ドラマ「虎に翼」時代の李良傳(補遺) | 一松書院のブログ

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ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 李良傳についてのブログを3回に分けてアップしたが、その後、新しい資料が出てきた。ブログの第3話を補完する内容で、特にここで紹介する2番目の資料は李良傳の生まれた年が1911年となっていることにも絡むもの。ただ、一度アップしたものを安易に書き換えるのも何なので、とりあえずここに「補遺」として資料を紹介して、新たな推測を記しておくことにする。

(1)李良傳の葉書3通

 J -DACの近現代史料データベース「オンライン版 市川房枝資料 1905-1946」に李良傳から婦選獲得同盟あてに送られた葉書が3枚ある。
 
① 1930年(昭和5年)9月15日
 
 1930年4月27日の「第1回全国婦選大会」に李良傳は出席して発言している。この葉書には「御蔭様で無事再び上京する事になりましたから御安心下さいませ」と書かれており、「婦選大会」の後李良傳は東京を離れたのであろう。そして9月に再び東京にきて住まいを決めた。住所は「東京市神田区猿楽町二丁目十一番地ノ一 堀尾方」、下の地図にあるように明治大学のすぐそば。翌年4月の明大専門部女子部の入学に向けて着々と準備を進めていたように思える。そう考えると、一旦9月まで東京を離れていたのは、子供を朝鮮の実家に預けに行っていたのではないか… そんな推測も成り立つような気がするのだが。
 
② 1932年(昭和7年)7月2日
 明大専門部女子部の2年生の時も「婦選獲得同盟」の活動に関わっていた。2銭切手は絵ハガキや印刷したハガキの発送に使われるものか。
 
③ 1933年(昭和8年)年賀状

 

 明大専門部女子部2年生の正月の年賀状。この当時、それなりの枚数を出す場合は個人でも年賀状を印刷するのはさほど珍しいことではなかったようだ。李良傳は、すでにかなりの社会活動を経験して、年賀状の送り先も多かったのであろう。

 

 

(2)1946年3月26日付『中央新聞』記事

法曹界に異彩
司法要員に二人の女性が志願

 先日来、法務局で銓衡中の司法要員養成所の志願者に二人の若い女性がいて、我が女性界が万丈の気炎を吐いている。話題の主人公は、市内の踏十里町205番地の李良傳さんと大和町二丁目116番地に住む洪容淑さん。李良傳さんは京畿高女を卒業して明大専門部女子部から法学部を優秀な成績で卒業し、1937年には日本の特許局弁理士試験に合格し、その後早稲田大学大学院で2年間親族・財産法を専攻した篤学者だ。
 洪容淑さん淑明高女を出て、やはり明治大学の専門部女子部を経て1944年秋に明大法学部を優秀な成績で卒業した。判事・検事をサポートする女性は初めてであるだけに非常に注目されている。
 この記事に大学院での専攻も親族・財産法と具体的に記されており、李良傳が早稲田大学の大学院にいたことはほぼ間違いない。多分1939年か40年に修了したのだろう。
 
 司法要員養成所は、解放の翌年1月に「司法官及び弁護士資格者を養成するため」に設置が決まったもので、修学期間は1年。2月1日から20日までの期間に定員100名で募集された。入所資格は、
  1. 文官高等試験司法科試験合格者
  2. 朝鮮弁護者試験合格者
  3. 学務局が認定する大学もしくは専門学校で3年間法律学科を修了した者
  4. 中等学校を卒業したもので本養成所の予備試験に合格した者
となっていた(『東亜日報』1946年1月30日夕刊)。李良傳は3の資格で問題なく入所できたのであろう。ところが、この養成所は4月に講習が始まってわずか2ヶ月で閉鎖になり、62名の入所生のうち18名だけが司法官試補として任用されたが、残りの44名については行き場がなくなり、司法部の責任を問う声が上がっていた(『自由新聞』1946年6月25日)。日本の植民地支配時からの朝鮮人司法官がそのままポストに居座ったため新たに養成しても行き場がないことになったのではなかろうか。
 
 この司法要員養成所の閉鎖時期(6月)と、女子警察官募集の時期(6月)が重なっている。司法部は、行き場のない44名の一人李良傳の行き先として警務部に女子警察官への任用を依頼した、あるいは押し付けた可能性もある。その際に、年齢制限のあった採用人事を通すため李良傳の生年月日をどこかで書き換えたとも考えられる。5月にすでに決まっていた女子警察幹部16名には40代の女性もいたが、その後の採用には年齢制限があったようだ。解放直後のことで混乱があったとしても、個人が生年月日を詐称してすんなり通るとは考えにくい。上記のような官庁側の思惑と都合があったとすれば、方便として生年記載の「変更」はあり得ただろう。その女子警察採用時の「便宜上の生年」が1956年の『大韓民国 建国十年誌』に記載されてしまったことで、いまだに「1911年生まれの李良傳を3・1運動での貢献で褒賞する」という妙なことになっているのではないだろうか。