ドラマ「虎に翼」時代の李良傳(2/3) | 一松書院のブログ

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  • 「虎に翼」時代の朝鮮女子学生
  • 李良傳イヤンジョンの経歴資料
  以上は(3/1)
ここから
  • 3・1独立運動、そして東京へ
  • 3・1独立運動一周年
  • 朴烈パックヨルの救援活動と金柏枰キムペクピョン
ここまで
  以下は(3/3) に続く
  • 日本での「婦選運動」
  • 明治大学女子部入学・法学部編入
  • 解放後の李良傳
  • エピローグ

 

  3・1独立運動、そして東京へ

 李良傳イヤンジョンは、1900年に全羅北道全州で生まれ、その後一家は京城に引っ越した。何らかの事情で2〜3年遅れで京城女子高等普通学校(女子高普)に入学し、1919年3月に卒業見込みだった。

 

 1919年1月に高宗コジョンが逝去すると、日本政府は3月3日に李太王(高宗)の国葬を京城で行うことを公表した。多くの人が集まる国葬前のタイミングを好機として、朝鮮の宗教指導者や独立運動家、学生などが、独立宣言書を配布して街頭デモを計画した。自宅通学だった李良傳は、全羅南道の麗水から上京して京城高等普通学校に通っていた金柏枰キムペクピョンから前日にこの計画を知らされた。京城女子高普の寄宿舎(現在の憲法裁判所のところ)にいた崔恩喜などの地方出身者はすでに情報を共有していたのであろう。

 

 

 

 3・1運動の前夜、専門学校の朝鮮人学生や普通学校の生徒たちは、謄写版で作成した独立宣言書をそれぞれ運搬・分配して、翌日学内や街頭で配布すべく周到な準備をしていた。3月1日だけでなく、3月3日の国葬後の3月5日にもデモが予定されていた。それに向けては、警察に拘束された金柏枰に代わって李良傳も謄写版での配布物の作成に加わった。3月5日のデモで、李良傳は腰に重傷を負い、一旦京城を離れて全州チョンジュで怪我の治療をした。逮捕・勾留されていた金柏枰は、11月6日になって京城地方裁判所で保安法違反、出版法違反で懲役10ヶ月を宣告されたが、他の71名の被告とともに控訴。しかし、1920年2月27日に控訴は棄却されて服役した。崔恩喜は「金柏枰は、その年の11月の公判で無罪釈放となったので、李良傳は金柏枰と共に留学のため東京に旅立った」と書いているが、これは記憶違いだ。そのように間違うほど、金柏枰と李良傳とは東京で親密な関係にあったとも思われるが…。

 

 李良傳は、1919年秋に単身で東京に渡った。東京での最初の活動は、ハングルでの女性雑誌の出版だった。日本の警保局保安課の1920年6月30日調べの「朝鮮人概況」に、李良傳が雑誌『女子時論ヨジャシロン』を1920年1月に発刊したことが記録されている。

 

 

 保安課の資料には「横濱ニ於テ發行」とあるが、実際の発行人は東京本郷区元町の李良傳、発行元は本郷区東竹町の女子時論社。現在の水道橋の順天堂大学とその近くである。印刷を行った横浜の福音印刷は、キリスト教系の印刷会社でハングルの活字があって組版もできた。これ以降も朝鮮語の書籍の印刷実績がある。

 

 『女子時論』は李良傳個人の雑誌ではなく、編集方針を決めて原稿を集めて印刷・製本をして刊行された雑誌で、李良傳が東京に来る前から組織的な作業が進んでいたものとみられる。

 

 

 後日、1955年12月のことだが、北朝鮮で南朝鮮出身の大物共産主義者朴憲永パクホニョンの粛清裁判が行われた。この時の判決文の中にこの『女子時論』のことが出てくる。

被告朴憲永は、1919年頃、ソウルで雑誌「女子時論」の編集員を務めていた時に、同雑誌を主幹する親米分子車美理士チャミリサとキリスト教宣教師として延禧専門学校の教員(後に校長)を務めていたアメリカ人アンダーウッドとの親交を通じて崇米思想を抱くようになり···

林敬碩『而丁 朴憲永一代記』2004

 朴憲永は、3・1運動の時は、金柏枰と同じ京城高等普通学校に在学中だった。『女子時論』は、日本の植民地時代の朝鮮における女性解放運動の先駆者の一人とされる車美理士が主幹し、朴憲永はその編集員だったという。李良傳も編集員であったのかもしれない。3・1運動後の京城での印刷・発行を断念して日本で刊行することを李良傳に託した可能性もある。この雑誌は、1921年6月の第6号が4月23日に発売頒布禁止処分になって(『東亜日報』1921年4月26日)廃刊となった。

 

 朴憲永の裁判は「粛清」という特殊性もあり、裁判記録に記された過去の事実関係をそのまま信じることはできないが、李良傳が朝鮮の独立だけでなく、女性の権利拡大や地位向上などに強い関心を持ち、日本に渡る前から具体的な活動にも関与していたことの証しにはなるだろう。

 

  3・1独立運動一周年

 1920年3月1日、3・1運動1周年の日に合わせて、東京の朝鮮人留学生約100名が神田の中華民国青年会館に集まった。しかし、出動した警察隊によって解散させられ、一旦は解散したが、午後2時に日比谷公園に集まり屋外集会を開いた。ここで参加者のうち53名が日比谷署に検束されたが、そのうち女子学生2名が抵抗して増田署長を殴ったとして拘留7日間の処分を受けたことが『東京日日新聞』に報じられている。上海の大韓臨時政府の機関紙『独立新聞トンニップシンムン』は、その二人が黄俊徳と李良傳だと伝えている。黄俊徳は、黄信徳ファンシンドクの誤記である。

 

 

 黄信徳は、1915年に平壌ピョンヤン崇義スンウィ女学校を卒業して1918年12月に日本に渡り、朝鮮での3・1独立運動の時は東京の千代田高等女子校に在学していた。1920年3月に日比谷公園で拘束された後、高等女学校を卒業して1922年に日本女子大学社会事業学科に入り1926年3月に卒業した。東京では李良傳とも一緒に活動していた。1926年に朝鮮に戻り、京城で『時代日報』『中外日報』の記者となり、その後、女性の教育問題に取り組んだ。京城家庭女塾を運営し、解放後は中央チュンアン女子中学・高校と秋渓チュゲ芸術専門学校(現:秋溪芸術大学校)を建てた。

 

 この3・1運動1周年の日比谷での事件の2年後、京城で発刊されていた『毎日申報』の1922年2月23日付の紙面に下関発で「下関署に捕えられた女子学生」という記事が掲載された。

 

下関署に捕えられた女子学生 独立運動の宣伝かと取り調べ中

20日午後8時50分に下関に到着し下車したツイードの洋服にブーツを履いた朝鮮人女学生一人を、東京の淀橋警察署からの電報で捜査していた下関警察署の係官が見つけて本署で秘密裏に取り調べ中だという。聞くところによれば、彼女は慶尚北道キョンサンプット出生の李大権イデグォンの次女で、東京女子大学2年の李良傳という女学生。去る19日午後、世の中が嫌になったので自殺すると書き残していなくなり、帝国大学2年生に在学中の兄の李某氏からの保護願いが出されて探していたものだが、同女学生は過激な思想があって警察の取り調べにも黙秘したり悪態もついている。普通の学生とは思想が異なり、独立運動の宣伝をするかもしれないということで、警察では秘密裏に厳重に取り調べ中だという。

 朝鮮総督府の朝鮮語の機関紙の役割を果たしていた『毎日申報』が、独立運動との関わりが疑われるとはいえ、なぜ東京の一女子学生のことを下関発で記事にしたのか疑問だが、この記事には李良傳のいくつかの新しい情報が盛り込まれている。李良傳は慶尚北道出生の李大権の次女で、東京女子大学の2年生。兄が東京帝国大学2年生に在学中で、書き置きを見つけて警察に保護願いを出したとなっている。だが、この記事の人的事項に関しては、上掲の経歴資料との矛盾点が多い。『韓国女性独立運動史』には「全羅道出身」の「無男独女」とあるのに対して、『毎日申報』の記事では「慶尚北道李大権」の「次女」となっている。また、保護願いを出したのが「帝国大学在学中の兄」という点も「無男独女」と矛盾している。出自の情報はあまり当てにならない。東京女子大も、東京の女子大という可能性もあるが、この時はまだ明治大学に通っていたのではなかった。
 

 この時期が李良傳が精神的なトラブルを抱えていたという時期なのかもしれない。日本女子大学社会事業学部に在学していた崔恩喜は、『祖国を取り戻すまで』に、「李良傳は金柏枰の保護の下で学業を続けたが、一時期は精神を病んで…」と書いている。この記事にある「精神を病んだ」のと関連がありそうだ。ただし、この新聞報道が出た時期には金柏枰はまだ日本には来ていなかった。

 

  朴烈の救援活動と金柏枰

 金柏枰キムペクピョンは、3・1独立運動の時に逮捕され、翌年2月に懲役10ヶ月の実刑が確定して西大門刑務所で服役した。

日帝監視対象人物カード

 

 1920年4月28日に出所した後、実家のある全羅南道チョルラナムド麗水ヨスに戻って、退学させられた地元青年などを糾合して「マットップ会(合手会)」を立ち上げてその会長となり、地方の青年や女性を対象にした啓蒙運動を展開した。1923年6月22日には、麗水青年会館で開かれた青年討論会に参加していることが『東亜日報』の1923年6月27日付け記事で確認できる。従って、金柏枰が日本に渡ったのはこれ以降のことであろう。

 

 1923年9月に関東大震災が起きた。関東に居住していた多くの朝鮮人、それに内地人の社会主義者や地方出身者が虐殺されたが、李良傳の周辺の朝鮮人留学生にはその虐殺の魔手は及ばなかったようだ。

 

 この震災直後に、朴烈パクヨルが金子文子とともに天皇の暗殺を企てたとして逮捕される事件が起きた。9月3日に予防検束で拘束され、翌1924年2月15日に爆発物取締罰則違反で起訴されたが、この拘束された時期に、東京に残っていた朝鮮人留学生たちは、朴烈の支援活動を行なった。「大逆罪」の容疑に切り替えられるまでは支援活動もさして難しくなかったのだろう。

 

 『祖国を取り戻すまで』の「第32章 東京での足跡」「勾留された朴烈への支援活動」で、崔恩喜は次のようなエピソードを紹介している。

 朴烈が勾留された時、彼の支援活動をしたのは東京の朝鮮人留学生だった。男子学生たちも様々な形で資金を工面したが、女子学生たちは朴順天、黄信徳、韓小濟ハンソジェなどを中心にハンカチを作って販売した。東京留学生運動会の売上高は大きな収穫をあげた。ハンカチは誰にでも必要なものなので、少し無理をしてでも、また多少値段が高くても、寄付するつもりで誰彼となく1ダース、半ダースと現金で買って売切れになったという。その収入は大そうなもので、かなり長いあいだ拘置所の朴烈への差し入れをまかなうことができた。

 この留学生運動会が縁になって後日結婚にまで至ったエピソードがある。任鳳淳イムボンスンと黄信徳の二人は留学生運動会の役員として一緒に活動していた。初対面から印象に残り、互いに好感を持った。それ以前にも、キリスト教青年会館でハンサムな青年が黄信徳ににっこり笑いかけたことがあった。その時、その青年はカスリの着物を着た早稲田大学専門部の学生だった。黄信徳が自分の友達に、

良傳ヤンジョン! このあいだ礼拝堂で若い男の子が私を見てにっこり笑ってた」

と言った。自分には熱愛する恋人がいた李良傳は、

「信徳姉さんには恋愛はできないよ。 4〜5年後には恋愛が分かるかもしれないけど。 信徳姉さんは若年寄りだからね…」

とからかったというのだ。黄信徳は、日本女子大学を卒業して帰国し、『時代日報』『中外日報』の記者を経て、実践シルチョン女子学校の教師として就職してから、当時『東亜日報』の社会部記者になっていた任鳳淳との恋がついに実って結婚した。

 同じ書物の李良傳を紹介した部分では、特に脈絡もないまま「金柏枰はドイツに渡って医学博士号を取り、アメリカで暮らしている」と、わざわざ金柏枰に言及している。

 

 さらに、『韓国女性独立運動史』(1980)にも、

李良傳の配偶者である金氏は名門の家の出で、大きな志を抱いてドイツに渡って医学を専攻し、生涯独身で暮らした。解放後には米国に渡って、蓄えた財産で老人福祉機関を設立し、奉仕活動をしている。 金氏は彼らの一人息子とその家族を数回にわたってアメリカに呼び寄せたことがあり、現在は80歳を越えて健康が優れないながらも老人福祉事業を運営している。

との記載がある。ドイツに行った「配偶(原文は배필:配匹)」の「金氏」が、金柏枰であることは間違いない。そして、『韓国女性独立運動史』に「金氏は彼らの一人息子とその家族を数回にわたってアメリカに呼び寄せたことがあり」とあることから、李良傳と金柏枰との間に子供がいたことを示唆している。

 

 その金柏枰が、いつ、なぜ、どのようにして日本からドイツに行ったのかはわからない。ただ、1925年11月21日付の『朝鮮日報』の「在ドイツ高麗学友」という記事には、生物学を専攻する金柏枰の名前が出てくる。

 

 

 従って、1924年から1925年の前半に、金柏枰はドイツへの留学を実現させたのであろう。1919年の3・1運動で拘束されて有罪となった金柏枰は、学歴としては京城高等普通学校中退で、日本での高等教育機関への進学は難しかった。李良傳がシングルマザーになることを決意したのもこの頃なのであろう。

 

 その後、金柏枰は1930年代になってベルリン大学で生物学と医学で博士号を取った。その間、在独留学生の金柏枰の消息は『東亜日報』や『朝鮮日報』でも伝えられている。ただ、李良傳と連絡を取り合っていたのかどうかは資料や証言では確認できない。

 

(3/3)に続く