インドを訪問したプーチン、その成果は「湿った爆竹」だった…戦略的自律を保持したインドの狙いと危険性とは?(Wedge(ウェッジ)) - Yahoo!ニュース

 

インドを訪問したプーチン、その成果は「湿った爆竹」だった…戦略的自律を保持したインドの狙いと危険性とは?

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Wedge(ウェッジ)

インドを訪問したプーチン大統領(左)を公式歓迎式典で迎えるモディ首相(ロイター/アフロ)

 ASPI(豪州戦略政策研究所)のラジャゴパランが、12月4〜5日のプーチン大統領のインド訪問では見るべきことは何も起きなかったが、モディ首相にとってはそれが「丁度ぴったり」だったのだろう、という論説をASPIのThe Strategistに掲載している。要旨は次の通り。  インドの西側パートナー諸国との関係の泣き所はインドのロシアとの強固な関係である。特に、2022年のロシアによるウクライナ侵攻以来、そうである。  12月4、5日のプーチンのインド訪問には大きな注目が払われ、インドのメディアの報道は両国間で武器と経済の取引が行われるだろうと示唆していた。しかし、プーチンの訪問は「湿った爆竹」(期待外れの意)だった。

 

 

 

  では、この訪問の目的は何だったのか?トランプの政策を巡る不確実性との関連で、インドには他のオプションがあることを証明したい、しかも米国および他の西側パートナー諸国との関係で更なる問題を作り出すことなく証明したいとインドは望んでいたであろう。

 

 

  インドは米国との関係で、5月のインドとパキスタンの軍事衝突の解決に対するトランプの貢献についての対立、インドに対する米国の関税を含め、騒々しい局面を通過しつつある。それゆえ、インドには他にもオプションがあることを示すことに熱が入る。

 

  このことは、首相のモディが9月に天津でプーチンと習近平に会った時に明瞭だった。習近平との間でモディは、2020年の国境での衝突で損なわれた両国関係を落ち着かせることを試みたが、この戦略はうまくいきそうもない。

 

  しかし、ロシアに寄り掛かることも問題含みである。ウクライナ侵攻はロシアを大きく弱体化したが、ロシアは今や中国にこれまでになく恩義を感じる立場にある。一方、インドはロシアを助ける立場にはない。よってロシアは中国に頼るしかない。

 

  インドはロシアが引き続き重要であることを示すことを試みたに違いない。

外交のプロトコールを破ってモディは空港でプーチンをベアハッグで出迎えた。

二人は別々の車ではなく同じ車に乗った。

 

 

 

 この訪問からはこれ等の象徴的な事柄以外にほとんど何も起きなかった。インドによるSu-57戦闘機の計画、インドによるS-400防空ミサイルシステムの取得の話し合い、アクラ級攻撃型原潜のリースの可能性なども噂されていたが、このような合意は確認されなかった。  署名された合意は貧弱なもので、両国が主張するような深い政治的関係を反映するものではなかった。ロシアとの関係を深めることが米国およびインド・太平洋と欧州のパートナー諸国との関係に不必要な困難をもたらすことをニューデリーは懸念したものであろう。  理想的には、ニューデリーは色々なパートナー諸国の間のバランスを取ることを望んでいるが、そのことは誰も敵に回さないことを意味する。実質的な成果がほとんどない声高な訪問は丁度ぴったりと考えられたのかもしれない。  そのような戦略の危険性は、インドが誰も満足させられない結果となることである。ロシアはインドが十分に支持してくれないと苛立つかもしれないが、他の諸国はインドはやり過ぎだと思うかも知れない。  不幸にして、強力な中国を前にして、インドはすべてのパートナーを必要とすると恐らく考えている。このことは、惨めに失敗する危険が常にあるが、それでもインドはこの綱渡りを演じ続けることを意味する。 *   *   *

戦略的自律を保持したインド

 インドが非同盟を唱えた冷戦の時代から、インドとロシアは強固な関係にある。しかし、過去20年ほどの間に、インドはゆっくりとロシアの軌道を離れ、西側に対する歴史的な不信感を克服して来た。  インドは米国との戦略的パートナーシップを注意深く構築して来た。しかし、突如として、トランプはインドがロシアの石油を買い続けていることも理由に50%の関税を課し、最近の四半期に8.2%の成長を遂げたインド経済を「死んでいる」と蔑むなど、両国関係は冷え込んでいる。  圧力にもかかわらず、インドは耐えているようである。関税の取り扱いを含む貿易交渉はいまだ決着しない。  そういう状況であるので、12月4、5日のプーチンのインド訪問はモディにとってきわどいものであったに違いない。戦略的自律を旨とするモディが如何に訪問をさばくのかにメディアは注目したようである。  訪問の前から、メディアでは訪問の焦点の一つは防衛面での協力だと取り沙汰されていた。インドによるS-400防空ミサイルシステムやSu-57ステルス戦闘機のインドによる取得が議題になるとされていた。  インド・メディアによれば、クレムリンのペスコフ報道官はS-400とSu-57は首脳会談の優先的議題だと言っていた由である。次世代のS-500の共同生産すら議論になるとされていた。  もう一つの注目点は石油だった。ロシアのウクライナ侵攻の前は石油輸入に占めるロシアのシェアは2%だったが、昨年は36%に跳ね上がった。10月にトランプ政権がロシアの石油企業RosneftとLukoilに制裁を発動して以降、インドの輸入は減少に転じたが、プーチンにしてみれば、インドの輸入の継続を期待したいに違いない。石油が首脳会談の議題にならなかったはずはない。

 

 

 

 

 しかし、S-400とSu-57を含め防衛面での具体的成果は何もなかった。石油は話題になったらしいが、議論の内容は明らかにされていない。メディアは肩透かしを食らった形である。  訪問後には、訪問は欧米メディアにはほぼ無視されたようである。インド政府高官は今回の訪問の焦点は経済関係にあったと強調しているが、それにしては共同声明に盛られた成果はインパクトに欠ける。

米国との戦略的パートナーシップは離さない

 「実質的な成果がほとんどない声高な訪問は丁度ぴったりと考えられたのかもしれない」とする、上記の論説の観察は当たっているように思われる。インドには他のオプションもあることをやんわり示せば十分だった。いかなインドとて、この局面で石油について何か成し得るはずもない。  ここで防衛面の協力に更に踏み込むことは、危険に過ぎた。納入が遅れている発注済みのS-400がある模様であるが、納入期限や性能の問題も絡んでいるのかもしれない。  インドにとって、注意深く構築されてきた米国との戦略的パートナーシップを放棄する利益は何もない。米国との関係は構造的なものである。

 

  両国は中国の覇権の野心を掣肘することに共通の利益を有する。

戦略的自律は多極化世界の極の間を揺れ動くことではなく、

米国との強固な関係を維持しつつも米国に呑み込まれることなく

自身の利益を追求する空間を確保することにあると思われる。

 

  モディのプーチンとの共同記者会見でのステートメントにおいて

「過去80年、世界は数多くの変転を目の当たりにして来た。人類は多数の挑戦と危機に当面して来た。

しかし、この状況を通じて、インドとロシアの友好は導きの星(guiding star)のように

揺らぎのないものであり続けた」

とモディは述べたが、

ロシアとの関係が「導きの星」では戦略的自律を放棄することに等しいであろう。

岡崎研究所

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五老峰(仏塔・ストーパ・土饅頭)

高祖・如浄」禅師、「二祖・道元」和尚、「懐奘」、「義介」、「五祖・瑩山」禅師

の「法統」…瑩山禅師が、最晩年、死の直前、2年前に、築いた!

 

 

 

 

 

義介は「道元傘下で永平寺にいた」が、

「懐鑒」禅師に通い修業し「嗣法」した!

つまり、道元からの嗣法を求めていない。

 

「懐鑒」禅師は、早くから、「道元傘下から、出て行き」、

近くに居を構えていた。

 

義介は、道元と懐鑒との、連絡係をしていた。

 

義介は、道元に、「懐鑒の死の最後の状況」を、報告している。

 

義介は、「道元から見て、客人の扱い」のように、感じる。

 

義介は、既に「日本達磨宗」を嗣法しているので、

日本達磨宗だった「懐奘」から、嗣法することは、有り得ない。

 

「僧海」は、道元から嗣法して、「首座」に就いた。

「懐奘」は、「首座」を降ろされた。

つまり、「懐奘」は、この時点では、道元から「嗣法」していなかった。

いつの時点で「嗣法」したのだろうか?

していないとかんがえる。

 

他方、

「義尹」は、道元から「嗣法」している。

だから、「道元教団の代表者」である。

よって、

如浄禅師の「17回忌法要」「27回忌法要」「37回忌法要」の3度、

中国に渡っている。

これは、「懐奘」「義介」「義演」「寂円」…皆が認めている。

 

1253年、

「懐奘」禅師は、「永平寺の寺院運用」を任されたのである。

その時「義尹」は、道元の命令で、中国へ派遣されていたので。

 

「三代相論」は、「嗣法して、いない者」の間で、

同列の関係において、

「義介」の「日本達磨宗への方向転回」に対しての反対運動である。

 

「義介」が、永平寺を出て、独自路線に進んだことは、結果的に正解だった。

 

瑩山禅師の主著『伝光録』が、「懐奘」で終っているのは、

「懐奘」から「義介」への「嗣法」は、有り得ないので、当然である。

 

 

そして、これらの経過を全て含んで、

瑩山禅師が、死の二年前、最晩年に、「五老峰の神学」を創設した。

 

「如浄」禅師を「高祖に据えて、「道元」を「二祖」とし、

「懐奘」、「義介」、「瑩山」禅師自身へと「法が伝わった」という「神学」である。

 

つまり、

「如浄」禅師の法を嗣法することで、「道元和尚の教え」を、完全に封印した。

この理由は、

「如浄」禅師の「中国禅」には、

「天台密教の禅」を、つなぐことは可能だが、他方、

「道元」和尚の「釈尊の教え、原始仏教、諸法無我」には、

「天台密教の禅」を、つなぐことは不可能だからだ。

 

一番重要なことは、

瑩山禅師の「天台密教の禅」は、日本人のあらゆる信仰を取り込み、

日本人の土着信仰に「接地」できることにある。

これで、本当の「日本人の仏教」が、完成した。

 

 

 

 

中国のレーダー照射の“ウラ” 中国空母「遼寧」が日本近海で進める「海の地図作り」と潜水艦戦略の全貌(テレビ愛知) - Yahoo!ニュース

中国のレーダー照射の“ウラ” 中国空母「遼寧」が日本近海で進める「海の地図作り」と潜水艦戦略の全貌

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テレビ愛知

 

テレビ愛知

中国軍機が航空自衛隊機にレーダー照射してから2週間が経過しました。そもそも、中国軍機が発艦した中国の空母は、太平洋で何をしていたのでしょうか?中国の空母「遼寧」から発艦したJ15戦闘機は、日本の防空識別圏内を飛行します。一方、日本の航空自衛隊は、警戒するため、F15戦闘機が緊急発進しました。そして。レーダー照射は2回行われ、そのうち1回は約30分にわたって断続的に行われたといいます。 木原官房長官: 「外務省の船越事務次官が中国の呉江浩駐日大使に強く抗議し再発防止を強く求めた」 抗議する日本に対して、中国の反応は次のとおりでした。 中国側の無線: 「日本の海上自衛隊116、こちらは中国海軍101。我が編隊は計画通り、艦載機飛行訓練を行う」 日本側の無線: 「こちらは日本116、貴艦からの連絡を受信した」 中国は、海上自衛隊に対して、訓練について、事前通知したと主張したのです。今、日本近海で何が起きているのかその裏には何があるのか。

空母「遼寧」は何をしていたのか?

12月6日、レーダー照射をした中国のJ15戦闘機は、空母「遼寧」から発艦しています。その「遼寧」の動きを見てみると、12月5日から6日にかけて沖縄本島と宮古島との間の海域を通り、太平洋へ進出します。そして、日本近海で6日間行動し…東シナ海に戻りました。一体、何をしていたのでしょうか。 軍事ジャーナリスト 井上和彦さん: 「ただ単純に海に浮いている航空母艦の発着艦訓練だけだったとは考えにくい。それくらいの訓練であれば、中国の近海でやればいいので。宮古島と沖縄本島の間の海峡は、中国の原子力潜水艦がここを通って太平洋へ出ていく玄関口でもある。航空母艦が数隻の護衛艦艇を伴って行動していることを踏まえて、

潜水艦の航行訓練の支援をおこなっていたという見方も可能性として

考えておかなければならない」

 

 

 さらに、井上さんは、中国軍のある不穏な動きを指摘します。

 

 

 軍事ジャーナリスト 井上和彦さん:

 「特に中国は現在鹿児島と口永良部の辺りを通って

中国の情報収集をする船も通している。

何を情報収集しているかというのは、

海底の塩分濃度や海流の流れ、水温、地形、こういったものを収集している。

 

海の中の地図を作っておけば有事のときにはそれを使って、

ここに行くと危ないとできるので、

潜水艦航行のためのデータ収集をやっていることは確か。

高市首相の台湾有事発言とは別の問題で、

中国は従前たる高度な軍事訓練を行っていた

と考えておく必要があると思う」

愛知のニュース

 

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道元は、

8歳の冬の生母の死で「観無常」「自分は死ぬんだ」と知って、衝撃を受けた。

9歳に、部派仏教の最高の哲学、世親著『倶舎論』を暗記するまで読んだ。

成人式の直前の13歳で、家出して「出家」した。

比叡山の「日本天台宗」で「一切経、大蔵経」に解決を求め、二度も読んだ。

「歴史上の釈尊の教え」『阿含経』を理解して、「死苦」を解決した。

 

その目から見ると、

当時の『日本天台本覚思想』は、完全なる誤りである。

これは、内実が「インドのヒンドゥー教」であり「梵我一如」の悟りだった。

 

「人は、本来、仏である」は誤り!

 

 

 

 

 

 

「人は、本来、仏である」は誤りである!

 

「仏陀、覚者」とは「目覚めた人」である!

だから、

当然、「目覚めない、ままの人」も存在する!

 

「何」に、目覚めたのか?

「諸法・無常、一切・皆苦、諸法・無我」

これに、「目覚めた人」は、

「涅槃・寂静」

 

正法眼蔵第三 仏性 私釈

成仏以来に具足する法なり

 2018/6/5 松岡由香子(著)

 
道元禅師主著『正法眼蔵』の「仏性」について、
道元自らの言葉と用例に拠る画期的な解釈。
伝統的な解釈と現代の諸解釈を吟味して批判する。
そして、著者独自の視点から道元が示そうとした真意を探る。
 
1945年静岡県生まれ。
京都大学文学部博士課程満期修了。
日本キリスト教団牧師。
現在、山水庵で日曜礼拝と月一回の坐禅会を行い、
東京で年に二回、各二日間の眼蔵研究会の講義をしている。
著書に
『親鸞とパウロ』(筆名 真木由香子、教文館)、
「道元」(『大乗仏典 中国・日本篇23』)共著、中央公論社)、
『正法眼蔵第一 現成公按 私釈』(東京図書出版)など。
 
==或る書評より
この本が世に出た意義は本当に大きい。
「仏性」巻についてこれまで長らく流布してきた、
「衆生はそのままで仏性である」といった
甘く情緒的な解釈を精緻な読みで明快に否定して、
この巻における道元の意図が、「仏性」を称揚するのでなく
逆に手垢のつきすぎたこの言葉を解体しつつ、
「辦道話」や「現成公按」巻と深く通底する
身心脱落の重要性を説くことにあることを明らかにした、
およそ唯一の読解だからだ。
古釈に依りかかって自分で参究することもなく
漫然と安直な解釈を振りまいてきた
凡百の師家や経師論師は、刮目してこの書を読むべきだろう。

「衆生を含めた一切の存在はそのままで仏性である」。
これまで、眼蔵の「仏性」巻の主たる解釈といえば、
伝統的にこのようなものに席捲されてきた。
知られている通り、冒頭で道元が
涅槃経の一節「一切衆生 悉有仏性」を引用して
「悉有は仏性なり」と読み解いたためである。

この解釈は、実は問題の多いものだった。
そもそも道元は「仏性」という用語を
眼蔵の他の巻でほとんど用いないにもかかわらず、唐突にこの巻のみで
「仏性」が重要なキーワードの如く扱われるのはなぜなのか。
衆生が仏性であるなら仏の存在意義も無みされて
他の巻に著わされる修行観と相いれないのではないか。
そもそも、衆生が仏性であるというのは天台本覚法門への悪しき先祖返りであって
道元の採るところではないはずではないのか・・・。

これら数々の疑念を一旦保留しつつ、「衆生=仏性」という一点突破で
この巻全体を読み解こうとする従来の解釈本を手にした方の中には、
途中で頭を抱えることになった人も多かったことだろう。
本文との間にあちこちで齟齬が生じる一方、
随所に持ち出される半ば創作の如き突飛な読解に、
やがてついていけなくなってしまうからだ。

齟齬の例を挙げてみよう。
「仏性」巻の本文には、
「仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、
成仏よりのちに具足するなり」という言葉があるが、
これは「衆生=仏性」説と真っ向から対立する。
しかもこの言葉は繰り返して強調されるばかりか、
「かくのごとく学せざるは、仏法にあらざるべし」とまで書かれている。
道元は「衆生はそのままで仏性である」などという
うす甘い見解を明快に否定しているのだ。

あるいは、祖師間で交わされた「無仏性」の言葉。
四祖五祖、五祖六祖の間で「無仏性」の言葉が用いられ、道元はこれらを高く評価して、
「無仏性の道取・聞取、これ作仏の直道なり」、
「無仏性いまだ見聞せず、道取せざるは、いまだ作仏せざるなり」とまで書いている。
もし、全てが仏性だと道元が説くというのなら、
これらはどうにも理解できない言葉となるだろう。
多くの解釈本はせいぜいが
「全てが仏性だから有無を超えている、有るといっても無いといっても仏性だ」、
「『無』とは有を超えた衆生と仏性との絶待一体だ」などと
強弁するのだが、詭弁の域を出ない。

「悉有=仏性」説の根本的な問題は、
「今ここにおける実存」がすっぽり抜け落ちてしまうことだ。
道元は冒頭近くで「世尊道の一切衆生悉有仏性は・・・
是什麼物恁麼来の道転法輪なり」と示している。
「是什麼物恁麼来」とは、六祖が南嶽に対して「お前は一体どういう存在なのか」と
その「今ここの実存」への省察を厳しく迫った問いであり、
南嶽はこれに答え得るに実に8年もの修行を要したという重い言葉である。
道元は「一切衆生 悉有仏性」とはそのような意味合いの仏語だと明言しているのであり、
これを、私の存在に関わらないスタティックな世界の話だと
観念的に理解することは到底許されないはずなのだ。

この著作で明らかにされるのは、道元にとっては
「仏性」とは「仏であること」を意味する以上のものではないということ。
そして、その仏であることとは即ち、
「三業に仏印を標し、三昧に端座する」(「辦道話」)ことであり、
「心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて、作仏を図ることなかれ」(『普勧坐禅儀』)
と示されるところに現成する身心脱落を意味するものだという
道元の根本的な信念である。
この立場からは当然、仏性は成仏と同参であるし、
作仏を図ろうとする衆生は言うまでもなく「無仏性」なのである。

繰り返すが、この著作は道元の言葉だけに依拠し、
真摯かつ丁寧にその言葉を読み解いた唯一無二の「仏性」通巻読解である。
「仏性」をこれから初めて読もうとする方も、また何度も読解に挫折した方も、
旧来の余外の解釈本を手に取る必要はない。
この本こそがまず真っ先に読まれるべき読解である。

 

 

【複製】思い出のストラスブルグのクリスマス市 | 制作の日々

 

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感謝です。

クリスマス市、素敵ですね。
聖母マリヤさまや、天使の人形が、欲しくなりました。
ツリーの、いろいろな飾り物、楽しいですね。

〇 〇 〇

コルマールの、
グリューネワルトの「キリストの磔刑」に会いたくて、
一人旅を計画しました。
その時に、古都ストラスブールに、1泊しました。

新約聖書学者の「田川建三」先生が、

「ストラスブール大学の神学部」に留学なされて、

トロクメ教授の下で、「マルコ福音書」について論文を完成させました。


帰国後、「それを元にした著作」を発行しました。


それを、本当に偶然に、1973年に読み。
・・・後に、洗礼を受ける決心をしました。


それを思い出しながら、古都を散策しました。
素敵な、静寂な、街並みでした。

メリークリスマス!
「天には栄光を、地には平和を」祈っております。