いわゆる良い演奏会のためには、聴衆の皆様の集中は欠かせない。
良い演奏会が成し遂げられたのであれば、全く大袈裟な話でなく、
半分は(或いは半分以上は)聴衆の皆様の協力的な姿勢と集中力のお陰である。
想像するに、至福の音楽の最中に、極めて集中力の高いピアニッシモの弱音の響きのさなかに、
客席で誰かが喋っていたり、
そこら中で携帯の着信が鳴り響いたり、カメラのシャッター音が聴こえるとしたら、それは幸福な時間だろうか?
私の意見では、その逆だ。
研ぎ澄まされた集中は、幸福な時間は、
そういった一瞬の妨げによって、
めちゃくちゃに壊されてしまう。
集中できることと、幸福であることには、
とても強い関係性がある。
もしかすると、集中と幸せは、殆ど同意義と言っても言い過ぎではないかもしれない。
集中できる時間は幸福であるが、
逆説的に、
幸福とは素晴らしい時間の(連続的)集中だ、と言うこともできるだろう。
そして、早速本記事の結論を述べると、
現代の必須ツールと言われて久しいスマホとは、そのふたつの大いなる敵であるように思う。
去年の夏、
愛する息子がまだ生後3−4ヶ月だった頃、私は、
「自分自身の幸福が何かしらによって蝕まれている感覚」を無視することができなかった。
でも、それが何なのかはっきりと可視化することができず、ただただ悶えていた。
毎日のように成長、変化していく息子を見る日々は、確かに楽しい。
ただ、それは私が30年間の人生において享受してきた「幸福感」とは異なるものだった。
私の「本来の幸福」は、どこへ行ってしまったのだろう?
もうどこかへ出かけたきり、帰ってこないのだろうか?
この時期を通して私は、
このままでは破滅してしまう、
多くの「当たり前」を見つめ直さねばならない、
そんな気がして、そうして実際に見直した。
今までスマホ一つで済ませていたメモ取り、
To doリストを紙媒体に戻す、
という小さなことから始め、
「晩御飯はしっかり食べなければならない、三食しっかり食べるべきである」という当たり前を見直して、
タンパク質豊富な朝食、昼はごく軽い軽食、夜は野菜を中心に18時までに食べ終えるのを目標に据えた。
イライラしながらジャンクフードを貪るのをやめて、バナナやナッツを毎日のように摂取するようにした。
本を読む時間を最優先にした。
幾つものことを同時にする横柄なマルチタスキングを、きっぱりやめて、
一心不乱、謙虚にひとつのことに取り組むスタイルに変えた。
スマホの画面を見る時間(スクリーンタイム)の記録を見て、いかに減らすことができるか考えた。
何もせず、ぼうっと宙を見つめる時間を、愛すべき時間と捉えることにした。
「いつもメールをチェックしておき、連絡はすぐ返すべき」を見直して、メールやSNS返信に充てる時間を限定した。
つまり、意味の無い「24時間営業」はやめて、自分の幸福のための時間を確保するように考え方を変えた。
・・要するに、齢33にしてようやく、
まともに生きる決心を付けたのだ。
鬱にも似たその心の健康状態は、その後しぶとく4−5ヶ月続いたが、
年が明ける頃にはすっかり良くなって、
今は息子が生まれる以前同様、
いや、それにも増して身体中が幸福感に満たされているような感覚と共に、毎日を有り難く生きている。
それからというものの、
明らかにより多くのものを、
より高い解像度で“視ら“れるようになった。
明らかにより多くの音が聴こえるようになり、
人の名前、時間、言語、より多くのことをより長く記憶に留めることができるようになった。
例えば、楽譜を見るやいなや、以前より明らかに速く“交通整備“ができるようになった。
電車に乗ると、どんな方々が同乗していて、どんな服を着ていて、そこでどんな音が聴こえて、
どんな匂いがして、席に座る人々が何をしているか、
以前よりずっと鮮やかに記憶に刻まれる感覚がある。
新出の英(あるいは独)単語に出会うと、以前は辞書を引いても数秒後にはすっぽり抜けていたのが、
以前より明らかに長く頭の中のライブラリーに残ってくれている。
日常的に、母国語でないドイツ語や英語を喋っていると、
今日は「調子」が良いか悪いかくらい、すぐに分かるものだ。
調子が悪いと、少し聞き取りにくいし、もともと拙い語学力もあって言葉に詰まる。
日本語だけ喋っているならば、言葉に詰まるなんてことは有り得ないのだけれど。
ただ、「調子」の悪い日がとても少なくなった。
ジムに行くと、私は自らの胸や脚がゆっくりとストレッチしては収縮するのを感じる。
バーベルを担ぎ、息を深く吸いながら身体を沈ませ、そして強く息を吐きながら爆発的に立ち上がる。
地に縛られた重荷を、刹那にして天へと解き放つ。
スクワットの喜びは、動物的であり、何物にも変え難い。
そして、これまでの人生を振り返るに、
私はなんと古ぼけたレンズを通してこの世界を見つめていたのだろう。
いや、そもそもきちんと見つめていたのだろうか?
流れていく景色を、ぼうっと眺めていただけなのではないか?
なんと多くの時間を、無駄に、役に立たないごみを捨てるように過ごしていたのだろうか。
ある時から、息子と共に過ごす時間の中で、
息子に喋りかけながら、息子と遊びながら
「この仕事ができていない」だとか
「今日もこれができなかった」と考えるのをやめた。
かけがえのない時間が、あまりにもったいないからだ。
そもそも、誰かといるときに(それがたとえ言葉がまだ通じない赤子だとしても)100%向き合わないという馬鹿なことがあろうか?
そんな失礼なことが許されるだろうか?
落ち着いて考えれば当たり前に答えが分かることだが、私は当時、それほど焦っていたのだ。
日々の寝不足、練習時間が存分に確保できていないこと、将来への不安・・。
私は何にも集中できていなかったのだ。
そして常に不安に惑わされていた。
それを、ある時から、今ある意識を100%、息子を観察することに向けることにしたのだ。
まだまともに言葉を知らない息子は、何を私に伝えようとして懸命に泣き喚いているのだろう?
その時間、私はスマートフォンを手の届かない遠くへ置き(本当は潔く電源オフにしたいくらいだ)、
息子との時間を集中して楽しむ。
ああ、集中するということは、
集中できるということは、なんと幸せなことだろうか!
音楽と向き合う時、
ジムで自分の身体と向き合う時、
パソコンを目の前に仕事と向き合う時、
私はスマホを機内モードへと切り替える。
欲張らず、謙虚になって、
目の前にあることのみに集中する。
同時に幾つものことを考えたり、しようとしない。
ただ目の前にあることと向き合う時間を大切にする。
私が「脱スマホ」へと向かっている限り、
私の幸福感が揺ぐことはないだろう。
それは私にとって、「幸せであることを妨げるもの」を排除する努力なのだ。















