17世紀~18世紀、東インド会社などを通じてヨーロッパと中国は貿易を行っていましたが、ヨーロッパ側は恒常的な貿易赤字になっていました。その頃は、商品を購入するために銀を支払っていたため、輸入超過のため多くの銀がヨーロッパから流出していました。

 

なぜそのような貿易不均衡が生じたのかというと、中国の茶や絹、磁器や家具・ランプなどの工芸品は、ヨーロッパでは大変人気がありました。それに対して、ヨーロッパには中国が欲しがるような商品がほとんどなかったからです。

 

貿易不均衡を解消するために、東インド会社は儒教や道教の奉納画を作り、清に輸出しました。しかし、それは成功しなかったため、ポルノの画集を輸出し始めました。清の政府が、このような物が国に入ることを望まなかったため、このビジネスも失敗しました。次に、インドで栽培したアヘンを清に売り込もうとしました。ポルノの画集を売り込んだときに確保した非合法の販売ルートを通じ、清の役人を莫大な金額で買収して、販売網を作り上げていきました。

 

清ではアヘンの常習者が増えていき、アヘンの消費量も増加していきました。東インド会社は、それまで200年成功しなかった清への輸出事業にようやく成功し、莫大な利益を得ました。東インド会社の成功を見て、アメリカやフランスなどの欧米各国も、清へのアヘン輸出に参入しました。

 

清の北京政府は、アヘンの輸入は法律に反するということを、アヘン商人に通達しました。しかし、欧米の商人たちは、自由貿易の原則を盾に北京政府に抗議しました。その後、アヘン戦争が起こり、清は降伏して敗れ、今後もアヘンを引き続き清へ輸出する権利を認めさせられました。

 

現在になっても、欧米人の多くは中国がアヘン中毒の国であったことを覚えているようです。それも、昔からアヘンを吸うことが中国の風習だったという認識でいるようです。しかし、中国でアヘンが蔓延したのは、上述のように、欧米が非合法な方法と武力によってアヘンを売りつけたからです。

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