朴正煕大統領と車智澈警護室長を殺害した金載圭は、1980年5月24日にソウル拘置所(現:西大門刑務所歴史館)で絞首刑に処せられた。
処刑場に向かう金載圭
12・12クーデターで、反乱軍に逮捕された陸軍参謀総長鄭昇和は、クーデター後の軍法会議で懲役7年の刑が宣告され、大将から二等兵に降格されて予備役に編入された。
1981年に特赦で懲役刑の執行が停止され、1987年には階級を大将に戻された。
1997年になって、再審請求で無罪判決が出て名誉回復がなされた。
2002年6月12日逝去。
1980年に裁判をうける鄭昇和
首都警備司令官張泰玩は予備役に編入された後、2年間自宅軟禁となった。
その間に父親が絶食して憤死。息子はソウル大学に入学したが在学中に行方不明となり、山中で遺体が発見された。自殺とされた
その後、張泰玩は国会議員となり、在郷軍人会の会長などを務めた。
2010年7月26日逝去。その2年後、妻が遺書を残して自殺。
保安司令官全斗煥は、1980年5月に非常戒厳令を全国に拡大させ、光州での民主化要求運動を戒厳軍部隊を投入して武力で弾圧した(光州事件)。
8月の崔圭夏大統領辞任に伴って統一主体国民会議において大統領に選出され、9月1日に大統領に就任。1988年2月に大統領を退任したが、私財蓄積などへの激しい批判で、一時期江原道の百潭寺に蟄居した。
第9師団長盧泰愚は、張泰玩の後任として首都警備司令官に就任。退役後は民正党の代表委員となって1987年6月に、いわゆる「民主化宣言」を出した。1987年の直接選挙による大統領選挙で当選し、1988年から1993年まで大統領を務めた。
1993年2月、金泳三が大統領に就任した。30数年間続いた退役軍人による政権が終わり、「文民」による政権が誕生すると、「ハナ会」のメンバーの昇級・指揮官登用を抑制して解体に着手した。こうして「ハナ会」は消滅した。
1995年12月、全斗煥と盧泰愚の二人の大統領経験者が内乱罪で拘束され、1996年8月に12・12クーデター、光州事件の責任を問われて全斗煥に死刑、盧泰愚に懲役17年の判決が下された。
手をつなぐ二人の大統領経験者
歴史的な12・12及び5・18事件の一審宣告公判が開かれた26日午前、ソウル瑞草洞のソウル地方裁判所417号法廷に立つ全斗煥、盧泰愚。2人の大統領経験者は、当惑した表情で手をつないでいる。(新聞写真共同取材団)
しかし、1997年12月、次期大統領として当選していた金大中の指示によって二人とも特赦で刑の執行が停止された。1998年2月の金大中大統領就任式では、元大統領として全斗煥・盧泰愚の二人も壇上に上がった。
盧泰愚は、2021年10月に死去。元大統領として国家葬が執り行なわれた。2021年12月9日に北朝鮮に近い坡州のトンファ敬慕公園に埋葬された。
全斗煥は、2013年に「公務員犯罪没収特別法(全斗煥追徴法)」が成立して全斗煥の不正蓄財に対する強制捜査が行われ、この年9月に追徴金の未納分1672億ウォンを支払うことを表明した。この過程で、全斗煥は、記憶喪失やアルツハイマー病を理由に裁判への出廷を拒否してきた。しかし、関係団体の行事への出席やゴルフ場でのプレーが目撃されるなど、仮病ではないかとの懐疑的な目が向けられた。
2017年には自身の回顧録を出版し、その中の光州事件に関する記述が市民・学生の犠牲者の名誉を毀損するものとして問題となった。
光州地方裁判所は、回顧録の発売を禁止する仮処分を下し、2019年3月11日に裁判所は全斗煥に強制出頭命令を出した。全斗煥は光州地裁に出廷したが、報道陣や周辺に集まった市民に謝罪の発言をすることはなかった。
2020年11月30日、光州地裁は全斗煥に対し懲役8ヵ月、執行猶予2年の判決を言い渡したが、全斗煥側は控訴。2021年8月9日の控訴審で全斗煥は呼吸困難となって入院した。盧泰愚のあとを追うように2021年11月に死去。
葬儀は、大統領経験者としては異例の家族葬となった。火葬された遺骨はいまだに埋葬場所が決められず自宅に置かれている。
映画「ソウルの春」(1)— KBS「映像実録」(1995.10.4放送)
映画「ソウルの春」(2)ー 12・12新聞報道
映画「ソウルの春」(3)ー 12・12の背景
映画「ソウルの春」(4)ー 12・12攻防の現場
映画「ソウルの春」こぼれ話(1)
映画「ソウルの春」ー 12・12その後