豊国製菓から自覚社へ――斎藤又吉という人物 | 一松書院のブログ

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 「豊国製菓から『チョコパイのオリオン』」へというブログを書いた。こちら
 

 豊国製菓は、清酒・金千代を出したりしていた京城の三坂通の斎藤久太郎の経営する会社。三坂通には、私の母方の祖父・原四郎が支配人を務めていた朝鮮農林の会社があったこともあり、斎藤久太郎の会社は以前から気になっていた。


 今回の資料には、斎藤久太郎の末の弟・又吉というのが出てきた。又吉が、兄・久太郎の資産の処理で、敵産として接収されることを回避しようとしたものの、結局うまくいかなかったという内容である。その結果、金千代の醸造工場や豊国製菓、豊国製粉は帰属資産の工場としての変遷をたどることになった。


 この斎藤又吉、どんな人物だったのか。
 植民地時代の京城で出ていた『朝鮮公論』の1927年(昭和2年)7月号に、「兄弟そろって有名な人々(一)」という記事が出ている。そのトップに「実業家斎藤久太郎氏と社会事業家斎藤又吉氏」として取り上げられている。

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長兄久太郎氏が商界の奇傑たることは、暫らく云はずもがなであるが、その風格を見ると、馬鹿か悧口か、ちょつと判断がつきかねる程につまり昼行灯といつていゝ程に、器の大きいことを思はせるが、末弟又吉氏に至つては、少しく変態ではないかと思はれるくらいに感激性に富んでゐる。
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大正十二年二月に知名の士を大勢ホテルに招待して、社会事業のために身命を抛たんことを声明した時に、多くの人は何が何やら判らなかった。
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穀物の貿易商として相当に繁昌してゐたその店の財産全部を社会に投げ出し…南大門通りに自覚社といふ妙な看板を掲げて、乞食の子供を大勢集めてみたり、簡易食堂や宿泊をやつてみたり…
 …
其後間もなく、彼の財産が競売に付されたことや、奥さんの衣類全部が入質されたことを聞いた。「斎藤さんは、とうとう往くところまで往きついたのだ。それは悲壮な、だが喜ばしいことだ」と思はれた。

 『朝鮮公論』は1913年に京城で創刊された朝鮮在住日本人社会向けの総合雑誌だった。斎藤兄弟については「昼行灯」とか「変態」とかと書かれているが、ややゴシップ記事風でもあり、そのまま事実として受け取ることはできない。

 

 14年後の1941年11月20日付の『京城日報』には、当時の「自覚社」の様子が次のように紹介されている。

その名も自覚社、辛酸二〇年救済事業の草分け
変わり種「刺し子屋」

 「親ヲ知ラザル者ハ大罪人」こんな看板が南大門外の電車通りに人目を惹き始めて二〇年近くの歳月が流れた。左には諺文で「迷ヘル人ニ道アリ、働ク人ニ職アリ、飢エタル人ニ食アリ」と、同じく時代の付いた看板が下がっている。柔剣道着を全鮮一手に引き受けて製造販売する斎藤又吉さん(六二)が主人だが、持前の人生観は一向に基督教や仏教の流れをくむものではないという。西田天香氏と親交を結ぶだけあって、今どきの商人には珍しい気魄と信念を持つ「街の変わり者」の一人である。
 この斎藤さんは、今を距る一九年前の大正十二年、現在の南大門市場一帯にあった自分の邸内の倉庫の一部を改造して「浮浪児収容所」を造り、百数十名の「街の天使」を収容して給食・授産の設備を整え、「自覚社」と名付けた。これは救済事業の草分けとなった。故斎藤総督が親しく視察したのもこの当時のことである。当時すでに新体制を唱え、物の配給と需給の調節、価格の規正に着眼したが意のごとくならず、ついに破産の憂き目に遭った。しかし斎藤さんは屈することなく、「国を中心に己を捧げれば食ひ損ひは無い」と確信を固め、国家への奉仕団体としての授産事業に没頭すること数年。半島婦人の屋内手工業の発達に寄与するところは大きかった。現在残された唯一の手工業が、「刺し子」の柔剣道着製造なのである。二〇年の時の流れは明るく新体制の黎明を呼び、再び斎藤さんの信念が、名物の看板とともに大きくクローズアップされてきた。(写真・斎藤さんと看板)

 

 この記事に出てくる西田天香とは、無所有・共同生活を理念とする「一燈園」の創始者である。宗教団体ではなく修養・社会奉仕運動として出発したが、仏教やキリスト教など諸宗教の影響を受けた独自の思想を展開した。清掃奉仕や托鉢による生活で知られ、戦前から戦後にかけて多くの支持者を集めた。斎藤又吉の「自覚社」にも、その勤労奉仕や社会救済の思想の影響がみられる。

 


 「自覚社」は単なる慈善事業ではなく、一燈園的な「自覚」「奉仕」「授産」「共同体」の思想を朝鮮で実践しようとした運動体だったと思われる。看板の文言も、行政機関や宗教施設というより、一燈園系の社会改良運動の雰囲気が濃厚に出ている。斎藤又吉を「変わり者」と評しているのも、『朝鮮公論』の記事とも通じるものがあり、斎藤又吉を「ある種の理想主義者」として見ていたからであろう。

 もう少し資料はないだろうかと、あまり期待はできないと思ったが、念のためGoogleのブックス検索で「斉藤又吉 自覚社」で検索をかけてみた。すると、

異境への往還から - 245 ページ
1981
.. 斉藤又吉という人、本人だった。自覚社というのを経営しているそうで、もともと商売をしているのですが、という。そこで宗教と思想に関係した事業をしていて、インドその他欧州とも連絡して出版物を出している。あの広告にあることは余程経験がおありです ...

という検索結果が表示された。


 この『異境への往還から』(JCA 出版, 1981)という本は、うちの書棚にある。著者の八木秋子は私の大叔母、母方の祖母の妹で、「あきおばさん」なのだ。

 

 早速本を開いた。
 八木秋子は、1960年7月13日の日記に、朝日新聞に1400円の大枚をはたいて2行の求職の広告を出したと書き記している。

 

文案 談筆編集校正婦健年60身確誠実北区神谷三ノ二 八木

 八木秋子は、木曽で生まれ、結婚後、小川未明と恋愛関係となり駆け落ちした。東京日日新聞の文芸記者として活動した後アナーキスト運動に参加し、治安維持法違反で検挙され服役した。出所して満州へ渡り、満鉄関係施設の寮母を務めた。ソ連侵攻後、満鉄最後の避難列車の世話役として乗車、帰国後は福祉施設などの寮母として働いていた。

 

 そんな中で、収入源を求めて出したこの求職広告だったが、朝刊に掲載されたその日の7月15日に連絡してきたのが斎藤又吉だった。その日のうちに電話で話をしている。そして、7月26日に北沢の自覚社に行って斎藤又吉と会っている。当時、八木秋子は満65歳だったが、60歳ということになっていた。

 斉藤氏は禿頭の精力的な人、朝鮮からの引き揚げ者で、商売とは木綿生地で何か仕立てる授産的な仕事。それを売るらしい。その収益で彼の思想、宗教を宣伝しようとしているらしい。「知見の思想により資本主義、共産主義思想を批判する」というパンフレットを出している。
 話は著しく抽象的、暗示的であり、戦前の精神運動に似ている。

   …
 この、やや教祖的な自己陶酔のふるい思想に、一つ協力してみよう。

 と自覚社で働く気になっていた。しかし、翌日斎藤又吉から断りの電報が来た。

電報が届いた、<ミアワス、アシカラズ> 笑うに笑えない、何もかもおしまい。

 ということで、斎藤又吉が、戦後も東京で「自覚社」を運営していたことはわかったが、それ以上の情報は得られなかった。

 こうしてみると、斎藤又吉という人物は、単なる実業家でも慈善家でもなかったように思われる。『朝鮮公論』が描いた感激家で理想主義的な人物像は、戦後に八木秋子が接した斎藤又吉の姿とも重なっている。

 日本統治下の朝鮮では、「自覚社」を通じて浮浪児の救済や授産事業に取り組み、破産を経験してもなお理想を語り続けた。戦後も東京で「自覚社」の看板を掲げ、自らの思想を広めようとしていた。現実の経済活動と社会改良運動、そして一種の精神運動が混然一体となった人物だったのであろう。

 今回は、豊国製菓からオリオンへという企業史を調べる過程で、敗戦後の帰属財産問題に行き着き、さらに斎藤又吉という一人の人物の足跡を追うことになった。そして最後には、思いもよらず大叔母・八木秋子の回想録にその名を見つけることになった。資料を追っていると、別々だと思っていた人や出来事が思いがけないところでつながることがある。資料探求の面白さは、案外こういう偶然の出会いの中にあるのかもしれない。

 もっとも、今回わかったのは、斎藤又吉が戦後も東京で「自覚社」を続けていたということまでである。その後の活動や晩年については、なお不明な点が多い。京城の街で「街の変わり者」と呼ばれた理想家が、その後どのような人生を送ったのか。もう少し追いかけてみたい人物が、また一人増えてしまった。

 

 


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