清水宏の「京城」と「ともだち」 | 一松書院のブログ

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 清水宏が1940年に朝鮮総督府鉄道局の依頼で作製した文化映画「京城」(24分・35mm・白黒)。監督は清水宏、撮影厚田雄治(春)、音楽伊藤冝二、製作は大日本文化映画製作所。この動画は、韓国映像資料館の韓国映画博物館がオンラインで公開している。


動画はこちらから

 

 23分40秒の動画を観ていて気づいたのは、朝鮮の人々とその暮らしぶりが多く描かれていること。日本の支配下の京城の街なのに…。映画の冒頭の朝の場面は、白いパジやチマ、それにチゲ(背負子)、韓服の制服姿で総督府の前の大通りを学校に向かう朝鮮児童の姿が映し出される。

 もちろん、京城郵便局や三越百貨店、朝鮮銀行、京城府庁、朝鮮総督府などの日本が建てた建造物、それに第一高等女学校や京城中学、京城帝大といった日本人中心の教育機関も出てくる。しかし、その一方で、朝鮮児童の登校風景や運動場でバレーボールをやっている場面がある。また、軍人の訓練の場面は朝鮮志願兵の訓練所で撮影したもの。さらに、朝鮮人街の家並みや市場、将棋に興じるハラボジ、伝統工芸、洗濯風景などが映し出される。ところが、日本人の住居や生活ぶりを感じさせる場面はほとんど出てこない。路面電車の乗降場面や車内の様子は朝鮮人利用客の多い東大門から鍾路の路線で撮影されている。

 京城郵便局横の本町入口から二丁目にかけての街並み。ここは日本人の繁華街なのだが、ここを大勢のチマチョゴリの朝鮮女性が行き交っているところが映し出される。さらに、三越百貨店の売り場でショッピングしているのは朝鮮の若い女性である。

 

 清水宏の「京城」に描かれているのは、日本人の「京城」ではなく、1940年の朝鮮人の街「京城」なのだ。

 

 清水宏の文化映画「京城」の意図はどこにあったのだろうか。この映画の製作過程などを掘り起こして考えてみたい。

 

  「文化映画」製作依頼とその時代

 1939年10月末に満州からの帰りに京城に立ち寄った清水宏は、朝鮮総督府鉄道局と広報用の文化映画の製作について協議を行った。これについて、『朝鮮日報』は次のように報じている。

朝鮮文化映画
鉄道局で製作

 先月30日、満州からの帰途にソウルに立ち寄った松竹撮影所の監督清水宏氏は、31日と1日の2日間、朝鮮鉄道の大和田営業課長と加藤旅客係長を訪問し、朝鮮鉄道で松竹文化映画部に委嘱した朝鮮を紹介する文化映画の製作について種々の協議を行った。その内容は、約1万ウォンの予算で朝鮮産業の躍進ぶりを描く文化映画とし、清水監督が撮影所の手が空き次第、12月初めから撮影を開始するため再び朝鮮に来るというもの。脚本は11月中に完成する予定になっている。劇映画の権威である清水監督が、朝鮮鉄道と提携して製作にあたることで注目を集めている。ファンの熱望する田中絹代、上原謙もスタッフとして参加するものと期待される。

 この記事では、清水宏が依頼されたのは「朝鮮産業の躍進ぶりを描く文化映画」で、人気俳優が出演する劇映画仕立ての「文化映画」が期待されていたように報じられている。

 

 「文化映画」は、1930年代に入って盛んに製作され、軍部の台頭とともに国民を戦争に駆り立てる記録映画や教材映画が増えていった。1939年に制定された「映画法」で「文化映画」とは「国民精神ノ涵養又ハ国民智能ノ啓培ニ資スルモノニシテ劇映画ニ非ザルモノ」と定められ、朝鮮でも「朝鮮映画令」で「文化映画」の上映が義務づけられた。

 

 朝鮮における戦意高揚と戦争動員体制構築がはかられる中、朝鮮総督府鉄道局が「文化映画」で清水宏監督に描いてもらいたかったのは、単なる「躍進ぶり」ではなかっただろう。ただ、当時劇映画の売れっ子だった清水宏には、「文化映画」に対する自分なりの考えがあり、そこで朝鮮をどう描くかについては鉄道局とは異なるイメージがあったであろう。

 

 この時期、朝鮮では朝鮮人を戦争に動員するための「皇民化政策」「内鮮一体化」が推し進められていた。1936年からの「国語常用運動」で職場や学校での日本語の強制が進み、1938年の第3次朝鮮教育令で朝鮮人児童の通う「普通学校」が「尋常小学校」に改編され、朝鮮語が必須科目から外されて校内での朝鮮語の使用が禁じられた。

 1938年には国家総動員法が施行され、朝鮮では朝鮮人を兵卒にするための「陸軍特別志願兵制度」が始まり、朝鮮総督府の陸軍兵志願者訓練所が開設された。

 さらに、1939年11月改訂の「朝鮮民事令」で「創氏改名」が定められ、翌年2月から実施に移された。血族集団の「姓」を日本風の「苗字(氏)」に変えるというだけでなく、朝鮮の親族構造自体を揺るがすものであった。

 

  「文化映画」の撮影・製作

 そんな中、1940年1月22日に清水宏は再び京城にやって来た。1月23日付の『京城日報』はこう報じている。

生きた朝鮮を

観光映画製作に清水さん来る

鮮鉄営業課の委嘱をうけた松竹監督清水宏氏は半島の観光映画製作のため、22日午後1時45分京城駅着“あかつき”で入城、直ちに朝鮮ホテルに入った。従来製作されてきた観光、文化映画はややもすればお座なり的なものが多く、風光エハガキの継ぎ合わせに属していたものだが、初めて文化映画を手がける清水監督は「私は朝鮮の風俗が大好きです」と冒頭して、左のごとく抱負を語った。(写真=入城した清水さん) 

私は朝鮮に三度来たが、朝鮮の風俗は良いネ、私の作る文化映画は大体二本だが、まだ全然プランは立っていない。京城を主題としたもの、全鮮的殊に北鮮を主題としたもの2本を作ることとなろうが、いずれにせよ動いている生きている京城なり朝鮮なりを描きたいと念願している。将来は朝鮮を舞台に劇映画も製作してみたい。今の私の製作態度は全然白紙だ。映画監督も四十を過ぎ、人間が練れてこないと、本当に立派な映画は作れないのではないか—と最近つくづく考え出した。

(現代かな遣いに改めた 以下同じ)

 

 清水宏と鉄道局の協議の結果、「生きた朝鮮」と「朝鮮の子供達」の二つのテーマで2本製作することになり、1月の下旬から2月にかけて京城を中心にロケハンを行った。2月初旬に日本内地に戻った清水宏は、4月になって本格的な撮影のためスタッフを引き連れて朝鮮にやってきた。この時、『朝鮮新聞』が釜山でコメントを取って記事にしている。

『朝鮮新聞』1940年4月12日付

 

 一方、『京城日報』は、映画製作の進捗状況と京城到着後の清水宏監督のコメントを記事にしている。

世界的水準へ

半島郷土映画仕上げに

清水監督一行入城

大松竹の貫禄賭けてお馴染みの大船撮影所清水宏監督が作る朝鮮総督府鉄道局委嘱の文化映画「生きた朝鮮」「朝鮮の子供達」は既に製作も第一、第二部共に七分通り完了したので、残る三分はいよいよ近日中に一挙に纏め上げるため清水監督は11日午後1時45分「あかつき」で助監督斎藤虎四郎、カメラ原田雄春、森田俊保両技師ら製作スタッフ九名を同伴、鮮鉄関係者及び在城文化団体多数の出迎えをうけて入城、朝鮮ホテルに入った。
清水氏はこの仕事を機に貧弱な現在の日本文化映画を世界水準にまで引上げようと涙ぐましいまでに燃ゆるような製作慾をこんどの作品に傾注しているので、第一部作—京城の巻「生きた京城」の完成の暁は文字通り現下大陸文化日本を率直に現す好個の歴史的映画で各方面から注目の的となっている。
当の演出者たる清水監督は製作態度の一端を次のように語った。
鮮鉄当局の方と最後の打ち合わせをして、すべて新しい観点と理解をもって横からの京城、縦からの京城、動く京城、動かない京城を思う存分カメラの眼に収めたいと思っている、これからは幸い天候もよし仕事がどんどんかたづいていくので愉快だ、子供の部についてもよいところわるいところの区別なく終始正直に映して見たい。【写真=入城した清水監督一行】

 また、朝鮮総督府の朝鮮語機関紙の『毎日新報』もこのような記事を書いている。

松竹撮影隊

今日京城駅に到着

鉄道局の招聘で、桜花爛漫の春の朝鮮を撮影しようと清水宏監督以下のカメラマンなど松竹撮影隊一行は11日の朝釜山に上陸して一路「あかつき」で京城駅に到着し次のように語った。

約3週間の予定で京城に滞在し、近代文化が強まる中で独特の半島文化で上昇する都市京城の風光を撮影して内地に紹介しようと思う。

 さらに『東亜日報』も、清水宏監督の文化映画のクランクインを伝えている。この記事では、映画のタイトルを「大京城」としている。

 

 「朝鮮の風俗が大好き」という清水宏が「近代文化」と対置させて描こうとしたものを「半島文化」と表現している。日本の持ち込んだものと対比させて「朝鮮」「朝鮮人」を描こうとする意図が込められていたとも考えられる。

 

  「ともだち」と「京城」

 清水宏とそのスタッフによる京城での撮影は5月2日に終了し、翌3日に帰路についた。5月7日付の『朝鮮新聞』の記事では、撮影の終わった2本の映画について、「動く京城」「子供の朝鮮」と書いている。これが今日残っている「京城」と「ともだち」というタイトルのものである。

“放送局”は”鉄道局”の誤り ”光観”は”観光”の誤植 どうなっているのか…

 

 このうち「ともだち」については、5月23日付の『京城日報』がその完成を伝えている。

 また、5月29日付の『東亜日報』は、タイトルを朝鮮語で「동무들」と紹介し、「この映画は東京で軍の試写でセンセーションを巻き起こし、朝鮮鉄道局映画の最近の傑作だという」と紹介している。

 さらに6月末には、「京城」も完成し、文化映画「京城」「ともだち(동무)」の鉄道局出入りの記者団と関係者へのお披露目試写会が6月28日に龍山の局友会館で開かれた。

 

 ちなみに、「ともだち」については、東京国立近代美術館フィルムセンターのサイトにこのような解説がある。

ともだち(13分・35mm・無声・白黒)
   文化映画『京城』を当時の植民地・朝鮮で撮影中に、速成で撮影された短篇。現存プリントは音声が欠落しているが、作品の魅力は十二分に伝わり、その印象は残されたシナリオからも裏付けられる。内地から朝鮮に転校してきた少年(横山)が、民族服を着た現地の少年(李)と心を通い合わせる様子を描く。文化映画の申請がされたが却下され、劇映画として公開された。
    '40(大日本文化映画製作所)(監)(脚)清水宏(撮)厚田雄治(音)伊藤冝二(出)横山準、李聖春、南里金春

 「ともだち」も、映画館での劇映画上映に先立って上映する「文化映画」として製作されたため、13分と短い。朝鮮児童の「国語(日本語)常用」の実績と「内鮮一体」の進捗を描くことで、「国民精神ノ涵養」に資するものとして申請したのだろう。

 

 ところが、「ともだち」は「文化映画」として認定されなかった。ストーリー性を重視した清水宏の試みが裏目に出たのかもしれない。1940年8月27日付の『朝鮮新聞』にこのような記事が出ている。

 

 この直後、9月8日付『京城日報』には、陸軍兵志願者訓練所の朝鮮人志願兵を描いた「勝利の庭」が「文化映画」の認定を受けたと報じている。

同映画全七巻は構成上劇的要素を導入しているが、これは文化映画の演出手法としてかなり野心的な試みであったにも拘らず、これが本府認定を獲得している…

とあるように、「ともだち」はストーリー性のある文化映画への転換の直前に不承認となったのであろう。

 

 結局、「ともだち」は、ニュースと抱き合わせで短編劇映画として上映された。

 

 他方、「京城」は「文化映画」の認定を受けた。したがって、朝鮮のみならず内地の映画館などで本編上映前の「文化映画」として上映されたのだろう。「ともだち」のように不承認とはならなかったが故に、「京城」の上映が新聞の記事として取り上げられることはなかった。

 


 映画「京城」に描かれているのは、1940年の朝鮮人の街「京城」である。朝鮮にフォーカスした映画が、なぜ「国民精神ノ涵養又ハ国民智能ノ啓培ニ資スルモノ」と認められたかといえば、「日本による支配」と「日本の手による近代化」のもとで「発展した朝鮮」と「それを謳歌する朝鮮の人々」を描き出したものという支配者側の身勝手な解釈・・・・・・・・・・・評価・・があったからであろうか。皮肉なことに、「戦意高揚」で煽られた人々の目には、「皇民化」「内鮮一体」の結実の如く見えたのかもしれない。

 

 この5年後の1945年8月、日本が太平洋戦争に敗北すると、朝鮮に居住する日本人は「この朝鮮は自分たちがいるべき場所ではない」ことを改めて悟ることになった。それまで、多くの在朝日本人は気づかないふりをして暮らしていた。敗戦によってそれが白日の下に晒されると、そそくさと朝鮮から立ち去っていった。

 

 ここに写っている朝鮮の人々は、「いるべき場所にいる人々」であり、決して日本の支配に屈服し、日本の持ち込んだ「近代化」を享受している人々ではない。清水宏の残した映像から、朝鮮の人々の大らかさとたくましさを読み取ることができる。

 

※映画「京城」の場面解説は次のブログで → こちら