「-さん」の韓国語:-님と미스・미스터(2023/08/23改訂) | 一松書院のブログ

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  • 님の変遷
  • 미스と미스터の消滅
  • 님の新しい使い方

 

 日本語の「誰々さん」の「さん」にあたる韓国語は?と聞かれることがある。だが、日本語の「さん」にあたる広い範囲で無難に使える敬称を韓国語に置き換えるのは難しい。もちろん韓国語の敬称も色々あるのだが、それぞれの説明が大変なのだ。

 

 2008年9月に出版された小学館『日韓辞典』には、「- さん」の使い分けについてこのような説明がある。

- さん  씨, 님, 선생, 선생님
使い分け
씨 (氏)  同等または目下の人に対する敬称。呼びかけの際には、通常김철수씨のようにフルネームに付けて用い、日本語のように苗字に付けて김씨と言うことはしない。親しい間柄では철수씨などのように名前に付けて用いられることもある。また,メディアで犯罪容疑者の名前を報道する際にも、박모씨(朴某氏)のように씨を付ける。
  上司や家族・親戚など目上の人に対する敬称。사장님(社長さん)、 과장님(課長さん)、아보님(お父さん)、고모님(おばさん)のように、肩書きや家族・親戚関係を表す語に付けて用いられる。また、銀行や病院などで人を呼ぶときに姓名に直接付けて用いられることもある。
선생(先生)  同等または目下の人に対する敬称。ほぼ日本語の「さん」に近い。一方,선생님はより格式ばった言い方で、実際に教わっている先生や牧師(목사 선생님)、医者(의사 선생님)などに対して用いられることが多い。

 「〜씨」や「〜선생」は以前からずっと使われていた。「님」も、선생님の例がそうであるように、「肩書きや家族・親戚関係を表す語に付けて」使われていた。ただ、1990年代までとはだいぶ使い方が変わってきているのだ。

 

  ニムの変遷

 この『日韓辞典』の「님」の解説では「姓名に直接付けて用いられることもある」、つまり「金敏俊キムミンジュン님」とか「李知友イジウ님」と使われるということになっている。確かに今の韓国社会ではこの用法を目にしたり耳にする。

 

 だが、1990年代までは、「姓名に直接付けて」ではなく、「姓名もしくは姓+職位」、目上の場合は「姓名もしくは姓+職位+님」のように使われていた。1973年出版の『東亜 新コンサイス国語辞典』には、「人の呼称の下につけて目上に対して使う」とある。つまり、姓名に直接ではなく、役職や肩書きに님をつけていた。

 


동아 신콘사이스 국어사전(1974)

 

 1980年代、韓国に進出した日系企業の韓国人従業員の大きな不満の一つが、なかなか肩書きがつかないことだった。昇進が遅いということではなく、ヒラ社員のままだと肩書きがないので職場での呼び方・呼ばれ方に不便、님をつけて呼ぶこともできない。そこからくる不満だった。

 

 韓国ドラマでは、「金デリ」「李デリ」とデリがやたらと出てくる。韓国の会社の男性社員の場合、入社してしばらくすると代理(デリ)の肩書きが与えられる。すると、「金대리」「李대리」、「대리님」と呼んだり呼ばれたりすることができるようになる。

 

映画「サムジンカンパニー」(2020)

 
 ここでは、チェドンス代理が、書類を見つけてくれたイジャヨンを「선배」と님をつけて呼んだことで課長に小言を言われる。小言を言うときには、「ミス李」ではなく「イジャヨン」とフルネームで呼ぶ。親が子供を叱ったり褒めたりする時も、このフルネーム呼びをよく使う。いってみれば、説教をするとき、そして褒めて育てようとする時には、フルネームで人格を認めているポーズを取るのだ。
  

 ところで、肩書・役職名ではなく、姓名に直接님を付けて使う用法に私が気づいたのは、1990年代に入ってからのパソコン通信上だったと思う。その頃、日本のニフティサーブと韓国の千里眼チョルリアンが接続可能になり、ハングルでのやり取りを目にしたのだが、そこでは「김민준님」とか「이지우님」といった使われ方をしていた。

 

 新聞検索で探すと、1996年9月26日付の『東亜日報』に韓国でのパソコン通信に関する記事があった。その中に、次のように書かれていた。

또 PC통신 안에서 상대방에 대한 예의가 사라지고 있다면서 예절을 지키자는 운동도 벌이고 있다. 케텔은 하이텔의 이전 이름으로 회원들은 92년 5월 이전 부터 PC통신을 해왔던 온라인 초창기 세대들. 현재 회원은 2백50여명이다.

나이에 관계없이 상대방 이름뒤에 「님」자를 붙여 존칭을썼던 것도 케텔시절 에 만들어진 전통이다.

 

 また、パソコン通信で相手に対する礼儀が失われているとして、マナーを守る運動も展開している。ケテル(KETEL)はハイテル(HiTEL)の前身で、その会員は92年5月以前からパソコン通信をやってきたオンライン草創期の世代。現在、会員は250人余りだ。
 年齢に関係なく相手の名前の後ろに「님」をつける尊称を使ったのもケテル時代に作られた伝統だ。

 韓国のパソコン通信のケテルがサービスを開始したのが1989年11月、1992年7月にハイテルになった。この記事によれば、ケテル時代に、年齢も肩書や職位も分からないオンライン上でのコミュニケーションで、お互いの姓名に直接「님」をつける使い方が始まったということである。それが、インターネットの時代にも引き継がれ、さらにネット以外の対面の場面でも使われるようになったのであろう。私の記憶ともほぼ一致する。

 

 この「님」の使い方、メールや文字メッセージでは結構活用できた。だが、オフラインの対面となると、やはり相手の年齢や肩書・社会的地位と無関係に님だけを姓名につけて呼ぶのは無理だった。ところが、ここ数年で大きく変わってきた。詳しくは、後述する。

 

  미스と미스터の消滅

 2008年出版の小学館『日韓辞典』の「- さん」の項目には出ていないが、1993年の小学館『朝鮮語辞典』には、 미스と미스터の項目にはこのようにある。「〜さん」や「〜君」の敬称として使われていた。

 

 

 ところが、2018年に小学館『韓日辞典』と書名を変えて刊行された改訂版では、赤線部分の注記が付け加えられている。

 

 

 つまり、1980年代までの職場で使われていた미스や미스터が、2008年の『日韓辞典』の編集作業の時期にはすでに使われなくなっていた。2018年の『韓日辞典』では、過去の用例として①の意味を残して注記を入れたということだ。

 

 確かに、私が1980年代にソウルで勤務していたオフィスには、「ミス金」や「ミス李」それに「ミスター金」と呼ばれていたスタッフがいた。見下されていたわけではないが、職場の序列でいうと下位だったことは事実。

 

 1988年の「男女雇用平等法」の制定を前に、ある保険会社が職場での呼称についてアンケート調査を行った。それによると、男性の63%がフルネームか役職名で呼ばれているのに対し、女性の88%が「미스+姓のみ」で呼ばれており、女性の多くがその呼び方を嫌っているという結果が報じられたことがあった。

 

 

 1995年の会社を舞台にした映画「サムジンカンパニー」(2020)にこんな場面がある。高卒の女性社員チョン・ユナは制服を着て大卒社員のサポートばかり。マーケティング部長は、企画会議に参加している大卒の女性社員は「チョ・ミンジョン」とフルネームで呼ぶ。これは、上述の叱る時と同じように、人格を認めるポーズである。

 しかし、昼食のハンバーガーを配るチョン・ユナには、「ミス・チョン、何かいいアイデアない?」と話しかける。

 

 

 2020年に制作された映画のこの場面は、1990年代の「미스〜」の使われ方を実に上手に描写している。


 男性に対して使われた「미스터」についても同じような使われ方だった。

한국에서는 1990년대까지만 해도 남성 신입사원이나 평사원을 이 호칭을 써서 '미스터 김', '미스터 박'처럼 부르는 경우가 많았다. '굳이 이름을 기억할 필요가 없다', '영어권처럼 세련된 느낌을 준다' 등의 온갖 이유로 윗사람들이 상당히 애용하던 호칭이었으나…

 

韓国では1990年代までは男性新入社員や平社員を「ミスターキム」「ミスターパク」のように呼ぶことが多かった。 「あえて名前を覚える必要はない」、「英語圏のように洗練された感じを与える」といったいろいろの理屈をつけて目上の人がよく使っていた呼称だったのが…(後略)

(나무위키より)

 

 1997年の『東亜日報』にはこんなイラストと記事が出ている。

「ミスチョン、この書類10枚コピーしてくれ」「ミスターキム、私今忙しいんですが!」

 ある職場で年上の部長が「ミス〜」と呼びかけると、気の強い女性社員が「ミスター〜」とそれに応じたので部長が当惑したというエピソードだ。

 この記事では、結論として、部下に対しては「フルネーム+씨」を、上司に対しては「姓+職位님」を使うべきだとしている。미스・미스터はやめるべきだというキャンペーンであった。

 

 これを最初に具体化させたのがソウル市庁だった。1999年7月の「男女差別禁止および救済に関する法律」の施行を前にして、ソウル市長の高建コゴンが、ソウル市庁の幹部会議で미스と미스터を使わないよう指示した。

 

女性職員をミスと呼ばないように
高建市長、男女差別法施行を控え、身内の改革

 「今後、女性職員を”ミス·リー””ミス·キム”と呼ばないように」
 7月1日の「男女差別禁止および救済に関する法律」施行を控え、ソウル市が身内の改革に乗り出した。
 高建市長は、31日の幹部会議で、「”ミス·リー”と呼ぶのは男女差別には当たらないのでは…という主張もあろうが、それは誤った考え」とした。高市長は「私も若い頃にミスター·コと呼ばれると気分がよくなかった」と述べ、「外国人にとってはミスやミスターは尊称だが、韓国では必ずしもそうではない」と指摘し、「今後は女性職員を呼ぶ時は”○○○氏”と名前を呼ぶようにせよ」と指示した。
 この日の幹部会議でのニュースが伝えられると、ソウル市の公務員の間では「女性の部下を呼ぶのが怖い」「社会的流れなので思考を転換するのは当然」といったさまざまの反応があった。
 高市長が身内の改革に乗り出したのは、最近、大気保全課の李チョンソンさん(行政8級)が庁内ネットワークに「どうしても”ミス·リー”にはなりたくない者の抗弁」というタイトルの書き込みをアップし、関心を集めたのがきっかけとなった。

 これがきっかけとなって、市長以外の各職場でも、미스と미스터を付けて部下や同僚・後輩を呼ぶことが急激に減少し、韓日辞典の改訂版では、「差別的なニュアンスがあるので最近はあまり用いられない」という注記が入れられることになった。

 

  님の新しい使い方

 2016年6月27日に、サムソンが人事制度の改革案を公表した。その中で、従業員間の呼称についても新しい呼び方が示された。


삼성은 수평적인 조직 문화를 위해 직급 단계를 단순화하겠다고 밝혔다. 그러면서 임직원간 호칭을 ‘님’으로 통일하고 부서별로 업무 성격에 따라 ‘프로’, ‘선후배님’ 또는 ‘영어 이름’  등 자율적으로 호칭을 사용할 수 있게 했다.

サムソンは、水平的な組織文化造成のために役職名・肩書を簡素化すると明らかにした。それとともに社員間の呼称を「ニム」に統一し、部署別に業務性格に応じて「プロ」、「先輩後輩」または「英語名」などの呼称を使用するものとした。

国民日報

 つまり、「姓名+님」を使うことで、社内の上下関係のあり方を変えようとするものである。ただ、当時からこれに対してやや懐疑的なコメントもあった。

 

今回サムソンで平社員から部長までの基本的な呼び方を姓名の後に「님」とつけることにした、その理由は水平的な組織文化、つまり柔軟な組織文化を作って革新的な企業にしようというものですよね。ただ、一方では、呼び方だけを変えて新しい企業文化ができるのか、昨日までチョン部長님と呼んでたのを突然チョン・チャンベ님、チョン・チャンベ先輩님と呼べるだろうか、呼び方だけ変えて組織文化が変わるのかという声もあります。私個人の考えでは、呼び方を変えてしばらくすればマインドが変わってくることもあります。サムソン以外の大企業でもすでに呼び方を変えている企業も多いので、その企業文化を見守る必要があるでしょう。

 このコメンテーターの発言にあるように、当時サムソン以外の大企業でもこのような「水平的呼称」の導入が行われた。ただ、年上か年下か、あるいは役職・肩書の上下で言葉遣い(チョンデンマルかパンマルでもよいのか)が違う韓国人の社会生活で、「姓名+님」に移行するのは容易ではない。事実、サムソンと同じく2018年から社内の呼び方を「姓名+님」に統一するとしたLGユープラスで、今年(2023)4月に、「님を積極的に活用している」「使いたくても님を使えない」の二択で社員の匿名投票を行ったところ、「姓名+님」呼称を使っている社員が127人(61.6%)、使えないとする社員が79人(38.4%)という結果が出たという。役職や肩書を使わずに呼ぶのには5年経ってもまだ抵抗感が強いということだろう。

 

アジア経済新聞より

 

 大企業の「水平的呼称」が話題になると、この動きは教育界にも波及した。2019年にソウル市教育庁は、庁内職員間ではニム프로プロセムを使い、児童・生徒は教師に対して선생님ソンセンニムのかわりに「姓名+님」を使うという提案をした。しかし、これに対しては、教師としての権威をないがしろにするもの、あるいは「쌤」は標準語ではないといった反対論が出され、結局、教育庁の案は保留になった。

 

 「セム」は、2000年代になって선생님ソンセンニムを縮めた言い方として携帯電話の文字ムンチャメッセージなどで使われるようになった。2013年には、TVバラエティ番組「島の先生(섬마을ソムマウル セム)」でタイトルにも使われ、2019年のドラマ「ブラックドッグ」では教師同士の会話の中で「쌤」が自然に使われている。

 

 

 2021年6月、全国教職員労働組合(全教組チョンギョジョ)が「教師は児童・生徒をOO님と呼ぶべき」という指針を出した。一部教師からは「児童・生徒はお客なのか?」という反発も出たが、学校で子供たちを님で呼ぶ教師も出てきた。また、児童同士も님で呼ぶように義務付けている学校もある。さらに、子供同士の会話でも、丁寧な言い方をするよう推奨する学校も出てきている。

 

 

 とはいえ、今のところ、まだ韓国語学習者が「姓名+님」の呼称を実際に使うという状況にはないようだ。だが、님の使い方の変化は、新しい韓国語の流れとして押さえておくべきであろう。