太極堂と「みどり家」 | 一松書院のブログ

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 奨忠体育館チャンチュンチェユッカン前の交差点の北西側ににある太極堂テグッタンは、ソウルで最も古いパン屋とされている。

 

 

 太極堂のホームページの沿革によれば、植民地時代の「미도리야ミドリヤ」製菓店を引き継ぎ、1946年に申昌根シンチャングンが創業したと記されている。

 太極堂は、創業時には明洞ミョンドンに店があった。住所は「忠武路チュンムロ2ガ107 - 2」。本店は、1973年に現在の奨忠洞チャンチュンドンの場所に建てられたビルに移った。

 

 1920年代後半から30年代にかけての『朝鮮新聞』にこのような広告が出ている。多分、この「みどり家」というのが太極堂の前身とされる「미도리야ミドリヤ」であろう。

 

 この広告から分かるように、1927年には、南山町一丁目に本店、本町二丁目に支店があり、「東京もなか」を商標名やロゴマークに使っていた。

 

 さらに、「東京もなか」の検索で、このような記事が出てきた。

 

 1926年4月25日に大韓帝国最後の皇帝だった純宗が亡くなった。この時に、日本の各皇族が、京城の「みどり家」の「東京もなか」を李王室への「見舞品」として注文したというのである。そこまでの有名店であれば、当然『大京城府大観』や『京城精密地図』、それに『大京城写真帳』などに記載がありそうなのだが…、「みどり家」は見当たらない。

 

 上述のように1973年に太極堂が本店を奨忠洞に移すまで、「忠武路2街107 - 2」に太極堂本店はあった。これは植民地時代の地番表示だと「本町2丁目107番地」。『地番区画入大京城精図』(森田仙堂 1936)だと、このような位置関係になる。

 

 

 本町のメインストリートをはさんだ107番地の向かいの1番地に日之出商行があった。日之出商行は絵葉書の制作・販売をやっており、自分の店を写した絵葉書も出している。ひょっとして… ということで、絵葉書を探してみたら…本町二丁目に「みどり家」を見つけた!

 

国際日本文化研究センター「朝鮮写真絵はがきデータベース」より

 

 本町二丁目の通りを西から東に向かって撮られたこの写真の手前左側が日之出商行、その向かい側に「東京もなか」の看板とロゴマークが見える。右手前に映画「木村長門守」の看板があるが、この映画は1928年5月22日から28日まで喜楽館で上映された帝国キネマの時代劇。したがってこの写真は1928年5月のものということになる。

 

 本町二丁目に「東京もなか」の看板を掲げているほどの店主であれば、『朝鮮功勞者銘鑑』『朝鮮人事興信錄』『朝鮮在住內地人實業家人名士典』などに掲載されるものなのだが…。韓国の国史編纂委員会がそれらの人名録をデータベース化しているが、「みどり家」「みどり屋」「緑家」「東京もなか」などのキーワードで検索してもそれらしい関係人物がヒットしない。

 

 他のデータベースでしつこく検索した結果、『京城日報』のこんな記事が出てきた。

 

 

 「みどり家」のオーナーは女性だった。あの時代の「実業家」「名士」には女性は入れられていなかった。通常は、こうした人名録出版の際には、本人に連絡して協賛金を取って掲載をするのだが、女性はその対象になってなかったということ。そうしたこともあって、太極堂の前身の「みどりや」がどのような店なのか、知られていなかったのだろう。

 

 この『京城日報』の記事を要約すれば以下のようになる。

  • 河部傎佐子は新橋の芸妓出身で、河部誠介と結婚した。
  • 1922年に京城駅新築工事の仕事を請け負った河部誠介と一緒に傎佐子も京城へ。
  • 1924年暮から、傎佐子が東京からもなか職人を呼び寄せて「東京もなか」を製造。
  • 官庁やホテル、料理店に傎佐子自身が売り込みに奔走して販路を広げた。
  • 誠介の仕事が終わりそうなので、東京に帰るかもしれないが、傎佐子はさらなる商品開発も考えている

 河部誠介は、下関で電気・電話工事の請負業をやっており、京城では京城駅の工事の請負とともに南山町1丁目1に河部電気商会の出張所を置いて出張修理業を行なっていた。この南山町1丁目1の場所に「みどり家」の本店が置かれていたのであろう。ちょうど喜楽館の南側に隣接している。

 

 

 1930年代半ばまでは「みどり家」の新聞広告があるが、それ以降はデータ検索ではヒットしない。軍国主義日本が戦時体制に移行して、砂糖などの統制が厳しくなっていくことと関連するのかもしれない。もともと本店とされていた南山町一丁目1の土地は、1930年代後半に新たに昭和通(現在の退渓路テゲロ)を通すために立ち退きとなった。「みどり家」は京城本町二丁目を本店として1945年8月まで存続していた。ただ、オーナーの河部傎佐子が、京城の現地でどの程度まで店の経営に関与していたかはわからない。

 

 8月15日の日本の敗戦時前後の「みどり家」の様子は全くわからない。ただ「みどり家」と同じ本町二丁目にあった丸善の1945年夏から秋にかけての引揚げプロセスについては、次のような記録が残されている。

昭和26年版『丸善社史』より

 既に内地とは通信連絡ができず、一方、日本の軍部や総督府からも何らの指示もなく、社員は全く途方に暮れつつあった。そのうち9月8日、米軍が京城市内に進駐してきたため、人心も次第に静まり、不安も薄らいだが、そのような状況の中で、近く在鮮日本人は、全部本国へ送還されるということも確かになったので、送還後の当支店の管理を朝鮮人社員裵渉(京城府立高等普通学校卒業後、昭和12年11月当支店に採用、のち選ばれて社員資格の待遇を受けていた一人で、今一人社員待遇の朝鮮人も居た)に委任することとなり、9月下旬米軍当事者立ち会いの下に店内の諸物品を棚卸しして現物並びに帳簿を整理し、支店と裵渉との間に、管理委任に関する契約書(米軍当事者サイン)を取交わした。

『丸善100年史』第4編第1部第1章3より

 日本人が経営していた企業、商店などでは、この丸善と同じような方式が取られたと考えられる。仏教やキリスト教などの宗教組織でも同じように朝鮮人側に管理を委任・委託しようとしていた。必ずしもうまくいったとは限らないのだが…。

 

 「みどり屋」の場合、申昌根との間で管理委任契約書が取交わされたのではなかろうか。当時、申昌根は数え年で25歳。翌年「みどり家」の旧本町二丁目の本店の場所で「太極堂」を開店した。

 

 解放後に新たに出発した太極堂について検索をかけたが、菓子の話は出てこない。ところが、軟式野球の関連記事が出てきた。1950年5月27日の軟式野球協会主催の第4回春季軟式野球大会決勝で、太極堂が朝鮮運輸を破って優勝している。

 

 太極堂単独で職場チームとして軟式野球大会に出場し、しかも優勝するほどの野球技量の従業員が揃っていたのかという疑問が湧く。1930年代から朝鮮で軟式野球の大会が盛んに行われるようになり、職場対抗や地域対抗戦が行われていた。各チーム、内地人が中心だったが朝鮮人選手も活躍していた。植民地支配から解放された後も盛んに行われた。ただ、職場単独ではなく外部からの助っ人を認めていたのかもしれない。太極堂と申昌根は、その後も軟式野球と深く関わっており、申昌根自身が解放前からの軟式野球プレーヤーであった可能性もある。解放後の大韓軟式野球協会の事務所は太極堂に置かれ、1958年には申昌根は軟式野球協会の理事長に就任している。

 

 上述のように、1950年5月に太極堂は軟式野球大会で優勝するのだが、それから1ヶ月もたたずに朝鮮戦争が勃発した。この戦争で、旧明治町から本町の一帯はほぼ壊滅した。1951年7月に、国連軍から取材許可を得てソウルに入った『朝日新聞』鈴川勇特派員は、次のようにソウルの街の惨状を伝えた。

 

 太極堂として営業していた「みどり家」の家屋も、この時に焼失してしまったのであろう。国連軍がソウルを奪還した後、南大門路2街で仮営業していた太極堂は、1954年に忠武路107番地の西側の108番地の土地も入手し、ここに4階建てのビルを建設した。

 

 

 この太極堂のビルは、中規模の会合が開けるホールを備えていた。上述の軟式野球協会の会合などが開かれたし、1958年には俳優協会の創立3周年記念式典がここで開かれ、当時李承晩イスンマン政権の有力者だった民議院議長李起鵬イギブンと妻の朴瑪利亞パクマリアも出席していた。

 

 

 朴正煕パクチョンヒ大統領の時代になって、1968年11月に太極堂の直営牧場を大統領が自ら視察に訪れた。1972年から始められたセマウル運動に先だって、1968年から稲作以外の商品作物生産や畜産物生産による農家所得源の多様化を図っていたが、そのデモンストレーションでもあった。

 

 

 1973年に、太極堂は本社ビルを奨忠洞に建てて、本拠地を明洞地区から移した。当時の奨忠洞はまだ新羅シルラホテルもなく、アンバサダーホテルから東国大トングッグデ前を通って奨忠壇交差点に通じる道路も開通してなかった。ただ、この時点で、朴正煕は、博文寺の跡地にあった迎賓館の場所に国賓級のゲストが泊まれるホテルを建てるようにサムソンに指示していた。また、ソウル市は現在の東国大前の道路の建設を計画していた。

 

 それらの都市計画と、太極堂の移転につながりがあるかは不明だが…、そんな時代だった。

 

映画「昨日降った雨(어제 내린 비)」(1974) 奨忠洞の太極堂

 

 1973年に奨忠洞に本店を移転させた後、忠武路2街のビルは、家具店やサロンなどに賃借し、4階部分を太極堂の従業員宿舎として使っていた。1977年3月5日の未明、3階のサロンから出火して3・4階部分が焼失し、太極堂の従業員が14名死亡するという火災が起きた。

 

 

 この火災と従業員の惨事によって、明洞地区における太極堂の歴史は幕を閉じた。同時に、植民地時代の「みどり家」の痕跡も消え去った。

 いや、新橋の芸妓が起業した「みどりや」は、ずっと前から痕跡が消されていたのかもしれない。デジタル資料化の時代だからこそここまでわかったが、やはり、河部傎佐子や申昌根など当事者の生の証言が聞けないのが返すがえすも残念だ。