ドラマ「虎に翼」時代の李良傳(3/3) | 一松書院のブログ

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  • 日本での「婦選運動」
  • 明治大学女子部入学・法学部編入
  • 解放後の李良傳
  • エピローグ

 

  日本での「婦選運動」

 1930年5月6日付の『朝鮮日報』は、日本の無産政党の合同問題を記事にして掲載した。東京発のこの記事の中で、4月27日に開かれた「第1回全国婦選大会」にも言及しており、そこに李良傳イヤンジョンの名前が出てくる。

 

この席上、李良傳という一人の女性がいて異彩を放っていた

 この大会で、李良傳は単に「異彩を放っていた」だけではなく、「すべての婦人団体と共闘することを申し合わせ事項とする」との重要な発言をしている(婦選獲得同盟『婦選』1930年5・6月号)。この大会の参加者は、「遠くは満洲、北海道から」と紹介されているが、朝鮮からの参加者という記載はない。李良傳は東京からの参加者として登録されていたようだ。

 

 さらに、この年の年末に神田YWCAで開かれた婦選獲得同盟の創立六周年記念会の晩餐会では、李良傳が朝鮮の歌を披露したことが紹介されている。

 

『婦選』1931年1月号

 

 この婦選獲得同盟の前身の婦人参政同盟は、女性の参政権の獲得だけでなく、女性弁護士の実現も目指していた。1926年10月30日に明治大学講堂で開かれた第2回総会では、「婦人弁護士法制定の促進」を、「世帯主の婦人公民権・参政権の獲得」とともに運動方針として決定している。

 

 

  明治大学女子部入学・法学部編入

 李良傳が、1931年4月に明治大学法科専門部の女子部に入学したのは、女性弁護士の実現を運動方針として掲げていた婦選獲得同盟の活動の実践でもあった。運動の実践といっても、東京での李良傳の学費や生活費まで婦選獲得同盟がサポートしていたとは考えにくい。1945年以降、アメリカに移った金柏枰が、息子をアメリカに呼び寄せたりもしている。また、「李良傳は金柏枰の保護の下で学業を続けた」との崔恩喜の記述もあり、1945年以前から、金柏枰が養育費などの名目で李良傳をサポートしていた可能性もありそうだが、確証はない。

 

 冒頭紹介したように、1937年の『明治大学一覧』の卒業者名簿で李良傳の名前が確認できるが、それだけではなく朝鮮の『東亜日報』や『毎日申報』にも掲載されている。

 

 

 この李良傳の1学年下で、同じコースを歩んだのが、ドラマ「虎に翼」で猪爪寅子のモデルになった武藤嘉子である。

 

 1938年、武藤嘉子、それに田中正子、久米愛子の3人が高等試験司法科に合格し、初の女性弁護士が登場することになった。一方、明治大学法学部を卒業した女子学生数名は、銓衡を経て弁理士として登録している。その中に李良傳も入っている。


 明治大学を卒業した李良傳は1937年8月9日に弁理士登録された(白德烈「韓國の辨理士制度創設經緯とその理由」)。その後早稲田大学の大学院に通ったようだ。『韓国女性独立運動史』に出身校として早稲田大学とあり、後述する1963年の国会議員選挙に出馬した時の李良傳の候補者履歴にも、早稲田大学大学院修了とある(中央選擧管理委員會『歷代國會議員選擧狀况』1963)。

 

 日本における李良傳に関しての情報はここで途絶えている。日中戦争から太平洋戦争に突入していく時期であった。

 

  解放後の李良傳

 1945年8月の日本の敗戦直後、任永信イムヨンシンが朝鮮女子国民党を立ち上げた。『毎日新報』9月14日の紙面に、朝鮮女子国民党の「政治部長 李良傳」と出てくる。

 

 

 任永信は、アメリカ留学から帰国して1932年に中央チュンアン保育学校を開校し、1936年には木下栄が開発した明水台住宅地(現在の黒石洞フクソクドン)の中に校舎を新築した。1946年9月にはこの学校を中央女子大学(現在の中央大学校の前身)として自ら学長となり、政界への進出も図った。

 

 李良傳が、日本の敗戦直後のソウルで女性政党の立ち上げに加わっていることから考えて、戦時中にすでに東京から京城に戻っていたものと思われる。戦時体制が強まる1940年9月には婦選獲得同盟が解散を余儀なくされており、それも一つの契機となったかもしれない。

 

 1946年、アメリカ軍政庁は警務部公安局に女子警察を新設することを決定した。5月にまず幹部となる女性16名を選抜し、6月3日締切りで女子警察官を募集した。

 

 

 李良傳は、16名の幹部には含まれておらず、7月1日に首都管区警察庁に任用されているので、この6月の募集に応募したのであろう。

 

 当時、アメリカ軍政下で女性の社会進出促進の動きはあったものの、韓国最初の女性弁護士李兌栄イテヨンが資格を取得したのが1954年になってからということが示すように、日本と同じように、あるいはそれ以上に女性が法曹界で資格を得ることは難しかった。女子警察は、李良傳にとって法律の知識を活かせる場であった。同時に、日本の敗戦の混乱の中で安定的な収入を確保する必要があったのかもしれない。

 

 この時の女子警察官の応募条件の資料は探せていないが、1947〜48年の女子警察官の応募条件では満25歳から40歳となっている。また、専門学校や大学の卒業証明がなければ35歳未満でなければ応募できなかった。

 

 

 女子警察官応募の時点で、1900年生まれの李良傳は満46歳。何らかの手を使って、生まれた年を1911年としたのではないのかと考えられる。1956年の『大韓民国 建国十年誌』にはそれがそのまま記載され、2018年10月の韓国警察庁の報道資料にも、1911年生まれと記載せざるを得なかったのだろう。

 李良傳にとっては、3・1運動への貢献が年齢的に矛盾するなど、様々なリスクは承知の上で、これまで学んだ法律の知識を活かし、これまでの女性運動の実践にもつながる女子警察官への道を選んだのではなかろうか。

 

 1950年6月の朝鮮戦争勃発で、1950年12月には臨時首都となった釜山の鉄道警察隊勤務となり、1953年6月11日に第3代釜山女子警察署長に就任した。1956年2月25日、依願退職して忠清北道チュンチョンプクド清州チョンジュ市の清州大学法学科の教授となった。

 

 1960年の4・19学生革命で李承晩イスンマン政権が倒れ、1961年5月には朴正煕パクチョンヒによる軍事クーデターが起きた。1963年に朴正煕政権下での初の国会議員選挙が行われたが、この選挙に李良傳は呉在泳オジェヨン秋風会チュプンフェの婦女部長として全国区に立候補している。

 

 

 しかし、秋風会は地方区33人、全国区5人が全員落選した。李良傳は、全国区の5人の候補者の5番目。1番目が清州大学院長なので、義理による出馬なのかもしれない。この選挙でも、李良傳は「55歳」としている。数え年だとしても、実年齢と10歳ほどの差がある。

 

 年齢を偽っても自分の学びを活かし、女性の社会活動を実現しようとした李良傳の事情を、崔恩喜や黄信徳などは理解していたのであろう。『祖国を取り戻すまで』や『韓国女性独立運動史』で、李良傳の活動遍歴や、金柏枰との関係について、曖昧な書き方になっていたり、モザイクがかけられて矛盾点や不可解な点が多くなっているのは、李良傳の生き方への「配慮」だったのかもしれない。

 

  エピローグ

 昨年(2023年)8月15日の『韓国日報』は、警察庁提供の写真を掲載して「独立運動有功警察官」として李良傳を紹介している。生没年は、依然として「1911年〜未詳」となっているが…。警察庁としてはこれは変更できないかもしれない。

 金柏枰は、1990年にアメリカで逝去した。2009年に国外独立有功者の一人として遺骨をアメリカから韓国に移送し、大田テジョンの国立顕忠院ヒョンチュンウォン墓地に埋葬された。ただ、2020年3月には、一部マスコミで金柏枰がドイツでナチの医学研究に協力したのではないかという疑義が提起されたこともあった。

 

 李良傳は、日本による植民地統治下の朝鮮で3・1運動に参加し、その後日本に渡ってハングルの女性雑誌を刊行、東京での3・1運動一周年行事では警察署長を殴って1週間勾留された。その後、朴烈・金子文子の救援活動にも関わり、日本の婦人参政権獲得運動の活動にも加わっていた。明治大学の法科専門部女子部への入学、そして法学部への編入学は、その女性の権利獲得運動の延長線上にある実践だったとも言えそうだ。

 その間の金柏枰との関係も気になるところだが、あくまでも資料をもとにした推測の域を出ない。

 解放後の韓国における活動からも、啓蒙や教育よりも自らの実践活動を優先するところに重きを置いた生き方を、李良傳は最後まで貫いたのかもしれない。

 

(完)

 

このあと、二つ新しい資料が出てきて「ドラマ「虎に翼」時代の李良傳(補遺)」をアップしました。合わせてお読みください。