解放後韓国の日本語学習 | 一松書院のブログ

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ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 今や韓国の街角には、日本語を教える学院ハグォンの看板が出ていたり、居酒屋風の店がまえに日本語の看板が出ていたりするのは当たり前の風景になっている。

 

 そんな「今」を、日本と朝鮮半島の関係の中で理解するためには、「今の当たり前」が「当たり前ではなかったこと」を知ることが有益だろう。日本の植民地支配から解放された韓国で、日本語を学ぶということがどのように捉えられ、政策や社会動向がどのように変わってきたのか。解放直後から、KBSテレビで日本語講座が始まる1980年代あたりまでの動きを追ってみた。

  • 日本語の排除
  • 4・19以後の日本語ブーム
  • 日本語教育の「陽性化」
  • 日本語学習の定着

  日本語の排除

 1945年8月の日本の敗戦によって朝鮮は日本による植民地支配から解放された。米軍政庁は、1945年9月29日の軍政庁法令第6号で「朝鮮の学校における教育用言語は朝鮮語とする」と定め、1947年6月28日の軍政庁行政命令第4号で「南朝鮮過渡政府の公用語は朝鮮語とする」と定めた。植民地支配末期の戦時体制下での日本語強要も相まって、解放時の朝鮮では、公的な場のみならず私的な日常生活にも日本語が入り込んでいた。近代化の過程が日本による侵略と重なったことから、近代的文物や概念の用語が日本語の漢字の置き換えを多く使うことになった。そのため、日本語の影響を一気に排除することは容易ではなく、とりあえずは目につく「倭色ウェセック」を薄めて行く作業を進めていくしかなかった。当然のことながら、日本語を学んだり教えたりということはタブー視された。

 

 他方で、韓国に引き継がれることになった朝鮮総督府図書館や京城府図書館、それに各種教育機関の図書館などに残された蔵書資料の大半は日本語の資料であり、日本人が引き揚げの時に放置したり二束三文で売り払った書籍もあちらこちらに出回っていた。建国後の新たな国づくりのために、さらには1950年からの朝鮮戦争で荒廃した国土を復興するためには、英語などを通した知識・情報の活用とともに、これら日本語による知的資産の活用も必要であった。

 

 「倭色」除去の裏面では、こうした日本語の利用が行われていた。新生韓国を様々な分野で牽引することになった人々は中等教育・高等教育を日本語で受けざるを得なかったため、それが可能だった。ところが、解放から10年以上が経過すると、日本語を新たに学習して習得する必要な世代が出てくる。それらの人々も日本への反感や警戒心は強かったが、ツールとしての日本語の必要性も感じていた。そうしたことから、1950年代後半から、日本語学習の欲求は、特に若い世代で強まっていた。しかし、李承晩イスンマン政権は、「反共防日」政策を掲げて、あくまでも日本語の教育を容認しようとはしなかった。

 

日本語教育はダメ
文教長官が警告

朝鮮日報 1958年2月25日
24日、文教部長官は全国の各教育機関に対して、正規の教育課程やその他の名目の教育においても日本語を教えないよう通達した。現在、ソウルの鐘路書館に連絡事務所を置く蛍雪文化社では「日本語会得参考書」を制作・市販しているとし、20代の青年の学習者がこれに関心を示して読んでいるとしながらも、文教部は「日本語習得の目的が学術的な面にあるとしても、現下の「反共防日」教育に鑑み、教育機関で公然と教えたり、学べる環境を用意するのは適切ではない」と指摘し、慎むべきだとした。

 この時、蛍雪文化社ヒョンソルムナサは『알기 쉬운アルギシウン 日本語』を販売していたが、文教部長官が法務部長官にあてた公文「日本語会得参考書発行に対する対策講究の件(일본어해득참고서 발행에 대한 대책강구의건)1957年 管理番号CA0026768」の中では、

現下の国内外の実情と反共防日の国策に照らし、日本語を普及させることは親日的感情を助長し、日本の文化的な侵攻を許す結果を招くものと思われる。近頃、ソウル特別市鍾路 2街の出版社蛍雪文化社が日本語参考書『알기 쉬운 日本語』を刊行・販売中であるところ、国家的立場からこれを看過することはできない。

と具体的に書名を挙げて排除の対象とされていた。蛍雪文化社以外でも、文洋社ムニャンサが1958年4月に出した『日本語 첫걸음チョッコルム(第一歩)』などがあったが、この本の巻頭言では「倭色一掃は我々が取り組むべき課題であるが、“敵を打ち破るためには敵を知らねばならない”」という出版の目的が強調されていた。これは、当局の目を意識したものであろう。

 

 

  4・19以後の日本語ブーム

 1960年3月の大統領選挙では李承晩が再選されたが、不正選挙だとする抗議運動が激しくなり4月19日の大規模な学生デモをきっかけに李承晩は大統領を辞任して国外に脱出した(4・19サーイルグ革命)。李承晩政権の崩壊を契機に、それまで水面下で広まっていた日本語学習・日本語教育が表舞台に登場することになった。李承晩大統領辞任から2ヶ月後、目の敵にされていた蛍雪文化社は日本語通信講座の広告を大々的に『東亜日報』に掲載している。

 

 

 1961年1月13日付の『朝鮮日報』「書籍界」欄ではソウル市内の日本語講習所について触れられている。

 現在、ソウル市内には約20ヶ所の日本語講習所があるが、その規模は千差万別。6ヶ月間の講習期間で1,500ファンから3,000圜程度の受講料を払って一日平均の講義時間は60分。明洞近くのS語学院はその中でも小規模で10人余りの受講生がいる。全員が24歳以下で、男性より女性の方が多く8割が女性だ。職業はほとんどが大学生だが、職業女性もいる。

(中略)

 「なぜ日本語を学ぶのか」というアンケートに対し、20代男女100人の答えは次の通りだ。勉学のため40%、ラジオを聴くため10%、小説を読むため40%、翻訳するため5%、留学のため5%となっている。

 さらに、1961年3月11日の『朝鮮日報』は「日語ブーム」という記事を掲載した。

日本語ブーム

講習所は超満員
李政権が崩壊するやいなや、いつの間にか

 4・19革命が起きた昨年、15年ぶりに解放後初の日本ブームが起こり、日本語のレコードが氾濫し、低俗なエロ雑誌が公然と輸入・販売されるなど、止められていた日本文化が革命の風に乗って入ってきて、まるで解放直後の英語やアメリカのブームに似た社会現象が続いている。特に、日本による植民地支配の屈辱を経験していない20代前後の男女学生の日本熱は日増しに高まっており、停滞したままの韓日会談、タングステン契約をめぐる政界の醜態、そして暫定的とはいえ日本政府による対韓輸出停止など、微妙な韓日関係にもかかわらず、道義的な警戒心を失ってしまっているかのようだ。
 日本文学全集が発刊され、日本のベストセラー小説が韓国の昨年度のベストセラーになり、喫茶店や料亭などで日本の音楽の海賊版が流されても取り締まれずにいる。
 4・19革命以前は、1〜2ヶ所でこっそりとやっていた日本語講習所も、この10ヶ月で英語塾に負けないほど増加して雨後の竹の子状態。 韓国初の外国語大学には今年から日本語科が新設されて学生募集が始まった。ほぼ全ての人文系の大学が日本語科を新設しようと文教部に申請している。一方、反日政策が徹底していた4・19以前にはほとんどみられなかった無認可の私設日本語講習所がソウル市内だけも大小50ヶ所にはのぼるだろうというのが当局の推計。市の教育委員会は、このうち摘発した12ヶ所に対して3月6日付で閉鎖するよう通告したが、1カ所もそれには応じておらず、逆に新聞広告で生徒募集までしている。ソウル市教育委員会は昨年8月にも日本語講習所に閉鎖通告をしたが閉鎖したところはないという。これらの講習所が 正式に認可申請を出してきた場合、認可すべきかという問い合わせに対し、文教部は2月6日付で「時期尚早」で認可すべきでないと回答している。市当局は、認可をすることもできず、また氾濫している無認可の私設講習所についても取り締まる法規がないため、放置するしかないという。検察や警察に告発しても処罰規定がないため、どうすることもできず、監督機関が見回る程度で、警察の権威が地に落ちた昨今はどうしようもないという。社会教育機関および私設講習所に関する法規は50年前の総督府令第3号のみで、この規定の第1条によって当局の認可がない講習所に対しては閉鎖を命じることができるものの、行政命令に違反した場合の罰則規定はない。
 このような法規の不備と当局の無策によって、日本の国定教科書である「中学国語」まで教材として使う講習所もあり、「日本語の第一歩」など5〜6種類の日本語教科書が飛ぶように売れている。

 対日感情が和らいだわけでも日本に憧れを抱くようになったわけでもない。解放後の教育を受けた若い世代は、日本語を外国語として学ぶ必要に迫られていた。また、独裁政権下で多様性を求めたり多角的な情報に接するツールとしての需要もあった。だが、植民地支配を経験した世代から見ると、若い世代の日本語学習熱は、日本への警戒心の欠如のようにもみえたのであろう。

 

 『京郷新聞』1963年8月22日の記事でも、日本語学校が増加していることについて、

大学図書館で手軽に読めるのは日本語の本。 現在、ソウル大学の60万9553冊の蔵書のうち東洋書が45万2641冊、その大部分が日本語書籍だ。高麗大学図書館は16万数千冊の蔵書のうち9万2千数百冊が東洋書で、そのうち約5万冊が日本の書籍。 延世大学もほぼ同じ割合だ。日本語講習所の受講生は理工系の学生が一番多く、人文・社会科学系がそれに続く。

と日本語学習の必要性をレポートしている。だが、同時に大学教授のコメントを引用して、「精神と物質面で日本に奪われてしまう」懸念や、「民族の主体性は常に守っていなければならない」といった警戒感が示されていた。

 

  日本語教育の「陽性化」

 1965年の日韓国交正常化以降、日本の「文化侵略」警戒論は依然根強かったものの、日韓交流の窓口は広げられることになった。1967年に、韓国政府は日本への留学を正式に認めるものとし、日本への留学資格試験に日本語を課し、合わせて日本語学校を正式に認可していく方針を示した。

 

 

 これ以前にも、日本に渡航して日本の大学などで学ぶ「留学」は存在していた。ただ、まだ韓国の海外渡航は自由化されておらず、日本への留学を目的とした旅券申請は却下された。これ以前の「留学」は、何らかの別の名目で旅券を取得するか、非正規のルートで日本に渡って日本で学んだものだった。ビデオアートの創始者として知られる白南準(ナム・ジュン・パイク)は1949年に香港の学校に移りその後日本に渡って1952年に東大文科部に入学した。世運商街や蚕室競技場など数多くの建築物を設計した金壽根キムスグンは1954年に東京藝大に入学しているが、彼は非正規ルートによる「留学」であった。


 ちなみに、1967年に日本人初の韓国政府招請留学生として池川英勝(歴史学:元東京外大・天理大学教授)と藤本幸夫(言語学:元富山大学教授)が韓国に留学している。1969年には馬越徹(教育学:元名古屋大学教授)と菅野裕臣(言語学:元東京外大教授)が、また、文部省からの派遣留学生として稲葉継雄(教育学:元九州大学教授)が留学した。1968年には長璋吉(文学:元東京外大教授)が留学ビザを取得して延世大学に私費留学している。延世大学と慶應義塾大学の間に交換協定が1970年10月に締結され、最初の交換留学生として1972年に小此木政夫(政治学:元慶應大教授)が留学した。

 

 1972年4月3日、極東放送(FBS)がラジオの日本語講座「오늘의オヌレ 日本語(今日の日本語)」の放送を開始した。午前5時から10分間の放送で、午前11時から再放送。ただ、『東亜日報』のラジオ欄には、「外国語講座(再)」とだけ表記されていて日本語の扱いの微妙さが見てとれる。

 

 1972年7月5日、朴正煕パクチョンヒ大統領は経済企画院で開かれた月間経済動向報告の会議で、それまでのフランス語、ドイツ語に加えて日本語を第2外国語に指定し、高校で日本語教育実施をするよう指示した。7月5日の夕刊各紙がこれを伝えているのだが、この前日の7月4日には朝鮮戦争後初の「南北共同声明」を中央情報部長の李厚洛イフラクが劇的に公表していた。その話題で持ちきりだった最中での「日本語第二言語化」の発表は、どさくさ紛れの「日本語教育陽性化」の感が強い。

 

 

 極東放送のラジオ講座は、日本語が第二外国語になり高校での授業科目に採択されたことを受けてリスナーが増加したと報じられた。

 

 

 高校の第二外国語の選択科目に日本語を入れるという朴大統領の指示を受け、1973年度から高校での日本語授業が始められることになった。文教部は、前年11月から1月までの間に外語大などで150名の日本語教師を養成したが、1973年度に日本語科目を開講できたのは、全国1,015校の高校のうち139校であった(『毎日経済新聞』1973年2月17日付)。この時に、高等学校用の『日本語読本』の教科書が初めて編纂された。

 

 

 その後、年度を追うごとに日本語を授業科目とする高校が増加していった。ところが、1973年に入学した高校生が3年生になった1975年、次年度の大学入試の日本語での受験をめぐって問題が起きた。当時の大学入試は、「予備考査イェビコサ」と各大学の個別入試成績の合算で合否が決まっていた。1975年3月に「予備考査」の第二外国語試験科目に日本語が入れられることが公表されたが、各大学、特にソウル大や高麗大などの上位校の個別入試での日本語の扱いが未定となっていた。当時の高校での日本語の選択率は30%を超えていた。

文教当局が調査した今学期の高校での第二外国語選択状況は、ドイツ語が17万7千人で最も多く、日本語が11万4千人、フランス語6万3千人、中国語4千7百人で、日本語を選択する生徒が全体の30%を超えている。

『東亜日報』1975年3月13日付

 さらに、個別入試での日本語科目受験について、ソウル大学のこのような消極的姿勢も報じられた。

①ソウル大学には日本語科や日本語講座がなく、②厳密な意味で日本語が学問に必要な第2外国語と見なすことはできず、③日本語に対する抵抗感がいまだ潜在的に存在し、④日本語の問題を出題する教授が探せない点などを挙げ、すぐに入試科目とすることは困難という見解を示している。

『東亜日報』1975年3月13日付

 こうした報道によって、日本語履修者は大学進学で決定的な不利益を被るのではないかなどと各方面で大きな混乱を招いた。結局、8月になってソウル大が第二外国語として日本語とスペイン語の試験実施を公表し、他大学もこれと同様の措置をとり、日本語履修者が受験の機会を失う事態は回避された。

 

 

  日本語学習の定着

 このように、1970年代の後半にかけて、日本語の学習は定着してきた。ただ、日本が好きなのでも、日本の文化に興味をもっているのでもないと強調する学習者が多かった。仕事や勉強に必要だから、英語よりも手っとり早いから学んでいるのだという。日本語は、ツールとして学ぶ語学の一つということで、韓国社会で許容されるようになった。

 

 延世大学は、1966年に英語教育のための附属機関を設け、1969年にこれを「外国語学堂ウェグゴハクタン」と改称して4学期制10週のコースとした。日本語コースが開設されたのは1974年からである。当時、外国語学堂は韓国語学堂ハングゴハクタンと同じ中央図書館の裏手の建物にあった。私が教えていた1982年頃の夜の日本語コースの受講生はほとんどが会社帰りの社会人だった。

 

 

 また、在韓日本大使館でも日本語の授業を1977年から開始した。ソウルの日本大使館は、1970年1月に中学洞チュンハクドンに本館が完成し、1971年7月に鍾路チョンノ警察署(現在工事中)の向かいのガールスカウト会館に文化広報官室をオープンした。1974年に齋洞チェドン交差点の南東側(現地下鉄安国アングック駅④出口)の国源クグォンビルに移転した(昨年ツインツリータワーに移転)が、「日本の文化侵略」との批判を警戒してか、敢えて「日本文化院」の名称は使用しなかった。この広報官室の3階の教室で1977年3月から社会人を対象とした日本語講座が始められた。

 

 無料日本語講座を開設、基礎クラスは月~木曜日、会話クラスは火〜金曜日の夕方6時から8時までの5ヵ月コース。7日から基礎クラス30人、会話クラス20人が講習を受けているが、受講資格は「業務遂行上日本語が必要な人」となっており、主に会社員で日本側で選考した人たち。

 日本大使館広報官室では、1983年に独自の教科書『初級日本語 上・下』を刊行した。当時広報官室に勤務していた門脇誠一(元北海道大学教授)と成澤勝(元東北大学教授)、それに日本語教育専門家として派遣されていた高瀬晶子(元国際日本語普及協会教師)が編纂した。高瀬晶子は、1978年から3年間、日本語教育の専門家として韓国に滞在し、当時の韓国における日本語学習の様子を国際日本語普及協会の雑誌『AJALT』(1982-05)に寄稿している。(https://dl.ndl.go.jp/pid/7954768:国会図書館登録IDが必要)。

 

 

 KBSテレビの日本語講座「やさしい日本語」は1980年12月に始まった。「日本語会話」の初回放送は、12月3日午後9時30分からKBS第2TVでオンエアーされた。

 

 

 KBSテレビ講座の放送開始から8ヶ月後の『朝鮮日報』(1981年7月3日付)によれば、テレビ・ラジオの放送講座の視聴者・リスナーの80%が英語と日本語に集中しているという。1981年2月2日からはUHFによるKBS第3TVとFM教育の放送が始まり、日本語講座の放送が充実するとともに放送時間帯も大幅に変更になった。

 

 

 この時期のKBS教育ラジオの放送はここで聴くことができる(朴煕泰・高橋万里子)。

 

 この時期に英語や日本語の学習熱が高まったのは、1980年秋に韓国政府が旅券法の改正を打ち出し、それまで厳格な審査を行なってきた旅券の発給条件を緩和して、海外旅行が一部自由化されることになったのもその一因であった。ただ、まだ一般の人が国外に観光旅行ができる社会状況ではなく、特に若い男性は、徴兵などの関係で旅券の取得は容易ではなかった。

 

 1983年、名門校とされる高麗大学コリョデハックに初めての日語・日文学科ができた。1980年代の中ごろに日語・日文学科のある学生は、日本の政治家の「妄言」などがあって「学内で抗議デモが始まると、日語日文の学生は真っ先に駆けつけて先頭に陣取ることになっている」と語っていた。あくまでも研究の対象のツールとして日本語を学んでいるのであって、日本に「なびいているわけではない」ことをアピールする必要があったからだ。

 

1985年のKBS「やさしい日本語」の一場面 講師は高麗大李賢起教授

 


 

 1990年代に入ると、日本語だけでなく、日本のいわゆる「大衆文化」にも関心が寄せられるようになる。X JAPANのファンクラブができたり、1997年に映画「ラブレター」が公開されると「오겡끼데스까オゲンキデスカ」が一番有名な日本語になった。

 その一方で、ソウル大学は、1994年度の大学別入試から第二外国語の日本語を入試科目から除外し、他のいくつかの大学も同様の措置をとった。

 

 1990年代以降の日本語教育・日本語学習については、また別の機会に考えてみることにする。