清水宏「京城」のロケ地めぐり | 一松書院のブログ

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 清水宏が1940年に朝鮮総督府鉄道局の依頼で作製した短編広報映画「京城」(24分・35mm・白黒)。監督:清水宏、撮影:厚田雄春、音楽:伊藤冝二、製作:大日本文化映画製作所。京城とその近郊での撮影は1940年4月から5月初に行われた。

 ※「京城」と「ともだ志」の製作過程についてはこちらを参照

 

 この映画は、韓国映像資料館の韓国映画博物館でオンラインで観ることができる。この「京城」に映し出されている街並みや風景を手がかりにロケ地めぐりをやってみた。

動画はこちらから

 

 ※文中では、日本「内地」に本籍のあるものを「日本人」、朝鮮に本籍のあるものを「朝鮮人」と表記する。
 ※ 京城府内の鳥瞰地図は『大京城府大観』(1936) 

 

冒頭部分 0:48〜1:15

 左は朝鮮神宮のシルエット。

日文研朝鮮写真絵はがきデータベース

 

 右は、半島ホテル屋上から撮った明洞聖堂のシルエット。
 1945年11月にDon O'Brienが半島ホテル屋上から撮った明洞聖堂の写真(ネット上の写真は裏焼きなので水平方向に反転した)とシルエットが一致する。


Seoul, Korea-3 | Looking southeast from roof of Hanto Hotel
 November, 1945 Don O'Brien

 

2:16〜 通学風景

 いずれも朝鮮総督府の前の光化門通で撮影されたもの。光化門分局・逓信局のところが現在の世宗セジョン文化会館。総督府庁舎の西側通義町(現:通義洞トンウィドン)には東洋拓殖会社の社宅など内地人の居住地区もあったが、現在「西村ソチョン」と呼ばれる地区には朝鮮人の住居が多かった。道を渡っているのは寿松尋常小学校(1937年までは普通学校)に通う朝鮮人児童であろう。

 

3:02〜 第一高等女学校と京城中学

 画像の左は第一高等女学校の正門前、右は京城中学の正門前。どちらも日本人中等教育のエリート校で、朝鮮人の生徒が少数在学していたが、ほとんどが日本人生徒だった。

第一高等女学校と京城中学(日文研朝鮮写真絵はがきデータベース)

 

 

3:19〜 朝鮮総督府庁舎への出勤

 

4:03 バレーボールをする児童

 貞洞町の女子尋常小学校(1937年までは女子普通学校)の校庭で撮影。右の写真の後ろに見えるのは京城放送局の局舎とアンテナ。上掲地図参照

京城放送局

 

 この場面の前の校庭もこの学校で撮影したものかもしれない。だとすると、元々普通学校だったので、全員朝鮮の児童たち。ただし教師は3割程度が日本人、約7割が朝鮮人であった。

 

 男子体操の場所は不明。

 

4:34〜 京城帝国大学医学部 

 最初の建物は京城帝国大学医学部本館、現在も大学路テハンノのソウル大学校医科大学の建物として残っている。

 

4:50〜 陸軍兵志願者訓練所

 1938年に朝鮮人を兵卒とする陸軍特別志願兵制度が始まり、勅令156号によって「朝鮮総督府陸軍兵志願者訓練所」が設置された。場所は、京城の東北郊外の楊州郡墨洞里。解放後、この場所に朝鮮警備士官学校が置かれ、その後陸軍士官学校となった。動画に出てくるのは朝鮮人志願者の訓練の様子。

1/25,000地図(1914年測図1937第3回修正測図)

 

5:09〜 株式会社朝鮮取引所

 明治町(現:明洞ミョンドン)の明治座(現:国立劇団明洞芸術劇場)の北側にあった。

 

5:32〜 商業銀行→レートクレーム広告塔→京城郵便局


日文研朝鮮写真絵はがきデータベース

平尾賛平商店の化粧クリーム「レートクレーム」の巨大広告塔は1936年に建てられた。

 

本町通入口→篠崎ビル →三越(現:新世界シンセゲ百貨店)

 

貯蓄銀行(旧第一銀行本店を現在新世界別館に改装中)→青木堂 →朝鮮銀行(現:貨幣博物館)

 

 

6:09〜 警察官講習所→光化門通(現:世宗路セジョンノ)→京畿道庁

総督府庁舎前を西から東に移動しながら撮影。 

 

6:22〜 徳寿宮横から京城府庁前

 

 

6:35〜 鍾閣から鍾路を見通して和信百貨店前

 現在の地下鉄1号線鍾閣チョンガク駅上の交差点を南から北に移動しながら撮影。

 

6:50〜 京城府庁→黄金町通り(現:乙支路ウルチロ)方向→半島ホテル(現ロッテホテルの場所)

 

7:01〜 鍾路の交差点から南大門通方 →東一銀行・鍾閣

 現在の地下鉄1号線鍾閣チョンガク駅上の交差点を西から東に移動しながら撮影。

 

7:12〜12:02 朝鮮の人々の暮らし、街並み、露店、食堂、子供達、洗濯場など

残念ながら目印になる建造物などがなくて撮影場所が特定できない。

 

12:24〜 圜丘壇・半島ホテル・京城府庁・朝鮮ホテル・聖公会・朝鮮総督府

徳寿宮静観軒からのスケッチ(日文研朝鮮写真絵はがきデータベース)

 

12:46〜13:08 府民館の屋上からの撮影か?

 

13:09〜 半島ホテル4階食堂から徳寿宮

 半島ホテルからは、徳寿宮の中和殿・李王家美術館(現:国立現代美術館徳寿宮館)が見通せていた。

現在の中和殿と国立現代美術館徳寿宮館

 

13:23〜13:40 昼休み風景

 ①は朝鮮総督府図書館の裏側か?。

 ③の建物は、半島ホテルの向かい側の三井物産京城支店のビル屋上。このビルはロッテホテル向かい側に現存する。朝鮮戦争後にアメリカ大使館となり、その後アメリカ文化院。1992年に韓国側に返還されてからはソウル市庁別館となり、一時期グレビンミュージアムとして使用されていた。

 

 ②④は、屋上の手すりから半島ホテル斜め向かいの清水組ではないかと推測。

 

13:40〜15:28 昌慶苑の動物園・徳寿宮・景福宮慶会楼・光化門

 15:08に出てくる門は、景福宮に朝鮮総督府庁舎を建設したため東側に移設された光化門。

 この光化門クァンファムンは、朝鮮戦争開戦直後に上部の木造部分が焼失。朴正煕パクチョンヒ政権下の1968年に景福宮キョンボックン正面に移転して光化門をコンクリート製で再建。その後改めて木造で忠実に復元する工事が行われて2010年に完成した。

 

15:28〜 織物・刺繍の工房

 撮影場所は特定できない。李王職美術品製作所という推定もある(映像資料院資料)が、製作所は1936年に廃止され、跡地は東洋拓殖会社に売却された。この製作所の施設・設備が移され、職人が移動した場所での撮影かとも推測されるが、どこに引き継がれたかは不明。

 

16:36〜17:32 競馬場・野球場・ゴルフ場

  競馬場は、朝鮮競馬倶楽部が1928年に新設里に建設。野球場は、1925年に皇太子成婚記念事業として建設された東大門運動場の一角に作られ、翌年バックネット裏に屋根付きスタンドができた。京城ゴルフクラブは、1930年に君子里(現:オリニ大公園)に18ホール(パー69)のコースがオープン。

 

17:33〜18:26 京城駅 駅そば 駅弁

 1930年代後半には京城駅でも「駅売うどん・そば」が売られており、1940年に「かけ」が11銭だった。駅弁は1938年に25銭に値下げされたが、中身が貧弱だと評判が悪く、1939年11月に40銭の高級駅弁が売り出されている。動画に出てくる駅弁は25銭なのか40銭なのか… ちなみに1940年には、葉書が2銭なので、単純計算で11銭は340円、25銭は775円、40銭は1,240円になる。

 

18:25〜18:39 明治座

 この建物は今も明洞に現存し、国立劇団明洞芸術劇場として使われている。上掲写真の奥の方に朝鮮取引所があった。映画「京城」では、明治座の入り口には清水宏監督の作品「信子」の看板がかかっている。実際に封切られたのは1940年5月6日。撮影チームは5月2日に全ての撮影を終えているので、この看板は上映予告なのだろう。

 

18:39〜 路面電車 東大門・車庫 鍾路・和信前

 左は東大門の電車停留所。後方の建物は東大門の電車車庫(現:JWマリオット・東大門トンデムン総合市場の場所にあった)。

『京城電気沿線御案内』1928年

 19:14に鍾路の和信百貨店前の停留所が出てくる。撮影は、鍾路沿いの停留所と電車内で行われたのであろう。チマチョゴリの朝鮮女性の乗客が多く見られる。

 

19:23〜 本町通

19:35 右手の建物は平田百貨店、奥の2階建ての建物は飯泉洋品店。

平田百貨店(大京城写真帖より)と本町入口(日文研朝鮮写真絵はがきDBより)

 

19:42 映像の角度や距離から、鐘紡ビルから本町二丁目の日之出商行(絵葉書・額縁販売)と向かいの田中時計店方向を撮影したものであろう…。

日文研朝鮮写真絵はがきDB

竹崎達夫「思い出の本町入り口付近」

 

19:56〜 朝鮮人の市場

 場所が特定できない。

 

20:13〜20:47 三越百貨店 売り場・閉店

 

21:27〜21:57 閉店後の三越ショーウィンドウ・夜市

 

21:59〜23:40 レストラン・天ぷら・朝鮮料亭

 1939年に詩人高橋新吉を京城に迎えた朝鮮の文人たちが歓待した様子が次のように描かれている。

 明洞の名物であるバーグランのコース料理、カネボウの洋食、川長の鰻丼、江戸川のすき焼き、そして白龍、ノアノア、黄昏、オアシス、羅典区など、個性豊かなグリルとテイールームを見物した高橋は、夜になると鍾路の食道園で妓生と神仙炉に酔い、年若い花嫁のように顔を赤らめた。

吉川凪『京城のダダ、東京のダダ』平凡社 2014

 この本の中には「天ぷら」は出てこないが、川長は天ぷらでも有名だった。

 

 この映像の撮影場所の特定はできない。ただ、この場面は、京城一の繁華街のバーグラン(ボア・グラン)・カネボウ・川長・江戸川・食道園といった飲食店・料亭の1940年の雰囲気を知る手掛かりにはなるだろう。

 

(完)