き立ててくれたのは誰だったか。
『光秀、お前の才だけが、この儂の見た夢に追いついてくる』
本能寺の茶会で、信長がふと見せた、子供のような無邪気な笑顔。自分を誰よりも評価し、誰よりも酷使し、誰よりも愛してくれた主君。
(憎い。……だが、恋しい。儂はあの男を殺したいのか、それとも、あの男のいない世界が寂しいだけなのか)
光秀は吐血せんばかりの息を吐き、頭を抱えて夜の闇に咽び泣いた。
家臣たちの命。信長への恩仇。未来人の問い。
あらゆる濁流が光秀の中で渦巻き、夜明けの光が、刻一刻と迫っていた。
九章 夜明けの決断
凪は、その夜も眠れなかった。
夜明け前、彼は自室で正座していた。窓の外は、まだ暗かった。しかし東の空が、微かに白み始めていた。
足音が、廊下から近づいてきた。一つではない。二つの足音だ。
襖が開いた。
光秀が立っていた。そしてその後ろには、悔しさに顔を歪め、涙を流しながらも、刀を鞘に収めた斎藤利三が控えていた。
光秀の顔は、死人のように憔悴していた。だが、その目には、全ての地獄を飲み込んだような、澄んだ光があった。
「榊原よ」と光秀は静かに言った。
「はい」
「拙者は、行かぬ」
凪は、息を呑んだ。
「本能寺への出兵は、取りやめる。中国出兵は、予定通り行う。……利三とは、夜通し話した。我が首一つで家臣一同の助命が叶うよう、信長様への釈明の書状も、既に認めた」
後ろで、利三が「ううむ」と声を漏らして男泣きに暮れている。利三は最後まで「行くべきだ」と叫び続けたのだろう。しかし光秀は、家臣を道連れにする「破滅の華」ではなく、汚名を一身に背負う「生苦」を選んだのだ。利三の涙は、主君の決断のあまりの重さに対する、畏怖と悲痛の現れだった。
「そなたのおかげじゃ」と光秀は言った。
「いいえ」と凪は答えた。声が震えた。「あなたご自身の、あまりにも重い決断です」
「拙者は、いずれ信長様に殺されるかもしれぬ。だが、主君を討つことによって、己の心を裏切ることは、選ばぬ。生きるぞ、榊原。死ぬまで、生きる」
光秀は、深く頭を下げた。利三もまた、床に額を擦り付けた。
凪の視界が、涙で滲んでいく。
「行け。そなたの時代へ」
その声を最後に、世界が大きく揺らいだ。
エピローグ もう一つの歴史
気がつくと、凪は自分のマンションの床に倒れていた。
夏の夜の湿気が、まだ残っていた。パソコンの画面は、書きかけの原稿を映していた。
凪は、しばらく動けなかった。
やがて、彼は起き上がり、パソコンの前に座った。書きかけの社会批評の原稿を、全て消去した。
そして、新しいファイルを開き、猛然とキーボードを叩き始めた。
数ヶ月後。
凪の部屋の机の上には、刷り上がったばかりの一冊の小説本があった。
表紙には、彼が付けたタイトルが踊っている。
彼はそれを本屋に確認しに行くこともしなかった。世間の評価も、歴史の整合性も、今の彼にはどうでもよかった。ただ、あの夜明けに、確かに一つの巨大な意思が、地獄のような現実の中で「生きる」ことを選んだのだという事実を、言葉にして残したかった。それだけだった。
凪は窓を開けた。
東京の夏の夕暮れ。ビル群の向こうに、四百年前と変わらぬ月が昇り始めている。
彼はパソコンの画面をそっと見つめた。そこには、彼が魂を削って書き上げた、物語の最後の一文が残されていた。
『天正十年六月二日、本能寺の朝空はどこまでも青かった。謀反人の汚名からも、天下人という虚妄からも解放された男は、ただ一振りの筆を携え、自らの物語を生きるために、静かに歩みを進めたのである。』
風が吹いた。松の匂いは、もうしなかった。
しかし凪の胸の奥には、あの玉響の揺らぎが、確かな温もりとして残り続けていた。
——了——
【作者注】
本作は本能寺の変を題材としたフィクションです。明智光秀、斎藤利三、明智秀満などは実在の歴史人物ですが、物語の展開は著者の創作によるものです。実際の本能寺の変(天正十年、一五八二年六月二日)では、光秀は信長を討ち、十一日後の山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、逃走中に命を落としました。この小説は、前作『慶安転生記』と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響(たまゆら)は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。
まえがき
前作『慶安転生記』を書き終えたあと、私はしばらくの間、榊原凪という男のことを考えていました。
彼は江戸から現代へ帰ってきた。日常に戻った。しかし——本当に、それで終わりだったのでしょうか。
玉響(たまゆら)。魂の微かな揺らぎ。
一度その揺らぎに触れた者は、二度目の揺らぎを、無意識のうちに待つのかもしれません。
「もし、あの時に戻れるなら」という願いは、一度叶えられれば消えるものではなく、むしろ深く根を張っていくのかもしれない。
これは、由井正雪との旅から数年後の、榊原凪の物語です。
そして、日本史上もっとも饒舌に語られ、もっとも真意を問われ続けてきた男——明智光秀の物語でもあります。
プロローグ 夜半の来訪
東京の夏の夜は、湿った風が吹いていた。
榊原凪は、四十七歳になっていた。
慶安の江戸から戻って、五年が経っていた。あのタイムトラベルの経験を、彼は誰にも話さなかった。話しても信じられないだろうし、話す必要も感じなかった。
ただ、生き方は変わった。
彼はITエンジニアの仕事を続けながら、夜な夜な文章を書くようになった。ブログ、雑誌への寄稿、やがて一冊の本。『声なき者たちの江戸』というタイトルだった。牢人問題を切り口に、現代社会の非正規労働者や社会的孤立の問題を論じたその本は、静かに、しかし確実に読者を得ていた。
彼は「言葉を持つ者」として、慎ましく生きていた。
その夜、凪は原稿を書きあぐねていた。次の本のテーマが、まだ定まらない。
窓の外で、風が松の木を揺らしていた。
——松?
凪は顔を上げた。彼のマンションのベランダに、松の木などない。しかし確かに、松の葉が擦れ合う音がした。乾いた、微かな音。
そして、匂いがした。
煙のにおい。土のにおい。人の汗と、動物の——。
凪は動けなかった。
振り返ると、部屋の真ん中に、男が立っていた。
着物姿。しかし正雪ではない。正雪よりも年齢は上、五十前後だろうか。顔立ちは整っているが、疲労の影が深く刻まれている。目には、鋭さと同時に、底知れぬ悲しみがあった。
男は静かに口を開いた。
「夜分に、失礼つかまつる」
声は、穏やかだった。
「……どなたですか」
凪は自分の声が、震えていることに気づいた。
男は少し首を傾げ、それから小さく笑った。自嘲するような、疲れた笑みだった。
「拙者の名を申せば、そなたは驚くであろう。あるいは、既に察しておるかもしれぬが」
「まさか」と凪は言った。「まさか、あなたは——」
「日向守。明智光秀と申す」
凪の呼吸が、止まった。
明智光秀。天正十年六月二日、本能寺にて主君・織田信長を討った男。そして、十一日後の山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、落ち武者狩りに遭って命を落としたとされる男。日本史上、もっとも有名な「謀反人」。
しかし同時に、その動機が四百年以上議論され続けている、謎の多い人物。
「なぜ……ここに」
「知らぬ」と光秀は静かに答えた。「気づけば、この奇妙な部屋にいた。そなたが、由井殿を助けた男か」
凪は、頷くことができなかった。
光秀は部屋の中を見渡した。パソコンの画面、電灯、本棚。異物に囲まれても、彼の表情は動かなかった。ただ、静かに観察していた。
「奇妙な世じゃ」と光秀は呟いた。「しかし人の顔は、変わらぬな」
凪は、ようやく口を開いた。
「あなたも……夢の中で、私に会いに来られるのですか」
「これは夢ではないと思うておる」と光秀は言った。「しかし、拙者にも仔細は分からぬ。ただ、時が迫っておることだけは分かる」
「時、とは」
光秀は、凪の目をまっすぐに見た。
「天正十年、五月末。拙者は間もなく、主君を討つ決断を下す。あるいは、下したところじゃ。時の流れが、乱れておる」
凪の背筋が、冷たくなった。
「あなたは……止めてほしいのですか。本能寺を」
光秀は、しばらく答えなかった。
風が、また松の葉を揺らした。しかし部屋の中には、松などない。
「分からぬのだ」と光秀はやがて言った。「それが、拙者が来た理由やもしれぬ。分からぬから、確かめに来た」
彼は一歩、凪に近づいた。
「そなたに、頼みがある。共に、丹波亀山まで来てはくれぬか」
「丹波……」
「拙者の居城じゃ。そこで、拙者は決断する。その決断を、そなたに見届けてほしい。そして、必要とあらば——」
光秀は言葉を切った。
「止めてほしい、と?」
「いや」と光秀は首を振った。「止めてほしいのではない。問いかけてほしい。拙者が己自身に問えぬことを、そなたに問うてほしい」
凪は、答えられなかった。
光秀は、静かに頭を下げた。
「一夜、考えてくれ。返答は、明朝で良い」
そして、彼の姿は、風のように消えた。
部屋には、松の匂いだけが、微かに残っていた。
一章 二度目の揺らぎ
その夜、凪は眠れなかった。
パソコンの画面には、書きかけの原稿が残っていた。しかし彼は、それを見ることができなかった。
明智光秀。
由井正雪のときとは、根本的に何かが違う気がした。
正雪の場合、歴史は「失敗した反乱」だった。凪は、その失敗を「別の形」へと導いた。牢人問題という、抽象的だが救うべき対象があった。
しかし光秀の場合はどうか。
本能寺の変。日本史上、もっとも巨大な「if」の分岐点。もし信長が本能寺で死ななければ、日本の統一はもっと早く進んだかもしれない。あるいは、遅れたかもしれない。切支丹の禁圧はなかったかもしれない。江戸幕府は生まれなかったかもしれない。
変数が、多すぎる。
And——光秀を止めるとは、どういうことか。
信長を生かすことは、正しいのか。
凪はコーヒーを淹れた。窓の外は、まだ夜だった。都市の光が、遠くに滲んでいた。
彼は、正雪との別れ際の言葉を思い出していた。
「少しずつ、か。それで良いのかもしれない」
あのときの凪は、大きな歴史を変えたのではない。ただ一人の男を、生かした。一枚の嘆願書を、届けた。それだけだった。
光秀の場合も、同じ考え方でいけるだろうか。
彼は歴史全体を変える必要はない。ただ一人の男の、内側の何かに触れれば良いのかもしれない。
朝が来た。
凪は、窓を開けた。夏の湿った風が入ってきた。
そして、彼は言った。
「行きます」
誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。
しかしその瞬間、部屋の空気が、微かに震えた。
玉響。
風が吹いた。松の匂いがした。世界が揺れた。
凪は、目を閉じた。
二章 丹波の里
気がつくと、凪は山道に立っていた。
空気が、冷たかった。夏の朝ではなかった。おそらく、春の終わりか初夏の始まり。天正十年、五月末なら、その時期のはずだ。
周囲は深い山。針葉樹と広葉樹が入り混じる、豊かな森。
凪は、自分の服装を確認した。今回は最初から、着物姿だった。腰には脇差もあった。前回の教訓が、彼の意識のどこかに反映されていたのか、あるいは玉響が最適化してくれたのか。
道を、下っていった。
半刻ほど歩くと、集落が見えた。丹波の農村。田んぼでは、農民たちが働いていた。田を耕す季節だった。
凪は、道端の農民に声をかけた。
「もし、ここは丹波亀山の近くでござろうか」
「ああ、亀山なら、この道をずっと下って、川沿いに行けば見えてくる」と農民は答えた。「侍様、旅の方か」
「はい。日向守様に、お目通り願いたく」
農民の表情が、微かに緊張した。
「殿は今、忙しゅうしておられる。目通りは難しかろう」
「日向守様のお指図で参った者です。到着したと告げていただければ、通じるはずです」
凪は、そう告げた。それが真実であることを、彼は確信していた。
農民に礼を言い、彼は再び歩き始めた。
丹波の景色は、美しかった。慶安の江戸とは違う、より原初的な、より人の手が入っていない自然。しかし同時に、その中に確実に人の営みがあった。田を耕し、水を引き、木を切り、家を建てる人々。
凪は、彼らを見ながら思った。
この人々の運命が、あと数日で大きく変わる。
本能寺の変、そして山崎の合戦。丹波は光秀の領地であり、彼が敗れれば、この土地は羽柴秀吉のものとなる。農民たちには、直接には関係ないかもしれない。しかし、確実に、何かが変わる。
歴史は、農民の顔をしていない。
しかし歴史は、農民の暮らしを揺さぶる。
亀山城が見えてきたのは、昼過ぎだった。
小高い山の上に築かれた、堅牢な城。天守はまだ完成していなかったが、石垣と櫓が威容を示していた。
凪は、城下の茶屋に入った。そこで待てば、光秀からの使いが来るはずだった。
実際、彼は待つことになった。
三時間ほど、茶屋に座り続けた。
夕暮れが近づいた頃、一人の若い武士が茶屋に入ってきた。彼は凪を見て、小さく頷いた。
「榊原殿でござるか」
「はい」
「殿がお待ちです。お連れいたします」
凪は、静かに立ち上がった。
三章 光秀の座敷
光秀の私室は、質素だった。
城主の部屋にしては、装飾が少ない。畳の上に、文机、筆、そして数冊の書物。壁には掛け軸が一つ、それも書だった。「静処養神」——静かな場所で、精神を養う。
光秀は、文机に向かっていた。凪が案内されて入ると、彼は筆を置き、ゆっくりと振り返った。
「よう来た」と彼は言った。「まことに、来てくれたか」
「参りました」と凪は答え、正座した。
光秀は、凪の顔を長く見つめた。
「奇妙なものじゃな。夢とも現ともつかぬ場所で会うた者と、こうして向かい合うておる」
「私も、同じことを思っています」
二人の間に、しばしの沈黙が落ちた。
女中が茶を運んできて、また去っていった。光秀は自分で茶碗を持ち上げ、一口飲んだ。凪もそれに倣った。抹茶ではなく、番茶に近い、素朴な味だった。
「時が」と光秀は口を開いた。「あと数日で、拙者は決断せねばならぬ」
「本能寺の、ことですね」
「うむ」
光秀は、静かに頷いた。
「そなたは、拙者がなぜ主君を討とうとしているか、知っておるか」
「……いいえ」と凪は正直に答えた。「未来の史書には、様々な説が書かれています。しかし、どれが真実かは、誰にも分かっていません」
「様々な説、とは」
「怨恨説。信長様に度々辱められた恨みからだ、と。野望説。天下を取ろうとしたのだ、と。黒幕説。朝廷、あるいは徳川家康、あるいは羽柴秀吉が背後にいた、と。四国政策説。長宗我部との関係が信長様に切り捨てられたことへの反発だ、と」
光秀は、微かに笑った。
「面白いのう。四百年経っても、拙者の心を測りかねておるか」
「はい」
「そなた自身は、どの説を信じておる」
凪は、少し考えた。
「私は、一つに決められません。おそらく、どれか一つだけが理由ではないのだと思います。人の決断とは、そういうものです。複数の理由が、重なり合い、絡み合い、そして一つの瞬間に、決断となる」
光秀は、深く頷いた。
「そなた、良いことを申す」
彼は、茶碗を置いた。
「拙者自身、己の心が分からぬのだ。信長様への恨みも、確かにある。あの御方の苛烈さは、家臣にとって重荷であった。しかし恨みだけで、主君を討つか。それだけの決断ができるか。分からぬ」
「野望はありますか」
「あるとも、ないとも言える」と光秀は答えた。「天下人になりたいと思うたことはある。しかし、それが本当に己の望みなのか、それとも周囲の期待に応えようとしているだけなのか、区別がつかぬ」
「周囲の期待、とは」
「拙者の家臣たちじゃ。斎藤利三をはじめ、多くの者が、拙者を天下人と見立てておる。彼らを裏切ることは、できぬ」
凪は、光秀の言葉を、静かに聞いていた。
「そして」と光秀は続けた。「時が、迫っておる。信長様は間もなく、中国攻めの支援に向かわれる。その途上、本能寺に少人数で滞在される。護衛はほとんどおらぬ。あのような機会は、二度と来ぬ」
「機会があるから、動く、と」
「否、と言い切れぬ己が、恐ろしい」
光秀の声が、初めて微かに震えた。
凪は、しばらく黙っていた。
And、口を開いた。
「日向守様。一つ、伺ってもよろしいですか」
「なんじゃ」
「あなたは、信長様を、討ちたいのですか」
光秀の目が、凪を見た。
その目には、答えがなかった。あるいは、あまりにも多くの答えがあった。
四章 問いの重さ
その夜、凪は城内の一室に泊まった。
布団に横たわっても、眠れなかった。
彼は、天井を見つめていた。木の梁が、月明かりに照らされて、静かに光っていた。
光秀の目を、思い出していた。
あの目には、迷いがあった。決断を下しかけている男の、最後の迷い。しかしその迷いは、外部からの説得では取り除けないもののように見えた。
凪は、正雪のときのことを思い出していた。
正雪の場合、彼には明確な「代案」を示すことができた。武力ではなく、言葉で。挙兵ではなく、嘆願書で。
しかし光秀の場合は、どうか。
信長を討たない、という選択肢は、光秀にとって「代案」たり得るのか。
もし討たなければ、光秀はどうなるか。信長の家臣として、そのまま生きるのか。しかし彼は、信長の苛烈さに耐えかねていた。近いうちに、彼は追放されるか、あるいは自ら身を退くか、そのどちらかを選ばざるを得なかったかもしれない。
いや、それだけではない。
光秀は、自分の中の「討ちたい」という気持ちと、向かい合わなければばならなかった。恨み、野望、家臣たちへの責任——それらが混ざり合った、複雑な感情。
凪は、身を起こした。
自分は、何をするためにここに来たのか。
光秀は言った。「止めてほしいのではない。問いかけてほしい」と。
凪は、その意味を考え続けた。
問う、とは何か。
正雪のときは、凪は「代案」を提示した。それは、ある意味で答えを与えることだった。
しかし光秀には、答えを与えることはできない。彼の決断は、彼自身の内部からしか生まれない。
できることは、問いを立てることだけ。正しい問いを、正しい時に、光秀の前に置くこと。
凪は、また横になった。
窓の外で、鳥が鳴いた。夜明けが、近かった。
五章 二度目の対話
翌朝、凪は再び光秀の私室に呼ばれた。
光秀は、既に文机の前に座っていた。しかし今日は筆を持たず、ただ、庭を眺めていた。
庭には、小さな池があった。鯉が泳ぎ、その周りに石が配され、松と紅葉が植えられていた。
凪が正座すると、光秀は振り返らずに口を開いた。
「昨夜、そなたは拙者に問うた。『討ちたいのか』と。あの問いを、拙者は一晩、考え続けた」
「……はい」
「答えは、出ておらぬ」と光秀は言った。「しかし、別のことは分かった」
「別のこと、とは」
「拙者が本当に恐れておるのは、討ったあとのことじゃ」
光秀は、ようやく振り返った。
「主君を討った男は、どうなる。天下を取れば良し。しかし取れなんだら、拙者はただの謀反人となる。歴史に、汚名として残る」
「……はい」
「そなたは知っておるのじゃろう」と光秀は言った。「拙者は、天下を取れたのか」
凪は、深呼吸をした。
これは、避けて通れない問いだった。
「日向守様」と凪は静かに言った。「未来の歴史では、あなたは本能寺で信長様を討ちます。しかし十一日後、羽柴秀吉様との山崎の合戦で敗れます。逃走中に、落ち武者狩りに遭って、命を落とされます」
光秀の表情は、動かなかった。
「十一日、か」
「はい」
「拙者は、秀吉を舐めておったのか」
「秀吉様の中国大返しは、後世『神業』と呼ばれます。誰も予想できないほどの速さで、彼は毛利との和睦を成立させ、本隊を京へ返します」
「うむ」と光秀は頷いた。「奴なら、あり得るな」
彼は、また庭を見た。
「そして、拙者の名は、歴史にどう記されておる」
「三日天下」と凪は正直に答えた。「あるいは、日本史上最大の謀反人、と」
沈黙。
鯉が水面を跳ねた。ぽちゃん、と小さな音がした。
「三日天下、か」と光秀は繰り返した。「短いのう」
彼は、微かに笑った。それは自嘲というより、むしろ悟りに近い笑みだった。
「日向守様」と凪は言った。「未来では、あなたの動機は謎とされています。しかしあなたのことを、単純な悪人と見なす者は、少なくなってきています。むしろ、教養のある文化人として、そして、複雑な事情を抱えた悲劇の人物として、多くの者が興味を持っています」
「……ほう」
「連歌にも、茶の湯にも造詣が深く、家臣にも領民にも慕われた武将であった、と」
光秀は、しばらく無言だった。
「そなたが未来から来た者だと、拙者はもはや疑わぬ」と彼はやがて言った。「そなたの目には、拙者への同情があるが、それは軽蔑ではない。真の同情じゃ」
「はい」
「では、教えてくれ。拙者が本能寺を襲わなかったら、どうなる」
凪は、答えを持っていなかった。
しかし、こう答えた。
「分かりません。しかし、一つだけ確かなことがあります」
「なんじゃ」
「あなたが襲わなかったとしても、いずれ誰かが信長様を討ったかもしれない。あるいは、信長様は天寿を全うされたかもしれない。それは、誰にも分かりません」
「うむ」
「ただ、あなたが襲わなければ、あなたは『三日天下の謀反人』とは呼ばれない。それは、確かです」
光秀は、深く頷いた。
「そなたは、正雪殿に、何と言うた?」
「『生きて訴え続けることが、最大の武士道だ』と」
光秀は、また笑った。今度は、少し声が漏れた。
「良き言葉じゃな」
「はい」
「しかし、拙者には当てはまらぬかもしれぬ」
「なぜです」
「拙者には、訴えるべき『大義』が、明確ではないからじゃ。牢人を救う、という正雪殿のような、明確なものがない。ただ、恨みと、疲れと、家臣への責任と、そして……」
光秀は、言葉を切った。
「底は?」
「信長様への、複雑な思いじゃ」
彼は、遠くを見た。
「あの御方は、時に恐ろしく、時に驚くほど寛大であった。憎いと思うと同時に、慕わしいとも思う。討ちたいと思うと同時に、討たれる姿を見たくないとも思う。人の心とは、こうも矛盾するものかと、拙者自身、呆れておる」
凪は、その言葉に、深く胸を打たれた。
これが、明智光秀の真実なのかもしれない、と彼は思った。歴史書には書かれない、人間の複雑さ。
「日向守様」と凪は言った。「あなたが決断されるまで、私はここにおります。もし、あなたが問いを必要とするなら、私は問い続けます」
「うむ、頼む」
光秀は、深く頭を下げた。
それは、主君が家臣に対してする所作ではなかった。一人の人間が、もう一人の人間に対する、深い礼だった。
六章 斎藤利三
凪が城に滞在して三日目の夕方、彼は思わぬ人物と対峙することになった。
斎藤利三。
光秀の重臣であり、腹心。四国の長宗我部氏との縁が深く、信長が長宗我部を討とうとしたことに、強い反発を抱いていたとされる人物。
利三は、凪の部屋を訪ねてきた。前触れもなく、静かに。
「榊原殿と申されるか」と彼は言った。「殿より聞き及んでおる。お目通りしたく参った」
凪は、緊張した。
利三の目は、光秀とはまた違う鋭さを持っていた。武人の目。実戦を潜り抜けてきた者の目。
「斎藤様、何用でしょうか」
「そなたは、殿を惑わせておる」と利三は率直に言った。「事は既に動いておる。今、殿の心を揺らすことは、我らにとって命取りになる」
「私は、殿を惑わせているのではありません」
「では、何をしておる」
「問いかけているだけです」
利三は、鋭く凪を見つめた。
「その問いが、殿を惑わせておるのじゃ。殿は元来、思慮深いお方。しかし今は、決断すべき時。思慮を深めるべき時ではない」
「なぜ、今が決断すべき時なのですか」
「機会があるからじゃ」と利三は言った。「信長公は間もなく、少人数で本能寺に入られる。あのような機会は、二度とない。それに——」
彼は、少し声を落とした。
「殿ご自身の御身も、危うい」
凪の耳が、鋭くなった。
「危うい、とは」
「信長公は、家臣を使い捨てにされる。丹羽長秀殿、佐久間信盛殿、林秀貞殿——皆、追放された。次は殿かもしれぬ、との噂もある」
「その噂は、確かなのですか」
「確かではない」と利三は正直に答えた。「しかし、あり得る話じゃ。殿が動かねば、殿は追放されるかもしれぬ。追放されれば、我ら家臣も路頭に迷う」
凪は、頷いた。
これが、光秀を動かしているもう一つの力なのだ。家臣たちの生活。彼らへの責任。信長の下では、いつ何が起きるか分からない。ならば、動くべき時に動くべきだ、という論理。
「斎藤様」と凪は言った。「一つ伺います。もし殿が信長様を討たなかったら、あなたはどうしますか」
利三は、しばらく黙った。
「拙者は、殿に従う。それだけじゃ」
「殿の決断に、従うのですね」
「うむ」
「しかし今、あなたは殿を動かしようとしている。殿の決断ではなく、あなたの判断で」
利三の表情が、微かに動いた。
「拙者は、殿の御為を思うておる」
「私も、殿の御為を思うています。ただ、私は殿ご自身の中から決断が生まれることを、望んでいます」
利三は、長い間、凪を見つめた。
「そなた、奇妙な男じゃ」と彼はやがて言った。「殿がなぜそなたを近くに置くのか、分かる気がしてきた」
彼は、立ち上がった。
「明日、殿は最終の軍議を開かれる。そなたも、同席することになるやもしれぬ。心してかかれ」
そして、彼は部屋を去った。
凪は、しばらく座り続けた。
軍議。
史実では、この軍議で光秀は本能寺への出兵を決定する。
凪は、そこに立ち会うことになる。
彼は、何を言えば良いのか。何を問えば良いのか。
窓の外で、夕日が沈もうとしていた。丹波の山々が、赤く染まっていた。
七章 軍議
軍議は、亀山城の広間で開かれた。
光秀、斎藤利三、明智秀満、藤田伝五、そのほか主だった重臣が数名。凪は末席に、書記のような形で控えることを許された。
軍議の議題は、表向きは「中国出兵の準備」であった。信長の命により、光秀の軍は羽柴秀吉の中国攻めを支援するため、備中に向かうことになっていた。
しかし議論が進むにつれ、話は徐々に別の方向へと流れていった。
「殿」と斎藤利三が口を開いた。「中国出兵の道筋は、本能寺の近くを通ります。信長公は間もなく、上洛の予定と伺っております」
「うむ」
「本能寺には、信長公の護衛は少ない、との情報もございます」
広間の空気が、一気に緊張した。
光秀は、無言のまま、目を閉じた。
誰も、次の言葉を発しなかった。
凪は、その沈黙の中で、心臓の鼓動を聞いていた。
やがて、光秀が目を開けた。
「利三」と彼は静かに言った。「そなたの申しておることは、拙者を主殺しに導く言葉じゃな」
利三は、一瞬たじろいだ。しかし、退かなかった。
「殿、機は今しかございませぬ」
「機は、いつでも来る」と光秀は言った。「問題は、その機を掴むべきか否かじゃ」
彼は、広間を見渡した。
「皆に問う。拙者が主君を討つこと、真に正しいと思うか」
重臣たちは、沈黙した。
凪は、末席から見ていた。彼らの顔には、様々な感情が浮かんでいた。決意、迷い、恐怖、そして——期待。
最初に口を開いたのは、明智秀満だった。光秀の娘婿でもある、若い将。
「殿の御意のままに」
次に、藤田伝五。
「拙者も、殿に従いまする」
利三が、続けた。
「殿、時は待ってくれませぬ」
光秀は、彼らを見た。そして、末席の凪に、視線を向けた。
「榊原よ」と彼は言った。「そなたも、意見を申せ」
広間の全員が、凪を見た。
凪は、深呼吸をした。
彼は、立場を持たない。この時代の人間ではない。しかし、光秀は彼に問うている。
そして、これが最後の機会だった。
凪は、口を開いた。
「日向守様。恐れながら、申し上げます」
「うむ」
「私は、殿を止めるつもりはございません。しかし、一つだけ、問いを立てさせていただきたい」
「申せ」
凪は、光秀の目を見た。
「殿は、信長様を討たれたあと、どのような世を作られたいのですか」
広間が、静まり返った。
利三が、口を挟もうとした。しかし光秀が、手で制した。
「続けよ」と光秀は言った。
「正雪殿には、明確な目的がありました。牢人を救うこと。それがあったからこそ、彼の名は歴史に、悲劇の英雄として残った。しかし殿——」
凪は、言葉を選びながら続けた。
「殿の目的は、何でしょうか。信長様の代わりに、天下を治めることでしょうか。それとも、信長様の苛烈な政策を、より穏やかなものに変えることでしょうか。あるいは、家臣たちを守ることでしょうか」
光秀は、答えなかった。
「殿が明確な目的を持っておられるなら、私は何も申し上げません。しかしもし、目的が定まっておられぬまま動かれるなら——それは、悲劇に終わる可能性が高い、と申し上げねばなりません」
凪の声は、静かだった。しかし広間の全員が、その言葉を聞いていた。
利三が、口を開こうとした。
「無礼な——」
しかし光秀が、また手で制した。
光秀は、長い間、目を閉じていた。
どれほどの時間が経ったか、凪には分からなかった。
やがて、光秀は目を開けた。
「軍議は、明朝まで延期する」と彼は言った。
重臣たちは、動揺した。しかし光秀の決断には、逆らえなかった。
彼らは、一人ずつ広間を去っていった。利三が最後に、凪を鋭く睨みながら去った。
広間には、光秀と凪だけが残った。
八章 夜明け前
その夜、光秀は凪を、亀山城の天守の下に呼んだ。
まだ完成していない天守の、基礎の部分。石垣の上に立つと、丹波の夜景が一望できた。灯火は少なく、大部分が闇に沈んでいた。
「拙者に、明確な目的はない。信長様の代わりに天下を治めたいのか、家臣たちを守りたいのか、それすらも……」
光秀は星を見上げた。その横顔には、引き裂かれるような迷いがあった。
凪が「生きて、あなたの物語を語ってください」と告げ、光秀が「答えは夜明けに出す」と言い残して天守を降りたのは、そのすぐ後のことだった。
しかし、試練はそこからだった。
天守の階段を下りた光秀を待っていたのは、暗がりに佇む斎藤利三であった。その手には、既にいつでも出陣できるだけの具足が握られている。
「殿」
利三の声は地を走るように低く、そして重かった。
「先ほどの未来人の言葉、拙者も盗み聞きいたしました。……なればこそ、申し上げます。行くべきにございます」
「利三」
「あやつは『生きていれば道は開ける』と綺麗事を申した! だが、信長公の恐ろしさを知らぬ者の妄言にございます! 丹羽長秀殿が、佐久間信盛殿が、追放されたあとどうなったか! 誇りを奪われ、這いつくばって死んだ。殿が同じ目に遭うて、生きて連歌など詠んでおられるとお思いか!」
利三は一歩、光秀ににじり寄った。その目は血走っている。
「殿だけの御身ではない。我ら明智の家臣、その家族、数千の命が殿の双肩にかかっているのです。ここで退けば、疑心暗鬼の信長公のこと、遅かれ早かれ我らは族滅の憂き目に遭いましょう。……三日天下、上等ではございませぬか! 泥の中でなぶり殺されるくらいなら、天下を震撼させ、武士として華々しく散るべきだ!」
「利三、お主は……拙者に死ねと言うか」
「生きるために、殺すのです!」
利三は床に膝を突き、激しく畳を叩いた。
「行ってくだされ。これは我ら『現実』を生きる地獄の者の、総意にございます!」
利三を下がらせたあと、光秀は一人、深夜の書斎で文机にしがみついていた。
脳裏に、津波のように記憶が押し寄せる。
——折檻された痛みが蘇る。大勢の面前で足蹴にされ、領地を召し上げると脅された恐怖。あの男は魔王だ。討たねば殺される。
だが、同時に蘇る記憶があった。
まだ美濃の牢人だった自分を、これほどの重臣に引き立ててくれたのは誰だったか。
『光秀、お前の才だけが、この儂の見た夢に追いついてくる』
本能寺の茶会で、信長がふと見せた、子供のような無邪気な笑顔。自分を誰よりも評価し、誰よりも酷使し、誰よりも愛してくれた主君。
(憎い。……だが、恋しい。儂はあの男を殺したいのか、それとも、あの男のいない世界が寂しいだけなのか)
光秀は吐血せんばかりの息を吐き、頭を抱えて夜の闇に咽び泣いた。
家臣たちの命。信長への恩仇。未来人の問い。
あらゆる濁流が光秀の中で渦巻き、夜明けの光が、刻一刻と迫っていた。
九章 夜明けの決断
凪は、その夜も眠れなかった。
夜明け前、彼は自室で正座していた。窓の外は、まだ暗かった。しかし東の空が、微かに白み始めていた。
足音が、廊下から近づいてきた。一つではない。二つの足音だ。
襖が開いた。
光秀が立っていた。そしてその後ろには、悔しさに顔を歪め、涙を流しながらも、刀を鞘に収めた斎藤利三が控えていた。
光秀の顔は、死人のように憔悴していた。だが、その目には、全ての地獄を飲み込んだような、澄んだ光があった。
「榊原よ」と光秀は静かに言った。
「はい」
「拙者は、行かぬ」
凪は、息を呑んだ。
「本能寺への出兵は、取りやめる。中国出兵は、予定通り行う。……利三とは、夜通し話した。我が首一つで家臣一同の助命が叶うよう、信長様への釈明の書状も、既に認めた」
後ろで、利三が「ううむ」と声を漏らして男泣きに暮れている。利三は最後まで「行くべきだ」と叫び続けたのだろう。しかし光秀は、家臣を道連れにする「破滅の華」ではなく、汚名を一身に背負う「生苦」を選んだのだ。利三の涙は、主君の決断のあまりの重さに対する、畏怖と悲痛の現れだった。
「そなたのおかげじゃ」と光秀は言った。
「いいえ」と凪は答えた。声が震えた。「あなたご自身の、あまりにも重い決断です」
「拙者は、いずれ信長様に殺されるかもしれぬ。だが、主君を討つことによって、己の心を裏切ることは、選ばぬ。生きるぞ、榊原。死ぬまで、生きる」
光秀は、深く頭を下げた。利三もまた、床に額を擦り付けた。
凪の視界が、涙で滲んでいく。
「行け。そなたの時代へ」
その声を最後に、世界が大きく揺らいだ。
エピローグ もう一つの歴史
気がつくと、凪は自分のマンションの床に倒れていた。
夏の夜の湿気が、まだ残っていた。パソコンの画面は、書きかけの原稿を映していた。
凪は、しばらく動けなかった。
やがて、彼は起き上がり、パソコンの前に座った。書きかけの社会批評の原稿を、全て消去した。
そして、新しいファイルを開き、猛然とキーボードを叩き始めた。
数ヶ月後。
凪の部屋の机の上には、刷り上がったばかりの一冊の小説本があった。
表紙には、彼が付けたタイトルが踊っている。
彼はそれを本屋に確認しに行くこともしなかった。世間の評価も、歴史の整合性も、今の彼にはどうでもよかった。ただ、あの夜明けに、確かに一つの巨大な意思が、地獄のような現実の中で「生きる」ことを選んだのだという事実を、言葉にして残したかった。それだけだった。
凪は窓を開けた。
東京の夏の夕暮れ。ビル群の向こうに、四百年前と変わらぬ月が昇り始めている。
彼はパソコンの画面をそっと見つめた。そこには、彼が魂を削って書き上げた、物語の最後の一文が残されていた。
『天正十年六月二日、本能寺の朝空はどこまでも青かった。謀反人の汚名からも、天下人という虚妄からも解放された男は、ただ一振りの筆を携え、自らの物語を生きるために、静かに歩みを進めたのである。』
風が吹いた。松の匂いは、もうしなかった。
しかし凪の胸の奥には、あの玉響の揺らぎが、確かな温もりとして残り続けていた。
——了——
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【作者注】
本作は本能寺の変を題材としたフィクションです。明智光秀、斎藤利三、明智秀満などは実在の歴史人物ですが、物語の展開は著者の創作によるものです。実際の本能寺の変(天正十年、一五八二年六月二日)では、光秀は信長を討ち、十一日後の山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、逃走中に命を落としました。この小説は、前作『慶安転生記』と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響(たまゆら)は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。