一松書院のブログ

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ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

2025年10月にNetflixで配信された『グッドニュース』。
その元ネタになったのが、1970年3月31日に起きた、日本の赤軍派による日航機乗っ取り事件だ。乗っ取られた日航機「よど号」は金浦キムポ空港に誘導され、韓国側が犯人たちの説得にあたった。しかし、結局は山村新治郎運輸政務次官が乗客らの身代わりの人質となり、4月3日、よど号は休戦ラインを越えて平壌ピョンヤン郊外の美林ミリン飛行場に着陸した。

2日後、機長・副操縦士・航空機関士の3人と山村政務次官は、よど号の機体とともに日本に帰国した。

 

日本の記録 : 映像100年史より


当時の新聞報道では、「航空機乗っ取り」「飛行機乗っ取り」という表現が主流で、「ハイジャック」という言い方はまだ一般的ではなかった。4月4日付の朝日新聞は、米紙『ボルチモア・サン』が、よど号事件を「サムライ・ハイジャック」という見出しで伝えたと報じている。

その後、次第に「ハイジャック対策」「ハイジャック防止策」のように、日本語でも「ハイジャック」の使用例が増えていく。

「ハイジャック」は、もともと密売人や密輸業者を襲い、輸送中の酒や荷物を奪う行為を指す英語の俗語だった。1920年代のアメリカの禁酒法時代には、密造・密輸酒を横取りする犯罪をそう呼んでいた。その言葉が、後に航空機の乗っ取りにも使われるようになった。

日本では、このよど号事件が初めてのハイジャックだった。

だが、世界では、1950年代には東欧などで国外逃亡を目的とする航空機の乗っ取りがしばしば発生していた。1960年代に入ると、米国からキューバへ向かわせる事件が相次ぎ、1968年以降、その件数が急増する。さらに、パレスチナ解放運動の組織などが政治的要求を突きつける手段として用いるようになり、ハイジャックは国際問題となっていた。

 

韓国では、朝鮮戦争の停戦から4年半後の1958年2月16日、最初の航空機乗っ取り事件が起きた。大韓テハン国民クンミン航空の釜山プサン発ソウル行きDC-3型機「滄浪号チャンナンホ」が乗っ取られ、休戦ラインを越えて平壌郊外の飛行場に着陸させられた。

 

KBS映像実録(1995)より

(韓国語音声の日本語訳)
乗客・乗員34人を乗せた大韓国民航空所属の国内線旅客機「滄浪号」が、釜山を出発してソウルへ向かう途中、傀儡のスパイの陰謀によって強制的に北朝鮮へ連れ去られるという衝撃的な事件が、2月16日に発生しました。

政府は直ちに軍事休戦委員会の連絡将校会議を開き、北朝鮮に連れ去られた人々の送還を求めた。事件発生から18日目、北朝鮮側は、乗客を送り返すと板門店の連絡将校を通じて発表した。

この日の午後7時20分ごろ、送還が行われた。しかし、戻ってきたのは26人だけ。残りの人々について、北朝鮮側は自らの意思で北朝鮮に残ったと主張した。

この映像が伝えるように、乗客・乗員34人のうち26人が板門店パンムンジョム経由で帰還した。韓国側は、北朝鮮の工作員による組織的な犯行とみなしていた。

その後、韓国の旅客機では10年以上、ハイジャック事件は起きなかった。

 

ところが、1969年12月11日、乗客47人と乗員4人の計51人を乗せた大韓航空の江陵カンヌン発ソウル行きの国内線旅客機(YS-11型機)が乗っ取られ、北朝鮮の宣徳ソンドク飛行場へ着陸させられた。韓国側は、乗客として搭乗していたチョ・チャンヒが北朝鮮の工作員だったとして、その犯行と断定した。韓国政府や大韓航空などは、連れ去られた乗客・乗員の送還を求め、国際機関や海外世論への働きかけを強めた。

1970年2月14日、乗客のうち39人が板門店を通って韓国側に帰還した。

 

 

だが、乗員4人全員と、放送関係者など乗客7人は北朝鮮に残された。犯人とされた1人を除く11人が、帰還できなかったのである。操縦士や放送関係者が含まれていたことから、北朝鮮が技能面や宣伝面で利用できる人々を選んで残したのではないか、との見方もある。

その後、消息が断片的に伝えられた人もいたが、帰還は実現しなかった。

上述の赤軍派によるよど号事件が起きたのは、この大韓航空機乗っ取り事件の余韻が、まだ色濃く残る中でのことだった。

平壌に向けて福岡空港を離陸したよど号は、平壌の管制を装った韓国側の無線誘導に従い、金浦空港に着陸した。ところが、空港内の西側航空機や石油会社の標識、地上係員の応対などから、犯人たちは平壌ではないと気づいた。

 

金浦国際空港(1970)

 

韓国政府は、何としてもよど号の北朝鮮行きを阻止しようとした。しかし、最終的には、乗客と客室乗務員の身代わりとなった山村政務次官を乗せて、平壌へ向かうことを認めざるを得なかった。

大韓航空機の乗っ取り事件を受け、韓国では1970年1月から、警察による空港での保安検査が始まっていた。さらによど号事件も起き、空港と機内の保安対策が重要な課題となった。搭乗者の身元確認や手荷物検査が強化され、武装した保安要員も旅客機に搭乗するようになった。

ところが、1971年1月23日、束草ソクチョ発ソウル行きの大韓航空フォッカーF27型機が、またもや乗っ取られる事件が起きた。これが、映画『1971、ハイジャック事件』の題材となった事件である。

離陸後、機内で爆発が起き、操縦室と客室を隔てる扉や隔壁が壊れ、床にも穴が開いた。犯人はさらに爆発物を示し、北朝鮮へ向かうよう要求した。

 

 

機長は管制所にハイジャックの発生を通報し、何とか休戦ラインの韓国側に着陸させようとした。やがて、機内の保安要員・崔天一チェチョンイルが隙を見て犯人を銃撃。訓練中の操縦士として搭乗していた全明世チョンミョンセは、犯人の爆発物に覆いかぶさり、機体と乗客への被害を最小限にとどめようとした。

機長は損傷した機体を操縦し、午後2時18分ごろ、軍事境界線南側の高城コソン郡の砂浜に胴体着陸させた。

犯人は死亡し、重傷を負った全明世も救急搬送途中に亡くなった。

 

この記事の見出しにあるように、韓国では、これらの事件は「航空機の乗っ取り」というより、「拉北」、すなわち北朝鮮に連れ去られ、韓国に戻れなくなる事件として受け止められていた。1969年の事件では、実際に乗客・乗員11人が帰還できないまま残されていた。

よど号が金浦空港に着陸したのも、翌年に束草発の旅客機が乗っ取られたのも、その11人の帰還が実現しない中でのことだった。北朝鮮へ連れて行かれたら、もう戻れないかもしれない。それは、乗客や乗員にとって、単なる想像ではなかった。

『グッドニュース』が題材とした金浦空港での騒動と、『1971、ハイジャック事件』が描く機内での攻防。二つの映画の背景には、1969年の大韓航空機乗っ取り事件がある。こうした事件のつながりと、当時の南北朝鮮の軍事的対峙状況を踏まえると、航空機の乗っ取りが韓国社会にとってどれほど切実な恐怖だったかが見えてくる。

※ 韓国映画『1971、ハイジャック事件』は2026年11月13日に日本公開


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以前、こんなブログを書いた。

 

『原三渓翁伝』の第9章第4節には、「朝鮮農林株式会社」に関する次のような記述がある。

 朝鮮農林株式会社は三溪翁が予て朝鮮の土地が頗る廉価で将来朝鮮発展と共に価値の昂騰を期待して土地買収に指を染めたものである。これより先き横浜に永くゐて横浜貿易新聞を主宰し後代議士となつた佐藤虎次郎氏は、昔、先代の原家に事へ、後三溪翁の知遇を得てゐたが朝鮮に渉り事業を起さんと心懸けてゐたので仕事をさせたいと云ふ考もあつたものである。

 初め朝鮮人万玉なるものが京城の郊外に土地を纏めて所有したが、これを売りたいと云ふので買収して大正元年四月一日三溪翁は中村房次郎、市原盛宏、佐藤虎次郎の三氏と共に匿名組合を組織し、京城府吉野町、三坂通等京城府内に於ける宅地七千五百坪、同地上家屋及京畿道、坡前郡全村農地十三万坪を所有し、土地家屋及び農事経営に着手することとなつた。

ここに「朝鮮人万玉」とある人物は、実際には仁川在住の日本人実業家「萬玉」である。このことは、以前のブログでも取り上げた。

 

『原三渓翁伝』は、藤本實也が戦時中にまとめたものだが、稿本のままで活字化されていなかった。それが横浜開港150周年記念事業の一環として、2009年に校訂を加えて刊行された。

「萬玉」を「まんぎょく」と読む苗字は徳島県に分布するとされるが、そのルーツまでは確認できない。珍しい苗字なので、藤本實也が朝鮮人と誤認したのであろう。

 

さて、韓国の国家記録院が提供する「地籍アーカイブ(지적아카이브)」は、2006年からインターネット上で利用できるようになった。このデータベースを検索すると、1912年当時の三坂通(現・厚岩洞フアムドン)一帯の土地所有関係を具体的に調べることができる。

 

地籍アーカイブで閲覧できるのは1912年以降の土地調査資料だが、それ以前のこの一帯の様子は、1906年9月に起案された『陸軍省 密大日記』(防衛省防衛研究所所蔵)に付属する「韓国龍山軍用収容地明細図」に描かれている。

 

 

1904〜05年の日露戦争中から龍山には日本軍の兵営が置かれていたが、当初は京城城内にも部隊を分散して駐屯させ、韓国政府への圧力や治安維持、交通・通信の確保にあたっていた。

1905年9月のポーツマス条約、同年11月の第二次日韓協約を経て日本の韓国支配が制度化されると、1906年頃から龍山の兵営建設が本格化し、日本軍の恒常的な軍事拠点として急速に整備されていった。

 

上掲の「明細図」の上部中央が、その後の三坂通、現在の厚岩洞フアムドンにあたる。

 

 

図中の「典牲署チョンセンソ」は、その後、曽田嘉伊智夫妻が運営にあたった孤児院「鎌倉保育園」となり、解放後は永楽ヨンナク教会に引き継がれた。現在は永楽保隣園ヨンナクポリンウォンとなっており、これを手がかりに場所を特定できる。

現在の地図と照らし合わせると、厚岩市場からソウル市教育庁の新庁舎の横に伸びる道沿い、葛月里(旧・岡崎町、現・葛月洞カルウォルドン)の丘の麓に、朝鮮人の集落があったことがわかる。

 


1912年に朝鮮総督府臨時土地調査局が作成した『龍山面南部』の「土地調査簿」には、仁川海岸町2丁目に住所を置く萬玉岩吉の所有地が22カ所記載されている。

 

萬玉岩吉が土地を取得していたのは、朝鮮人集落よりも東側、上掲の地図で青線と赤線に挟まれた、集落が描かれていない部分を中心とする地域である。

これらの土地が、1912年4月に、原富太郎(三溪)、中村房次郎、市原盛宏、佐藤虎次郎の4人による匿名組合に売却されたと考えられる。

 

 

 

 

また、1912年の土地調査簿には、萬玉岩吉の所有地の北側、黄色で囲んだ土地が斎藤久太郎の所有として記載されている。

斎藤久太郎はこの場所で金千代醸造場を営み、1940年前後には金千代会館を建設した。この建物は、その後、大韓民国の国防部となり、1998年まで兵務庁の庁舎として使用されていた。

現在はブラウンストーン南山アパートが建っており、場所を特定できる。

さて、『原三渓翁伝』の「第4節 朝鮮農林株式会社」には、その後の事業展開についても次のような記述がある。

 大正三年六月一日に至り、原合名会社を母体として原拓植部を京城府に設け、京城府外狎鴎亭里(旧朴泳孝別荘所在地)盤浦里附近の農地十三万坪を主体とし、京城府内三坂通普光里梨泰院里東氷庫里方面等南山(ママ)門外より緑地南山を廻り漢江の清流に沿へる形勝地帯を併せ約十五万坪を所有し、農地及び果樹の経営に着手した。
 大正七年四月二十二日に至り前記の匿名組合并に京(ママ)拓植部の経営体を買収し、資本金参拾万円の朝鮮農林株式会社を創立し、京城府龍山区三坂通二四四番地の一一(ママ)に本社を置き、現業地は住宅地経営は京城府及び仁川府内并にその近郊に、山林経営は全羅南道長興郡、慶尚北道青松郡に、農業経営は全羅南道長興郡に夫れぞれ事業を拡げた。

ここで注目したいのが、「旧朴泳孝別荘所在地」という記述である。

朴泳孝は、朝鮮王朝の名門・潘南朴パンナムパク氏の出身で、哲宗チョルチョンの娘・永恵翁主ヨンヘオンジュと結婚して王室の一員となった。若くして開化派の中心人物となり、1884年、金玉均キムオキュンらとともに甲申カプシン政変を起こしたが、清国軍の介入によってわずか3日で失敗。日本へ亡命し、反逆者として官職を剥奪された。

1894年、日清戦争を機に帰国して復権し、内務大臣として改革を主導したが、翌年再び失脚して日本へ亡命。1907年に帰国して宮内大臣となったものの、高宗の強制退位に反対して済州島チェジュドに流された。

ところが、1910年の韓国併合後は日本から侯爵の爵位を与えられ、朝鮮貴族会会長や朝鮮総督府中枢院の要職を歴任するなど、植民地統治体制の有力者となった。

その朴泳孝が、京城郊外の狎鴎亭アプクジョン里に広大な別荘地を所有していた。1912年の土地調査簿と1913年の地籍原図から、その位置と範囲を確認することができる。

朴泳孝と狎鴎亭との関わりは甲申政変以前にさかのぼる。政変に失敗して亡命した際に土地が没収され、その後の復権に伴って取り戻した可能性も考えられるが、この点はさらに検討が必要である。

 

 

『原三渓翁伝』によれば、原富太郎の原拓植部は、1914年には漢江の北岸から南岸にかけて、合わせて約15万坪もの土地を「所有」していたという。

そして、こうした土地取得の実務を現地で担っていたのが、佐藤虎次郎であった。

この時期は、朝鮮総督府による土地調査事業の最中であり、土地の権利関係を確定する制度も整備の途上にあった。土地調査簿や地籍原図にも記載漏れや誤記があり、これだけですべてを明らかにできるわけではない。

しかし、当時の地図や土地調査簿、地籍原図を照合し、さらに『原三渓翁伝』のような記録と突き合わせると、それまで単なる地名や面積の数字でしかなかった土地取得の実態が、具体的な場所と所有者の姿を伴って見えてくる。

萬玉岩吉という一人の実業家が、龍山の日本軍兵営建設に伴う地域の変貌のなかで土地を集め、それが原富太郎らの手に渡り、やがて朝鮮農林株式会社の事業へと組み込まれていく。

さらに、漢江沿いの狎鴎亭では、甲申政変から韓国併合までの政治的激動を生き抜いた朴泳孝の別荘地も、日本人実業家の土地事業と結びついていた。

 

土地調査簿に記された一筆一筆の土地を追っていくと、そこから近代朝鮮の政治や経済、そして日本人による土地取得の具体的な姿が浮かび上がってくる。


地籍アーカイブを使うと、こんなことまでわかるのである。

 


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私が初めてJSAに入ったのは1976年3月である。
当時、現在の第3哨所(当時は第5哨所)から「帰らざる橋」の方向には、大きなポプラの木が立っていた。

 

 

夏になると葉が茂り、橋のたもとの哨所(当時の第3哨所)への見通しを遮る。その枝を国連軍(米軍)側が剪定しようとして起きたのが、同年8月18日のポプラ事件(斧蛮行事件)である。

剪定作業をやめさせようとした北朝鮮側の警備兵と米兵が乱闘になり、アーサー・ボニファース大尉とマーク・バレット中尉が死亡した。


剪定の作業員は韓国人だった。当時のJSAの国連軍側警備は米軍が主体で、韓国軍が警備を担当していたわけではない。ただし、米軍部隊には韓国軍から配属されたKATUSA(韓国軍支援団)の兵士も勤務していた。

 

 

改めて事件前の写真を見ると、このポプラはかなり大きな木だった。

 

1976年3月は、まだ文字通りの「共同警備」が行われていた時代である。共同警備区域(JSA)が北朝鮮人民軍側と国連軍側に分割されるのは、このポプラ事件後のことである。

そのため、この時点では、現在のように休戦会談場の外側にコンクリート製の軍事境界線はなく、会談場の中では、机の上を通るマイクのコードが事実上の軍事境界線となっていた。

 

 

キャンプ・キティホークから休戦会談場へ向かう際にも、途中で最初に通る哨所は北朝鮮側のものだった。人民軍兵士のすぐ前を通り過ぎ、八角亭前へ入っていくのが当時のルートであった。

 

 

ポプラ事件からちょうど10年後の1986年8月18日、キャンプ・キティホークは、事件で死亡したアーサー・ボニファース大尉の名をとって「キャンプ・ボニファース」と改称された。

その後もJSAは、一般の観光地とはかなり違う場所だった。

 

1990年代までのJSAツアーでは服装チェックが厳しかった。ブルージーンズはもちろん、カラージーンズもダメ。ノースリーブ、ミニスカート、スニーカー、かかとにストラップのないサンダルもダメ、とされていた。

 

1990年代に入ると、JSAの国連軍側警備でも韓国軍が次第に前面に出るようになった。

1991年には、軍事停戦委員会の国連軍側首席代表に初めて韓国軍将校が就任した。北朝鮮側はこれに反発して軍事停戦委員会本会議への出席を拒否するようになった。その後もしばらく当直将校間の会合などは行われていたが、それも次第に途絶えていった。

 

こうしてJSAのあり方そのものが変化していったが、韓国軍が警備の前面に出るようになってからもJSAツアーは引き続き行われ、厳しい服装チェックもそのまま続いていた。

 

ただ、この服装については、それ以前から細部まで統一された明確な規則や基準があったわけではない。

実際には、キャンプ・ボニファースでチェックする兵士の判断に左右される部分がかなりあった。率直に言えば、その時々の兵士の「見立て」や「気分」次第、というところもあった。

そこで旅行社側は、専属ガイドの経験をもとに「この程度なら大丈夫」という無難なラインを決めていたのである。

 

理由をガイドに尋ねると、「北から貧しく見られるから」とか、「アメリカの手先だと思われるから」といった説明が返ってきた。
しかし、少なくとも私には、かなり後付けの説明のように聞こえた😄
服装について統一された明確な基準があったわけでも、合理的な理由が示されていたわけでもない。

 

しかも、兵士が一度「ダメ」と言ったものは、撤回されない。

そこで旅行社は、替えの靴やスカート、ズボンなどをバスに積んでいた。キャンプ・ボニファース内にあった旅行社の出先にも、着替え用の服や靴が用意されていた。

要するに、服装そのものを美しく整えるというより、いったん「ダメ」と言った兵士にも最後に「OK」と言ってもらえる形を作る、という面があった。
だから、着替えた結果が格好いいか、見てくれがいいかなど、問題ではなかった。

 

私も何度か、学生にどう見ても似合わないスカートをはかせたり、バスの運転手から靴を借りてはかせたりしたことがある😄

そんなとき、学生から、

「なんでこんな妙ちくりんな格好をするんですか? 北側から見たら、かえっておかしいんじゃないですか?」

と言われたことがある。

 

なるほど、言われてみればその通りである。

そこで初めて、これは本当に「北朝鮮側からどう見られるか」という問題なのだろうか、と疑問に思った。

 

そもそも「安保観光」には、ある程度の「危険」や「緊張感」が必要とされた。

軍側には当然、規律や安全管理という理由があった。一方でツアー会社にとっても、JSAツアーは一般の観光より料金が高く、その特別感を支える意味で「緊張感」は重要な要素だったと思う。

 

南北関係が融和ムードに向かった時期には、逆にバスの前後に装甲車を付けたり、出発前に兵士がバスの前で拳銃に実弾を装填し、

「いま皆さんの警護のために実弾を装填しています」

とガイドが説明したりすることもあった。

 

ブリーフィングのあとに、「何か起きても責任を問わない」という趣旨の書類に署名させ、それをキャンプ・ボニファースを出たところで「記念に」と返却してくれるようになったのも、私の記憶では1990年代半ば以降だったと思う。

 

 

「JSAツアーは服装チェックが厳しい」という話も、かなり早くからガイドブックなどで知られるようになっていた。

ところが、ある日本の女子高校の修学旅行で、制服のミニスカートをめぐって大騒ぎになったことがあったという。
この話は、2001年にJSAへ行ったとき、うちの女子学生をナンパした韓国軍兵士のK君から聞いた。

休戦会談場のあるJSAからキャンプ・ボニファースへ戻ると、土産物屋での買い物とトイレ休憩になる。
その間、案内してくれた兵士たちは、見送りというわけでもないのだろうが、外に立っていた。
ほぼ全員が背が高く、名の知れた大学に在学中で、英語も不自由なく話した。時には日本語のできる兵士もいた。
「一緒に写真を」と頼むと、気軽に応じてくれる兵士も多かった。

 

 

レンタル携帯電話を持つ学生が増えてくると、「電話番号を教えて」と言う兵士まで出てきた。

アメリカの大学に在学中だというK君も、そんな一人だった(上掲写真は別人)。

K君が休暇でソウルに出てくると、私も一緒に飲むことになった。その席で聞いたのが、この女子高生の話である。

 

その女子高校では、あらかじめ「極端に短いスカートはダメ」と生徒に伝えてあったという。
ところが、「スカートは絶対に短くないとイヤ」という女子高生が何人かいた。
その格好でキャンプ・ボニファースまで行ったが、案の定、服装チェックで引っかかった。
教師、添乗員、ガイドが説得し、上から別のスカートをはかせようとした。
しかし何人かは、
「やだ」
「ダメなら行かない」
と頑として聞かなかった。
韓国軍側も、とうとう将校まで出てきて何とかしようとしたが、どうにもならなかった。
結局、その女子高生たちだけは例外扱いとなり、短いスカートのままJSAに入ることになったという。
どうも、そのあたりから服装チェックが少しずつ緩くなったような気がする😄

もちろん、歴史的に説明するなら、1990年代末から2000年代にかけて南北関係が変化し、南北首脳会談などを経るなかで、JSAを取り巻く環境そのものが変わり、服装規制も次第に緩和されていった、と説明した方が説得力があろう。

しかし私は、案外あのミニスカートの女子高生たちが強引に突破してしまったことで、
「ここまで厳しく言ってもしょうがない」
という空気が生まれたことも、小さなきっかけの一つだったのではないか――などと思っている。

まあ、これは史料のない私の与太話である😄

 


現在も、臨津閣を起点に第3トンネルや都羅展望台などを巡る「板門店ツアー」「DMZ(非武装地帯)ツアー」は行われている。
ただし、「板門店ツアー」と称していても、かつてのように板門店の共同警備区域(JSA)に入り、休戦会談場を見学するものではない。JSAへの一般見学ツアーは現在も中断されたままである。 

2026年10月現在