一松書院のブログ

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ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

◆ベルリンから届いた写真

 ベルリン・オリンピックのマラソン競技は、ベルリン現地時間1936年8月9日午後3時にスタートした。日本と朝鮮では、同日午後11時である。

 日付が変わって孫基禎ソンキジョンがトップでゴールし、その結果はただちに世界各地へ配信された。しかし、日本や朝鮮では、8月10日の朝刊には間に合わなかった。『東亜日報』は8月10日に号外を発行し、孫基禎の金メダルと南昇龍ナムスンニョンの銅メダル獲得を速報した。ただし、この時点では、マラソン競技当日の写真は届いていなかった。競技から3日後の8月13日付紙面で、初めて表彰台に立つ孫基禎と南昇龍の写真を掲載した。



【図1】東亜日報1936年8月13日付

 当時、呂運亨ヨウニョンが社長を務めていた『朝鮮中央日報』も、同じ8月13日付紙面にこの写真を掲載した。一方、『京城日報』は8月12日に「孫選手マラソン門を入る」、『朝鮮日報』は8月15日にゴール場面の写真を掲載したが、表彰台の写真は掲載していない。

 ベルリン・オリンピック開幕を半年後に控えた1936年3月、日独両政府は短波無線による国際写真電送について合意し、ベルリンと東京に自国製の写真電送装置を設置した。写真の取材・電送・国内配信は同盟通信が担当した。これにより、ベルリンで撮影された写真を翌日の東京の新聞に掲載することが可能となった。

 その後、『東亜日報』は8月24日発行の夕刊に、再び表彰台上の孫基禎の写真を掲載した。この夕刊に掲載された写真は、前日の8月23日付『大阪朝日新聞』南鮮版に掲載された写真を転載したものである。『大阪朝日新聞』の写真は、朝日新聞名古屋支社写真課長・佐々木信暲がベルリンで撮影した写真原板を、航空機と列車によるリレー輸送で日本へ運んだもので、無線写真とは比較にならないほど鮮明だった。
 この鮮明な写真が、後の日章旗抹消事件の直接の素材となる。

 『大阪朝日新聞』南鮮版と『東亜日報』の写真を比べると、構図だけでなく、上下2枚の写真のつなぎ目や×印の位置まで一致している。『東亜日報』が新聞紙面そのものを複写・転載したことがわかる。当時は、印刷写真をレタッチしたうえで再撮影し、新しい写真版を作る方法が一般的だった。

【図2】大阪朝日新聞南鮮版と東亜日報掲載予定だった写真

 この複製写真では、孫基禎の胸から日章旗が消されていた。これが、警察文書で「東亜日報掲載の孫基禎写真中国旗表章抹消に関する件」とされた事件である。

 

 もっとも、この夕刊は事前検閲によって差押え処分となり、実際には読者の手に渡ることはなかった。

◆オリンピック実況映画の入手と上映計画

 『東亜日報』は、なぜ8月24日発行予定の夕刊に、あらためて表彰台上の孫基禎の写真を転載したのであろうか。そして、その写真の胸の日章旗は、なぜ抹消されたのであろうか。

 これまで、この事件は植民地支配に対する朝鮮民族の抵抗の象徴として説明されてきた。ベルリン・オリンピックで金メダルを獲得した孫基禎が「日本人選手」として扱われることへの抗議であり、『東亜日報』編集局の民族意識の表れであったと理解されている。

 

 その理解は間違っていない。

 

 しかし、それだけでは、なぜ8月24日の夕刊で、あらためて表彰台の写真が掲載され、その時点で日章旗が抹消されたのかという具体的な経過までは説明できない。

 『東亜日報』が『大阪朝日新聞』の写真を転載したのは、8月24日(月)発行予定の夕刊であった。

 写真転載の理由は、前々日から紙面に掲載されていた一つの「社告」にあった。


【図3】8月22・23日夕刊掲載社告

 社告には、「大会の全編実況映画を空輸によって入手した」とあり、近く読者を対象とした無料上映会を開くことだけが予告されていた。上映日時や会場は、まだ公表されていない。

 1936年ベルリン・オリンピックでは、写真だけでなく実況映画フィルムが航空機とシベリア鉄道を組み合わせた「リレー空輸」によって日本へ運ばれた。朝日新聞社はドイツのUFA社と提携し、開会式や各競技を収めたニュース映画を、できるだけ早く日本へ届ける体制を整えていた。

 

 開会式を撮影したフィルムは、8月10日には東京で上映され、その後も競技ごとに「朝日オリンピックニュース」として順次公開された。

 孫基禎・南昇龍が出場したマラソンを収めた『朝日オリンピックニュース第3報』は、東京での公開から3日後の8月24日、京城の浪花館と団成社で上映が始まった。『朝鮮新聞』は、「第3報には吾等の孫基禎が出てくるというので期待はますます深い」と報じ、浪花館・団成社とも大入りであったと伝えている。

 一方、『東亜日報』は、この映画館での上映とは別に、読者を対象とした無料上映会を企画していた。

 8月24日発行予定の夕刊では、その上映会の告知記事と並べて、孫基禎の表彰台写真を掲載する予定だった。

 ここで重要なのは、上映会の告知と表彰台写真は、同じ紙面に配置される予定だった。両者は一体の企画だった。

 8月24日の夕刊編集・製版の過程で行われた日章旗の抹消も、上映計画とは切り離して考えられない。

◆差押えと上映計画の変更

 ベルリン・オリンピックのマラソン表彰台に立つ孫基禎の写真で、胸の日章旗が消されていたのは、8月24日(月)発行予定の『東亜日報』夕刊第2版である。

 当時の新聞は、発行前に校正刷りを朝鮮総督府警務局図書課へ提出し、検閲を受けなければならなかった。問題なしとされた紙面だけが印刷・頒布を許可されていた。

 8月24日の夕刊について、京畿道警察部長が警務局長へ提出した報告書には、

孫基禎の写真中ユニフォームの日章旗は故意に抹消したる形跡ありし為、新聞紙法により差押処分に付せられた

と記されている。
 同日夜、警察は東亜日報社に立ち入り、転載に使用した写真原紙と亜鉛版を押収した。

 翌25日朝刊は通常どおり発行されたが、そこには京城府民館で開催するオリンピック実況映画上映会の記事が掲載されていた。上映期間は8月26日から28日までの3日間となっている。

 ところが、後に取り調べられた運動部の李吉用イギルヨン記者の供述では、上映会は当初25日から開催する予定だったという。
 24日夕刊が差し押さえられたため上映会の告知ができず、開催を1日延期したと考えれば、この食い違いは無理なく説明できる。


【図4】25日朝刊上映会告知記事

◆「ぼかし」から「抹消」へ

 李吉用の供述によれば、8月23日午後5時頃、『大阪朝日新聞』の写真を24日夕刊へ掲載するため、調査部員・李象範イサンボムに、「胸部表出の日章旗をぼかして修正してくれ」と依頼したという。

 1948年の李吉用の回想録では、日章旗をぼかす修正はこの当時かなり頻繁に行っていたという。
 

 李象範は写真の網点をレタッチし、日の丸部分へ白色を上塗りして、日章旗を目立たなくした原画を作成した。
 写真課長・申楽均シンナクキュンは、このレタッチ済み原画から印刷用亜鉛版を製作した。

 ここまでは、日章旗を完全に消すのではなく、「ぼかす」ことが意図されていた。

 ところが、警察の調書によれば、24日午後2時半頃、社会部の張龍瑞チャンヨンソ記者が写真部へ現れ、

未だ日章旗がのこれる故充分之を抹消して貰ひ

と抹消を求めたという。

 その結果、徐永浩ソヨンホが亜鉛版の日章旗部分へ濃い青酸カリ溶液を用いて処理し、そのまま印刷へ回したとされる。

 

 しかし、この経過には不可解な点がある。

 張龍瑞は34歳の社会部記者であり、上映会記事を担当していた運動部主任の李吉用や、写真製版の責任者であった申楽均より年齢も若く、職制上も上位にはなかった。しかも上映会を担当していたのは社会部ではない。

 その張龍瑞が、製版作業の最終段階で現れ、すでに完成していた亜鉛版へ手を加えるよう求め、その要求が直ちに受け入れられた。
 一記者の単なる思いつきで、このような変更が行われたとは考えにくい。
 そこには、「ぼかし」では足りないと判断させる、新たな出来事があったのではないだろうか。

◆日章旗抹消の決断

 すでに述べたように、この8月24日には、浪花館と団成社で『朝日オリンピックニュース第3報』が封切られていた。劇映画の幕間に上映されるニュース映画で、上映時間は10分に満たなかったとみられる。
 団成社では午後1時30分から劇映画が上映されており、その本編に先立って『朝日オリンピックニュース第3報』が上映されたとみられる。

 団成社でのオリンピック実況映画の観客の反応は、9月2日付『朝鮮新聞』に掲載された映画評論家・水井れい子の投稿によって知ることができる。

上映館団成社における一般大衆の観覧態度は甚しく我々の意想外とする処であった。第二回報において田島が優勝し日章旗を掲揚した場合、場内において何らの拍手も起こらない。君が代が奏せられた際に於いても脱帽が行われない。これに反し、第三回報、孫基禎が優勝し表彰台に登る処や群を抜いて走る処に至っては割ればかりの拍手である
  …中略…
(君が代演奏時には)一向に之に和せなかった。皇族乃至国歌の奏せられる時は脱帽すべき事は観覧者心得に規定してあると思ふ。

 ここでは、日本選手が優勝した場面では拍手は起こらず、孫基禎が走る場面や表彰台へ上がる場面では、場内が割れんばかりの拍手に包まれたこと、しかし君が代が流れても誰一人唱和せず、日章旗の掲揚にも冷淡であったことが記されている。


【図5】水井れい子の朝鮮新聞の記事

 水井れい子は朝鮮人観客の態度を批判している。しかし、その記述からは団成社の場内がどのような雰囲気だったかも知ることができる。

 残念ながら、『朝日オリンピックニュース第3報』そのものは現存が確認できない。しかし、後に完成したレニ・リーフェンシュタールの記録映画『オリンピア』では、表彰台に立つ孫基禎と南昇龍が、ともにうつむき、国旗掲揚台から目をそらす姿が映し出されている。『朝日オリンピックニュース第3報』でも、おそらく同じ場面が上映されていたであろう。

 

レニ・リーフェンシュタールの五輪記録映画の表彰式場面(音声なし)

 

 ここで改めて、張龍瑞の行動を考えてみたい。
 張龍瑞がニュース映画を見たことを示す直接の史料はない。しかし、社会部記者である張龍瑞が、孫基禎と南昇龍の姿が初めて公開される映画館へ取材に赴くことは、ごく自然である。しかも翌日からは、自社主催の上映会が予定されていた。

 そのような状況を考えれば、映画館へ足を運んでいたとしても不自然ではない。もちろん、これは当日の時間経過と張龍瑞の立場を踏まえた推測である。

 李吉用は李象範に「日章旗をぼかしてほしい」と指示した。李象範も、その指示どおり修整した。
 ところが夕刊の印刷直前、午後2時30分頃になって張龍瑞が写真部へ現れ、「まだ日章旗が残っている。もっと十分に抹消してほしい」と求めたのである。

 つまり、この時点で初めて方針は「ぼかし」から「抹消」へ転じた。
 その理由を直接示す史料は存在しない。ただ、一つの仮説として考えられるのは、この日封切られた『朝日オリンピックニュース第3報』である。

 スクリーンには、ベルリンを力走する孫基禎が映し出され、朝鮮人観客がその姿に熱狂する。表彰台では、割れんばかりの拍手が送られる。しかし、君が代が流れると観客は誰も唱和せず、画面の中の孫基禎と南昇龍もじっとうつむいたまま国旗掲揚台へは視線を向けない。
 観客は、ふと現実へ引き戻される。孫基禎は優勝した。しかし、そこで掲げられるのは太極旗ではなく日章旗であった。

 もし張龍瑞がこの光景を目撃し、その場の空気を感じていたとすれば、新聞写真の日章旗も、単に「ぼかす」だけでは足りないと考えたとしても不自然ではない。そして、その映画館の様子を写真部員たちへ伝えたのであれば、その場に居合わせなかった彼らもまた、その空気を共有したであろう。

 午後2時30分という製版作業の最終段階で、「ぼかし」から「抹消」へ方針が転じた理由を考えるうえで、この仮説は十分に成り立ちうる。


 もしそうであるならば、東亜日報夕刊から日章旗を消させたのは、張龍瑞一人ではない。団成社を埋めた観客であり、その思いを共有した朝鮮の民衆だったのかもしれない。

◆差押え後の対応

 1936年8月24日に発行される予定だった『東亜日報』夕刊の紙面を見ると、現在公開されているどのデータベースでも、2面右上に掲載された孫基禎の表彰台写真の右側に、不自然な空白が残されている。
 李吉用の供述によれば、この場所には、京城府民館で開催するオリンピック映画上映会の告知記事が組まれていたという。
 24日午後2時30分頃、張龍瑞が写真部を訪れた時点では、この上映会告知と孫基禎の写真は、一つの紙面としてすでに組み上げられていたと考えられる。

 しかし、夕刊は差押えとなった。

 上映会告知の記事は版面から取り外され、日付だけを書き換えたうえで、翌25日朝刊へ転用されたと考えられる。
 実際、25日付朝刊2面には、24日夕刊の空白部分とほぼ同じ大きさの上映会告知記事が掲載されている。


【図6】24日夕刊(空白)と25日朝刊(右上:上映会告知)

 一方、差押えを受けた24日夕刊については、検閲用校正刷りや印刷済み新聞だけでなく、転載に使用した写真原紙と亜鉛版まで押収された。
 そのため、日章旗を消した写真版そのものも失われた。

 

 写真版が押収される前に、25日朝刊用に上映会告知記事の版組を外した状態で印刷された紙面が、現在デジタル化されて残されているものと考えられる。

 当初25日から予定されていた上映会は26日開始へ変更され、朝刊には新しい日程で告知記事が掲載された。
 24日夕刊が差し押さえられたため、25日開催を読者へ知らせることができなくなったと考えれば、李吉用の供述と実際の開催日が1日ずれている理由も説明できる。

 もう一つ興味深いのは、25日朝刊最終面のスポーツ欄である。
 ここにはベルリン・オリンピックの写真が数枚掲載されているが、マラソン入賞者3人を写した写真では、孫基禎と南昇龍の胸の日章旗が、それまでよりもはるかに鮮明に印刷されている。

 

 もちろん、これだけで警務局図書課の指示であったと断定することはできない。
 しかし、図書課は当時、新聞記事だけでなく、紙面構成や掲載方法についても具体的な指示を出していた。
 そのことを踏まえると、この写真もまた、前日の事件を受けた、見せしめのための「改善指示」の一つであった可能性も否定できない。


【図7】25日朝刊掲載の鮮明な日章旗写真

◆府民館のオリンピック映画会

 上映会は8月26日から京城府民館で始まった。
 24日夕刊が差し押さえられ、関係者への取調べが続くなか、映画会そのものは予定どおり開催されたのである。
 初日の上映には豪雨にもかかわらず約2,000人もの観客が集まり、場内は立錐の余地もないほどの盛況となった。
 スクリーンに孫基禎の姿が映し出されると、「走れ、孫君!」という歓声が自然に起こり、先頭を走る場面では大きな拍手が沸き起こった。結果を知っていたにもかかわらず、後続選手に追いつかれるのではないかと息をのんで見守り、月桂冠が授けられる場面でようやく安堵したという。


【図8】府民館上映会の記事

 この上映会の熱狂は、2日前に団成社で見られた観客の反応と共通するものであった。

おわりに

 ここでは、東亜日報の日章旗抹消事件を、新聞紙面だけでなく、ニュース映画という映像体験との関係から再検討した。

 検証の結果、8月24日夕刊の写真掲載は、読者向けオリンピック映画上映会の広報と一体の企画であり、日章旗抹消もその過程で起きた出来事であったことが明らかになった。
 また、警察調書を読む限り、当初は「ぼかし」にとどめる予定だった修整が、製版の最終段階で「抹消」へ変更されている。
 その理由を直接示す史料は存在しない。
 

 しかし、この日公開された『朝日オリンピックニュース第3報』と、団成社を埋めた朝鮮人観客の熱狂をあわせて考えると、その映像体験が編集局の判断に影響を与えた可能性には十分説得力がある。

 もちろん、これは一つの仮説である。

 しかし、この仮説は、従来、十分に説明されてこなかった「なぜ8月24日だったのか」「なぜ『ぼかし』から『抹消』へ変わったのか」という二つの疑問を、もっとも自然に説明できる仮説ではないだろうか。

 「豊国製菓から『チョコパイのオリオン』」へというブログを書いた。こちら
 

 豊国製菓は、清酒・金千代を出したりしていた京城の三坂通の斎藤久太郎の経営する会社。三坂通には、私の母方の祖父・原四郎が支配人を務めていた朝鮮農林の会社があったこともあり、斎藤久太郎の会社は以前から気になっていた。


 今回の資料には、斎藤久太郎の末の弟・又吉というのが出てきた。又吉が、兄・久太郎の資産の処理で、敵産として接収されることを回避しようとしたものの、結局うまくいかなかったという内容である。その結果、金千代の醸造工場や豊国製菓、豊国製粉は帰属資産の工場としての変遷をたどることになった。


 この斎藤又吉、どんな人物だったのか。
 植民地時代の京城で出ていた『朝鮮公論』の1927年(昭和2年)7月号に、「兄弟そろって有名な人々(一)」という記事が出ている。そのトップに「実業家斎藤久太郎氏と社会事業家斎藤又吉氏」として取り上げられている。

 …
長兄久太郎氏が商界の奇傑たることは、暫らく云はずもがなであるが、その風格を見ると、馬鹿か悧口か、ちょつと判断がつきかねる程につまり昼行灯といつていゝ程に、器の大きいことを思はせるが、末弟又吉氏に至つては、少しく変態ではないかと思はれるくらいに感激性に富んでゐる。
 …
大正十二年二月に知名の士を大勢ホテルに招待して、社会事業のために身命を抛たんことを声明した時に、多くの人は何が何やら判らなかった。
 …
穀物の貿易商として相当に繁昌してゐたその店の財産全部を社会に投げ出し…南大門通りに自覚社といふ妙な看板を掲げて、乞食の子供を大勢集めてみたり、簡易食堂や宿泊をやつてみたり…
 …
其後間もなく、彼の財産が競売に付されたことや、奥さんの衣類全部が入質されたことを聞いた。「斎藤さんは、とうとう往くところまで往きついたのだ。それは悲壮な、だが喜ばしいことだ」と思はれた。

 『朝鮮公論』は1913年に京城で創刊された朝鮮在住日本人社会向けの総合雑誌だった。斎藤兄弟については「昼行灯」とか「変態」とかと書かれているが、ややゴシップ記事風でもあり、そのまま事実として受け取ることはできない。

 

 14年後の1941年11月20日付の『京城日報』には、当時の「自覚社」の様子が次のように紹介されている。

その名も自覚社、辛酸二〇年救済事業の草分け
変わり種「刺し子屋」

 「親ヲ知ラザル者ハ大罪人」こんな看板が南大門外の電車通りに人目を惹き始めて二〇年近くの歳月が流れた。左には諺文で「迷ヘル人ニ道アリ、働ク人ニ職アリ、飢エタル人ニ食アリ」と、同じく時代の付いた看板が下がっている。柔剣道着を全鮮一手に引き受けて製造販売する斎藤又吉さん(六二)が主人だが、持前の人生観は一向に基督教や仏教の流れをくむものではないという。西田天香氏と親交を結ぶだけあって、今どきの商人には珍しい気魄と信念を持つ「街の変わり者」の一人である。
 この斎藤さんは、今を距る一九年前の大正十二年、現在の南大門市場一帯にあった自分の邸内の倉庫の一部を改造して「浮浪児収容所」を造り、百数十名の「街の天使」を収容して給食・授産の設備を整え、「自覚社」と名付けた。これは救済事業の草分けとなった。故斎藤総督が親しく視察したのもこの当時のことである。当時すでに新体制を唱え、物の配給と需給の調節、価格の規正に着眼したが意のごとくならず、ついに破産の憂き目に遭った。しかし斎藤さんは屈することなく、「国を中心に己を捧げれば食ひ損ひは無い」と確信を固め、国家への奉仕団体としての授産事業に没頭すること数年。半島婦人の屋内手工業の発達に寄与するところは大きかった。現在残された唯一の手工業が、「刺し子」の柔剣道着製造なのである。二〇年の時の流れは明るく新体制の黎明を呼び、再び斎藤さんの信念が、名物の看板とともに大きくクローズアップされてきた。(写真・斎藤さんと看板)

 

 この記事に出てくる西田天香とは、無所有・共同生活を理念とする「一燈園」の創始者である。宗教団体ではなく修養・社会奉仕運動として出発したが、仏教やキリスト教など諸宗教の影響を受けた独自の思想を展開した。清掃奉仕や托鉢による生活で知られ、戦前から戦後にかけて多くの支持者を集めた。斎藤又吉の「自覚社」にも、その勤労奉仕や社会救済の思想の影響がみられる。

 


 「自覚社」は単なる慈善事業ではなく、一燈園的な「自覚」「奉仕」「授産」「共同体」の思想を朝鮮で実践しようとした運動体だったと思われる。看板の文言も、行政機関や宗教施設というより、一燈園系の社会改良運動の雰囲気が濃厚に出ている。斎藤又吉を「変わり者」と評しているのも、『朝鮮公論』の記事とも通じるものがあり、斎藤又吉を「ある種の理想主義者」として見ていたからであろう。

 もう少し資料はないだろうかと、あまり期待はできないと思ったが、念のためGoogleのブックス検索で「斉藤又吉 自覚社」で検索をかけてみた。すると、

異境への往還から - 245 ページ
1981
.. 斉藤又吉という人、本人だった。自覚社というのを経営しているそうで、もともと商売をしているのですが、という。そこで宗教と思想に関係した事業をしていて、インドその他欧州とも連絡して出版物を出している。あの広告にあることは余程経験がおありです ...

という検索結果が表示された。


 この『異境への往還から』(JCA 出版, 1981)という本は、うちの書棚にある。著者の八木秋子は私の大叔母、母方の祖母の妹で、「あきおばさん」なのだ。

 

 早速本を開いた。
 八木秋子は、1960年7月13日の日記に、朝日新聞に1400円の大枚をはたいて2行の求職の広告を出したと書き記している。

 

文案 談筆編集校正婦健年60身確誠実北区神谷三ノ二 八木

 八木秋子は、木曽で生まれ、結婚後、小川未明と恋愛関係となり駆け落ちした。東京日日新聞の文芸記者として活動した後アナーキスト運動に参加し、治安維持法違反で検挙され服役した。出所して満州へ渡り、満鉄関係施設の寮母を務めた。ソ連侵攻後、満鉄最後の避難列車の世話役として乗車、帰国後は福祉施設などの寮母として働いていた。

 

 そんな中で、収入源を求めて出したこの求職広告だったが、朝刊に掲載されたその日の7月15日に連絡してきたのが斎藤又吉だった。その日のうちに電話で話をしている。そして、7月26日に北沢の自覚社に行って斎藤又吉と会っている。当時、八木秋子は満65歳だったが、60歳ということになっていた。

 斉藤氏は禿頭の精力的な人、朝鮮からの引き揚げ者で、商売とは木綿生地で何か仕立てる授産的な仕事。それを売るらしい。その収益で彼の思想、宗教を宣伝しようとしているらしい。「知見の思想により資本主義、共産主義思想を批判する」というパンフレットを出している。
 話は著しく抽象的、暗示的であり、戦前の精神運動に似ている。

   …
 この、やや教祖的な自己陶酔のふるい思想に、一つ協力してみよう。

 と自覚社で働く気になっていた。しかし、翌日斎藤又吉から断りの電報が来た。

電報が届いた、<ミアワス、アシカラズ> 笑うに笑えない、何もかもおしまい。

 ということで、斎藤又吉が、戦後も東京で「自覚社」を運営していたことはわかったが、それ以上の情報は得られなかった。

 こうしてみると、斎藤又吉という人物は、単なる実業家でも慈善家でもなかったように思われる。『朝鮮公論』が描いた感激家で理想主義的な人物像は、戦後に八木秋子が接した斎藤又吉の姿とも重なっている。

 日本統治下の朝鮮では、「自覚社」を通じて浮浪児の救済や授産事業に取り組み、破産を経験してもなお理想を語り続けた。戦後も東京で「自覚社」の看板を掲げ、自らの思想を広めようとしていた。現実の経済活動と社会改良運動、そして一種の精神運動が混然一体となった人物だったのであろう。

 今回は、豊国製菓からオリオンへという企業史を調べる過程で、敗戦後の帰属財産問題に行き着き、さらに斎藤又吉という一人の人物の足跡を追うことになった。そして最後には、思いもよらず大叔母・八木秋子の回想録にその名を見つけることになった。資料を追っていると、別々だと思っていた人や出来事が思いがけないところでつながることがある。資料探求の面白さは、案外こういう偶然の出会いの中にあるのかもしれない。

 もっとも、今回わかったのは、斎藤又吉が戦後も東京で「自覚社」を続けていたということまでである。その後の活動や晩年については、なお不明な点が多い。京城の街で「街の変わり者」と呼ばれた理想家が、その後どのような人生を送ったのか。もう少し追いかけてみたい人物が、また一人増えてしまった。

 

 


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 1933年発行の『京城精密地図』で、龍山駅の北側、京城駅へ向かう京義線と龍山線(旧京義線)に挟まれた京町に「豊国製粉会社」の表示がある。
 1934年9月、ここで「豊国製菓」が本格操業を始めた。現在はオリオン製菓の本社と工場が建っている。

 

 

 1945年8月15日の天皇の「玉音放送」により、日本による朝鮮の植民地支配は終わりを告げた。9月8日に仁川へ上陸したアメリカ軍は、翌9日に京城へ進駐し、朝鮮総督府で降伏受諾式が行われて米軍政が開始された。

 

 豊国製粉と豊国製菓は、斎藤久太郎の斎藤合名が経営する企業だった。斎藤久太郎は長崎県壱岐の出身で、日清戦争の際に日本軍の御用商人として朝鮮に渡り、平壌で精米業を始めた。その後、京城の三坂通に製絹糸縫製工場を開き、それを酒造所へ転換して「金千代」ブランドの清酒で成功を収めた。さらに京仁商船や豊国農場、牧場にまで事業を拡大していた。

 

 日本の敗戦により、朝鮮内の日本人名義の資産は「敵産」として米軍政庁に接収されることになった。だが、朝鮮人に名義を「売却」「譲渡」「管理委任」などの形で移すことで接収を免れ、朝鮮人の関係者が引き継ぐケースもあった。後にヘテ製菓となる永岡商店や丸善京城支店では、米軍当局者立ち会いのもとで、日本側の資産保有者と朝鮮人従業員が「管理委任」の文書を取り交わしている。こうしたケースでは、「接収」「管理人の監督下での事業継続」「払い下げ」といった過程を経ることなく、朝鮮人従業員が資産を継承して事業を継続することになった。

 

 斎藤久太郎が経営していた企業ではどうだったのか。金千代酒造については、1945年11月20日付の『民衆日報』に記事が掲載されている。そこでは、斎藤久太郎の委任を受けたという弟・又吉が、自身の社会団体「自覚社」を財団法人化し、そこへ経営権を移そうとしたと報じられている。朝鮮人による理事会が運営する財団法人とし、接収を回避する方法は、学校や宗教団体などでも試みられた例があった。

 

最後まで続く日本人の悪あがき

金千代醸酒問題注目

 全国的に名の知れた金千代醸造会社をめぐる日本人の最後の悪あがき!ソウル市吉野町の朝鮮清酒醸造会社(旧金千代醸造場)は、前社長斎藤久太郎から自治委員会に引き渡され、この間全従業員の力で運営されている一方、軍政庁鉱工課に接収されて今日に至り、近日中に同鉱工課の推薦で顧問も新任されることになった。最近、斎藤久太郎の弟だという斎藤又吉という者が兄から委任されたと現れ、経営権を奪取しようと悪辣な野心を示して全従業員の憤激を買っている。また、斎藤又吉は自らが経営していたソウル市南大門通5丁目の自覚社を財団組織化し同醸造場で生産される日本酒を各地に売りに出す計画で、各商人と契約しているということで朝鮮清酒会社の行方が注目される。

 この記事には、金千代の酒造工場は「自治委員会」に引き渡され、「従業員の力で運営されている」とある。

 豊国製菓でも、解放直後から裵東恒ペドンハン金炳文キムビョンムン金萬福キムマンボク河興吉ハフンギルら従業員による自治運営が行われていた。裵東恒は普成ポソン専門学校卒のエリート社員で、引き継ぎの名義人となっていた。管理委任などに関する契約書を取り交わす場合、高学歴の代表者の方が米軍政庁側の了承を得やすかったからである。

 

 ところが、斎藤久太郎の代理人・斎藤又吉は、金千代酒造の経営権を財団化する「自覚社」に移そうとした。

 「自覚社」は、1923年に斎藤又吉が創設した慈善団体で、朝鮮人貧民の子供たちのための学校を開設し、簡易食堂や簡易宿舎の提供、朝鮮人女性への内職の斡旋などを行っていた。しかし、財政難から一度は破綻したものの、1940年代には西田天香の一燈園の思想に共鳴し、「共同体」の理念を朝鮮で実践しようと、朝鮮女性に仕事を与えて生活の自立を支援する事業に取り組んでいた。敗戦後、又吉は「自覚社」を維持するため、兄・久太郎の金千代酒造の資産を活用しようと画策したのであろう。しかし、その計画は酒造工場の朝鮮人従業員の反発と世論の批判を受け、実現には至らなかった。

 そればかりでなく、金千代酒造や豊国製粉、豊国製菓などについても、管理委任の形をとった朝鮮人従業員への資産の引き継ぎは実現しなくなってしまった。

 

 豊国プングク製菓では、生産は朝鮮人従業員の手で引き続き行われていたが、接収された敵産の事業体、すなわち帰属会社を管理・監督する管理人が指名された。

 豊国製菓と豊国製粉の最初の管理人は大洋産業テヤンサノプ社長の李鍾会イジョンフェで、斎藤久太郎が所有していた帰属会社6社の管理人に指名された。一方、工場での生産は、それまでの朝鮮人従業員が引き続き行っていた。

 ところが、接収された工場などでは、管理人が売却可能な資産を勝手に処分して巨額の金を着服したり、本来軍政庁に報告すべき財産を隠匿して横流ししたりするなど、さまざまな不正が行われていたとされる。

 1946年になると、軍政庁監察部による帰属財産をめぐる不正摘発が始まり、豊国製粉や豊国製菓もその対象となった。そればかりでなく、1947年1月には大韓独立促成全国労働総同盟(大韓労総テハンノチョン)が李鍾会らを告発した。大韓労総は李承晩イスンマン系の反共労働団体であり、不正告発の背景には、大洋産業の李鍾会と豊国の工場従業員との間における帰属会社の運営権をめぐる争いがあったようだ。

 4月、豊国製粉への朝興チョフン銀行の融資資金を、李鍾会が自らの経営する別会社に流用したとして、横領罪で逮捕された。

 

 李鍾会は後に無罪となるのだが、逮捕された時点で帰属会社の管理人を解任された。その後任として豊国製菓の管理人になったのは金炳文だった。金炳文は植民地統治時代からの従業員であり、同じく従業員だった鄭利亨チョンリヒョンが豊国製菓の代表となった。

 一方、豊国製粉の方は大韓金融組合連合会(金連クムニョン)の直営となった。金連は、植民地時代の農業金融機関であった朝鮮金融組合連合会(朝連)の後身で、日本人が所有していた精米・精麦工場などの帰属工場を引き継いでいた。豊国製粉もその中に組み込まれた。

 

 1950年6月、朝鮮戦争が勃発した。ソウルは北朝鮮人民軍によって占領された。この占領下で、北側に連行された政治家や官僚、知識人、実業家らがいた。それらの人々の名簿が残されているが、その中に8月4日に連行された「菓子会社員 鄭利亨 50歳」の記載がある。これ以降の豊国製菓関係資料には、鄭利亨の名前は出てこない。

 

 ソウルは1950年6月28日から9月28日まで、さらに1951年1月4日から3月14日までの2度にわたって北朝鮮人民軍に占領された。国連軍と韓国軍がソウルを再び奪還した後、前線は北緯38度線付近で膠着状態となった。1951年春以降、ソウルでは市電の運行が再開され、官庁も復旧し、工場の操業も再開された。

 

 「敵産」として接収され、米軍政庁の管理下に置かれた日本の旧資産は、1948年の大韓民国建国後、「帰属財産」として韓国政府に引き継がれ、1949年に制定された「帰属財産処理法」に基づいて売却・払い下げが進められた。

 

 豊国製菓は、1952年5月、解放前からの従業員であった裵東恒、金炳文、河興吉らに工場建物および設備一式が払い下げられた。その代表であった裵東恒が社長に就任した。しかし、翌1953年には、この払い下げの資金援助を行った李洋求イヤングを社長として迎え入れた。

 

 

 李洋求は咸鏡南道ハムギョンナムド咸州郡ハムジュグンの出身で、咸興の製菓会社に入って頭角を現し、独立して資産を築いた。解放後はソウルに出て菓子販売業を営んでいた。朝鮮戦争時には釜山に避難したが、ソウルに戻ると豊国製菓に投資した。また、サムスンの創業者である李秉喆イビョンチョルや裵東恒と共同出資して東洋製糖を設立した。

 

 豊国製菓は、1955年5月に工場用地の払い下げも受け、1956年7月25日に東洋製菓工業株式会社となった。なお、「オリオン」の名称は創業当初からガムなどの商品ブランドとして使用されていた。

 

 


 

 ここでは、日本の植民地支配下で斎藤久太郎が経営した豊国製菓が、今日のオリオンへとつながっていく過程をたどりながら、特に日本の敗戦によって日本人の資産が朝鮮の人々の手に渡っていく過程を追ってみた。敵産が帰属財産となり、それが払い下げられるまでの経緯は、決して単純なものではなかった。

 

 東洋製菓工業は1974年にチョコパイの製造を始め、1986年に社名を東洋製菓株式会社と改称した。その後、2003年には、それまでブランド名として親しまれてきた「オリオン」を社名として採用している。

 

 2000年公開の映画『JSA 共同警備区域』で、ソン・ガンホ演じる北朝鮮軍兵士オ・ギョンピルが食べるチョコパイは、メーカー名は映っていないが、韓国ではオリオンのチョコパイと理解されているようだ。

 

 

 日本人の企業として始まった豊国製菓は、解放後の混乱と朝鮮戦争を乗り越え、韓国人の手による企業として再出発した。そして今日、その系譜を引くオリオンは韓国を代表する製菓会社となっている。豊国製菓からオリオンへの歩みは、植民地支配の終焉とともに進んだ韓国経済の再編過程を映し出すものとなっている。

 


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