仁川捕虜収容所と軍医水口安俊 | 一松書院のブログ

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 朝鮮に設置された朝鮮俘虜収容所。京城の収容所は青葉町3丁目の旧岩村製糸倉庫跡に置かれた(ブログ参照)。仁川にも朝鮮俘虜収容所の第一分所があり、仁川俘虜収容所とも呼ばれた。さらに1943年に咸鏡南道興南の日本窒素工場内に第一派遣所が置かれ、のちに第二分所と改称された。仁川収容所が設置された場所について、軍の書類には「廠舎」とある。廠舎とは、演習などで宿泊に供する簡易用の兵舎である。
 戦時中日本に駐在していた赤十字国際委員会代表パラヴイチニが、1942年12月に京城と仁川の捕虜収容所を視察し、その報告書をジュネーブに送っている。仁川収容所については「仁川港ヘノ道路ニ添ヒ海岸ヨリ五米ノ健康地 …(中略)… 一九四一年建設陸軍標準型廠舎五棟」とある。すなわち、日本軍が前年建てた廠舎を捕虜収容所に流用したものと考えられる。
赤十字國際委員會代表パラヴイチニ朝鮮俘虜収容所(京城及仁川)及抑留者収容所視察報告
 連合軍が1944年に撮影したとされる航空写真(出所不明)に、「JINSEN (INCH'ON) POW CAMPの場所がマークされているものがある。


しかし、韓国のサイトでは、これを誤りとしている。
 オーストラリア軍一等兵で仁川収容所にいたDouglas Rickettsが収容所の見取り図を描いている(Macquarie University - POWs in Japan and Korea)。

 この見取り図と上記の航空写真を見比べると、すぐ下の東西に伸びる道路(京仁産業道路)の南側に細長い建物があり(米穀倉庫)、その東側、1936年の『大京城大観』「仁川府」には何も描かれてないところ、この部分が見取り図に近い配置の建造物が見える(赤丸印部分)。韓国のサイトではここだと推測している。この一帯は花町の埋立地で、1940年以降さらに沖合に埋め立てが行われている。京仁産業道路の南側(杉野精米の向かい側?)に1941年に陸軍廠舎が建設された可能性はある。現在は仁川新光初等学校の校地である。

 しかし、仁川収容所の場所については、「仁川府花町の仁川被服工業株式会社と朝鮮マッチ株式会社に設けられた」(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』1964)という記述もある。仁川被服工業は、仁川府宮町7番地で宮町公園のすぐ横である。ただ朝鮮マッチは仁川北部の松林里にあったので花町からはかなり距離がある。当初の廠舎から仁川被服工業の工場に移ったとも考えられる。

 

 この仁川収容所に勤務した一人の軍医が、戦後の極東軍事裁判で捕虜虐待で絞首刑の判決を受けている。陸軍少尉水口安俊。1949年2月11日、巣鴨プリズンで死刑が執行された。

 水口安俊の父水口為治は、秋田出身で単身上京して築地工手学校(現在の工学院大学の前身)電工科で学び、その後併合前の朝鮮に渡った(上坂冬子『巣鴨プリズン13号鉄扉』)。1906年11月に統監府電信工手、1912年には朝鮮総督府の逓信技手として平壌郵便局勤務という記録がある。
 安俊は、水口為治の三男として1915年5月12日に平壌で生まれた。姉が一人いたが、長男・次男は生後すぐに亡くなって安俊が一番上の男児となった。為治は1925年まで平壌郵便局に勤務した後、大邱郵便局に異動となり、1929年からは京城の中央電話局勤務となった。1931年5月には京城中央電話局龍山分局長に任ぜられている。
 安俊は、平壌と大邱で小学校に通い、中学は父の京城転勤もあって龍山中学に入学した。
 1932年2月に為治は分局長を依願退職、平壌郵便局管内の平安北道前川郵便所長となり、単身で赴任した。安俊と姉、妹と三人の弟は、母とともに京城の自宅に残った。安俊は、1933年に京城帝大予科に入学したが、予科1年で留年し、1937年になって京城帝大医学部に入学した。

 

 水口安俊の同期の医学部入学生は71名。その中に予科からの同期だった田中正四がいる。安俊は、巣鴨プリズンで田中正四に遺書を遺しており、処刑直前に書いた父為治に宛てたた遺書の中でも、

同窓生として旧友の田中正四君がおります。此の人にもよろしく父上から一言お願いします。

と書き記している。

 田中正四は、医学部3年在学中に、同期の玉城仁、住友平三郎、中村進、渡邊磐、李軫鍾、孔寅浩など12名とともに「特殊細民調査会」を組織し、1940年に京城の「土幕民」調査を行った。途中からさらに7名の朝鮮人学生がこの調査に加わった。その調査結果は、1942年に岩波書店から『土幕民の生活・衛生』として出版されており(国会図書館デジタルコレクション)、植民地統治の実態調査として今日の韓国でも注目されている貴重な資料である。この『土幕民の生活・衛生』のあとがきに、この土幕民調査に関わった医学生の名前が挙げられている。


 1937年には日中戦争が始まり、翌年国家総動員法が施行されて戦時色が強まっていた。同時に、朝鮮人への皇民化政策が一層推し進められた時代でもあった。1937年春に京城帝大医学部に入学した71名のうち21名は朝鮮名である。しかし、1941年に卒業した69人の中で朝鮮名は6名のみ。創氏改名で名前が変わったため、「あとがき」では、名前の後に( )で朝鮮名が付記されている。こんな時代に水口安俊は学生時代を送った。

 

 田中正四らの「土幕民」調査には水口安俊は加わっていない。新聞データベースを検索すると、田中正四が調査計画を練っていた1940年初の『東亜日報』に、「城大学生課水口安俊」が朝鮮学生フィギュアスケート大会の申し込み窓口として掲載されている。水口安俊は城大学友会の学生委員をやっていたものと推測される。それだけでなく、城大音楽部マンドリン倶楽部でも活動していた。水口安俊は、田中正四とは違ったかたちではあるが、積極的で活動的な学生生活を送っており、後述するように、社会問題についても強い関心を持っていたのである。

 城大医学部3年の水口安俊(一番右)
 妹と弟三人とともに。中央が父為治

 1939年7月24日京城の自宅にて

 

 1941年に京城帝大医学部を卒業した水口安俊は、朝鮮総督府の医官補として全羅南道癩療養所小鹿島更生園に眼科医として赴任した。


 更生園の前身である小鹿島慈恵医院は、ハンセン病患者の収容を目的として1916年に開設された。小鹿島は、全羅南道高興郡鹿洞の沖合500メートルにある島である。慈恵医院の当初の定員は100名に過ぎなかったが、1932年に総督府警務局内に「朝鮮癩予防協会」が設置されると、小鹿島に3000人収容のハンセン病療養所を置くことが決定された。小鹿島の全島を買収して健常者の住民を島外に移住させ、1934年に朝鮮総督府癩療養所小鹿島更生園が発足した。園長は周防正季であった。翌年にはこの施設内に刑務所も併設され、ハンセン病の受刑者がここに収監された。その後も施設の拡張工事が進められたが、その一方で世界大恐慌以来の景気下降によって予算が削減され、戦時体制へ移行する中で、入所者に過酷な労働が強いられるようになっていった。もともと厳しかった監視や統制が、日増しに強化されていき、警察や憲兵出身の看護長たちが厳しく患者たちを「監督」した。とくに首席看護長で、周防院長の養子だった佐藤三代治は、患者たちを酷使したことで有名だった。暴行や懲罰が日常的に行われ、療養施設であるにも関わらず医療体制は不十分であった(ハンセン病問題に関する検証会議「最終報告書」日弁連法務研究財団 2005年3月)。滝尾英二は「朝鮮総督府のハンセン病政策の本質は絶対的隔離の強化、および断種による癩患者の撲滅であった。日本統治下での強制隔離による被害は過酷を極めた。植民地においてよりストレートに遂行された」と述べている(滝尾英二『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』未来社 2001)。

 

 水口安俊は、京城帝大在学中にマンドリン倶楽部の活動で自ら指揮者となって各地の病院などを慰問しており、卒業間際に更生園を訪れたという。それが癩療養所での勤務を希望する契機になったという。帝大医学部出のエリートらしくない任官だと話題になったと、安俊の妹頼子は回想している(「兄安俊のこと」上坂冬子編『巣鴨・戦犯絞首刑』ミネルヴァ書房 1981)。

 水口安俊がどのような志を持って小鹿島癩療養所更生園の医官になったのか、また、当時どのような勤務をしていたのか、それを本人が書き残した資料は残されていない。

 当時の更生園について触れた沈田黄の回想録「小鹿島半世紀」には、

医務系の職員と事務系の職員の軋轢があり、小鹿島の一つのガンであった。周防園長の強制労働時代も医師たちは医師の立場から患者を診断して安静を要する患者や手術を要する患者を選び出して、治療をしようとしたが、反医務系の佐藤などは頑として聞き入れず,すべての患者に作業を強制した。医師系はいつも負けていた。

『セピッ(新しい光)』1971年 訳・文責 山口進一郎

とある。「反医務系の佐藤」とあるのは、上述の佐藤三代治のことである。この回想録に医務系の医師として名前が挙がっているのは石四鶴、京城医専に1936年入学し、水口安俊より1年早く任官していた朝鮮人医師である。後日、1945年8月の日本の敗戦直後、医務系と看護系の朝鮮人職員の間で園の運営を巡って主導権争いが起こり、80名を越える収容患者が殺される事件が起きた。このとき石四鶴は医務系のリーダーであった。

 1941年に赴任した水口安俊も、石四鶴などとともに「医師の立場」に立とうとしていたのであろう。とはいっても、更生園の内実は、朝鮮人ハンセン病患者を力で抑えこむ暴力が支配する施設であり、そこで抑圧する側に身を置いていたこともまた事実である。しかも、着任直後には患者顧問の朴順同が患者李吉龍に刺殺される事件が起き(1941年6月)、その1年後には園長の周防正季が李春相によって刺殺されるという事件が起きている。新卒医官水口安俊は、こうした暴力が支配する環境下で何を思い、どのように行動していたのだろうか。

 

 1943年2月3日付で水口安俊ば医官補から更生園医官に昇任した。その後、軍医予備員として志願し、教育召集を受けた。

 

 軍医予備員は、日中戦争以降の軍医不足に対応するため導入された制度であった。軍医予備員として志願すると、入隊と同時に陸軍衛生上等兵の階級が与えられる。歩兵連隊で1ヵ月教育されたのち陸軍衛生伍長に任官する。その後、3ヵ月間陸軍病院で教育を受けて陸軍衛生軍曹になる。そして再召集されると、ただちに軍医見習士官として任官することになる。軍医予備員に志願しなければ、医師といえども初年兵の新兵として扱われ、下士官の衛生兵程度にしかなれなかった。そのため、医師は軍医予備員を志願するのが通例であった。

 水口安俊は、軍医予備員から尉官級の軍医として仁川収容所に配属された。

 日本側で終戦時に作成したと思われる朝鮮俘虜収容所要員の英文の名簿が残されている(Center for Research Allied POWs under the Japanese)。京城・仁川・興南の収容所所属将兵のリストと、収容所以外の部隊から派遣された将兵のリストからなる名簿である。それによると水口安俊は、派遣将兵のリストに掲載されており、仁川捕虜収容所に陸軍少尉として1944年6月10日から1945年7月5日まで在勤、原隊はCHO7440と記録されている。CHO7440とあるのは朝鮮第7440部隊で、この部隊は航空情報隊として1943年に京城で編成され、群山で教育を受けて鎮南浦で送受信施設の建設・維持にあたった。水口安俊は軍医として7440部隊から仁川収容所に派遣されていたことになる。

 

 京城と仁川の捕虜収容所は、1942年にシンガポールで投降したイギリス軍とオーストラリア軍将兵の捕虜を収容する施設として設置されたものであった(ブログ参照)。日本軍の優位を喧伝し、かつ対外的な広報にも利用するということで、無難に運用される捕虜収容所で、捕虜死亡率では他の収容施設よりも低かったとされる。それでも死亡した捕虜は26名に上っている。


 その仁川収容所に1945年5月に新たな捕虜が門司から移送されてきた。
 前年12月、兵員・民間人とともに、バターン半島攻略戦で捕虜になったアメリカ兵1600人が、マニラからで内地に向かう鴨緑丸に乗せられた。しかし2日後にアメリカ軍の攻撃を受けて鴨緑丸は沈没。軍人や民間人が乗船して物資も搭載していたため捕虜護送船を示す表示は出されていなかった。捕虜500名近くがここで死亡した。生き残った捕虜たちも、その後の日本軍による殺害や衰弱死、移送中の空襲などで多くが命を落としていった。1945年1月に、台湾経由で門司に到着したとき、捕虜はわずか580名になっていたという。生き残った捕虜も多くが衰弱しており、その後収容された九州内の収容所で死亡するものが多数に上ったという。
 その中の140名が仁川収容所に送られてきた。そのうち、50名ほどは傷病捕虜で、重篤な症状のものも少なからずいたという。仁川収容所の軍医は、水口安俊ただ一人であった。

 

 1945年7月末の時点で、仁川収容所に収容されていたのは169名となっている。内訳はアメリカ兵138名、イギリス兵27名、オーストラリア兵4名。当初仁川収容所にいたイギリス兵やオーストラリア兵の捕虜のうち興南の工場での労働に役立つ捕虜は興南(1943年9月開設)に移しており、水口安俊が着任した1944年6月には仁川収容所の捕虜数も少なくなっていたと思われる。この時期には仁川収容所での死者は出ていない。しかし、1945年4月のアメリカ軍捕虜の到着以降、状況は激変したものと考えられる。

 5月14日、アメリカ軍King, William Millage少尉が死亡した。水口安俊軍医が作成した死亡診断書では死因は心臓麻痺となっている。

 そして7月4日、アメリカ軍Brundrett, George Cook大尉が死亡した。この時も水口安俊が死亡診断書を作成している。死因は仁川に移送される前に発病した浮腫性脚気となっている。

 

 Brundrett大尉の死亡診断書を作成した翌日7月5日、水口安俊少尉は仁川の収容所の勤務を離れた。鎮南浦の7440部隊に復帰したものと思われる。ただ、一人しかいない仁川収容所の軍医の原隊復帰、しかも捕虜が死亡した翌日に収容所を離れることについては疑問がある。所長の野口大佐、分所長の岡崎中佐、統括軍医の内田大尉などは司令部からの命令として容認せざるを得なかったのであろうか。あるいは、離任させる何らかの理由があったのであろうか。不可解である。

 

 仁川収容所の軍医として在任中の4月末、水口安俊は江原道春川で手広く事業を展開していた村上九八郎の娘雪子と結婚した。雪子は春川高女から津田塾を出た女性で、見合い結婚だった。ちょうど消耗したアメリカ軍捕虜140名が到着した中での結婚であった。結婚したとはいっても、この時は一緒には暮らしていない。城大医学部の同級生中村進の実家が仁川にあり、そこに水口安俊は下宿しており、時折雪子が中村家にやってきた。

 尉官級の軍医は、家族とともに駐屯地の官舎に暮らしていた。鎮南浦の7440部隊に戻ってから安俊とは雪子は官舎に新居を構えた。しかしその新婚生活もつかの間、日本の敗戦をむかえることになった。第7440部隊の将兵は、進駐してきたソ連軍によって三合里の軍廠舎に捕虜として収容された。しかし、具体的に語ってはいないが、水口安俊は部隊から離脱して妻雪子とともに38度線を越えて南下して内地に戻ったとものと思われる。10月以前に内地に引揚げているが、それを手記の中で「朝鮮よりの脱出行」と書いて通常の引揚げではなかったことをうかがわせる書き方をしている。

 引揚げ後、10月には妻の伝手を頼って大津市に落ち着き先を見つけ、隣町の高島郡(現高島市)の保健所に職を得た(上坂前掲書)。

 一方、日本敗戦の8月15日、朝鮮北部の前川にいた水口安俊の父為治のもとにはガンの手術をした妻が末息子と訪れていた。敗戦直前のソ連軍の侵攻にも末期癌の妻のため為治はそのまま踏みとどまったが、16歳の末息子洋三だけを南に避難させようとしたが、洋三は途中で行方不明となった。

 1945年の年末、高島郡保健所に10日ほど勤務したところで、水口安俊はGHQに呼び出され、取り調べの末12月30日に巣鴨プリズンに収監された。朝鮮捕虜収容所での捕虜への対応が戦争犯罪に当たるとされたのである。起訴状には、仁川収容所での勤務中、入手可能な薬品の入手・支給拒否、虚偽の死亡診断書への署名など14項目の罪状が挙げられていたが、その中に水口安俊が死亡診断書を作成した二人のアメリカ軍のジョージ・ブランドレッド大尉とウィリアム・キング少尉を「打擲ちょうちゃく」し「充分なる医薬品の支給や医療を差し控えて死亡に寄与し、故意かつ不法に虐待した」とされていた。

 収監からほぼ一ヶ月後の1月27日の日記には、こう書き記している。

収容所にさへ勤務してなかつたら今頃は高島郡の片田舎にすつこんで静かに憂世をよそに、保健所勤務と往診のかたはら正に晴耕雨読の三昧に浸るのだつたにと、世をはかなむことしばしばである。よりによつて、数拾数百万人に一人の割で私が戦犯容疑者にならうとは何の運命のいたずらであらうか。

 ところで、朝鮮俘虜収容所の関係者で戦犯容疑で拘束されたのは、水口安俊だけではなかった。敗戦時の収容所の佐官・尉官級の士官は仁川刑務所に収監されていた。

 1945年8月18日に汝矣島飛行場に米軍機が飛来し、捕虜収容所の場所を確認してドラム缶に入った救援物資を投下していった。9月7日には捕虜接収員が京城と仁川の収容所を訪れ、翌日には仁川港の病院船に捕虜を収容して帰還の途についた。さらに京城収容所の捕虜も仁川に移送され船で帰途についた。収容所の直属の士官らは捕虜引き渡しの事後処理をやっていた大田で拘束されて仁川刑務所に収監された。解放された捕虜からの聴取で、国際法違反の嫌疑がかけられたためである。

 1946年5月になって朝鮮俘虜収容所関係の15名は仁川刑務所から巣鴨プリズンに移送された。水口安俊の手記には、5月18日に朝鮮俘虜収容所長だった野口譲らが到着したことが記録されている。野口以外にも、京城収容所本所の軍医内田五郎(大尉)、寺田タカエ(大尉)、師富ヒロマサ(主計中尉)、仁川分所長の岡崎弘十郎(中佐)、磯部タカエ(大尉)、黒河与八(少尉)などの名前が出てくる。その中で、直属の上官だった岡崎仁川分所長に対してだけは、露骨な嫌悪感を書き記している。収容所在任中から二人の関係は悪く、「上官に恵まれなかった」と嘆いている。

 朝鮮俘虜収容所関係の裁判は、バターン死の行軍関連や、鴨緑丸事件関連の事案などとともにBC級戦犯を裁くための横浜法廷で審理が行われた。裁判がある時は、巣鴨から横浜まで護送用のバスに押し込められて移動した。横浜法廷の場所は、旧横浜地方裁判所本庁舎の中にあった陪審法廷である。旧本庁舎は取り壊されたが、法廷だけは桐蔭横浜大学に移設復元されている。

 1947年9月15日、この法廷で水口安俊に死刑判決がくだされた。朝鮮俘虜収容所長野口譲は重労働22年の刑、その他の関係者も重労働の有期刑で、死刑判決は水口安俊だけであった。

 水口安俊の減刑を求める嘆願書は26通提出された。田中正四も、10月6日付で英文の嘆願書をマッカーサー宛に送っている。

 

しかし、1948年12月29日の再審では、

被告が癩病院で不治の病の人々のためにその医師としての力を捧げることを志し、人類愛に富み、犠牲的精神の持ち主であったとことが盛んに述べられたが、このような過去の経歴は、二名の捕虜を死亡させ、多数の捕虜に苦痛を与えた責任を帳消しにするものではない。

として絞首刑が確定した(上坂前掲書)。

 

 上坂冬子の『『巣鴨プリズン13号鉄扉』では、朝鮮俘虜収容所の仁川分所に移送されてきた「鴨緑丸事件」で生き残った米軍捕虜の中から二名の死者が出たことで、水口安俊は「数拾数百万人に一人の割で私が戦犯容疑者」になるという「不運」に見舞われたと描いている。また、上坂は、『巣鴨・戦犯絞首刑』にも

私はいま、あの“時代の怒涛”にまきこまれ、三十数年前ひっそりと姿を消した一人の青年戦犯処刑者を、春の野辺ならぬ、平和のかげりの見えかくれする現代に連れ戻して、力一ぱい叫ばせたいと思った

と書いた。

 

 しかし、改めて水口安俊の資料を発掘して検証してみると、極東軍事裁判で戦勝国の報復の犠牲になった「好青年」という書きぶりでは納得できないものがあるように感じられる。

 捕虜虐待を肯定するかのような水口安俊の発言もある。九大生体解剖事件で一旦は死刑判決を受け、その後重労働25年に減刑された森良雄九大医学部講師は、一時期同じ死刑囚房にいて水口安俊と会話を交わしている。

なぜ朝鮮俘虜収容所で水口安俊一人だけが絞首刑なのかと問う森に対して、

 「私は殴りましたからね」

と答えたという(上坂前掲書)。

 上坂は、『巣鴨・戦犯絞首刑』の前書き部分で、

雅義氏(安俊の弟・通から改名した)が何気なく、

「兄の日記を見ると、捕虜を殴ったという一節がありますね」

と漏らしたとたんに主客を転倒し、徳田氏がキッとして、

「それが死刑に価する罪だというんでしょうか」

と言いかえされたのも、思えば奇異な問答である。

として、捕虜を殴ったことがあったとしても、それで死刑というのは「報復」だとしている。この一節で、水口安俊の捕虜への虐待そのものについては、それが事実か否かを含め封印をする形になっている。

 確かに、絞首刑という判決と、それが実際に執行されてしまったことへの違和感は拭えない。「過剰な量刑」という思い、それと同時に、刑死されられた水口安俊と残された人々の無念さは、水口安俊という人物を調べていく中で私も抱いている。

 しかしその一方で、医者である水口安俊が、捕虜に対して虐待行為を行なっていたことを匂わせる記述があることも気になる事実である。

過去の失敗として、一つは、京城帝大予科での留年、もう一つは「収容所に勤務してのいかげんな行状」の二つをあげている。「あまりにも敵がい心が強すぎて私の様なものは収容所が適しなかった事、それである。

学校を出て内地に就職を考へた事はなかつたろうか。又、軍医予備員の志願をする時、それを止めた人がおらなかつたらうか。

私は恐ろしい程までに二重人格だ。持つて生れた性格であれば如何ともしがたいと云へばそれまでだが、常に二重人格たるまいとして努力すべき事は肝心だ。過去に於る数多くの私の罪深きは、多く此の二重人格性より出てゐる。

キング中尉殴打の件が出てきたのにはいささか往生した。
「気狂い軍医」なんだ。あまり自分を高くみるのはやめるべし。

捕虜への投薬を拒否したことがあったことも匂わせている。

シュワルツ軍医(捕虜の軍医)は大佐だから薬物を拒絶した事はない、と私が云つても、それは通らないのだそうだ。止むを得ず拒絶した正当なる理由を云はなければならなくなり、私の対応作戦は変更せねばならなくなった。

そしてこうも書いている。

私は公判廷に私の身よりの人が来て貰ひたくない。従つて浩治には来て呉れるなと云つてやつた。恥かしい話だ。従つて友人にも私の人格証人として出て貰ひたくない。自分の行為が恥かしい。

 長い拘禁生活で自暴自棄になったり、自己嫌悪に陥っていたとしても、捕虜収容所で何らかの「恥ずべき行為」があったと彼自身が書き残しているのである。実際には何があったのであろうか。

 敗戦直後に更生園で多くの死者がでた衝突が起きたことを聞いた時、「私でさへ、あの場に居合わせたら半殺しになつてゐたかも知れない。冷や汗をかく思ひがする」と書いているのも気になる。立場が変わった時、報復されるような何かがあったのであろうか。


 多分、その答えを資料の中から見つけ出すのは困難であろう。

 植民地支配と戦争の時代を過ごして絞首刑台に上った水口安俊を通して、何を学ぶべきかを問い続けること。これが私の課題ではないかと思う。

 

 水口安俊 1949年2月11日絞首刑執行。享年33歳。

 

 冥福を祈ります。