1979年10月26日午後8時前、大統領官邸の西側に隣接する宴会場で朴正煕大統領が銃撃され死亡した。撃ったのは軍事独裁政権を支えてきた側近の一人金載圭中央情報部(KCIA)部長だった。
この大統領の暗殺直後から、それまで反独裁運動をしてきた人々が政治・社会活動の表舞台に姿を現わした。日本の新聞などはこれを「ソウルの春」と報じた。しかし、その背後では、大統領殺害事件の捜査に当たった保安司令官全斗煥少将が勢力を固め、12月12日に「粛軍クーデター」を起こして実権を掌握した。民主化を危険視する軍の中堅幹部のグループ「ハナ会」を中心とするこの勢力は「新軍部」と呼ばれた。そうした中で、軍事独裁の再登場に反発する学生・市民の民主化要求の声はますます高まった。新軍部は1980年5月17日に全国に戒厳令を布告し、野党指導者の金泳三や金大中、旧軍部につながる金鍾泌などを軟禁・逮捕して民主化要求を抑え込もうとした。
金大中の地元全羅南道でも、その中心地光州で民主化要求の声は高まっていた。光州では、戒厳令宣布の翌日5月18日に起きた学生デモに対し、その弾圧に戒厳軍が投入された。市内に展開した空挺部隊は無差別に激しい暴力を振るった。これが市民の怒りに火をつけ、市民たちがバスやタクシーでバリケードを築き、市街地で空挺部隊に激しく抵抗した。
5月21日、市民・学生に対して空挺部隊の実弾射撃による武力弾圧が本格化した。市民側も郷土予備軍の武器庫から奪った武器で武装して全羅南道道庁に立てこもった。光州の地元有力者による市民収拾対策委員会が戒厳軍側との交渉にあたったが収束には至らず、一部市民は最後まで抵抗の姿勢を崩さなかった。5月27日、市民が拠点としていた全羅南道道庁が戒厳軍に制圧され、市民・学生の抵抗は終わった。戒厳軍による数日間にわたる無差別の激しい武力行使によって市民・学生側に多数の死傷者・行方不明者がでた。
ヒンツペーターの取材
この間、光州市は戒厳軍によって外部と遮断され、韓国全土にわたって厳しい報道管制が敷かれた。そうした中で、ソウルから光州まで東京駐在のドイツ人特派員ユルゲン・ヒンツペーター(Jürgen Hinzpeter)を送り届け、取材した写真ネガや映像フィルムとともにヒンツペーターをソウルまで連れ帰ったタクシー運転手キム・サボクをモデルにした映画が「タクシー運転手ー約束は海を超えてー」だった(2017年 日本公開2018年4月)。
この時にヒンツペーターが光州で取材したニュースは、映像とともに5月22日には西ドイツの公営放送ARDの夜20時のニュース番組で放送された。
ヒンツペーターの光州現地取材に関しては、2003年5月18日のKBS日曜スペシャルで「80年5月 青い目の目撃者 ヒンツペーター」を放送して注目を集めた。現在、その番組は光州KBSがYoutubeに再掲載している。
キム・サボクのタクシー
ヒンツペーターが雇ったタクシーの運転手の名前はキム・サボク。名前はわかっていたが、その後ヒンツペーターも連絡が取れず、所在がわからなくなっていた。ところが、映画「タクシー運転手」の公開をきっかけに、息子のキム・スンピルが、この映画のモデルは自分の父のサボクだと名乗り出た。サボクはすでに亡くなっていた。実際に光州を往復したタクシーは、映画で描かれているような一般タクシーではなく、ホテルタクシー、日本で言うと黒塗りのハイヤーで、日頃から外国人記者なども顧客としてよく利用していたという。
『東亜日報』2018-12-25
ヒンツペーターとキム・サボク
実は、キム・サボク氏のホテルタクシーは、1974年の文世光事件の時にもその名前が出てくる。
1974年8月15日、光復節の式典が奨忠洞の国立劇場で開かれた。朴正煕大統領の式辞の途中で演壇に駆け寄った文世光が客席から拳銃を発砲、壇上の大統領夫人陸英修が死亡する事件が起きた。文世光は在日韓国人である上、犯行に使われた拳銃が大阪府警で盗まれたものだった。「北朝鮮系組織の日本国内での活動を取り締まらない日本政府の責任」として韓国で対日批判が高まった。
この時、文世光が朝鮮ホテルから国立劇場まで使った車は、パレスホテルのキム・サボクのホテルタクシーだった。ただ、この時に運転したのは、キム・サボクではなく予備の運転手だった。
この車は、ソウル中区会賢洞1街92-6のパレスホテルに所属するコールタクシーで、運転手金砂福氏の予備運転手の黄涛東氏が運転していた。
この車で国立劇場の正面玄関に乗り付けた文世光は、招待状がなかったにも関わらずそのまま会場に入れてしまった。VIPと誤認されたというのだから、キム・サボクのタクシーは高位・高官が乗るような高級車だったということだろう。
それにしても、キム・サボクはなかなか数奇な運命の持ち主だったようだ。
日本のプレスの光州取材
映画「タクシー運転手」の日本公開の際のチラシには、「戒厳下の物々しい言論統制をくぐり抜け、唯一、光州を取材し、全世界に5.18 の実情を伝えたウイルゲン・ヒンツペーター」とあるのだが、この時にはヒンツペーター以外にも外国人プレスが光州に入って取材を行っており、その中には日本のプレスもいた。
共同通信の光州事件の取材については、『週刊金曜日』2020年5月15日号「光州事件40年 共同通信支局閉鎖の真相」で、事件当時、外信部韓国担当デスクだった菱木一美が現地取材の内幕を詳しく書いている。
当時、新聞・TV・通信社のソウル支局は日本からの常駐特派員は一人に制限されていた。共同通信ソウル支局も支局長林憲一郎の一人体制。5月に入って新軍部と民主化勢力の対立が緊迫してきたため、本社の外信部から西倉一喜を取材応援でソウルに送ろうとした。だが、すでに東京の韓国大使館は取材ビザの発給を停止していた。そのためソウル経由で香港に向かうトランジット(当時は5日間有効)で韓国に入国した。5月19日早朝、運行停止直前の高速バスでソウルから光州に入り翌日次のような記事を配信した。
【光州(韓国)20日共同】軍隊の強硬な対応に対する市民の反感はかなり強く、「学生も行き過ぎだが、国民が信頼している軍隊のやり方は、まるで共産軍と同じだ」と怒りをぶちまけるタクシーの運転手もいた。
取材ビザなしで取材活動をした西倉一喜は、この後ソウルに戻り香港に脱出した。
同時期に、共同通信マニラ支局長だった鈴木真一がマニラの韓国大使館で取材ビザを申請したら取得できた。5月20日に光州に入って取材をし、22日に戒厳軍の包囲網を徒歩で突破して、近郊でタクシーをつかまえて全州に出て、ソウルに戻ってルポ記事を東京に送った。鈴木真一の記事は「ソウル発共同」として5月23日の各紙に掲載された。
その後、再び光州に戻り、戒厳軍が光州を完全制圧した5月27日の光州の惨状を、かろうじて電話が通じていた光州近郊の長城から電話送稿した。5月29日の『京都新聞』は、この共同通信の記事を「光州制圧 さながら敵国攻撃 同胞へ非情の銃口」というヘッドラインで報じた。
6月2日に共同通信ソウル支局に閉鎖命令が下され、林憲一郎支局長には強制退去となった。
朝日新聞は、この時、たまたま大阪本社社会部の斉藤忠臣と写真部の青井捷夫の二人の記者が江原道での紀行記事取材のため韓国に入っていた。光州での異変を知ったソウル支局長の藤高明は、江原道束草に滞在していた二人に連絡して光州での取材を依頼した。斉藤と青井は急遽ソウルに戻り、5月19日の朝の高速バスで光州に向かった。
斉藤忠臣は、2008年7月に「非核の政府を求める京都の会」で「拒否した力の支配 民主化を求めた光州事件の教訓―その取材記から」と題した講演を行い、この時の光州取材の顛末を語っている。
光州の手前で高速バス運行が打ち切られ、タクシーで光州に入った。4日間取材をしたが、外部との通信がすべて遮断されていて記事も写真も送れない。やむなく、5月23日に徒歩で戒厳軍の封鎖線を突破して光州郊外の農家のトラックに乗せてもらい、一旦ソウルに戻り、記事を電話で東京に送った。青井捷夫が撮った写真は、アメリカのAPに送ってそこから東京に転送した。
斉藤忠臣と青井捷夫は、5月27日にソウルでチャーターしたタクシーで再び光州に向かった。27日の夜、その日の未明に戒厳軍が市民・学生に多数の犠牲者を出して全羅南道道庁を制圧して未だ殺気だっていた光州市内に入った。途中の戒厳軍の検問は、同行していた支局のローカルスタッフが手に入れた「雀が1羽、2羽」(참새가 한마리 두마리?)という合言葉を使ってくぐり抜けた。
この時のルポ記事と写真は、5月29日の紙面に掲載された。
7月3日付で朝日新聞ソウル支局にも閉鎖命令が出された。藤高明支局長は国外退去となった。
残されていたネガ
2021年5月27日付の朝日新聞夕刊が、2017年に亡くなった青井捷夫の遺品の中から1980年5月の光州での取材時に撮影した247コマのフィルムが出てきたことを報じた。
5・18民主化運動記録館と業務提携を結び、翌2022年5月11日から7月31日まで青井捷夫が撮影した写真の特別展が開かれた。
この展示会にあわせて、朝日新聞は7月11日から15日までの5回にわたって武田肇記者による連載記事「あの日、光州の街で」を掲載した。
※これは有料記事だが、新聞記事データベースが利用できる公共図書館が多くある。朝日新聞は「朝日新聞クロスサーチ」で検索・閲覧が可能
共同通信ソウル支局は、281日目の1981年3月7日に再開することができたが、朝日新聞のソウル支局再開が認められたのは1981年5月18日のことだった。









