1933年発行の『京城精密地図』で、龍山駅の北側、京城駅へ向かう京義線と龍山線(旧京義線)に挟まれた京町に「豊国製粉会社」の表示がある。
1934年9月、ここで「豊国製菓」が本格操業を始めた。現在はオリオン製菓の本社と工場が建っている。
1945年8月15日の天皇の「玉音放送」により、日本による朝鮮の植民地支配は終わりを告げた。9月8日に仁川へ上陸したアメリカ軍は、翌9日に京城へ進駐し、朝鮮総督府で降伏受諾式が行われて米軍政が開始された。
豊国製粉と豊国製菓は、斎藤久太郎の斎藤合名が経営する企業だった。斎藤久太郎は長崎県壱岐の出身で、日清戦争の際に日本軍の御用商人として朝鮮に渡り、平壌で精米業を始めた。その後、京城の三坂通に製絹糸縫製工場を開き、それを酒造所へ転換して「金千代」ブランドの清酒で成功を収めた。さらに京仁商船や豊国農場、牧場にまで事業を拡大していた。
日本の敗戦により、朝鮮内の日本人名義の資産は「敵産」として米軍政庁に接収されることになった。だが、朝鮮人に名義を「売却」「譲渡」「管理委任」などの形で移すことで接収を免れ、朝鮮人の関係者が引き継ぐケースもあった。後にヘテ製菓となる永岡商店や丸善京城支店では、米軍当局者立ち会いのもとで、日本側の資産保有者と朝鮮人従業員が「管理委任」の文書を取り交わしている。こうしたケースでは、「接収」「管理人の監督下での事業継続」「払い下げ」といった過程を経ることなく、朝鮮人従業員が資産を継承して事業を継続することになった。
斎藤久太郎が経営していた企業ではどうだったのか。金千代酒造については、1945年11月20日付の『民衆日報』に記事が掲載されている。そこでは、斎藤久太郎の委任を受けたという弟・又吉が、自身の社会団体「自覚社」を財団法人化し、そこへ経営権を移そうとしたと報じられている。朝鮮人による理事会が運営する財団法人とし、接収を回避する方法は、学校や宗教団体などでも試みられた例があった。
最後まで続く日本人の悪あがき
金千代醸酒問題注目
全国的に名の知れた金千代醸造会社をめぐる日本人の最後の悪あがき!ソウル市吉野町の朝鮮清酒醸造会社(旧金千代醸造場)は、前社長斎藤久太郎から自治委員会に引き渡され、この間全従業員の力で運営されている一方、軍政庁鉱工課に接収されて今日に至り、近日中に同鉱工課の推薦で顧問も新任されることになった。最近、斎藤久太郎の弟だという斎藤又吉という者が兄から委任されたと現れ、経営権を奪取しようと悪辣な野心を示して全従業員の憤激を買っている。また、斎藤又吉は自らが経営していたソウル市南大門通5丁目の自覚社を財団組織化し同醸造場で生産される日本酒を各地に売りに出す計画で、各商人と契約しているということで朝鮮清酒会社の行方が注目される。
この記事には、金千代の酒造工場は「自治委員会」に引き渡され、「従業員の力で運営されている」とある。
豊国製菓でも、解放直後から裵東恒、金炳文、金萬福、河興吉ら従業員による自治運営が行われていた。裵東恒は普成専門学校卒のエリート社員で、引き継ぎの名義人となっていた。管理委任などに関する契約書を取り交わす場合、高学歴の代表者の方が米軍政庁側の了承を得やすかったからである。
ところが、斎藤久太郎の代理人・斎藤又吉は、金千代酒造の経営権を財団化する「自覚社」に移そうとした。
「自覚社」は、1923年に斎藤又吉が創設した慈善団体で、朝鮮人貧民の子供たちのための普通学校を開設し、簡易食堂や簡易宿舎の提供、朝鮮人女性への内職斡旋などを行っていた。兄・久太郎からの資金援助もあったのであろう。そのため、金千代酒造の資金を「自覚社」に回せるよう画策したのであろうが、朝鮮人従業員や世論の反発によって実現しなかった。
そればかりでなく、金千代酒造や豊国製粉、豊国製菓などについても、管理委任の形をとった朝鮮人従業員への資産の引き継ぎは実現しなくなってしまった。
豊国製菓では、生産は朝鮮人従業員の手で引き続き行われていたが、接収された敵産の事業体、すなわち帰属会社を管理・監督する管理人が指名された。
豊国製菓と豊国製粉の最初の管理人は大洋産業社長の李鍾会で、斎藤久太郎が所有していた帰属会社6社の管理人に指名された。一方、工場での生産は、それまでの朝鮮人従業員が引き続き行っていた。
ところが、接収された工場などでは、管理人が売却可能な資産を勝手に処分して巨額の金を着服したり、本来軍政庁に報告すべき財産を隠匿して横流ししたりするなど、さまざまな不正が行われていたとされる。
1946年になると、軍政庁監察部による帰属財産をめぐる不正摘発が始まり、豊国製粉や豊国製菓もその対象となった。そればかりでなく、1947年1月には大韓独立促成全国労働総同盟(大韓労総)が李鍾会らを告発した。大韓労総は李承晩系の反共労働団体であり、不正告発の背景には、大洋産業の李鍾会と豊国の工場従業員との間における帰属会社の運営権をめぐる争いがあったようだ。
4月、豊国製粉への朝興銀行の融資資金を、李鍾会が自らの経営する別会社に流用したとして、横領罪で逮捕された。
李鍾会は後に無罪となるのだが、逮捕された時点で帰属会社の管理人を解任された。その後任として豊国製菓の管理人になったのは金炳文だった。金炳文は植民地統治時代からの従業員であり、同じく従業員だった鄭利亨が豊国製菓の代表となった。
一方、豊国製粉の方は大韓金融組合連合会(金連)の直営となった。金連は、植民地時代の農業金融機関であった朝鮮金融組合連合会(朝連)の後身で、日本人が所有していた精米・精麦工場などの帰属工場を引き継いでいた。豊国製粉もその中に組み込まれた。
1950年6月、朝鮮戦争が勃発した。ソウルは北朝鮮人民軍によって占領された。この占領下で、北側に連行された政治家や官僚、知識人、実業家らがいた。それらの人々の名簿が残されているが、その中に8月4日に連行された「菓子会社員 鄭利亨 50歳」の記載がある。これ以降の豊国製菓関係資料には、鄭利亨の名前は出てこない。
ソウルは1950年6月28日から9月28日まで、さらに1951年1月4日から3月14日までの2度にわたって北朝鮮人民軍に占領された。国連軍と韓国軍がソウルを再び奪還した後、前線は北緯38度線付近で膠着状態となった。1951年春以降、ソウルでは市電の運行が再開され、官庁も復旧し、工場の操業も再開された。
「敵産」として接収され、米軍政庁の管理下に置かれた日本の旧資産は、1948年の大韓民国建国後、「帰属財産」として韓国政府に引き継がれ、1949年に制定された「帰属財産処理法」に基づいて売却・払い下げが進められた。
豊国製菓は、1952年5月、解放前からの従業員であった裵東恒、金炳文、河興吉らに工場建物および設備一式が払い下げられた。その代表であった裵東恒が社長に就任した。しかし、翌1953年には、この払い下げの資金援助を行った李洋求を社長として迎え入れた。
李洋求は咸鏡南道咸州郡の出身で、咸興の製菓会社に入って頭角を現し、独立して資産を築いた。解放後はソウルに出て菓子販売業を営んでいた。朝鮮戦争時には釜山に避難したが、ソウルに戻ると豊国製菓に投資した。また、サムスンの創業者である李秉喆や裵東恒と共同出資して東洋製糖を設立した。
豊国製菓は、1955年5月に工場用地の払い下げも受け、1956年7月25日に東洋製菓工業株式会社となった。なお、「オリオン」の名称は創業当初からガムなどの商品ブランドとして使用されていた。
ここでは、日本の植民地支配下で斎藤久太郎が経営した豊国製菓が、今日のオリオンへとつながっていく過程をたどりながら、特に日本の敗戦によって日本人の資産が朝鮮の人々の手に渡っていく過程を追ってみた。敵産が帰属財産となり、それが払い下げられるまでの経緯は、決して単純なものではなかった。
東洋製菓工業は1974年にチョコパイの製造を始め、1986年に社名を東洋製菓株式会社と改称した。その後、2003年には、それまでブランド名として親しまれてきた「オリオン」を社名として採用している。
2000年公開の映画『JSA 共同警備区域』で、ソン・ガンホ演じる北朝鮮軍兵士オ・ギョンピルが食べるチョコパイは、メーカー名は映っていないが、韓国ではオリオンのチョコパイと理解されているようだ。
日本人の企業として始まった豊国製菓は、解放後の混乱と朝鮮戦争を乗り越え、韓国人の手による企業として再出発した。そして今日、その系譜を引くオリオンは韓国を代表する製菓会社となっている。豊国製菓からオリオンへの歩みは、植民地支配の終焉とともに進んだ韓国経済の再編過程を映し出すものとなっている。



