「夢炭」の建物を探して… | 一松書院のブログ

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 三角地サムガクチの交差点から孝昌ヒョチャン公園方面に向かうと、すぐに京釜キョンブ線や地下鉄1号線の鉄道線路を跨ぐ高架道路にさしかかる。その高架道路の取り付け道路の左手に「夢炭モンタン」という行列のできる焼肉屋がある。

 

 

 

 この建物は、日本の植民地時代に建てられたものだという。「夢炭」のオーナーのチョ・ジュンモ氏によれば、「1910年代に日帝の鉄道部署の幹部の官舎として建てられたものと聞いている」という。

『朝鮮日報』2022年6月20日付

 

 実際には鉄道関係の官舎はこのあたりにはなかったのだが、鉄道官舎という話が伝わっていることも一つの手がかりになるかもしれない。

 

  『京城精密地図』で探してみた

 1933年に刊行された『京城精密地図』でこのあたりを見てみると、五番地の陸軍倉庫への引き込み線路と、龍山工作会社(鉄道施設・備品の製作・修理工場)手前までの線路がある。陸軍倉庫は、解放後キャンプ キムとなりUSOの敷地となった。龍山工作会社とその手前の線路跡地は、現在はマンション敷地になっている。龍山小学校(現:龍山ヨンサン初等学校)との位置関係から推測すると、現在の「夢炭」の建物の位置は『京城精密地図』に「豊栄商会」の書き込みがあるあたりになろう。

 

 

「コネスト韓国地図」より

 

 ところが、漢江通十三番地の「豊栄商会」に関して検索しても、それらしい情報がヒットしない。ほぼ諦めかけていた時に、「宝栄商会」というのが漢江通十三番地にあったことがわかった。日本語の漢字音だと「ホウエイ」で同じ。ただ、漢江通十三番地というのは「番地」といいながら漢江通と京釜線に挟まれた広い地域全体をさしている。十三番地だけではどこなのか場所が特定できない。さらに調べると、1923年4月21日付の『朝鮮総督府官報』に「合資会社宝栄商会」の登記が掲載され、その中で廣瀬平八朗の住所が「漢江通十三番地五号」となっている。また『朝鮮銀行会社組合要録』では、宝栄商会本店の場所が「京城府漢江通一三ノ六」と記載されている。

『朝鮮銀行會社組合要錄』(東亜経済時報社 1940)

 

 

 「漢江通十三番地五号」「漢江通一三ノ六」というのは、まさに『京城精密地図』で「豊栄商会」と書かれているところ。従って、『京城精密地図』に「豊栄商会」と書かれているのは「宝栄商会」の誤表記と断定できる。「豊栄商会」で検索しても出てこなかったはずだ…。

 

  宝栄商会とは

 1912年に貞嶋晋五が漢江通十三番地に開いた石炭の販売店が、宝栄商会である。

 

朝鮮中央經濟會『京城市民名鑑』1922

 

 その「宝栄商会」は、1923年に「合資会社宝栄商会」(以下「宝栄商会」とする)として登記された。合資会社となった「宝栄商会」が手がけた事業は、「南満州鉄道株式会社(満鉄)と特約に係る撫順炭及び鞍山銑鉄ノ販売」と「その他燃料の販売とこれに付帯する事業」。この合資会社化の時に、「宝栄商会」の無限責任社員(会社の債権者に対して負債の全額を支払う責任を有する社員)になったのが、それまで満鉄京城管理局経理課にいた廣瀬平八郎。そして、この廣瀬平八郎の住所として届けられたのが「漢江通拾参番地五號」だった。ちなみに、1925年までは朝鮮鉄道の運営は満鉄に委託されており、1925年4月から朝鮮鉄道局の直営になった。だから、ここで満鉄経理課とあるのは、朝鮮鉄道の経理をやっていたものである。

朝鮮中央經濟會『京城市民名鑑』1922

 

 「宝栄商会」のもう一人の出資者田川常治郞は、1919年に「龍山工作会社」を創設した実業家で、京城商工会議所の副会頭にもなっている。「龍山工作会社」は『京城精密地図』で「宝栄商会」の斜め向かいに位置しており、鉄道橋脚や信号機、その他鉄道用品に関わる製造・修理業務を行なっていた。田川常治郞もこの「宝栄商会」の合資会社化に一枚加わっていた。

『大京城公職者名鑑』 (1936)

 

 ところが、合資会社化の翌年、廣瀬平八郎は51歳で急死した。1925年3月25日付の『朝鮮総督府官報』に次のような記載がある。

合資会社宝栄商会無限責任社員廣瀬平八郎は大正13年(1924)12月25日死亡したり
同年(1925)1月30日京城府元町一丁目29番地 金1万5千円無限石原昊は入社したり

 亡くなった廣瀬平八郎に代わって石原昊が「宝栄商会」に入った。この石原昊も、廣瀬平八郎と同じく鉄道の経理畑の役人で、朝鮮鉄道局経理課からの天下りであった。

 

『大京城公職者名鑑』 (1936)

 

 この『大京城公職者名鑑』には、石原昊は「大正12年(1923)4月合資会社宝栄商会を創設と同時に同社代表社員となり」とある。この種の人物名鑑類の記述内容は当人の申告によるものなので、石原昊も実際には宝栄商会の合資会社化の当初から関わっていた可能性がある。そうだとすると、「宝栄商会」は、満鉄や朝鮮鉄道の石炭利権に通じていた鉄道経理畑の役人が出資して経営に加わり、朝鮮鉄道の関連業務を請け負う個人企業も出資して、貞嶋晋五の石炭販売店を合資会社化したものということになろう。

 

 1936年刊行の『大京城府大観』では、漢江通十三番地の北側に「貯炭場」が描かれている。また、『京城精密地図』では「豊栄商会」と書かれていたところが「龍山工作」となっている。このあたりが鉄道関係の複合的な企業体になっていたのかもしれない。

 

 

 1943年7月に、住居表示の変更が行われ、漢江通十三番地は漢江通一丁目となり「宝栄商会」の所在地と無限社員雪竹豊身と貞島(貞嶋)晋五の住所が「京城府漢江通一丁目250番地」に変わった。

 雪竹豊身は、1938年から高額の出資者として資料に出てくるのだが、それ以前には1937年に布教と結社が禁じられた「ひとのみち教団」の幹部として名前が挙がっている。「ひとのみち教団」の資産処理とも関連しているとも考えられるのだが、残念ながら出資に至る経緯は全くわかっていない。

 

 こうした「宝栄商会」の変遷を見てくると、漢江通十三番地5〜6号、すなわち漢江通一丁目250番地に「宝栄商会」の社屋、さらには関係者の住宅が建てられていたと考えられる。それは、鉄道関係の官舎という言い伝えが残っていることとも一定程度符合する。だが、それ以上の確証はない…。

 

  解放後の建物

 解放後、この建物がどのような変遷をたどったのか、今のところわからない。

 

 1968年の『地番入最新ソウル特別市街図』では、鉄道引き込み線がまだ残っており、この建物の場所は「250番地」になっている。

 

 

 1967年12月末に完成した三角地立体ロータリーの航空写真にそれらしい建物が写っている。旧宝栄商会の斜め向かいの旧龍山工作会社のところは、祥明サンミョン国民学校になっている。京釜線の線路を跨ぐ高架道路はまだできていない。三角地から元曉路ウォニョロ方面につながる跨線橋が開通するのは1974年7月。ちなみに、三角地の円形の立体ロータリーは1994年に撤去された。

 


 ストリートビューが残っている2008年にはこの建物は食堂になっていて、それから何度か店が変わった。

 

 

 そして、2018年から「夢炭」としての営業が始められた。

 

 冒頭の『朝鮮日報』の記事によれば、店名の「몽탄」は、全羅南道チョルラナムド務安郡ムアングン夢灘面モンタンミョンの「夢灘モンタン」から取ったものとオーナーのチョ・ジュンモ氏が語っている。夢灘面には、肉や魚を藁で炙って旨味を閉じ込める料理法が伝わっており、そのやり方を踏襲しているのだという。ただ、店名は漢字で「夢炭」と書かれており、地名とは漢字が異なる。
 

 「夢灘」がなぜ「夢炭」になったのか。ここまで書いてきたような植民地時代に石炭を扱っていた「宝栄商会」絡みで「炭」にしたということであれば、「なるほど!」と面白いストーリーができるのだが、そうではなさそうだ。このブログが建物の由来を明らかにした初めてのものだろうし…。

 

 とここまで講釈を垂れたのだが、実は美味しいと評判の「夢炭」の焼肉を食べたことがない😢

 そのうち、朝10時からウェイティングリストに名前を書き込んで食べに行こうと思っている… このブログに免じてウェイティングリストなしで入れてもらえると嬉しいんだが…まぁ、無理だろうし…😆