この記事も本当は7月末の名古屋公演が終わったら投稿しようと書き溜めていたのですが、いつのまにかこの夏の全公演終えてしまいました。




無事、僕たちの「DANCE!!!」名古屋と岐阜の両公演とも、大盛り上がりで終わりました。

そして8/4は古川元久様のサマーコンサートに出演しました。

内容的にはほぼほぼ3回目の「DANCE!!!」だったといっても良いでしょう。



3回で720人近くのお客様に僕たちのDANCE!!!を楽しんでもらったことになります。本当に嬉しいです😊

来てくださった方、応援してくださった方、ありがとうございました!!





従来のよくある歌とピアノのコンサートの枠を僕たちなりのセンスで崩して磨き上げたエンターテイメント。


ディズニーランドのアトラクションに負けないファンタジー溢れる時間を提供したい、という僕の強い気持ちは、ピアニスト碇大知さんとのタッグによってひとつの形になっていきました。




僕たちが愛知芸術劇場小ホールで雰囲気良くコンサートを楽しんでいる中、

周りでは一風変わったアートとともにあいちトリエンナーレの展示物が人々の足を止めていました。



このところ連日のように報道されているその展示たちの中止騒動の記事を読んでいると、僕もアートに携わるものとしてどうしても考えるものがあります。




僕は、いわゆるアーティストが政治に関しての発言をするべきではないと思っています。



一言で言うと、結局もったいないことになると思うからです。



僕はアートと政治の思想は直接は関係ないと思っています。



たとえば第九と反戦や世界平和をくっつける短絡的なアイディアは、僕はナンセンスだと思っています。

しんと冷たい空気に包まれた機内でぼくは、

ブラームスとドビュッシーを聴いていた。

 

ブラームスの即興曲を聴きながらぼくは、今シーズン幾度となく歌った彼のレクイエムのことを回想した。

 

迷える人はいつも心のどこかで、

泣く理由を探し求めているのだと。

 

ドビュッシーのRêverie 夢は、

いつの日かの甘美な回想が胸の奥を無雑作に掻きむしるような哀しみがある。

 

 

ぼくの10日間にも渡る、イスタンブールに居た頃からにも渡る胃痛は、

かくして日本への渡航によって癒えたのである(?)

 

 

奇妙なことに、飛行機から降りた後は元気になってしまっている。いつもだ。

これは風邪気味だぞ、飛行機なんか乗ったら間違いなく風邪を引くだろう、なんて時も、

降りる頃には何も気にしないほどになっている。

 

 

まぁいいや。

日本への夏出張の始まりであーる。

 

やかましい蝉とともに故郷で過ごす、狂おしい夏が始まる。

 

7/14 河口湖オルゴールの森美術館 コンサート

7/28,8/3 DANCE!!! 名古屋/岐阜

8/4 ふるげん千種サマーコンサート「オ・レ!情熱のDANCE ~テノールとピアノが織りなすパッションの音楽~」

 

8月12日には早くもドイツでの新シーズンが幕を開ける。

 

 

 

 

2018-2019シーズンの最後の仕事となった《天地創造》(ソロ)のことを綴ろうかと思ったけれど、

10時間の飛行機は思ったより疲れたし、その時のビデオもまだ編集していないので次の機会に書こうと思います。

「忍耐、忍耐」という名のアリアをこの胸に抱えた1年間が終わりました。

 

 

去年落ちた「予選」、

今年は無事通過。

 

初めての本選です。本選オーディションに臨むたった2人のテノールのうちの1人となりました。

 

4つも席が空いているテノールのポストに、たった2人の候補です。

日本人初のベルリン放送合唱団正団員になるべく、1年間準備をしてきました。

 

 

オーディションの結果は果たして、

2人の候補とも充分な得票数(全票数の2/3)を得られず、ポスト4つは空いたままとなりました。

 

「試用期間として1年とりあえず採用してはどうか」という議題になったようですが、覆りませんでした。

ところで僕は29票だったようです。もうあと10票(も)必要だった。

 

 

 

よく考えれば、2年間ここでよく歌わせてもらっているとはいえ、

どこの誰かも分からないアジア人の僕に票を入れてくださった29人の同僚には感謝しかありません。

 

 

 

26歳、若手として、日本人初という「タイトル」が欲しかったのは正直な胸の内です。

 

 

少しだけ休んで、

また僕のペースで歩いていきます。

職業歌手としての2回目のビザ更新も無事に(!?)終わり、

2018-2019年シーズンも終わりが見えてきました。

あと残るは、イスタンブールでの「ドイツ・レクイエム」公演、

そしてハイドン作曲「天地創造」のソリストの仕事になりました。

 

 

 

 

今シーズンは新シリーズ「郷愁」から始まり、

仕事ではドビュッシー、ベルリオーズ、V.ウィリアムズ、マーラーといった新しい作曲家との出会いがあり、

そしてイタリアでのコンクール受賞もいい思い出です。

 

ソリストとしてはヘンデル「ブロッケス受難曲」バッハ「ヨハネ受難曲」「ロ短調ミサ」など色々ありましたが、どれも充分に準備に時間をかけることができ、公演自体も良いものになりました。

 

 

 

2019-2020年シーズンも盛りだくさんです。

新シリーズ「DANCE!!!」お披露目後はすぐにベルリンでの仕事が始まります。

「第九」をペトレンコ指揮でザルツブルグ音楽祭、その後はベルリオーズ、ベートーヴェン「ミサソレムニス」などなどなど。

結局は仕事しっぱなしですね・・

 

僕はドイツでの仕事が休みの時にしかコンクール挑戦や日本でのコンサートができないので、結局休みなしになってしまいます。

 

たまには南国とかでトロピカルジュースをちゅーちゅーしながら、

馬鹿みたいに寝そべって夜はステーキ食べて映画見たい。

 

ソリストとしては今のところ「第九」と「マタイ受難曲」が決まっています。

あとは新しいCDをリリースしたいと思っています。

 

 

でも、僕にとってはなんといっても、

4年に一度のバッハ国際コンクールが2019-2020年シーズンの最も大きなイベントとなるでしょう。

4年に一度の、まさにオリンピックですから、僕も命をかけて挑みたいと思います。

 

 

 

 

さてさて、2019年シーズン最後のJudgementがすぐそこに近づいています。

 

どう結果が転んでも、受け止めて僕の言葉でまた綴りたいと思っています。

 

自分自身が一番知っているでしょう・・

この一年間どれだけ頑張ってきたかは・・!

油断すると、ブログに投稿できないまま平気で1ヶ月が過ぎます。

 

 

仕事で、バルセロナの世界遺産・カタルーニャ音楽堂で歌ってきました。画像は拾い物

僕にとって初めてのヴェルディ「レクイエム」でしたが、1400人のDies iraeはただただ爆音。

しかも僕はチューバの真後ろに立つという素晴らしいポジショニングだったため、

終演してホテルに帰った後も多少の耳鳴りが残りました……

 

 

というわけでスペインで食べた天才的グルメの一部をご紹介。

タパス 

色とりどりなタパス。

 

エビのアヒージョ。

 

 

おきまりのパエリア

 

 

フォラグラ。

 

 

お酒もすこし飲んでしまいました。ちょっとだけね。

サングリアを満喫するぼく。

次の旅行は6月末にブラームスのレクイエムを歌いにトルコ・イスタンブールに行ってきます。

 

 

 

 

今はベルリンでおとなしくPentatone社の元でブルックナー作曲「ホ短調ミサ」のCDレコーディングの日々です…

40分の曲を、毎日10分ずつ4日間かけて……

その10分の録音を、毎日5時間かけて何テイクもするのです…

5時間歌いっぱなしで、そのうちたった10分、1/30だけが商品になるのです…

信じられないほどの忍耐が必要です……プロの現場はハードの一言です。

 

 

突っ走り過ぎて前傾姿勢になってきたため、ひとつのコンクールをキャンセルする決断に迫られました。

せっかく準備をしてきて残念なことではありますが、身体や精神を壊してしまったら元も子もありません。

 

また実力を上げて確実に勝てるようになったとき受けられるといいなと思います。

具体的にはこの秋から…

中日新聞本社での心温まるコンサート「郷愁」は、大成功に終わりました。

 

会場のお客様みんなで歌う「見上げてごらん夜の星を」が格別だった。

またみなさんの歌声を聴きたいな。ああいう時間が流れているとき僕は、音楽が大好きなのだと感じる。

 

 

 

仕事柄、ひとりで歌うより同僚と複数人で声を合わせることが多いのもあるけれど、やはり音楽の基本はアンサンブルなのだと感じます。

心と心のふれあい。音楽はいとも容易く心と心を繋いでいきます。

 

 

 

次いで栃木県の石橋総合病院さんで催された音楽祭にゲスト歌手として何曲か歌いました。

テノールの親友との珍しい共演を果たしました。

地元の合唱団の子達と共に歌ったStand alone。心温まる時間でした。

栃木県を堪能する時間がなかったのが惜しいです。また来たいな。

 

 

 

昨日は、本滞在の最後の演奏会でした。 

いちおうデュオコンサートなのですが僕メインだったのでえっらい大変だった。

初めて「ラ・ボエーム」のハイライトをやりましたが、これが実に準備に時間がかかった。

舞台姿が良くなった。

 

 

ただの近況報告になってしまったのですが、中身のない記事もたまにはご容赦ください。

また7月に帰ってきます。

遠くわけのわからないところから帰ってきた浦島太郎のような心境で、降下する飛行機の窓から

故郷の風景をぼぅっと眺めていた。

 

 

飛行機から出た僕を真っ先に出迎えてくれたのは、僕の幼い頃からのヒーローだった。

SMBCかどこかのコマーシャルに起用されているらしい。

 

そこで僕は心から知ったのだ。

 

この英雄の引退とともに

平成という時代も幕を下ろしたのだと。

 

 

そうして悟った。

 

 

僕たちが生まれた平成という時代は

もう僕たちとともに流れることはない。

 

 

その事実が 僕の胸の中に謎めいた空虚感をおおげさに演出していて、

夏の日のようにじりじりと陽炎ゆらめく飛行場の地面をにらんでいた。

 

 

 

【中日新聞本社でのコンサート】

中日新聞さまにお招きいただき、中日新聞本社でコンサートをさせて頂く運びとなりました。

事前予約不要。500円。

名古屋の方はぜひぜひいらしてください。

 

 

日本の舞台であればぎりぎり僕のレパートリーの限界になり、

ヨーロッパの舞台であれば僕のレパートリーから外れるであろうオペラ、『ラ・ボエーム』(プッチーニ作曲)について書いてみます。

この役は本来テノーレリリコ・ドラマティコのためのものであり、テノーレリリコである歌手にとっては無理をさせられる部分もいくらかあるからです。



多くのテノールのあこがれであるこのオペラは、
簡単に僕たちを惚れさせておいて、
その役をモノにするのは至難のワザです。


厄介なことに、
このオペラの詩人ロドルフォという役は、
多くのテノールに「この役は俺にぴったりだ」と勘違いさせる魔力を潜ませているのです……


あれこれ書く前に、この役を歌う条件を書いてしまいましょう。

・お相手役(ミミ)を、一曲のアリアだけで恋の魔界に落す強烈な男性的魅力

つまりは顔とプレゼンスと雰囲気。



・印象派的音楽を描く繊細優美な筆遣い

なんといったってキャラクターの職業が「詩人」です。
霊感と直感を頼りに霞を食って生きながらえているような人種です。

その詩人のしぼり出す言葉一つ一つに炎を点してあげなければならないのです。



・ヴェリズモ的なオケの厚みに耐える厚い声

前述の繊細優美を持ちながら、このオペラのオーケストラの厚みに耐える強靭な声が必要です。

その音楽の要求は決して容易なものではありません。かなり肉肉しく書かれていると言っても大袈裟な書き方にはならない。

いまの世の中誰でもかんでもスターテノールはコンサートでこのオペラの中のアリア『冷たき手を』を歌いたがるが、間違いだと思うし、
後進の全世界のテノール歌手たちを間違いへと導くと思う。


だいたい、このアリアの最高音ハイCが若くして楽々出るようならば、そのハイCはヴェリズモのためのハイCではなく「ロッシーニハイC」。

(ここでは悪意をもってそう記述しますがロッシーニとて裏声交じりに高音を出していいというわけでは全く無い)

そんなフェイクのハイCなんぞ誰も舞台で聴きたくはないです。


繊細優美さと強靭さのどちらも持ち合わせていることがこの役の条件となります。
(本当は、ね…… 実際の舞台ではただマッチョなだけで押し通す系ロドルフォが多いです。残念ながら。)



・強靭なハイC
そもそも、強靭なハイCを出せるテノール歌手は世界でも多くは存在しません。
ドイツの現場ではまだ見たことがない。

テノールの最高音に対するきちんとしたメソッドはツチノコ的存在です。SSランク〜Sランクの現場はまだ僕は居たことがないのでなんとも言えませんが、Aランクの現場でも皆無です。


ヴェリズモ的ハイCとは、怪我のリスクと隣り合わせのもので、そうであって然るべき黄金の果実なのです。


凄まじいプレス力、圧縮力の力が前提にあってなされるものであり、舞台上では最高の緊張に包まれる音楽と観客とそして自分自身とのあらゆる意味において良好な瞬間。それのみによって完成されます。

逆説的に、失敗したハイCの例をいくつも知っておくことも、成功はしなくても少なくとも大失敗しないことへの道でしょう。

1.裏声気味になる
裏返りたくない、と身体がこわばると必ず他の部分で音を補助しようとします。

2.下に押し付けるような叫び声になる、がなり声になる

3.出てはいるものの音程が低い
「As-Cの長3度」という見方は「Cを出さなければならない…」という緊張をいくらか和らげ、Cの音の中にAsの音の柔らかみ、厚みを入れ込むことができますが、Cをきちんとした高さにはめ込むことは必然的に難しくなります。

4.出てはいるものの音程が高い
支えられていない、ファルセット的Cの場合がほとんどです。




多くの巨匠的テノールはこのアリアを半音下げて歌っています。

あのパヴァロッティも、カレーラスも、コレッリも、何回もカットしては録り直せるスタジオ録音でない限り、ほとんどが半音下げ。
最高音がH音、シの音になるようにして。



ところが現代では「ハイC!!!」という看板が目の前に来すぎて、歌手が半音下げで歌うオプションを選びにくくなっている&現代の標準ピッチである440Hzはプッチーニがこの曲を作曲したピッチよりも少し高い可能性があることからも、

いかに現代のテノールたちは無理強いをさせられているかよく分かります。

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歌う前に息を鼻から吸うか、口から吸うかという議論は度々なされます。

 

 

僕個人の話を先にすると、必ず口で吸います。

何よりもイタリアでそう教え込まれたから、そう慣れてしまったのですが。

 

 

鼻から吸う派の人の意見は、

鼻から吸うとより深くリラックスできる、ということです。

(口から吸っても深くリラックスするチャンスはあると思うのだけれど・・)

 

それと僕的には「?」なのですが、

舞台上で口から吸うと口が乾燥する、ホコリを飲み込みやすい、と意見をする先生がいるとも聞きました。

 

 

 

口から吸うことの大きなメリットは、

歌の初歩的な段階において、

「喉から発語する」「舌に邪魔されずに喉からダイレクトに声が出ている」感覚を得やすいということです。

 

 

 

鼻から吸うことのデメリットは、

声がどこから発生するのかが息を吸うこととリンクしにくいということです。

 

 

鼻から吸っても、声は鼻からは生まれません。

もし声が鼻から出てきたとしたら・・それは息が漏れています。悪い意味での「マスケラ唱法」です。

びゃーっといったあの嫌な鼻声テノールの声も、

低音域で支えきれていない浅いソプラノの声も、この「マスケラ唱法」の産物です。

 

 

 

 

でも口から吸ったら、口から歌は出てきます。シンプルなのです。

そのシンプルさを追い求めてここまで練習してきました。

 

 

 

 

でも、より良い形は、

(こんな言い方をするとうさんくさい声楽教師のようですが・・)

 

 

腹から吸って、腹から出てくる歌です。

 

 

 

今まで、「とにかくたっぷり吸う」ことを第一に吸っていたのですが、

それが体の力みにつながっていることに気づきました。

 

かといって「たっぷり吸わなくても良い」という無粋な結論には至ってはならないのです。

 

 

深く強く、必要な分だけ吸う。

 

 

息が足りなくなるくらいならたっぷり吸って空気を保管しておきたい。

誰でもそう思うでしょう。

 

でも実際は、空気を節約し始めると、空気を多く取り込もうとすると、

身体は力み始めます。

 

 

 

実際のお客様を前にした演奏において身体が緊張するのは、

息を吐く時、

あるいは充分に吸っていなかったがために起きたフレーズ最後の息切れのときではなく、

 

案外、吸いすぎた時、

あるいはその吸い方に力みがあったときなのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

そして歌においては、

吸う、吐く、そしてもうひとつの隠された息の使い方があります・・

 

「止める、あるいは止まったままにしておく」という使い方です。

 

このことを説明する教師にはいまだ会ったことがない。

どんな教師でも、どうやって吸うかはそれぞれの言い方があって、

音とともにどう吐くかも誰でも言える。

 

 

でも、

「息を止める、あるいは止まったままにしておく」

という息の使い方について具体的に説明する人はあまりいないでしょう。

 

「歌のフレーズ始まりには必ず吸わないといけない」

というあたかも常識に聞こえる教え自体が、

もしかしたら「息を止める/止まったままにしておく技術」の存在を忘れさせてしまっているのでしょう。

 

 

まだイチロー選手の引退を受け止めらないまま、
彼が残した偉大すぎる功績を、
動画などを通して再び確かめています。


いつかは来るかもしれないと思っていたその刻はとうとう来てしまったようです。



彼の仕事への向き合い方は、
僕にとって永遠の模範であり、バイブルです。