東京の「李王家」邸宅 | 一松書院のブログ

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 1924年9月の「番地界入東京市拾五区区分図」の「麻布区」に「李王世子邸」の記載がある。現在の地図と重ねると、東洋英和女学院小学部の敷地がその場所にあたる。

 

 

  鳥居坂李王世子別邸

 この地図のこの場所が、1907年12月に日本留学の名目で東京に連れてこられた李垠イウンの住まいとなった鳥居坂李王世子別邸である。1912年8月6日付の『毎日申報』に次のようなキャプション付きで写真が紹介されている。

東京鳥居坂李王世子別邸

東京鳥居坂の別邸は数年前に大行天皇(明治天皇)の特別なご配慮で李王世子に下賜なされたもので、この別邸は庭園が広く木々が鬱蒼として景色がよく、李王世子はここで寝起きされながら勉学に励んでおられる

現在の東洋英和女学院小学部正門

 

 1907年のハーグ密使事件をきっかけに、韓国統監伊藤博文は高宗コジョン皇帝を退位させて李坧イチョク(純宗スンジョン)を即位させた。そして、李坧の異母弟である李垠を皇太子として擁立し、李垠を日本に留学させるよう進言。李垠は1907年12月に東京に到着した。当初、李垠は芝離宮に滞在していたが、鳥居坂にあった佐々木高行侯爵邸を改修して1911年に李垠に下賜した※。

伊藤博文と車に乗る李垠

 

 1910年に大韓帝国が日本によって併合されると、大韓帝国の「皇帝」は「王」に格下げされ、先代の皇帝の高宗は「李太王」、最後の皇帝(純宗)は「李王」、そして「皇太子」は「李王世子」とされた。

 

 李垠は、1911年9月に陸軍中央幼年学校に編入学し、その後陸軍士官学校に進んで1915年卒業、近衛歩兵第2連隊に士官として任官した。1916年8月3日付の新聞に「李王世子の御慶事 梨本宮方子マサコ女王殿下と御婚約」と報じられた。梨本宮方子自身は、この新聞報道を見てはじめて自分の結婚相手を知ったという。

 

『読売新聞』1916年8月3日朝刊

 

 この結婚のため、鳥居坂別邸には新居が新築された。

 

 

 ちょうどこの時期は、スペイン・インフルエンザが世界的に大流行していた。日本でも感染者が激増し、今回の「コロナ流行」と同じような混乱を引き起こしていた。しかし、李王世子李垠と梨本宮方子の婚姻は、翌年早々に挙式の方向で進んでいた。

 

 ところが、翌年1月21日早朝、高宗(李太王)が徳寿宮トクスグンで薨御した。李垠と方子の婚姻は先延ばしとなった。高宗の葬儀は国葬として3月3日に京城で執り行われたが、この高宗の薨御とその国葬をきっかけに、朝鮮全土で3・1独立運動が展開されることになった。

 

 延期されていた李垠と方子の婚礼の儀は、1920年4月28日に鳥居坂別邸において行われた。

 

 

  紀尾井町李王邸

 1924年に、紀尾井町の旧北白川宮邸の跡地が李王家に下賜された。ここは元々は紀州徳川家の屋敷があった場所で、1876年に北白川宮へ下賜された。北白川宮邸は1912年に高輪南町の新邸へ移転し、この敷地は宮内省に返上されていた。16,000坪のうち、李王家に12,300坪、2,900坪を宮内省官舎敷地、残りを東京都の公園敷地とした※。

 

「番地界入東京市拾五区区分図」麹町区

 

 1926年4月24日、純宗(李王)が薨御した。李王世子李垠は「昌徳宮李王垠」となった。そして、この紀尾井町の旧北白川宮邸の跡地で、その年の秋から「李王邸」の新築工事が始められた。

 

 

 邸宅は1930年初に完成し、この年の3月に李垠・方子夫妻は紀尾井町の「李王邸」に移った。そして1931年に鳥居坂の土地と邸宅は返上した。その後、鳥居坂の邸宅は1943年に昭和天皇の長女と結婚した東久邇盛厚(東久邇稔彦の長男)の新居となった。敗戦後、1952年4月11日に東洋英和女学院が東久邇盛厚からこの土地を購入、そこに小学部の校舎を建設した。

 

 

  日本の敗戦後

 1945年8月の日本の敗戦とともに、李王家への日本からの歳費の支給もなくなった。

 

東京都区分図 千代田区詳細図(1947)

 

 紀尾井町の邸宅については、国際基督教大学からの買収の申し入れがあったが李垠はこれを断り、参議院議長公邸に賃貸で貸し出して自分たちは家政婦の部屋で暮らした。日韓国交正常化のための日韓会談が始まると韓国政府から将来の在日韓国大使館用地として買取の申し出があった。しかし、入金がなくキャンセルとなり、結局、1952年に堤康次郎に売却された。李垠・方子夫妻は田園調布3丁目84(現:田園調布3丁目28の一角)に購入した住居に移った。


東京都区分図 大田区詳細図(1949)  1952-1958東京都(3千分1)

 

 1955年、旧「李王邸」を改装して赤坂プリンスホテルがオープンした。その後、赤坂プリンスホテルは新館やタワーを増築し、旧「李王邸」は旧館として利用された。しかし、赤坂プリンスホテルは老朽化などで2011年に営業を終了、跡地は2016年に東京ガーデンテラス紀尾井町となった。ただ、旧「李王邸」は、現在も「赤坂プリンス クラシックハウス」としてそのまま残されている。

 

赤坂プリンス クラシックハウス

 

 1948年に大韓民国が建国されたが、初代大統領の李承晩イスンマンは、自分自身が朝鮮王朝王家の傍系であることもあってか、直系である「李王家」に対して極めて冷淡であった。しかし、1960年に4・19学生革命で李承晩が失脚し、翌年の5・16軍事クーデターで実権を握った朴正煕は、李垠と方子の韓国への帰国に前向きであった。

 

 脳軟化症で寝たきりになっていた李垠に代わって、方子がまず1962年に韓国に渡った。

 

 

 そして方子の2回目の訪韓の時、一旦日本国籍になっていた李垠・方子夫妻の韓国国籍を回復させた。当時、読売新聞の嶋元謙郎特派員がソウル発で記事を書いている。

 

 

 李垠・方子夫妻は1963年11月22日に韓国に帰国した。

 

 

 1970年5月1日、李垠が聖母病院にて72歳で永眠。

 1989年4月30日、李方子が87歳で永眠。

 


※ 帝室林野局五十年史(1939)
鳥居坂御料地(157コマ)・紀尾井町御料地(154コマ)