在韓特派員史(戦後黎明期編) | 一松書院のブログ

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 1960年5月、日本の敗戦で朝鮮の植民地統治が終わってから初めて韓国政府が日本の記者15人に取材ビザを出した。韓国政府は、5月3日、「韓・日間の理解増進」のため一定数の日本の特派員の入国を認めることを表明した。

 

 

 当時は、まだ日本と韓国の間に国交がなく大使館はなかった。だが、東京には韓国代表部が置かれており、日本の全国紙・地方紙・通信社・放送局の13社15名の記者が取材ビザを代表部に申請した。韓国政府や韓国のマスコミは、日本側の反応を強い関心を持って見守っていた。

 

 韓国の主要各紙は、5月11日に、AP通信が東京発で配信した日本人記者15名の名簿を掲載した。この15名に3ヶ月の取材ビザが発給された。

 

 この名簿は、アルファベット表記された日本人記者名を韓国の合同通信が一部を漢字化したのであろう。名字に誤りがあったり、漢字化できてないものがある。このときにビザが出たのは以下の15名である。

 

朝日新聞  矢野俊一
読売新聞  浜淵修三
毎日新聞  新井宝雄
産経新聞  菅栄一
日本経済新聞  長谷部成美
東京新聞  鎌田光登
西日本新聞  向井正人
共同通信  長与道夫
時事通信  小田武次郎
NHK  背黒忠勝
NHK  斉藤 三次
ラジオ東京  高橋武郎太
ラジオ東京  尾崎義一
NTV  萩原一成
フジテレビ  松下昭三

 

 これらの人たちがソウルからどのような報道をしたのか気になるところだが、今わかるのは一部の全国紙の記事のみ。特にテレビ、ラジオ関係は残念ながら映像や音声が探せない。

 

 その前に、解放後の日本のプレスの韓国取材の前史を見ておく必要があろう。

 

  朝鮮戦争時の取材

 実は、日本人記者が解放後の朝鮮半島で取材をするのは、これが初めてではなかった。1951年6月、前年に勃発した朝鮮戦争が膠着状態に陥ると、7月10日から開城ケソンで休戦会談が始まった。休戦会談開始に先立って、国連軍司令部は日本人記者の現地取材を許可することにした。韓国国内での取材ではあったが、あくまでも国連軍の従軍記者としての活動という建前であった。李承晩イスンマン政権は日本人記者にビザを出さなかった。

 

 7月11日、羽田空港から米軍軍用機で16社18人の記者が金浦キムポ空港に向かった。

鈴川勇(朝日新聞)、小平利勝(読売新聞)、今村得之(毎日新聞)、安藤利男(産経新聞)、木原健男(日本経済新聞)、染川洋二郎(日本タイムズ)、内藤男(時事新報)、笠井真男(東京新聞)、小屋修一(西日本新聞)、三浦英男(中部日本新聞)、吉富正甫(大阪新聞)、石坂欣二(北海道新聞)、藤田一雄・渡辺忠恕・源関正寿(共同通信)、千田図南男(時事通信)、江越壽雄(サン通信)、中村重尚(NHK)

 ソウルに到着した翌日の7月12日、各社の記者による第一報が報じられた。第一報では、「日本統治下の京城」、ソウルの街が廃墟になっているという感傷的な書きぶりも目についた。

 

 この時期は、李承晩は「リショウバン」、金日成は「キンニッセイ」だし、まだ韓国の首都の呼び方も「京城」と「ソウル」が混在していて、まだ「京城」の呼称の方が多かった。

 

 その後、日本の主要報道各社は、記者を交代させながら国連軍の従軍記者の資格で韓国内での取材を続けた。1953年7月27日、国連軍と朝鮮人民軍・中国義勇軍の司令官が休戦協定に署名し、朝鮮戦争は休戦となった。「北進統一」に固執する韓国の李承晩は休戦協定に署名しなかったが、休戦は受け入れた。休戦となった後も日本の記者は韓国内に留まって取材をしていた。例えば、1954年12月3日の『朝日新聞』は、11月の「四捨五入改憲」(李承晩の長期執権を可能にする改憲)と韓国内の政治情勢についての「京城矢野特派員」による記事を載せており、国連軍従軍記者でありながら実際には韓国駐在の特派員の役割を果たしていた。

 

 ところが1956年11月、韓国政府は、日本人記者の韓国入国については国連軍司令部の証明だけでは認められないとして、共同通信・朝日新聞・毎日新聞の記者に退去命令を出した。

 

 

 これを受けて、朝日・毎日と読売の各新聞社、それに共同通信が東京の韓国代表部に改めて取材ビザを申請しようとしたが、韓国側はこれを受理しなかった。これ以降、日本人記者は韓国に取材のために足を踏み入れることができなくなっていた。

 

  1960年5月ビザ発給の背景は…

 1960年、3・15大統領選挙での不正に抗議する学生デモが市民や中高生も巻き込んで次第に拡大し、4月19日には警察隊が大統領官邸の景武台キョンムデを目指したデモ隊に向けて発砲して多数の死傷者が出た(4・19学生革命)。これによって李承晩退陣要求のデモはさらに全国規模に広がり、ついに李承晩は4月26日にラジオを通じて大統領辞任を発表するに至った。この結果、4月28日に許政ホジョンを首班とする暫定政府が発足した。

 

 日本人記者の受け入れ表明は5月3日なので、暫定政府成立後すぐに突然日本人記者への対応が変わったように見える。だが、それ以前からの韓国を取り巻く状況を見ると、李承晩政権時から日本人記者の受け入れについてはすでに検討されていたものと思われる。

 

 前年の1959年に、日本政府は在日朝鮮人の北朝鮮帰国(「北送」)を容認し、8月にインドのコルカタで日本赤十字社と朝鮮赤十字会の間で「在日朝鮮人の帰還に関する協定」が結ばれた。韓国政府や在日の韓国居留民団(民団)はこれに強く反発して「北送」阻止の運動を展開したが、12月14日に第1次帰国船が新潟港を出港した。この第1陣の帰国に合わせて、朝日新聞の入江徳郎・岡光真一、読売新聞の秋元秀雄・嶋元謙郎、毎日新聞の清水一郎、産経新聞の坂本郁夫、共同通信の村岡博人の5社7人の記者が香港・中国を経由して朝鮮民用航空機で1959年12月19日に平壌ピョンヤンに入った。19日間の滞在中、北朝鮮に帰国した在日朝鮮人の歓迎ぶりや北朝鮮の生活が各紙紙面に報じられ、翌年4月には、この時の取材記事をまとめた『訪朝記者団の報告 北朝鮮の記録』も出版された。ただ、この本には、なぜか入江徳郎と岡光真一の二人の朝日新聞記者の記事は収録されていない。二人が訪朝取材団に入っていたことは本の中で言及されてはいるのだが…

 


 

 さらに、実際には実現しなかったが、1960年1月には第4次帰還船で日本と北朝鮮の報道関係者16名ずつが相互に取材訪問をするという動きもあり、韓国側では強い関心をもって注視していた。韓国政府は、在日朝鮮人の北朝鮮への帰国には激しく反発しつつも、北朝鮮との対抗上、日本のマスコミ関係者に韓国を直接取材させる必要性を感じていたと思われる。

 

 もう一つの要因は、この1960年の1月から取り沙汰されるようになったアメリカ大統領アイゼンハワーの東アジア歴訪である。フィリピン、台湾、沖縄、日本、韓国を6月にも訪問すると報じられていた。アイゼンハワー大統領の新聞係秘書ハガティ(ハガチー)は、4月17日に韓国を訪問し、アイゼンハワー訪韓時の日本取材陣の韓国入国について「日本人記者の入国を李承晩政権は許容するであろう」と述べていた。つまり、李承晩政権下で、すでに日本人記者への取材ビザの発給は内々決まっていたとみられる。

 

 

 ただ、この時点では、李承晩が大統領を辞任する事態になろうとは思われてなかった。さらに、日本で日米安全保障条約改定の反対運動が激化しアイゼンハワー訪日が中止されることになるとは、全くの想定外だった。

 

  記者の渡航と取材

 冒頭のリストにある15名中、14名の特派員は5月17日に羽田から午前11時発のCivil Air Transport(CAT:台湾の民航空運公司)便で金浦空港に向かった。


 

 ところが、朝日新聞の矢野俊一だけは、その前日の16日、立川の米軍基地から米軍輸送機でソウルに向かい、夜0時3分(現地時間:この当時日本と韓国との間には30分の時差があった)に金浦空港に到着した。

 

 

 矢野俊一は、1954年から1955年にかけて国連軍の従軍記者として1年間ソウルに滞在して取材した経験があった。その時のコネクションを使ってアメリカ第8軍広報部に話をつけて「抜け駆け的先乗り」をしたものらしい。矢野は、出迎えた米軍広報部の車で通行禁止の中をソウル市内に入り、光化門クァンファムン交差点にあった国際電話局に直行すると、真夜中に翌日の朝刊用の記事を送った。5月17日の『朝日新聞』朝刊には「日本人記者として京城に一番乗り」という記事が掲載さた。午前11時のCAT便に搭乗して羽田から金浦に向かった14人の日本人記者は、出発当日の朝、『朝日新聞』のこの記事を目にすることになった。

 

 

 矢野俊一に遅れること半日、金浦空港に到着した14人の日本人記者には、韓国側の60人以上の記者が取材攻勢をかけた。翌日の『京郷新聞』には、ムービーカメラを抱えてタラップを降りるフジテレビの松下昭三やその後ろでカメラを構える記者、日韓の取材合戦の様子の写真などとともに、日本人記者の到着を詳しく伝える記事が掲載された。




 この時、金浦空港には朝日新聞の矢野俊一も取材に来ていた。矢野の単独渡航に対しては、他社の日本人記者から、記者団としての結束に水をさすものとして批判の声もあがったという。

 この17日の日本人記者14名の金浦空港到着時には、韓国の学生たちが「北送反対」「日本の容共政策反対」といった内容の英文プラカードを掲げていた。これは、矢野俊一が写真入りで記事を書いている。

 

 

 その日本人記者のソウル到着の翌々日5月19日、日本では岸信介政権が衆議院特別委員会で新日米安保条約案を強行採決させ、翌20日に衆議院本会議を無理やり通過させた。6月19日に予定されていたアイゼンハワーの日本訪問に間に合うように新安保条約を自然成立させるためであった。

 

 韓国では、5月29日に李承晩夫妻が韓国を出国してハワイに亡命した。これを日本の各紙はソウルの特派員発の記事として掲載した。

 

 そして、6月10日。アイゼンハワーの訪日準備で羽田に着いたハガティ新聞係秘書が、弁天橋でデモ隊に取り巻かれ、米軍ヘリで脱出せざるを得なくなった(ハガチー事件)。

 

 結局、アメリカ大統領アイゼンハワーの日本訪問は中止となった。

 

 6月19日、アイゼンハワーは、アメリカの軍政下にあった沖縄から韓国に向かった。アメリカ大統領の韓国訪問についても、日本の報道各社はソウル特派員発として報じることになった。

 

 

  ソウル支局

 その後、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、産経新聞の全国紙4社と共同、時事の通信社2社、それにNHKがソウルに常駐の支局を置くことになった。半島バンドホテル(現在のロッテホテル旧館のところにあった)の6・7・8階の部屋に各社がソウル支局をおいて、ここを事務所兼住居とした。読売新聞は1961〜2年頃に中学洞の韓国日報社に支局を移した。読売新聞社主正力松太郎と韓国日報社主張基栄チャンギヨンとの間で取材協力について合意されたという。この二人はいずれも日韓国交正常化交渉に絡んでいた。さらに1963年には、地方紙の西日本新聞が半島ホテルに支局を置いた。李承晩ラインの漁業問題などで購読者の関心が高かったためであろう。

 

 

 朝日新聞の矢野俊一は、1960年11月に真崎光晴に交代した。

 

 実は、朝日新聞は、1960年元旦の正月特集企画の中で「李承晩さん、この人ご存じ」という記事を掲載していた。植民地統治下で鎌倉保育園という孤児院を運営していて、解放後資金集めのため日本に帰国して韓国への再渡航を熱望しながら果たせないでいた曽田嘉伊智のことを取り上げた記事だった。曽田嘉伊智は、併合前の大韓帝国時代に漢城YMCAで李承晩と接点があったからである。記事を書いたのは社会部の記者疋田桂一郎である。

 

 この記事がきっかけとなり、鎌倉保育園の跡地で永楽ヨンナク保隣園を運営していた韓景職ハンギョンジク牧師や兵庫の韓国居留民団などが曽田嘉伊智の韓国渡航実現に向けて動き始めた。ところが、4・19学生革命で李承晩政権が崩壊し、全ての動きが中断した。しかし、許政暫定政権を引き継いだ張勉チャンミョン政権は、1961年3月に曽田嘉伊智の韓国渡航を認めた。5月6日、明石の施設にいた曽田嘉伊智は、朝日新聞が提供した社有機で大阪から金浦に飛んだ。もう一機の朝日新聞社有機には東京都知事や朝日新聞社長から尹潽善ユンボソン大統領に宛てたメッセージや記念品が積み込まれていた。朝日新聞は、真崎光晴特派員発で、曽田嘉伊智のソウル到着を大々的に報じた。

 

 朝日新聞の1960年に入ってからの動きを見ると、韓国への特派員派遣を狙って積極的な働きかけを行なっていたように思われる。

 

 真崎光晴の後任で、1962年8月にソウル特派員となった西村敏夫は、日本統治下の京城育ちで、南大門小学校から京城中学、1942年に京城帝大予科に入学し、京城帝大在学中に終戦で内地に引き揚げたという経歴。1964年8月までソウルに駐在し、帰国後『私は見た韓国の内幕』(朝日新聞社 1965)を出版した。

 

 読売新聞の浜淵修三の後任は日野啓三、1960年10月にソウルに赴任した。日野啓三は、商業銀行密陽支店の行員だった父のもとで小学校に通い、京城に移って龍山中学4年生の時に引き揚げた。1961年4月までのソウル在勤中に知り合った韓国女性と帰国後に再婚している。1975年に小説「あの夕陽」で芥川賞を受賞した。ソウル特派員時代を下敷きにした「野の果て」では、半島ホテルの一室に駐在し、原稿は英文タイプでローマ字で打ち、それを国際電話局から日本に送稿していたことがわかる。また、「無人地帯」には、今も非武装地帯の中に残る唯一の韓国側の村落「台成洞テソンドン」に取材に行った話が出てきて、当時の取材のやり方の一端が分かる。

 

 日野啓三の後任は、嶋元謙郎で1961年4月15日にソウルに到着した。嶋元謙郎の父嶋元勧は京城日報の編集局長で、嶋元謙郎は三坂小学校から龍山中学に入学し、1945年11月に引き揚げで日本に戻った。日韓国交正常化交渉では、裏面工作にも深く関わっていたとされ、1981年まで断続的にソウル特派員を勤めた。

 

 毎日新聞は、新井宝雄の後任がわからない。柳原義次がソウル特派員だった1963年に、朝鮮日報と提携しており、この提携を日本と韓国双方で社告として出している。


 

 読売新聞と韓国日報、朝日新聞と東亜日報も協力関係にあったが、このような社告は出していない。

 1964年には吉岡忠雄がソウル特派員になった。吉岡忠雄は、新聞記者を退職した後1982年に延世大学の語学堂で韓国語を学習し、『ソウル・ラプソディ』『韓国有情-釜山のアルバム』などの本を出した。
 

 ちなみに、1960年5月にソウルに行った記者の一人、東京新聞の鎌田光登が、1986年に朴景利の大河小説『土地』の一部を翻訳しており、李埰畛の『中国朝鮮族の敎育文化史』(1988)、金学俊の『朝鮮戦争』(1991)を翻訳出版している。後になって韓国語を学習したものと思われる。

 1960年代から70年代にかけての特派員は、その当時は韓国語はできなかったし、社内の語学研修の制度もまだなかった。

 1960年代前半のこの時期、外務省アジア局北東アジア課課長は、京城中学を卒業し、京城帝大予科から法文学部を卒業して外務省に入った前田利一だった。日本は、日韓国交正常化までソウルに常設の代表部を置いていなかったため、前田利一をはじめ外務省の関係職員が出張で半島ホテルに滞在した。1960年9月、外務大臣小坂善太郎の訪韓に前田は随行し、その際『東亜日報』に「韓国語解得」と紹介されている。1958年3月に天理大学朝鮮学科を卒業して外務省に入った町田貢も、1960年秋に公務でソウル出張をして、半島ホテルに泊まっている。外務省でも朝鮮語ができる職員はまだ数えるほどしかいなかった。

 

 1965年に国交正常化が実現すると、半島ホテルの5階に日本大使館を開設した。

半島ホテルの5階に「日本大使館」の看板をかける前田利一

 

 1968年の1月に中学洞の韓国日報社の社屋が全焼する火災が発生した。韓国日報内の読売新聞ソウル支局も焼失した。この火災の見舞いで韓国日報を訪れた日本大使館関係者が、韓国日報社敷地の南側に隣接する極東ククトン海運の南宮録ナムグンノクが所有する土地が売りに出ていることを知った。日本大使館は購入の交渉に入って契約を結び、韓国内務部もこれを承認した。

 

 日本大使館は、1970年1月に中学洞チュンハクドンの韓国日報社南側に大使館が完成し、半島ホテルからここに移転した。

 

 韓国日報は、消失した社屋の新築工事に着手し、金寿根キムスグンの設計による地下3階地上13階の新社屋を1969年6月に完成させた。読売新聞は、この新社屋に支局を置いたが、NHKや西日本新聞も半島ホテルを出て、韓国日報新社屋に支局を移した。

 

 1970年に、朴正煕大統領がロッテの辛格浩シンキョッホ(重光武雄)を呼んで、観光公社が運営していた半島バンドホテルに変わる国際級のホテル建設を命じたとされる。

 

 植民地支配が終わり、朝鮮戦争を経て日韓の国交が正常化する時期を経てこの1970年までが、韓国における日本人記者たちの活動の黎明期から初期の時代ということになるのだろう。