10年前のこの日。

 

僕は藝大の2年次を終えるところで、

学友たちと共に、

1年次から3年次まで必修となっている“藝大メサイア”の練習に参加していた。

 

 

20歳。

志高く上京してきたテノール見習いの、

最も悩ましい数年間が始まろうとしている。

そして、

その後10年の内7年を異国で過ごすことになろうとは、

全く予想できないことであった。

 

 

この10年は、流離の旅の連続だった。

 

22歳で東京を追われ、

24歳でミュンヘンを追われ、

26歳で元職場を追われ(決してクビになったわけではないのだけれど)、

今 僕がいる場所に落ち着いた。

 

僕は運命に導かれるままに、気長に放浪した。

明日のことは明日考えることにした。

より良い明日のために、今日という日を一生懸命生きようと足掻いた。

 

特に最初の5年間は、

苦しいことが多かった。

自分の歌のことで、毎日のように頭を抱えていた。

 

23歳の時に挑戦したバッハコンクールは、僕の音楽家としての転機となった。

24歳の時に出会った運命のパートナーである碇大知氏と、たくさんの音楽の旅をした。

誕生日が1年と1日違いの彼と共に、たくさんの夢を見た。

20代前半に蒔かれた種は、ゆっくりと発芽して、

僕のこれからの10年を支えてくれようとしている。

 

 

 

流行病にまんまと引っかかり自宅で療養しているうちに始まった20代最後の1年は、

僕にとっては頑張った10年へのご褒美のような1年となった。

 

1月2月は、このコロナ期間を機に取り組み始めた《冬の旅》を、初めて人前で演奏した。

年明けすぐに、大阪/名古屋/東京と、日本の皆様にお披露目できるのをとても嬉しく思っている。

 

5月には、これまでの、これからの人生でもそうそう無いであろう忘れ難いコンサートを経験した。

コンサート開始30分前に指名され、幕が上がる5分前に決定した、《ロ短調ミサ》のテノールソロである。

 

舞台から退場し、極限の緊張から解き放たれて、僕は声を上げて涙を流した。

今でもなお、その時の情景がくっきりと頭に浮かぶ。

僕を強く抱きしめてくれる同僚の顔が。

 

 

8月には僕の人生で最も大きな舞台が僕を待っていた。

Hochzeit 結婚 である。

妻側のご家族に温かく受け入れて頂き、

これから2人で頑張っていこうと気持ちを新たにした日である。

 

 

9月には、夢見ていた舞台に立たせて頂く機会に恵まれた。

バッハコレギウムジャパンとの演奏会である。

CDレコーディングから始まり、

クローズドの演奏会《メサイア》

バッハの教会カンタータ定期演奏会のソリストを経験させて頂いた。

 

なおCDは来年2023年、

スウェーデンのレーベルBISからリリースされる予定で、

僕は幾つかのバッハの声楽曲とテレマンのアリアを収録させていただく誉を与えられた。

 

 

10月11月には、バッハコレギウムジャパンのヨーロッパツアーに同行させて頂き、

9つのコンサートと共にヨーロッパ各地で満員のお客様の雷のような拍手喝采を経験した。

 

そして先日15日。

奇しくも、10年前と同じ音楽に囲まれて、僕は30歳を迎えた。

ヘンデル作曲《メサイア》である。

 

リハーサル開始、オーケストラ奏者たちが、弦を楽器に沿える。

至福の時間が始まろうとしている。

 

・・次の瞬間誰かが

「happy birthday..」

と歌い出した。

 

願ってもみなかった、オーケストラ伴奏の豪華なhappy birthdayが、

僕の30歳の誕生日の 

“i-Tüpfelchen 仕上げの1ピース” となった。

 

“i-Tüpfelchen” 

ー アルファベット i の、「`」の部分である。

その点を付け加えることで、アルファベットは完成する。

ートルテの頂点に乗せられた、ホイップクリームのようなものだ。

 

30代の最高のスタートを、大好きなドイツの同僚たちが音楽で彩ってくれた。

 

 

 

30代の目標として、毎日のように勉強して、

年齢に相応しい大人になりたい(あるいは追いつきたい)と思っている。

自分はなんと無知で、無力なのだと、事あるごとに思い知らされる。

 

20代よりももっと速いスピードで学びたいと思っている。

もっと力強くなりたいと思う。

 

次の節目での“I-Tüpfelchen”に密かに期待しながら、

日々努力したいと思う。