シンモ部屋 — 汝矣島示範アパート(1970)の見取図 | 一松書院のブログ

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 1970年の『朝鮮日報』に汝矣島ヨイド示範シボムアパートの間取図が出ていた。40.8坪から15.2坪までの4タイプ。40.8坪といえば135㎡の豪邸である。

 

 1960年代後半に、ソウル市長の金玄玉キムヒョノクが汝矣島の開発に着手し、この示範アパートは1971年10月に完成した。

 

 

 その後、汝矣島には1970年代に国会議事堂ができ、金融機関がビルを建て、放送局も移転してきてソウルの副都心となった。だが、示範アパートができた当時は、まだ広大な空き地が広がり、交通も不便な僻地だった。当初は入居希望者が集まらなくて苦労したという。

 

 ところで、この示範アパートの広いタイプの間取りを見ると、「가사실カサシル(家事室)」「가정부실カジョンブシル(家政婦室)というのがある。

この部屋の用途について記事には、

食堂兼キッチンの横には家事室があって「식모방シンモバン」として使うこともできる。

とある。

 

 「식모シンモ」は漢字では「食母」と書き、他人の家に寄宿してその対価として各種の家事労働を行う10~20代くらいの若い女性を指した。1910年代の頃の「행랑살이ヘンナンサリ(行廊暮らし)」から始まるとも言われている。「行廊」とは、朝鮮家屋の出入り口の両側にある使用人の部屋をさす。家事を手伝うことでここに住まわせてもらったということから来ている。

 

 

 「住まわせる」ことが「食母」を置く条件になるので、アパートにもこのような部屋が間取りの中に組み込まれていたのだ。

 

 この「食母」は、農村部で生活できなくなった若い女性が都市部の住宅で住み込みで家事をやって食い繋ぐものだった。1960〜70年代に韓国社会の産業化が進展して若い女性が劣悪な労働条件であっても工場労働者の「女工ヨゴン」やバスの車掌「案内嬢アンネヤン」などで給与が出るようになるとそっちに移っていき、やがて「식모」はいなくなっていった。そして、1980年代には、「派出婦パッチュルブ」が富裕層の家の家事労働を代行するようになった。

 

 1970年9月に完成した東部二村洞の漢江マンションの32坪タイプにも「식모방シンモバン」があった。

1969年の平面図(살구나무 아랫집(故ソウル市立大パク・チョルス教授)のTwitterより)

 

 韓国の住宅は物入れの場所が少ないので、1980年代には「食母房」を改造し、棚を作って物入れにしたりクローゼットにしたりしていた。

 

 この漢江マンションも来年には取り壊して新しい高層マンションに建て替わる。見取り図上で「식모방」が確認できるアパート・マンションもあと数年で全て無くなりそうだ。