ソウルの「日本人タウン」形成史 | 一松書院のブログ

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  • 初期の日本からの渡航
  • 日韓国交正常化以降
  • 外人ウェインアパート」の建設
  • 日本人学校

 1945年8月15日の日本の敗戦時、米軍が敗戦処理を担当する朝鮮半島の北緯38度線以南には50万人近い日本人が居住していた。これが、「引揚げ」によって1945年末には日本人は2万8000人程度になり、翌年春までにはほぼ全ての日本人が退去した。ここでいう「日本人」とは、いわゆる「内地」、現在の日本の主権領域内に「本籍」がある人のこと。当時は、婚姻や養子以外で本籍を動かすことは極めて難しかった。特に、内地と朝鮮の本籍は厳格に区分管理されていた。それもあって、日本の敗戦時に、朝鮮から退去すべき人は容易に抽出することができた。朝鮮人との婚姻で朝鮮戸籍に入った日本女性は、日本に戻ろうとしても引揚げの対象にはならず、朝鮮に残留した。米軍政庁が許可した少数の日本人も残留することになった。

 そして、日本から朝鮮半島への公的な渡航は途絶した。

 

  初期の日本からの渡航

 公然ルートでの戦後初の渡航者は、朝鮮戦争の取材で韓国に入国した日本の各新聞社・通信社の特派員だろう。ただ、彼らは韓国政府の渡航査証ではなく、国連軍(米軍)の渡航許可を得て韓国に入ったものだった。朝鮮戦争休戦後も日本人記者は国連軍の証明で韓国内で取材を続けた。しかし、1956年11月に韓国の李承晩イスンマン政権は日本のマスコミ各社の記者に退去命令を出した。日本のマスコミ数社が韓国への取材渡航を申請したが、認められなかった。

 

 韓国政府が認めた初めての日本からの渡航者は、首相岸信介の個人特使として1958年5月19日に訪韓した国策研究会の矢次一夫。矢次には駐日韓国代表部の柳泰夏ユテハ公使が同行し、26時間のソウル滞在中に李承晩大統領とも面談している。

 

 1960年4月、李承晩政権が倒れると、5月3日に韓国政府は日本の特派員の韓国入国を認めることを表明、5月16日から5月17日にかけて15名の日本人特派員がソウルに入った。半島バンドホテル(現在のロッテホテルの場所にあった)にそれぞれ取材拠点を置いて、光化門クァンファムン交差点の国際電報局(現在工事中のKT光化門ビルの場所)から記事を日本に送った。(ブログ在韓特派員史参照)

 

 日本政府の官僚で最初に訪韓したのは、外務省北東アジア課の若手外交官だった町田貢。1960年の9月に半島ホテルに宿泊し、韓国外交部のエスコートで地方も視察した。翌年には、北東アジア課長前田利一も訪韓するが、韓国側は日本政府のソウル連絡事務所開設を認めなかったため、その後も駐在ではなく短期滞在での出張が繰り返された。(町田貢『ソウルの日本大使館から』1999 文藝春秋)

 

 この時期から、韓国側からの招請状があれば短期の渡航ビザが発給された。経済関係の代表団や視察団、親善交流や文化交流の訪韓、それにスポーツ交流試合のための渡航が徐々に増えていった。『朝鮮日報』が1963年から1966年4月までの日本人の出入国状況を報じている。

 

 

 こうした訪韓の中で、興味深い例がいくつかある。

 1962年にアジア映画祭がソウルで開催された。アジア映画製作者連盟の会長だった永田雅一以下、東映・松竹・東宝・日活の幹部が牧紀子、新珠三千代、松原智恵子などの女優とともに映画祭に参加した。この映画祭では、日活の「上を向いて歩こう」(坂本九・浜田光夫・吉永小百合など出演)が上映された。

 

 また、1963年6月には日本の女子プロレス選手団が訪韓して、韓国の女子プロレス選手と対戦している。

 

 前年1962年12月に、日本のプロレス・コミッショナーを務めていた自民党副総裁大野伴睦が、韓国からの要請もあって訪韓して朴正煕と会談した。その直後の翌年1月8日から11日まで、力道山が韓国を訪問している。この時、力道山は日本国籍を取得しており、日本の旅券を所持しての渡航だった。

 

 

 この1963年の11月22日には、李承晩政権下では帰国が認められず東京に滞在していた李垠イウン方子マサコ夫妻がJAL特別機で帰国を果たした(대한뉴스 제 445호-영친왕 환국)。

 その3日後の25日から12月2日にかけて、大宅壮一と梶山季之が韓国を訪問している。梶山季之は『文藝春秋』の1964年2月号に「朴大統領下の第二のふるさと」を寄稿した。梶山は、京城中学在学中に京城で敗戦を迎えた。企業小説や風俗小説などとともに「族譜」や「李朝残影」など朝鮮を題材にした小説も書いた。この訪韓時に、梶山が京城で住んでいた新堂町(新堂洞シンダンドン)の家を見に行っている。

 この訪問記の中に料亭の「清雲閣チョンウンガク」に行った話が出てくる。

 清雲閣は、もと三菱か何かの支店長の社宅だそうで、ここではオンドルも、湯を通したパイプを薄いコンクリートの床に埋めて、スチーム式だった。
 日本語を話す妓生は、ほとんど三十歳を越えており、彼女たちが最初に話しかける言葉は、「いつ韓国に来たか?」という質問だった。
 これは、日本の商社マンが、丸紅をはじめとして多く入り込んでいるためで、先ず第一質問によって、新鮮度を占うのだということだった。赴任して間もなくだったら、金を持っているからだろうか。

 青雲閣は、解放後に趙次任チョチャイムが始めた料亭で、鍾路区チョンノグ清雲洞チョンウンドン53-26、現在の紫霞門チャハムントンネルの手前にあった。政財界の要人が利用する高級料亭で、1965年の日韓国交正常化時の外務部長官主催の招宴もここで開かれた。その料亭に、1963年時点で日本の商社マンたちが出入りしていたことがわかる。その前年の1962年秋には、外相大平正芳とKCIA部長金鍾泌キムジョンピルの間で「請求権」をめぐる金額の話が出たことが報じられた。この金を狙って日本の商社などがすでに動き始めていた。日韓国交正常化後、日韓の要人への日本側企業からのキックバックやリベートの噂が絶えなかったが、この時すでに青雲閣などで関係を深めていたのだろうか…。

 

 駐韓日本代表部のソウル開設は実現しなかったが、1964年からは日本の外交官のソウル駐在が認められるようになった。上述の『ソウルの日本大使館から』には次のように記されている。

その後、出張で何回か韓国に足を踏み入れたが、ソウルに初めて駐在したのは1964(昭和39)年である。まだ国交が正常化されていなかったので、半島ホテルに事務所をおき、外務省の職員が交代で駐在した。
 この頃までには、日本の大手マスコミの特派員がソウルに駐在し報道に当たっていた。また、大手商社員たちの姿もチラホラ見られるようになっていた。
 日本人特派員もほとんどが単身赴任であり、われわれと同じように半島ホテルに居を構えていた。双方共に、韓国の政治情勢や社会状況を取材するのが目的なので、出かけるときも食事をするときも、気のあった仲間たちが数名ずつ、一緒になって行動していた。

  日韓国交正常化以降

 1965年12月18日に日本と韓国の国交が樹立された。

 

 

 東京には駐日韓国大使館が開設され、駐韓日本大使館は半島ホテルの5階フロアーに置かれた。ソウルに駐在する外交官や特派員、商社の駐在員などの日本人は、ほとんどが単身でホテル住まいをしていた。

 

 1967年1月18日の『毎日経済新聞』に、日韓国交正常化の最初の一年、1966年の外国人訪韓者の数字があり、そこで日本人の韓国渡航者数も報じられている。

法務部出入国管理当局は、昨年(1966)韓国に入国した外国人86,349人のうち、日本人が16,871人で、年々急増していると明らかにした。
外国人入国者全体の20%を占める日本人は、アメリカ人の30,126人に次いで2番目に多く、入国目的別では、観光が10,773人、商業関係が3,237人、文化・体育関係が999人となっている。
当局の統計によると、1962年に24,348人の外国人が入国したのに対し、1965年には48,562人と199%増加し、1966年には380%増加した86,349人が韓国に入国したとなっている。

 「観光」というのはツーリスト・ビザでの渡航者で、1月〜4月まで2,728人だったのが年間では1万人を越えた。旧朝鮮在住者などの再訪が多かったようだが、実際にはビジネスを目的とした渡航者も多かったといわれる(『朝鮮日報』1966年6月16日)。

 

  また、1967年には韓国政府招請留学生として池川英勝と藤本幸夫がソウル大学の大学院に留学している。それ以降、国費や私費での日本人の韓国留学が徐々に増えていった。1981年10月時点で、韓国全土の日本人留学生数は約100名になっていた(在韓日本大使館『一問一答』1983.11)。

 

 商用ビザでの渡航も増加しており、1967年7月20日には、ソウル日本人商工会が発足した。会長・副会長には三菱商事、伊藤忠、丸紅のソウル支店長が名を連ねている。

 

 

 このように、日韓の国交正常化以降、日本人の短期渡航だけでなく長期の在留が増加したが、家族を伴っての滞在には、まだハードルが高かった。一つは子供の教育の問題で、学齢期の子供の教育は当初は現地校しか選択肢がなかった。もう一つは、住居問題。一般の韓国の家屋では、風呂やトイレなど水回り、それに冬の暖房など不慣れな点が多かった。住居費の支払いも韓国特有の「伝貰チョンセ」が多く、まとまった現地通貨を用意しなければならず、日本式の「住宅手当」では対応が難しいこともあった。

 

  「外人アパート」の建設

 ちょうど同じ頃、韓国政府は外国人向けの住居、すなわち暖房・温水などが集中管理されたマンション型の賃貸式集合住宅の建設を進めていた。

 

 漢南洞ハンナムドン漢江ハンガン河岸の高台には、大韓住宅営団が管理する米軍・国連軍関係者の住宅地「UNビレッジ」があった。もとは日本統治時代に宅地化された華鏡台だったところ。

 

 

 このUNビレッジの東側に、1968年10月に「ヒルトップ外人ウェインアパート」が完成した。その後1990年代には外国人住宅ではなくなり、2002年に大規模改修され、現在はヒルトップ・トレジャーAPTになっている。

 

 

 さらに、1969年6月に、梨泰院イテウォンがら南山に上った循環道路沿いに16階建と17階建の2棟の「南山外人ナムサンウェインアパート」の建設に着手し、1972年12月に完成した。

 

 上掲の写真は、1972〜3年の冬、「南山外人アパート」の完成直後の写真だろう。ちなみに、写真下部の第3漢江橋チェサムハンガンギョ(現:漢南大橋ハンナムテギョ)は1969年に開通、1979年に営業を始めるハイアット・ホテルはまだない。

 

 「南山外人アパート」は、1994年に爆破解体されて跡地は現在は公園になっている。

 

 

 もう一ヶ所、外国人向け住宅が作られたのが東部二村洞トンブイチョンドンである。東部二村洞の河川砂地の宅地化開発が始められたのは1964年。

 

 

 1966年から1970年にかけて、公務員コンムウォンアパート、民営ミニョンアパート、漢江マンションなどの集合住宅と共に外国人向け住宅「リバーサイドビレッジ」が建設された。

 

 

 これらの「外人住宅」・「外人アパート」は、大韓住宅公社が管理していたので、「伝貰」ではなく「月貰ウォルセ」、すなわち家賃は月払い。日本人駐在員には、多額の外貨をウォンにする必要もなく住宅手当で賄えるメリットが大きかった。住宅は上下水道に都市ガスが完備しており、暖房や温水は集中管理。広さは日本の住宅よりも広いくらいで、「食母シンモ」と呼ばれた家政婦や運転手も雇用することができた。

 さらに、リバーサイドに隣接する漢江マンションは、当時としては一般市民の手の届かない高級分譲住宅。それなりの地位と財力の韓国人が購入した。複数戸数を購入した所有者の中には日本人向けに月貰で貸し出す人もいた。漢江マンション以外の東部二村洞のアパートでもそのような賃貸で貸し出す例が増えていった。

 

  日本人学校

 日本大使館は、1968年4月に中学洞チュンハクトンに770坪の土地を購入し、建物の建設を始めた。1970年に新たに完成した大使館に移転し、同時にこの大使館内に「日本人補習校」を開設した。

 

 1972年5月、漢南洞の礼式場イェシクチャンの2階に日本人学校ソウル校が開校した。

 

 

 大使館員や特派員、企業関係者などの長期滞在者が居住する外国人向け住宅のちょうど中間地点に日本人学校が設置されている。

 

 その後、次第に日本人の長期滞在者が増加する。単身赴任者の一部や留学生は「下宿」にも住んだが、増加する企業関係者は「外人住宅ウェインジュテク」を求めた。しかし、「南山外人アパート」や「ヒルトップ」「UNビレッジ」「リバーサイドビレッジ」は戸数に限りがある。そのためため、日本人学校への通学の便宜もあって、東部二村洞の漢江マンション、それに三益サミック、ジャンボ、王宮ワングン、レックスなどの韓国人所有のマンション住宅と個別に貸借契約を結んで居住する日本人世帯が多くなった。

 

 日本人学校の生徒数も増加し、1979年に漢江の南側の開浦洞ケポドンに土地を購入して、1981年に新校舎を建築して移転した。

『韓国生活事典』白馬出版(1987)

 

 

 日本人学校のスクールバスのルートの関係で、子供のいる日本人世帯はますます東部二村洞に集中することになり、1980年代には東部二村洞は「日本人タウン」と呼ばれるまでになった。漢江ショッピングに行くと日本の味噌や醤油、キューピーマヨネーズ、出前一丁が買えた。ジャウン製菓にいくと、生クリームのケーキを売っていた。

 

 1990年代に入ると、ソウルに居住する日本人の在留資格も多様化し、居住地域も広範囲に広がっていく。

 同時に、韓国の住宅事情も大きく変化し、外国人向け住宅を提供する必要がなくなった。「ヒルトップ」は1980年代に大韓住宅公社から民間に売却され、しばらくは外国人への賃貸が続いていた。しかし、1990年代末に2戸をぶち抜いて1戸に改装して高級マンションとして韓国富裕層に分譲された。「南山外人アパート」は1994年に爆破撤去され消滅した。東部二村洞の「リバーサイドビレッジ」も1999年に民間の高層高級マンションへの建て替えが決まり、2003年にLG漢江ザイAPTが建てられた。

 

 それでも、駐在員の住居の引き継ぎの関係や、不動産屋が日本人への賃貸に慣れていることなど、それに日本人学校のスクールバスの経路の関係もあり、企業の駐在員などを中心に、かなりの数の日本人居住者が東部二村洞に居住していた。

 日本人学校は、2010年に開浦洞から上岩洞サンアムドンのデジタルメディアシティに移転した。これによって、日本人の居住地にも変動が起きた。

 

 ちなみに、ソウル在住日本人の数(大使館に在留届を出した人数)は、分かる範囲では以下のとおりである。

 

2003年   7,357人
2018年 12,137人
2019年 14,920人
2020年 12,201人
2021年 12,665人
2022年 12,967人
2023年 13,546人

外務省領事局政策課

海外在留邦人数調査統計

 

  2019年の『国民日報』の記事では、「1000余名の日本人が暮らす東部二村洞」となっており、ソウル全体の在留邦人数からすると決して多くはない。

 

 それでも、これまで長々と書いてきたような経緯もあってのことだろう。東部二村洞に対する「日本人タウン」のイメージは、ソウル在住の日本人や在日韓国人、それに韓国人の間で今もなお消え去らずに残っているようだ。