「貸してた香港」を本土並みへ、「国家の維持」には、当然だ!

「平和惚け」の日本人!

 

チベット自治区、ウイグル自治区、内モンゴル自治区、

「民族の言葉」を奪われ、家庭内部だけで用いられ、

過酷な大学入試は、全部「中国語」で受験!

「民族のエリート」たちは、自然と、「母語」で思考できなくなる!

これが「帝国主義」という事だ!

 

「武力衝突ではなく静かな締め上げ」山口真由氏が分析する香港民主党解散の真相(週刊SPA!) - Yahoo!ニュース

「武力衝突ではなく静かな締め上げ」山口真由氏が分析する香港民主党解散の真相

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週刊SPA!

(日刊SPA!)

 12月14日、香港の民主派政党の最後の砦とも言える「民主党」が党員大会にて解散を決定した。同党の羅健熙主席は、解散の背景に中国政府の圧力があったことを示唆した。’20年の香港国家安全維持法施行後、香港の民主派政党の解散が相次いでおり、民主党の幹部らの逮捕も続いていた。  信州大学特任教授の山口真由氏は、「香港で起きているのは戦車で踏み潰すような支配ではなく、中国流の“静かな締め上げ”」だと指摘する。(以下、山口氏の寄稿)

香港「民主党」解散

 香港の民主党が解散した。これで香港の野党はついに姿を消したわけだが、中国政府との壮絶な戦いの果てというより、やや尻すぼみ感が拭えない幕切れではあった。1994年の結党直後の民主党は確かに輝いていた。香港民主化の父、李柱銘氏を初代主席に戴き、英国統治下最後の議会選挙では最大勢力に躍り出た。その立ち位置から、中国に返還された1997年以降、政府と厳しく対峙する役割を期待されたのは当然だろう。  だが民主党が選んだのは抵抗よりも妥協だった。特に、行政トップと立法府のダブル選挙を控えた’10年、普通選挙を求める民主派各党を尻目に、密室での協議を経て中国政府に歩み寄ったために、決定的に信用を失った。だからこそ、雨傘運動として知られる’14年、その後の’19年に香港で民主化を求める大規模なデモが起こったとき、民主党ももちろん参加はしたものの、中核にはなり得なかったのだ。既存の政党に飽き足らない若い力は、金融街を占拠するなど一時はすさまじいエネルギーを放つも、秩序立った組織も、中国本土の民主派との連携もないまま、やがては瓦解していった。  野放図に理想を語ってデモ行進した若者たち……その比較において、老練な民主党の政治家たちは現実路線を取ったとも評価できる。当たって砕けるより、恥を忍んでも生き永らえる。そうして民主派の受け皿を残そうとした彼らの覚悟も、結局は潰えたのだ。

 

 

最大野党の解散劇に見る中国共産党のやり口

 現在、台湾をめぐる高市総理の発言が物議をかもしている。だが香港の現況は、“武力衝突”のようなわかりやすい侵略はむしろメインシナリオではないと示唆する。1997年の返還に際して、中国は一国二制度、すなわち、選挙で代表を選べると憲法まで作って保証してみせた。返還直後のあの街の変わらぬ猥雑さと自由さは、世界中の人々の危惧を安堵に変えた。だが劇的な侵攻の代わりに、何度も選挙を延期し、批判勢力を分断しながら、中国政府は段階的に香港を手中に収めたのだ。

 

 

  思うに、返還直後に民主化運動の立役者が投獄されるといった“英雄的な死”は意図的に避けられたのではないか。

それは国際世論を喚起し、抵抗のシンボルを作ってしまう。

許されるのは民主党的な、つまりは求心力を失った末の“緩慢な死”のみ。

そうやって戦って討たれるというより、ただ表舞台から消え去ったかに見える民主党。

 

 

ところで「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」との警句は、

老練な兵士の経験と精神は滅びずに受け継がれることを意味するのだとか。

  30年超の民主党の歩みが、香港の次を担う世代に何かを遺したと信じたい。

 <文/山口真由> 

 

【山口真由】 1983年、北海道生まれ。

’06年、大学卒業後に財務省入省。

法律事務所勤務を経て、ハーバード大学ロースクールに留学。

帰国後、東京大学大学院博士課程を修了し、

’21年、信州大学特任教授に就任

日刊SPA!

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中国駐日大使“官邸幹部核兵器発言報道”巡りXに「中国は驚愕している」もツッコミ殺到(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース

 

中国駐日大使“官邸幹部核兵器発言報道”巡りXに「中国は驚愕している」もツッコミ殺到

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日刊スポーツ

中国の呉江浩駐日大使のXから

 中国の呉江浩駐日大使が23日夜、自身のX(旧ツイッター)を更新。高市政権の官邸幹部オフレコを前提とした場で日本は「核を持つべき」という趣旨の発言をしたと複数のメディアで報じられた件についての、中国外務省報道官のコメントをアップした。 

 

【画像】ツッコミが殺到した投稿 

 

 この幹部は18日、官邸でオフレコを前提として非公式取材で「私は核を持つべきだと思っている」などと述べ、日本の核兵器保有が必要だとの認識を示したことが複数のメディアで伝えられた。ただこの幹部は、核保有は現実的ではないとの見方にも言及したという。

 

  呉氏は「外交部報道官」のコメントとして「日本の首相官邸の高官が、日本は核兵器を保有すべきだと公然と主張したことに、中国は驚愕している」と記した。

 

そして「これについて日本の内閣官房長官は明確な説明を拒み、日本の防衛大臣は『非核三原則』の見直しの是非について、『いかなる選択肢も排除しない』と発言した。さらに、日本メディアが報じた高市首相による『非核三原則』改定計画と合わせて考えれば、これらの発言は、戦後国際秩序および核不拡散体制に対する公然たる挑発であり、地域および国際の平和と安定に対する重大な脅威であり、『平和的発展の道を歩む』という日本の主張と完全に乖離している」と掲載した。

 

 

  この投稿に対し

 

「『驚愕している』と言われても困る

 核を実際に保有し増強し核恫喝を常態化させ核不拡散条約を都合よく解釈してきた国が

日本の国内発言や報道段階の話を『国際秩序への挑発』と断罪する構図こそが皮肉」

「どの口が言ってんだ?」

驚愕とは白々しい。

貴国が我が国に照準をあわせた核弾頭搭載ミサイルを

いつでも発射できるようにしていることは公然の事実

「君らの核はいい核なの?」

「現・核兵器保有大国に一切言われたくはありません」

「内政干渉すんなよ」

「クレーマーで食っていけるよ」

「まず、貴方の自国が核兵器を削減してから発言してくださいな」

「日本を批判する前に、自国の核兵器を廃絶したら?」

 

などとさまざまなツッコミや反論が相次いでいる。

 

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感謝です。

 

「無い」と分かって夕方で閉まる・・・

コンビニに行ったが「無かった」。
牛乳も「売り切れ」…
しゃーない、明日もどうせ朝6時出勤である。
牛乳と絆創膏を「買い」に行く。

 

コンビニエンス・ストアが、日本全国に、いき渡り、

「今まであった、普通の個人商店」が、みな「お年寄り」になって、

店「仕舞い」になって、街が「シャッター通り」になってしまった。

 

「立地条件」を、

客数の予想や好みの結果データも用い、計算機で、予測して、

経営が成り立つ「適切な間隔」で、

「お店」が出没する。

 

これが、戦後80年で、出現した「幸せな世界」

 

 

 

 

インドを訪問したプーチン、その成果は「湿った爆竹」だった…戦略的自律を保持したインドの狙いと危険性とは?(Wedge(ウェッジ)) - Yahoo!ニュース

 

インドを訪問したプーチン、その成果は「湿った爆竹」だった…戦略的自律を保持したインドの狙いと危険性とは?

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Wedge(ウェッジ)

インドを訪問したプーチン大統領(左)を公式歓迎式典で迎えるモディ首相(ロイター/アフロ)

 ASPI(豪州戦略政策研究所)のラジャゴパランが、12月4〜5日のプーチン大統領のインド訪問では見るべきことは何も起きなかったが、モディ首相にとってはそれが「丁度ぴったり」だったのだろう、という論説をASPIのThe Strategistに掲載している。要旨は次の通り。  インドの西側パートナー諸国との関係の泣き所はインドのロシアとの強固な関係である。特に、2022年のロシアによるウクライナ侵攻以来、そうである。  12月4、5日のプーチンのインド訪問には大きな注目が払われ、インドのメディアの報道は両国間で武器と経済の取引が行われるだろうと示唆していた。しかし、プーチンの訪問は「湿った爆竹」(期待外れの意)だった。

 

 

 

  では、この訪問の目的は何だったのか?トランプの政策を巡る不確実性との関連で、インドには他のオプションがあることを証明したい、しかも米国および他の西側パートナー諸国との関係で更なる問題を作り出すことなく証明したいとインドは望んでいたであろう。

 

 

  インドは米国との関係で、5月のインドとパキスタンの軍事衝突の解決に対するトランプの貢献についての対立、インドに対する米国の関税を含め、騒々しい局面を通過しつつある。それゆえ、インドには他にもオプションがあることを示すことに熱が入る。

 

  このことは、首相のモディが9月に天津でプーチンと習近平に会った時に明瞭だった。習近平との間でモディは、2020年の国境での衝突で損なわれた両国関係を落ち着かせることを試みたが、この戦略はうまくいきそうもない。

 

  しかし、ロシアに寄り掛かることも問題含みである。ウクライナ侵攻はロシアを大きく弱体化したが、ロシアは今や中国にこれまでになく恩義を感じる立場にある。一方、インドはロシアを助ける立場にはない。よってロシアは中国に頼るしかない。

 

  インドはロシアが引き続き重要であることを示すことを試みたに違いない。

外交のプロトコールを破ってモディは空港でプーチンをベアハッグで出迎えた。

二人は別々の車ではなく同じ車に乗った。

 

 

 

 この訪問からはこれ等の象徴的な事柄以外にほとんど何も起きなかった。インドによるSu-57戦闘機の計画、インドによるS-400防空ミサイルシステムの取得の話し合い、アクラ級攻撃型原潜のリースの可能性なども噂されていたが、このような合意は確認されなかった。  署名された合意は貧弱なもので、両国が主張するような深い政治的関係を反映するものではなかった。ロシアとの関係を深めることが米国およびインド・太平洋と欧州のパートナー諸国との関係に不必要な困難をもたらすことをニューデリーは懸念したものであろう。  理想的には、ニューデリーは色々なパートナー諸国の間のバランスを取ることを望んでいるが、そのことは誰も敵に回さないことを意味する。実質的な成果がほとんどない声高な訪問は丁度ぴったりと考えられたのかもしれない。  そのような戦略の危険性は、インドが誰も満足させられない結果となることである。ロシアはインドが十分に支持してくれないと苛立つかもしれないが、他の諸国はインドはやり過ぎだと思うかも知れない。  不幸にして、強力な中国を前にして、インドはすべてのパートナーを必要とすると恐らく考えている。このことは、惨めに失敗する危険が常にあるが、それでもインドはこの綱渡りを演じ続けることを意味する。 *   *   *

戦略的自律を保持したインド

 インドが非同盟を唱えた冷戦の時代から、インドとロシアは強固な関係にある。しかし、過去20年ほどの間に、インドはゆっくりとロシアの軌道を離れ、西側に対する歴史的な不信感を克服して来た。  インドは米国との戦略的パートナーシップを注意深く構築して来た。しかし、突如として、トランプはインドがロシアの石油を買い続けていることも理由に50%の関税を課し、最近の四半期に8.2%の成長を遂げたインド経済を「死んでいる」と蔑むなど、両国関係は冷え込んでいる。  圧力にもかかわらず、インドは耐えているようである。関税の取り扱いを含む貿易交渉はいまだ決着しない。  そういう状況であるので、12月4、5日のプーチンのインド訪問はモディにとってきわどいものであったに違いない。戦略的自律を旨とするモディが如何に訪問をさばくのかにメディアは注目したようである。  訪問の前から、メディアでは訪問の焦点の一つは防衛面での協力だと取り沙汰されていた。インドによるS-400防空ミサイルシステムやSu-57ステルス戦闘機のインドによる取得が議題になるとされていた。  インド・メディアによれば、クレムリンのペスコフ報道官はS-400とSu-57は首脳会談の優先的議題だと言っていた由である。次世代のS-500の共同生産すら議論になるとされていた。  もう一つの注目点は石油だった。ロシアのウクライナ侵攻の前は石油輸入に占めるロシアのシェアは2%だったが、昨年は36%に跳ね上がった。10月にトランプ政権がロシアの石油企業RosneftとLukoilに制裁を発動して以降、インドの輸入は減少に転じたが、プーチンにしてみれば、インドの輸入の継続を期待したいに違いない。石油が首脳会談の議題にならなかったはずはない。

 

 

 

 

 しかし、S-400とSu-57を含め防衛面での具体的成果は何もなかった。石油は話題になったらしいが、議論の内容は明らかにされていない。メディアは肩透かしを食らった形である。  訪問後には、訪問は欧米メディアにはほぼ無視されたようである。インド政府高官は今回の訪問の焦点は経済関係にあったと強調しているが、それにしては共同声明に盛られた成果はインパクトに欠ける。

米国との戦略的パートナーシップは離さない

 「実質的な成果がほとんどない声高な訪問は丁度ぴったりと考えられたのかもしれない」とする、上記の論説の観察は当たっているように思われる。インドには他のオプションもあることをやんわり示せば十分だった。いかなインドとて、この局面で石油について何か成し得るはずもない。  ここで防衛面の協力に更に踏み込むことは、危険に過ぎた。納入が遅れている発注済みのS-400がある模様であるが、納入期限や性能の問題も絡んでいるのかもしれない。  インドにとって、注意深く構築されてきた米国との戦略的パートナーシップを放棄する利益は何もない。米国との関係は構造的なものである。

 

  両国は中国の覇権の野心を掣肘することに共通の利益を有する。

戦略的自律は多極化世界の極の間を揺れ動くことではなく、

米国との強固な関係を維持しつつも米国に呑み込まれることなく

自身の利益を追求する空間を確保することにあると思われる。

 

  モディのプーチンとの共同記者会見でのステートメントにおいて

「過去80年、世界は数多くの変転を目の当たりにして来た。人類は多数の挑戦と危機に当面して来た。

しかし、この状況を通じて、インドとロシアの友好は導きの星(guiding star)のように

揺らぎのないものであり続けた」

とモディは述べたが、

ロシアとの関係が「導きの星」では戦略的自律を放棄することに等しいであろう。

岡崎研究所

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最終更新:

五老峰(仏塔・ストーパ・土饅頭)

高祖・如浄」禅師、「二祖・道元」和尚、「懐奘」、「義介」、「五祖・瑩山」禅師

の「法統」…瑩山禅師が、最晩年、死の直前、2年前に、築いた!

 

 

 

 

 

義介は「道元傘下で永平寺にいた」が、

「懐鑒」禅師に通い修業し「嗣法」した!

つまり、道元からの嗣法を求めていない。

 

「懐鑒」禅師は、早くから、「道元傘下から、出て行き」、

近くに居を構えていた。

 

義介は、道元と懐鑒との、連絡係をしていた。

 

義介は、道元に、「懐鑒の死の最後の状況」を、報告している。

 

義介は、「道元から見て、客人の扱い」のように、感じる。

 

義介は、既に「日本達磨宗」を嗣法しているので、

日本達磨宗だった「懐奘」から、嗣法することは、有り得ない。

 

「僧海」は、道元から嗣法して、「首座」に就いた。

「懐奘」は、「首座」を降ろされた。

つまり、「懐奘」は、この時点では、道元から「嗣法」していなかった。

いつの時点で「嗣法」したのだろうか?

していないとかんがえる。

 

他方、

「義尹」は、道元から「嗣法」している。

だから、「道元教団の代表者」である。

よって、

如浄禅師の「17回忌法要」「27回忌法要」「37回忌法要」の3度、

中国に渡っている。

これは、「懐奘」「義介」「義演」「寂円」…皆が認めている。

 

1253年、

「懐奘」禅師は、「永平寺の寺院運用」を任されたのである。

その時「義尹」は、道元の命令で、中国へ派遣されていたので。

 

「三代相論」は、「嗣法して、いない者」の間で、

同列の関係において、

「義介」の「日本達磨宗への方向転回」に対しての反対運動である。

 

「義介」が、永平寺を出て、独自路線に進んだことは、結果的に正解だった。

 

瑩山禅師の主著『伝光録』が、「懐奘」で終っているのは、

「懐奘」から「義介」への「嗣法」は、有り得ないので、当然である。

 

 

そして、これらの経過を全て含んで、

瑩山禅師が、死の二年前、最晩年に、「五老峰の神学」を創設した。

 

「如浄」禅師を「高祖に据えて、「道元」を「二祖」とし、

「懐奘」、「義介」、「瑩山」禅師自身へと「法が伝わった」という「神学」である。

 

つまり、

「如浄」禅師の法を嗣法することで、「道元和尚の教え」を、完全に封印した。

この理由は、

「如浄」禅師の「中国禅」には、

「天台密教の禅」を、つなぐことは可能だが、他方、

「道元」和尚の「釈尊の教え、原始仏教、諸法無我」には、

「天台密教の禅」を、つなぐことは不可能だからだ。

 

一番重要なことは、

瑩山禅師の「天台密教の禅」は、日本人のあらゆる信仰を取り込み、

日本人の土着信仰に「接地」できることにある。

これで、本当の「日本人の仏教」が、完成した。