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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

映画「工作」の時代背景 

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 1988年のソウル・オリンピックに中国が参加し、朝鮮族の中国人と韓国人との接触が、少しずつではあるが行われるようになっていた1989年。まだ韓国は中国と国交がなかった。経済交流を名目に吉林省延辺朝鮮族自治州にやってきた韓国人に、現地の朝鮮族が朝鮮語で職業を尋ねた。「 무슨ムスン 공작을コンジャグル 하십니까ハシムニッカ? 」その延辺朝鮮語の質問を「韓国語」として聞けば、「どのような工作をされますか?」。その韓国人は顔色を変えて、「わが韓国で工作をするのは安企部アンギブだけです。私は違う!」と答えた。当時の延辺の朝鮮語は中国語の影響を受けており、「仕事」のことは中国語の「工作(コンツォ)」を朝鮮語読みにした「공작コンジャク」という単語を使っていた。何の仕事か尋ねられただけだったが、「工作」と言われて韓国人はびっくり仰天した。

 

 冷戦構造が大きく変化した1992年8月、韓国と中国は電撃的に国交を結んだ。北京には韓国の大使館が置かれ、韓国とビジネスをする中国の朝鮮族はソウル風の「韓国語」も巧みにあやつるようになり、延辺で韓国人が「どんな工作?」などと尋ねられることもなくなった。

 

 「工作するのは安企部だけ」と言われた安全企画部。その前身は韓国中央情報部。通称KCIAである。情報機関は、情報を収集・分析するだけでなく、現行の統治体制を擁護するため様々な裏面工作を行なってきた。

 

選挙と「北風」 

 全斗煥政権末期、民主化要求デモの高まりの中で「民主化宣言」が出され、5年任期一期だけの大統領を直接投票で選ぶ選挙が実施されることになった。この大統領選挙には、全斗煥大統領の後継者盧泰愚ノテウ候補と、野党候補として金大中候補、それに金泳三候補が立候補し、結果として得票数合計では野党側が上回ったものの与党の盧泰愚候補が当選した。

 

 1987年の民主化要求の学生・市民の運動の波が一つのうねりとはならなかったことが野党側の敗因ともされるが、実は、この選挙直前に投票を左右する大きな出来事が二つあった。

 

 大統領選挙の前哨戦が始まっていた10月28日、韓国外交部から、レバノンで行方がわからなくなっていた外交官救出の発表があった。1986年1月31日、ベイルートの韓国大使館に出勤途中で武装グループに誘拐された都在承書記官が11月3日に金浦空港に生還した。韓国政府がアメリカの情報機関OBに依頼して身代金を支払って救出したものだったが、全斗煥政権の手柄として宣伝された。だが、この時仲介者が建て替えた身代金の一部がいまだに未払いになっているという。

 

 ちなみに、今年9月に日本公開予定の映画「ランサム 非公式作戦」は、この都在承書記官救出作戦の実話をモチーフにして作られている。

 


中央こちら向きが帰国した都在承書記官

 

 さらに、もう一つ大事件が起きた。大韓航空機爆破事件である。11月29日、バグダッドからアブダビを経由してソウルに向かっていた大韓航空機がインド洋上空で消息を絶った。乗客・乗員は115名、乗客の多くは中東での派遣労働を終えて帰国する韓国人だった。翌々日、アブダビで飛行機を降りた日本旅券を所持する男女二人がバーレーンで拘束された。男は服毒自殺し、女は北朝鮮の工作員ではないかと疑われた。蜂谷真由美名義の日本旅券を持つその女は、12月15日に金浦キムポ空港に護送され、朦朧とした状態で両側を安企部の要員に支えられてタラップを降りる姿がテレビに映し出された。

 

 その翌日が大統領選挙の投票日はだった。当時はまだ「金賢姫キムヒョンヒ」という名前も身元の詳細も明らかになっていなかったにも関わらず、「大韓航空機を爆破した北朝鮮の女性工作員」というイメージが、有権者の投票行動に大きな影響を与え、盧泰愚候補に票が流れたといわれる。選挙において「北朝鮮」というものが有権者の投票行動に大きな影響を与えることが実証された。

 

 盧泰愚大統領の後任の大統領選挙は、1992年12月18日に行われた。11月の選挙の公示を前にした10月、朝鮮労働党幹部を中心とする大規模な北朝鮮スパイ網が摘発されたとの安企部の発表があった。

 

 

 この時の大統領選挙には、保守系の与党候補として金泳三が出馬し、野党候補として、金大中と現代ヒョンデ財閥の総帥鄭周永チョンジュヨンが立候補した。選挙戦直前のこのスパイ事件報道によって、北朝鮮に融和的だと見なされていた金大中や鄭周永から、保守系の金泳三に票が流れたとされ、金泳三が大統領に当選した。

 

 韓国で選挙の時期になると、北朝鮮が絡む大事件が起きて世論の風向きが変わり、それが投票行動に大きく影響することがあった。これは「北風」と呼ばれるようになった。

 

 1996年、翌年の大統領選挙の前哨戦にあたる国会議員選挙が行われた。4月11日の投票日を目前にした5日から7日にかけて、板門店パンムンジョム休戦会談場の北側警備区域に武装した北朝鮮兵士が断続的に侵入して、対戦車兵器や軽機関銃などを設置する軍事訓練を行なった。

 

 

 この当時、休戦会談場の共同警備区域の南側管轄区域の作戦統制権が国連軍から韓国軍に移管された。北朝鮮側はこれを、北朝鮮と中国義勇軍・国連軍の3者の間で結ばれた休戦協定に違反するものとして休戦会談を拒否した。韓国軍は休戦協定に署名していなかったからである。

 

 そうした状況もあったので、北朝鮮側の動きが韓国の選挙への介入のためだけとは断定できないが、選挙に大きな影響を及ぼす「北風」になったことは間違いない。その結果、この選挙で苦戦が予想されていた保守系与党「新韓国シンハングック党」が勝利した。金大中の野党「国民会議クンミンフェウィ」は、強いとされていたソウル市でも敗北を喫し、全国区で立候補した金大中自身も落選するという惨敗となった。

 

 1997年の大統領選挙は、韓国経済が破綻の危機を迎えたアジア通貨危機の中で行なわれた。この選挙で4度目の挑戦となった第一野党国民会議の金大中候補については、金大中と北朝鮮との関係を「暴露」する動きもあった。しかし、結果的には金大中候補が、与党ハンナラ党の李会昌イフェチャン候補、国民新党の李仁済イインジェ候補を押さえて当選を果たした。大韓民国建国以後初めて選挙によって与野党間の政権交代が実現した。

 

黒金星のモデル朴采緖 

 南北朝鮮の接触は、1984年9月の漢江ハンガンの水害時に北朝鮮からの援助物資が届き、赤十字会談や経済会談が開かれ離散家族の再会が実現したが、本格的な南北交流が始まったのは盧泰愚政権の時であった。1988年に、韓国政府は民間企業の北朝鮮との経済貿易活動を許可し、それ以来、10年間に400人近くの韓国企業家が北朝鮮を訪れていた。また、1992年には韓国は中国と外交関係を樹立するなどして国際関係も大きく変化した。中国の朝鮮族を通した北朝鮮とのパイプも太くなっていた。そうした中で、南北ともに様々な「工作」を行なっていたのである。

 

 実は映画「工作—黒金星と呼ばれた男」は、実際に安全企画部の対北朝鮮工作員だった朴采緖パクチェソの活動を下敷きにして脚本が作られた。朴采緖は、金大中が当選した1997年の大統領選挙について、韓国の一部の勢力が北朝鮮を動かして選挙結果に影響を及ぼそうとした事実を暴露した。保守勢力が「北風」を吹かせようと「工作」したというのである。

 

 『時事ジャーナル』440号(1998年4月2日)に掲載されたキム・ダン記者の「[黒金星独占インタビュー]言論は小説を書いている」で、その「特殊工作」の内実が明らかにされた。

 

 

 黒金星の正体が明かされ、「工作」の内実を暴露したことで、朴采緖は1998年に安全企画部を解雇された。その後、北朝鮮との広告事業に関与し、2005年には上海で撮影されたイ・ヒョリと北朝鮮のチョ・ミョンエが共演する携帯電話のAnycallのコマーシャルの制作にも関わった。

 

 

 しかし、2010年に二重スパイ行為があったとして、国家保安法違反の容疑で逮捕された。懲役6年を宣告され、2016年まで服役した。

 


 黒金星=朴采緖の活動内容については、北朝鮮側からの情報が公開されるなどしてその真偽が検証できる時代までは、全てを事実として鵜呑みにすることはできない。なかったことをあったといい、あったことをなかったといい、その裏付け文書を偽造して発表するのが「工作」だからだ…。

 

 この映画で描かれたこともどこまでが事実なのか、今の時点でそれを容易く判断することはできない。ただ、韓国の現代史に照らしてみると、興味深い韓国社会の動きや南北関係の複雑さが垣間見えてくる。

 朴正煕パクチョンヒ大統領と車智澈チャジチョル警護室長を殺害した金載圭キムジェギュは、1980年5月24日にソウル拘置所(現:西大門ソデムン刑務所歴史館)で絞首刑に処せられた。

処刑場に向かう金載圭

 

 12・12クーデターで、反乱軍に逮捕された陸軍参謀総長鄭昇和チョンスンファは、クーデター後の軍法会議で懲役7年の刑が宣告され、大将から二等兵に降格されて予備役に編入された。

 1981年に特赦で懲役刑の執行が停止され、1987年には階級を大将に戻された。

 1997年になって、再審請求で無罪判決が出て名誉回復がなされた。

 

 2002年6月12日逝去。

1980年に裁判をうける鄭昇和

 

 首都警備司令官張泰玩チャンテワンは予備役に編入された後、2年間自宅軟禁となった。

 その間に父親が絶食して憤死。息子はソウル大学に入学したが在学中に行方不明となり、山中で遺体が発見された。自殺とされた

 その後、張泰玩は国会議員となり、在郷軍人会の会長などを務めた。

 

 2010年7月26日逝去。その2年後、妻が遺書を残して自殺。

 

 保安司令官全斗煥チョンドゥファンは、1980年5月に非常戒厳令を全国に拡大させ、光州クァンジュでの民主化要求運動を戒厳軍部隊を投入して武力で弾圧した(光州事件)。

 8月の崔圭夏チェギュハ大統領辞任に伴って統一主体国民会議において大統領に選出され、9月1日に大統領に就任。1988年2月に大統領を退任したが、私財蓄積などへの激しい批判で、一時期江原道カンウォンド百潭寺ペクタムサに蟄居した。

 

 第9師団長盧泰愚ノテウは、張泰玩の後任として首都警備司令官に就任。退役後は民正党ミンジョンダンの代表委員となって1987年6月に、いわゆる「民主化宣言」を出した。1987年の直接選挙による大統領選挙で当選し、1988年から1993年まで大統領を務めた。

 

 1993年2月、金泳三キムヨンサムが大統領に就任した。30数年間続いた退役軍人による政権が終わり、「文民」による政権が誕生すると、「ハナ会」のメンバーの昇級・指揮官登用を抑制して解体に着手した。こうして「ハナ会」は消滅した。

 

 1995年12月、全斗煥と盧泰愚の二人の大統領経験者が内乱罪で拘束され、1996年8月に12・12クーデター、光州事件の責任を問われて全斗煥に死刑、盧泰愚に懲役17年の判決が下された。

手をつなぐ二人の大統領経験者

歴史的な12・12及び5・18事件の一審宣告公判が開かれた26日午前、ソウル瑞草洞のソウル地方裁判所417号法廷に立つ全斗煥、盧泰愚。2人の大統領経験者は、当惑した表情で手をつないでいる。(新聞写真共同取材団)

 

 しかし、1997年12月、次期大統領として当選していた金大中の指示によって二人とも特赦で刑の執行が停止された。1998年2月の金大中大統領就任式では、元大統領として全斗煥・盧泰愚の二人も壇上に上がった。

 

 盧泰愚は、2021年10月に死去。元大統領として国家葬が執り行なわれた。2021年12月9日に北朝鮮に近い坡州パジュのトンファ敬慕公園に埋葬された。

 

 全斗煥は、2013年に「公務員犯罪没収特別法(全斗煥追徴法)」が成立して全斗煥の不正蓄財に対する強制捜査が行われ、この年9月に追徴金の未納分1672億ウォンを支払うことを表明した。この過程で、全斗煥は、記憶喪失やアルツハイマー病を理由に裁判への出廷を拒否してきた。しかし、関係団体の行事への出席やゴルフ場でのプレーが目撃されるなど、仮病ではないかとの懐疑的な目が向けられた。

 

 2017年には自身の回顧録を出版し、その中の光州事件に関する記述が市民・学生の犠牲者の名誉を毀損するものとして問題となった。

 

 

 光州地方裁判所は、回顧録の発売を禁止する仮処分を下し、2019年3月11日に裁判所は全斗煥に強制出頭命令を出した。全斗煥は光州地裁に出廷したが、報道陣や周辺に集まった市民に謝罪の発言をすることはなかった。


 2020年11月30日、光州地裁は全斗煥に対し懲役8ヵ月、執行猶予2年の判決を言い渡したが、全斗煥側は控訴。2021年8月9日の控訴審で全斗煥は呼吸困難となって入院した。盧泰愚のあとを追うように2021年11月に死去。

 

 葬儀は、大統領経験者としては異例の家族葬となった。火葬された遺骨はいまだに埋葬場所が決められず自宅に置かれている。

 


 


映画「ソウルの春」(1)— KBS「映像実録」(1995.10.4放送)
映画「ソウルの春」(2)ー 12・12新聞報道
映画「ソウルの春」(3)ー 12・12の背景
映画「ソウルの春」(4)ー 12・12攻防の現場
映画「ソウルの春」こぼれ話(1)

映画「ソウルの春」ー 12・12その後
 

  • 「ソウルの春」
  • 全斗煥の十八番おはこ
  • 令夫人 李順子女史

「ソウルの春」 

 朴正煕パクチョンヒ大統領の殺害から12・12クーデターまでを「ソウルの春」と呼んだのは、日本のマスコミだった。1979年の12・12のクーデターが起きた後の12月14日の『朝日新聞』と『毎日新聞』がヘッドラインに「ソウルの春」と書いた。

 

 

 『読売新聞』は、「ニューズウイーク」の金大中キムデジュンへのインタビューを紹介する記事のヘッドラインに「ソウルの春はまだ…」と書いている。だが、記事の中で金大中は「ソウルの春」とは言っていない。

 

 

 「プラハの春」の連想から「ソウルの春」という言葉を用いたとされるが、この時期のソウル特派員は、藤高明(朝日新聞)、嶋元謙郎(読売新聞)、重村智計(毎日新聞)、林憲一郎(共同通信)など。ただ、「ソウルの春」という呼び方はソウル支局ではなく東京のデスクなどの発案だったのではないか。韓国では、朴正煕政権が倒れたからといって簡単に「春」が来るとは思っていなかったし、そのような言い方は見られない。12月段階では、自国の状況を東欧の民主化運動に結びつけるような発想もなかった。

 

 韓国で「ソウルの春」が使われるようになるのは、翌1980年2月のこの写真が掲載された頃からであろう。いわゆる「三金時代」の幕開けである。

 

1980年2月25日、東亜日報のパーティで 金泳三キムヨンサム・金大中・金鍾泌キムジョンピル
 
 岩波書店の雑誌『世界』に連載されていたT・K生(池明観チミョングァン)の「韓国からの通信」で「ソウルの春」が使われるのが1980年3月号。


 韓国の新聞では、1980年4月8日付の『朝鮮日報』に新民党総裁金泳三の発言として、

金総裁は、「今日のこの常任委員会は3,700万国民が注視する意味深い大会」と強調し、「新民党は歴史の主体であり、ソウルの春は必ず我々の力で勝ち取ることを誓う」と語った。

と使われているのが、早い時点での使用例であろう。

 

 12・12クーデターは、むしろ「ソウルの春」の前夜の出来事であり、三金時代を経て1980年5月の光州クァンジュでの戒厳軍による市民・学生の虐殺(光州事件)に至るまでの時期が「ソウルの春」だった。武力によって無慈悲に圧殺された「光州の春」、そして「ソウルの春」を終わらせることになった発端となったのが、全斗煥によるこの「反乱」だった。

 

全斗煥の十八番おはこ 

 12・12クーデターの後、12月14日に昭格洞ソギョクドンの保安司令部でクーデターの成功を祝うパーティが開かれた。この時、全斗煥のクーデター軍側についた将校が司令部前で記念撮影をした。

 

 

 昭格洞の保安司令部は、景福宮キョンボックンの東側、国立現代美術館ソウル館の場所にあった。

 

 

 さらに、翌1980年の1月23日には保安司令部の「慰労パーティ」が開かれた。夫人同伴でTBC(東洋放送トヤンバンソン)所属のタレントが集められていた。

 その様子を写した動画を「光州KBS 5.18 40周年アーカイブ・プロジェクト」が入手してYoutubeにアップしている。ただ、元動画は音声が小さいので一松のサイトに修正・移植した↓↓↓。

 

 

 ここで全斗煥は「방랑시인 김삿갓(放浪詩人キム・サッカ)」を歌っている(55秒から)。この歌は、全斗煥のシッパルボン(十八番)として知る人ぞ知る曲だった。映画「ソウルの春」ではファン・ジョンミンが祝勝会で歌っている。


 この「放浪詩人キム・サッカ」は、1955年に明国煥ミョングッカンのレコードが出たのだが、しばらくすると、これは吉田正が作曲して宇都美清が歌った「浅太郎月夜」(1953)の剽窃ではないかと韓国の音楽界で問題視された。確かによく似ている…。

 

 

 結局、この曲は1979年3月に放送・公演禁止曲に指定された。

 

 

 禁止措置が解除されるのは、全斗煥退陣後の1987年なので、全斗煥は、放送・公演禁止曲を十八番おはこにしていたことになる。

 

 中曽根康弘は、首相就任後の初の外遊で1983年1月にソウルを訪問した。この時の公式晩餐会後の二次会で中曽根は韓国語で「노란 샤쓰의 사나이(黄色いシャツ)」を歌った。この席でも全斗煥は「金笠」、すなわち「방랑시인 김삿갓(放浪詩人キム・サッカ)」を歌ったと報じられている。

 

 

 中曽根康弘が「노란 샤쓰의 사나이(黄色いシャツ)」を歌った話はこちら

 

令夫人 李順子女史 

 映画「ソウルの春」には、セリフが二つしかないにもかかわらず、存在感のある女性が登場する。

여보~ 노태건 장군 오셨어요.
여보~ 저녁식사 안 하세요?

 上掲の「慰労パーティ」の冒頭部分と最終盤に登場して歓談する全斗煥夫人の李順子イスンジャをモデルにした女性。演じだのは女優のキム・オクジュ。

 

 

 1980年代のテレビニュースは「땡전 뉴스(テンジョン・ニュース)」と揶揄された。時報が鳴って始まるニュースは、「チョン・ドゥファン大統領は…」と毎回始まるので、「時報(テン)+全(ジョン)」ニュースと言われたのだ。

 

 

 さらに、大統領閣下(カッカ)の動静に続いて、大統領令夫人李順子女史(ヨサ)の動静が伝えられた。1974年の文世光事件で朴正煕大統領夫人の陸英修ユギョンスが亡くなってから、長くファーストレディが不在となっていたことも手伝って、李順子への注目度は高かった。そして、それに見合う派手さがあった。

 ハクサ(学士)の上にソクサ(修士)、ソクサの上にバクサ(博士)、バクサの上にユクサ(陸士)、ユクサの上にポアンサ(保安司)、ポアンサの上にヨサ(女史)!

という戯れ言が流行った。

 

 映画「ソウルの春」には、女性は、料亭のマダムとキーセンのアガシ、それにイ・テシンの妻やチョン・ドゥグァンの妻くらいしか出てこない。その中で、チョン・ドゥグァンの妻のシーンは、あの時代を知っている人には非常にインパクトのある場面なのである。