映画「ソウルの春」こぼれ話(1) | 一松書院のブログ

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  • 「ソウルの春」
  • 全斗煥の十八番おはこ
  • 令夫人 李順子女史

「ソウルの春」 

 朴正煕パクチョンヒ大統領の殺害から12・12クーデターまでを「ソウルの春」と呼んだのは、日本のマスコミだった。1979年の12・12のクーデターが起きた後の12月14日の『朝日新聞』と『毎日新聞』がヘッドラインに「ソウルの春」と書いた。

 

 

 『読売新聞』は、「ニューズウイーク」の金大中キムデジュンへのインタビューを紹介する記事のヘッドラインに「ソウルの春はまだ…」と書いている。だが、記事の中で金大中は「ソウルの春」とは言っていない。

 

 

 「プラハの春」の連想から「ソウルの春」という言葉を用いたとされるが、この時期のソウル特派員は、藤高明(朝日新聞)、嶋元謙郎(読売新聞)、重村智計(毎日新聞)、林憲一郎(共同通信)など。ただ、「ソウルの春」という呼び方はソウル支局ではなく東京のデスクなどの発案だったのではないか。韓国では、朴正煕政権が倒れたからといって簡単に「春」が来るとは思っていなかったし、そのような言い方は見られない。12月段階では、自国の状況を東欧の民主化運動に結びつけるような発想もなかった。

 

 韓国で「ソウルの春」が使われるようになるのは、翌1980年2月のこの写真が掲載された頃からであろう。いわゆる「三金時代」の幕開けである。

 

1980年2月25日、東亜日報のパーティで 金泳三キムヨンサム・金大中・金鍾泌キムジョンピル
 
 岩波書店の雑誌『世界』に連載されていたT・K生(池明観チミョングァン)の「韓国からの通信」で「ソウルの春」が使われるのが1980年3月号。


 韓国の新聞では、1980年4月8日付の『朝鮮日報』に新民党総裁金泳三の発言として、

金総裁は、「今日のこの常任委員会は3,700万国民が注視する意味深い大会」と強調し、「新民党は歴史の主体であり、ソウルの春は必ず我々の力で勝ち取ることを誓う」と語った。

と使われているのが、早い時点での使用例であろう。

 

 12・12クーデターは、むしろ「ソウルの春」の前夜の出来事であり、三金時代を経て1980年5月の光州クァンジュでの戒厳軍による市民・学生の虐殺(光州事件)に至るまでの時期が「ソウルの春」だった。武力によって無慈悲に圧殺された「光州の春」、そして「ソウルの春」を終わらせることになった発端となったのが、全斗煥によるこの「反乱」だった。

 

全斗煥の十八番おはこ 

 12・12クーデターの後、12月14日に昭格洞ソギョクドンの保安司令部でクーデターの成功を祝うパーティが開かれた。この時、全斗煥のクーデター軍側についた将校が司令部前で記念撮影をした。

 

 

 昭格洞の保安司令部は、景福宮キョンボックンの東側、国立現代美術館ソウル館の場所にあった。

 

 

 さらに、翌1980年の1月23日には保安司令部の「慰労パーティ」が開かれた。夫人同伴でTBC(東洋放送トヤンバンソン)所属のタレントが集められていた。

 その様子を写した動画を「光州KBS 5.18 40周年アーカイブ・プロジェクト」が入手してYoutubeにアップしている。ただ、元動画は音声が小さいので一松のサイトに修正・移植した↓↓↓。

 

 

 ここで全斗煥は「방랑시인 김삿갓(放浪詩人キム・サッカ)」を歌っている(55秒から)。この歌は、全斗煥のシッパルボン(十八番)として知る人ぞ知る曲だった。映画「ソウルの春」ではファン・ジョンミンが祝勝会で歌っている。


 この「放浪詩人キム・サッカ」は、1955年に明国煥ミョングッカンのレコードが出たのだが、しばらくすると、これは吉田正が作曲して宇都美清が歌った「浅太郎月夜」(1953)の剽窃ではないかと韓国の音楽界で問題視された。確かによく似ている…。

 

 

 結局、この曲は1979年3月に放送・公演禁止曲に指定された。

 

 

 禁止措置が解除されるのは、全斗煥退陣後の1987年なので、全斗煥は、放送・公演禁止曲を十八番おはこにしていたことになる。

 

 中曽根康弘は、首相就任後の初の外遊で1983年1月にソウルを訪問した。この時の公式晩餐会後の二次会で中曽根は韓国語で「노란 샤쓰의 사나이(黄色いシャツ)」を歌った。この席でも全斗煥は「金笠」、すなわち「방랑시인 김삿갓(放浪詩人キム・サッカ)」を歌ったと報じられている。

 

 

 中曽根康弘が「노란 샤쓰의 사나이(黄色いシャツ)」を歌った話はこちら

 

令夫人 李順子女史 

 映画「ソウルの春」には、セリフが二つしかないにもかかわらず、存在感のある女性が登場する。

여보~ 노태건 장군 오셨어요.
여보~ 저녁식사 안 하세요?

 上掲の「慰労パーティ」の冒頭部分と最終盤に登場して歓談する全斗煥夫人の李順子イスンジャをモデルにした女性。演じだのは女優のキム・オクジュ。

 

 

 1980年代のテレビニュースは「땡전 뉴스(テンジョン・ニュース)」と揶揄された。時報が鳴って始まるニュースは、「チョン・ドゥファン大統領は…」と毎回始まるので、「時報(テン)+全(ジョン)」ニュースと言われたのだ。

 

 

 さらに、大統領閣下(カッカ)の動静に続いて、大統領令夫人李順子女史(ヨサ)の動静が伝えられた。1974年の文世光事件で朴正煕大統領夫人の陸英修ユギョンスが亡くなってから、長くファーストレディが不在となっていたことも手伝って、李順子への注目度は高かった。そして、それに見合う派手さがあった。

 ハクサ(学士)の上にソクサ(修士)、ソクサの上にバクサ(博士)、バクサの上にユクサ(陸士)、ユクサの上にポアンサ(保安司)、ポアンサの上にヨサ(女史)!

という戯れ言が流行った。

 

 映画「ソウルの春」には、女性は、料亭のマダムとキーセンのアガシ、それにイ・テシンの妻やチョン・ドゥグァンの妻くらいしか出てこない。その中で、チョン・ドゥグァンの妻のシーンは、あの時代を知っている人には非常にインパクトのある場面なのである。