一松書院のブログ

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ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • 解放後の大学入試
  • 朝鮮戦争から5・16クーデター
  • 大学入学予備考査
  • 学力試験(1981~1993)
  • 修学能力試験(1994~)

 

 韓国での大学入試は、日本でも何かと話題になってきた。修学能力試験(スヌン:수능)の日には、朝のラッシュで受験生が遅刻しないように企業の出勤時間がずらされ、パトカーや白バイ、タクシー、それにボランティアのバイクや車が遅れそうな受験生を試験会場に送り届け、果ては飛行機の離発着まで中断する…ということで日本でも注目された。

 

 

 日本では、1979年に共通一次試験が始まり、1990年から大学入試センター試験に移行して私立大学での部分導入も徐々に広がった。しかし、韓国のように、全社会をあげて受験生をサポートすることはなかった。

 

 2006年1月22日付の朝日新聞の天声人語にこんな記事がある。


受験生の遅刻といえば、去年、列車を乗り違えた生徒を助けるため、東北新幹線が通過駅の宇都宮に止まった。JRには賛否の声が寄せられた。8割は「心温まる話」と好意的だった。残りは「甘すぎる」「不公平だ」。京都市では一昨年、茨城県から来た受験生が会場をまちがえ、涙ながらに交番へ駆け込んだ。見かねた警官がパトカーに乗せ、サイレンを鳴らして約20キロ先まで急送する。700件を超す反響が京都府警に届いた。やはり8対2で賛成が多かった
 韓国ならこんな論争は起きない。入試の日には受験生を遅刻させまいという熱気に包まれるからだ。
…中略…
 なかでも「修能」と呼ばれる統一試験が大変な騒ぎだという。遅刻者に備えてパトカーや救急車が駅前に待機する。離島の生徒を運ぶのは軍用ヘリだ。通勤ラッシュに巻き込まないよう、大人たちは出勤時間をずらす。

 2004〜5年の日本のセンター試験でのエピソードで、韓国の入試事情との違いにも言及しているのは、2004年あたりからの「韓流」の広がりも相まってのことだろう。

 

 韓国での受験当日の大騒ぎ、それに受験競争の厳しさは日本でもよく取り上げられるのだが、韓国の大学受験とはどんなものだったのか。入試形態や大学進学率の変遷も含めてまとめてみた。

 

  解放後の大学入試

 朝鮮が日本の植民地から解放された1945年以降、統計数値が探せた範囲で大学進学率をグラフ化するとこんな感じになる。

 

 1945年8月、日本の敗戦で朝鮮の植民地支配が終わった時、朝鮮にある大学は京城帝国大学だけだった。米軍政のもとで、旧京城帝大は1946年の8月22日にソウル国立大学として新たに開校された。同じ年、南朝鮮では、延禧ヨニ専門学校、普成ポソン専門学校、梨花イファ女子専門学校が、それぞれ延禧大学、高麗コリョ大学、梨花女子大学として認可され、仏教系の恵化ヘファ専門学校が東国トングック大学、儒教系の明倫ミョンニュン専門学校が成均館ソンギュングァン大学として設立認可を受けた。それ以外にもいくつかの学校が大学となった。

 1946年は、朝鮮総督府時代の教育制度からの過渡期で、学期末が8月、9月からが新学期とされた。それに合わせて、新しく大学になった学校の初めての入学試験が7月に実施された。

 

 

 1947年10月には、米軍政庁の文教部が、北緯38度線以南の大学について正規大学17校と昇格準備校3校を公表している。

▲正規大学
国立ソウル大学校、延禧大学校、高麗大学校、梨花女子大学校、世富蘭西セブランス医科大学、東国大学、成均館大学、聖神ソンシン大学、中央女子チュアンヨジャ大学、国立釜山プサン大学校、大邱テグ師範科大学、大邱農科大学、大邱医科大学、大邱大学、光州クァンジュ医科大学、清州チョンジュ商科大学、春川チュンチョン農業大学、
▲大学昇格準備校
旧京城薬学専門学校、旧京城女子医学専門学校、旧淑明スンミョン女子専門学校

『朝鮮日報』1947年10月17日

 1947年には「大学入学資格検定試験」が6月に行われた。だが、これは後に行われるようになる全受験生を対象とした大学入試の試験ではなく、日本統治下の中等教育が中途半端なままになった者に大学受験有資格を認定するための試験だった。大学の入学試験自体は各大学で個別に行われた。

 

 1948年7月、ソウル大学の志願者数は、入学定員980名に対して志願者数2730名。法科・文理・商科・工科などは倍率が6倍を越えている。

 

  募集 志願者 倍率
文理大 100 615 6.15
医大予科 120 170 1.40
法大 100 700 7.00
工大 50 307 6.00
商大 40 278 6.95
師大 100 327 4.27
農大 275 176 0.80
同獣医学部 25 45 1.86
芸大音楽 70 40 0.58
同美術 100 72 0.72

『京郷新聞』1948年7月1日

 

 1950年には、新学期を9月始まりから4月に戻すため、過渡的な措置として新学期を6月始まりとした。そのため、この年の大学入試は5月に実施され、全大学の募集人員は6,200名、この年の6年制の中等教育修了者は男女合わせて15,639名(『朝鮮日報』1950年4月9日)なので、大学の入学定員数を中等教育修了者数で割った大学進学率は39.6%ということになる。だが、この進学率は日本の植民地統治下で中等教育課程まで進めた生徒数自体が少なかったため高くなったもの。1950年、人口が約8,400万人の日本では大学生数は約32万人。しかし、人口が2,000万の韓国では大学新入生の募集が6,200人のみ。この当時、韓国で大学に進学できるのはごく少数のエリートに限られていた。

 

 この1950年の各大学の入試は二期に分けて行なわれ、ソウル大、高麗大、東国大、梨花女子大などは5月15日から、国学クックハック大(現在の国民クンミン大)や成均館大は5月22日から実施された。ところが、延禧大学(1957年に世富蘭西医科大学と統合して延世ヨンセ大となる)の入試だけは5月1日から行なわれ、600人の募集定員に対して5,000人以上が受験するという「狭き門」となった。延禧大学は、抜け駆け的に入試を実施して、青田刈りや二重志願者の囲い込みを狙ったのだろう。

 

  朝鮮戦争から5・16クーデター

 こうして1950年の新学期が6月に始まったが、6月25日未明に朝鮮戦争が勃発した。朝鮮半島全体が戦火に包まれた中でも各大学は独自に新入生の選抜を行って大学の運営を続けようとしていた。だが、戦争中の1952年4月8日に行われたソウル大学校の入試の受験者は、わずか300人ほどだった。(『朝鮮日報』1952年4月9日

 

 本格的な大学入試が復活したのは、朝鮮戦争が停戦した後の1954年3月の大学入試からだった。

 

 

 

 1956年からは延禧大学をはじめ一部の大学で、「無試ムシ」すなわち高校の内申書や面接試験で入試選考して入学させる制度が導入され、その割合が増えていった。

 

 1958年8月11日付の『京郷新聞』の記事には、

高等学校は解放後に新たにできて611校となり、師範学校が18校、大学は(解放後の)19校から56校と3倍にも増え、大学生数は7,879人から106,818人へと13倍にも増えた

とある。大学数も大学生数も増えたが、依然として大学生は韓国社会の超エリートであった。

 

 1960年、その大学生が先頭に立って牽引した反政府運動(4・19サーイルグ学生革命)によって李承晩イスンマン政権が倒れた。1961年の大学入試は、1月に各大学を前・後期の二期制で分けて大学別の入試が実施された。筆記試験の成績による「有試ユシ」と、内申・面接で選考する「無試」の二つの方式で行われた。「有試」と「無試」はほぼ半々の割合だった。『東亜日報』1961年1月6日

 

 1961年5月、朴正煕パクチョンヒ少将による軍事クーデターが起きた。軍部を中心とする国家再建最高会議は、新たに「大学入学資格考査チャギョッコサ」を導入し、この「資格考査」の成績と各大学での選考試験を合算して大学の合否が決められた。この「資格考査」は、解放直後の「大学入学資格検定試験」とは違って、全大学受験生を対象としてその試験成績が合否の判定に反映されるものであった。

 

 最初の「資格考査」は、1962年1月16日から3日間実施された。

 

 

 翌1963年にも「資格考査」が実施されたが、出願学科別だったことで試験の高得点者が不合格になる事態が起きたり、各大学の特性や自律性を活かせないとの批判も噴出した。そのため、1964年の大学入試では「資格考査」は中止され、各大学の個別選抜試験だけでの選考に戻された。

 

  大学入学予備考査

 1968年10月、朴正煕政権が次年度から「予備考査イェビコサ」を実施して、「予備考査」と各大学の「本考査ポンゴサ」で合否を判定すると発表した。1962〜63年に実施した「大学入学資格考査」を修正して再導入したものだ。

 

1970年度の大学入学予備試験が全国93の試験場で120,582人の受験生が試験を受けました。大学の第一関門を突破するため、午前9時から全力で受験する受験生たちの環境を整えるため、コン・ドンチョル文教部長官が試験の実施状況を視察しました。今回、文教部では、より正確で迅速な答案処理のため科学技術研究所の電子計算機を利用しました。これによって、受験生の得点集計や点数の転記が人の手を経ずに正確に行われ、合格判定に新たな役割を果たすようになりました。

 「予備考査」は、できるだけ均質な環境を受験生に提供するということで、韓国社会あげての配慮が求められるようになった。警察にも、受験生を会場まで送り届ける便宜をはかるように指示が出された。

 

 1977年頃から、筆記の「本考査」の試験科目が減らされて、合否判定で「予備考査」の得点の比重が上がり、1981年度の入試から各大学の「本考査」をやめて、「予備考査」の得点と高校の内申書で選考を行う方針が1979年に示された。

 

 

  学力試験(1981~1993)

 朴正煕大統領が暗殺され、粛軍クーデターで国政の実権を握った全斗煥チョンドゥファン少将は、1980年7月に「7・30教育改革」を断行した。大学入試の選抜は、大学別の「本考査」が廃止されて「予備考査」と高校の内申書によって行なうことになった。「本考査」がなくなったため「予備考査」は「予備」ではなくなり、「学力考査ハンニョッコサ」と名称が変わった。同時に、教育「正常化」という名目で、当時過熱していた塾や家庭教師などの課外授業を一切禁止した。また、大学では入学者数を増やして、卒業時に卒業者を絞り込む「卒業定員制」が実施された。

 

国家保衛非常対策委員会は、教育の正常化と過熱した課外の解消方策を発表しました。81年度から大学入試の本考査を廃止し、各種の課外授業を一切禁止するという内容の発表に対して、「課外授業のない社会」「勉学に励む大学」の実現に大きな期待が寄せられました。過熱した課外授業追放の影響は、すぐに塾街に及びました。中高生は8月1日から私設の塾に通うことができなくなったため、すでに受講を申し込んでいた生徒たちが受講料の返還を受けるため、塾街では各塾の窓口が払い戻しに追われました。教育正常化方策の主な骨子は、81年から小・中・高校の教科を統廃合し、82年から教科書の改編を進めて学習負担を軽減し、生徒たちに幅広い教育を実施して余裕ある学校生活を実現しようというものです。大学入学試験では、大学別の「本考査」をなくし、高校の内申成績と予備考査の成績だけで新入生を選抜するのを原則とし、過熱した課外授業を解消して高校の授業の正常化を図ります。81年度の大学入学の合否基準は、内申成績20%以上、予備考査成績50%以上とし、残りの30%は各大学が内申成績と予備考査成績を自律的に配点できるようにしました。また、来年度の新学期からは大学入学者数を増やし、現在の昼夜間制の区分をなくして全日制で授業を行ない、新入生を大学定員よりも多く入学させて入学を容易にする一方で、定められた人数だけを卒業させる卒業定員制を実施することで、過熱した入試競争を沈静化させ、大学での学びの雰囲気を醸成して大学の質を高めることを目指すものです。

1981年度の大学入学予備試験が11月20日、全国451の試験場で一斉に実施されました。この日の予備試験には昨年より約15%多い57万5000人余りが受験しました。7月の教育正常化改革措置により、すべての大学で本考査を実施せず、代わりに予備考査成績を80%水準まで反映させるため、予備考査の比重が大きくなったことで受験生たちはより一層慎重な姿勢で問題を解いていました。

 このように、大学の合否に占める「学力考査」の比重が高まると、「学力考査」実施の公正性や均質性を韓国社会全体で守るべきだとする雰囲気がさらに一層高まった。このため、警察や公務員、それに民間のボランティアや企業などが、こぞって受験生のサポートに乗り出した。

 

1982年度の大学入学学力テストが全国28地区466の試験場で一斉に実施されました。この日の朝、全国各地で警察が先頭に立って受験生たちが時間通りに試験場に着けるよう輸送作戦を繰り広げ、官用車や自家用車、タクシーなども積極的に協力しました。パトカーや白バイも受験生を乗せて、奉仕に精を出しました。この日、試験会場の外には高校の後輩や先輩が詰めかけ、試験場に入る自分の学校の生徒に温かいお茶を振舞って激励しました。受験生は朝8時30分までに試験場に入場し、9時から試験を受けましたが、今回の試験問題の出題傾向は、高校の学習内容から包括的に出題され、単純な暗記ものではなく、全体の流れや基礎的理解を土台に応用や適用力を求める問題が多かったです。

 

 一方、一回の試験の結果だけで合否が決まるため、どこの大学のどの学科に出願するかで、合否が大きく左右されることになった。よりランクの高い大学の競争率の低い学科を狙った駆け込み出願が多くなり、毎年締め切り間際の各大学の出願窓口が大混乱になった。「ヌンチ出願」といわれ、逐次発表される各大学の各学科の志願状況を見ながら最後の最後に倍率の低いところに願書を出そうとする。そのため、締め切り時間ギリギリに出願窓口の建物に無理矢理入る受験生やその親の姿が毎年のようにニュースになった。

 

  修学能力試験(1994~)

 1987年の民主化宣言以降、韓国社会では社会的・政治的な変化が起きた。大学入試制度にも再び大きな変化が起きた。1993年、「大学修学能力試験」が始まった。同時に大学別の筆記入学試験も復活した。

 

 「大学修学能力試験」への移行は、1991年に発表され、1993年8月に最初の試験が実施された。大韓テハンニュースの未公開版に1993年8月25日作成の動画が残されている。ソウルの第8地区の21試験場の瑞草ソチョ中学校の校門前の様子を撮影したもの。ソウルでも特に進学熱の高い江南カンナム地区の試験場で、受験生の母親が校門前に詰めかけている。プラカードを持って受験生を応援しているのは、1919 年の3・1運動にも生徒が参加した名門とされる京畿キョンギ女子高校の生徒たち。1988年に江南の開浦洞ケポドンに移転したこともあって、在校生の受験生が多い会場に後輩たちが応援に来ていたのであろう。遅れてタクシーで試験場にきた受験生を試験会場の中までテレビカメラが追いかけているのがすごい…。

 

 

 1997年からは、大学別の筆記科目試験が廃止され、「修学能力試験」の成績に加えて、大学別の論述や面接を点数化して加算して合否を判定する入試制度が始まった。この時に、高校の内申書の生活記録それに社会活動などを判定材料として、これに各大学が実施する論述や面接の結果を加えて合否を決める「随時スシ」募集が導入された。「随時」は、日本でいう「AO入試」「自己推薦」に該当する選抜方式である。「修学能力試験」の成績が重視される入試は「定時チョンシ」募集と呼ばれるようになった。当初は「定時」での入学定員の方が多かったが、次第に「随時」方式での入学者枠が増加し、2007年ではほぼ同率となり、それ以降「随時」募集での入学比率が高くなってきた。

 

 

 「随時」では「帰国生徒枠」があったり、「社会体験」「語学習得」が入試で評価されるため、それをねらった早期留学が一層盛んになった。小学生の子供を母親と一緒に国外留学させて、単身韓国に残って仕送りのために働く父親が「キロギアッパ」と呼ばれる社会現象になった。

 

 一方、デジタル技術の発達とともに、新しい形の不正が発覚したことがあった。2004年に光州クァンジュの修学能力試験会場で、携帯電話を使った集団不正行為が摘発されて大きな社会問題になった。

 

SBS 뉴스「어떻게 휴대폰으로 부정행위 했나」2004.11.20
写真は再現場面

 

 この事件以降、試験場への携帯電話機の持ち込みが全面禁止され、全試験場に携帯電波の遮断機の設置まで検討された。さすがに経費的に無理だということで実現しなかったが、試験場の監督官に金属探知機が配布された。試験場まで受験生を送っていった母親が、受験生に自分のコートを着せて試験場に送ったところ、そのポケットに母親の携帯電話が入っていて受験生が退室させられるといった悲劇も起きた。

 

 「修学能力試験」では、受験生の「公平な受験機会」を担保するということで、遅刻しそうな受験生をみんなで受験会場に送り届けるだけではなく、不正行為を防ぐためにも最大限の措置を講じるべきものとされている。ただ、「随時」が増えていることで、大学受験における「公平性」とは何か…という議論も起きているのだが。

 

 2025年に実施される予定の4年制大学の入学者選考では、「随時」が79.9%となっている。首都圏の大学では「随時」募集は65.4%に留まっている(『釜山日報』2024年5月6日)が、新入生確保に苦慮している地方大学では、「随時」によって入学定員を確保しようとする傾向が強まっている。

 


 

 最後に、韓国での大学進学率の高さがよく言われるが、日韓の比較のグラフをアップしておこう。

 

 

 日本では、芸能界やスポーツ選手で、高校卒業から「業界」に入る傾向が強く、そのため俳優やタレントで大学に入学するとそれだけで話題になるし、高校野球で活躍した選手が大学野球に行くのも話題になる。それに対して、韓国の俳優やタレントを検索するとほとんどが「大卒」だし、高卒からプロのスポーツ界に行く選手というのも日本より少ない。

 

 そのあたりを含め、「大学進学」には、数字だけでは読み取れない日韓の社会の違いがありそうだ。

 

 

1990年代 休戦委員会の停止 

 1990年代に入ると板門店の状況が大きく変わった。

 それまで休戦委員会の国連軍首席代表は、1953年に休戦協定に署名したアメリカ軍の将校が務めてきた。1991年3月、国連軍司令部は、主席代表に初めて韓国軍の少将を任命することとし、これを北朝鮮側に通告した。北朝鮮側は、韓国は休戦協定の署名国ではないとしてこの人事を認めなかった。ここから休戦委員会の開催に応じなくなった。

 

 さらに、この時期には、板門店の休戦体制にも波及を及ぼす世界情勢の大きな変動が立て続けに起きた。1991年9月、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とが同時に国際連合の加盟国になった。そして1992年8月、朝鮮戦争で交戦した大韓民国と中華人民共和国とが外交関係を樹立した。さらに、東ヨーロッパの脱社会主義が進み、北朝鮮側に駐留していた中立国監視委員会のポーランドとチェコスロバキアが監視団から離脱した。

 

 1994年に、韓・米両国政府の合意に基づき、平時の作戦統制権が在韓米軍から韓国軍に移管された。これをきっかけに、板門店の南側共同警備区域の警備がアメリカ軍から韓国軍に移管されることになった。当然北朝鮮側はこれを認めない。北朝鮮は、休戦委員会からの撤収を通告した。これによって、休戦委員会は全く有名無実化した。その後、共同警備区域は、実質的に韓国軍と北朝鮮人民軍との共同警備区域になった。

 

 2000年9月に韓国で封切られた映画「共同警備区域 JSA」は、北朝鮮の人民軍兵士と韓国軍兵士が板門店の共同警備区域で対峙し、友情が芽生え、事件が起きる筋書きなのだが、このストーリーが描ける状況になったのは1994年以降のことである。

映画「JSA」ポスターより

 この板門店の警備の韓国軍移管と時を同じくして、漢江の北側の江辺道路から臨津江の川沿いを走る「自由路」が全線開通した。これによって、ソウルの都心から臨津閣・板門店方面への移動時間が短縮され、板門店ツアーやDMZツアーもこの「自由路」経由に変わった。

 1996年の板門店ツアーの動画が残っている。この時は、なぜか共同警備区域での動画撮影があまり規制されなかった。キャンプ・ボニファースを出るところから、休戦会談場内、外の八角亭「自由の家」からの会議場と板門閣、第3哨所から帰らざる橋方面が撮れている。南側の警備兵は、韓国軍兵士に置き換わっており、2000年公開の映画「JSA」に出てくるイ・ビョンホンと同じ軍服を着て半分建物に隠した姿勢で警備に当たっていた。

1996年9月板門店ツアー抜粋版

 

 共同警備区域の主体が韓国側に移譲されると、それまで国連軍司令部が大韓旅行社に限定して認めてきた板門店の見学ツアーに中央高速観光、板門店トラベルセンター、国際文化サービスクラブなどの参入を認めた。中央高速観光は元々軍との関係が密接な旅行社だった。

 1998年には、それまで国連軍の「自由の家」が建っていた跡地に韓国側が4階建ての新しい「自由の家」を完成させた。

 さらに、1998年には従来の臨津閣の横にあった「自由の橋」の上流側に新たな「統一大橋トンイルテギョ」を建設して「自由路」と連結した。この年の6月16日に、現代ヒョンデ財閥の鄭周永チョンジュヨンが北朝鮮に牛501頭を寄贈するため板門店を通過して北側にトラックで牛を運搬したが、その運搬のために現代建設が無償で新しい橋を建設したのである。この橋の開通によって、板門店ツアーもこの「統一大橋」経由にルートが変更された。

 ただ、車止めのバリケードが置かれて蛇行しないと通り抜けることができないとはいえ、片側2車線上下4車線の舗装された橋では、それまでの鉄道橋に板を敷いて上下交互通行をする片側1車線の橋を渡る緊張感がなくなったことも事実である。


 

2000年代 南北関係 

 2000年6月に、平壌ピョンヤン金大中キムデジュン大統領と金正日キムジョンイル国防委員長の南北首脳会談が実現した。

 その後、開城工業団地の建設や、南北の鉄道連結・道路の連結、それに金剛山への観光ツアーが始まるなどして、南北関係は融和が進んで行った。しかし、その一方で、板門店ツアーでは、南北の融和が進んだという雰囲気はほとんど感じられなかった。

 

 その中で、板門店とその関連施設の「韓国化」は着々と進められた。2002年までツアー客が食事をしていたキャンプ・ボニファスのアメリカ軍将校クラブは2003年に閉鎖になり、その横のブリーフィングルームもなくなった。2003年からは、旧ヘリポートの北側の駐車場横に韓国側が建てた売店とブリーフィング用の建物が使われるようになった。

2002年まで使われていたアメリカ軍将校クラブとブリーフィングルーム

2003年にバス駐車場横に新築された売店兼ブリーフィング用建物

 将校クラブでの食事提供がなくなったため、各旅行社は統一大橋の手前の集落に団体用の食堂を準備して、そこでプルコギの昼食を提供することになった。当初は、大人数の食事提供に慣れていないため食堂は混乱した。

 

 こうした板門店の韓国化にともなって、ツアー参加者への様々な規制が一段と厳しくなった。服装についての規制(ジーンズ・ノースリーブ・ミニスカート・サンダル・スニーカーなどはNG)はそれまでもあったのだが、チェックを担当する韓国兵によるダメ出しが多くなった。基準が明らかでなく理由の説明もない。ツアーを主催する旅行社のガイドや同行する写真屋のカメラマンが、予備の服や靴を準備してくれているので何とか切り抜けるのだが、軍人の判断は不合理であろうと矛盾していようと絶対なのだと何度も思い知らされた。

 

 また、写真や動画撮影の制限も厳しくなり、宣誓書の提出も厳格になった。保安上の必要性からというよりも、以前に比べて緩みがちな訪問者の緊張感を高めるためのように思われた。

 時には、エスコートの韓国兵がツアー客の前で実弾の装填をするとか、バスの前後に装甲車がつくとか、ツアー参加者の緊張感を高めるための演出もあった。

 

 他方、ツアーガイドは、休戦委員会が1991年からこの休戦会談場では開かれていないことには触れない。また、韓国が休戦協定に署名しなかったことや、韓国軍が共同警備区域での警備の前面に出たのが1994年以降ということにも全く言及しない。朝鮮戦争休戦以降、ここが韓国軍が北朝鮮の軍と対峙してきた場所だという印象を与える説明がなされた。

 

 2007年10月2日、盧武鉉ノムヒョン大統領が板門店の軍事境界線を越えて北朝鮮に行った。大統領として初の陸路からの北朝鮮訪問だった。

 この時も、板門店のツアー自体には大きな変化はなかった。ただ、2010年代に入って、服装の規制が徐々に緩和され、スニーカーやジーンズ生地の服でも問題なく入れる事例が増えた。その一方で、見学できる場所が少なくなり、一ヶ所の滞在時間も短くなり、共同警備区域内に滞在できる時間は年々短くなっていった。実際に緊張感のある時期に比べて訪問者が相当に増えて対応が難しくなってきたことも一因かもしれない。

 

 

文在寅/トランプと金正恩 

 2017年5月に、弾劾された大統領朴槿恵パククネの後任に文在寅が就任した。文在寅は、金大中・盧武鉉の対北政策を踏襲して、融和的な政策を打ち出した。

 

 そうした中で、2017年11月13日、北朝鮮軍兵士が休戦ラインを越えて韓国側の警備区域に入り、北側からの銃撃を受けて負傷した。韓国側からは動けなくなった北朝鮮兵を南側の安全領域まで移動させるために部隊(多分武装した「打撃隊」 映像の白黒反転は装備をカモフラージュするためだろう)が出動した。

 

 2018年4月27日、板門店で文在寅と金正恩が顔を合わせた。両首脳は、手をつないで軍事境界線を南から北へ、北から南へと越えてみせた。

 さらに、2019年6月30日には、トランプと金正恩が板門店で再会した。両者は、前年2018年の6月にシンガポールで初めて会談し、2019年2月にハノイでも会っていた。板門店では、軍事境界線をまたいで南北を行き来した。

 朝鮮半島情勢は、大きな転機を迎えたかに思われた。北朝鮮とアメリカの間での平和条約締結で、休戦状態のままだった朝鮮戦争が戦争の終結を迎えることになるとの期待が高まった。

 板門店では、北の人民軍兵士と南の韓国軍兵士が、それまで携帯していた拳銃の所持もやめて完全非武装で警備に当たることになった。また、板門店ツアーの見学コースにも、新たに南北首脳が面談した場所などが加えられた。

 2019年9月29日のMBCニュースデスクは、当時の板門店の様子と、その後の板門店観光の展望について、このように伝えている。

要約すると、このような内容だ。

 板門店は南北首脳会談、北米首脳会談を経て大きく雰囲気が変わったが、依然として韓国の一般市民が簡単に訪れることはできない。
 板門店を訪問する人の半数以上は国連軍司令部経由の外国人で、韓国人は国家情報院と統一部、国防部を通じてのみ行くことができる。それも先着順で、30〜40人規模の団体見学だけが許可される。身元照会のため申請後2ヶ月以上待たされるが、外国人観光客は2〜3日前にパスポート番号と名前、国籍を届けるだけで予約できる。
 政府は現在、DMZ開発計画の一環として、「安保見学」ではなく「平和体験」の場所として板門店の個人観光を推進しようとしているという。7週間以上かかっていた身元照会を1週間程度に短縮し、さらに板門店内で南北の観光客の自由往来も検討されている。

 ところが、ここで全世界的に新型コロナの感染が広がった。移動が制限され、板門店の観光ツアーも完全に休止された。また、北朝鮮は、板門店からのコロナウイルス流入を警戒して、板門店の警備兵も後方に退去させた。

 コロナの蔓延がピークを越えた2022年8月の休戦会談場では、北側が完全に放置状態になっていて雑草が生えている状況だった。

 アメリカ大統領トランプは、米・朝間の平和条約を結ぶことなく2021年1月に退任した。韓国大統領文在寅は2022年5月に退任し、尹錫悦が大統領に就任した。

 コロナで中断していた板門店ツアーは、2022年7月に再開され、週4回、1日に6回のペースで外国人観光客と韓国国内の見学者が板門店を訪問していた。

 1923年7月18日、この板門店ツアーに参加していた在韓米軍のトラヴィス・キング2等兵が北朝鮮側に越境してそのまま北朝鮮に入るという事態が発生した。板門店ツアーは全面的に停止された。

中央左寄りの黒い服の人物がトラヴィス・キング2等兵

 その後、北朝鮮はトラヴィス・キングを国外追放処分とし、9月27日に中国の丹東でアメリカ側に身柄を引き渡した。

 

 だが、その後も板門店の休戦会談場に入るツアーは中止されたままになっている(2024年10月現在)

外国人旅行者向け案内

韓国人向け申請サイト

  • 目次
    (1/3) 休戦から「観光」のはじまり
  • 休戦協定の調印
  • 初期の板門店取材・見学
  • 4・19後の板門店
  • 日本からの訪問者
  • 韓国人の板門店見学

    (2/3) 1980年代の南北交流と板門店
  • 1976年 ポプラ事件
  • 1980年代の南北交流と板門店

    (3/3) 1990年代以降の板門店
  • 1990年代 休戦委員会の停止
  • 2000年代 南北関係
  • 文在寅/トランプと金正恩

 

1976年 ポプラ事件 

 私が初めて板門店ツアーに行ったのは、1976年3月だった。当時のガイドブックには次のような案内が記載されていた。

 大韓旅行社のバスは、統一路トンイルロ(国道1号)を北上して、途中、朝鮮戦争関連の記念碑に立ち寄り、汶山ムンサンの先の京義キョンウィ線の鉄道分断点をみながら臨津閣イムジンガクに到着。一般の韓国人が軍の許可なしで行けるのはここまで。ここからは北朝鮮を望むことはできないが、北朝鮮側に墓がある人々はここで墓参り(祭祀チェサ)をするしかなかった(現在の「望拝壇マンベダン」は1985年9月に設けられた)。

 

 ツアー客は、ここで旧京義線の鉄道橋を1車線の自動車橋にした「自由の橋」を渡り、10分ほどで米軍の前線基地キャンプ・キティホークに入る。米軍の将校クラブでビュッフェ式の食事(キムチ以外は全てアメリカから空輸した食材との説明あり)をしてブリーフィングを受ける。そこから軍用バスで非武装地帯の南方限界線を経て共同警備区域に入り、自由の家、休戦会談場を見学する。


1976年3月 筆者撮影

 

 そして丘の上の哨所(OP5)から帰らざる橋と北朝鮮側の建物を遠望してキャンプ・キティホークに戻る。この時は、休戦会談場の南側入り口手前にも北朝鮮人民軍の哨所があって、その前を通って休戦会談場に入った。人民軍兵士の目の前を通過する時にはさすがに緊張した。

 この板門店訪問時期は3月だったので、OP5から帰らざる橋とそのたもとのCP3はポプラ越しによく見えた。上掲地図のCP3の右上● 미루나무위치とあるところが、この半年後の重大事件の現場となった場所である。

1976年3月 筆者撮影

 

 夏になるとポプラの木は葉が生い茂って見通しが悪くなる

 そのため、この年の8月18日午前、米軍側が韓国人作業員を使って枝落とし作業を始めた。そこに北朝鮮人民軍側の警備兵が現れて作業の中止を要求した。米軍側は作業を継続させたところ北側警備兵が集団で米軍側警備兵を襲撃、斧と棍棒でボニファス大尉とバレット中尉の二人の米軍士官が殺害された。日本では「ポプラ事件」と呼ばれるが、韓国では「斧蛮行トッキマネン事件(도끼 만행 사건)」と呼んでいる。

 米・韓両国は直ちに「DEFCON 3(準戦時体制)」に入り、空と海に展開した米・韓両軍の軍事力を背景に、8月21日に米軍の工兵隊が韓国軍第一空挺特戦旅団の支援のもと、問題のポプラの木を切り倒した(ポール・バニヤン作戦)。この時、のちの大統領文在寅ムンジェインは、この時第一空挺旅団の上等兵で、この作戦に参加していた。

 上等兵になった頃に「板門店斧蛮行事件(ポプラ事件)」が起きた。対応策として、事件の発端となったポブラの木の伐採作戦を私の部隊が決行することになった。朝鮮戦争以来初めてデフコン(Defense Readiness Condition 防衛準備態勢)が「準戦時体制」に引き上げられた。北朝鮮側が伐採を妨害したり衝突が起きればただちに戦争が勃発するような状況だった。そんな状況に備えて部隊の最精鋭でポブラ伐採組を編成し、残りの兵力は外郭に配置した。その外郭をまた前方師団が囲んだ。幸いに北朝鮮側はポプラの伐採をそ知らぬ振りで見送り、何も仕掛けてこなかった。作戦は無事に終了した。そのときに伐採されたポプラの木の破片を入れた国難克服記章が記念に一個ずつ配られた。

『運命 文在寅自伝』
岩波書店 2018

 この事件の現場一帯は「非武装地帯」である。共同警備区域でも護身用とされる拳銃以外の武器の持ち込みはできない。表向きは…。さらに、共同警備区域内は国連軍のMP(憲兵)が警備に当たることになっている。そのためポブラ伐採のために共同警備区域に入った第一空挺旅団の将兵は、M16ライフルや榴弾発射銃、対人爆薬などの武器を伐採用工具や作業器材の中に隠して持ち込み、カチュシャ(Korean Augmentation To the United States Army)すなわち米軍出向の韓国兵を装って共同警備区域に入って作戦を遂行した。

 

 この事件以降、板門店の共同警備区域は南北に分割され、会談場の中では「マイクの線」が境界線となり、会談場の外にはコンクリートの境界標識が設置され、南側にあった北朝鮮軍の哨所は全て撤去された。最前線のキャンプ・キティーホークは、ポプラ事件で殺されたボニファス大尉の名前を冠してキャンプ・ボニファスに変えられた。

 

1980年代の南北交流と板門店 

 ポプラ事件の後、1980年に板門店を訪問した駐韓米軍の将兵家族の動画が未公開大韓ニュースとして残されている。音声は入っていない。

 この動画では、休戦会談場のテーブルには、国連の旗と北朝鮮の国旗が置かれている。旗は双方がそれぞれ準備するのだが、一時は高さを競って天井まで届く旗になっていたというエピソードもある。南側には1966年に竣工した八角亭の「自由の家チャユエジップ」があり、北朝鮮側には1968年に完成した「板門閣パンムンガク」が建っている。さらに第3哨所(旧OP5)からは、ポプラ事件後に伐採されてY字のかたちで残っているポプラの幹の向こうに「帰らざる橋」が見える。

 

 このポプラのY字の幹は、その後1990年代には完全に除去され、現在は切り株の大きさのセメント製の礎石の上に記念碑が建てられている。

 1984年、漢江ハンガンの氾濫でソウルで大きな被害が出た時に、北朝鮮側が米などの援助物資の提供を申し出た。意外にも全斗煥チョンドゥファン政権はこれを受け入れ、これを契機に南北の離散家族の再会と芸術団の交流が実現した。1985年9月に、朝鮮戦争休戦後はじめて南北双方の民間人が板門店で軍事休戦ラインを越えて往来した。

 ブルーガイドブックス『韓国』の1985年11月30日改訂版では、「板門店ツアー」について次のような体験レポートが掲載されている。

板門店ツアー

<交通>土曜、日曜及び韓国とアメリカの祭日を除く毎日、定期観光バスがロッテホテルから午前中出発(出発時刻は前日に決定)。料金は昼食代込みで28ドル。所要約6時間。
 板門店観光の業務は、大韓旅行社(KTB ソウル市鍾路区寛勲洞198(722-1191)で取扱っている。予約が必要。出発48時間前までに、KTBあてに氏名、国籍、旅券番号、連絡先(ホテル名、ルームナンバーなど)を記入申請する。なお、軍事的その他のつごうで、変更、中止があるので必ず問い合わせること。
<ツアーコース>ホテルロッテ→独立門→汶山→自由の橋→アドバンス・キャンプ→板門店会議場所→八角亭→展望台(帰らざる橋展望)→ホテルロッテ

板門店——ソウルの北、直線距離で60kmたらずにある田園の小村。ここが38度線をはさんで北と南、また世界の東西陣営が会談をつづけている注視の場所である。この国際政治の巨大な力の接点を実際に眼で見るには、KTBのバスを利用するのが唯一の方法で、個人の資格で立入ることはできない。ここは普通の観光地ではなく、まだ戦争の緊張がとけやらぬきびしい場所。バスの中で念を押されるように、生命も保障はされない。ツアー中はガイドの注意を必ず守ること。個人的行動は厳禁。参加できるのは外国人のみ。
 市内を発ったバスは、独立門を通り、一路板門店へ向かう。国道1号線(汶山街道、統一路ともいう)は完全舗装のハイウェイだ。広々とした田園風景、右車窓に北漢山を見ながら約2時間のドライブは快適そのもの。汶山を過ぎてしばらくゆくと、臨津江にかかる”自由の橋”を渡る。バスの前後に国連軍のジープがついてエスコートしてくれる。バスガイドは韓、日、英語の3ヵ国語で、心得事項を説明するのにいとまがない。とくに撮影禁止の場所がいくつもあるので十分注意することが肝心。
 前線に近づくにつれ、緊張感が高まっていくのを肌で感じながら板門店に到着すると、停戦委員会のガイドがアドバイスや説明をしてくれる。休戦会議の行なわれる本会議場は、休戦ラインの真中につくられ、家の中央を南北分断ラインが通っている。会議場の中央にテーブルがあり、向かいあって代表団がすわる。そのテーブルの中央に敷かれたマイクロホンのコードが南北を分けているのだという説明を聞いて、ますます緊張が高まる。会議場前には八角亭が建ち、ラセン階段を登って周囲を見渡せる。国連側の建物はブルー、北側の建物はグリーンに塗り分けられている。
 休戦ラインの小高い丘の上には展望台があり、“帰らざる橋” “北側の宣伝村”などが見渡せる。橋のたもとに検問所が設けられ、四六時中監視の目が光っている。
ひと通り見学を終わって、昼食を国連軍将校用の食堂でとる。室内にはバーやみやげ物店があり、それまでの緊張をとくことができる。
 今までは”対決”の場であったが、平和的な話し合いの場に変りつつある現況に、近い将来“平和統一”という言葉が世界の新聞紙上で報道されることを祈りつつ帰途につくツアーでもある。

 このガイドブックは、改訂のタイミングが南北の離散家族の再会や芸術団南北交流の直後であったこともあり、それを踏まえた記事内容になっている。

 

 この時期に、1978年に見つかった第3トンネルの見学ツアーも始まった。北朝鮮が南に軍隊を進めるために掘ったとされるトンネルが1970年代に韓国軍によって発見された。韓国側はそのトンネルに向けて斜坑を掘って対処した。三番目のトンネルへの斜坑の入り口が板門店のすぐ近くにある。この場所は、国連軍の管轄ではなく韓国軍の管轄区域なので、韓国側で人の出入りをコントロールすることができた。都羅山トラサンに作った北朝鮮を遠望できる展望台と、この第3トンネルをセットにして一般韓国人向けのDMZツアーを組んでDMZ観光やVIPトラベルが売り出した。ただ、この第3トンネルは、急勾配の斜坑を徒歩で本坑まで降りて登り返すため、相当にきついコースだった。そのため、2002年5月には斜坑に線路を敷設してシャトル・トロッコが運行されるようになる。

 


(3/3) 1990年代以降の板門店へ続く