Facebookではご報告しておりましたが、
こちらでも報告しなければなりません。
16人まで絞られた二次予選に、僕は進むことが出来ませんでした。
表面的や精神的なところだけではなく、練習に準備にかなり努力をしたので、
その分かなり今は燃え尽きてしまった気分です。
とはいえ、このブログは、僕のそういう感情面に対する興味ではなく、音楽に関することへの興味が大半だと思うので、
どこが足りなかったのか、これから何を課題にするべきか、書き記すことで、今回のコンクールに関する記述を締めたいと思います。
・音程
レチタティーヴォの中の音、
メリスマの中の音、
全ての音に意味を見出せるように、かなり音程には気を付けていましたが、
それでも感情面が先行するとどうしても少し乱れるのがこの声帯という楽器。
上には上がいて、
音の中にエモーションがありながら、和音感覚などが完璧な歌手というのは、居るのです。
喉が開いていなければ、いくらマスケラで音程を取っても、音量が小さくてそのイントネーションを聞き手が聴き取れない。(この、聞き手の立場で歌うということが出来ない歌手は日本に非常に多い、いや世界中かなり多い、劇場で歌っている人でさえも)
喉を開くことだけ考えると、身体に力が入るので、音程は悪くなることが多い。
そのどちらも持っている人しか、スタートラインに立てません。
今回は、もうそういう技術が当たり前のように整っていて、主張ができる歌を歌う人が多かった。
というか、そういう人が多すぎた。上手な人が多すぎた。
僕が聞いた限り3人は居た。もちろんその3人は2次に行ったけれど。
・シュッツ
課題曲であったシュッツの作品に、自信を持って挑めなかった。
もちろん不安は無かったのですが、そういうレヴェルではなく、まさに「僕が作曲したかのように」自由自在に表現しなければならない。
そこまで至っていたか、というと、初シュッツというのもあり、作風がイマイチ掴みきれなかったまま挑んだというのはあった。
音楽家のレヴェルは、その人が飾った最高に綺麗に見えるところではなく、1番装いをしていない裸の部分に垣間見える。
・ドイツ語
とても綺麗に伝わってきた、という審査員の講評を聞けば、一部分からなかったという声も。
それは、つまり全くもって完璧ではないのです。むしろ不完全の極みです。
もっと、言葉の中身、匂い、もっと深く感じて言葉を発音する力が必要だった。
もちろんそれには才能×努力×時間が必要だけれど。
・一次予選、という油断
他の方を聞いて驚いたのは、
一次予選からみんな百パーセントで挑んでいるということ。
完璧に演奏したって、審査員の好みによっては残れないことだってあるのに、
不完全な人をもう一回聞きたいとは思わないですよね、それもこれほど大きなコンクールで。
一次で完璧に演奏できた人しか、次に行く資格は無い、いや、それほど高いレヴェルの山を見たのだと思いました。
・コロラトゥーラ
バッハには様々なコロラトゥーラ(超絶技巧的な、早いパッセージ)が、アリアの中だけなくたまにレチタティーヴォの中にも出てきます。
今回改めて学んだのは、
一概にコロラトゥーラといっても、喜ぶを表現するコロラトゥーラ、心の葛藤を激しく描くコロラトゥーラ、怒り、意志、牧歌的な、
そのコロラトゥーラによって様々な感情の泉があります。
別の言い方をすれば、木管的なコロラトゥーラ、ヴァイオリン的なコロラトゥーラ、色々あります。
僕の得意なコロラトゥーラは、意志のコロラトゥーラで、
「喉を開きながら」声を転がすことが出来ます。
はっきり申し上げてこれは練習したわけでは無いので、多分才能だと思います。
僕らしからぬ、スポーティーさがあるらしいです。
すごく鳴った状態で素早いパッセージを展開することが出来ます。今年に入って、それが出来る自分を急に発見したのです。
今回の講評で1番多く言ってもらったのは、「輝かしいコロラトゥーラだった」ということです。
古楽はあまり声量があってはいけないのか、と勝手な恐れを抱いていたので、世界的なバッハの権威である人達にそうお言葉を頂いたのは、ひとつ自信になりました。
問題は、僕のコロラトゥーラがワンパターンだということです。
喜びのコロラトゥーラは、もっと朗らかに綺麗に温かく揃った音が必要です。
柔らかいコロラトゥーラは、今の僕には難しいです。シャープなコロラトゥーラは、直感的に歌えるのですが。
今の僕に無いものは、今の僕が努力して未来の僕にプレゼントしてあげないと。
今思いつくのはこんなところかしら。
2次予選、セミフィナーレ、フィナーレを聞いて、
改めて何が自分に足りないか、研究してきます。
こちらでも報告しなければなりません。
16人まで絞られた二次予選に、僕は進むことが出来ませんでした。
表面的や精神的なところだけではなく、練習に準備にかなり努力をしたので、
その分かなり今は燃え尽きてしまった気分です。
とはいえ、このブログは、僕のそういう感情面に対する興味ではなく、音楽に関することへの興味が大半だと思うので、
どこが足りなかったのか、これから何を課題にするべきか、書き記すことで、今回のコンクールに関する記述を締めたいと思います。
・音程
レチタティーヴォの中の音、
メリスマの中の音、
全ての音に意味を見出せるように、かなり音程には気を付けていましたが、
それでも感情面が先行するとどうしても少し乱れるのがこの声帯という楽器。
上には上がいて、
音の中にエモーションがありながら、和音感覚などが完璧な歌手というのは、居るのです。
喉が開いていなければ、いくらマスケラで音程を取っても、音量が小さくてそのイントネーションを聞き手が聴き取れない。(この、聞き手の立場で歌うということが出来ない歌手は日本に非常に多い、いや世界中かなり多い、劇場で歌っている人でさえも)
喉を開くことだけ考えると、身体に力が入るので、音程は悪くなることが多い。
そのどちらも持っている人しか、スタートラインに立てません。
今回は、もうそういう技術が当たり前のように整っていて、主張ができる歌を歌う人が多かった。
というか、そういう人が多すぎた。上手な人が多すぎた。
僕が聞いた限り3人は居た。もちろんその3人は2次に行ったけれど。
・シュッツ
課題曲であったシュッツの作品に、自信を持って挑めなかった。
もちろん不安は無かったのですが、そういうレヴェルではなく、まさに「僕が作曲したかのように」自由自在に表現しなければならない。
そこまで至っていたか、というと、初シュッツというのもあり、作風がイマイチ掴みきれなかったまま挑んだというのはあった。
音楽家のレヴェルは、その人が飾った最高に綺麗に見えるところではなく、1番装いをしていない裸の部分に垣間見える。
・ドイツ語
とても綺麗に伝わってきた、という審査員の講評を聞けば、一部分からなかったという声も。
それは、つまり全くもって完璧ではないのです。むしろ不完全の極みです。
もっと、言葉の中身、匂い、もっと深く感じて言葉を発音する力が必要だった。
もちろんそれには才能×努力×時間が必要だけれど。
・一次予選、という油断
他の方を聞いて驚いたのは、
一次予選からみんな百パーセントで挑んでいるということ。
完璧に演奏したって、審査員の好みによっては残れないことだってあるのに、
不完全な人をもう一回聞きたいとは思わないですよね、それもこれほど大きなコンクールで。
一次で完璧に演奏できた人しか、次に行く資格は無い、いや、それほど高いレヴェルの山を見たのだと思いました。
・コロラトゥーラ
バッハには様々なコロラトゥーラ(超絶技巧的な、早いパッセージ)が、アリアの中だけなくたまにレチタティーヴォの中にも出てきます。
今回改めて学んだのは、
一概にコロラトゥーラといっても、喜ぶを表現するコロラトゥーラ、心の葛藤を激しく描くコロラトゥーラ、怒り、意志、牧歌的な、
そのコロラトゥーラによって様々な感情の泉があります。
別の言い方をすれば、木管的なコロラトゥーラ、ヴァイオリン的なコロラトゥーラ、色々あります。
僕の得意なコロラトゥーラは、意志のコロラトゥーラで、
「喉を開きながら」声を転がすことが出来ます。
はっきり申し上げてこれは練習したわけでは無いので、多分才能だと思います。
僕らしからぬ、スポーティーさがあるらしいです。
すごく鳴った状態で素早いパッセージを展開することが出来ます。今年に入って、それが出来る自分を急に発見したのです。
今回の講評で1番多く言ってもらったのは、「輝かしいコロラトゥーラだった」ということです。
古楽はあまり声量があってはいけないのか、と勝手な恐れを抱いていたので、世界的なバッハの権威である人達にそうお言葉を頂いたのは、ひとつ自信になりました。
問題は、僕のコロラトゥーラがワンパターンだということです。
喜びのコロラトゥーラは、もっと朗らかに綺麗に温かく揃った音が必要です。
柔らかいコロラトゥーラは、今の僕には難しいです。シャープなコロラトゥーラは、直感的に歌えるのですが。
今の僕に無いものは、今の僕が努力して未来の僕にプレゼントしてあげないと。
今思いつくのはこんなところかしら。
2次予選、セミフィナーレ、フィナーレを聞いて、
改めて何が自分に足りないか、研究してきます。