李鍝の死と朴賛珠―王公族の戦後 | 一松書院のブログ

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 広島市内、相生橋のたもと。1945年8月6日、被爆して動けなくなった第二総軍教育参謀・李鍝イウ中佐がここで発見されたとされる。1970年に建設され、1999年に平和公園内の現在位置に移設された韓国人被爆者慰霊碑の斜め対岸に当たる。

 



 李鍝の夫人・朴賛珠パクチャンジュは、1963年11月に来日して、陸軍士官学校45期慰霊祭に出席し、李鍝の死亡後に自決した御附武官・吉成弘中佐の夫人・吉成まきのとも面会している。

 

 

 この時、11月7日に広島を訪れ、亡き夫・李鍝のゆかりの地を巡り、相生橋で献花した。

 

 

 李鍝は、高宗皇帝の息子・李堈李堈 イ   ガンの次男として1912年11月15日に生まれた。1907年に即位した純宗皇帝と、その弟で皇太子の李垠イウンは、叔父にあたる。ここで、李鍝の位置関係を整理しておく。

 

 

 高宗の父・李昰応イハウンは、息子が国王に即位したことで大院君テウォングンの称号が与えられ、その居宅・雲峴宮ウニョングンは権力の中枢の一つとなった。

 

 時は流れ、大韓帝国は日本に併合され、1917年には、大院君の孫で雲峴宮の当主だった李埈鎔イジュニョンが47歳で死去した。李埈鎔には跡継ぎの男児がいなかったため、その従弟に当たる李堈の次男・李鍝を養子として雲峴宮を継がせた。

 

 李鍝は、養子となった時には満4歳だった。鍾路チョンノ小学校に入学したが、1921年4月に日本に送られて学習院初等科に転校した。李堈の長男で、李鍝の兄・李鍵イゴンも日本に送られ、下渋谷常盤松の皇室所有地に住まいがあった。1925年には李鍵の邸宅の隣に李鍝の別邸が建てられた。その後、李鍝は、陸軍中央幼年学校を経て、1933年に陸軍士官学校(45期)を卒業した。

 


 

 1928年、李垠とその妻・方子マサコ(梨本宮方子)夫妻が欧州旅行から神戸に帰国した際の写真が、1928年4月10日付『朝日新聞』に掲載されている。

 

左から、李鍝、李堈、李垠、方子、徳恵、梨本宮夫妻
 

 神戸で撮られたこの写真で、李堈・李垠・徳恵トッケが高宗の子供、李鍝はその孫にあたる。兄の李鍵は、この時、習志野馬術大会出席のため神戸には来なかった。

 

 韓国併合後、朝鮮の王族・公族とその子弟の多くは朝鮮から切り離され、日本内地に居住させられた。さらに、李垠、徳恵、李鍵はそれぞれ日本人と結婚することになった。ただ、李鍝だけは日本人との結婚を拒み、1935年に朴賛珠と結婚した。朴賛珠の祖父は朴泳孝である。

 

 朴泳孝(1861-1939)は、朝鮮末期から大韓帝国期にかけて活動した開化派の政治家であり、日本と深い関わりのある人物だった。甲申政変(1884)では日本の支援を背景に政権掌握を試みて失敗し、金玉均らとともに日本へ亡命した。その後政界に復帰し、親日的立場から改革を志向した。韓国併合後は伯爵に列せられ、日本統治体制のもとで活動した。李鍝が、朝鮮人の朴賛珠と結婚することに難色を示す日本側要人もいたが、朴泳孝もその説得に動いたという。

 

 李鍝と朴賛珠の新婚生活は下渋谷常盤松の別邸で始まり、李清イチョン李淙イジョンの二人の子供も東京で生まれた。

 

 

 李鍝は、1944年3月に北支那方面軍第1軍司令部の参謀将校として中国の山西省太原へ転出し、1945年6月10日に広島の第二総軍の教育参謀として着任した。広島への移動の際には、雲峴宮に立ち寄っている。

 

 1988年に中国放送が制作したドキュメンタリー「民族と海峡」で、李鍝公家公子、すなわち李清と淙の養育係だった金子鎮枝は、この時のことを次のように回想している。

とても、運動なさったんです、京城の師団に留まるように。当時、李鍝公殿下は頭がよくてしっかりなさっていて、朝鮮と日本がこうなっているということは、気持ちがおすみにならないわけだったんですね。で、なんとなしに陸軍の方でそれを恐れていたんですね。事務方もね、その懸念を持っておりましたからね。反対して猛運動をやったらしいんです。京城の方で、やっぱりおばあさま方が猛運動をやってらしたんですけど、阿部総督がこちらについてますからね… で、とうとうこっちへ(広島)へいらしたわけで。京城にいらっしゃったら、あの方は大統領にもなっていらっしゃいましたよ。妃殿下は、さぞ無念でいらっしゃるでしょうと思って…

 ちょっと、歯切れは悪いが、日本側では李鍝の考え方に民族主義的傾向があるのではと警戒感をもっており、朝鮮には配属しない意向だったことが感じられる。養育係の金子鎮枝が京城にいたということは、6月には朴賛珠と二人の息子・李清と李淙は、空襲の激しい東京を離れ、比較的安全と見られた京城の雲峴宮へ移っていたのであろう。

 

 そして、8月6日、李鍝は広島で被爆した。広島市編纂の『広島原爆戦災誌』第2巻(1971)には、このように記載されている。

 宇品の暁部隊内で被爆した竹中泰軍属が、鷹匠町の自宅の安否をたずねて帰り、途中、憲兵にとがめられながらも、午後12時40分、相生橋西詰に到着した際、同西詰北側で、被爆してうずくまっている李鍝公殿下(第二総軍教育参謀)を発見した。「君は軍の者か、町の者か?」と、殿下に問われた。「町の者です。家を見に帰るところです。」と、竹中軍属は答えた。「よう生きて帰ったね。俺は、今朝、やられたんだ。李鍝公という者だが、どうか憲兵隊に連絡を取ってくれないか…」と、頼まれた。
 李鍝公殿下は、顔から胸に火傷し、上衣は吹き飛ばされて、力なさそうであった。竹中軍属は、ともかく此処ではいけないと考え、殿下を背負い、本川国民学校東側の川沿いの道に面した防空壕(2畳敷位)に運んだ。殿下は16、7貫の巨体であるうえ、手は火傷してズルズルになっていたから、壕内に運びこむのも一苦労であった。
 竹中軍属は、連絡しようにも誰もいなくて困ったが、3時半ごろ、十日市派出所の負傷した巡査が歩いて来たので、これに連絡方をたのんだ。巡査は引返して、派出所が埋蔵していた油を持って来て、応急手当をした。そのうち4時半ごろ、軍人が通りかかったので、これに連絡することができた。
 この連絡により、宇品の暁部隊の舟艇が川をのぼって来て、殿下を収容した。
 宇品の凱旋館に収容され、軍医の診察を受けたときの状況については、佐伯司令官の記録(外傷見られずとある。)にあるが、そこから似ノ島の収容所に転送後、翌7日午後4時過ぎに逝去された。

 李鍝公殿下は、朝鮮王最後の王世子李垠殿下の甥にあたり、当時、古田町高須の前田別荘に約3か月滞在中、第二総軍司令部へ出勤途上において被爆したのであるが、このとき、猫屋町の憲兵分隊(光道国民学校内)動務の柳田博憲兵准尉は、李鍝公殿下の護衛憲兵を勤めていた田辺憲兵軍曹が、馬に跨がったままで、相生橋から約500メートル先の十日市町電車停留所付近の倒壊民家の前で死んでいる現場を、7日に確認し、その死体を収容した。
 李鍝殿下の死去にあたり、お付武官吉成弘中佐はその責任を感じ、殿下の病室の前の芝生に正座して、ピストルで殉死したと言われる。殿下の遺骸は総軍の飛行機で、京城の自邸朴賛珠妃殿下のもとに届けられた。ちなみに、昭和38年11月7日、朴賛珠夫人が来広せられ、相生橋上から、川に花束を投げて、故殿下の冥福を祈られた。

 李鍝の遺体は、防腐処理を施されて広島市南部の吉島飛行場(現在の中区光南)から京城に送られた。8月8日午前11時40分、汝矣島の京城飛行場に到着した棺は、南大門・朝鮮総督府を経て雲峴宮に安置された。

 

 この時の様子を前出の金子鎮枝はこのように回想している。

御遺骸が着く日ですか、お迎えに行って帰ってらしたんです。そしたら、嘘だろうって本当のこと聞かしてくれって言って、むこうでお嘆きになってらしたんですって。ずいぶんやっぱりその時にはね、悲しそうにしてらっしゃいました。お帰りになった時に、私に抱きついてね、本当かって。何遍も何遍もおっしゃいましたね。嘘なんだろう。嘘ではございませんと申し上げましたけど、なんとも言いようがなかったです。お子様は、お子様でね、私にへばりついてましてね。おもう様はね、お星様におなりになったんだって、っておっしゃるんですね。なんてお慰めしていいかわかりませんでした。

 葬儀は、8月15日午後1時、東大門の京城運動場で陸軍葬として行われた。正午からのポツダム宣言受諾の「玉音放送」の直後であったが、予定通り執り行われた。朝鮮総督府は、すでに8月11日には敗戦に備えて内々に準備に着手していた。8月14日の夜の23時過ぎには、翌日正午に放送予定のポツダム宣言受諾に関する天皇の読み上げ原稿の全文が同盟通信社京城支局に電話送稿で東京から届いた。従って、総督府や軍の上層部は、李鍝の陸軍葬の時には、日本の敗戦が周知された後のことだと分かっており、葬儀の準備はそれを前提に淡々と進められていた。

 

 葬儀の前日の8月14日、朴賛珠は、自決した吉成弘の妻・まきのに、「戦死を悼む」と電報を打った。まきのは、李鍝の被爆死は新聞報道で知ったが、夫の生死については知らされずにいた。吉成弘の自決を知った朴賛珠が、京城から大分の宇佐のまきのに一報を入れたのである。

 その後、朴賛珠と子供達は、下渋谷常盤松の別邸に戻ることはなかった。

 

 日本の敗戦によって、植民地統治体制は解体されたが、旧王家の管理を行う「李王職」は米軍政のもとでも存続した。1948年7月、大韓民国の建国に先立って米軍政長官のディーン少将の命令書で「雲峴宮」の所有者は李鍝・朴賛珠夫妻の長男・李清であることが確認された。しかし、大韓民国の国務会議は、1949年2月に「旧王宮財産処分法案」を制定し、「旧王宮財産は国有とする」と定めた。ただし、「旧王族の生計維持上必要な財産は、大統領令の定めるところにより、王族に譲与することができる」とされた。雲峴宮に関する権利関係も微妙になった。

 

 ここで朝鮮戦争が勃発した。戦争中、朴賛珠は二人の息子を連れて釜山プサンに避難した。その避難先の釜山での出来事を、息子の李清が1991年12月11日付の『東亜日報』のインタビューで、このように回想している。

インタビュー:大院君5代宗孫 李清氏

(前略)

 解放後に制定された旧皇室保護法によって旧皇室の財産すべてが国有化されたが、雲峴宮だけは除外された。
「母が釜山避難時代に、政府の要人だけでなく、国会議員全員を訪ねてまわり、雲峴宮は大院君の私邸であると訴えました」その結果、国会で、雲峴宮は旧皇室が所有していたものかどうかを問う投票まで行われ、150対8で雲峴宮は私有財産であると認められた。

 雲峴宮では、先代の李埈鎔の未亡人、それに先々代の李載冕の未亡人が暮らしていた。朴賛珠は、二人の息子を育てながら、二人の未亡人の生活を支えなければならなかった。そのため、大韓民国建国前後に、興宣大院君が持っていた石坡亭(現在の付岩洞所在)や、雲峴宮の洋館と付属の土地を徳成学園に売却している。現在の徳成女子大学鍾路キャンパスがそれである。また、雲峴宮の北側の一画で「雲峴宮礼式場」を営業したり、映画スタジオを計画していた東苑映画社と10年間の賃貸契約を結んだりした。さらに、「雲峴観光開発株式会社」を立ち上げて、李載冕・李埈鎔・李鍝が葬られている楊州郡和道面の墓所に隣接する公園墓地「牧蘭公園墓地」の造成・分譲にも乗り出した。

 

 大韓民国の初代大統領の李承晩は、朝鮮王朝の王家と同じ全州李氏ではあったが、遠い分家の末流であり、もともと共和主義者で、王制を嫌っていた。高宗・純宗につながる関係者に対しては、彼らが日本と深い関係を持っていたこともあり、冷淡だった。国籍の回復や帰国についても、これを認めなかった。

 

 1960年の4・19学生革命で李承晩政権が倒れ、その翌年、5・16クーデターで実権を握った国家再建最高会議の議長朴正熙は、李垠夫妻や徳恵の国籍回復や帰国について、1961年7月に東京の韓国代表部を通じて受け入れの意向が伝達された。11月、朴正熙が訪米する際、当時の日本首相・池田勇人の招きで日本に立ち寄り、迎賓館で方子夫人と面談して、旧王族・公族の関係者の韓国帰国問題が動き出した。

 

 まず、徳恵の韓国帰国の手続きが始まり、翌1962年1月の帰国が決定した。この徳恵の出迎えの使者として、1月16日に来日したのが朴賛珠と次男の淙であった。1月26日に、統合失調症で闘病中の徳恵は羽田空港からソウルに帰国した。

 

ノースウエスト機で金浦空港に到着しタラップを降りる徳恵翁主。横に付き添うのは七寸の甥・李海善 

 

 同じ1962年の6月13日には、墓参を名目として李方子と息子の李玖夫妻が韓国に一時帰国した。夫の李垠は東京で病床にあり、李垠の帰国の下準備のための渡航だった。この時も、朴賛珠が空港出迎え、尹大妃(純貞孝皇后)との再会、朴正煕議長の接見などで李方子に寄り添っていた。

 



 そして、その翌年、1963年11月に朴賛珠は再び来日した。この時に、冒頭に書いたように、陸軍士官学校45期の慰霊祭に出席して、李鍝の死亡後に自決した御附武官・吉成弘中佐の夫人・吉成まきのとも会った。そして、11月7日に夫・李鍝の死後初めて広島を訪れたのである。

 

 広島から東京に戻った朴賛珠は、11月16日に東京から韓国に戻り、同月22日の李垠夫妻の帰国を発表している。



 

 11月22日、病床のまま李鍝(英親王)と、方子夫人、息子の李玖が韓国に帰国した。

 

 

 徳恵の帰国、そして李垠・李方子夫妻の帰国という一連の動きの中で、朴賛珠は重要な役割を果たしていたことが分かる。行動力に富んだ人物であったと言える。

 

 その後、朴賛珠は広島にも行っておらず、韓国内での被爆者団体の集まりにも一切顔を出していない。

 李垠・方子夫妻の帰国の下準備で東京を訪れた1963年11月が最後の機会だと考えて広島に行ったのであろう。

 

 「雲峴宮」の当主の李清は、1990年にアメリカから韓国に帰国して、ソウル市に「雲峴宮」の売却を申し出た。ソウル市議会では反対論、慎重論が強く、一旦は保留されたが、1992年になって買い入れが決定された。

 

 朴賛珠は、北阿峴洞ブクアヒョンドンに邸宅を購入して李清夫妻と暮らしていたが、1995年7月13日に死去した。


 1994年に広島の中国放送が朴賛珠のインタビューを申し入れたが、応じなかった。代わりにインタビューを受けた李清は、次のように答えている(1994年03月21日放送「抗日 日韓併合のかげに」)。

 

広島には行きたくないですね。土も踏みたくない。行くとすれば、家族の眠るお墓に行きます。

 

 そして、復元された「雲峴宮」は1996年10月25日に一般公開された。

 

 


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