ソウル駅の西側、万里洞に1932年に建てられた古い和洋折衷の建物がある。今は「The House 1932」というカフェになっているが、元々は朝鮮印刷会社の社長小杉謹八の邸宅として建てられた建物。
The House 1932のホームページによれば、2018年のリモデリング工事の際に、天井裏から「御神札」が発見されたという。「御神札」とは、建物を建てるときに天照大神に捧げるもので、棟上げの時に奉斎したもの。
左がリモデリング前、右がリモデリング中。屋根裏に御神札があった。
この「御神札」によって、この建物が1932年に小杉謹八が発注して建てられたことが明らかとなった。
小杉謹八と朝鮮印刷会社
小杉謹八については、 1939年の『事業と鄕人 第1輯』(実業タイムス社 大陸硏究社)に次のように記載されている。
茨城県古河の人で明治十年五月の生まれ、四高を卒業して明治三十八年の日露戦役当時に陸軍軍属として来鮮し、宮内府次官の小宮氏に人物を見込まれて朝鮮に腰を据えることゝなり一二の会社に勤めたが後に小杉組を起して土木建築請負業となりトントン拍子で成功した。
「宮内府次官の小宮氏」とは、大審院検事から大韓帝国の宮内府次官となり、韓国併合後は李王職の次官となった小宮三保松。小杉謹八は、この小宮の紹介で藤田謙一の日韓図書印刷会社と藤田合名会社の理事となった。ここから印刷業との関わりが始まる。日韓図書印刷の藤田謙一も元々は印刷業とは無縁の大蔵省専売局の役人だった。天狗タバコの製造・販売で「東洋煙草大王」の異名をとった岩谷松平に見込まれ、大韓帝国の煙草業の視察に行った際、たまたま韓国の教科書の独占出版権を手に入れた。そのために設立したのが日韓図書印刷会社だった。
日韓図書印刷の印刷工場は、設立当初は明治町2丁目54番地、すなわち、現在の明洞の国立劇場明洞芸術劇場の場所にあった。1908年に朝鮮王朝の平理院があった西小門内、現在のソウル市立美術館西小門本館(旧大法院)の北側に印刷工場を新築した。平理院は1908年に公平洞に新築・移転し、その跡地の払い下げを受けたのであろう。本社と編纂部などは明治町2丁目に残った。現在明洞に残っている劇場は、この印刷事務所の跡地に明治座として1936年に建てられたものである。
その後、日韓印刷会社と社名を変更し、一時期は明石桐一が経営を引き継いだ(『朝鮮新聞』1930年4月20日付記事)。1919年になって小杉謹八が日韓印刷の資産を引き継ぐかたちで新たに朝鮮印刷株式会社を設立した。小杉謹八は、日韓図書印刷の時代から関わっていたが、その一方で土木建築請負業や造林製材業の会社を起こして京城の実業界で頭角を表わしていた。
日韓印刷会社は、総督府関係の出版物の印刷を行っており、それを朝鮮印刷会社が全て引き継いだ。
朝鮮印刷の工場火事
1924年4月28日午後10時半、西小門内の朝鮮印刷工場から出火して、当時貞洞にあった官庁の多くが焼失する大火事となった。
昨夜、京城未曾有の大火
朝鮮印刷時会社より出火、法務局・専売局・鉄道部・土木部・土地調査局・各全焼
原因目下調査中、損害額約百万円
28日午後10時半西小門町朝鮮印刷株式会社奥2階宿直部屋横の辺より吹き出した火は忽ち300坪の同社全部を焼き落し一旦衰へたる火勢は更に11時半隣接せる土木部工事課に延焼して再び猛烈なる火の手を揚げ見る間に建て続きの土木部、本館、鉄道部、法務局、土地調査局、専売局をひと舐めにして、午前1時半漸く鎮火し貞洞の一角に巍然として聳えて居た所謂貞洞総督府各部局は僅かに高等法院と中枢院の2棟を残したのみで全く灰燼に帰した。
…後略…
この当時、朝鮮総督府の本庁舎はまだ南山北麓の倭城台にあり、景福宮の光化門の後ろに建てられる総督府新庁舎はまだ工事中であった。この時点で、一部の官庁は貞洞の庁舎に移っていたのだが、それが焼失した。
朝鮮印刷は、焼けた工場跡地に仮設の工場を建てて、明治町の最初の工場も稼働させて印刷業務を再開した。
蓬莱町移転と小杉邸の建築
火災後の工場の暫定的再稼働と同時に、蓬莱町3丁目に土地を確保して新工場の建設に着手した。2年後の1926年にこの新工場が完成した。当時朝鮮印刷会社が印刷を担当していた朝鮮総督府の雑誌『朝鮮』の8月号にこのような自社広告を掲載している。
もともと朝鮮印刷の工場があった西小門町の跡地には、1928年に高等法院と京城地方法院、覆審法院の合同庁舎(現ソウル市美術館西小門本館の前面部分が当時のもの)が完成している。
『京城精密地図』三重出版社京城支店 1933
こうした経緯から考えると、西小門の朝鮮印刷工場用地と蓬莱町3丁目の新工場用地とが、交換されたとも考えられる。そして、1933年の『京城精密地図』に「小杉組」と書き込まれているところに、小杉謹八の邸宅が1932年に完成したのであろう。さらに、朝鮮印刷本社があった明治町2丁目54には、1936年に明治座が完成している。つまり、小杉謹八が蓬莱町3丁目の新工場裏に邸宅を建設し始める頃に、本社があった明治町2丁目の売却も俎上に上ったものと思われる。
解放後の変遷
1945年の日本の敗戦で、朝鮮半島は米軍政庁の統治下に入った。朝鮮にあった内地の施設や内地人の個人資産は、連合軍によって「敵産」として接収された。内地人の高位官僚や資産家の豪邸は軍政庁幹部の宿舎として使用された。
「The House 1932」のホームページによれば、小杉謹八の邸宅だった建物は、1947年10月に米軍政庁司令官ホッジ中将の代理として在韓軍司令官に任命されたディーン(William F. Dean)少将の住居として利用されたとある。1948年8月15日に大韓民国が成立したのち、ディーン少将は韓国を離れた。その後、朝鮮戦争が勃発すると第24歩兵師団長として戦闘に加わったが、北朝鮮人民軍の捕虜となって休戦成立まで北朝鮮に抑留された。
朝鮮戦争休戦後、建物は、国会議員の成得煥の所有になったとされている。
一方、朝鮮印刷会社の工場は、朝鮮人従業員を中心に操業が続けられ、1948年8月の大韓民国樹立後、1949年2月に、政府関係の出版物を印刷する大韓印刷公社と改称された。
朝鮮戦争休戦後、大韓印刷公社は政府刊行物会社となった。1962年5月、李学洙が朝鮮戦争中に釜山で起業した光明印刷所が、この政府刊行物会社を買収した。李学洙は、1961年の5・16軍事クーデターの際、朴正煕らクーデター主導勢力の依頼で「革命公約」を極秘裏に印刷したことで軍事政権と繋がりができた。政府刊行物会社の施設を手に入れると共に、文教部の初等国定教科書や政府・軍関係印刷物などの刊行物の印刷と出版を受注することになった。
しかし、1976年に李学洙は自身が経営していた高麗遠洋漁業会社の脱税容疑などで逮捕され、光明印刷などの経営が行き詰まった。1989年12月に李学洙が死亡すると、万里洞の工場と敷地は売却されることになった。現在は、ソウル駅The O VilleとKCCパークタウンのビル群が工場の跡地に立っている。
小杉謹八の住宅は、2007年から2017年までTubicomtecという会社の事務所として使用され、その後、現在の所有者成得煥の孫がリモデリングしてカフェ「The House 1932」を運営している。
上の赤枠が旧小杉謹八邸と光明印刷工場。2004年にはThe O Villeビルとマンションが建っている。