一松書院のブログ

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ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

本稿は本ブログの

東亜日報の日章旗抹消事件―ニュース映画と映像体験― 

のうち、紙面の空白に関する部分を再検討し、修正したものです。あわせてお読みください。


◆差押えられた紙面の空白

1936年8月24日夕刻に発行されるはずだった「8月25日付夕刊」の紙面を見ると、東亜日報のデータベースでもNAVERニュース・ライブラリーのデータベースでも、2面中央部に掲載された孫基禎の表彰台上の写真の右側に大きな空白がある。

 

 

この空白は、朝鮮総督府の検閲によって記事が削除された跡とする説がある(蔡白「『東亜日報』の日章旗抹消事件研究」『韓国言論情報学報』第39号、2007年)。ところが、問題とされた「日章旗が消された写真」がなぜそのまま残されたのか、また空白部分にはどのような「不穏当な記事」があったのかについては、明らかにされていない。

 

李吉用イギルヨンの供述では、「(府民館で)活動写真を上映すべき計画発表の記事を掲載し、其の次欄にマラソン優勝者孫基禎の写真を掲出」する予定だったとなっている。したがって、この空白部分には、翌8月25日から予定されていた府民館上映会の記事が組み込まれ、写真と一体となった告知の文字部分があったと考えられる。

◆図書課による新聞の検閲

この時期、発行される新聞は、日本語新聞・朝鮮語新聞のいずれも、朝鮮総督府警務局図書課による検閲の対象となっていた。ただし、書籍や雑誌のように発行前の原稿を審査する「事前検閲」ではなく、新聞の場合には、印刷・発行と並行して完成紙面を納本し、迅速に検閲する方式がとられていた。

 

図書課は1926年に新設され、検閲業務が高等警察課から移管された。新聞・雑誌などの出版物に加え、著作権、検閲済み出版物の保存、活動写真フィルムの検閲なども所管し、「言論・映像・出版物」に広く関わる検閲・管理部署であった。

 

 

朝鮮語媒体の検閲も行うため、奏任官クラスの上級専門職である通訳官、判任官クラスの実務担当者である通訳生や朝鮮人官吏、それに補助的専門職である朝鮮人嘱託などが配置されていた。

 

この図書課員の一人、兼田要が書いた「新聞の取締に就て」という記事が、『警務彙報』1936年9月号に掲載されている。『東亜日報』の日章旗抹消事案が8月25日であることを考えると、少なくとも記事の骨格は事件以前にできていた可能性が高い。

新聞は發行し始めたら各社共一刻を爭つて頒布するものであるから、明日でも寛りゆっくり打合せてなぞ呑氣な處置は勿論出來ないので、差押するか、不問にするかを急速に判斷して決定する必要がある。それで新聞を見た刹那に於て、或は電話口で話して居る間に認定し、一旦方針が定つたら即決即行寸時の猶豫を許さないのである。

さらに、「治安妨害」として取り締まる項目の一つには、次のようにある。

植民地ノ獨立運動ヲ煽動シ、又ハ內鮮人ノ對立的、差別的言辭ヲ用ヒ、其ノ他內鮮人ノ融和ヲ阻害スル事項

そして記事の削除に関してはこのように記述している。

其他規則の上には明記してないが、實際上の行政處分の一種に削除と注意がある、よく新聞の一部に白紙の部分があるものを頒布する場合があるが、此れが削除處分にしたものである。此の削除處分はその新聞が未だ讀者の手に頒布せられない內に當局に於て削除を命ずるもので、新聞社としては白紙の部分のある不體裁のものになるので、苦情を洩す事があるが、全紙が差押處分になる事に比較すれば不體裁位は忍ぶべきであり、寧ろ寬大なる處置に感謝すべきだと思ふ。

(下線部は引用者による)

上に挙げた『東亜日報』8月25日付夕刊の空白は、まさにこの「削除処分」によって生じたものと考えられる。

 

この部分には、東亜日報の読者を対象として京城府民館で行われるベルリン・オリンピックのニュース映画上映会の告知記事があったと思われる。同内容とみられる記事は、8月25日付朝刊にも掲載されている。したがって、告知記事の文字そのものに、「治安妨害」として削除を命じられるような内容があったとは考えにくい。

 

むしろ、その後ただちに問題とされたのが孫基禎の写真であったことを考えると、図書課が削除を求めた対象は、告知記事の左側に置かれた写真だった可能性がある。

ところが、その写真は紙面にそのまま残っている。

 

◆検閲とその対応―一つの仮説

1927年4月30日付『東亜日報』の本社落成記念号には、新聞製作の工程表が掲載されている。

 

 

整版して紙型を取り、鉛版を作って輪転機で印刷を始める。刷り上がった新聞は図書課に納本され、検閲を受ける。図書課では、兼田が「新聞を見た刹那に於て、或は電話口で話して居る間に認定し、一旦方針が定つたら即決即行寸時の猶豫を許さない」と記しているように、きわめて短時間のうちに処分を判断した。

 

削除命令が出れば輪転機を止め、指定された箇所を版から削除・修整したうえで、再び印刷を行う。

 

当時の東亜日報社屋は3階建てで、1階に営業部・印刷部・発送部、2階に社長室・応接室・編集局・校正室、3階に写真部・大講堂・倶楽部などがあったとされる。

 

1927年4月30日付東亜日報紙面より

 

検閲結果は電話で東亜日報側に伝えられ、編集側から印刷部門へ紙面の修整が指示されたと考えられる。

ここで一つの仮説が成り立つ。

 

警務局図書課が問題視したのは、告知記事とともに掲載された孫基禎の写真だった。しかし、実際には告知記事の活字部分だけが版から外され、写真はそのまま残されたのではないか。


孫基禎の胸の日章旗を抹消する作業には写真部員が関与した。3階にあった写真部で写真の修整が行われ、さらに製版工程で日章旗部分を処理した亜鉛版が作られた。この亜鉛版は1階の印刷部に渡され、活字とともに紙面に組み込まれた。少なくとも現時点で確認できる関係者の取調調書からは、編集局長や印刷部門に、日章旗を意図的に抹消したことが事前に伝えられていたことを示す記述は確認できない。

 

検閲の結果を受けて削除作業を実際に行う印刷部門の担当者には、その理由まで詳しく知らされていなかった可能性がある。また、写真に細工が施されていたことも知らなかったと考えられる。そうした中で、図書課から新聞社への電話、あるいは新聞社内で編集側から印刷部門へ指示が伝えられる過程のどこかで、本来「写真」を対象としていた指示が「告知記事の削除」として受け取られたとすれば、活字部分だけが外され、写真が残ったことも説明できる。

そして再び輪転機が回り始めた。

 

刷り上がった紙面が再度図書課に届けられると、問題となった写真が依然として残っている。そこで図書課は、今度は「削除」ではなく、夕刊そのものの発売頒布禁止・差押え処分に踏み切った――。

 

このような経過だった可能性はないだろうか。

東亜日報社への立入り捜査が同日午後7時30分から始まり、写真の原紙や亜鉛版が証拠品として押収されたことも、夕刊の発行時刻から考えるとやや遅い。一度「削除」の指示が出され、その後の再検閲で「差押え」に切り替わったとすれば、この時間差も不自然ではない。

 

東亜日報社では、家宅捜索や社員への事情聴取が続く一方で、8月25日付朝刊の編集・製版作業も進められた。

李吉用の供述によれば、府民館での映画会は当初8月25日から予定されていた。しかし、実際に朝刊に掲載された告知では、上映日は「26日から28日まで」となっている。

24日夕刊が差押えとなって発行できなくなったため、25日からの開催を読者に告知できなくなり、その結果、上映開始を1日遅らせたのだとすれば、「上映会を25日から予定していた」とする李吉用の供述と、実際の開催が26日からだったこととの食い違いも説明できる。

警務局図書課による新聞検閲の実態と、東亜日報の紙面製作の工程について、かなり具体的なことが分かってきた。

そこで今回は、東亜日報の「日章旗抹消事案」の紙面に残された大きな空白が、どのような経過で生じたのかについて、新たな仮説を提示してみた。

 


 

ここでもう一つ考えておきたいことがある。

この紙面では、告知記事の文字部分が削除された一方で、日章旗を抹消した孫基禎の写真は残された。それが、削除指示の伝達過程で生じた結果だったのか、それとも写真だけは残そうとする何らかの意図が働いたのかは、現時点では分からない。

しかし、結果として後世に残ったのは、大きな空白の横に、胸の日章旗を消された孫基禎の写真が掲載された紙面だった。

そして、この紙面そのものが繰り返し紹介されることによって、「日章旗抹消事件」は植民地権力に対する東亜日報の抵抗を象徴する出来事として記憶されていった。

事件そのものは以前から広く知られていた。しかし、日章旗を抹消した写真だけでなく、その横に大きな空白を残した紙面全体の姿が容易に閲覧され、共有されるようになったのは、過去新聞のデジタル化とインターネット公開が進んで以後のことである。

それ以前には、縮刷版などで原紙面を見ることのできる研究者や、博物館などの展示を見る機会のあった人を除けば、多くの人にとって、この事件を象徴するものは「日章旗を消した孫基禎の写真」そのものだったのではないだろうか。

ところが、デジタル化によって誰もが紙面全体を見ることができるようになると、写真の横に残された大きな空白もまた目に入ってくる。そうなると、「なぜ日章旗を消したのか」という従来の問いだけではなく、「なぜ写真は残され、その横がこれほど大きく空白になったのか」という、別の問いが生まれてくる。

当時、写真がなぜ残されたのかという問題と、その写真が残った紙面が後世にどのような意味を持つことになったのかは、分けて考える必要があるのかもしれない。

少なくとも、写真が紙面に残ったという結果そのものが、その後の「東亜日報の日章旗抹消事件」に対する評価を大きく形づくったことは確かだろう。

 


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「地籍アーカイブ(지적아카이브)」というサイトがある。

 

韓国・行政安全部(행정안전부)の国家記録院(국가기록원, National Archives of Korea)が所蔵する土地・林野関係記録をまとめて検索し、公開されているものについては画像も閲覧できるデジタル・アーカイブである。

 

日本による植民地統治下の史料としては、以下のようなものが収録されている。

  • 地籍原図(지적원도)――土地調査事業の測量原図。筆界、地番、地目などが描かれ、一部には所有者名も記載。
  • 林野原図(임야원도)――山林・林野についての測量原図。
  • 土地調査簿(토지조사부)――原則として、地番・枝番・地目・地積(面積)・申告/通知年月日・所有者住所・所有者氏名・備考を記載。
  • 林野調査簿(임야조사부)――土地調査簿と似ているが、枝番はなく、所有者・縁故者などを収録。
  • 地税名寄帳(지세명기장)・林野税名寄帳(임야세명기장)

さらに、植民地期には、保安林・国有林野の貸付や譲与・売却、鉄道関係の土地買収、土地改良・水利組合関係などの記録もある。解放後についても、農地改革関係資料、土地台帳・林野台帳、地籍図・林野図、土地移動決議書などが所蔵資料として紹介されているが、これらについては未確認。

 

また、すべての地域について地籍原図・林野原図・土地調査簿が揃っているわけではない。検索結果に表示されても、原文画像をネット上から直接閲覧できないものもある。

 

ここでは、三坂通(現在の厚岩洞(후암동)一帯)を例に、検索の手順を紹介する。

 

◆地籍アーカイブのURL

https://theme.archives.go.kr/next/acreage/viewMain.do

◆地籍原図の検索

簡便検索で検索する。

 

 

 

地籍原図が27枚出て来る。

 

 

 

「삼판통(三坂通)」で簡便検索すると、地籍原図は27枚ヒットする。ただし、土地調査簿はここではヒットしない。土地調査簿は「龍山面」単位でまとめられているため、「旧地名検索(옛지명검색)」からたどる。

 

◆土地調査簿の検索

옛지명검색(旧地名検索)を使って検索する。

 

 

「일제강점기(日帝強占期)」で「경기도(京畿道)」「경성부(京城府)」「용산면(龍山面)」を選択する。

 

 

龍山面の土地調査簿が出てくるので、その中から「삼판통(三坂通)」を検索して三坂通の土地調査簿を特定する。

 

 

※国家記録院の原文ビューアは、一時的に画像を表示できない場合があります。その場合は時間をおいて再度お試しください。

1916年8月3日、李垠イウンと梨本宮方子まさこの婚約が新聞で公表された。1918年11月28日に皇室典範が増補されて皇族女子と朝鮮の王公族との婚姻が制度上可能となり、12月5日に結婚の勅許、12月8日に納采の儀が行われた。

 

李垠と梨本宮方子の結婚勅許を12月7日付紙面で報じた『毎日申報』は、翌8日から5回にわたって「王世子殿下の嘉礼を前にして『日鮮同体』の家庭訪問」という記事を掲載した。

その第3回、12月10日付の記事で、安商浩アンサンホ・磯子夫妻を取り上げた。

 

王世子殿下の嘉礼を前に「日鮮同体」の家庭訪問
まったく「内地化」した医師・安商浩氏の家庭
◇五人の子どもをもうけ、たいそう楽しく暮らす◇

朝鮮で初めて西洋医術を取り入れて成功した医師・安商浩氏は、「日鮮同棲」の家庭をつくることにも、真っ先に成功の旗を掲げた。
8日、雨上がりの、冬の威厳を発揮するような烈しい風をものともせず、氏の邸宅を訪ねた。
診察室で忙しく仕事をしていた氏は、両手をこすりながら出てきて、記者の訪問の趣旨を聞くと、「ありがとうございます。あちらへお入りください」と言った。どこからどう見ても朝鮮紳士である。
案内されて内室に入ってみると、「内地」の家庭と同じようなものだろうとはあらかじめ思っていたものの、同じくらいの年頃の日本の子どもたちが四、五人もいて、たいそう賑やかである。安氏も記者も、たちまち別世界に入ったような気がする。
安氏は、「こら、お姉ちゃん、やかましいよ(日本語)」と、幼い子どもたちを制しながら、記者をオンドルの部屋へ案内した。
記者はまず、家庭生活の楽しみについて尋ねた。安氏は言った。
「ええ、そうですね。仕方がありません。私はまあ、日本人と同じですよ。私は今、朝鮮服は一着も持っていません。それに食べ物も、辛いものは少しも食べられません。日本人と同じですよ。ですから、不便なことは少しもありません。妻も何年か前まではずいぶん寂しく暮らしていましたが、最近では子どももたくさんいますし、義母も来ておりますので、たいそう楽しく暮らしています」
記者が、「それでも、もし田舎から親族の方々が訪ねてきたら、どうなさるのですか」
と尋ねた。安氏は答えた。
「ええ、私は孤独な人間になってしまって、訪ねてくる親族はいません。家族はまことに少人数です。朝鮮人とはそれほど付き合いもありませんので、不便なことはありません。これを不幸中の幸いというのでしょうか」
安氏は今から12年前、義親王が東京におられたころ、義親王の侍医を務めていた。そのころ現在の夫人・磯子と知り合い、磯子夫人の母親に結婚を申し込み、それ以来11年間、苦楽をともにしてきた。
現在は、桜井小学校に通う九歳の長女をはじめとして、子どもは全部で五人である。東京にいたころから今日に至るまで、暮らし方を少しも変えていないので、むしろ安氏のほうが妻に従って日本人になったようなものである。
◇記者が改めて夫人に面会を求めると、夫人は愛らしい幼い子どもたちに取り囲まれながら、こう語った。
「私は朝鮮人とはまったく関わりがありませんので、日本で暮らすのと少しも違いません。11年間朝鮮にいても、朝鮮語は一言も話せません。それに、ご覧のとおり子どもが多いので、外出もなかなかできません。ひと月に一度、泥峴〔チンゴゲ〕に行くくらいです」
記者が、「子どもたちは朝鮮の友だちともよく遊ぶのでしょうね」と尋ねると、夫人は、「家の前がすぐ電車道ですので、厳しく言い聞かせて外へ出さないようにしています。ですから、うちの家族は別世界に暮らしているようなものです」と答えた。
そう話しているところへ、年老いた朝鮮人の女中が戸を少し開け、「奥さん、牛肉(日本語)、焼けましたよ」と言った。
そこで記者は、安氏の家を辞した。

この連載の初回、12月8日付の記事で取り上げられたのは、子爵・趙重應チョジュンウン夫妻で、妻は光岡竹子である。12月9日付の第2回では、具然壽クヨンス夫妻が取り上げられている。妻は、前田侯爵家の旧臣だった酒井氏の娘とされる秋子である。

第3回が安商浩・川口磯子夫妻、第4回は日本大学を卒業して呉服商を営む金顯澤キムヒョンテク・サヨ夫妻である。サヨ夫人は朝鮮語を駆使し、料理や衣服など、生活様式はほぼ完全に朝鮮式になっている。第5回では、日本人の夫・渡邊鷹次郞と朝鮮人の妻・谷子が取り上げられている。渡邊鷹次郞は、1882年に在韓日本公使館ができた時から通訳官として勤務していた。

初回の趙重應と第2回の具然壽は、2009年に刊行された民族問題研究所『親日人名辞典』に収録されている。一方、第4回の金顯澤は呉服商であり、第5回の渡邊鷹次郞も警察関係の経歴はあるものの、朝鮮語通訳官として勤務した人物である。この連載の狙いは、日朝間の婚姻の実例を、職業や社会的地位の異なる家庭から拾って紹介することにあったとみるのが妥当だろう。

 

3回目の記事で取り上げられている安商浩は、1898年、大韓帝国政府の官費留学生として日本に渡り、東京慈恵医院医学校で西洋医学を学んだ。

 

安商浩は1872年生まれとみられ、官立日語学校を卒業したのは22歳前後、1896年に政府留学生として日本に渡ったとすれば23、4歳だった。その後、1898年に東京慈恵医院医学校に入学した。安家は両班ではなく、代々医官や画員を出した中人の家系だったようである。同じころ日本で医学を学んだ金益南も、医官などを輩出した中人の家系だった。安商浩も、ある程度伝統的な医学や教養を身につけたうえで、近代医学を学ぶ留学生に選ばれたのかもしれない。

 

1913年9月の『朝鮮公論』に掲載された「日鮮同化の魁、鮮夫日妻評判記」という記事でも、安商浩・川口磯子夫妻が取り上げられていた。

 

それによれば、安商浩は1900年5月に医術開業試験前期、1902年5月に後期に合格した。後期試験合格については同時代の『醫海時報』でも確認でき、1903年には医術開業免状を受けて日本の医籍に登録されている。

 

この『朝鮮公論』の記事では、夫人の川口磯子のことにも触れている。

君の夫人、川口磯子さんは、長州馬関の産で、当年二十七八歳の美人である。茲に窈窕なる磯子夫人に就て、何人も羨むお目出度い逸話がある。

(中略)

安君は由来多幸な男で、君が首尾よく医学得業士の免状を握って、愈々慈恵医院の医師となり、尚ほ斯学の研究に余念がなかった頃、丁度現時の李堈公殿下も等しく東京の別邸に在つたので、君は高木男爵の推薦で、同殿下付の医師に聘せられた。
多幸なる安君が、殿下付の医師として、殿下の健康を一身に引受け、専ら過失ならん様にと献身して居た頃一方同じ殿下の上女中と云う名義で、朝夕殿下の御身の廻一切の事をお世話して居た二十二三の美人があった。今迄解剖だの黴菌だのと、顕微鏡の底ばかりを覗いて居た安君の眼球の水晶体を透して、茲に端なくも美しい婦人の姿が、異様の尊き輝きをはなつて視神経を刺激し、奇しくも安君の心臓を跳らせた。常に科学の論定から宇宙の萬有を赤裸々にし尽くさずんば已まざる安君の勇気を以てするも、猶且つ此の奇しき物体に一指だも染むることを得ず、是に於て遂に宇宙の不可解を感じたかどうかそれは知らぬが、果断家の安君は遂に決心した。そして一日殿下の御機嫌よき日を待つて、彼は明瞭に意中を言上し、殿下の寛大なる御処置を懇請した。殿下にはいと粋に渡らせられ、諾と云つて微笑み給ふた。

だが、川口磯子は1890年生まれで、行儀見習いとして義親王・李堈イガンの邸宅の上女中になったのは16歳の時だった。『朝鮮公論』の記事に記された年齢とは5~7歳ほどのずれがある。また、出会いの場面にも、かなりの脚色が施されているように見受けられる。

 

安商浩は1927年12月31日に腎臓炎で逝去した。56歳だった。この時、磯子は37歳で、四男三女の子どもがいた。長女の絹子キョンジャは東京女子医学専門学校在学中、長男の正浩ジョンホは龍山中学在学中だった。

 

長男の正浩は、その後、京城歯科専門学校を卒業して歯科医師となった。解放後は安養アニャンで歯科医院を開き、1950年4月には母・磯子の還暦祝いを行っている。ほかの子どもについては、四男の富浩プホが1940年に京城医学専門学校へ入学していることが確認できる程度である。

 

ここから逆算すると、川口磯子は、1906年に安商浩と出会って結婚し、1907年には長女絹子を出産したことになる。

 

この時、安商浩はすでに30代半ばになっていた。19世紀後半の朝鮮では男性の婚姻年齢は早く、とりわけソウルの中人家系では、10代前半で初婚する例も少なくなかった。そう考えると、安商浩も日本留学以前に朝鮮で結婚し、渡日前後に死別あるいは離縁していた可能性が考えられる。ただし、今のところそれを裏づける史料は確認できていない。

 

1974年12月24日、のちに『韓国医学の開拓者』(1985)を出版する鄭求忠チョングチュンが、川口磯子本人にインタビューしている。その著書には次のようにある。

해관이 동경 마포구포병정 의친왕저택에 빈번하게 출입하던 중 왕저에서 사무를 보고 있던 묘령의 안양(安嬢)과 백년해로를 맺게 되었다. 결혼 후 부인이 먼저 서울에 와 구연수 경무사(具然寿 警務使:지금의 치안국장)집에서 해관의 귀국준비를 하였다.

 

海観(安商浩の号。訳者注)は、東京・麻布区砲兵町(市兵衛町の誤りであろう。訳者注)にあった義親王邸に頻繁に出入りしていたが、そのうち王邸で事務を執っていた妙齢の女性〔安嬢〕と生涯をともにする契りを結ぶことになった。結婚後、夫人が先に京城へ渡り、具然寿警務使(現在の治安局長にあたる)の家で、海観の帰国の準備をした。

さらに、

안여사는 원래 일본 모리가 공신(毛利家功臣)의 딸로서 공경대부나 반주나 가노집에 예의견습을 가는 여자들의 풍습으로 의친왕저에 갔다가 구연수(具然寿)의 소개로 의친왕저에서 사무를 보게 되었고 이것이 인연이 되어 해관과 결혼하였던 것이다.

 

安女史は、もともと日本の毛利家の功臣の娘であった。当時、女性が公卿・大夫、藩主、家老などの家へ礼儀見習いに行く習慣があり、その習慣に従って義親王邸へ行った。その後、具然寿の紹介で義親王邸の事務を担当するようになり、これが縁となって海観と結婚したのである。

ただし、磯子の父親については、今のところ「毛利家の功臣」「長州藩士」といった記述以上のことは分かっていない。磯子が義親王邸に行儀見習いに出たころには父はすでに亡くなっていたのか、母親だけだったようである。上女中として王邸に仕える以上、それなりの家の出であったとは考えられるが、当時なお権勢をもつ家だったとは考えにくい。

 

義和君・李堈は、1895年11月、高宗の命で特派大使として来日し、そのまま日本に滞在した。翌年、福沢諭吉の慶應義塾に入るが、1897年5月、本国からの指示でアメリカに送られた。

 

1905年2月にアメリカから日本にもどったが、高宗は大韓帝国への帰国を許さず、1905年2月から1906年4月まで日本に滞在することになった。この間、李堈は、一時期、麻布区市兵衛町一丁目11番地の御用地に滞在したらしい。安商浩は、麻布区麻布今井町41番地に居住していたとの記録がある。

 

 

両者の住居は徒歩で8~10分ほどの距離にあった。安商浩は李堈の診療を担当するようになり、その過程で李堈邸の上女中だった川口磯子と知り合い、結婚したとされる。

 

このインタビューで川口磯子本人が語ったところによれば、安商浩との出会いには具然壽が関わっていたという。『毎日申報』の同じ連載で、安商浩夫妻の一つ前の回に取り上げられていた具然壽である。

 

具然壽は、高宗の王妃・閔妃ミンビの殺害事件に関わって日本に亡命していた。その亡命中に酒井秋子と結婚した。『毎日申報』の「王世子殿下の嘉礼を前にして」の記事では「先妻の子どもも実子と同じように育てている」とあるので、酒井秋子が最初の妻ではなかった。

 

さらに、『毎日申報』の1918年12月9日付の記事では、具然壽は次のように述べている。

조선의 사회를 개척하려면 제일 인종을 개량하여야만 하고, 인종을 개량하려면 내지인 아내를 많이 데려와야 하오
朝鮮の社会を開拓しようとするなら、第一に人種を改良しなければならず、人種を改良しようとするなら、内地人の妻を多く連れて来なければならない

露骨な優生思想である。川口磯子を安商浩と結びつけたことにも、こうした考えが何らかの形で影響していた可能性はある。

ただし、この発言から、安商浩や川口磯子までがこうした思想に同調して結婚したとみることはできない。当時、東京には1890年代以来の韓国人亡命者がおり、官費・私費の留学生も少なくなかった。彼らの間に人的なつながりがあったとしても、思想的に一様だったわけではない。

また、鄭求忠の記述には、李堈の東京での居所の誤記や、安商浩の没年月日を「1930年12月11日」とする誤りがある(実際は1927年12月31日)。インタビュー当時、川口磯子は84歳であり、具然壽に関する逸話についても、そのまま事実とみなすことはできない。

安商浩は1907年3月末に帰国し、京城の鍾路三丁目16番地の洋館で西洋式の医院を開業した。

 

1927年12月の安商浩の死後、鍾路三丁目16番地の安商浩医院の場所には、1925年に東京帝国大学医学部を卒業した康処洪カンチョホンが康内科医院を開業した。

 

 

安商浩の死後も、磯子は朝鮮で生活を続けていた。1945年8月、日本の敗戦によって朝鮮の植民地支配は終わった。

朝鮮人男性と結婚した日本人女性は、婚姻によって内地の戸籍から除かれ、朝鮮の戸籍に入っていたため、いわゆる「引揚げ」の対象とはならず、本人の意思にかかわらず朝鮮半島に残留することになった。

敗戦後の混乱と厳しい対日感情のなかで困窮する人も少なくなかった。さらに、国交がなかったため、日韓間の往来ができなかったばかりでなく、郵便による連絡もままならなかった。

 

1963年には相互扶助組織「芙蓉会」が結成された。また、慶州の「ナザレ園」は、身寄りを失うなどした日本人女性を受け入れ、その生活を支えた福祉施設として知られていた。

ここまで見てきたのは、一人の朝鮮人留学生が日本で医学を学び、その過程で一人の日本人女性と出会い、結婚し、京城で家庭を築いていった軌跡である。そうした時代の政治状況のなかにも、人と人との出会いによって形づくられた一つの生活があった。

安商浩の死後、川口磯子はどのような人生を送ったのであろうか。とりわけ1945年以後、朝鮮人男性と結婚して朝鮮に暮らした日本人女性たちが置かれた状況を考えると、その後の磯子の人生も気になるところである。