映画「ソウルの春」(1)— KBS「映像実録」 1995年10月4日放送 | 一松書院のブログ

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 1995年にKBSは解放50周年の記念番組として「映像実録」をシリーズで放送した。

 10月4日の放送は「1979年-1980年」で、この中に12・12クーデターに関する部分がある。クーデターまでの推移や、当時の映像が盛り込まれており、映画「ソウルの春」の全体像をつかむのにも役立つ。


 0分00秒から8分30秒までのナレーションと字幕を日本語に翻訳してみた。

 (翻訳は動画を見ながら手動でスクロールできるはず…)

 

0分00秒から8分30秒

[10月16日 釜山・馬山、学生・市民のデモ]

 絶頂に達した維新末期の弾圧に対抗して、学生たちは大規模デモに立ち上がった。
 10月16日、釜山プサンで始まった釜山大プサンデ生約5000人の街頭デモは、東和大トンファデ生や市民まで加わって翌日まで続き、釜山大学に休校令が下された。
 午後8時頃、釜山市庁前に集結した学生と市民約3000人は、「維新撤廃、独裁打倒」などを叫びながら警察と対峙した。
 午前1時まで続いたデモで、警察車両約20台と南浦ナムポ忠武チュンムの派出所などが壊され、デモは馬山マサン地域にまで広がった。
[10月18日 釜山に戒厳令宣布]

 18日、釜山地域に戒厳令を宣布した政府は、20日、馬山と昌原チャンウォン一帯にも衛戍令を宣布し、軍隊を進駐させた。
 戒厳軍はデモ参加者500人余りを連行し、60人余りを軍事裁判にかけるなど強硬措置を取った。
 しかし、こうした措置にもかかわらず、高まる維新撤廃の要求は止むことがなかった。「釜馬プマ事態」のこのような雰囲気は、ソウルにまで拡散しかねない勢いだった。

[10月26日 挿橋川防潮堤竣工式]
 1979年10月26日、韓国の歴史の流れを変えた運命の日を迎えた。この日の午前11時、朴正熙パクチョンヒ大統領は、挿橋川サプギョチョン防潮堤の竣工式に出席した。これが朴正熙大統領の最後の公式行事になるとは誰も思ってもいなかった。

[朴正煕大統領 逝去]
 この日の夕刻、宮井洞クンジョンドンでの夕食会で、朴大統領は金載圭キムジェギュに撃たれて死亡した。
 18年の間、変わることなく国を支配してきた大統領の死亡のニュースに、国民は衝撃を受け国の将来を案じることになった。
 翌朝の午前4時を期して、崔圭夏チェギュハ大統領権限代行は全国に非常戒厳令を宣布した。
 朴大統領の狙撃の直後、犯人として逮捕された金載圭中央情報部長と彼が大統領を撃った理由に国民の関心が集まるなかで、28日、合同捜査本部がこの事件について公式発表を行った。
[10月28日 全斗煥合同捜査本部長発表]

 「金載圭が密かに計画した上での犯行だったことが捜査の結果明らかになった。合同捜査本部の捜査によると、金載圭は普段から大統領に建議する政策について大統領が不信感を持ち、自分のすべての報告について…」
 10・26事件についての発表をきっかけに、当時の全斗煥チョンドゥファン保安司令官に注目が集まり始めた。
[11月3日 故朴正煕大統領国葬]

 「あたかも泰山が崩れ落ち、川が裂けたかのごときこの衝撃、この悲痛は何に例えることができようか。この秋、落ち葉を片付けたあとにも枝ごとに黄金の果実がたわわに実っている」
 18年5ヶ月、強力なリーダーシップでこの国を統治してきた朴大統領は、多くの宿題を残したまま歴史の中に消え去った。経済発展を成し遂げた朴大統領の業績は評価されたが、国民の心を忘れなかった統治者の苦難を、歴史はもはや許さなかった。朴大統領は陸英修ユギョンス女史の隣に葬られた。そして維新時代は、大統領夫婦が二人とも銃撃によって死亡するという不幸な過去として、私たちの記憶の中に残された。
[12月4日 大統領殺害事件の初公判]

 朴大統領狙撃事件の犯人の金載圭と金桂元キムゲウォン朴興柱パクフンジュらに対する軍事裁判は、翌年まで続いた金載圭をはじめ4人全員に死刑が言い渡された。そして80年5月、金桂元を除く全員の死刑が執行された。
[12月6日 第10代崔圭夏大統領選出]

 12月6日、統一主体国民会議で崔圭夏大統領権限代行が第10代大統領に選出された。10・26から5・17まで、崔圭夏大統領はその後、韓国の現代史を左右した激動の現場を目の当たりにすることになった。

[12月8日 緊急措置第9号解除]
 「大統領緊急措置第9号を1979年12月8日付で解除する」
4年7ヵ月ぶりに緊急措置第9号の解除で68人の緊急措置違反者が釈放され、金大中キムデジュン氏の自宅軟禁が解除された。韓国社会は、長年の抑圧が解け、民主化の機運がさらに高まるように思えた。
 しかし、12月12日夜に発生した「12・12事態」は、国の運命を再び変えた。

[12月12日 鄭昇和戒厳司令官逮捕]

 国民は再び号外を見ながらこの事態の意味するところを把握しようと神経を尖らせた。12・12事態は、当時、軍の最高権力者だった鄭昇和チョンスンファ戒厳司令官に対する全斗煥保安司令官のクーデターだった。漢江ハンガンの11の橋が通行を規制された中、ソウル市内での銃撃戦でクーデター勢力側が勝利して終わった。その結果、鄭昇和戒厳司令官は解任され、その後任に李熺性イヒソン中将が任命された。

[12月14日 国軍保安司令部]

 その後クーデター勢力は首都警備司令官、特戦司令官など軍の要職を広範囲に掌握することになった。この時から5・17まで、韓国は駐韓米大使グライスティン(William H. Gleysteen Jr.)の表現どおり、崔圭夏を首班とする形式的な政府と、全斗煥を中心とする実質的な権力が共存する二重権力状態に置かれることになった。

[あの時のあの人 シム・スボン]

 

 

映画「ソウルの春」(2)