どうも、はちごろうです。

季節の変わり目はいつも気持ちが安定しないのですが、
今年は一度イライラするとなかなか発散できない感じ。
我慢が出来ないのは脳が衰えてる証拠らしいので、
やっぱりいろいろと疲れているのかも。
さて、映画の話。

「アーティスト」

本年度アカデミー賞で作品賞を含む主要5部門受賞作。
この時代に敢えてモノクロ、サイレント映画に挑戦したフランス映画。
1927年のハリウッド。サイレント映画のスター、ジョージは
新作映画のプレミア会場で一人の女性に出会う。
翌日、その女性ペピーは撮影スタジオにいた。
ジョージの新作映画にエキストラとして参加していたのだった。
そんな彼女に、ジョージは「売れるためには何か特徴がないと」と
彼女の口元にほくろを一つ描いてあげるのだった。
数日後、ジョージはスタジオの関係者に呼ばれ、
最新技術の音声付き映画(トーキー)の実験映像を見せられる。
「これは映画の将来だ」と満足げのスタジオ側に対し、
ジョージは「こんなものは流行らない」と一笑に付す。
しかし、時代の流れは完全にトーキーに傾いていた。
スタジオ側は全ての映画をトーキーで作るとマスコミに発表。
サイレント映画用のスタジオは閉鎖されてしまう。
その決定にジョージは反発。スタジオから独立し、
私財をなげうって新作のサイレント映画「愛の涙」を製作する。
しかしジョージ渾身の新作は同じ日に公開されたトーキー映画に惨敗。
それはトーキー映画の波に乗り、スターの階段を駆け上がった
ペピー主演の映画「付けぼくろ」だった。
映画の大ヒットによってペピーの人気は不動のものになっていくが、
ジョージは長年不仲だった妻から家を追い出され、
映画の失敗に加えて大恐慌のあおりを受けて破産。
長年雇っていた執事兼運転手のクリフトンも解雇し、
愛犬アギーとともに酒びたりの生活を送るようになるのだった。








「オリジナリティ」を作り出すには


例えば、誰も観たことがないオリジナリティ溢れる作品を作りたいとする。
だが人間の想像力というのは経験や知識から生まれてくるものなので、
必ず何かしらの影響を受けてしまう。
つまり、全くの無から新しい作品を作ることは不可能に近い。
それこそジェームズ・キャメロンの「アバター」みたいに、
世界中の優秀なスタッフを結集させ、撮影機材を新たに発明するなど、
莫大な費用と知性を集めるくらいのことをやらないと無理である。
しかしそんな「アバター」もオリジナリティがあったのは
撮影技術と視覚効果、それにアートワークぐらいなもので、
物語自体は「もののけ姫」のパクリと言われて終いだった。
では、どうすればいいか。
過去の作品から必ず影響を受けてしまうことが避けられないのなら、
なるべく知ってる人が少ない作品からヒントを拝借すればいい。
だから最近のハリウッドで米国以外の映画のリメイクが多いのは
そういった事情があるわけなんだけれども。
閑話休題。つまり何が言いたいのかというと、
「映画に色や音が付いていること」が当たり前となった現代で、
「モノクロのサイレント映画」という誰もが忘れていた手法で映画を作るという
まさに逆転の発想を思いついた時点で、この作品は「勝ち」なのである。



「アーティスト」が生まれる瞬間


さて、そんな人々が捨ててしまった手法で描かれるのは、
まさに映画がサイレントからトーキーに進化していく過程で、
二人の俳優の人生が入れ替わっていく姿である。
映画の常識がサイレントからトーキーに変わっていく流れに
サイレント映画のスター、ジョージは抵抗しようとする。
そこで彼は新聞の取材にこう宣言する。

「僕はアーティストである」と。

娯楽とアートの違いと端的に表すならば「常識との決別」である。
つまり人々が望む表現を提供するのが娯楽。つまりエンタテインメントであり、
表現者個人が望む表現を追求するのが芸術。つまりアートである。
例えばピカソの抽象画はまるで子供の落書きのようで
多くの人が「なんじゃ?これ」と思ってしまうが、
当のピカソは風景画や人物画などいろいろな作風をひととおり試し、
新しい表現方法を追求した末にあの画風にたどりつくわけです。
芸術というのはそうやって生まれていくわけなんだけど、
それは既存の常識からの飛躍であり、逸脱でもあるわけです。
そうして、多くの表現者は「アーティスト」となり、大衆から忘れられていく。
本作はそんな「アーティスト」が生まれる瞬間を
非常に分かりやすく描かれていました。



表現者の基本、「温故知新」


しかし、そんなジョージがスターの座から転落していく姿を
ヒロインのペピーは陰ながら見守っていく。
彼が気づかないように彼の生活をサポートし、
最終的には彼のカンバックを後押ししていくのである。
ここで彼女が象徴するのは「過去を忘れない人間」の強さである。
彼女がジョージを大切にするのは、彼がペピーの役者としてのルーツだから。
つまりサイレント映画の象徴みたいな存在の彼を否定することは
ペピーの役者としての土台を否定することに他ならない。
そして彼女はトーキーという最新の技術の中で
ジョージをスタートしてカンバックさせるための秘策を考え出す。
それはまさに「温故知新」の見本のような行為であり、
その「温故知新」こそ、まさに新しいものを生み出す王道なのである。

ただ、作品に問題がなかったわけではない。
本作は「サイレント映画」とはいうものの数回だけ、音声を入れている。
だがその多くは主人公の心情を語るために
非常に効果的に使われているのだが、
1か所だけ「ここは使わないでほしかった」ってシーンがあった。
重要な場面なのでどこかは敢えて言いませんが
そこだけは蛇足だったなぁ・・・って感じでした。
しかしながら、役者の演技も素晴らしいし、演出も最高。
一部の映画評論家は「サイレントと言いながら音を使いすぎ」だとか、
「過去のサイレント映画の方がよっぽどいい」とか野暮なこと言ってますが、
サイレント映画という手法自体の再評価に大きく貢献し、
新たな作品を作るためには過去の作品を知る必要性を示したという意味でも、
この作品の存在意義はあると思います。おススメです!