ハンガリーで政権交代が起きた理由、16年間続いたオルバン体制の終焉、今回の選挙が示す3つの教訓…政治はどう変えるものなのか?(Wedge(ウェッジ)) - Yahoo!ニュース

 

ハンガリーで政権交代が起きた理由、16年間続いたオルバン体制の終焉、今回の選挙が示す3つの教訓…政治はどう変えるものなのか?

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Wedge(ウェッジ)

ハンガリー首相の座を降りたオルバン氏(ロイター/アフロ )

 

 4月12日のハンガリー議会選挙でペーテル・マジャール率いるティサが地滑り的勝利をおさめ、

マジャールがオルバンに代わって首相に就くことになったが、

国際戦略研究所(IISS)のグルド‐デイビス(元駐ベラルーシ英国大使)が

その重要性と意味あいを論じている。

 

要旨は次の通り。

 

  4月12日の議会選挙において、ペーテル・マジャールのティサ(尊重と自由)は16年間政権にあったビクトル・オルバンのフィデスを破り、圧倒的な勝利をおさめた。

 

  これは、制度的な装置、メディア支配、政治的縁故主義、そして、

このような結果を阻止するためにオルバンが構築した選挙制度を克服した目覚ましい功績である。

 

重要なことは、票の集計作業が政治的干渉を受けなかったことである。  オルバンはホワイトハウスとクレムリンの双方の支持にもかかわらず敗北した。  オルバンは彼の勝利を予測した少数のフィデス系の世論調査を信じていたようで、敗北の大きさにショックを受けたと伝えられる。信頼すべき情報によれば、選挙結果が接戦または争われる場合には、野党陣営を混乱させるために訓練された、ロシア系統のものを含む「ならず者」を展開する計画が用意されていたという。しかし、フィデスの敗北が非常に大きかったためにオルバンは投票終了後すぐに敗北を認めることとなった。

 

 

  これは、運命を決する流動的な政治的瞬間である。マジャールには変化のための圧倒的なマンデートがある。しかし、彼はオルバン時代のネットワーク、機関、縁故会社、その他の利害関係の濃密に張り巡らされたシステムを継承するのであり、それは彼に制約を課そうとする。  ティサには議会で3分の2の多数があることが、マジャールが断固として行動することを可能にする。ハネムーンは決して続かない。遅かれ早かれ、妥協、取引、対立という普通の政治が不可避的にやって来る。

 

 

 ティサの活動期間は2年に過ぎず、何よりもオルバンに反対して結束した連合である。その議員のほとんどは、政治は初めてである。統治能力がテストされたことはない。  マジャールは機会を最大限に活かすべく迅速に行動しなければならないことを承知している。彼はエネルギッシュで闘志溢れる構えを既に見せている。  特に、大統領と国営メディアに対する強い批判がそれである。初期のプライオリティの一つは枢要な機関、特に外務省とインテリジェンス部門からロシアの影響力と繋がりを根絶することだろう。  オルバンは欧州連合(EU)においてロシアの手先としてのユニークな役割を演じていた。これらの繋がりを白日の下に晒すことはオルバンが復活を試みることを難しくすることにもなる。また、マジャールは欧州あちこちの右派政党に対するハンガリーの支援のインフラを解体するであろう。

 

 

  この選挙は三つの教訓を提供する。

 

 第一に、

権威主義の指導者の共通の弱点は、彼等は権力のシステムは築くとしても、政治的現実に対する感覚を失うことにある。

 

  第二に、そのような指導者を敗北させるには、上からのエリートの離反に加えて

下からの大衆の動員(特に、若い市民の動員)をすることである。

後者だけでは十分でない。

 

 

  第三に、選挙に対する外部の影響力は重要であるが、その効能には限界がある。

不器用に使うと逆効果ですらある。

選挙は国内問題で勝ち負けが決まる、

とりわけ、この場合のように経済で決まる

 

  マジャールは賢明にも分裂を招く文化的な問題ではなく経済に焦点を当てた。彼はハンガリーの経済的苦境の根底にある根深いシステムをも改革しつつ、生活水準を改善せねばならないことを承知である。恐るべき課題が前途に横たわる。

 

 *   *   *

 

平らでない競技場に対抗

 4月12日のハンガリー議会(一院制)の選挙はマジャール率いるティサの地滑り的勝利だった。投票率はほぼ80%に達した。  ティサによるこの圧勝は誰も予測しなかった。総議席199を分け合ったのは3党だけである。獲得議席はティサ:138(得票率:53.0%)、フィデス:55(38.4%)、我等が祖国(極右政党):6(5.8%)だった。  これは、マジャールを支援する意味で幾つかの政党が選挙戦から撤退したことと、4党が議席獲得に必要な得票率5%に達しなかったことも影響した結果である。これまでの議会はオルバン率いるフィデスが圧倒的多数の135議席を有し、その他は8党ほどの弱小政党という構成だったから、議会は大きく様変わりした。  マジャールが政界で頭角を現したのは政権のスキャンダルが契機だった。児童への性的虐待事件の隠蔽を図った人物に大統領が密かに恩赦を与えていたことが発覚して大衆の抗議行動を誘発し、2024年2月に大統領と司法相(マジャールの離婚した元妻)が相次いで辞任することになった。  これを契機に、マジャールはフィデスを飛び出しそれまで無名の存在だった政党ティサに加わったが、以来、彼はティサを率い、政権の腐敗に焦点を当て、特権階級が私腹を肥やしている実態、経済の停滞、劣悪な公共サービスを告発する活動を展開して来た。  ハンガリーの選挙制度(小選挙区制と比例代表制の併用)には特徴的なことがある。小選挙区の勝者の次点との票の差が勝者の党の比例代表制の得票に上乗せされることになっている。つまり、全国的に強い政党には追加的なボーナスが与えられることになる。

 全国的な組織と結束した支持層を持つフィデスに対し、支持が首都の他幾つかの都市に偏る分裂した野党ではどうやっても勝てないはずだった。事実、フィデスは14年選挙以来、50%程度の得票率で3分の2の多数を常に維持して来た。  オルバンが構築した平らでない競技場で勝つために、マジャールはオルバン追い落としによる政権交替を目標に政党の枠を超えた全国的な運動を起こすことを戦略とし、全国を行脚したとされている。これが成功した。

 

 

 

マジャールの至上命題

 上記の論説は、マジャールが断固として迅速に行動すべきことを指摘している。彼もそのつもりと見受けられる。

 

  彼は「国民は単なる政権交替ではなく完全な政権交替に投票したのだ」

「この国は人質にされていた、乗っ取られていたのだ」と言っている。

 

彼にとっての至上命題は腐敗の構造を解体することである。

 

  彼は大統領に辞任を求めている。その他、最高裁と憲法裁の長官、検事総長にも辞任を求めている。

大統領には法案を議会に送り返す、または

憲法裁に合憲性の審査を求める形での拒否権があるので、

改革を円滑に進めるにはフィデスの盟友とみられる大統領の交替(大統領は議会が選出する)は

譲れないところであろう。

 

  その他、腐敗のネットワークは大学、国営企業、メディア、シンクタンクにも及んでいる。

必要とあれば、議会の3分の2の多数で憲法を改正して障害を除去してでも改革を進めるということであろう。

 

  ハンガリーの大統領については、従来、議会は単純多数で大統領は職務を遂行し得る状態にないことを宣言出来ることになっていたが、昨年12月10日、オルバン政権は、議会による解任の合法性を憲法裁の審理にかかわらしめ、憲法裁が解任を拒否出来るとする法案を成させた。この規定の改正には3分の2の多数を要する。現在の大統領は元憲法裁長官でフィデスの盟友とみられるが、その5年の任期は2030年まである。

岡崎研究所

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高橋洋一・政治経済ホントのところ【防衛相、東南アジアへ】安全保障、経済面で好影響 北國新聞単独連載(北國新聞社) - Yahoo!ニュース

高橋洋一・政治経済ホントのところ

【防衛相、東南アジアへ】安全保障、経済面で好影響

 北國新聞単独連載

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北國新聞社

 小泉進次郎防衛相は、インドネシアでシャフリィ国防相と会談し、防衛協力を拡大するための協定に署名して、高官級の対話の枠組みを創設した。フィリピンの国防相とも懇談し、東・南シナ海で覇権主義的な動きを強める中国を念頭に海洋安全保障の連携強化につなげる。  まず、インドネシアと中国の関係を見ておこう。中国はインドネシアの最大貿易相手国であるし、経済面(一帯一路)で深く結び付き、プラボウォ政権下で「運命共同体」の構築を掲げ協力関係を強化している。しかし、安全保障面では、インドネシアは南シナ海の権益問題や国内の反中感情など潜在的な緊張も抱えている。  かつての日本であれば、経済関係が外交指針であったので、なかなか中国の壁を破れなかった。  しかし、高市政権は、インドネシア・中国の安全保障面に付け入る隙があると考えた。そこで今回、日・インドネシア間で海洋安全保障や防衛装備・技術協力を拡大する新たな取り決め(DCA)に署名した。同時に、ハイレベルな対話の枠組みが創設され、ASEANの大国との連携を強化し、防衛産業や人材育成面での協力を深めることができた。  この日本の動きの背景には、インドネシアがマラッカ海峡に面し、シーレーン(海上交通路)の世界でも最高要衝に位置する重要パートナーで、防衛面での連携が不可欠ということがある。訪問先としてインドネシア、フィリピンを選び、対中国を意識した地域的な安全保障協力の安定を狙っている。  安全保障面での連携の次には経済面に広げることがあり得る。かつて、インドネシアの「新幹線」において、日本と中国の提案が激しく競合し、2015年にインドネシア政府は中国を選んだ。

 

 

  その結果、中国主導で建設され、2023年10月に東南アジア初として

ジャカルタ―バンドン間(約142キロ)で開業した。

最高時速350キロで約40分で結ぶ路線だが、

建設費高騰と利用低迷により赤字が深刻化しており、

26年時点ではインドネシア政府が相当な国費を負担することとなっている。

 

24年に就任したプラボウォ大統領は重い負債を前政権から引き継いだ格好だ。

 

  安全保障面で信用が得られれば経済面にも好影響となることを期待したい。 

 

(たかはし・よういち=嘉悦大教授)

 

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アヘン戦争が起こらざるをえない「世界史的な必然性」とは何だったのか【世界史のリテラシー:岡本隆司】 - Yahoo! JAPAN

 

アヘン戦争が起こらざるをえない「世界史的な必然性」とは何だったのか【世界史のリテラシー:岡本隆司】

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アヘン戦争が起こらざるをえない「世界史的な必然性」とは何だったのか【世界史のリテラシー:岡本隆司】

なぜ、アヘンをめぐって戦ったのか?

アヘン戦争の歴史的意義とは、いったい何だったのでしょうか。

一八四〇年以後から日清戦争、辛亥革命、中華民国、そして中華人民共和国の成立へ──。清朝のありようとその変遷を象徴する事件を軸に、未だ真の革命を成就できない「中国」の核心に迫る『世界史のリテラシー 清朝は、「中国」に何をもたらしたか アヘン戦争』。

今回は、早稲田大学教授の岡本隆司さんによる本書第1章より、イギリスがアヘン戦争の発端となる所業に手を染めた「歴史的な事情」についての解説を公開します。

イギリスが当時すすめていた産業革命との関わり──アヘンを持ち込んだイギリス

「アヘン戦争」とは文字どおり、アヘンをめぐる戦争でした。しかし今から考えますと、なぜアヘンのような麻薬が、戦争のきっかけになったのか、わかりづらいかもしれません。それなら、まずはその点が「世界史のリテラシー」としても重要かと思います。

 麻薬のアヘンを中国に持ち込み、売り込んだのは、誰もがよく知るとおり、イギリスです。では、なぜイギリスが国家ぐるみの薬物密売事業をやっていたのか。ただ悪い、犯罪的だ、と非難糾弾(きゅうだん)するだけなら、とても簡単です。しかしそこで終わりでは、ほとんど思考停止、何も考えていないのと同じです。

 今日からみて、そんな悪逆非道(あくぎゃくひどう)なことが、なぜ当時その地でまかりとおったのか、なぜイギリスがそんな所業に手を染めたのか。そこまで考えなくては、歴史の思考にはなりえません。

 イギリスといえば紅茶の国ですが、もともとそうだったわけではありません。当時もまだ欧米で喫茶が普及し、定着したころでした。そのためイギリスは十八世紀以降、大量のお茶を中国から輸入するようになっています。お茶はまだ中国でしか買えない時代だったのです。

 ところがイギリスは、自分から中国に売り込むものがなかったために、お茶の代価として厖大(ぼうだい)な量の銀を支払わなくてはなりません。ひらたくいえば、貿易赤字に悩んでいました。

「これはまずい」ということで、インド産のアヘンを中国に輸出することで利益を上げ、流出していた銀を回収しようとした、といったことが世界史の教科書には書かれています。そのアヘンは麻薬なので、もちろん禁制品でした。だから密輸をめぐって、清朝政府と紛糾して、戦争にいたったのです。

 以上の記述は、まったくそのとおりに納得できるでしょう。また、それが誤っているはずもありません。ただこれだけではいささか不十分で、いくつか補足が必要になります。

 

 

 まずなぜイギリスが、そんなにたくさんのお茶を中国から輸入したのか、そして貿易赤字では、なぜダメなのか。そしてなぜ、その補塡(ほてん)物として、禁制品・麻薬のアヘンが出てくるのか。

 

 考えなくてはならないのは、以上のような、いわば加害者側のイギリスの歴史的な事情です。そこの理解は欠かせません。いずれもイギリスが当時すすめていた産業革命との関わりがあり、したがってイギリス一国にとどまらず、中国もふくむ世界史全体の動向と深く関連しているからです。

 イギリスが中国と貿易を本格的にはじめたのは、そう昔にさかのぼることではありません。大航海時代から先発していたポルトガルや、それに代わったオランダなどよりも遅くて、十八世紀に入ってからでした。この二国は、日本に渡来した「南蛮(なんばん)」や「紅毛(こうもう)」としても有名でしょう。

 こうした動きはヨーロッパの経済的な競争・覇権の推移とパラレルです。以後のイギリスの発展はめざましく、とりわけ海軍を中核とする武力とそれを支えた財力で優越し、最終的な勝者となりました。環大西洋の経済圏を中核とした世界経済のヘゲモニーを掌握して、以後のアジアとの貿易を主導します。

 そのなかで起こったのが産業革命です。これでさらに新たな段階への「離陸(テイク・オフ)」が始まりました。現代世界の出発点となります。機械制工業を通じた未曽有の大量生産とそこに関連する大規模な資金移動=金融、それにともなう商品・生活の激変など、われわれも現在進行形で日々経験していることがらの起源です。

 当時のイギリスは、そうした産業革命で綿工業が興隆していました。機械工業の大量生産ですから、製品を販売する市場(マーケット)が必要ですし、原料綿花を調達する産地供給地も欠かせません。いずれもヨーロッパ近隣だけでは、とても足らないので、前者はアジア、後者はアメリカに頼ったわけです。そのためには、いよいよ世界規模の市場・経済を形成しなくてはなりません。

アヘン戦争が起こらざるをえない世界史的な必然性──欠かせぬ世界経済

 つとに大西洋を挟んでアメリカ大陸と一体の経済圏をつくっていたイギリスは、インドの植民地化をもすすめて、その世界経済を完成させていきます。経済の規模拡大とともに、水準が向上したイギリスの生活文化が欧米にひろがり、喫茶の風習も普及し消費も急増していきました。お茶の輸入が増える道理です。かたや大量生産の綿製品も作りますので、いよいよ多くの綿花や穀物をアメリカから輸入しなければなりません。

 

 

 イギリスの工場で作った綿製品の販売で、そうした輸入をまかなえればよいのですが、

中国はお茶の対価として、イギリス製品を買ってくれませんでした。

綿糸・綿布はすでにあっていらないからです。

 

 綿製品はかねて植民地のインドに売り込んでいます。インドはもともと綿花の原産地・綿製品のふるさとでした。その産品がヨーロッパを席巻したことも、そしてその魅力が自分たちで生産したいという欲求をかきたて、やがて産業革命を引きおこす一因になったことも、よく知られているでしょう。

 ところがインドがイギリスの植民地になると、イギリスは関税率などを操作して、欧米にその手工業生産の綿製品が入らないようにして、逆にイギリスの工業製品をインドに輸出し、インドは一方的な輸入国の地位に追い込まれてしまいました。インドにひきつづきイギリス産品を買ってもらうには、インドがそれなりに儲って購買力をつけないといけません。

 

 かたやインドの産物は綿花をはじめ、一定の需要が中国にありました。

イギリス本国の製品が中国ではあまり売れなかったのとは、対蹠的(たいせきてき)です。

ところが、もはやそれだけでは十分ではなく、ほかもいろいろ試みました。

やがて図に当たったのが、麻薬のアヘンだったのです。

 

 このようにイギリスも、長期的な見こみがあって、アヘン貿易を始めたわけではありません。麻薬・禁制品ですので、当初は売り込めるかどうかすら、わからなかったのです。やってみると存外うまくいったので、産地で本格的に商品作物として大量生産を始めました。ベンガルやマルワなど、それぞれブランドにすらなってきます。

 うまくいったのは、中国内にアヘンを買う人がいたからです。買ったのは、中国側の秘密結社*でして、かれらが内地で売りさばき、アヘン中毒の人も増えていきました。

 当時、清朝政府がイギリスに認めていた唯一の貿易港・広州(こうしゅう)で水揚げされたアヘンは、山を越え湖南(こなん)省に入って長江(ちょうこう)まで運ばれ、水路を伝って各地にばらまかれます。また広州から沿海を北上し、ひろがってもいました。末端価格はその間にどんどん跳ね上がっていきます。秘密結社にとっては、またとない資金源になりました。

 もちろん売り込む側も、売り上げが急速に伸びています。十八世紀末のインドアヘン輸入は、統計上およそ四十万人分の消費量だったのが、一八三八年には十倍の四百万人分に増えました。

 この利益でお茶の代価を相殺(そうさい)できたことから、インドと清朝との貿易はインドの黒字、英清貿易はイギリスの赤字、これにインドが赤字の英印貿易を組み合わせて決済する、史上有名な三角貿易が成立します。

 また同じくお茶を買うアメリカからも、イギリスは原料・穀物を買っていましたので、その支払いもアヘン輸出の黒字でまかなえるように、ロンドンの国際金融市場に決済を集約させるグローバルな金融システムをつくりあげました。

 かくて工業生産が増せば増すほど、イギリスのインド貿易が増え、必然的により多くのアヘンが中国に流入しなくてはなりません。逆にアヘン貿易がなくなったら、産業革命のイギリス経済のみならず、世界経済もたちゆかなくなります。そこにアヘンの存亡をかけたアヘン戦争が起こらざるをえない世界史的な必然性がありました。

*当時の漢語では「会党」などと総称し、個別には天地会・洪門・三合会などとも呼ばれる。「反清復明」を掲げつつ密輸・地下経済に関与し、アヘン流通の仲介や護衛を担った。

 

『世界史のリテラシー 清朝は、「中国」に何をもたらしたか アヘン戦争』では、

・なぜ、アヘンをめぐって戦ったのか?
・清朝は、明朝のアンチテーゼだったのか?
・アヘン戦争は、清朝の秩序・体制を変えたのか?
・現代の中国は、清代からどのように変わったのか?

という4章構成で、アヘン戦争の歴史的意義と「中国」の核心に迫ります。

著者

岡本 隆司(おかもと・たかし)
早稲田大学教授・京都府立大学名誉教授。1965年、京都府生まれ。神戸大学文学部卒業、同大学大学院文学研究科修士課程修了、京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。専門は東洋史、近代アジア史。著書に『近代中国と海関』『属国と自主のあいだ』『中国の誕生』『世界史序説』『近代日本の中国観』『歴史で読む中国の不可解』『君主号の世界史』『東アジアの論理』『二十四史』『塩政・関税・国家』など。編著に『宗主権の世界史』『交隣と東アジア』『NHK3か月でマスターするMOOK もっと深く知る アジアから見る世界史』など。
※刊行時の情報です。

■『世界史のリテラシー 清朝は、「中国」に何をもたらしたか アヘン戦争』より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビ等は権利などの関係上、記事から割愛しています。
■TOP画像:via Wikimedelia commons 1850年頃、インドのパトナにあるイギリス東インド会社の工場にある、アヘンで満たされた倉庫を描いたイギリスの石版画。作者のページを見る, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

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馬場 紀寿「仏教が説く秩序の形成と崩壊」

ー公開講座「新たな秩序」2017

東大TV / UTokyo TV

 

馬場 紀寿「仏教が説く秩序の形成と崩壊」ー公開講座「新たな秩序」2017

 

 

2018/10/11

東大TV( http://todai.tv/ )で公開中の一部のコンテンツをこちらのYouTubeチャンネルでもご覧いただけます。 ========== 紀元前5世紀頃、仏教が成立した時期は、ちょうどインドのガンジス川流域で国家が成立し、市場が広がっていく歴史の転換期でした。新たな社会秩序が作り上げられた時期に生まれた仏教は、創造神を否定し、存在や社会について新たな思想を展開して、アジア各地へ大きな影響を与えました。

 

インド仏教研究の方法を紹介しながら、古代インドの歴史的文脈を踏まえ、

思想史的視点から、仏教経典が説く秩序の形成と崩壊を論じます。

  02:54 古代インド仏教の研究方法

  10:44 古代インド社会の成立

  18:57 仏教の誕生

  24:47 仏教が説く個

  37:54 仏教の社会秩序の崩壊

 

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トマ・ピケティ氏、マイケル・サンデル氏、アウンサンスーチー氏らの講演をはじめとして、

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