映画「ハント」は、フィクションではあるが、1970年末から1983年までのいくつかの実際の出来事を下敷きにしている。この時期の韓国現代史が分かると、より一層映画が興味深く見られる。また、韓国社会での自国の現代史の評価の一端を知る手掛かりにもなるだろう。
でっち上げられたスパイ、本物のスパイ
1990年代初までの韓国では、パスポートを取るためには「素養教育」という事前講習を受けなければならなかった。そこでは、韓国を一歩出ると北朝鮮のスパイがウヨウヨいて、特に日本には「朝総連」という「恐ろしい組織」があって、北朝鮮の工作員を日本経由で送り込んでいると教えられた。日本の在日コリアン社会に、韓国と対峙する北朝鮮を支持する「在日本朝鮮人総聯合会(総連)」があり、反韓国の活動をしていたのは事実だ。だが、韓国系の「在日本大韓民国民団(民団)」の中にも、韓国の軍事独裁政権に反対して、民主化を要求する「韓民統」などの組織があり、韓国の政権に反対する運動を繰り広げていた。また、アメリカに在住する韓国人社会にも、韓国の独裁体制に反対するグループが存在していた。
当時の「南山」(安全企画部)、「西氷庫」(保安司令部)、それに「南営洞」(治安本部対共分室)は、民主化を要求する反政府・反体制運動を弾圧するために「南北の対立構図」を利用した。在日韓国人の「スパイ事件」を捏造し、韓国国内の反政府運動や民主化要求の動きを封じるために「北朝鮮とのつながり」をでっち上げた。
安全企画部には、KCIAの時から、「南山」と呼ばれた南山北麓の庁舎(現ソウルユースホステル)以外に、「里門洞」と呼ばれる庁舎があった。現在は韓国芸術総合学校石串洞キャンパスの美術院になっている。
左が旧南山庁舎本館、右が旧里門洞庁舎本館
「南山」が韓国国内の情報収集と分析、それに「反国家」団体の捜査・殲滅が任務であったのに対し、「里門洞」は海外の情報収集・分析、抱き込み工作などが主な任務であった。
ちなみに、四方田犬彦がソウルの大学で日本語を教えていた1979年に日本語の試験官に指名されて出向いたのも、この「里門洞」だった(『戒厳』講談社 2022)。
「南山」が、韓国国内の反政府運動や学生デモを潰したり、派手に「スパイ事件摘発」を打ち上げて権力者の目に留まりやすかったのに対し、「里門洞」は冷飯を食わされている感があり、同じ組織内でも「南山」と「里門洞」との間で対抗意識が強かったといわれる。
その後の「民主化宣言」以降の名誉回復訴訟などで、「南山」が摘発した多くの「北によるスパイ事件」が、当局によって捏造されたものだったことが明らかとなった。
ただ、本物のスパイや工作員が暗躍していたことも事実である。映画「シュリ」や「二重スパイ」は全く架空の作り話ではない。工作員の送り込みは、北から南へという一方向のものではなく、この「ハント」に出てくる「417部隊」のように、南から北へも送り込まれていた。映画「工作 黒金星と呼ばれた男」も1990年代の実話に基づいている。
韓国で極秘とされていた「北派工作員」の存在が初めて公然と報じられたのは1999年になってから。その後、元工作員たちが名誉回復を求めて記者会見やデモを行った。
忘れられがちだが、朝鮮戦争はいまだ終戦していない休戦状態なのである。
光州民主化闘争
1979年10月26日、朴正煕大統領が部下の中央情報部部長金載圭に射殺された。1961年の軍事クーデターで実権を握り、その後大統領となった朴正煕の独裁政治はここで幕を閉じた。しかし、今度は、朴正煕大統領銃撃事件の捜査を指揮した保安司令部の司令官全斗煥少将が権力を掌握し、全国に戒厳令を敷いて民主化要求を圧殺した。特に、大規模な抗議運動が起こった全羅南道光州には戒厳軍を投入し、激しい暴行や銃撃で一般市民や学生に数千人の死傷者を出した。
1995年に放送された「KBS映像実録」には、その当時の政治状況や光州における市民・学生の弾圧の生々しい場面が収録されている。しかし、1980年の事件当時には、厳しい報道管制が敷かれてこうしたニュース映像がテレビで放送されることはなく、一般市民は、その後も長くこの光州での出来事を撮影した動画・映像を目にする機会を奪われていた。
7分26秒から17分11秒
そもそも、警察と軍隊とは役割が違う。警察は、主権国家内の社会秩序を守り、治安の維持に当たる。一方、軍隊は、国家の主権を脅かす外敵から国民を守るとされる組織である。従って、本来は軍隊が自国民に銃を向けることはあり得ないのだが、政治体制や統治者を守ることを「国を守ることだ」との詭弁を使って、独裁者が自国民弾圧のために軍隊を動員することは珍しくない。
一方、光州に動員された軍人の中には、自国民を弾圧・殺戮した悪夢にさいなまれる人々も少なからずいた。映画「「ペパーミント・キャンディ」はそうした軍人のその後を描いたものだ。また、軍の中に、弾圧と虐殺を命じた指導者を倒そうとする秘密結社ができたこともうなずける。
さらに、当時、平時の作戦統制権は米軍将校を司令官とする米韓連合司令部にあった。そのため、戒厳軍の光州での作戦行動は米国の了解のもとで行われたとも囁かれた。アメリカが裏で糸を引いている…。これによって、それまで反米デモのない珍しい国の一つといわれていた韓国でも急速に反米感情が高まっていった。
全斗煥大統領と李順子女史
光州事件の後、全斗煥は国家保衛非常対策委員会を組織して実権を握った。朴正煕暗殺後に大統領職にあった崔圭夏が8月に大統領職を辞任したことで、「維新憲法」の規定によって大統領を間接選挙で選出する「統一主体国民会議」が開かれ、中将で退役した全斗煥が大統領に選出された。
全斗煥政権がスタートすると、すぐにマスコミの統廃合を行い、いくつかの放送局が潰され新聞が廃刊とされた。また、姜万吉高麗大教授など、進歩派と目された大学教授が教授職を強制剥奪されて大学を追われた。
20分45秒から21分22秒
大統領本人だけでなく、夫人の李順子女史も毎日のニュースで動静が伝えられるなどして話題になった。
学士より碩士(修士)、碩士より博士、博士より陸士(陸軍士官学校)、陸士より保安司、保安司より女史
というジョークが流行った。1974年に暗殺された朴正煕大統領夫人陸英修女史は「良妻賢母」イメージのファーストレディに仕立てられていたのに対し、李順子女史は「出過ぎたファーストレディ」という印象が強まっていった。
越境してきた飛行機
1983年2月25日の午前11時前、北朝鮮空軍の李雄平中尉がミグ19戦闘機を操縦して休戦ラインを越えて南側に亡命してきた。世宗文化会館で開かれた李雄平本人の記者会見では、テレビカメラの前で「大韓民国バンザイ」を叫んでみせた。
この年の5月5日、今度は中国民航の瀋陽発上海行きの国内線旅客機がハイジャックされて韓国領空内に飛来してきて、春川の空軍飛行場に着陸した。中華人民共和国は韓国と外交関係がなかったが、乗客の中国送還や機体の返還問題を協議するため政府高官を韓国に送り、ハイレベルでの韓中接触が実現した。韓国側は、1986年のアジア大会を控え、中国との関係構築の突破口とすべく「過剰接待」との批判が出るほどの厚遇をした。
さらに、この年の8月7日には、中国空軍のミグ戦闘機が台湾への亡命を求めて韓国領内に飛来した。2月の李雄平のミグ機帰順の時も5月の中国民航機飛来の時も、警戒警報が発令されたが、きちんと警報が伝わらずにその不備が指摘されていた。ところが、この8月の中国空軍機の亡命時には、逆に本格的な空襲警報が発令され、あろうことか「敵機が仁川を爆撃中」という誤報まで流れた。10数分という短い時間だったが、首都圏の多くの住民には忘れられない事件となった。
離散家族探し
この年、1983年は朝鮮戦争の休戦からちょうど30年目で、KBSは休戦30周年の特別番組として、朝鮮戦争で生き別れとなった家族・親族を生放送で探す「離散家族探し」を放送した。6月30日に放送されたが、あまりの反響にその後もほぼ毎日生放送が続けられた。汝矣島のKBSの社屋の周りは、家族を探す貼り紙で埋め尽くされた。その後も、放送時間は圧縮されたが、結局11月まで離散家族探しの生放送が続けられた。
アウンサン廟の爆弾
この離散家族探しの熱気がまだ冷めやらぬ10月、全斗煥大統領は東南アジア・オセアニア6カ国歴訪に赴いた。
8日夜、最初の訪問国ミャンマー(미얀마:この当時はビルマ버마と呼んでいた)に到着し、翌日の最初の行事はミャンマー「建国の父」アウンサン(アウンサンスーチーの父)の廟への拝礼であった。随行員や記者団が先着してアウンサン廟で全斗煥の到着を待っている中で、廟の上部に仕掛けられていた爆弾の起爆装置が作動し、随行の閣僚や記者など21名が死亡し、多数の負傷者が出た。全斗煥は交通渋滞で到着が遅れて難を逃れ、その後の日程を全てキャンセルして急遽韓国に戻った。
ミャンマー当局は、捜査の結果、北朝鮮の工作員3人の犯行だと断定し、北朝鮮との外交関係を断絶した。
その後、ミャンマーと北朝鮮とが国交を回復したのは2007年になってからのこと。
ちなみに、映画「ハント」では、大統領を狙ったテロの舞台はタイの設定になっている。タイは国連軍・韓国軍側で朝鮮戦争に参戦した。タイ軍の最後の部隊が韓国から撤収したのは1972年で、1973年には京畿道雲川にタイ軍参戦記念碑が建てられた。
その一方で、タイは1975年5月に北朝鮮と外交関係を結び、バンコクには北朝鮮大使館が置かれている。
映画の中の事件現場は、実際のテロ事件が起きたミャンマーでなく、タイに移されているが、なぜタイなのかはよくわからない。
その後
1988年2月24日、全斗煥は大統領の任期を終えた。退任前後から、在任中の不正蓄財疑惑などで強い批判を受け、11月に江原道の百潭寺に籠って謹慎生活を始めた。
その後も光州事件を始め、大統領在任中の責任を問う声は高まる一方で、後任の盧泰愚大統領が退いた後の1995年12月に内乱罪などで拘束・起訴され、一審では死刑判決を受けた。1997年4月に大法院(最高裁判所)で無期懲役と追徴金2205億ウォンの有罪判決が確定したが、1997年末に大統領に当選した金大中が減刑と特赦の決定を下した。
しかし、それでも全斗煥弾劾の声は収まらなかった。2017年の全斗煥回顧録出版をきっかけに、光州事件の際のヘリコプターからの銃撃の有無についての検証が行われた。
2021年11月23日、全斗煥は90歳で死去した。元国家元首であったにもかかわらず、葬儀は家族葬で執り行われ、国立墓地への埋葬も実現していない。火葬された全斗煥の遺骨はいまだ自宅に安置されたままだという。