京城の龍山の日本軍駐屯地の北側、練兵町の一画に「永岡商店」があった。1909年に、永岡長右衛門が羊羹の製造を山口県長門市で始め、1923年に軍指定の製菓工場として京城に進出した会社である。
1945年8月、日本の敗戦で朝鮮の植民地支配が終焉を迎えた。朝鮮半島の北緯38度線以南の敗戦処理を行うため、アメリカ軍が朝鮮に上陸し、本籍が内地にある日本人は朝鮮から退去させられ(「引揚げ」と称した)、日本人名義の企業は「敵産」としてアメリカ軍政の管理下に置かれることになった。
その際に、日本名義の資産を「売却」「譲渡」「管理委任」などの形で朝鮮側の名義に移すことで、「敵産」としてアメリカ軍政庁に接収されるのを回避しようとする動きが起きた。企業だけでなく、学校や宗教団体でも同様の動きがあった。日本仏教系の寺院、東本願寺や浄土宗別院、それに博文寺などでも、朝鮮人仏教関係者への引き継ぎが模索された。学校は、法人化して朝鮮人代表者を置く動きがあった。ただ、引き受け側でも、様々な思惑が錯綜していて、簡単に進んだわけではなかった。
京城の本町二丁目で営業していた丸善・京城支店のケースでは、日本の店舗の委任がどのように行われたかが書き残されている。『丸善社史』には次のように記されている。
既に内地とは通信連絡ができず、一方、日本の軍部や総督府からも何らの指示もなく、社員は全く途方に暮れつつあった。そのうち9月8日、米軍が京城市内に進駐してきたため、人心も次第に静まり、不安も薄らいだが、そのような状況の中で、近く在鮮日本人は、全部本国へ送還されるということも確かになったので、送還後の当支店の管理を朝鮮人社員裵渉(京城府立高等普通学校卒業後、昭和12年11月当支店に採用、のち選ばれて社員資格の待遇を受けていた一人で、今一人社員待遇の朝鮮人も居た)に委任することとなり、9月下旬米軍当局者立ち会いの下に店内の諸物品を棚卸しして現物並びに帳簿を整理し、支店と裵渉との間に、管理委任に関する契約書(米軍当局者サイン)を取交わした。
昭和26年版『丸善社史』
その後の現地新聞(『中央新聞』1946年2月23日付)の報道によれば、この「管理委任」成立の後、「敵産」の再稼働を請け負っていた朝鮮実業公司が、丸善社屋の明け渡しを要求してきた。こうした介入が行われることは珍しくなかった。ただ、旧「丸善」の裵渉らは、翌年3月に、書店名を「太白書籍公司」として営業を再開しており、「敵産」としての接収は免れたのであろう。
丸善は「敵産」としての接収を免れたが、こうした回避策は、成功した例と失敗した例が混在している。
菓子製造と菓子の卸問屋だった「永岡商店」では、どうだったか。
日本の敗戦時、「永岡商店」には、4人の朝鮮人従業員がいた。1925年に東星商業学校を卒業してグリコに入社し、1940年から永岡商店の販売担当となった閔厚植、1927年に京城電気学校を卒業してウエハス技術担当になった申徳鉢、1938年に善隣商業学校を卒業し、4月から経理事務の社員となった朴炳圭、それに高等普通学校を卒業してベーキング担当だった韓達成である。ちなみに、善隣商業は古賀政男も通った日本人と朝鮮人が共に学ぶ実務系の名門校だった。
朝鮮人従業員のうち、唯一の事務系社員だった朴炳圭を中心に、「丸善」京城支店と同じように、米軍当局者の立ち会いのもと管理委任に関する契約書が取り交わされた。彼らは会社名を「鮮美製菓合名会社」とした。ウエハス製造機、ミキサー、ボイラー、電気釜、飴製造機などを引き継いで、菓子の製造を再開した。
当初は10人ほどしかいなかった従業員は、創業3年後の1948年には300人に増えた。この頃、ヘテ・キャラメルが大ヒットし、購入者が夜明け前から、販売所がある南大門市場、東大門市場、芳山市場に押しかけ、長蛇の列をなした。工場からオートバイ一台と自転車一台をフル稼働して商品を運んだ。砂糖や小麦粉は、永登浦の美昌から購入して菓子を製造した。この美昌はもともとは朝鮮運送株式会社で、○の中に星をデザインしたマークが商標だったので「マルボシ」と通称されていた。現在のCJ大韓通運の前身である。永登浦の美昌倉庫から、原材料を調達していたのである。
「ヘテ」は、包装パッケージに描かれた獬豸(朝鮮語でヘテ、現在はヘチとも呼ばれる)に由来する。上掲の1950年の広告では、「ヘテ本家 鮮美製菓合名会社」と表記されている。その後、1950年代には「ヘテ製菓」が正式な社名となった。
1975年2月24日付の『毎日経済新聞』に、ヘテ製菓を取材した記事があり、それにはこのように書かれている。
今日のヘテグループを象徴するものは、まさに「ヘテ」というブランドである。これは、同社の母体となった永岡商店を経営していた日本人の「ナガオカ」氏が、光化門前を通りかかった際、そこに置かれていたヘテ像を見て名付けたことに由来する。ヘテは火災を防ぐ火護神として、あらゆる不幸を追い払い福を招く霊獣として伝えられてきた吉運の象徴であり、また善悪を正しく判断する不思議な海の獣でもある。
日本人の「ナガオカ」氏とは、永岡商店の永岡長右衛門のことである。
現在、ソウルの景福宮正門・光化門前には獬豸像が2体置かれている。
朝鮮王朝時代から、もともとこの場所に置かれていた。
日本人にも有名で、早くから絵葉書にもなっていた。さらに、1921年、煙草の製造・販売が朝鮮総督府専売局に移管されたとき、専売局が最初に出した両切り煙草の一つが「カイダ」であった。古いハングル表示で「ヘテ」ともある。
ところが、1926年、景福宮の正殿の前に朝鮮総督府庁舎が建てられた時、光化門は東側に移築され、獬豸像は撤去されて庁舎の裏に放置された。しかし、3年後の1929年11月になって、獬豸像は総督府庁舎前に再設置された。京城府内で火事が相次いだため、火災を防ぐ火護神とされる獬豸像を再び表に出したとも言われた。『京城日報』にも写真入りで報じられた。

もう1体のヘテは右の門柱の陰か…(1945年9月撮影の写真)
永岡長右衛門が獬豸像を目にしたというのは、この再設置以降のことであろう。永岡商店は、主力の羊羹の他に、松の実ドロップ、フルーツゼリー、フィンガーなどを製造、販売していた。そして、新たに、松の実入りキャラメルを開発して「カイダ」として売り出した。1936年3月の『朝鮮新聞』に、「滋養の菓子 松の実入 カイダ」「一粒=不老長寿(栄養価)」という広告が出ている。
デザインには獬豸(ヘテ)が描かれ、商品名には「カイダ」が用いられている。
そのデザインは、植民地支配が終わった後の「ヘテ本家 鮮美製菓合名会社」のヘテ・キャラメルのパッケージにもほぼ同じ意匠で用いられ、「登録商標」あるいは「美匠特許」と記されている。
管理委任契約には、製造設備や製菓技術だけでなく、原料調達ルートや包装デザイン、商標図案の継承も含まれていた可能性が高い。
カイダのモデルの獬豸は、もともと朝鮮のものであって、朝鮮の人々にはなじみのあるものである。抵抗感なく引き継げるデザインであったことも大きかった。
こうした経緯で「鮮美製菓合名会社」は、生産をほとんど中断することなく、カイダ・ブランドをハングルに置きかえてヘテ・ブランドとして生産・販売を行い、それを発展させていったと思われる。
1950年、朝鮮戦争が勃発すると、順調に成長していた鮮美製菓にも大きな試練が訪れた。従業員300人余りは離散し、9月28日のソウル奪還後には従業員数は100人余りに減少していた。
しかし創業者たちは、生産機械を地方に移転するなどして、一時中断していた製品生産を1951年3月から再開した。
1953年には、9月に「ソウル復帰新製品」と銘打った宣伝が出ており、1953年7月27日の休戦協定調印後に、ソウルでの生産を本格再開したのであろう。
翌年8月の光復節の祝賀宣伝では、「ヘテ・キャラメル本舗 ヘテ製菓合名会社」と社名が記されており、1953〜5年に、社名を「鮮美製菓」から「ヘテ製菓」に社名変更したものと思われる。
その後、全国に販売網を整備し、日本から最新設備を導入して近代化を進め、1970年に朴炳圭が社長に就任すると「脱・製菓業」を掲げ、アイスクリーム、乳業、果汁飲料、酒造、観光事業などへ進出した。サントリー韓国法人や済州島の柑橘事業を引き継ぎ、総合食品グループへ発展した。
また、1982年には韓国プロ野球創設に参加して「ヘテ・タイガース」を創設した。タイガースは宣銅烈らを擁して9度の韓国シリーズ優勝を果たし、韓国球界屈指の名門球団となった。
しかし、1997年のIMF経済危機でグループは深刻な経営難に陥った。不動産・観光・流通などへの過剰な事業拡大と多額の負債が重荷となり、1999年にグループは事実上解体された。プロ野球のヘテ・タイガースは2001年に起亜自動車へ売却された。
主力のヘテ製菓は債権団管理下で再建が進められ、2005年にクラウン製菓によって買収された。
現在は「クラウン・ヘテ製菓グループ」となっているが、ヘテ・ブランドは存続している。
解放後、永岡商店から受け継いだカイダ・ブランドはヘテ・ブランドへと発展し、ヘテは韓国有数の財閥へ成長した。IMF経済危機でグループは解体されたものの、その獬豸ブランドの伝統は、現在も韓国社会で受け継がれている。








