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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

ベルリン・オリンピックで前畑秀子が金メダルを獲得した女子200メートル平泳ぎのラジオ中継は、いまでも語り草になっている。
「前畑、ガンバレ、ガンバレ」「勝った、勝った、勝った」という河西三省アナウンサーの実況は、映像のない時代に、声だけで競技場の熱気を伝えた、スポーツ放送史に残る名実況とされている。
 

その実況音声は、いまでもYouTubeなどで聴くことができる。この音声が残った背景には、ベルリンから日本へのラジオ中継が可能になっていたこと、それを録音してみようと考えた技術者がいたこと、さらに、その録音が思いがけず市販されることになったことなど、いくつもの偶然が重なっていた。
 

では、その二日前、ベルリン時間8月9日に行われた男子マラソンはどうだったのだろうか。
孫基禎ソンキジョンが優勝し、南昇龍ナムスンニョンが3位に入ったあのマラソンもラジオで中継されていた。そして、その音声も残っている。

◆ベルリンから届いたオリンピック放送

ベルリン・オリンピックを前に、ドイツはツェーゼンの短波送信施設を大幅に増強した。40キロワット級の短波送信機8基を新設するとともに、世界各地に向けた指向性アンテナ設備も拡充した。

 

日本では、日本放送協会(JOAK)がオリンピック関連のラジオ放送を行うことになり、夜10時45分から午前0時までと、朝6時30分から7時までの1日2回、放送された。

 

『朝日新聞』より

 

このオリンピック放送は、東京のJOAKと専用回線で結ばれていた京城中央放送局(JODK)でも、日本語の第一放送で同じ時間帯に連日放送されていた。

ただし、ベルリンと日本・朝鮮のあいだには8時間の時差があり、日本向けの放送時間も限られていた。したがって、競技を最初から最後まで生中継できるケースは多くはなかった。

 

そのなかで、現地時間の午後3時から4時ごろに行われる比較的短時間の競技なら、生中継が可能だった。

その一つが、8月11日の女子200メートル平泳ぎ決勝である。

ところが、この日は競技の進行が15分ほど遅れ、レース開始が日本の放送終了予定時刻である午前0時に間に合わなくなった。実況を担当していた河西三省アナウンサーは、午後11時57分ごろ、「あと二、三分でスタートします。切らないでください」と叫んだ。

放送は午前0時を過ぎても続けられ、0時3分ごろ、「勝った、勝った、勝った」と叫ぶ河西の声がラジオから流れた。そして、まもなく放送は終了した。

 

こうした例を除けば、多くの競技では、現地で実況を録音・編集し、日本向けの放送時間に合わせてベルリンから短波で送信し、それを東京で受信して中波で放送するという方式がとられた。

東京で受信した放送は、専用回線で京城へも送られ、貞洞の京城中央放送局から日本語の第一放送で流された。

 

沢井理恵の著書『母の「京城」・私のソウル』には、京城での生活を振り返って、次のような記述がある。

ラジオは茶の間にあって、しょっちゅう聞いていたわ。ベルリン・オリンピック(1936〈昭和11年〉)の『前畑、がんばれ」もラジオの生放送で聞いたのよ。

ベルリンからのオリンピック放送は、京城でも日常のラジオ放送として聴かれていたのである。

◆東亜日報が組んだ深夜の速報体制

マラソンは8月9日、現地時間午後3時、日本・朝鮮時間午後11時のスタート予定だった。
 

競技時間とラジオ放送について、『東亜日報』は競技当日の朝刊で次のように報じている。


マラソン時間(括弧内はベルリン時間)
9日午後11時(午後3時)
出発。到着は10日午前1時半前後
(9日午後5時半前後)
◇放送
9日午後11時から12時まで、現場から放送。
また10日午前6時半から7時までは、マラソン実況の現場放送をレコード録音したものを放送。

さらに、この日の夕刊には、次のような予告が掲載された。

本社運動部では、10日未明1時半(朝鮮時間)ごろにゴールするわれら両選手をはじめ、世界各国の選手たちの結果をいち早く受け取り、未明から3時ごろまで、眠らずに待っている一般のファンのため、自動車や自転車を利用して各地に速報することとし、京城市内でも便宜上、光化門通の本社前、鐘路四つ角の大昌洋靴店前、中学洞の崔学基運動具店で速報することになった。

光化門交差点横の東亜日報社(現在の一民イルミン美術館)、鍾路の大昌テチャン洋靴店、そして中学洞の崔学基チェハッキ運動具店の3か所が速報場所とされた。
大昌洋靴店は旧和信百貨店の東隣、崔学基運動具店は現在、日本大使館が入るツインツリータワーのB棟東端付近にあった。

 

 

8月9日夜、ベルリンでのマラソン開始を前に、光化門通の東亜日報社貴賓室には、新聞社の幹部、記者、職員だけでなく、朝鮮体育会会長の尹致昊ユンチホ養正ヤンジョン高等普通学校の安鍾元アンジョンウォン校長、教務主任の徐鳳勲ソボンフン、ロサンジェルス五輪マラソン代表だった金恩培キムウンベらが陣取っていた。

◆スタートはラジオで生中継

マラソンは日本・朝鮮時間の午後11時すぎにスタートした。
 

ちょうど日本向けのオリンピック放送時間にあたっていたため、スタートと競技場内の様子はベルリンから生中継された。
翌8月10日発行の『東亜日報』夕刊は、スタート時のラジオ放送を次のように要約している。

オリンピック最大の呼び物であるマラソンには、数万人の大観衆が熱狂する中、9日午後11時1分(ドイツ時間9日午後3時1分)、競技場内400メートル・トラックのスタートラインから56名の選手が一斉に出発した。
選手は三列に並び、わが孫基禎、南昇龍の両選手はエルポとともにゆったりとしたスタートを切った。
競技場内を350メートル走り、マラソン門をくぐって競技場の外へ出ると、スタジアム南側へ向かい、再びマラソン塔の前を経て競技場内へ戻り、さらにトラックを300メートル走ってからオリンピック塔へ向かい、市街地へと姿を消した。
この時、孫基禎は31番目、エルポは44番目、南昇龍は最後尾近くという順で競技場を離れ、やがて街路の彼方へと消えていった。

しかし、コース上を移動しながら中継することはできなかった。
選手が競技場を離れるとマラソン中継はいったん終了し、その後は400メートルリレー、女子走り高跳び、水泳100メートル自由形決勝などが放送された。
 

マラソンのゴールは、日本・朝鮮時間では翌10日午前1時半前後と予想されていた。しかし、この時間帯には日本向けのラジオ放送はなかった。
次のオリンピック放送は午前6時30分からである。
そのため、ラジオでゴール実況を聴くより先に、結果は通信社の速報によって伝えられることになっていた。

 

マラソンの結果を待つ東亜日報貴賓室(8月10日午前1時)東亜日報号外第2報より

◆ゴールの結果は「至急電報」で届いた

3着の南昇龍がゴールしたところで、同盟通信のベルリン特派員はメインスタジアムから、

1着 孫基禎 2時間29分19秒2

2着 ハーパー 2時間31分23秒2

3着 南昇龍 2時間31分42秒

という結果を「至急電報」で発信した。
 

これを受けた東京の同盟通信本社では、「同報電話」が設置されている新聞社には電話口で読み上げ、それ以外の加盟社には謄写版を作って配達した。
 

当時、京城の同盟通信京城支局は、明治町1丁目55番地の旧電通支局に置かれていた。
 

この年6月、同盟通信が電通のニュース報道部門を吸収し、京城の同盟通信支局は電通京城支局に移り、電信回線は電通の専用線をそのまま引き継いでいた。その回線を通じて、マラソンの「至急電報」も東京から京城へ送られてきた。
同盟通信の配信記事は、京城府内では若い配達員が自転車で各新聞社や放送局へ届けていた。この真夜中の至急電報も、到着後すぐに配達されたのであろう。
 

雑誌『三千里』1936年11月号で、東亜日報編集局長だった薛義植ソルウィシクが、
「(孫基禎の)快勝の第一報を聞いたのは新聞社で、電報でした」
と語っているのは、この同盟通信の速報を指していると考えられる。
 

時刻は午前2時少し前。
結果を知った東亜日報社の貴賓室では大歓声が上がった。

 

このとき、光化門交差点には速報を待つ人々が集まっていた。その人々にも知らせるため、東亜日報社2階の窓から、まず「勝った」と第一声が発せられ、続いて、
「孫基禎君、オリンピック新記録で優勝!」
「南昇龍君、第三位入賞!」
と結果が伝えられた。
 

集まった人々からは、「孫基禎君、マンセー!」「朝鮮、マンセー!」、さらには「東亜日報、マンセー!」という声まで上がったという。

 

東亜日報社前でマラソンの結果を聞く人々(8月10日午前2時過ぎ)東亜日報号外第2報より

 

同時に、大昌洋靴店と崔学基運動具店にも、マラソンの結果を大書した貼り紙を持った東亜日報の配達員が自転車で走った。

 

大昌洋靴店前でマラソンの速報を見る人々 東亜日報号外第2報より

◆翌朝、ゴール実況がラジオで流れる

ラジオのオリンピック放送は、10日午前6時30分から始まった。
すでに多くの人々が新聞の号外などで結果を知っていたが、今度はベルリンで録音されたゴール場面の実況放送に耳を傾けた。
 

このラジオ放送の一部が、SPレコードとして残されている。
実況を担当した山本照アナウンサーは、孫基禎のゴールを次のように伝えた。

やがて、そん選手に栄光あるか、一万余のドイツ青年団協助員、ただ今までフィールドにマスゲームを展開しておりましたが、ただいま、いずれも腰を下ろしまして、こうしてマラソンの来着、我が孫君を待ち構えております。

ついに拍手が起こっております。万場に拍手が起こっております。(拍手の音)

孫君、ついに1着! 孫君ついに1着! 孫君、やがてテープを切ります。孫君、マラソン門の中に現れました。ついに孫君は1着であります。マラソン、堂々、やがて孫君テープを切ります。孫君はついに1等であります。孫、1着! 孫、1着! 孫、1着! あと50メーターでテープを切ります。あと40メーター、30メーター、20メーター、10メーター。孫君ついにテープを切りました!

堂々、わが日本はマラソンに優勝いたしました。堂々、我が日本はマラソンに優勝いたしました。我が放送陣、また割れんばかりの万歳であります。我が日本は、ついに苦節20数年にいたしまして、堂々、今孫君によりまして、マラソンのテープは切って落とされたのであります。この十数万の観衆の拍手をお聞き願います。日章旗よ、メインマストに高々と揚がれ。日章旗よ、メインマストに高々と揚がれ。ついに我がマラソン、孫君によりまして、堂々優勝いたしました。続いて南が来るかあるいはイギリスが来るか。

ただいま第2位が入ってきました。ハーパーであります。イギリスのハーパーが到着しました。イギリスのハーパー、マラソン門を通過し、ぐんぐんぐんぐんホームストレッチに入りまして駆けております。

ついに第2位はイギリスのハーパーであります。第2位はイギリスのハーパーであります。ハーパーやがて40メーター……

続いて、やや100メートル遅れまして、なんが入ってきました。100メーター遅れましたが、南が入ってきました。また日本万歳、万雷の拍手であります。南選手が入ってきました。わずかに百2〜30メーター遅れまして、南選手は3着であります。

さらに放送終了間際、7時直前には、優勝した孫基禎本人の肉声も流された。

〈山本照〉最初は孫選手であります。

〈孫基禎〉皆さんが期待しておったマラソンを正々堂々と戦いまして、強敵アルゼンチンのサバラを圧倒的に倒しまして、優勝することになりましたのも皆様のおかげだと存じております。簡単ながらこれを持ってご挨拶と申します。

ここまではSPレコードに音声が残っている。
 

このあと、ラジオでは南昇龍のメッセージも放送されたが、SPレコードには収録時間の関係で肉声が残されていない。
ただし、ラジオ放送を朝鮮語に訳して文字化した『東亜日報』の記事から、その内容を知ることができる。

孫君とともに力を尽くし、正々堂々と戦って、このような好成績を収めることができたのは、ひとえに故国同胞の皆様の切なるご声援のおかげです。祖国へ帰りましたら、改めてご報告申し上げたいと思います。本日はこれにて失礼いたします。故国はいまごろ真夜中でしょうが、このように放送することになり恐縮しております。それでは、皆様お元気で。

◆残された「マラソン優勝実況」のSPレコード

このベルリン・オリンピックのマラソン実況の音声は、ほとんど知られていないが、

「第11回國際オリムピック大會 マラソン優勝実況(1)」
(ポリドール 15313-A、2分53秒)
「第11回國際オリムピック大會 マラソン優勝実況(2)」
(ポリドール 15313-B、2分37秒)

としてSPレコードに残されている。

 

一方、よく知られている女子200メートル平泳ぎ決勝の実況音声も、同じポリドールが市販したSPレコードによって残されたものである。
 

当時、日本放送協会自身はベルリンからの生中継を録音していなかった。
ところが、ポリドール系列のコロナ・レコードにいた録音技師・湯地富雄が、同僚の須藤重三郎の提案を受け、このラジオ実況を試験的に録音していた。
中波の放送を録音機で録音したところ、8月11日の女子200メートル平泳ぎ決勝で、河西三省アナウンサーの「前畑、ガンバレ」という絶叫と、前畑秀子が優勝した瞬間の録音に成功したのである。
しかし、これは日本放送協会に無断で録音したものだったため、そのまま市販することはできなかった。
ところが、日本放送協会には「あの中継をもう一度聞きたい」という要望が多数寄せられた。そこで、レコードに「日本放送協会著作権所有」と明示することを条件に、ポリドールによる販売が認められた。
こうして発売されたSPレコードは、11万枚を売る異例の大ヒットとなった。
 

湯地富雄は、著書『録音秘話 「前畑ガンバレ」と私』のなかで、マラソンについてもゴール場面を狙って録音したと回想している。

◆15313はどこで録音されたのか

ところが、市販された「マラソン優勝実況」のSPレコードをよく見ると、「前畑ガンバレ」のレコードとはレーベルの記載内容が少し違う。

まず、「日本放送協会著作権所有」という表示がない。むしろ、「伯林にて吹込」と記されている。さらに、レコード番号も15313で、前畑の女子200メートル平泳ぎ実況の8516とは、まったく別系統の番号が付けられている。

 

 

8516の女子200メートル平泳ぎ決勝、8517・8518の800メートルリレー決勝と1500メートル自由形決勝の水泳実況は、湯地と須藤が東京で中波ラジオ放送を直接録音したものだった。

湯地の回想によれば、マラソンについてもゴール場面を狙って録音している。しかし、その録音は、少なくとも8516番台の系列では商品化されなかった。音質あるいは内容が、市販用として十分ではなかったのかもしれない。

一方、15000番台は、もともと洋楽など海外原盤を扱う系列に使われていた。
しかも、オリンピック期間中のベルリンでは、ドイツ側の機材を使って実況の録音・編集と中継送信が行われていた。
つまり、8月10日午前6時30分から日本・朝鮮で放送されたマラソン実況については、少なくとも放送に使用された録音盤がベルリン側に存在していたことになる。

 

「伯林にて吹込」というレーベル表示と、15000番台というレコード番号を考え合わせると、市販された15313の「マラソン優勝実況」は、湯地らが東京で中波放送を録音したものではなく、ベルリンで作られた録音をポリドールが入手して発売したものと見るのが自然だろう。
ちなみに、その一つ前の15312は、河西三省による「開会式実況」である。

◆音声から活字、写真、映像へ  

こうして1936年8月9日から10日にかけて、京城の人々は、まずラジオでマラソンのスタートを聞き、深夜には通信社から届いた速報で孫基禎の優勝と南昇龍の3位を知った。そして翌朝には、ベルリンで録音されたゴール実況と、孫基禎、南昇龍の肉声をラジオで聞いた。
最初にベルリンから届いたのは、音声と文字だった。
 

その後、写真が電送され、さらにニュース映画が京城で上映されるようになる。人々は、孫基禎と南昇龍がベルリンで走り、ゴールし、表彰台に立つ姿を実際に目で見ることになった。
 

音声だけを聞いていた時には、「孫基禎が勝った」という事実が何より大きかった。しかし、写真や映像になると、そこには胸の日章旗があり、表彰式では君が代が流れ、日の丸が掲げられている。孫基禎の勝利が「日本の勝利」として示されていることも、否応なく目に入ってくるようになった。
 

ベルリンから届く情報が、音声から写真、映像へと変わるにつれて、孫基禎の勝利を朝鮮の人々がどう受け止めるのかという問題も、よりはっきりした形をとるようになったのである。
 

マラソンのラジオ中継から始まったベルリンからの情報は、二週間後、写真の上から日章旗を消すという行為にまでつながっていくことになる。

 

 


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◆ベルリンから届いた写真

 ベルリン・オリンピックのマラソン競技は、ベルリン現地時間1936年8月9日午後3時にスタートした。日本と朝鮮では、同日午後11時である。

 日付が変わって孫基禎ソンキジョンがトップでゴールし、その結果はただちに世界各地へ配信された。しかし、日本や朝鮮では、8月10日の朝刊には間に合わなかった。『東亜日報』は8月10日に号外を発行し、孫基禎の金メダルと南昇龍ナムスンニョンの銅メダル獲得を速報した。ただし、この時点では、マラソン競技当日の写真は届いていなかった。競技から3日後の8月13日付紙面で、初めて表彰台に立つ孫基禎と南昇龍の写真を掲載した。



【図1】東亜日報1936年8月13日付

 当時、呂運亨ヨウニョンが社長を務めていた『朝鮮中央日報』も、同じ8月13日付紙面にこの写真を掲載した。一方、『京城日報』は8月12日に「孫選手マラソン門を入る」、『朝鮮日報』は8月15日にゴール場面の写真を掲載したが、表彰台の写真は掲載していない。

 ベルリン・オリンピック開幕を半年後に控えた1936年3月、日独両政府は短波無線による国際写真電送について合意し、ベルリンと東京に自国製の写真電送装置を設置した。写真の取材・電送・国内配信は同盟通信が担当した。これにより、ベルリンで撮影された写真を翌日の東京の新聞に掲載することが可能となった。

 その後、『東亜日報』は8月24日発行の夕刊に、再び表彰台上の孫基禎の写真を掲載した。この夕刊に掲載された写真は、前日の8月23日付『大阪朝日新聞』南鮮版に掲載された写真を転載したものである。『大阪朝日新聞』の写真は、朝日新聞名古屋支社写真課長・佐々木信暲がベルリンで撮影した写真原板を、航空機と列車によるリレー輸送で日本へ運んだもので、無線写真とは比較にならないほど鮮明だった。
 この鮮明な写真が、後の日章旗抹消事件の直接の素材となる。

 『大阪朝日新聞』南鮮版と『東亜日報』の写真を比べると、構図だけでなく、上下2枚の写真のつなぎ目や×印の位置まで一致している。『東亜日報』が新聞紙面そのものを複写・転載したことがわかる。当時は、印刷写真をレタッチしたうえで再撮影し、新しい写真版を作る方法が一般的だった。

【図2】大阪朝日新聞南鮮版と東亜日報掲載予定だった写真

 この複製写真では、孫基禎の胸から日章旗が消されていた。これが、警察文書で「東亜日報掲載の孫基禎写真中国旗表章抹消に関する件」とされた事件である。

 

 もっとも、この夕刊は事前検閲によって差押え処分となり、実際には読者の手に渡ることはなかった。

◆オリンピック実況映画の入手と上映計画

 『東亜日報』は、なぜ8月24日発行予定の夕刊に、あらためて表彰台上の孫基禎の写真を転載したのであろうか。そして、その写真の胸の日章旗は、なぜ抹消されたのであろうか。

 これまで、この事件は植民地支配に対する朝鮮民族の抵抗の象徴として説明されてきた。ベルリン・オリンピックで金メダルを獲得した孫基禎が「日本人選手」として扱われることへの抗議であり、『東亜日報』編集局の民族意識の表れであったと理解されている。

 

 その理解は間違っていない。

 

 しかし、それだけでは、なぜ8月24日の夕刊で、あらためて表彰台の写真が掲載され、その時点で日章旗が抹消されたのかという具体的な経過までは説明できない。

 『東亜日報』が『大阪朝日新聞』の写真を転載したのは、8月24日(月)発行予定の夕刊であった。

 写真転載の理由は、前々日から紙面に掲載されていた一つの「社告」にあった。


【図3】8月22・23日夕刊掲載社告

 社告には、「大会の全編実況映画を空輸によって入手した」とあり、近く読者を対象とした無料上映会を開くことだけが予告されていた。上映日時や会場は、まだ公表されていない。

 1936年ベルリン・オリンピックでは、写真だけでなく実況映画フィルムが航空機とシベリア鉄道を組み合わせた「リレー空輸」によって日本へ運ばれた。朝日新聞社はドイツのUFA社と提携し、開会式や各競技を収めたニュース映画を、できるだけ早く日本へ届ける体制を整えていた。

 

 開会式を撮影したフィルムは、8月10日には東京で上映され、その後も競技ごとに「朝日オリンピックニュース」として順次公開された。

 孫基禎・南昇龍が出場したマラソンを収めた『朝日オリンピックニュース第3報』は、東京での公開から3日後の8月24日、京城の浪花館と団成社で上映が始まった。『朝鮮新聞』は、「第3報には吾等の孫基禎が出てくるというので期待はますます深い」と報じ、浪花館・団成社とも大入りであったと伝えている。

 一方、『東亜日報』は、この映画館での上映とは別に、読者を対象とした無料上映会を企画していた。

 8月24日発行予定の夕刊では、その上映会の告知記事と並べて、孫基禎の表彰台写真を掲載する予定だった。

 ここで重要なのは、上映会の告知と表彰台写真は、同じ紙面に配置される予定だった。両者は一体の企画だった。

 8月24日の夕刊編集・製版の過程で行われた日章旗の抹消も、上映計画とは切り離して考えられない。

◆差押えと上映計画の変更

 ベルリン・オリンピックのマラソン表彰台に立つ孫基禎の写真で、胸の日章旗が消されていたのは、8月24日(月)発行予定の『東亜日報』夕刊第2版である。

 当時の新聞は、発行前に校正刷りを朝鮮総督府警務局図書課へ提出し、検閲を受けなければならなかった。問題なしとされた紙面だけが印刷・頒布を許可されていた。

 8月24日の夕刊について、京畿道警察部長が警務局長へ提出した報告書には、

孫基禎の写真中ユニフォームの日章旗は故意に抹消したる形跡ありし為、新聞紙法により差押処分に付せられた

と記されている。
 同日夜、警察は東亜日報社に立ち入り、転載に使用した写真原紙と亜鉛版を押収した。

 翌25日朝刊は通常どおり発行されたが、そこには京城府民館で開催するオリンピック実況映画上映会の記事が掲載されていた。上映期間は8月26日から28日までの3日間となっている。

 ところが、後に取り調べられた運動部の李吉用イギルヨン記者の供述では、上映会は当初25日から開催する予定だったという。
 24日夕刊が差し押さえられたため上映会の告知ができず、開催を1日延期したと考えれば、この食い違いは無理なく説明できる。


【図4】25日朝刊上映会告知記事

◆「ぼかし」から「抹消」へ

 李吉用の供述によれば、8月23日午後5時頃、『大阪朝日新聞』の写真を24日夕刊へ掲載するため、調査部員・李象範イサンボムに、「胸部表出の日章旗をぼかして修正してくれ」と依頼したという。

 1948年の李吉用の回想録では、日章旗をぼかす修正はこの当時かなり頻繁に行っていたという。
 

 李象範は写真の網点をレタッチし、日の丸部分へ白色を上塗りして、日章旗を目立たなくした原画を作成した。
 写真課長・申楽均シンナクキュンは、このレタッチ済み原画から印刷用亜鉛版を製作した。

 ここまでは、日章旗を完全に消すのではなく、「ぼかす」ことが意図されていた。

 ところが、警察の調書によれば、24日午後2時半頃、社会部の張龍瑞チャンヨンソ記者が写真部へ現れ、

未だ日章旗がのこれる故充分之を抹消して貰ひ

と抹消を求めたという。

 その結果、徐永浩ソヨンホが亜鉛版の日章旗部分へ濃い青酸カリ溶液を用いて処理し、そのまま印刷へ回したとされる。

 

 しかし、この経過には不可解な点がある。

 張龍瑞は34歳の社会部記者であり、上映会記事を担当していた運動部主任の李吉用や、写真製版の責任者であった申楽均より年齢も若く、職制上も上位にはなかった。しかも上映会を担当していたのは社会部ではない。

 その張龍瑞が、製版作業の最終段階で現れ、すでに完成していた亜鉛版へ手を加えるよう求め、その要求が直ちに受け入れられた。
 一記者の単なる思いつきで、このような変更が行われたとは考えにくい。
 そこには、「ぼかし」では足りないと判断させる、新たな出来事があったのではないだろうか。

◆日章旗抹消の決断

 すでに述べたように、この8月24日には、浪花館と団成社で『朝日オリンピックニュース第3報』が封切られていた。劇映画の幕間に上映されるニュース映画で、上映時間は10分に満たなかったとみられる。
 団成社では午後1時30分から劇映画が上映されており、その本編に先立って『朝日オリンピックニュース第3報』が上映されたとみられる。

 団成社でのオリンピック実況映画の観客の反応は、9月2日付『朝鮮新聞』に掲載された映画評論家・水井れい子の投稿によって知ることができる。

上映館団成社における一般大衆の観覧態度は甚しく我々の意想外とする処であった。第二回報において田島が優勝し日章旗を掲揚した場合、場内において何らの拍手も起こらない。君が代が奏せられた際に於いても脱帽が行われない。これに反し、第三回報、孫基禎が優勝し表彰台に登る処や群を抜いて走る処に至っては割ればかりの拍手である
  …中略…
(君が代演奏時には)一向に之に和せなかった。皇族乃至国歌の奏せられる時は脱帽すべき事は観覧者心得に規定してあると思ふ。

 ここでは、日本選手が優勝した場面では拍手は起こらず、孫基禎が走る場面や表彰台へ上がる場面では、場内が割れんばかりの拍手に包まれたこと、しかし君が代が流れても誰一人唱和せず、日章旗の掲揚にも冷淡であったことが記されている。


【図5】水井れい子の朝鮮新聞の記事

 水井れい子は朝鮮人観客の態度を批判している。しかし、その記述からは団成社の場内がどのような雰囲気だったかも知ることができる。

 残念ながら、『朝日オリンピックニュース第3報』そのものは現存が確認できない。しかし、後に完成したレニ・リーフェンシュタールの記録映画『オリンピア』では、表彰台に立つ孫基禎と南昇龍が、ともにうつむき、国旗掲揚台から目をそらす姿が映し出されている。『朝日オリンピックニュース第3報』でも、おそらく同じ場面が上映されていたであろう。

 

レニ・リーフェンシュタールの五輪記録映画の表彰式場面(音声なし)

 

 ここで改めて、張龍瑞の行動を考えてみたい。
 張龍瑞がニュース映画を見たことを示す直接の史料はない。しかし、社会部記者である張龍瑞が、孫基禎と南昇龍の姿が初めて公開される映画館へ取材に赴くことは、ごく自然である。しかも翌日からは、自社主催の上映会が予定されていた。

 そのような状況を考えれば、映画館へ足を運んでいたとしても不自然ではない。もちろん、これは当日の時間経過と張龍瑞の立場を踏まえた推測である。

 李吉用は李象範に「日章旗をぼかしてほしい」と指示した。李象範も、その指示どおり修整した。
 ところが夕刊の印刷直前、午後2時30分頃になって張龍瑞が写真部へ現れ、「まだ日章旗が残っている。もっと十分に抹消してほしい」と求めたのである。

 つまり、この時点で初めて方針は「ぼかし」から「抹消」へ転じた。
 その理由を直接示す史料は存在しない。ただ、一つの仮説として考えられるのは、この日封切られた『朝日オリンピックニュース第3報』である。

 スクリーンには、ベルリンを力走する孫基禎が映し出され、朝鮮人観客がその姿に熱狂する。表彰台では、割れんばかりの拍手が送られる。しかし、君が代が流れると観客は誰も唱和せず、画面の中の孫基禎と南昇龍もじっとうつむいたまま国旗掲揚台へは視線を向けない。
 観客は、ふと現実へ引き戻される。孫基禎は優勝した。しかし、そこで掲げられるのは太極旗ではなく日章旗であった。

 もし張龍瑞がこの光景を目撃し、その場の空気を感じていたとすれば、新聞写真の日章旗も、単に「ぼかす」だけでは足りないと考えたとしても不自然ではない。そして、その映画館の様子を写真部員たちへ伝えたのであれば、その場に居合わせなかった彼らもまた、その空気を共有したであろう。

 午後2時30分という製版作業の最終段階で、「ぼかし」から「抹消」へ方針が転じた理由を考えるうえで、この仮説は十分に成り立ちうる。


 もしそうであるならば、東亜日報夕刊から日章旗を消させたのは、張龍瑞一人ではない。団成社を埋めた観客であり、その思いを共有した朝鮮の民衆だったのかもしれない。

◆差押え後の対応

※この部分については、その後新たな資料を確認し、解釈を修正しました。詳しくは「『東亜日報』の日章旗抹消事件―空白の検証―」をご覧ください。

 

◆府民館のオリンピック映画会

 上映会は8月26日から京城府民館で始まった。
 24日夕刊が差し押さえられ、関係者への取調べが続くなか、映画会そのものは予定どおり開催されたのである。
 初日の上映には豪雨にもかかわらず約2,000人もの観客が集まり、場内は立錐の余地もないほどの盛況となった。
 スクリーンに孫基禎の姿が映し出されると、「走れ、孫君!」という歓声が自然に起こり、先頭を走る場面では大きな拍手が沸き起こった。結果を知っていたにもかかわらず、後続選手に追いつかれるのではないかと息をのんで見守り、月桂冠が授けられる場面でようやく安堵したという。


【図8】府民館上映会の記事

 この上映会の熱狂は、2日前に団成社で見られた観客の反応と共通するものであった。

おわりに

 ここでは、東亜日報の日章旗抹消事件を、新聞紙面だけでなく、ニュース映画という映像体験との関係から再検討した。

 検証の結果、8月24日夕刊の写真掲載は、読者向けオリンピック映画上映会の広報と一体の企画であり、日章旗抹消もその過程で起きた出来事であったことが明らかになった。
 また、警察調書を読む限り、当初は「ぼかし」にとどめる予定だった修整が、製版の最終段階で「抹消」へ変更されている。
 その理由を直接示す史料は存在しない。
 

 しかし、この日公開された『朝日オリンピックニュース第3報』と、団成社を埋めた朝鮮人観客の熱狂をあわせて考えると、その映像体験が編集局の判断に影響を与えた可能性には十分説得力がある。

 もちろん、これは一つの仮説である。

 しかし、この仮説は、従来、十分に説明されてこなかった「なぜ8月24日だったのか」「なぜ『ぼかし』から『抹消』へ変わったのか」という二つの疑問を、もっとも自然に説明できる仮説ではないだろうか。

 「豊国製菓から『チョコパイのオリオン』」へというブログを書いた。こちら
 

 豊国製菓は、清酒・金千代を出したりしていた京城の三坂通の斎藤久太郎の経営する会社。三坂通には、私の母方の祖父・原四郎が支配人を務めていた朝鮮農林の会社があったこともあり、斎藤久太郎の会社は以前から気になっていた。


 今回の資料には、斎藤久太郎の末の弟・又吉というのが出てきた。又吉が、兄・久太郎の資産の処理で、敵産として接収されることを回避しようとしたものの、結局うまくいかなかったという内容である。その結果、金千代の醸造工場や豊国製菓、豊国製粉は帰属資産の工場としての変遷をたどることになった。


 この斎藤又吉、どんな人物だったのか。
 植民地時代の京城で出ていた『朝鮮公論』の1927年(昭和2年)7月号に、「兄弟そろって有名な人々(一)」という記事が出ている。そのトップに「実業家斎藤久太郎氏と社会事業家斎藤又吉氏」として取り上げられている。

 …
長兄久太郎氏が商界の奇傑たることは、暫らく云はずもがなであるが、その風格を見ると、馬鹿か悧口か、ちょつと判断がつきかねる程につまり昼行灯といつていゝ程に、器の大きいことを思はせるが、末弟又吉氏に至つては、少しく変態ではないかと思はれるくらいに感激性に富んでゐる。
 …
大正十二年二月に知名の士を大勢ホテルに招待して、社会事業のために身命を抛たんことを声明した時に、多くの人は何が何やら判らなかった。
 …
穀物の貿易商として相当に繁昌してゐたその店の財産全部を社会に投げ出し…南大門通りに自覚社といふ妙な看板を掲げて、乞食の子供を大勢集めてみたり、簡易食堂や宿泊をやつてみたり…
 …
其後間もなく、彼の財産が競売に付されたことや、奥さんの衣類全部が入質されたことを聞いた。「斎藤さんは、とうとう往くところまで往きついたのだ。それは悲壮な、だが喜ばしいことだ」と思はれた。

 『朝鮮公論』は1913年に京城で創刊された朝鮮在住日本人社会向けの総合雑誌だった。斎藤兄弟については「昼行灯」とか「変態」とかと書かれているが、ややゴシップ記事風でもあり、そのまま事実として受け取ることはできない。

 

 14年後の1941年11月20日付の『京城日報』には、当時の「自覚社」の様子が次のように紹介されている。

その名も自覚社、辛酸二〇年救済事業の草分け
変わり種「刺し子屋」

 「親ヲ知ラザル者ハ大罪人」こんな看板が南大門外の電車通りに人目を惹き始めて二〇年近くの歳月が流れた。左には諺文で「迷ヘル人ニ道アリ、働ク人ニ職アリ、飢エタル人ニ食アリ」と、同じく時代の付いた看板が下がっている。柔剣道着を全鮮一手に引き受けて製造販売する斎藤又吉さん(六二)が主人だが、持前の人生観は一向に基督教や仏教の流れをくむものではないという。西田天香氏と親交を結ぶだけあって、今どきの商人には珍しい気魄と信念を持つ「街の変わり者」の一人である。
 この斎藤さんは、今を距る一九年前の大正十二年、現在の南大門市場一帯にあった自分の邸内の倉庫の一部を改造して「浮浪児収容所」を造り、百数十名の「街の天使」を収容して給食・授産の設備を整え、「自覚社」と名付けた。これは救済事業の草分けとなった。故斎藤総督が親しく視察したのもこの当時のことである。当時すでに新体制を唱え、物の配給と需給の調節、価格の規正に着眼したが意のごとくならず、ついに破産の憂き目に遭った。しかし斎藤さんは屈することなく、「国を中心に己を捧げれば食ひ損ひは無い」と確信を固め、国家への奉仕団体としての授産事業に没頭すること数年。半島婦人の屋内手工業の発達に寄与するところは大きかった。現在残された唯一の手工業が、「刺し子」の柔剣道着製造なのである。二〇年の時の流れは明るく新体制の黎明を呼び、再び斎藤さんの信念が、名物の看板とともに大きくクローズアップされてきた。(写真・斎藤さんと看板)

 

 この記事に出てくる西田天香とは、無所有・共同生活を理念とする「一燈園」の創始者である。宗教団体ではなく修養・社会奉仕運動として出発したが、仏教やキリスト教など諸宗教の影響を受けた独自の思想を展開した。清掃奉仕や托鉢による生活で知られ、戦前から戦後にかけて多くの支持者を集めた。斎藤又吉の「自覚社」にも、その勤労奉仕や社会救済の思想の影響がみられる。

 


 「自覚社」は単なる慈善事業ではなく、一燈園的な「自覚」「奉仕」「授産」「共同体」の思想を朝鮮で実践しようとした運動体だったと思われる。看板の文言も、行政機関や宗教施設というより、一燈園系の社会改良運動の雰囲気が濃厚に出ている。斎藤又吉を「変わり者」と評しているのも、『朝鮮公論』の記事とも通じるものがあり、斎藤又吉を「ある種の理想主義者」として見ていたからであろう。

 もう少し資料はないだろうかと、あまり期待はできないと思ったが、念のためGoogleのブックス検索で「斉藤又吉 自覚社」で検索をかけてみた。すると、

異境への往還から - 245 ページ
1981
.. 斉藤又吉という人、本人だった。自覚社というのを経営しているそうで、もともと商売をしているのですが、という。そこで宗教と思想に関係した事業をしていて、インドその他欧州とも連絡して出版物を出している。あの広告にあることは余程経験がおありです ...

という検索結果が表示された。


 この『異境への往還から』(JCA 出版, 1981)という本は、うちの書棚にある。著者の八木秋子は私の大叔母、母方の祖母の妹で、「あきおばさん」なのだ。

 

 早速本を開いた。
 八木秋子は、1960年7月13日の日記に、朝日新聞に1400円の大枚をはたいて2行の求職の広告を出したと書き記している。

 

文案 談筆編集校正婦健年60身確誠実北区神谷三ノ二 八木

 八木秋子は、木曽で生まれ、結婚後、小川未明と恋愛関係となり駆け落ちした。東京日日新聞の文芸記者として活動した後アナーキスト運動に参加し、治安維持法違反で検挙され服役した。出所して満州へ渡り、満鉄関係施設の寮母を務めた。ソ連侵攻後、満鉄最後の避難列車の世話役として乗車、帰国後は福祉施設などの寮母として働いていた。

 

 そんな中で、収入源を求めて出したこの求職広告だったが、朝刊に掲載されたその日の7月15日に連絡してきたのが斎藤又吉だった。その日のうちに電話で話をしている。そして、7月26日に北沢の自覚社に行って斎藤又吉と会っている。当時、八木秋子は満65歳だったが、60歳ということになっていた。

 斉藤氏は禿頭の精力的な人、朝鮮からの引き揚げ者で、商売とは木綿生地で何か仕立てる授産的な仕事。それを売るらしい。その収益で彼の思想、宗教を宣伝しようとしているらしい。「知見の思想により資本主義、共産主義思想を批判する」というパンフレットを出している。
 話は著しく抽象的、暗示的であり、戦前の精神運動に似ている。

   …
 この、やや教祖的な自己陶酔のふるい思想に、一つ協力してみよう。

 と自覚社で働く気になっていた。しかし、翌日斎藤又吉から断りの電報が来た。

電報が届いた、<ミアワス、アシカラズ> 笑うに笑えない、何もかもおしまい。

 ということで、斎藤又吉が、戦後も東京で「自覚社」を運営していたことはわかったが、それ以上の情報は得られなかった。

 こうしてみると、斎藤又吉という人物は、単なる実業家でも慈善家でもなかったように思われる。『朝鮮公論』が描いた感激家で理想主義的な人物像は、戦後に八木秋子が接した斎藤又吉の姿とも重なっている。

 日本統治下の朝鮮では、「自覚社」を通じて浮浪児の救済や授産事業に取り組み、破産を経験してもなお理想を語り続けた。戦後も東京で「自覚社」の看板を掲げ、自らの思想を広めようとしていた。現実の経済活動と社会改良運動、そして一種の精神運動が混然一体となった人物だったのであろう。

 今回は、豊国製菓からオリオンへという企業史を調べる過程で、敗戦後の帰属財産問題に行き着き、さらに斎藤又吉という一人の人物の足跡を追うことになった。そして最後には、思いもよらず大叔母・八木秋子の回想録にその名を見つけることになった。資料を追っていると、別々だと思っていた人や出来事が思いがけないところでつながることがある。資料探求の面白さは、案外こういう偶然の出会いの中にあるのかもしれない。

 もっとも、今回わかったのは、斎藤又吉が戦後も東京で「自覚社」を続けていたということまでである。その後の活動や晩年については、なお不明な点が多い。京城の街で「街の変わり者」と呼ばれた理想家が、その後どのような人生を送ったのか。もう少し追いかけてみたい人物が、また一人増えてしまった。

 

 


    お知らせ

 これまでブログに書いてきた、1924年の『東亜日報』に掲載された 「わが街の名物(내동리名物)」の解説とよもやま話を一冊の本にまとめました。
 Kindle版電子書籍(サンプル版あり)に加え、紙のペーパーバック版もあります。
『京城とソウル: 東亜日報 わが街の名物』一松書院
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