一松書院のブログ

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ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 日本では、葬儀を行う「斎場」や、「セレモニーホール」「メモリアルホール」と名付けられた施設が市街地でも目につく。ところが、韓国の都市部では、葬礼式場は大学病院など大きな病院の霊安室に併設されているのが一般的である。礼式場と呼ばれる結婚式のための施設は、以前よりは減ったものの、街の中でも見かける。しかし、葬儀場を都会の街なかで目にすることはない。

 韓国の規模の大きな病院には、霊安室に付属する病院内の施設がある。映画やドラマでも、葬儀の場面は病院内の葬儀場で、喪主が弔問を受け、食事をしている。 

 

나의 아저씨(マイ・ディア・ミスター)より

 

 ところで、弔問客への飲食提供や葬儀用品の販売などを含む葬儀式場営業を病院が行えるようになったのは、1994年の「家庭儀礼準則に関する法律」改正以降のことである。この改正で、許認可事項だった葬儀式場の開設が届出制に変わり、厳しく制限されていた病院の付帯事業も大幅に緩和された。

 そもそも、「家庭儀礼準則」が制定されたのは1963年。当初は罰則のない、努力目標的なものであった。1972年3月制作の大韓ニュース第871号「葬式は簡素に」は、このような内容になっている。

 ※「大韓ニュース」は、映画館で本編が始まる前にスクリーンで流されていたニュース映画で、国家が制作し、時事ニュースや国策を映像で伝える役割を担っていた

 人がこの世を去ると、最後の道行きだけでも立派に送りたいという思いから、礼を尽くすものです。しかし、これまでの例を見ると、礼が度を超して虚礼となってしまうことが少なくありません。大声で号泣したり、煩わしい喪服によって、かえって葬儀を台無しにしていることも多いのです。
 先祖を敬う道は、このような形式にあるのではなく、誠実で健やかな心構えにあります。
 政府が1963年に制定した「家庭儀礼準則」では、喪主の服装について、韓服の場合は白い衣服に白いトゥルマギ、白い喪帽をかぶる、あるいは喪章を胸に付けると定めています。平服を着ても差し支えないとされています。
 また、弔問客に食事を振る舞わず、弔問客も供花を送らないことで、簡素な葬礼とするよう勧めています。過度な出費のために家計を傾けた例を思い返しても、私たち皆が葬礼を簡素に執り行うべきでしょう。

 維新憲法の施行後、1973年3月に厳格な「家庭儀礼に関する法律」が施行され、結婚式や葬儀、祭祀、還暦祝いなどに至るまで、罰則を伴う厳しい規制が課されるようになった。

 

 

 結婚式は、許可を得て建てられた礼式場で簡素な式を行い、終わった後は隣接する大広間でククスやカルビタンを食べながら焼酎ソジュを飲むという結婚式が定番になったのは、これ以降のことである。
 

 葬儀についても同じように、簡素化を名目に様々な規制がかけられた。葬儀の場所は「喪家サンガ(自宅)」または「営業許可を受けた専門施設(葬儀式場)」とされ、葬儀式場の営業には市長や道知事などの管轄機関の許可が必要であった。また「葬儀式場の位置は都心部から離れていること」という規定も設けられていた。

1981年に全斗煥チョンドゥファン政権になってからも、この政策は基本的に変わることはなかった。

1981年3月27日 大韓ニュース第1325号

 新春とともに結婚シーズンを迎えました。政府は退廃的な風潮をなくし、我々の美風良俗を生かすことを骨子とした新しい「家庭儀礼準則」を制定しました。
 新家庭儀礼準則における禁止事項と許容事項を見てみると、結婚式や還暦祝いに際して、招待状などの印刷物による招待は禁じられています。ホテルの式場営業は禁じられていますが、市外地域では許されます。結婚式で来客に記念品を贈る行為も禁止されています。また、大衆食堂での飲食接待も禁止です。
 葬礼においては、官公庁・企業・団体名義の新聞訃報は禁じられていますが、訃報通知による個別案内は可能です。葬儀で喪主が韓服式の喪服を着ることは禁じられ、弔旗の使用も禁じられています。
 一方で、遺族を手伝う人や埋葬地・火葬場まで同行した人には飲食接待ができます。また、名義を表示しない供花や鉢植えの陳列は、霊前や墓所では10基以内、式場では2基まで許可されています。さらに、結婚式において、新郎新婦、主宰者、両親のコサージュ着用も許されています。
 従来は家庭内でのみ許された還暦祝いも、大衆食堂で行うことができ、飲食接待も許されました。
 新時代を迎え、みんなで豊かで明るい新しい国を築くために、新家庭儀礼を生活の中で徹底し、見栄を捨て、正しい礼儀と節約の生活風潮を広げていかなければなりません。

 

 1970年代から80年代というと、ちょうど高層マンションが続々と建っていた時期である。1984年公開の映画『長男(장남チャンナム)』には、高層アパートで棺桶をゴンドラを使って降ろすシーンがある。

 

 

 当時は、高層アパートの屋上に軌道式で移動可能なゴンドラ昇降装置が設置されており、引越し荷物の上げ下ろしなどでもそれを使っていた。自宅で納棺した棺桶は、そのゴンドラで降ろすしかなかった。

 


当時の引越し風景

 

 1987年に「民主化宣言」があり、「文民政権」を標榜した金泳三キムヨンサム政権が誕生すると、1993年7月に家庭儀礼法の改正が予告され、1994年から改正法が施行された。

礼式・葬儀業の全面自由化
保健社会部、来年から営業・料金を届出制に

変則運営や暴利の弊害を防ぐため 物品代金などの価格表示制に転換

家庭儀礼法改正案を立法予告

 

 これによって、礼式場以外のホテルや伝統家屋などでの結婚式が可能になり、葬儀についても大規模な病院が付帯事業として、霊安室に隣接して葬儀式場を設置するようになった。

 1996年1月29日付の『東亜日報』には、こんな記事も出ている。

大学病院の「豪華な霊安室」競争

数百坪の空間、カーペット、高級照明、くつろげる雰囲気

葬儀用品の価格を引き下げ、「ぼったくり」も解消
 病院の霊安室が大きく変わりつつある。「陰気な雰囲気」「あの世への路銀につけこんだ暴利」「病院との癒着」といった修飾語が常に付きまとっていた病院霊安室の姿が、徐々に消え去ろうとしている。
 それに代わって、明るいクリスタル照明にふかふかのカーペットが敷かれた清潔な空間」へと変わりつつある。一部の財閥系病院だけでなく、各大学病院までが新しい設備と質の高いサービスを提供する「高級霊安室」づくりに競って乗り出している。
高麗コリョ大学付属安山アンサン病院は、現在の10倍に近い規模の300坪を超える大型高級霊安室を建設中。延世ヨンセ大学セブランス病院も、今年5月頃に地下1階、2階に480坪余りに及ぶ大型霊安室を新設する。ソウル大学病院も、今年中に200坪規模の新しい霊安室を新築し、結婚式場のような高級な雰囲気に変える予定だ。
 新築または改装されるこれらの霊安室には、弔問室だけでなく、弔問客のための別個の食堂や、床に絨毯を敷いた高級葬儀式場も併設される。
 施設だけではない。これらの病院は、霊安室の運営を直営体制に切り替えるなどして、各種サービスの水準も大幅に向上させている。これまで法外に高額だった葬儀用品やサービス料金も合理的な価格に引き下げ、「あの世への路銀」という名目で受け取っていた各種チップなども廃止している。
(中略)
 これら大手病院の霊安室高級化現象は、サムスン医療院の霊安室運営に刺激を受けたものだとされている。サムスン医療院が霊安室を高級化して、適正価格でハイクラスなサービスを提供し始めたことで、韓国内でも霊安室サービス競争に火が付いたと言われる。
(後略)

 こうした病院の霊安室と一体化した葬儀式場とは別に、1990年代以降の法規制緩和の波に乗って、日本の「互助会」と同じような「相助サンジョ会社」ができ、全国的な企業も出てきている。「互いに助け合う」という意味の「相助サンジョ」から出発したが、現在では事実上「喪助サンジョ(葬儀を助ける)」に特化し、直営の葬儀式場を運営している。ただし、郊外や地方都市が中心で、ソウルなどの都市中心部では、病院霊安室に併設されている葬儀場が主流である。

 この1994年の「家庭儀礼準則に関する法律改正」以降、韓国の家庭内での様々な儀礼の場面で、女性、特に「長男の嫁」への負担が増大しているのではなかろうか。また、結婚についても、「家庭儀礼準則」で規制がかかっていた時期の反動で、経済的な負担はもちろん、様々な「虚礼」や「慣例」が復活、あるいはそれ以上に多くのものが求められているようにも思える。押さえ込まれていたもののタガが外れた反動が、過度な「負担」を強いる結果になっているのかもしれない。

 そう簡単に断定はできないが、韓国社会の非婚者の増大や少子化の現実を考えると、なんらかの影響はありそうな気もする。

 



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 国立映画アーカイブが、1932年に制作された『學校敎科フイルム 京城だより』を公開している。

 

 

 解説にあるように、この映画は、『尋常小学国語読本 巻十』の「京城の友から」と『尋常小学読本 巻十二』の「京城の伯母より」の内容に準拠した教材として制作されたものである。

 上掲の広島大学図書館の「教科書コレクション」へのリンクでは、それぞれ39〜42ページが「第十三 京城の友から」、27〜30ページが「第十一課 京城の伯母より」である。
 
 
 
 正面が商業銀行(現:Kファイナンスタワー)、左側が朝鮮銀行(現:貨幣金融博物館)、右端は平尾賛平商店の化粧クリーム「レートクレーム」の巨大広告塔。
 
 

 
 場所は、現在の鍾閣チョンガク交差点の北東側、現在の鍾路チョンノタワーのある場所。
 上の写真の左側のビルは、1935年1月に火事で焼ける前の和信ファシン商会。右側は裕昌ユチャン商会。
 下の写真はその東側の昌信チャンシン商会の前。その横に見えるのが旧漢城ハンソン電気の建物で、のちに鍾路警察署として使われたこともあった。
 
 
 南山ナムサンから北側の眺望に、景福宮キョンボックンの前面に建てられた朝鮮総督府の庁舎が見える。
 
 
 『尋常小学国語読本 巻十』の「京城の友から」には、
景福宮の構内には新築の朝鮮総督府が見えます
と書かれている。ところが、映像の景福宮の場面では、光化門クァンファムン(本来の位置から東側側壁部分に移築された)の裏側からのショット→勤政殿クンジョンジョン慶会楼キョンフェルとなっていて、なぜか総督府庁舎は全く出てこない。
 まるで光化門から勤政殿へと、あたかも連続しているかのような編集になっているのも、やや不可解である。
 
 その後、京城府庁(現:ソウル図書館)、朝鮮ホテル(現:ウエスティン朝鮮チョソンの位置)、中央郵便局が出てくる。
 
 続いて、龍山ヨンサン地区の航空機からの空中撮影映像が映し出される。
 

 
 1935年8月に朝鮮新聞社が航空写真を撮り、それを小野三正が編集・作図して『大京城府大観』を刊行しているが、それよりも3年も早くムービーで空撮を行っていたのは、かなり先進的なものではなかっただろうか。
 
 これ以降は、『尋常小学読本 巻十二』の「京城の伯母より」に依拠した、朝鮮の人々の服装、住居、生活に関する映像である。異文化への理解を促そうという意図も感じられる。
 
 
 「同化」というよりも、「朝鮮人には朝鮮人の生活があるのですよ」というニュアンスの描き方にも見えなくはない。これが1930年代後半になると、「皇国臣民化」が進められ、朝鮮人に日本語を話させ、日本人のような生活や行動を求めていくようになる。
 
 ここに描かれているのは、日本による朝鮮統治の「ある時代」の一断面でしかないことを、きちんと認識する必要がある。
 

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 日本では、1872年に新橋・横浜間の鉄道が開業し、その後、国内の鉄道網は急速に拡大した。長距離移動が可能になると、駅や車内で食事をする必要性が生じた。そこで生まれたのが「駅弁」である。


 日本の駅弁は、1880〜1890年代に販売が始まったとされる。1885年頃に宇都宮駅でおにぎりとたくあんを竹の皮で包んだものが販売され、1890年頃には姫路駅で幕の内スタイルの弁当が販売されたといわれている。

 

 朝鮮では、1899年に京城(現ソウル)・仁川間に京仁線が敷設され、1905年に京釜線(京城〜釜山)、1906年に京義線(京城〜新義州)が開通した。

 京釜線は、開業当初は釜山・京城間が十数時間かかっており、飲まず食わずというわけにはいかなかった。

 

 1915年刊行の朝鮮総督府鉄道局編『朝鮮鉄道史』には、このような記述がある。

急行列車ニ食堂車ヲ連結シタルハ、明治41年4月1日、京釜線第一・第二列車ヲ以テ嚆矢トス。食堂營業ハ初メ営業者ヲ指定シテ之ヲ經營セシメシガ、動モスレバ旅客ノ苦情・非難ヲ免レザリシヲ以テ、大正2年4月1日之ヲ鐵道ノ直營ニ移シ、又同月15日ヨリ営業者ニ於テ經營セル南大門停車場喫茶店ヲ局管ニ改メ、設備・材料ニ意ヲ用ヒ、旅客ノ便宜ト慰安トヲ圖ルニ努メタリ。
而シテ現在ニ於テ食堂車ヲ連結スル區間ハ、京釜・京義線急行列車ノ區間部分ニ限ラル。鮮滿急行列車車輛所屬ノ關係ヨリ南滿洲鐵道會社ノ經營トシ、該列車運轉區間ニ之ヲ連結ス。

 1908年から、釜山・京城間の急行列車には食堂車が連結されていた。だが、この資料では駅弁については全く言及されていない。駅構内や列車内で販売する場合は、当然、鉄道局の認可が必要だったであろうから、いわゆる「駅弁」はこの時期まではなかったのかもしれない。

 

 駅弁のことが「벤또ベント」という朝鮮語表記で資料に現れるのは、『毎日申報』の1919年6月14日の記事が最初のようだ。

各駅箪食検査
停車場の弁当ご飯 良い駅と悪い駅

最近は夏の暑さで衛生に注意しければならないが、痛みやすい材料をおかずにして売っている各停車場の弁当があり、京城管理局では鉄道全線で売っているものを集めて、衛生状態はもちろん、材料が弁当に適切か、ご飯の量や品質に至るまで厳重に検査した。昨年実施した時よりも良くなったというが未だ改良すべき点も多く、今後注意してあらためさせるという。
検査の成績は、上弁当では、南大門、福溪、釜山桟橋、大邱、釜山駅、鉄原、裡里、永登浦が優等として合格し、水原、新幕、新安州、成歡、金泉、松汀里、定州、固山、開城、平壌は優等の次、宣川、井邑は不良ということで落第。並弁当は、釜山桟橋、釜山駅、南大門、福溪、大邱が優等、三浪津、永登浦、元山、龍山、水原、新幕、裡里、成歡、鉄原、大田、平壌、片山、新安州、松汀里、定州、金泉などは普通。開城、宣川、井邑は非常に悪く、並弁当の成績が悪く改善すべきだとのこと。

※箪食[たんし]竹の器に入れた食事

 この年11月には上弁当が50銭、並が25銭、お茶7銭、お湯の追加2銭に値上がりしている。1930年代にソルロンタンが15〜20銭だったことを考えると、かなり高価な食べものだった。

 


 それだけに、鉄道局でもかなり神経を使っていたようで、毎年、駅弁の検査を行っていた。

 

 

 『毎日申報』に「昨年実施した時よりも良くなった」とあるので、1918年あたりから鉄道局がこの手の駅弁調査を実施していたと思われる。そこから逆算すると、駅弁が朝鮮で本格的に販売されるようになるのは、1917年前後からといえそうだ。

 

 ただ、駅弁の評判はあまり良くなかったようだ。味の問題以前に、きちんと食べられるかどうかという点から問題となるものもあった。

 

 

 

 1930年には、駅弁の審査会が京城で開かれたことも新聞に報じられた。永登浦の駅弁が一番、京城・平壌・大邱は「比較的粗悪」といわれている。

 

  

 

 1939年には、駅弁の値下げという記事もある。その一方で40銭の弁当を出すという。最初の頃にあった50銭の上弁当を10銭下げて復活させたものかもしれない。

 

40銭の駅弁

25日から発売

 旅行者の楽しみである駅弁は、昨年11月に10銭値下げして25銭へ改定されたが、その後の情勢を見るに、釜山鉄道管内では、食堂車の利用率が旅客増加率に比べてはるかに高いばかりでなく、「鮨丼」のような特別な弁当が、25銭の並弁当に比べて加速度的に増加している。
 この現象は、要するに弁当の内容が貧弱であることに原因があるが、昨今の物価高ではこれ以上の値下げは難しく、無理やり内容を充実させれば営業者の利益を無視することになる。そこで鉄道局では種々研究の末、現行の25銭弁当はそのままにして、別に40銭の弁当を新設して、今月25日から 釜山・大邱・大田・裡里・京城・新幕・平壌・定州・元山・福溪・城津・新北靑の12駅で並行して販売することとした。
 ただしこれは試行販売であり、1〜2か月の成績を見たのちに、継続するかどうかを決定する予定だという。

 ここまで挙がった駅弁販売の駅名の大体の場所をプロットすると、駅弁を販売していたことが確認できる地点はこのようになる。やはり、京城・釜山の京釜線が充実していて、京義線、京元線、湖南線でも販売されていた。

 

 

 当時の京城駅での駅弁売りの様子が映像として残っている。

 1940年に清水宏が朝鮮総督府鉄道局の依頼で作製した短編広報映画『京城』の京城駅の場面に、駅そば(うどん?)を売る場面の後、ホームで立売する駅弁売りの姿が出てくる。

 

 

 もう一つは、1941年公開の劇映画『반도의 봄バンドエ ポム(半島の春)』で、李英一イヨンイル金昌秀キムチャンスとその妹・貞喜チョンヒを京城駅に出迎える場面の裏音声に「お茶、弁当」という声が入っている。

 

 



 1980年代〜1990年代の韓国では、特急セマウル号に食堂車があり、車内販売も行われていた。ムグンファ号でも車内販売があった。

 

 

 KTXは、2004年の営業運転開始から移動販売を行っていたが、食堂車はなかった。弁当の移動販売は2010年代初頭に電話予約で十数個買ったことがあったが、それも2017年頃にはなくなった。

 

 韓国のサイトで「駅弁」を検索しても、日本の駅弁に関する書き込みばかりが出てくる。韓国には「駅弁」という文化はないといわれるが、やはりそうなのだろう。
 


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