211日に産経新聞に掲載された曽野綾子氏のコラムが、日本国内だけでなく外国でも話題になっています。

 

その理由は、コラムの内容が人種隔離政策を肯定するものであり、人種差別的だということで物議を醸しています。

 

以下は、そのコラムの文章です。

 

-ここより抜粋-

 

<労働力不足と移民 「適度な距離」保ち受け入れを>

 

最近の「イスラム国」の問題など見ていると、つくづく他民族の心情や文化を理解するのはむずかしい、と思う。一方で若い世代の人口比率が減るばかりの日本では、労働力の補充のためにも、労働移民を認めなければならないという立場に追い込まれている。


特に高齢者の介護のための人手を補充する労働移民には、今よりもっと資格だの語学力だのといった分野のバリアは、取り除かねばならない。つまり高齢者の面倒を見るのに、ある程度の日本語ができなければならないとか、衛生上の知識がなければならないとかいうことは全くないのだ。


どこの国にも、孫が祖母の面倒を見るという家族の構図はよくある。孫には衛生上の専門的な知識もない。しかし優しければそれでいいのだ。


「おばあちゃん、これ食べるか?」という程度の日本語なら、語学の訓練など全く受けていない外国人の娘さんでも、23日で覚えられる。日本に出稼ぎに来たい、という近隣国の若い女性たちに来てもらって、介護の分野の困難を緩和することだ。


しかし同時に、移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らねばならない。条件を納得の上で日本に出稼ぎに来た人たちに、その契約を守らせることは、何ら非人道的なことではないのである。不法滞在という状態を避けなけ れば、移民の受け入れも、結局のところは長続きしない。


ここまで書いてきたことと矛盾するようだが、外国人を理解するために、居住を共にするということは至難の業だ。


もう2030年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。


南アのヨハネスブルクに一軒のマンションがあった。以前それは白人だけが住んでいた集合住宅だったが、人種差別の廃止以来、黒人も住むようになった。ところがこの共同生活はまもなく破綻した。


黒人は基本的に大家族主義だ。だから彼らは買ったマンションにどんどん一族を呼び寄せた。白人やアジア人なら常識として夫婦と子供2人くらいが住むはずの1区画に、2030人が住みだしたのである。


住人がベッドではなく、床に寝てもそれは自由である。しかしマンションの水は、一戸あたり常識的な人数の使う水量しか確保されていない。


間もなくそのマンションはいつでも水栓から水のでない建物になった。それと同時に白人は逃げ出し、住み続けているのは黒人だけになった。


爾来、私は言っている。


「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい、と思うようになった。」


-抜粋終わり-

 


居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。”というところが、人種隔離政策ということで人種差別にあたり、アパルトヘイト肯定というように報じられているようです。

 

政策として強制的に人種ごとに居住地域を分けることには反対ですが、価値観や生活習慣が異なる人同士が近くで居住していると、余計な軋轢や争い事が起こるというのは真実ではないかと思います。それは、世界各地で起きていることを見ると分かります。

 

中東の紛争の大きな要因は、イスラム教のアラブ人が住む地域に、ユダヤ教のイスラエルが建国されたことです。同じイスラム教徒がいる地域で争い事が絶えないのは、スンニ派とシーア派が入り組んで居住しているところです。

 

旧ユーゴの内戦も、異なる人種や宗教の人達がモザイクのように混じり合って住んでいたことで、紛争が起こり悲惨な殺し合いが行われました。現在は、8つの国や地域に分かれています。

 

アフリカ各地の内戦も、部族間の争いが原因となっています。白人が勝手に引いた国境によって、異なる部族が同じ国に同居しており、主導権や利権の奪い合いで争いが絶えないという状態になっています。

 

ヨーロッパでも移民受け入れにより、現地の慣習に馴染まない移民と元からいた住民との対立が近年増加しています。

 

現在でも多くの移民が流入している米国では、人種間の対立は頻繁に起きています。そして、実際に殆どの地域では黒人と白人の居住区は分かれており、その他の有色人種は固まって住んでいたり、収入レベルによって住む地域がある程度決まったりしているようです(詳しくは「アメリカは人種によって居住地域が分けられている」 参照)。

 

 

”居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい”という書き方だと、人種差別的な表現だという受け止め方をされるのは、仕方ないとは思います。

 

曽野氏のコラムは、説明不足で誤解を与える可能性は高い文章だと思いますので、その点をもっと注意してもらいたかったと思います。しかし、コラム全体で言わんとしていたことを読み取らず、文章の一部分だけ取り上げるのは、無用な誤解を生みレッテル貼りにも繋がります。

 

曽野氏の本意は、価値観や慣習が異なる人はある程度居住するところを分けた方が、無用な軋轢や諍いを起こさなくて済むということだったのではと思います。価値観や慣習が異なるという意味で”白人、アジア人、黒人”というような表現を使ったのではないでしょうか。

 

そして、上記のような世界各地で起きていることを見ると、居住するところを分けるというのは実際に行われていることであり、生活する上で無用な争いを避けるための知恵ではないかと思います。こういった現実があることを無視して批判するのは、実際に居住区が分かれていることをどう考えているの でしょうか。

 

 

また日本国内で、「日本憲法では居住移転の自由を保障しているから、憲法の精神に反している。」と主張していた弁護士がいました。しかし、居住移転の自由は基本的人権の一つで、人権保障の対象は国民であることが明確になっています。

 

私は外国人であっても居住移転の自由は、安全保障上の問題がなければ保障されるべきだとは思いますが、弁護士という法律の専門家であれば、この辺りはしっかりと法律に基づいた発言をしてもらいたいですね。

 


一方で、曽野氏は介護人材の確保のために労働移民を外国から受け入れるときの要件を緩和した方がいいと主張しています。しかし、要件を緩和すると、それだけ日本に馴染もうとしない移民が増えることになることが予想されます。それはヨーロッパでの移民問題を見れば明らかです。

 

そして、居住地域を分けると、移民が多い地域は一般の日本人が立ち入ることができないところになってしまう可能性があります。そのような地域が出来て増えていくと、また新たな問題が発生することが予想されます。それはヨーロッパでの移民問題を見れば明らかです。

 

曽野氏は、移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作るべきと書いていますので、何か問題があれば国外退去を含め厳しく対処するということは考えているようです。移民が日本社会に悪影響を及ぼさないような対策の必要性は、十分に感じているのでしょう。



話を戻しますが、曽野氏は政策として人種ごとに居住区を分けろと主張しているわけではありません。全体の文章を読めば、人種によって価値観や慣習が異なり、そういった人達が同じ所で混在して居住するのは難しく、結果として世界各国では住む場所が分かれているという事実から、居住するところは別にした方がいいのではと書いています。

 

日本国内で批判している人は、コラムの全文を読んでいるのでしょうか。また、国外から批判している人達は、どのように翻訳された文章を読んだのか気になるところです。


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