ドラマ「虎に翼」時代の李良傳(1/3) | 一松書院のブログ

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ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • 「虎に翼」時代の朝鮮女子学生
  • 李良傳イヤンジョンの経歴資料
  (ここまで
   以下は(2/3) に続く
  • 3・1独立運動、そして東京へ
  • 3・1独立運動一周年
  • 朴烈パックヨルの救援活動と金柏枰キムペクピョン
  • 日本での「婦選運動」
  • 明治大学女子部入学・法学部編入
  • 解放後の李良傳
  • エピローグ

 

 NHKの朝の連続ドラマ「虎と翼」で、猪爪寅子のモデルになった武藤(三淵)嘉子は、1932年に明治大学専門部法科女子部に4期生として入学し、1935年に卒業した。そしてそのまま明治大学の法学部に編入し、1938年3月に法学部を卒業した。

 

 

 1920年代の末に、女性にも弁護士資格を認める方向で弁護士法改正の動きはあったが、実際に法改正が行われたのは1933年のこと。司法科試験の受験資格は、文部省の指定する法律専門学校卒か、大学の法学部在学中もしくは法学部卒となっていた。この当時、女性が受験資格を得るためには、1929年に専門部法科に女子部を新設し、そこから法学部への編入を認めていた明治大学に進むという道しかなかった。

 

  「虎に翼」時代の朝鮮人女子学生

 1929年に明治大学が専門部法科に女子部を開設すると、多くの女性が入学した。1932年に1期生54人が卒業したが、そのうち10名は台湾もしくは中国出身の女性であった。朝鮮人女性の最初の卒業生は1933年に卒業した2期生の金貞浩キムジョンホ。ただし、法学部の卒業生名簿には金貞浩の名前はないので学部への編入はしなかったのかもしれない。この金貞浩の一年後、李良傳イヤンジョンが1934年に法科女子部を卒業した。3期生である。そして1937年には法学部を卒業している。李良傳が、ちょうど武藤嘉子の一年上の学年で同じコースを歩んだことになる。

 

 

 卒業者名簿で見る限り、武藤嘉子の同学年や1年後輩には朝鮮人は見当たらない。台湾人もしくは中国人と思われる名前はかなり目につき、これはこれで非常に興味深い。金貞浩や李良傳については、朝鮮の『東亜日報』や『毎日申報』でも報じられており、この二人が朝鮮人女子学生であったことは確認できる。

 

 すでに話題になっているように、ドラマ「虎に翼」には、朝鮮からの女子学生「崔香淑」が登場する。ただ、李良傳がそのモデルというわけではなさそうだ。なぜなら、李良傳の正確な経歴などは、日本ではもとより、韓国でも詳細には検証されていない。また、実際の李良傳とドラマの中の崔香淑とは、年齢や経歴においてかなり違いがある。

 

 とは言っても、武藤嘉子と同じ時期に同じ場所で勉学に励んでいた朝鮮女性李良傳とはどのような女性だったのかが気になる。資料を検証してその足跡を追ってみたい。

 

  李良傳の経歴資料

 6年前の2018年10月。韓国の警察庁は、日本の植民地支配下で独立運動を行なった経歴があるにも関わらず「独立有功者」として認定されていない警察関係者の資料を発掘して報勲処に審査を要請したと発表した。その中に「李良傳イヤンジョン」の名前もあった。

 

 ただ、そこで発表された李良傳の経歴には不可解な点がある。

 

写真の左から3番目が李良傳

3代目の釜山女子警察署長を務めた李良傳警部(1911年〜不詳)は、1919年、京城女子高等普通学校の生徒たちと秘密団体を結成、3・1独立宣言書などを配布する万歳独立運動に積極的に参加した。1920年3月1日、東京留学生たちの独立宣言1周年祝賀デモに参加し、日帝警察の「要監視対象」になっていた。

 『京郷新聞』以外の新聞報道でも「1911生まれ」と記されているので、誤植ではなく警察庁の報道資料がそうなっていたということ。ただ、それだと3・1運動当時は8歳ということになってしまう。これはおかしい。

 その不可解さは、李良傳の長い人生をたどることで氷解するのだが、話は長くなる。しばらくお付き合いいただきたい。

 

 まず、李良傳イヤンジョンの略歴・経歴について書かれた三つの資料を紹介しておこう。

1.『大韓民国 建国十年誌』建国記念事業会(檀紀4189:1956年)

 この資料は、李良傳が1945年の解放後に在職していた女子警察在任中に作成されたもので、職場だった公安局の履歴記録が元データになったと思われる。上述の2018年の「報道資料」もこれによったと思われる。

 

 年号は、すべて檀君紀元の「檀紀タンギ」で書かれている。それを西暦に直すとこのようになる。

李良傳…本籍 ソウル 1911年12月6日生まれ 明大法学部卒 1950年釜山鉄道警察隊警備係女警主任 1952年治安局勤務 1953年慶南釜山女子警察署長

2.崔恩喜 編著『祖国を取り戻すまで(祖國을 찾기까지):1905-1945 韓國女性活動秘話』探求堂(1973)

 編著者の崔恩喜チェウンヒは、李良傳とは、3・1運動の時に京城女子高等普通学校(女高普)で同じクラスに在学していた。1919年に京城女高普を卒業し、日本女子大学社会事業学部に留学したが、中退して1924年から1931年まで『朝鮮日報』の敏腕女性記者として活躍した。解放後も言論人としてだけでなく女性運動の中心的な活動家でもあった。

 

 李良傳とは、京城女高普の時だけでなく、東京での留学時代も重なっており、この本の「第22章 三・一の足跡」で李良傳について一項を設けて紹介している。

 

 李良傳は、3・1運動の時、京城女子高等普通学校の本科最終学年だった。同じクラスの崔恩喜(著者)が主導する秘密サークル運動に2年前から参加し「校内の抗日闘争」「同胞の助け合い」「独立精神の昴揚」などの情宣と実践の先頭に立っていた。彼女は自宅通学だったので、3・1独立運動の前日の2月28日の夜になって、全羅南道麗水から上京して京城高等普通学校に通っていた4年生の金柏枰キムペクピョンから翌3月1日に民族代表33人の朝鮮独立宣言があることを知らされた。2月27日の夜、印刷された宣言書の京城府内での配布は、専門学校の学生代表を通じて各中等学校の学生たちが行うことになっていた。普成ボソン専門学校の康基徳カンキドクの連絡によって、中等学校の学生代表は2月28日夜に、33人の民族代表の一人李弼柱イピルジュ牧師が住む貞洞チョンドン礼拝堂構内に集まり、専門学校の学生代表は勝洞スンドンの礼拝堂に集まった。京城医学専門学校の金成国キムソングクが持ってきた宣言書1,500枚を貞洞礼拝堂で受け取り、中等学校の学生代表の集会場所に伝達した。京城高等普通学校の代表金柏枰は宣言書200枚を受け取り、3月1日午後に学生たちを先導してタプコル公園に向かう道すがら、通行人や商店・民家に配付した。金柏枰は、その日のデモで逮捕された。
 李良傳は3月1日、京城女子校等普通学校の女学生たちと一緒に日が暮れる頃まで万歳を叫びながら街頭行進をしたが、捕まることなく無事に帰ってきた。その翌日、李良傳は、3月5日の学生主催の万歳運動に必要な宣言書やビラを謄写するために金柏枰の同級生たちから連絡を受けて出かけた。 彼らは、こっそりやっている謄写印刷の作業がばれるのではないかと神経質になっていて、小さな物音にも驚いて謄写版を隠したりした。李良傳は、3月5日の万歳運動に参加し、無差別に振り下ろされる憲兵の銃で腰を殴られ、騎馬兵の馬の蹄に蹴られ、さらに道端に倒れたところを逃げ惑う群衆に踏まれて腰に重傷を負った。全羅道チョルラドの生まれ故郷で療養したが全快しないままだった。京城地方裁判所の予審に回された金柏枰は、その年の11月の公判で無罪釈放となったので、李良傳は金柏枰と一緒に留学のために東京に旅立った。

 1920年3月1日、100人余りの東京の留学生が日比谷公園に集まり、独立宣言1周年祝賀万歳デモを行い、53人が検束された。その中に黄信徳ファンシンドクと李良傳の二人の女子留学生もいて、日比谷警察署で1週間拘留された。その後、李良傳は金柏枰の保護の下で学業を続けたが、一時期は精神を病んで発作が起きると急に飛び起きて「謄写版、早く片付けて!早く!」と叫んでいたという。病状が悪化し、朴順天パクスンチョン朴定根パクチョングンなどが手配して海辺で療養したこともあった。金柏枰はドイツに渡って医学博士号を取り、アメリカで暮らしているという。李良傳は、東京の明治大学法学部を卒業し、解放後は釜山プサン女子警察署長、忠清北道チュンチョンプクド清州チョンジュ大学講師などを歴任した。

3.『韓国女性独立運動史:3・1運動60周年記念』3・1女性同志会(1980)

 この資料は、3・1運動の60周年を記念して、3・1女性同志会が1980年に出版したもので、独立運動史や女性運動史の研究者が資料収集や編集にあたった。出版時の3・1女性同志会の会長は上述の『祖国を取り戻すまで』の編著者崔恩喜だった。

 この本の李良傳の項目では、3・1運動への関与部分については、上掲の崔恩喜『祖国を取り戻すまで』の記述が使われている。ただ、エピソードの前後関係が変わっている部分がある一方で、生没年が「1900〜1979」と明らかにされており、李良傳に一人息子がいたことが記されている。さらに、その一人息子の父親はドイツに留学してアメリカに在住している「金氏」だとされている。さらに晩年の李良傳の様子も記されていることから、この項目の記述内容には、その一人息子からの情報が加味されていると思われる。上掲の2の資料と照らし合わせると、この「金氏」が金柏枰であることは明らかなのだが、ここでは実名は伏せられている。

 

 李良傳イヤンジョンは1900年に全羅北道全州で生まれ、男兄弟のいない一人娘で静かな生活環境で育った。京城女子高等普通学校の最終学年の時、第一高等普通学校の生徒たちと合流して3・1万歳運動に必要な宣言書およびビラを謄写版で作成して配布し、当日、パゴダ公園でのデモで、無差別に殴打する憲兵の銃台に腰を殴られたり騎馬兵の蹄で蹴られて負傷した。

 その後数年間、3月になると「謄写版を隠して!」「あっちから憲兵が来る!」などとうわごとを言うような精神錯乱が起きて苦しんだ。3・1万歳事件直後、東京に渡って療養した時、黃信德・朴順天・朴定根などが彼女を海辺に連れて行って療養させた。スコフィールド博士が奇特な行いだとして写真を撮ったこともあった。

 1920年、韓国留学生の主導で3・1独立万歳1周年記念式が日比谷公園で行なわれた際、黃信德とともに警視庁に連行・拘禁され、数週間の拘禁生活を経験した。その後、苦学生ながら東京の明治大学の法科と早稲田大学を出て、自分の専攻を生かして各方面で活躍した。朝鮮戦争の時は釜山女子警察署長となり、数年間清州大学の法科講師としても勤務した。

 李良傳の配偶者である金氏は名門の家の出で、大きな志を抱いてドイツに渡って医学を専攻し、生涯独身で暮らした。解放後には米国に渡って、蓄えた財産で老人福祉団体を設立して奉仕活動をしている。金氏は彼らの一人息子とその家族を数回にわたってアメリカに呼び寄せたことがあり、現在は80歳を越えて健康が優れないながらも老人福祉事業を行なっている。

 李良傳は、晩年は一人息子と5人の孫に囲まれて漢南洞で暮らしていたが、昨年11月に亡くなった。彼女が国家と民族のために捧げた70余年の生涯における苦難の歴史は、人よりも天がよく知るところであろう。普段は口数が少なかったのだが…

 2と3の資料に書かれた内容は、同時代の当事者の証言として有用な記述がある一方で、当時の新聞その他の資料と付き合わせると、伝聞や記憶違いに起因する錯誤、そしてその他の事情に起因する時期のズレや事実誤認があることが明らかになった。そのズレや誤記載、そしてモザイクがかけられた記述にも李良傳の波乱万丈の人生を垣間見ることができる。

 

以下(2/3)に続く