- ◆ 孫・南両選手の掲載写真
- ◆ ニュース映画入手と上映計画
- ◆ 日章旗抹消の決断
- ◆ 府民館上映会と発行停止処分
- ◆ その後の上映と拡散
◆孫・南両選手の掲載写真
ベルリンオリンピックのマラソン競技は、現地時間1936年8月9日午後3時にスタートした。日本や朝鮮では同日午後10時である。日付が変わって孫基禎がトップでゴールし、その競技結果が世界中に配信されたが、日本や朝鮮では8月10日の朝刊には間に合わなかった。
『東亜日報』は8月10日に号外を出し、孫基禎の金メダルと南昇龍の銅メダルを速報した。
マラソン競技当日の写真はまだない。3日後の8月13日付の紙面に、表彰台上の孫基禎と南昇龍の写真が掲載された。
呂運亨が社長をしていた『朝鮮中央日報』も、8月13日付の紙面にこの写真を掲載している。呂運亨は朝鮮人スポーツ選手の育成に尽力しており、孫基禎と南昇龍の活躍をいち早く報じた。
ベルリンオリンピック開幕を半年後に控えた3月、無線国際回線を利用する写真電送について、双方が自国製の電送装置をベルリンと東京に設置することで、日独政府間の合意が成立した。これによって、14〜20分程度で写真を送受信することが可能になっていた。
『東亜日報』と『朝鮮中央日報』が掲載した写真は、『朝日新聞』が8月11日付朝刊に「伯林、東京無線電送写真=11日午前1時10分(日本時間)同盟特派員発」として掲載したものを転載したものである。
朝鮮総督府の御用新聞だった『京城日報』は12日の紙面に「孫選手マラソン門を入る」という同盟通信の電送写真を掲載し、民族系のもう一紙『朝鮮日報』は、15日になって、やはり同盟通信が電送した「마라손決勝線에 드러오는孫基禎君(マラソンでゴールする孫基禎君)」とする写真を掲載した。しかし、両紙とも表彰台上の写真は掲載していない。
その後、『東亜日報』は8月25日になって夕刊に改めて表彰台上の孫基禎の写真を掲載した。13日の写真とは別の写真で、8月23日付の『大阪朝日新聞(南鮮版)』に掲載された、朝日新聞佐々木特派員撮影の写真を転載したものであった。大阪朝日新聞朝鮮版は、発行日から1日から1日半遅れで京城に届いた。
日本語のキャプションはこうなっている。
讃へん哉、覇者の誉れ
上:頭上に月桂冠、両手に樫の鉢植、マラソン優勝者”我らの孫基禎選手” 下:マラソン門を潜つて勇躍出発する孫選手(×印)=九日、世界制覇の日【ベルリンより本社リレー空輸】
そして、8月25日夕刊に転載されたこの写真では、孫基禎の胸の日章旗が消されていた。これが「日章旗抹消事件」として問題にされたのである。
◆ニュース映画入手と上映計画
『東亜日報』が8月25日に『大阪朝日新聞』の孫基禎の写真を転載したのは、その前日に出されたこの社告と関係があったと思われる。
オリンピック大会映画 本報読者に提供
「オリンピック」の幕は降りた。 その施設や規模において空前のものであり、その記録や成果においてもまた空前のものであった。
しかし、人類二十億の先頭を走った我らの孫・南両勇士の歴史的制覇戦を実際に誰が見ることができたであろうか、栄光の月桂冠を勝ち取った選手の勇ましい躍動を目の当たりにした者がいったい何人になるだろうか。 電波がその音声を伝え、活字がその記録を物語ったとはいえ、激戦の快絶壮絶の実際の様子を見ることができないのは大きな遺憾事と言わざるを得ない。
本社はこれを何とかしようと最善の努力を重ねた結果、ついに大会の全編実況映画を空輸によって入手することができた。本社として喜ばしいことは言うまでもない。近くこれを公開することにより、その実際の模様を天下の読者諸氏とともに価値あるものとして鑑賞できることを思うと、さらなる喜びに堪えない。
さあ、来たれ。拍手しよう、感激をもって。
上映日時・場所は追って発表する。
社告 東亜日報
ベルリンオリンピックのニュース映画フィルムの上映会を『東亜日報』購読者限定で行うという予告である。「最善の努力を重ねた結果…全編実況映画を空輸によって入手」とあるだけで、撮影・編集・配給などの情報は一切示されていない。さらに、上映の日時や場所も、この時点では決まっていない。すなわち、入手が困難と思われていた映画フィルムが、一転して上映可能になったことを意味する。
上述のように、ベルリンオリンピックでは無線回線による写真電送が実現し、競技写真を翌日の東京の紙面に掲載することが可能となった。京城では1〜2日遅れの掲載となったが、それまでにないスピーディーな写真報道が可能になっていた。
それに加えて、朝日新聞社はドイツのニュース映画社UFA社(Universum Film AG)と提携し、UFA社が撮影・編集したニュースフィルムを、ベルリンから航空機とシベリア横断鉄道を使って日本へ最短時間で搬入する輸送ルートを開拓した。
8月1日の開会式のフィルムは、2日早朝に朝日新聞モスクワ支局長が携行してベルリンを旅客機で出発し、モスクワからヤナウールで飛行機を乗り継ぎ、4日にノボシビルスク、5日にシベリア鉄道に乗り換えて9日に満州里に到着した。ここから日本側の用意した飛行機に引き渡され、ハルビンを経て朝鮮半島上空を南下し、同日京城を経て10日午前に大阪に到着したという、当時としては驚異的なスピード輸送であった(『東京朝日新聞』1936年8月10日付)。まさに「リレー空輸」である。この最初のフィルムは、10日午後7時半から日比谷公園と上野公園で、朝日新聞主催の上映会において公開された。
一方、毎日系の東京日日新聞や大阪毎日新聞も同様の輸送を試みたが、朝日新聞のスピードには及ばなかった。
東京で8月10日に上映されたニュース映画は、京城では8月19日から明治町1丁目の浪花館で「朝日オリンピックニュース第1報」として公開された。「20日まで」とされていたが、「順次到着次第上映」とされ、20日以降も上映が続いていた。
オリンピックの8日目から11日目、すなわち前畑の女子平泳ぎ200メートル決勝や、孫基禎・南昇龍のマラソンのニュース映画フィルムも同様にリレー方式で東京へ運ばれ、8月21日に日比谷公園、上野公園、さらに東京市内各所で上映された。
京城の浪花館でも、東京に遅れること3日、8月24日からこの「第3報」の上映が開始された。
ここで注目されるのが、8月28日付『朝鮮新聞』の記事である。
浪花館で「第3報」が封切られた8月24日は、『東亜日報』が事前準備もないまま、急遽、購読者対象の上映会を予告した当日である。さらにこの記事には、浪花館での上映が「内地人側独占封切」と記されている。裏を返せば、「朝鮮人側独占封切」の存在を示唆するものでもある。
この時間的経過と記事内容からみて、『朝日ニュース』第3報の「朝鮮人側独占封切」を東亜日報が急遽獲得したと考えることは、十分に成り立つ。
『東亜日報』は8月25日付朝刊で、翌26日から3日間、京城府民館において1日3回、計9回の上映を行うことを予告した。26日は水曜日で、平日の3日間の上映となったが、府民館は夜間にすでに公演予約が入っていたためであろう。上映は9時半、12時半、15時半の3回で、観覧券は購読者に対し地区ごとに日時と回を指定して配布された。
◆日章旗抹消の決断
そして、この日の夕刊に掲載された表彰台上の孫基禎の写真では、その胸の日章旗が消されていた。
実は、この25日の朝刊にもベルリンオリンピックの写真が掲載されており、メダリスト3人(孫基禎・ハーパー・南昇龍)の胸の日章旗はそのままであった。
それが夕刊でなぜ消されたのか。わずかな時間のうちに、掲載写真の扱いが変化したことになる。
日章旗の抹消は、日本の植民地支配に対する朝鮮人としての鬱積した感情の発露であったことは疑いない。しかし、それは25日の朝刊までは抑制されていた。その胸中に蓄積されていた思いが、日章旗の抹消という形で表出したのは、孫基禎と南昇龍の力走、そして表彰台での彼らの姿を実際に目にしたことによるのではなかろうか。
残念ながら、このとき上映されたUFA社制作のニュース映画フィルムは現存していない。ただし、1938年に完成したレニ・リーフェンシュタール監督のベルリンオリンピック記録映画『オリンピア(Olympia)』には、マラソンおよび表彰式の場面が残されている。UFAの映像も、おおむね同様のアングルで撮影されていたものと考えられる。
レニ・リーフェンシュタールのベルリン五輪記録映画のマラソン場面(抜粋版 音声なし)
マラソンの表彰式の場面(全 音声なし)
孫基禎も南昇龍も、表彰台ではうつむき、視線を掲揚台からそらしている。その姿はきわめて印象的である。
こうした映像、すなわち力走する姿と、表彰台でうつむく二人の姿は、前日24日から浪花館で上映されていた。
浪花館は、明治町1丁目、現在はウリ銀行明洞支店がある場所にあった。ロッテヤング館(旧:丁字屋)側から地下道を渡って明洞に入ってすぐの左側。植民地統治下では、明治町は本町とならぶ内地人の京城一の繁華街だった。
浪花館は、朝日ニュースのオリンピック映画の「内地人側独占封切」権があったとされるが、黄金町・清渓川の南側、松竹座・中央館・喜楽館、若草劇場などが「内地人側」で、北側の優美館・団成社・東洋劇場などが「朝鮮人側」の映画上映館であった。ただ、朝鮮人、内地人で映画観覧の場所に制限があったわけではなく、好きな映画館に行って観たい映画をみることができた。
翌日から府民館での上映を予定していた東亜日報の関係者が、25日に浪花館でこのニュース映画を観た可能性は高い。内地人の観客に混じって映像を見た記者が、「日の丸は見たくない」という衝動を抱き、それを夕刊編集の段階で行動に移したと考えることは、十分に成り立つ推測である。
◆府民館上映会と発行停止処分
日章旗が抹消された翌日、府民館での上映会は予定通り行われた。その様子を、『東亜日報』はこのように報じている。
驟雨の中でも観衆が押し寄せる
府民館の内外は超満員
スクリーンに再現された制覇の場面
オリンピック映画きょう上映
期待されていたオリンピック映画は、天下の視聴者を集め、二十六日午前十時、京城府民館でその幕を開けた。
降りしきる豪雨にもかかわらず、二千人の観衆が波のように押し寄せて極度の混雑となり、それぞれが持ってきた傘で大きな屋根のような光景をつくっていた。
そしてスクリーンに映し出されるオリンピックの場面を人々は皆本物のオリンピックのように感じ、その一つ一つの場面に合わせて拍手や歓声が起こった。ベルリンで開かれた実際のオリンピックを目撃しているかのように、満場の観衆は息をのむほどの緊張に包まれていた。
画面にいよいよ孫基禎君の勇姿が現れると、再び雷のような拍手と歓声が場内を揺り動かした。孫君が三十一キロ付近で、それまで先頭を走っていたザバラを抜き、飛ぶように先頭を走り始めると、「走れ、孫君!」という声が自然に爆発した。
そして孫君が優勝することを皆すでに知っていながらも、後ろから追ってくるハーパーに抜かれるのではないかと心配する婦人たちは、「ああ、追いつかれたらどうしよう」と叫び続けた。やがて最後の月桂冠が孫君にかけられると、ようやく安心した大きなため息が場内に広がった。
府民館は満席で1,500席であったから、立ち見を含めての超満員だったのだろう。翌27日の上映会も、予告通り行われたことが『東亜日報』の記事から確認できる。
ところが、8月27日午後5時、東亜日報社に対して『東亜日報』の発行停止処分が下された。処分に関する朝鮮総督府警務局長の談話は、翌28日正午になって出された。それによれば、第一に孫基禎の優勝は「日本の名誉」であり「日鮮融和」の象徴であること、第二に東亜日報は25日付紙面に掲載した写真から日章旗を意図的に消したこと、第三にそれは「非国民的行為」であること、がその理由とされた(『京城日報』1936年8月29日付)。
すなわち総督府は、孫基禎の優勝が「朝鮮民族の誇り」として受け取られ、日本と朝鮮の民族対立を刺激する可能性があることを前提にしていたのである。裏返せば、それは「日鮮融和」が表面的なものにすぎないことを、みずから認めたに等しかった。
実は、上掲の『朝鮮中央日報』が8月13日に掲載した写真でも、孫基禎の胸の日章旗が消えていた。ところが、もともと電送写真であったうえ、『朝鮮中央日報』は輪転機の性能が悪くて写真が鮮明ではなかったため、日章旗が見えないことに気づいた人はほとんどいなかった。
警務局長談話の発表に先立ち、その前日の午後5時に『東亜日報』への発行停止指令が伝達された背景には、府民館に集まった朝鮮語新聞『東亜日報』の購読者たちの熱気に、当局が脅威を感じたという側面もあったのではないか。府民館での上映会では、豪雨にもかかわらず2,000人を超える観衆が押し寄せ、孫基禎の場面では大きな歓声が上がった。こうした熱狂的反応は、植民地支配者の側にとって、民族的感情の高まりを示すものと受け取られた可能性が高い。
東亜日報に発行停止処分が下されると、『朝鮮中央日報』も「謹慎のため」として9月5日から自主休刊を宣言した。「自紙でも日章旗を消していた」と示そうとしたのかもしれないが、その後の経営悪化もあって復刊には至らなかった。
8月28日の府民館における上映会が実際に行われたかどうかは確認できない。
◆その後の上映と拡散
8月28日から、若草映画劇場で「東日・大毎オリムピック・ニュース」が公開された。
また、8月26日付『大阪朝日新聞(南鮮版)』には、9月5日から府民館で5日間にわたり「オリンピック映画会」を開催するとの告示が掲載されている。
このように、京城では8月末から9月初旬にかけて、ベルリンで力走する孫基禎と南昇龍の姿が、繰り返しスクリーンに映し出されていた。
東亜日報は、孫基禎と南昇龍という二人の朝鮮の英雄の活躍を、一刻も早く多くの朝鮮人に伝えようとしたのではないか。その切実な思いと、実際の映像を目にした興奮が、過激なアピールへとつながったと見ることもできるだろう。
こうして見てくると、日章旗抹消は単なる紙面上の操作だけではなく、ベルリンから届けられた映像体験と、それを受け止めた人々の感情の高まりの中で生じた出来事であった可能性が浮かび上がってくる。
電送写真によって伝えられた情報は、まだ距離を保ったまま受容されていた。しかし、ニュース映画というかたちで「見る」体験が加わったとき、その距離は一気に縮まり、抑えられていた感情が行動へと転化したのではないか。
その意味で、この事件は単なる新聞史の一エピソードではなく、メディアの変化が人々の認識と行動をどのように変えうるのかを示す、きわめて示唆的な事例であったと言えるだろう。
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